Ommo's

古い曲が気になる

「マイ・ガール」は、スモーキー・ロビンソンの作品

2009-07-31 | 日記・エッセイ・コラム

               

近所の小学校のグラウンドで盆踊りをやっている。これがびっくりするほど、にぎやかなのだ。屋台が何店もでて、小学生らしい女の子たちは、みんなゆかた姿だ。子供たちも、おばさんたちも、ゆかたで踊っている。まさにご先祖様をお迎えする踊りだ。小学校の校庭だけじゃない。あちこちの公園で盆踊りをやっている。

わたしが子供のころは、帯広でも町内の広場にやぐらが組まれて、にぎやかに盆踊りをやっていた。踊りの主役は、子供ではなく大人だった。若者だ。男も女も踊っていた。いわばディスコ状態だ。やぐらを中心に踊りの輪が何重にもなっていた。やぐらの上には太鼓を叩く男がいた。

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スモーキー・ロビンソン&ミラクルズ。女性メンバー、クローデット・ロジャース・ロビンソンは、スモーキー・ロビンソンの奥さん。名曲「マイ・ガール」は、彼女に捧げられた。モータウン・レコード最初の女性の契約アーティストだ。

ビートルズがカバーしていた、You Really Got a Hold on Me は、スモーキー・ロビンソン&ミラクルズがオリジナルだ。

F4a6fe688357f2f5ba12c1580b511199ent スモーキー・ロビンソン

マイケル・ジャクソンの追悼イベントで、まず最初にスモーキー・ロビンソンが、開会の辞みたいな挨拶をしていた。それは、ミラクルズがモータウン・レコード最初のアーティストで、スモーキー・ロビンソンが、モータウンの副社長だからだ。ミラクルズの成功なくしてその後のモータウンの成功はない。ソウル・ミュージックの大レーベル、モータウン・レコードも、はじめは、スモーキー・ロビンソン&ミラクルズしかいなかったのだ。ジャクソン5を、社長のベリー・ゴーディと育てたのも、スモーキー・ロビンソンだった。

                  

Ny15402012250_widec  モータウン社長、ベリー・ゴーディとスモーキー・ロビンソン

テンプテーションズの名曲「マイ・ガール」も、ミラクルズのスモーキー・ロビンソンとロナルド・ホワイトの作詞・作曲だ。1965年のビルボード・ホット100の№1になり、R&Bチャートでは、なんと15週間つづけて№1だった。そのあと、オーティス・レディングがカバーして全英、全米№1になっている。

「マイ・ガール」のカバーは、ローリング・ストーンや、スティーヴィー・ワンダー、マイケル・ジャクソン、マービン・ゲイなどモータウン・レコードのアーティストなどから、現在にいたるまで多数ある。日本人もカバーしていた。

Temptations  テンプテーションズ

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テンプテーションズ「マイ・ガール」のリード・ボーカルは、デヴィット・ラフィンだった。曲そのもののすばらしさもあるが、デヴィット・ラフィンのボーカルの魅力が、この曲の大ヒットに欠かせない要因だろう。そして、アレンジが、イントロから抜群のセンスだ。

Davidruffin_0  デヴィット・ラフィン

                  

   テンプテーションズ My Girl  http://www.youtube.com/watch?v=ltRwmgYEUr8&feature=related

   スモーキー・ロビンソン&ミラクルズ You Really Got a Hold on Me http://www.youtube.com/watch?v=IRl8amxdNbE

   ビートルズ You Really Got a Hold on Me http://www.youtube.com/watch?v=zs26kKHxjS4&feature=related

                                                

   オーティス・レディング My Girl http://www.youtube.com/watch?v=HWlIsvzT__M

オーティス・レディングのバックでギターを弾いてる、長身のハンサムな白人青年が、スティーヴ・クロッパーだ。その変貌もなかなか激しい。

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クルセイダーズのScratch

2009-07-30 | 日記・エッセイ・コラム

                                 

NHKのニュースで、韓国の漁船が北朝鮮に拿捕された、といってる。さすが親朝鮮、親中共のNHKは、異常だな、と思っていると、日本テレビでもテレビ朝日でもニュースになっていた。

韓国の漁船が、北朝鮮に拿捕されたことが、日本に何の関係があるのか? そんなことはやつらの間で日常的に起きてることじゃなかったのか。むしろそれは、朝鮮の国内問題だ。そんなことより、伝えるべき日本国内の大事なニュースがあるだろう。

テレビはすでに、NHKを含めたキー局のディレクターの多くが日本人ではない、というはなしがある。ほんとうなのか?

                  

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散歩途中でみた、ひまわり。

                         

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つい数年まえまで、水上バスが通っていて、ここに船着き場があった。水上バスは、東京湾にでて、お台場を通過して、竹芝桟橋(浜松町)のあたりまで行けたのだが、廃止になってしまった。

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きょうは、散歩の足をのばして東京側に渡った。対岸が千葉県。マンションのところに、いつも歩いている遊歩道がある。

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東京都側の岸には、クルーザーを係留する桟橋がある。千葉県側は、まるで江戸時代のように、勝手に丸太や鉄パイプを水中に立てて、雑然とボードを係留している。

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これが千葉県側。ボートはこうして係留されている。

     

スクラッチ

Markさんがコメントに書いてくれた、クルゼイダーズのライブ盤「スクラッチ」。ライブ盤としては、ベストの一枚だと思う。1974年の発売だ。

Chain Reaction

Free as the Wind

アルバム・ジャケットをながめていると、当時がよみがえってくる。音楽、絵画、写真、そして、香水。これらは、人の心に強くに作用して、瞬時に時空をこえて、過去の世界につれもどしてくれる。レコード・ジャケットは、じつによくできている。強力なタイムマシーンだ。

LPレコードのジャケットは、洗練されて、芸術のひとつのジャンルとして確立していた。一流のデザイナー、写真家、画家、イラストレーターが腕を競ったものだ。それは、あのサイズがあったから成立したのだ。

レコード・ジャケットは、その中身の音楽と関連しているようで、まったく無関係のようで、まあ、美しくて、おもしろければ、いいか、というアイマイなところ、そこが良さなのだ。しかし、力はある。

ウェス・モンゴメリーのLPの、あのピート・ターナーの写真をみると、一瞬にしてオクターブ奏法のギターの音が頭のなかで鳴り響き、心のなかに、当時の自分がよみがえる。入りびたりだったジャズ喫茶、あこがれた女の子からのきつい言葉……。

                                                      

200412_033_depth1  ジョー・サンプル

Stix201  スティックス・フーパー

Wiltonfelder_  ウイルトン・フェルダー

Waynehenderson_nov06a  ウェイン・ヘンダーソン

Larry_carlton_receives_lifetime_ach  ラリー・カールトン

とうぜん、いまはクルセイダーズのメンバーも老人だ。だが、みんな現役で活躍している。

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だれにも、ぎんぎんに若いときがある。ミュージシャンは、そのときを、時間を止めて定着させておくことができる。素敵じゃないか。うらやましいかぎりだ。たいがいの人は、火葬されたあとの灰くらいしか残せない。

                   

     クルセイダーズ&ビル・ウィザーズ Soul Shadow http://www.youtube.com/watch?v=TWqGzH9vKg8&feature=fvw

     ジョー・サンプル、ウイルトン・フェルダー、デビット・T・ウォーカー、読売日本交響楽団、指揮・シド・ギャリス Phapsody & Blues http://www.youtube.com/watch?v=YNQxKIvJz4s&feature=related


チャカ・カーンが歌っているのは、アイズレー・ブラザーズの曲

2009-07-29 | 日記・エッセイ・コラム

                          

あすがコンサート当日なのに、チケットが、ぜんぜん売れてない! どうしよう! どうやってギャラを払うんだ? という夢を、いまもみる。今朝も、この悪夢で目が覚めた。

十勝は、人の数より牛の数が多いといわれていた。人口希薄な北海道で、人を集めないと成立しない、興行をやっていたのだから、まったく無謀なことを商売にしていたものだ。

それに、わたしが専門としたジャンルは、演歌ではない。フォーク・ソングに、ロックだった。やがてニューミュージックとよばれ、いまはJ-ポップスといわれるような音楽だ。当時は、なんといっても演歌、歌謡曲が、断然主流の時代だった。まだ、ニューミュージックは、限定された一部の若い年齢層だけがお客さんだった。中学生、高校生、ほとんど十代の若者だった。

                         

お客さんは、若く、お金がなく、アーティストは、無名のニューカマーだ。

「吉田拓郎? だれです、それ」、とコンサートホールの受付でいわれた。「小ホールも空いてますよ。1400席の大ホールが必要なんですか?」

「井上陽水ね。俺、知らんな。そんなんで客がくるのか? 釧路体育館は、3000席はつくれるぞ、だいじょうぶかい。おたく、若いのによくやるね。まあ、がんばって」と、挨拶にいった、そのスジの演歌の興行屋さんに、妙に感心され、エールをおくられた。

あれから、もう35年がすぎ、ニューカマーは、巨匠になって、わたしは、いまだに貧乏の悪夢から抜け出せないでいる。

                          

      フォープレイ&チャカ・カーン Between The Sheets http://www.youtube.com/watch?v=wXNK2refwpY&feature=related

Chaka  チャカ・カーン

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Leeblkt0364 リー・リトナー

Mason1 ハーヴィー・メイソン

Eastman_350x299 ネイザン・イースト

ビトゥイーン・ザ・シーツ(SHM-CD)
フォープレイ、1993年のアルバム「Between The Sheets 」。タイトル曲は、アイズレー・ブラザーズの曲。チャカ・カーンがゲストで入って歌っている。

   アイズレー・ブラザーズ Between The Sheets  LIVE  http://www.youtube.com/watch?v=G8Zvz0JfrNs&feature=related

        チャカ・カーンcom. http://www.chakakhan.com/home/

Funk This

チャカ・カーン、2007年発売のアルバム「Funk This 」。

チャカ・カーンは、ルーファスのボーカルでデビューした。1973年のことだ。わたしの店にもたくさんファンがいた。

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Ask Rufus

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       ルーファス&チャカ・カーン Do You Love What You Feel http://www.youtube.com/watch?v=Yg1OSK1nXDc   


クルセイダーズは、『ジャズ・クルセイダーズ』だった

2009-07-28 | 日記・エッセイ・コラム

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神保町本屋街の裏通り。ホワイトカレー? 路地の真ん中に看板を出している。この界わいは、本屋街であるがカレー街でもあるのだ。

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なぜか、新京王線新宿駅構内に、北海道・長万部の温泉の看板。八日間以上湯治して、持病の改善がないときは、全額返金するそうだ。

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近所のスーパー。なかなか美味そうな北海道産、新物生サンマ。二匹で598円は、安いの? 高いのか? これはAzuさんの専門分野だな。

                 

孫たちが夏休みで、北海道にでかける。そのまえにちょっと顔をみておこうか、と、電車を乗り継いで会いにでかけた。途中、神田神保町で地下鉄をおりて、三省堂書店で、「鉄人28号」を二冊買った。いつも第一巻が欠品だ。来るたびに、アマゾンなら手にはいるから、注文しなきゃ、と思って、そして、忘れる。

                         

ストリート・ライフ

きのうは、電気ピアノ(エレクトリック・ピアノ=エレピ)のフェンダー・ローズのことを書いた。ローズ・ピアノの音を効果的につかっていたひとりが、クルセイダーズのジョー・サンプルだった。このアルバム「ストリートライフ 300 S.」は、ランデイー・クロフォードのボーカルをフューチャーして大ヒットした。

クルゼイダーズは、古くは、ジャズ・クルセイダーズという名のハード・バップのジャズ・バンドだった。わたしが、高校生のときから国内盤がでていたから、日本にもファンが多かったのだろう。ファンクな、R&Bぽい、若いジャズ・バンドだった。

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ジャズ・クルセイダーズは、1952年、テキサス州ヒューストンのハイスクールの同級生4人で結成された。メンバーは、ピアノ、ジョー・サンプル。ドラムス、スティックス・フーパー。テナーサックス、ウィルトン・フェルダー。トロンボーン、ウェイン・ヘンダーソン。ファーストアルバム、「Freedom Sound」が発売になったのは、1961年のことだ。

                   

Pass the Plate

1971年、このアルバム「Pass The Plate」から、「ジャズ」をとってバンド名は、ザ・クルセイダーズになった。エレクトリック・ギター、エレクトリック・ベースをいれてジャズ・ファンク・バンドに変わり、そして、フュージョン・バンドとして成功していく。1976年の「南からきた十字軍 Those Southern Knights 」が、帯広の店でよく売れた。

南から来た十字軍

1971年から1976年まで、だたひとりの白人メンバー、ギターのラリー・カールトンが参加している。

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クルセイダーズのころのラリー・カールトンと、最近のラリー・カールトン。

                                 

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ランディー・クロフォード

最初に書いたように、1979年、ランディー・クロフォードのボーカルがはいったアルバム「ストリートライフ 300S. 」が大ヒットした。その後はフュージョン・バンドの王道を突き進んだ。発売になるアルバムはみんなよく売れた。そして、ピアノのジョー・サンプルのソロ・アルバムもまたヒットした。

虹の楽園

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いまもクルセイダーズのメンバーは、現役で活躍している。ジョー・サンプルは、ランディー・クロフォードとのアルバムを2枚も制作し、ダニー・ハザウェイの娘、レイラ・ハザウェイともアルバムをつくっている。そして、ドラムスのスティックス・フーパー、テナーサックスのウィルトン・フェルダー、ジョー・サンプルの三人でクルセイダーズの復活させた。

また、トロンボーンのウェイン・ヘンダーソンは、ジャズ・クルセイダーズを結成して、アルバムも発売している。

フィーリング・グッド

No Regret

ソング・リブズ・オン

                  

ラリー・カールトンもまた、ばりばりの現役だ。フォープレイ Fourplay のメンバーでもある。フォープレイは、ボブ・ジェームス、ネイザン・イースト、ハーヴィ・メイソン、リー・リトナーの4人で結成したが、リー・リトナーがぬけ、ラリー・カールトンが加入した。

ファイアワイヤー

エナジー

ライヴ!/ラリー・カールトン・ウィズ・ロベン・フォード

                        

           クルセイダーズ&ランディー・クロフォード Street Life http://www.youtube.com/watch?v=btkWDo8-Cdk&feature=fvw

    フォープレイ    Bali Run  http://www.youtube.com/watch?v=7jcOKxwSMHQ&feature=related

                                                        

    ラリー・カールトン  オフィシャル・サイト http://www.larrycarlton.com/

    ランディー・クロフォード  ファン・サイト http://www.e-fansite.com/randycrawford/

    ウェン・ヘンダーソンのジャズ・クルセイダーズのサイト http://www.jazzcrusaders.com/

    ヴァーヴ・ミュージックのジョー・サンプルのページ http://www.vervemusicgroup.com/joesample

    ヴァーヴ・ミュージックのクルセイダーズのページ http://www.vervemusicgroup.com/crusaders

    フォープレイ  オフィシャル・サイト http://www.fourplayjazz.com/   


ローズも復活した

2009-07-27 | 日記・エッセイ・コラム

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以前から、ビルの壁の不思議な飾りが気になっていた。何で描いているのだろうか? 近づいてみると、金属でできていた。

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「腰が命」と「骨盤クラブ」、ラーメン屋と整体治療院。

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近所のイタリアン・レストラン。

                    

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きのうは、ジミー・スミスが弾いていたハモンド・オルガンが、電子楽器ではない、電気楽器だと書いた。それならきょうは、やはり、ローズ・ピアノのことを書かなくちゃならないだろう。

1940年代に、ハロルド・ローズによって発明された、ローズ(Rhodes)・ピアノは、70年代にフェンダーがパテントを買って生産したので、わたしたちは、「フェンダー・ローズ」という名前でなじみだった。

このローズ・ピアノも、ハモンド・オルガンとおなじように、電子楽器ではない。弦を打つ構造(ハンマー・アクション)は、ピアノとおなじだ。音を増幅する原理は、エレキギターとまったくおなじだ。

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鍵盤を弾くと、ハンマーが上がって弦を叩く。その鉄弦は、両側でとめて張ってるのじゃなく、片側だけ固定されている。弦というより、細い鋼鉄の丸棒かな。そいつを、フェルトのハンマーで叩いて震わせる。その振動で発する磁界の変化をピックアップでひろう。このピックアップは、エレキギターのとおなじように、磁石にコイルを巻いたやつだ。

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ピックアップの原理は、電磁誘導という現象を利用する。磁石にコイルを巻く。そのちかくで鉄を動かすと、コイルに電流が発生する。その鉄の動きによって電気の量が微妙に変化する。エレキギターの弦が鉄の弦でなかればならない理由がこれだ。

ローズ・ピアノの音を決定づけるのは、その鋼鉄の丸棒(トーン・ジェネレーター)とセットで共鳴する鉄板(トーン・バー)だ。ちょうど音叉(おんさ)のような働きをする。この構造が、あの独特のローズ・サウンドをつくる。

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60年代から70年代にフェンダー・ローズは、R&Bやロックやジャズのプレイヤーに愛された。

マイルス・デイビスも好んでつかった。チック・コリアは、すぐに気にいったらしいが、キース・ジャレットは、アコースティックにこだわりがあるから、ローズの音はチープだ、と嫌ったらしい。しかし、ボスのマイルスに逆らうわけにはいかない。弾きだすとすっかり気にいったのか、じぶんのアルバムでも弾いていた。

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しかし、ヤマハのDX-7など、さまざまメーカーからローズ・ピアノの音も簡単に出せるシンセサイザーがでて、持ち運びにも重い、調律も必要なローズは、すっかりすたれてしまう。しかし、サンプリングされたローズ・サウンドにあきたらないプレイヤーたちがいる。中古のフェンダー・ローズが高く取引されていた。

ところがやはり、ハモンドサウンドを復活させた人たちがいるように、ローズもまた復活した。2007年、本来のシステムのままの新製品、ローズ・Mark 7 が発売された。これはオーダー・メードで一台づつ製作される。

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ローズこそ、真の電気ピアノというべきだろう。『電子』ピアノでなく。

    マイルス・デイビス 1970年、ワイト島ロック・フェス Call It Anything http://www.youtube.com/watch?v=Wy4yhFAngs0&feature=related

    ローズ社(Rhodes)ホームページ http://www.rhodespiano.com/index.htm

    フェンダー・ローズの音がよくわかる映像http://www.youtube.com/watch?v=odafbnR4E6Q&feature=related 


日本のジャズ・フェスで、ジミー・スミスが「モーニン」を演奏した

2009-07-26 | 日記・エッセイ・コラム

 

きのうは、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの「モーニン」のことを書いた。youtube にある、日本のジャズ・フェスティバルでの「モーニン」が、なかなかいい。オルガンのジミー・スミスがフューチャーされたブルーノート・ビッグバンドの演奏だ。日野皓正さんも参加している。1990年8月26日、Mt.フジ・ジャズ・フェスの映像だ。 

    ジミー・スミス&ブルーノート・ビッグ・バンド moanin' http://www.youtube.com/watch?v=aYosYlqiBOk&feature=related

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高校生のとき、帯広のジャズ喫茶「エース」にいくと、かならずのようにジミー・スミスの「ザ・キャット」がかかった。

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ジミー・スミス(1923~2005)。ハモンド・オルガンを弾くジミー・スミスは、日本でも人気が高かった。

                   

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わたしが、帯広駅前でレコード屋をはじめた、その年、ウェス・モンゴメリーが亡くなった。このヴァーヴ盤のジミー・スミス&ウエス・モンゴメリーのアルバムは、3年前の発売だったが、よく売れていた。

よく売れていた、といっても、そこはジャズのこと、数はしれてる。サイモンとガーファンクルのアルバムが、月に100枚売れるとすると、このジミーとウエスのアルバムは、3枚くらい、という感じかな。それでも、北海道、帯広の店でジャズのアルバムが、月3枚も売れるのはすごいことなのだ。

そのころ、ヴァーヴ盤のほとんどは輸入盤だった。国内プレスするほど売れなかったのだろう。日本ポリドール(日本グラモフォン)が輸入して、日本語のライナーノートをつけて販売していた。

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このヴァーヴ盤の「California Dreaming 」 は、わたしが高校生のときに国内盤が発売になった。ウェス・モンゴメリーの大ヒットの序章のようなアルバムだった。ジャケット・デザインは、いままでのジャズのジャケットにはない雰囲気だった。あとのCTIのシリーズの先駆的なジャケットだろう。曲は、スタンダードやポップスを選んで、オーケストラをバックにウェスのギターが演奏される。1966年のことだ。

このヴァーヴ・レコードでのウェス・モンゴメリーの成功もあって、プロデューサー、クリード・テイラーは、新レーベルCTIをつくる。

そのA&M(CTI)の最初の大ヒットが、ウエス・モンゴメリーのシリーズだった。それはもうジャズのレコードの売れ方ではなかった。

一般の音楽ファンにバカ売れするのが不満なのか、サウンドが軽いと気に入らないのか、ジャズ評論家には不評で、ボロクソに書かれた。ちょうどフリー・ジャズが持ち上げられていたときでもあった。このウェス・モンゴメリーの音楽は、イージーリスニング・ジャズといわれた。

しかし、音楽評論家がなに言おうと、そんなことは一般のお客さんに何の関係もない。売れに売れた。

きっと、クリード・テイラーも、ウェス・モンゴメリーも、もう“ジャズ”をやってるつもりはなかったのだろう。

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このCTIレーベルの3枚のアルバムが大ヒットしている、そのさなか、ウェス・モンゴメリーは突然亡くなった。心臓発作といわれているが、さまざまな説がある。45才だった。

ウェス・モンゴメリーが亡くなったあとも、このCTIのアルバムは売れつづけた。わたしがレコード屋をやめる、CDの時代になるころでも、この3作は基本在庫だった。

ウェス・モンゴメリーが切り開いたギター音楽のジャンルは、ジョージ・ベンソンが引き継いだといえるだろう。

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ウェス・モンゴメリー(1923~1968)

     ウェス・モンゴメリー Jingles http://www.youtube.com/watch?v=IXOrj7QAc8M&feature=related

     映画「Get Yourself a College Girl 」の中で演奏するジミー・スミス http://www.youtube.com/watch?v=99DpjjJ22UA&feature=related 

                       

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ジミー・スミスやキース・エマーソンやリック・ウェイクマンが弾いてるハモンド・オルガンは、エレクトーンやシンセサイザーとは根本的に違う。電子音じゃない。ごく機械的、物理的な音源を増幅している。歯車状の回転する円盤(トーンホイール・ジェネレーター)の磁界の変化を電磁マイクで拾うのだ。エレキ・ギターの弦とピックアップの関係とおなじようなものだ。

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ジミー・スミスが使っているB-3というハモンド・オルガンは、91枚の円盤(トーンホイール)が、モーターで回っている。だから、電子オルガンというより、電気オルガンか、電動オルガンというべきだろう。増幅と音色変化のための電気回路には、真空管アンプをつかっている。

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これは、Pari.E社のオルガンのトーンホイール。

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ジャズやR&Bやロックの場合、このハモンド・オルガンに、レスリーの回転スピーカーを好んでつかう。レスリーのロータリー・スピーカーは、ボックスのなかにモーターが2個はいっていてスピーカーを回転させる。独特の揺れのある音をつくる。

これも電子的に音を変化させるのではなく、ごく機械的、原始的に、スピーカーそのものを振り回して揺れのある音をだしている。だからハモンド・オルガンとはよく合うのだ。いまもオルガンのほかに、ギターにもつかわれているから、製品が発売されている。

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高音用のスピーカー(ツィーター)、この機種ではベルトで駆動されて回転する。下段の低音用スピーカー(ウーファー)は、円筒が回転する。円筒に隙間が空いてる。

1970年代、ハモンドは、この機械的なトーンホイールをつかったオルガンの生産を終了した。世の中のほとんどすべてのキーボード楽器は、シンセサイザーなどのように、電子発振音をつかったものになってしまった。

ハモンドは、日本の鈴木楽器製作所が買収して、スズキ・ハモンドになり、ここでハモンド・オルガンを製造している。しかし、もうトーンホイールはつかっていない。トランジスタ回路でサンプリングしたデジタル音をつかっている。だから、かってのハモンドの力強い音は再現できてない、ともいわれる。それで、日本でも古いハモンド・オルガンが人気があるらしい。

ところがいま、ベルギー人のRarieという技術者が、イタリアで、ハモンド・オルガンとまったくおなじトーンホイール・ジェネレーターをつかったオルガン、Electromagnetic Organ を生産している。Rari.E というメーカーだ。電気回路は、トランジスタではなく、真空管をつかっている。

ハモンドのブランドを買収して、エレクトロニクスのテクニックで、ハモンド音を再現しようとする、日本人。発明された1930年代当時のメカニックそのままを再現して、ハモンド・オルガンの音をよみがえらせようとする、ヨーロッパ人。音楽や楽器に対する考え方、音楽商売の姿勢の違いがよくでている。

                       

ハモンド・オルガンは、軽量で持ち運びができる、パイプ・オルガンに近い音の楽器として、発明家のローレンス・ハモンドでよって開発された。1934年に発売になると、パイプ・オルガンが買えない貧しい黒人地区の教会で普及した。だから、最初からゴスペルとともに歩んできた楽器だった。ジミー・スミスのような黒人のオルガン・プレヤーには子供のころから身近な楽器だったはずだ。R&Bやゴスペルにハモンド・オルガンがよくつかわれたのも、黒人にとって慣れ親しんだサウンドだからといえる。

        Pari. のエレクトロマグネティック・オルガン K-61 とRotary ・スピーカーhttp://www.youtube.com/watch?v=6ybYzTsQ360

   おなじくPari.K-61とレスリーのスピーカー147による「青い影」  http://www.youtube.com/watch?v=VCIN1OJkNbg&feature=related 

   ススキ・ハモンド http://www.suzuki-music.co.jp/product/14.htm

   イタリアのオルガン・メーカー、Pari.E http://www.parieorgan.it/     


NHK「美の壺」は、なぜか「モーニン」

2009-07-25 | 日記・エッセイ・コラム

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土曜日の早朝から、NHKテレビでは、ハード・バップのファンキーなジャズがながれる。「美の壺」という番組のオープニングが、なぜか、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの「モーニン」だ。

「モーニン」は、1958年(昭和33年)発売のアルバム、「アート・ブレイキー・アンド・ザ・ジャズ・メッセンジャーズ」のA面1曲目の曲だ。ピアノのボビー・ティモンズが作曲した。

「モーニン」は、シングル盤でも発売されて、日本でヒットした。1961年、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズは初来日して、労音主催で全国をまわった。日本のコンサート・ツアーは大成功だった。以来、アート・ブレイキーはなんども来日して演奏した。日本でジャズ・ファンを増やした最大の功労者だろう。

1958年の「モーニン」のメンバーは、トランペット、リー・モーガン。テナー・サックス、ベニー・ゴルソン。ピアノ、ボビー・ティモンズ。ベース、ジミー・メリット。そして、ドラムスが、アート・ブレイキーだ。

リー・モーガン、20才。ボビー・ティモンズ、23才。若い!            

      アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャー Moanin'  http://www.youtube.com/watch?v=2je_TvW549E

               

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ボビー・ティモンズ (1935~1974)

名曲「モーニン」の作者、ピアニストで作曲家のボビー・ティモンズは、38才のとき、肝硬変で亡くなった。

              

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ベニー・ゴルソン (1929~   80才)

1956年6月26日、トランペッターのクリフォード・ブラウンが、交通事故で死んだ。25才だった。ベニー・ゴルソンとは、ライオネル・ハンプトンのバンドでいっしょだった。ベニー・ゴルソンは、若くして逝った友をしのんで、「アイ・リメンバー・クリフォード  I  Remember Clifrord 」 を作曲した。

        

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 リー・モーガン (1938~1972)

天才トランペッターといわれたリー・モーガン。1964年に発売したリーダー・アルバム「サイドワインダー」が大ヒットした。ジャズ・ロックの先駆的なアルバムだ。アメリカで、「サイドワインダー」は、自動車メーカー、クライスラーのコマーシャルにつかわれたらしいが、日本でも大ヒットした。いまでも、ときどきテレビで耳にする。

しかし、リー・モーガンは、1972年2月18日、出演しているジャズ・クラブで、内縁の妻ヘレン・モアに拳銃で射殺された。ブルーノートに25枚、Savoyに 1枚、 Vee-Jayに 3枚のリーダー・アルバムがある。サイドマンで参加しているアルバムは、多数ある。

          

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ジミー・メリット (1926~    83才)

        

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アート・ブレイキー (1919~1990)

アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ I Remember Cliffprd 、いつ聴いても悲しい曲だ。http://www.youtube.com/watch?v=VDbrxLz20JY&NR=1

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クリフォード・ブラウン (1930~1956)          

                       

                                                  

 ザ・サイドワインダー

       リー・モーガン The Sidewinder http://www.youtube.com/watch?v=Wrp94IU3quI

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       サラ・ヴォーン with クリフォード・ブラウン  Lullaby of Birdland  http://www.youtube.com/watch?v=DpFLPXO02I0&feature=related 

                                                                       

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まるで十勝のむかしの風景のようだが、ウクライナの画家、ミコライ・ピモネンコ(1862~1912)が描いたウクライナの風景だ。いま十勝の麦畑は、この絵のように、美しい黄金色になっているだろう。

写真家の戸張さんのホームページに、日高山脈と麦畑の美しい写真がある。http://www.y-tobari.jp/topics/?ct=1


ロバート・プラント、60才

2009-07-24 | 日記・エッセイ・コラム

803   夜明け。雨雲が薄くなっていく。

808  これは、廃船か? 三年前からつながれたままだ。

805   カモメ

                     

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ヴァイオリンを弾くのは、アリソン・クラウス。彼女の場合、ヴァイオリニストというよりフィドラーと呼ぶべきかもしれない。ブルーグラスのヴァイオリン奏者で、カントリー・シンガーだ。

(ヴァイオリンとフィドルは、同じもの。ブルーグラスやフォーク・ソングではフィドル fiddle という。ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」の原題は、Fiddler on the Roof  )。

ロバート・プラントとアリソン・クラウスは、2007年、コラボレーション・アルバム「レイジング・サンド Raising Sand 」を発売した。ロバート・プラントとは、もちろんレッド・ツェッペリンのボーカル、ロバート・プラントだ。

Raising Sand

このアルバム「Raising Sand 」は、ことし2月、2009年のグラミー賞4部門を受賞した。

① Album of the Year  "Raising Sand"   Robert Plant & Alison Krauss

② The Record of the Year  "Please Read the Letter"  Robert Plant & Alison Krauss

③ Best Pop Collaboration with Vocals  "Rich Woman"  Robert Plant & Alison Krauss

④ Best Country Collaboration  with Vocals  "Killing the Blues"  Robert Plant & Alison Krauss

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レッド・ツェッペリンのロバート・プラントも、60才。ツェッペリンのときの、あのハイトーンのシャウトは、さすがにできない。しかし、40年以上歌いつづけてきたボーカル表現は、力まず、みごとだ。若いアリソン・クラウスをたてて、ゆったりしたカントリーを歌う。じつにうまい。

    アリソン・クラウス&ロバート・プラント Killing the Blues http://www.youtube.com/watch?v=TDRn9HBbyaQ&feature=related

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年なりに円熟して、現在も、若いシンガーといっしょにエンターテインメントのトップで活躍する。これもみごとだ。

Killig the Blues は、ライブもいいが、スタジオ・ヴァージョンが、またいいのだ。http://www.youtube.com/watch?v=H48TJA_vSk0&feature=related

ロバート・プラントが、「天国への階段 Stairway to Heaven 」を歌ったのは、1971年、38年も前のことになってしまう。http://www.youtube.com/watch?v=81eSIwsLcWg

    ロバート・プラント オフィシャル・サイト http://www.robertplant.com/

    アリソン・クラウス オフィシャル・サイト http://www.alisonkrauss.com/site.php

    レッド・ツェッペリン オフィシャル・サイト http://www.ledzeppelin.com/


ジャニーヌ・ヤンセンのチャイコフスキーがいい

2009-07-23 | 日記・エッセイ・コラム

夜明けになって小雨が降りだした。でも、すこし歩いてみょうかな、と傘をさして外にでた。百メートルも行かずに、突然、どしゃ降りだ。ズボンはずぶ濡れ、散歩は中止! 部屋にもどって、濃いコーヒーを飲みながら、インターネットでチャイコフスキーでも聴いことにした。

Cover

きのうは、日食で大騒ぎだった。わたしは、小学生のときに日食をみた。ほとんど瞬間的に暗くなって、気温がぐうんと下がった。感じたのは、感動ではなく、恐怖だった。

月と地球と太陽、この位置関係で日食が起こると教えられて、幼いながら理解していた。それでも、突然の闇と急激な寒さに、恐怖を感じた。原理がわかっていることと、実際に起こる現象に対する感情は、別だ。天体運動のしくみがわかっていない古代の人々の恐れが、どれほどだったか、想像もつかない。

小学生のときの日食体験から、体に悪そうなので、わたしは、べつにみたいとも思わない。しかし、日食を追って世界じゅう旅する、日食ハンターといわれる人たちがいるらしい。

世の中には、異常な気象現象や嵐が好きな人もいる。

小学や中学のとき、ふだん学校を休みがちなのに、大雪や吹雪や台風のときにかぎって学校にやってくるやつがいた。いつもは、こそこそして影がうすいのに、妙にはしゃいでうれしそうにしている。そんな嵐の日は、べつに無理して学校にこなくてもいいのにだ。

たいがいの子は休んでいて、学校のそばの子供たちしか登校してない。すぐに授業は中止になって集団下校することになる。それなのに遠くから大雪のなかをやってくる。しょっちゅう風邪ひきましたとか、お腹が痛くてとか言って学校を休んでいるやつなのに、大雨のなか、学校にやってくる。そんなやつが、きまってひとり、ふたりいたものだ。

「一度、政権交代してみたらいい」と世論誘導をしているマスコミは、この大雪の日に登校してくる野郎たちによく似ている。荒れた天気がうれしくてしょうがない。ここ数年の新聞、テレビの反自民、反日のプロパガンダは、露骨だ。大衆には効果てきめんだろうから、こんどの衆議院選は、民主党が圧勝するだろう。恐ろしいことだ。

一度失敗したら、取り返しがつかないこともある。社会党の村山が首相になって、「村山談話」という土下座をしたことがある。以来、中国、韓国につけこまれて、いまだに立て直せない。

              

         

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この妖艶な美女は、ジャニーヌ・ヤンセン。オランダ出身のヴァイオリニストだ。美しいだけじゃない。やはりヨーロッパ人、クラシックは、かれらの伝統音楽だ。真の実力と個性がないと認められない。可愛いだけじゃダメなんだ。

クラシックは、かれらにとって博物館のなかの音楽じゃない。いまに生きる音楽だ。現代を生きる人間として、作曲家の意図を解釈して、共感して感情移入し、激しい感情表現をする。それは超絶的なテクニックに裏うちされた、洗練された表現でなくては、粋じゃない。ただやたら泣き泣きに露骨にやってもダメなんだ。

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ジャニーヌ・ヤンセンのヴァイオリンは、まずパワーのある音と、その豊かで深い音質に驚く。まるでエレクトリックなアンプで増幅しているような錯覚さえおぼえる。それほど楽器が鳴ってる。テクニックがすごい。そして、エレガントだが激しく感情表現をする。そこが現代に生きる若者の音楽だ。

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このチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を指揮する、ダニエル・ハーディングも若い。1975年生まれだから、34才。日本でも人気があるらしい。イギリス人だが、いまはドイツのマーラー・チェンバー・オーケストラの音楽監督で、常任指揮者だ。

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とうぜんのことだが、クラシックの世界も才能ある若者がでてくる。おもしろい。ジャニーヌ・ヤンセンのダウンロード数がすごいらしい。クラシックもCDの時代ではないようだ。

  ジャニーヌ・ヤンセン チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 http://www.youtube.com/watch?v=geFXEdMuXl0

ジャニーヌ・ヤンセン、チャイコフスキー・ヴァイオリン協奏曲のレコーディング映像がユーチューブにある。これがおもしろい。パート6まであって長いから、ヒマなときでも見てほしい。http://www.youtube.com/watch?v=7uQ_9yl5IiI&feature=fvw

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チャイコフスキーのピアノ曲「四季」をユーチューブでさがしていて、ラフマニノフが演奏する「四季」をみつけた。1928年録音のSP盤が音源だろう。ノイズをほぼカットしてきれいに再録している。

チャイコフスキーの「四季」は、ヴィヴァルディの四季とちがって、ピアノ曲だ。1885年、最初のバレエ曲「白鳥の湖」とおなじ時期に書かれた。月刊文芸誌の依頼で、ロシアの詩人が詩で描いたロシアの季節の風物を、ピアノ・ソロで表現している。1月から12月まで12曲ある。このチャイコフスキーの曲がうけて、月刊誌がヒットしたのだから、19世紀のヨーロッパは音楽レベルが高い。

この雑誌は、チャイコフスキーの新曲の楽譜がのっているということで、ロシアだけじゃなく、ポーランドやドイツやフランスやイタリアなどヨーロッパ全域で売れた、という。楽譜をみて、ピアノ演奏をたのしむ人たちがたくさんいたわけだ。

レコードはまだ無い。ラジオもない。音楽する人間が移動しないかぎり、音楽は、音として流通しない。しかし、ヨーロッパでは、印刷が普及するとすぐに、楽譜で新曲が流行したのだ。

      チャイコフスキー 「四季 11月(Troika)」 ピアノ演奏、セルゲイ・ラフマニノフhttp://www.youtube.com/watch?v=wCvwSLv4aXw

                     

ジャニーヌ・ヤンセン オフィシャル・サイトhttp://www.janinejansen.com/ 

ジャニーヌ・ヤンセン 公式サイト(日本語)http://www.universal-music.co.jp/classics/artist/janine_jansen/discography.html

ダニエル・ハーディング公式サイト(日本語)http://www.danielharding.com/jp/


タモリとマイルス・デイビス

2009-07-22 | 日記・エッセイ・コラム

K11696410  植草甚一さん

タモリが、ジャズ・ファンだということは、有名だ。ジャズ評論家で作家の、植草甚一さんが亡くなったとき、膨大なレコード・コレクションを買い取って散逸を防いでいる。遺族(奥さん)のことを思って、相場よりはるかに高く買い取った、ともいわれる。

(きっと業者の中古レコード買い取りは、二束三文だろう。植草さんのコレクションは、約4000枚といわれる。一枚100円と高めに見積もって、40万円。タモリは、2000万円で買い取った、という話をどこかで読んだ。ほんとうかどうかわからない。200万円でも高いような気がするから、もしほんとうなら、心からジャズが好きで、植草甚一さんを尊敬していたのだろう。)

そのタモリが、マイルス・デイビスにインタビューをしている。

   タモリによるマイルス・デイビスへのインタビュー http://www.youtube.com/watch?v=kjLQrV7Zy3E

マイルス・デイビスは、黒人としては小柄な人だ、と聞いていた。こうしてタモリと並んで座っていると、たしかに大きくはない。小さくみえるのは、老人になって、すこし枯れかかっているせいもあるのだろう。しかし、存在感はある。

   マイルス出演のTDKのコマーシャル http://www.youtube.com/watch?v=vg1cFfRVK-w&feature=related

                 

マイルスも小柄だが、映画監督のスパイク・リーも小さい。そして、プリンスも小柄だ。そのプリンスとマイルス・デイビスは、仲がよかった。孫のような年令のプリンスの才能をべた褒めだった。プリンスから、いっしょにレコードをつくり、コンサート・ツアーにでよう、と提案されて、心から楽しみしていたようだ。

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1980年代に、マイルス・デイビスが気に入っていったダンス・バンドが、カッサブ Kassav だった。ズークといわれる音楽だ。

ズーク Zouk は、カリブ海のハイチや仏領マルティニーク島周辺で盛んなダンス音楽だ。カッサブは、フランス、パリで活躍しているバンドだ。マイルス・デイビスは、パリでみて注目した。そのときから20年以上たったいまも、カッサブはステージをつづけていて、人気のグループなのだ。

   カッサブ  http://www.youtube.com/watch?v=aZ0BpzVRQPc

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 マイルス・デイビス Tutu (Live)  http://www.youtube.com/watch?v=00tzcnyDL68&feature=related

マイルスの話が、数日つづいて長くなった。マイルスのことなら、いつまでも書いていたいが、きょうでちょっと休むとして、マイルスの復帰のことをすこし。

1981年、マイルス・デイビスは、5年間の引退状態からステージにもどってきた。のちにメディアは、『奇跡のカムバック』、と書いた。まさに奇跡だった。トランペットなどのホーンの奏者は、すこし休むと唇がヤワになる。現役の状態にもどすには、とんでもない努力と時間がかかる。マイルスは、5年以上もいっさいトランペットを吹いてなかった。

(超一流の、オリンピックレベルのマラソンランナーが、長いブランクのあと、現役に復帰するようなものだろうか? マラソンの場合はあり得ない。マイルスなみにすごいのは、テニスのクルム伊達公子さんの復帰だろうか)。

マイルスは、思い立って突然、ステージに立ったわけじゃない。そこは帝王マイルス・デイビスだ。そんな無謀なことはしない。音楽をナメてない。カムバックを決意してから、実際にステージに立つまで、じつに一年半ちかく、トランペットの練習とバンドのリハーサルをかさねていた。

「OKだ。もう一度やるぜ。そうだ、やるとも」、プロデューサーのジョージ・バトラーにマイルス自身が電話して、カムバックを宣言した。1980年はじめのことだ。そして、復帰最初のステージ、ボストンのクラブ「キックス」に出演したのが、翌年1981年の6月末のことなのだ。

この間、マイルスは、バンドのメンバーを選び、リハーサルをかさねた。そうして、十分ステージでやっていけると確信して、マネージャーにプロモーターと連絡をとるように指示をだした。

(まったくギャラが入らないのに、バンド・メンバーを雇い、一年以上リハーサルをつづけられる、そのマイルスの財力もまた、帝王たるゆえんだな)

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1981年6月の終わり、マイルス・デイビスは、ボストンの「キックス」に4日間出演した。復帰第一弾の仕事だ。「キックス」は、客席425席のクラブだった。7月の第一週目に、ニューポート・ジャズ・フェスティバル出演の契約をしたので、「キックス」での演奏は、ウォームアップにはちょうどいい、と考えたのだ。

                         

        『オレの新しいバンドはマーカス・ミラーのベース、マイク・スターンのギター、ビル・エバンスのサックス、アル・フォスターのドラムス、ミノ・シネラのパーカッションという面子だったが、みんなとてもうまくやってのけていた。最初の晩も行列ができたが、オレが本当に現れるのかどうか、疑って待っている連中のほうが多かったようだ。出ることがわかるとクラブは超満員になって、どこも足の踏み場もないくらいになった。オレを見て泣く人や、演奏を聴いて泣く人がいたりして、なんともすごかった。
 
 ある晩、脳性小児麻痺で身体が不自由な小さい黒人の男が、車椅子でステージの前に座っていた。三十五歳くらいに見えたが本当の歳は知らない。オレはブルースを吹く時、彼に向かって演奏しようとした。彼がブルースをよく理解していることがわかったからだ。ソロの途中で彼の目を見ると泣いているじゃないか。で、震えるしぼんだ手を差しのべて、その麻痺している手で、トランペットを、そしてオレを、まるで祝福するかのように触ったんだ。その瞬間、ほとんどすべてを忘れて、オレも泣き崩れそうになった。彼に会いたくて、追いかけて外に出たが、もう誰かが連れて帰った後だった。知らない人間に、しかも男に会えなくて悲しくなったことなんて一度もなかった。オレは、彼の行動がオレにとってどんなに大きな意味があったかを、どうしても伝えたかったんだ。
 
 あんなふうに手を差しのべた彼の態度は、すべてを理解した心だけが為せる業だった。カムバックしたばかりのオレにとって、彼のしてくれたことは、とても大きな心の支えになったし、感謝したかった。彼はまるで、「すべて問題ないよ、マイルス。前みたいに力強くて、すばらしい演奏じゃないか」と言ってくれてるようだった。本当に勇気づけられたんだ。こうして続けてこられたのも、彼がいたからだ』 (「マイルス・デイビス自叙伝」)

                           

プロモーターから、むかしのメンバーを集めて、むかしの有名な曲を演目にして、世界ツアーをやらないか、と巨額のギャラでオファーがあった。マイルスは、そんな話にのらない。マイルスの場合、カムバックとは、むかしの演奏を再現することじゃない。復帰のステージでさえ、よりファンクで過激なエレクトリック・マイルスなのだ

                                                      

       『現代のジャズ・ミュージシャンが、昔のオレ達と同じような演奏をしているのを聴くと、本当にかわいそうになる。まったく年寄り臭いし、本当の年寄りとベッドに入るようなものだ。オレだって年を取っているし、年寄りのことを馬鹿にしているわけじゃない。だが正直なところ、それがオレの気持ちだ』

      マイルス・デイビス Decoy http://www.youtube.com/watch?v=oZkcUukH3iM

Cameoword_up_album_cover  キャメオ Cameo

      これもマイルスが好きだったファンク・グループ、キャメオ(Cameo)のライブ http://www.youtube.com/watch?v=_3vHUZBfYgQ

マイルスは、以前のアコースティックでクラシックなスタイルの演奏は二度としなかった。むかしの演奏を聴きたかったら、レコードを聴いてくれ、と言ってた。

アルバム「カインド・オブ・ブルー Kind of Blue 」の歴史的レコーディング映像がある。曲は、「So What 」。 テナーサックス、ジョン・コルトレーン。ピアノ、ウイントン・ケリー。ドラムス、ジミー・コブ。ベース、ポール・チェンバース。そして、3本のトロンボーンは、ギル・エヴァンス・オーケストラのメンバーじゃないだろうか? 1959年3月2日、ニューヨーク、コロンビア・レコード・32ストリート・レコーディング・スタジオでの演奏だ。http://www.youtube.com/watch?v=P4TbrgIdm0E&feature=related

 

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795  早朝、散歩の途中で、雨だ。

793 雨の江戸川。小型のタンカーが係留される桟橋。SANKYO-maru 、なぜかこのボートがいつも気になる。


ギル・エヴァンスもジミ・ヘンに心酔していた

2009-07-21 | 日記・エッセイ・コラム

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江戸川の早朝。超小型のタンカー。

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1970年8月、ワイト島のロック・フェスで、マイルス・デイビスとジミヘンドリックスは、それぞれのグループで出演していて、顔をあわせた。そこで、ロック・フェスのあと、ロンドンで会って、レコーディングの打ち合わせをすることになった。

帰り道の混乱で、マイルスは、約束の時間におくれてしまう。ジミ・ヘンドリックスの姿はもうなかった。ここで、いっしょのレコーディングのはなしは、いったん断ち切れになった。ところが、翌9月、ギル・エヴァンスからマイルス・デイビスに電話がはいる。ジミ・ヘンドリックスとレコーディングをするから、マイルスも参加しないか、という誘いだった。

ギル・エヴァンスは、1948年ころ、チャーリー・パーカーとマイルス・デイビスが同居しているアパートの隣、中国人のクリーニング屋の二階に住んでいた。無名のときから、セッションをして、たがいに音楽を教えあう仲だった。

マイルスの最初のグループのピアニストが、ギル・エヴァンスだ。マイルスのデビュー作といえるアルバム、「クールの誕生」は、ギル・エヴァンスがメンバーをあつめ、すべてではないが、アレンジもやっている。

白人(ユダヤ人)だが、マイルス・デイビスが、もっとも信頼するアレンジャーで、もっとも親しい友人だった。50年代後半から60年代初頭のジャズの大ヒットアルバム、マイルスのスケッチ・オブ・スペイン期の4部作、「マイルス・アヘッド」、「ポギーとベス」、「スケッチ・オブ・スペイン」、「クワイアット・ナイト」は、ギル・エヴァンスのアレンジだ。

エレクトリック・マイルスの時代になってからも、「ビッチェズ・ブリュー」など、レコーディングには、かならずギル・エヴァンスが立ち会って、助言し、アイデアをだした。

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マイルス同様、ギル・エヴァスもまた、ジミ・ヘンドリックスに心酔していた。じぶんのジャズ・オーケストラに、ソリストとしてジミ・ヘンドリックスをむかえて、アルバムをつくろうとしていたのだ。

ニューヨークで、マイルスとギル・エヴァンスは、ジミ・ヘンドリックスの到着をまっていた。そこに、ジミ・ヘンドリックスがロンドンで死んだ、と知らせがはいる。

                

   『まだ若くて、あまりに大きな可能性を前にしてのジミの死には、本当に動揺してしまった。だから、葬式に行くのは大嫌いだったが、シアトルでの葬式には出ようと決心した。だが、葬式はあまりにひどいものだった。あれからはもう二度と葬式には行くまいと思って、いまだにそれを守っている。白人の牧師はジミの名前すら知らず、あれこれと違った名前を呼び続けていた。なんとも恥ずかしい葬式だった。しかもその野郎は、ジミが誰だかも、彼の業績もわかちゃいなかった。ジミ・ヘンドリックスのような人間が、音楽にあれだけ貢献した後にこんな粗末な扱いを受けるなんて、とても我慢できなかった』 (「マイルス・デイビス自叙伝」)

              

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ジミ・ヘンドリックスが亡くなったあと、1975年、ギル・エヴァンスは、ジミ・ヘンドリックスの曲をジャズ・オーケストラで演奏した。アルバム「Plays The Music of Jimi Hendrix」 だ。

   ギル・エヴァンス・オーケストラ Voodoo Child (Jimi Hedrix) http://www.youtube.com/watch?v=WEmxoCLMpjA&feature=related

   ジミ・ヘンドリックス Voodoo Child http://www.youtube.com/watch?v=v7yPRYL_Oq0&feature=related

            

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元ポリスのスティングは、1987年、アルバム「Nothing Like The Sun 」で、ジミ・ヘンドリックスの Little Wing を録音した。このときも、ギル・エヴァンスにアレンジを依頼して、ギル・エヴァンス・オーケストラをつかった。

そのまえから、スティングは、じぶんのバンドに、マイルス・デイビスのバンドからミュージシャンを引きぬいていた。教え、育てた若いミュージシャンを引きぬかれるのだから、マイルスは、不愉快だったはずだ。

しょうがない。じぶんも、そうやって優秀なメンバーを集めていたときがあった。時代のスター・アーテイストのところで仕事をしたいのは、若いミュージシャンとして当然だ、と、マイルスは、スティングのところにいくメンバーに理解をしめしている。(ギャラのいいところに移るのは、止められない、という金銭のこともあるのだろう)。

    スティング&ギル・エヴァンス・オーケストラ Little Wing http://www.youtube.com/watch?v=aZjmrb3bjVo&feature=related

                      

YouTubeでジミ・ヘンドリックスのLittle Wing の動画がみつからないが、曲だけ聴いてほしい。じつにいい曲だ。ギターはもちろんだが、ジミ・ヘンドリックスの歌が、またいいのだ。

    ジミ・ヘンドリックス Little Wing http://www.youtube.com/watch?v=Vo_WAbnKCPc&feature=related

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ジミ・ヘンドリックスの音楽が、いかに美しいか、よくわかる、コアーズのカバーがある。コアーズは、アイルランドのグループ。三姉妹と兄だ。アンプラグドで Little Wing をやっている。

        ザ・コアーズ Little Wing http://www.youtube.com/watch?v=M5rVgxmekeM&feature=related

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          スティーヴ・レイ・ヴォーン Litte Wing  http://www.youtube.com/watch?v=zAG-kX_IlUw&feature=related

テキサス出身のブルース・ギタリスト、スティーヴ・レイ・ヴォーンが、少年のときからアイドルにしていたジミ・ヘンドリックスの名曲、Little Wing を愛と尊敬をこめて弾いている。

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スティーヴ・レイ・ヴォーンは、1954年の生まれだ。1990年、スティーヴ・レイ・ヴォーンのバンドは、エリック・クラプトンのバンドと全米のコンサート・ツアーにでた。8月27日、一行は4機のヘリコプターに分乗して移動することになった。濃い霧のなか、ヘリコプターは離陸した。そして、スティーヴ・レイ・ヴォーンの乗ったヘリは、丘に激突してしまう。

クラプトンのバンド・メンバー3人とともに、スティーヴ・レイ・ヴォーンは、亡くなった。35才だった。ふるさとの町、テキサス州オーク・クラフでとりおこなわれた葬儀には、ZZ TOPの3人、ボニー・レイト、スティーヴィー・ワンダー、ジャクソン・ブラウンなどが参列した。

              

スティーヴ・レイ・ヴォーンは、アメリカのロック・マガジン、ローリング・ストーン誌が選ぶ『歴史上、最も偉大な100人のギタリスト』の第七位だ。もちろん、第一位は、ジミ・ヘンドリックスだ。

① ジミ・ヘンドリックス

② デュアン・オールマン

③ B.B.キング

④ エリック・クラプトン

⑤ ロバート・ジョンソン

⑥ チャック・ベリー

⑦ スティーヴ・レイ・ヴォーン

⑧ ライ・クーダー

⑨ ジミ・ペイジ

⑩ キース・リチャーズ

 

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マイルス・デイビスの「クールの誕生 Birth of the Cool 」は、1949年と1950年に録音されて、78回転のシングル盤、6枚で発売された。一枚にLP化されて発売になったのは、1957年のことだ。      

                  

      マイルス・デイビスとギル・エヴァンス・オーケストラ 1959年http://www.youtube.com/watch?v=GFaK4q0pxcQ&NR=1

                  

   『1988年はとてもいい年だった。唯一の例外は、オレの大親友で、一番古くからの友達だったギル・エバンスが死んだことだ。ギルが最後の時期、ほとんど見聞きできないくらい具合が悪かったことは知っていた。メキシコまで、誰か病気を治してくれる人間がいないかと出かけていったことも知っていた。だがギルには、自分がもうすぐ死ぬことがわかっていたし、オレにもわかっていた。オレ達はただその話をしなかっただけだ。実際のところ、死の前日くらいに女房のアニタに電話して、「ギルの調子はどうなんだい?」って聞いた。彼はメキシコにいるということだったが、次の日に彼女が電話してきて、「一緒にいっている息子が、ギルがこんなことをいている、あんなことをしていると電話で伝えてきた」と言った。そうして次の日、また彼女から電話があって、ギルの死を知らされた。ぽっかりと、心に大きな穴が開いたようだった。

 だが、ギルが死んだ一週間後、オレは彼と、こんな会話をした。オレはニューヨークのアパートでベッドに腰かけ、向かい側の窓際のテーブルの上に置いた彼の写真を見ていた。窓ガラスには、明かりがゆらゆらと揺れていた。突然、「ギル、なんでメキシコなんかで死んだんだ?」という疑問が浮かび、ギルに尋ねてみた。すると彼が言った、「それが僕にできる唯一の方法だったんだよ、マイルス、メキシコまで死にに行かなきゃならなかったんだ」。オレはいつだって彼の声は間違えなかったから、それが彼自身だということはすぐにわかった。彼のスピリットがオレに話しかけてきたんだ。』 (「マイルス・デイビス自叙伝Ⅱ」中山康樹訳 宝島文庫)

Miles2020gil20evans2001  ギル・エヴァンスとマイルス・デイビス

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日本人のジャズ・シンガー、笠井紀美子とギル・エヴァンス・オーケストラのアルバム、「サテン・ドール」が発売になったのは、1972年のこと。ジャズのアルバムとしては、よく売れた。CBSソニーのレコードだった。

 


マイルス・デイビスは、絵を描いていた

2009-07-20 | 日記・エッセイ・コラム

775

 いつも散歩する、旧江戸川の遊歩道。夜明け。

772  

対岸は東京都、整然とたくさんのクルーザーが繋留されている。手前側が千葉県。雑然とボートやらクルーザーやらが、つながれている。

              

今朝も、全英オープン・ゴルフをみてから、夜明けの江戸川遊歩道を歩いた。

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全英オープン・ゴルフ、じつにおもしろかった。テレビのスポーツ番組を、こんなに真剣になってみることも、あんまりない。超一流のゴルフ・プレーヤーたちが闘うと、こんなにも緊張した勝負になって、これほどおもしろいのか、と感心した。

トム・ワトソンに感情移入してみていたから、プレーオフになり、4打差がついて、勝負がついてしまって、最後の18番ホールに、またもどってきたときは、なんだか悲しくて、ジーンときた。

              

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「マイルス・デイビス「イン・ア・サイレント・ウエイ」

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マイルス・デイビス「ビッチェズ・ブリュー」

           

マイルス・デイビスは、「マーシー、マーシー、マーシー」の作曲者、ジョー・ザビヌルをメンバーにむかえて、アルバム「イン・ア・サイレント・ウエイ」をつくる。1969年のことだ。イギリス出身のジャズ・ロックのギタリスト、ジョン・マクラフリンもこのアルバムからメンバーになった。「ウォーターメロン・マン」のハービー・ハンコックも参加している。

そして、1970年には、よりロック、ファンク色が強い「ビッチェズ・ブリュー」が発売になった。2枚組のLPレコードだったが、よく売れた。

「イン・ア・サイレント・ウエイ」と「ビッチェズ・ブリュー」は、フュージョンと呼ばれるジャンルの先駆的なアルバムになった。ジミ・ヘンやスライ・ストーンなど、若い黒人たちの音楽に触発されたマイルス・デイビスは、ジャズの新しい方向をしめす音楽をつくりだしたのだ。大衆の支持をうける音楽だ。

そして、ライブは、フィルモアやワイト島ロック・フェスのように、あえて白人のロック・ファンが集まる会場を選んだ。黒人の若者にも、うけたが、白人の若者にも、うけた。

とくに日本では、マイルス・デイビスは人気があった。マイルスの音楽がどんなに変化し、評論家に叩かれても、日本のファンは、マイルスを愛し、神のように崇拝していた。

マイルス・デイビスが最初に日本にきたのは、1964年7月のことだ。そのときのことを、マイルスは、こう言っている。

              

  『東京や大阪で演奏したが、日本に到着した時のことは、決して忘れないだろう。日本はものすごく遠い国だから、オレは飛行機の中でコカインと睡眠薬を飲み、それでも眠れなくて酒もガンガン飲んでいた。到着すると、大変な歓迎ぶりで驚いた。オレ達が飛行機を降りようとすると、「日本にようこそ! マイルス・デイビス!」とか叫んでいた。なのにオレときたら、そこらじゅうに吐きまくる始末だった。だが、すばらしいことに、彼らはさっと薬を出して介抱してくれ、まるで王様のように扱ってくれた。本当に楽しくて、すばらしかった。あの日以来、日本の人々を愛しているし、尊敬もしている。ビューティフルな人々だ。いつでも大変な歓迎をしてくれるし、コンサートも必ず大成功だ』 (「マイルス・デイビス自叙伝 Ⅱ」 マイルス・デイビス、クインシー・トループ著 中山康樹訳 宝島文庫 2000年)

               

    マイルス・デイビス ワイト島ロック・フェス 1970年 http://www.youtube.com/watch?v=vnFhnscKRXQ&feature=related

                 

きのうは、マイルス・デイビスが、若いモデルで、シンガー・ソングライターのベティ・メイプリーにあって、ジミ・ヘンやスライ・ストーンの音楽を教えられた、と書いた。彼女の写真は、マイルスのアルバム「キリマンジャロの娘」につかわれ、そして、ふたりは結婚した、と。

そのまえ、1960年から1965年まで結婚していたのは、女優でダンサーのフランシス・テイラーだった。マイルスのアルバム、「サムデイ・マイ・プリンス・ウイル・カム」のジャケットの黒人女性だ。

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1960年代後半からマイルスは、電気楽器を大胆にとりいれ、ファンク、ロックに傾斜していった。そのとき、マイルスがバンドにさそったミュージシャンが、フュージョンの中心的なバンドを結成していく。

ウエイン・ショーターとジョー・ザヴィヌルが、「ウエザーリポート」、チック・コリアが、「リターン・トゥ・フォーエバー」、ジョン・マクラフリンは、「マハヴィシュヌ・オーケストラ」。そして、ハービー・ハンコックは、ヘッドハンターズを結成し、アルバム「ヘッドハンターズ」を発表して大ヒットした。1973年のことだ。

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      ハービー・ハンコック Cameleon http://www.youtube.com/watch?v=0hmVHhH96es&feature=related

1975年夏、マイルス・デイビスは、突然、マイアミでのコンサートをキャンセルして、ミュージック・シーンから姿を消した。音楽をやめたのだ。

それから1980年まで、マイルス・デイビスは、一度もトランペットを触らなかった、という。

音楽をやめた理由の一番は、健康上のことだという。長年のドラッグ、とくにコカインの常習と酒でボロボロになっていた。糖尿病もでた。そして、股関節の炎症が悪化して、長く立って演奏できなくなっていた。

もうひとつは、心の疲労だった。

                 

  『オレは本当に長い間、音楽だけに生きてきた。芸術的にすべてを出し切った気がして、音楽的にも、もうこれ以上何もいうことがないような気がしていた。休養が必要なことはわかっていたから、プロになって初めての休みを取った。肉体的に少しでも具合が良くなれば、たぶん精神的にも良くなっていくだろうと思っていた。病院の出入りにも、足を引きずって醜い格好で歩きまわることも、ほとほと嫌気がさしていた。オレを見る人々の目つきに哀れみの色が感じられるようになってきたが、それはヤク中毒だった時代を最後に、ずっと忘れていたものだった。それが、たまらなかった。だから、人生で最も愛するもの、音楽を、すべてが良くなるまで、立ち直れるまで、やめることにした。

  たぶん半年くらい休めばいいだろうと考えていたが、長く休めば休むほど、カムバックできるかどうか、はっきりしなくなった。休んでいればいるほど、ジャンキーの時にどっぷり漬かっていた、真っ暗な世界にどんどん沈み込んでいくばかりだった。正気と光のある世界へ戻るための、再び長くて苦しい道だった。最終的には六年近くかかったが、本当にカムバックできるのか、オレにはまったく自信がなかった』 (「マイルス・デイビス自叙伝 Ⅱ」 マイルス・デイビス、クインシー・トループ著 中山康樹訳 宝島文庫 2000年)

                    

こうして、マイルス・デイビスは、すべての音楽シーンから身をひいた。クラブにジャズを聴きにいくこともいっさいなかった。なにをしていたか? 治療と、コカインと酒を断つこと、そして、気をまぎらす唯一のことが、絵を描くことだった、という。

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音楽をやめるまえ、1973年、B.B.キングのステージに登場したマイルス・デイビス。キングのバンド・メンバーからトランペットを借りて、即興でブルースを吹く。きっと客席にいたのがみつかり、B.B.キングにステージに上がってくれないか、と、ステージから声をかけられてしまったのじゃないかな。

「おい、ホーンをもってこい!」と、B.B.キングが、バンドのトランペッターにいう。マイルスに打ち合わせもなしで、演奏させようというのだ。マイルスは、演奏までねだられて、嫌な顔しないで、遠慮がちにブルースにつきあう。マイルス・デイビス、ほんと、いい人だね。http://www.youtube.com/watch?v=2UtIu16L92A&feature=related

  マイルス・デイビス オフィシャル・サイト http://www.miles-davis.com/


マイルス・デイビスとジミ・ヘンは、いっしょにレコーディングしょうとしていた

2009-07-19 | 日記・エッセイ・コラム

727 夜明けの東西線江戸川鉄橋

729  早朝の境川

トム・ワトソン、がんばってほしい。全英オープン・ゴルフをテレビでみて、そのまま散歩にでた。早朝だというのに、川風は、もう、なま暖かい。汗でポロシャツがずぶ濡れだ。きょうも暑くなる。

午前4時だというのに、ウォーキングの年配の女性たちが何組もいる。北海道の山にいくより、ここらを歩くのが、安全で、金もかからない。

悲惨なことに、トムラウシ、美瑛岳で10人も亡くなった。だいたい、あすこら北海道の大雪山系に、夏はない。本州の山なら、三千メートルをこえる気候だ。雨がふり、ガスがでて、風が吹けば、氷点下にもなる。真夏でも、雪がふり、ひょうがふる。本州の山のように、営業山小屋や避難小屋はない。

荒々しい自然、凶暴なヒグマ。気力、体力、知力、決断力がないと命を落とす。それが北海道の山の魅力でもある。それなり覚悟がいる。ハイキング気分じゃ、人に迷惑をかけるだけだ。まして、金儲けのビジネスとは相容れないのじゃないか? 帰りの飛行機の時間に合わせて、大雪山系の縦走などできない。真夏でも。

いままで、事故なく、あんな無謀な日程のツアーをやってこれたのが、逆に奇跡のようなものだ。

           

 

Milesdavis  若いときのマイルス・デイビス

      

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マイルス・デイビス、1972年のアルバム「オン・ザ・コーナー」。LPジャケットのイラストがあらわすように、マイルス・デイビスは、黒人若者が踊る、ファンク・ミュージックをめざした。このアルバム録音のまえに、マイルス・デイビスは、ジミ・ヘンにも、スライ・ストーンにも会っている。

ジミ・ヘンとスライの音楽をマイルスに教えたのは、モデルで、シンガー・ソングライターの黒人女性、ベティ・メイブリーだった。

1966年にマイルスは、ベティ・メイプリーに出会う。ベティは、音楽だけじゃなく、ファッションでもマイルスに大きな影響をあたえた。スーツにネクタイというスタイルをやめて、アフロ風のシャツや革のジャケットを着て、派手なサングラスをかけた。

マイルスのアルバム「キリマンジャロの娘」の」ジャケットにある美女が、ベティ・メイブリーだ。

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ジミ・ヘンのマネージャーからマイルスに電話がある。ジミ・ヘンにマイルスの演奏法と音楽の作り方を教えてやってくれないか、という。こうして、ふたりは出会い、仲良くなる。ジミ・ヘンは、マイルスの家によくやってくるようになった。

マイルス・デイビスは、23才の美女、ベティに惚れ、1968年、正式に結婚する。マイルス、42才だ。しかし、ベティは、マイルスの妻になっても、ジミ・ヘンと仲よくなる。それもあって、ふたりの結婚は一年とはつづかなかった。ジミ・ヘンだけじゃなく、ベティは、ほかにも恋人たちがいた。そういう人なのだ。1969年、ふたりは離婚した。離婚したあとも、ベティー・デイビスを名のってレコード・デビューする。

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そんなことがあっても、マイルスとジミ・ヘンは、ますます親しくなっていく。このへんが常人とちがう、帝王の帝王たるところなのか。マイルスは、「そんなことと、音楽は、べつだ」という。マイルスは、じぶんの子供のような年令の、ジミ・ヘンやスライに対して敬意をもって接する。

マイルスは、カルロス・サンタナともよくセッションをしていた。フィルモアで、マイルス・グループがサンタナの前座になっても、マイルス・デイビスは文句をいわなかった。サンタナのやっていることを理解できるし、好きだ、といってる。

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   マイルス・デイビスとサンタナとロベン・フォード http://www.youtube.com/watch?v=wtIJ017JpIE

マイルス・デイビスが、1968年に真剣になって聴いていたのは、ジェームス・ブラウン、ジミ・ヘンドリックス、スライ&ファミリー・ストーンだという。60年代の半ばでマイルスは、いわゆるジャズに対して興味を失ったようだ。

つねに、時代の先端の音楽を創造してきたマイルスにとって、フリー・ジャズにはしる流れを、ジャズの自滅とみていたようだ。聴衆に支持されない自己満足の音楽を嫌っていたのだろう。マイルスが尊敬するミュージシャンのひとりは、ルイ・アームストロングだ。

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マイルスは、アーチー・シェップ、アルバート・アイラー、セシル・テイラーたちのフリー・ジャズ、そして、ジョン・コルトレーンが、白人の音楽評論家によって意図的に持ちあげられているあいだに、ジャズは、大衆の支持を失ったとみている。

マイルス・デイビスがそれまで追求してきた、メロディアスで詩的なジャズを、白人評論家たちが意図的に否定するために、フリー・ジャズを持ちあげた、と。たしかに、日本でも、インパルスのフリー・ジャズものや、オーネット・コールマン、ドン・チェリーなどが評論家にはうけていた。ジャズ喫茶で、客は目をつぶって聴く時代だった。

ジャズは楽しむものではなく、勉強するものになってしまった。博物館のなかの化石になってしまったのだ。

アメリカでも、日本でも、世界中で、そうしているあいだに、ジャズのレコード売り上げはどんどん落ちていった。アメリカのジャズ・クラブは店を閉め、ジャズメンは、ヨーロッパに出稼ぎでたり、廃業して田舎に帰った。

それと同時に、白人のポップスが台頭する。黒人のリズム&ブルースやリトル・リチャードやチャック・ベリーや、モータウン・サウンドをコピーした白人のロックが、メディアの中心になり、爆発的に売れだしたのだ。ビートルズやホワイト・ブルースだ。

白人のロックは、オリジナルの黒人の数十倍、数百倍の売り上げになった。マイルスは、これをにがにがしく思っていたのだろう。これが1960年代半ばのマイルス・デイビスの情況ではなかっただろうか。

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60年代前半のジャズのなかにも、、キャノンボール・アダレー・グループの「マーシー・マーシー・マーシー」や、ハービー・ハンコックの「ウォーターメロン・マン」のようなファンキーな曲があった。これは白人むけのジャズとは明らかにちがっていた。ましてやフリー・ジャズとは反対の音楽だった。のれる、音楽だ。踊ることだってできる。これが、黒人の若者にうけていた。

マイルス・デイビスは、黒人の若者にうける音楽をやりたかった。白人には、じゅうぶん売れていた。マイルスは、黒人の若者が踊れる音楽をやりたかった。アコースティックなジャズにまったく固執してなかった。のれる曲、踊れる音楽、ファンキーな曲、大衆にうける音楽をやろうしていた。

そうして、エレクトリックで武装した。アコースティック・ピアノをやめて、エレクトリック・ピアノのフェンダーのローズをつかった。それは、「マーシー、マーシー、マーシー」で、ザヴィヌルが弾いていたのが気にいったからだ。トランペットにマイクをつけて、ワウワウをつけた。それは、ジミ・ヘンが、ギターでワウワウをつかっていたからだった。

パーカッションを強化した。サンタナのようなサウンドにしたかったのだ。ウッド・ベースもやめて、エレクトリック・ベースにした。派手、派手の衣装で、でかいサングラスでステージに立った。ジャズ評論家たちはこぞって、そんなマイルスをボロクソにけなした。マイルス・デイビスは、ひるまなかった。

コロンビア・レコード(CBS)は、エレクトリックに難色をしめした。マイルスは、モータウン・レコードに移籍すると、おどした。(ほんとうに、モータウン・レコードに移籍するとおもしろかったのに……。あるいは、アトランティック・レコードに)。

「マーシー、マーシー、マーシー」の作者、ジョー・ザヴィヌルをグループにさそった。また、「ウォーターメロン・マン」の作者、ハービー・ハンコックもマイルス・グループに参加した。

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マイルスのはなしが長くなった。このつづきは、あす……いずれ、また。

マイルスは、マイケル・ジャクソンが、アルバム「スリラー」で歌った Human Nature を演奏している。この曲の作曲は、TOTOのキーボード、スティーヴ・ポカロ。作詞は、ジョン・ベティス。

ジョン・ベティスは、カーペンターズのリチャードとカリフォルニア大学の友人で、リチャードと学生バンド、Spectum を結成していた。カレン・カーペンターが、ドラムとボーカルだ。

このジョン・ベティスが、カーペンターズのオリジナル・ソングの歌詞のほとんどを書いている。「イエスタデー・ワンス・モア」「青春の輝き」「トップ・オブ・ザ・ワールド」など。ほかにもホイトニー・ヒューストンの「ワン・モーメント・イン・タイム」など作詞作品は多数だ。

    マイルス・デイビス Human Nature http://www.youtube.com/watch?v=LGBPSx1Zxlo&feature=related

            

1962年、ハービー・ハンコックのファースト・アルバム「テイクン・オフ」から、「ウォーターメロン・マン」が大ヒットした。ハービー・ハンコック、弱冠21才だ。                 

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    ハービー・ハンコック 「ウォーターメロン・マン Watermelon Man 」http://www.youtube.com/watch?v=JYDH0ZGoo_M&feature=related

             

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    キャノボール・アダレー・グループ http://www.youtube.com/watch?v=pRrFWp4DUho


ロバート・レッドフォードは、若いとき、画家をこころざした

2009-07-18 | 日記・エッセイ・コラム

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15日、ロバート・レッドフォードが結婚したという。元気だ。72才だ。相手は、ドイツの画家、ジビレ・ザガース Sibylle Szaggars、52才。

十数年のつき合いというから、遺産相続がごたつかないように正式に結婚したのかな。誠実な人なんだね。

          

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05  ジビレ・ザガースの作品 

                

ロバート・レッドフォードは、もちろん俳優としてすばらしい。わたしは、監督作品でいくつも好きなのがある。

最初の監督作品の、アカデミー作品賞、監督賞をとった、「普通の人々」(1980年)をみたときは、なんじゃこれ、退屈なホームドラマだな、と思ったものだ。いっしょにみた人が、熱烈なロバート・レッドフォード・ファンで、すごい! 監督をやってもすごいのね! と感激していた。わたしはまだ未熟で、なんでこんな映画がアカデミー賞の四部門も受賞したのか、さっぱりわからん、という愚かな者だった。

しかし、監督2作目の「ミラグロ」をみたとき、ぶっ飛んだ。おれは、ロバート・レッドフォードの表現していたことを、なにもわかってなかったのか? 「ミラグロ」(1988年)は、おもしろい。おかしい。映像が、じつに美しい。このとき、ロバート・レッドフォード監督に、まさに開眼した。ハンサムなだけじゃないんだ、と。それから、監督作品をたのしみにしてきた。

ブラッド・ピットが好演した「リバー・ランズ・スルー・イット」(1992年)もよかった。「モンタナの風に吹かれて」(1998年)もいい。そして、ウイル・スミスとマッド・デモンが主演したゴルフの映画、「バガー・ヴァンスの伝説」(2000年)がおもしろかった。

アルゼンチン出身の革命家、チェ・ゲバラは、ブエノスアイレス大学の医学生のとき、オートバイで南米を旅した。そのはなしを映画にした、「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2003年)は、ロバート・レッドフォードが制作総指揮 Executive Producer だ。

ロバート・レッドフォードは、俳優になるまえ、画家になろうとしてヨーロッパに渡ったという。画家にはならなかったが、俳優として成功したあと、その初心をつらぬいて、映像作家として、すばらしい作品を創りだしている。

 

Milagro_beanfield 「ミラグロ」

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Willsmithmattdamonthelegendofbagger 「バガー・ヴァンスの伝説」

V_diarios_motocicleta 「モーターサイクル・ダイアリーズ」

       「モーターサイクル・ダイアリーズ」の主題歌 「河を渡って木立のなかへ Al Otro Lado del Rio 」 歌うのは、ウルグアイのミュージシャン ホルヘ・ドレクスレル http://www.youtube.com/watch?v=rvC0f7yL9ag

この曲は、2004年のアカデミー賞主題歌賞をとった。スペイン語の歌としては、はじめての受賞だった。

Jorgedrexler320x24012160 ホルヘ・ドレクスレル Jorge Drexler

     ホルヘ・ドレクスレル オフィシャル・サイト http://www.jorgedrexler.com/

     ホルヘ・ドレクスレル Todo se Transforma http://www.youtube.com/watch?v=CSG6VDjnY0s&NR=1&feature=fvwp

                

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キューバ革命の英雄、チェ・ゲバラは、1965年、キューバを離れる。それを知って、キューバのシンガー・ソングライターのカルロス・ブエグラが、ゲバラ司令官への感謝と永遠の別れを歌った。「アスタ・シエンプリ Hasta Siempre 」だ。40年以上たったいまもラテン・アメリカ諸国で愛されている曲だ。

ヴィム・ヴェンダースが監督した、キューバ音楽のドキュメンタリー映画、「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」でも歌われていた。映画は、ライ・クーダーがプロデュースしたアルバムが元になって制作された。

ゲバラは、1967年、ボリビア軍に捕まり、アメリカCIAの指示で、ボリビア兵によって射殺された。

     アスタ・シエンプリ Hasta Siempre http://www.youtube.com/watch?v=SynVFM_6ezk&feature=related

 

Aprendimos a quererte 私たちはあなたを愛することを学んだ     
Desde la histórica altura 歴史的な高みから
Donde el sol de tu bravura そこではあなたの勇敢さという日差しが
Le puso cerco a la muerte 死を包囲した

Aquí se queda la clara ここでは明らかになっている
La entrañable transparencia あなたの存在の
De tu querida presencia 親愛なる透明性が
Comandante Che Guevara チェ・ゲバラ司令官

Tu mano gloriosa y fuerte 栄光に満ちた強いあなたの手が
Sobre la historia dispara 歴史上で火を吹く
Cuando todo Santa Clara サンタ・クララの街全体が
Se despierta para verte. 目を覚ましてあなたに会うときに

Vienes quemando la brisa  風を燃やしながらあなたは来ている
Con soles de primavera 春の日差しとともに
Para plantar la bandera 旗を立てるために
Con la luz de tu sonrisa あなたの微笑みの光とともに

Tu amor revolucionario あなたの革命への愛が
Te conduce a nueva empresa 新しい試みへとあなたを導く
Donde esperan la firmeza そこでは自由を目指すあなたの腕の
De tu brazo libertario 力強さが待ち望まれている

Seguiremos adelante 私たちは前に進み続ける
Como junto a ti seguimos これまであなたと一緒に進んできたように
Y con Fidel te decimos そしてフィデルとともに私たちは言う
Hasta siempre Comandante ごきげんよう、司令官

              

Nathaliecardone1240903219  ナタリー・カルドーヌ Nathalie Cardone

フランスの女優でシンガーのナタリー・カルドーヌは、1997年に、このチェ・ゲバラをたたえる曲、「アスタ・シエンプル Hasta Siempre 」をカバーしている。父親はフランス人で、母親がスペイン人だというから、スペイン語は、まさにマザー・ランゲージといえるのかな。(mother language マザー・ランゲージとは、正しくは、母国語のこと。mother tongue マザー・タングとおなじ意味)。

     ナタリー・カルドーヌ  Hasta Siempre http://www.youtube.com/watch?v=SSRVtlTwFs8&feature=related

                  

Compay_segundo_400  コンパイ・セグンド

「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」では、ソン(son)のソングライター、コンパイ・セグンドの曲、「Chan Chan 」が、好きだ。ライ・クーダーもギターで参加している。

ソン(son)は、1930年代にキューバにうまれたダンス音楽だ。アフリカとスペインと、メキシコとアメリカの音楽がミックスしてできたのだろう。

    ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ Chan Chan http://www.youtube.com/watch?v=6JEdf7XsV5g&feature=related

Musicibrahim  イブライム・フェレール

    ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ Candela http://www.youtube.com/watch?v=whs1FAkPbTM

  

                 


キャデラック・レコードは、8月15日封切り

2009-07-17 | 日記・エッセイ・コラム

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8月15日、やっと、「キャデラック・レコード」が封切りになる。いったい、いつ日本で上映されるんだろう、と、すこしいら立っていた。きょう、敦賀浩隆くん(元キャデラック・スリムのギター&ボーカル)が知らせてくれた。

きっと、ビヨンセの日本公演にあわせて封切ることになっていたのだろう。8月7日、8日、9日。大阪、千葉で、ビヨンセのライブがある。

ブルースとR&Bのレコード会社、チェス・レコードをモデルにした映画だ。チェス・レコードのことやキャストなど詳細は、ソニー・ピクチャーズがつくる日本語の公式サイトにある。そっちをみてほしい。チェス・レコードのことは、このブログでも以前に書いた。

オフィシャル・サイトには説明がないが、わたしが気になるのは、脚本・監督のダーネル・マーティンと音楽のテレンス・ブランチャードだ。そして、製作総指揮 Executive Producer が、ビヨンセ自身ということも、おもしろい。

脚本・監督のダーネル・マーティンは、1964年生まれの黒人女性だ。サラ・ローレンス大学卒業のあと、ニューヨーク大学で映画を学んだ。短編映画の製作で注目されて、ジョナサン・デミ監督のドキュメンタリー・フィルムのアシスタントになった。ジョナサン・デミ監督は、日本では「羊たちの沈黙」などで知られているだろうか。

1994年、ダーネル・マーティンは、黒人女性としてはじめて、大手映画会社のコロンビア映画のディレクター&プロデューサーになった。

 

Darnell20martin  監督、ダーネル・マーティン

 

200pxpsmovie  ダーネル・マーティン、2001年の監督作品「Prison Song」。プロデューサーのひとりは、ロバート・デ・ニーロ。

23632  監督ダーネル・マーティンとビヨンセ。なかなか美しい映画監督じゃないかな。

「キャデラック・レコード」の音楽は、テレンス・ブランチャード。1962年、ニューオリンズ生まれのジャズ・トランペッターで、作曲家だ。ウイントン・マルサリスとは幼友達だ。スパイク・リー監督作など、これまで5作の映画音楽の作品がある。

テレンス・ブランチャードのプロのキャリアは、ライオネル・ハンプトン・オーケストラのツアーからはじまる。そのあと、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズのメンバーになる。いまは、じぶんのグループをもっている。

 

Terence20blanchard2001  テレンス・ブランチャード

38168 スパイク・リー監督の「Inside Man」の音楽は、テレンス・ブランチャード http://www.youtube.com/watch?v=ZhrZXnFSFGQ

             

    テレンス・ブランチャード at  Vitoria Jazz Fes. 2007 http://www.youtube.com/watch?v=BYePvTiniLc&feature=related

    映画「キャデラック・レコード」 オフィシャル・サイト(日本語)http://www.sonypictures.jp/movies/cadillacrecords/

    映画「キャデラック・レコード」 オフィシャル・サイト(英語)http://www.sonypictures.com/homevideo/cadillacrecords/

    ソニー・ミュージックによるピヨンセのページ(日本語) http://www.sonymusic.co.jp/Music/International/Special/Beyonce/

    ビヨンセ オフィシャル・サイト http://www.beyonceonline.com/us/home 

    テレンス・ブランチャード  オフィシャル・サイト http://www.terenceblanchard.com/

                

Handel_by_jaeger

きのうのブログで紹介したナナ・ムスクーリが歌っていた曲は、ヘンデルの曲に歌詞をつけている。ヘンデル(1685~1759)は、ドイツの人だが、ドイツとイタリアで勉強したあと、イギリスに渡って作曲家として活躍した。教会音楽が得意なバッハに対して、ヘンデルは、劇場用のオペラやオラトリオに傑作が多い。いまもその音楽は愛されていて、さまざまにアレンジされて現代に生きている。

  ナナ・ムスクーリが歌ったヘンデルの曲は、映画音楽にもつかわれている。http://www.youtube.com/watch?v=91sfrw106xs&feature=related

ヘンデルのカツラをつけた肖像はよくみる。カツラなしの肖像画もある。なかなかハンサムだ。

Hndel_fr_stiftung

                      

北海道のトムラウシと美瑛岳での遭難は、死者10人になった。言葉もない。なにもいいたくない。あまりに悲惨だ。北海道の登山史では、1965年(昭和40年)の北大・沢田隊の悲劇を想起させる大惨事ではないか。

冬山で、百年に一度という大雪崩に遭遇してしまった大学山岳部のパーティーと、夏山の商業登山ツアーの遭難をおなじにはできない。しかし、北海道の山の、自然の猛威で、多くの犠牲者をだした惨劇にはかわりない。

1965年3月、沢田義一さん(23才)を隊長にした北大山岳部の6人は、日高山脈の縦走中に、札内川上流で雪洞を掘って、キャンプをした。そこに雪崩が襲いかかって全員生き埋めになってしまった。

6月になってやっと全員の遺体が発見された。そして、沢田さんの遺書がみつかった。沢田隊長は、生き埋めになったまま、4日間生きていた。地図の裏に、両親、いっしょに埋まって死んでいった仲間、その母親たちへの謝罪と、母と姉と妹たちへ、別れの言葉を書いた。

  

「3月14日の深夜2時頃、突然雪崩が雪洞を襲い、皆寝ているままにして埋めてしまった。皆は一瞬で死んでしまったようだったが、私は幸いにして、口のまわりにすきまがあったのを次第に広げて、ついに、横穴を2メートル近く掘って脱出しようとしたが、外は厚い雪で埋まっているせいか、一向に明るくならず、ついに死を覚悟する。

お母さん、お父さんごめんなさい。一足先に行かせてもらうだけです。きっと何かに生まれ変わってくるはずです。僕はそのとき、お母さん、お父さんを見守っているはずです。

土田のおばさんすみません。心配が本当になってしまいました。でも、ゆるして下さいね。

 田中さん、坂井君、松井君、中川君、橋本君、ごめんなさい。とりかえしのつかぬ失敗をしてしまって、皆さんのお母さんごめんなさい。ついにやってきたのです、きっと天から皆さんを見守っているつもりです。せめてできることは、そのくらいです。僕も早く安らかに眠りたいものです。どうせ死ぬのなら僕一人で・・・

 杉山さん、ご指導ありがとうございました。ルームの皆さん、さようなら。何がなくなって命があればたくさんだ。死を目の前にしてそう感ずる。松井君は一人っ子、橋本君は男一人、僕も男一人で、親が嘆き、悲しむようすが手にとるようにわかる。

 3月14・15・16・17日と寝たり掘ったりしたが、掘っても掘っても明るさが出てこないので、がっくりしている。生は10%ぐらいだろう。お母さん、本当にごめんなさい。今日まで育ててくれたつぐないをなさずに、先に行ってしまうなんて。今は比較的落ち着いています。仲間が皆そばで眠っているせいでしょう。

 佳江、珠代、先に死んでしまってごめんよ。お母さん、お父さんはこれからお年寄りになっていくんだから、2人仲良くして、お兄ちゃんの分も良く面倒みてあげて下さい。

 昌子姉さんへ。お母さん、お父さんのことよろしく。

お母さん、今死んでしまうなんて残念だ、せっかく、背広も作ったのに、もうだめ」