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古い曲が気になる

マイルス・デイビスは、絵を描いていた

2009-07-20 | 日記・エッセイ・コラム

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 いつも散歩する、旧江戸川の遊歩道。夜明け。

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対岸は東京都、整然とたくさんのクルーザーが繋留されている。手前側が千葉県。雑然とボートやらクルーザーやらが、つながれている。

              

今朝も、全英オープン・ゴルフをみてから、夜明けの江戸川遊歩道を歩いた。

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全英オープン・ゴルフ、じつにおもしろかった。テレビのスポーツ番組を、こんなに真剣になってみることも、あんまりない。超一流のゴルフ・プレーヤーたちが闘うと、こんなにも緊張した勝負になって、これほどおもしろいのか、と感心した。

トム・ワトソンに感情移入してみていたから、プレーオフになり、4打差がついて、勝負がついてしまって、最後の18番ホールに、またもどってきたときは、なんだか悲しくて、ジーンときた。

              

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「マイルス・デイビス「イン・ア・サイレント・ウエイ」

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マイルス・デイビス「ビッチェズ・ブリュー」

           

マイルス・デイビスは、「マーシー、マーシー、マーシー」の作曲者、ジョー・ザビヌルをメンバーにむかえて、アルバム「イン・ア・サイレント・ウエイ」をつくる。1969年のことだ。イギリス出身のジャズ・ロックのギタリスト、ジョン・マクラフリンもこのアルバムからメンバーになった。「ウォーターメロン・マン」のハービー・ハンコックも参加している。

そして、1970年には、よりロック、ファンク色が強い「ビッチェズ・ブリュー」が発売になった。2枚組のLPレコードだったが、よく売れた。

「イン・ア・サイレント・ウエイ」と「ビッチェズ・ブリュー」は、フュージョンと呼ばれるジャンルの先駆的なアルバムになった。ジミ・ヘンやスライ・ストーンなど、若い黒人たちの音楽に触発されたマイルス・デイビスは、ジャズの新しい方向をしめす音楽をつくりだしたのだ。大衆の支持をうける音楽だ。

そして、ライブは、フィルモアやワイト島ロック・フェスのように、あえて白人のロック・ファンが集まる会場を選んだ。黒人の若者にも、うけたが、白人の若者にも、うけた。

とくに日本では、マイルス・デイビスは人気があった。マイルスの音楽がどんなに変化し、評論家に叩かれても、日本のファンは、マイルスを愛し、神のように崇拝していた。

マイルス・デイビスが最初に日本にきたのは、1964年7月のことだ。そのときのことを、マイルスは、こう言っている。

              

  『東京や大阪で演奏したが、日本に到着した時のことは、決して忘れないだろう。日本はものすごく遠い国だから、オレは飛行機の中でコカインと睡眠薬を飲み、それでも眠れなくて酒もガンガン飲んでいた。到着すると、大変な歓迎ぶりで驚いた。オレ達が飛行機を降りようとすると、「日本にようこそ! マイルス・デイビス!」とか叫んでいた。なのにオレときたら、そこらじゅうに吐きまくる始末だった。だが、すばらしいことに、彼らはさっと薬を出して介抱してくれ、まるで王様のように扱ってくれた。本当に楽しくて、すばらしかった。あの日以来、日本の人々を愛しているし、尊敬もしている。ビューティフルな人々だ。いつでも大変な歓迎をしてくれるし、コンサートも必ず大成功だ』 (「マイルス・デイビス自叙伝 Ⅱ」 マイルス・デイビス、クインシー・トループ著 中山康樹訳 宝島文庫 2000年)

               

    マイルス・デイビス ワイト島ロック・フェス 1970年 http://www.youtube.com/watch?v=vnFhnscKRXQ&feature=related

                 

きのうは、マイルス・デイビスが、若いモデルで、シンガー・ソングライターのベティ・メイプリーにあって、ジミ・ヘンやスライ・ストーンの音楽を教えられた、と書いた。彼女の写真は、マイルスのアルバム「キリマンジャロの娘」につかわれ、そして、ふたりは結婚した、と。

そのまえ、1960年から1965年まで結婚していたのは、女優でダンサーのフランシス・テイラーだった。マイルスのアルバム、「サムデイ・マイ・プリンス・ウイル・カム」のジャケットの黒人女性だ。

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1960年代後半からマイルスは、電気楽器を大胆にとりいれ、ファンク、ロックに傾斜していった。そのとき、マイルスがバンドにさそったミュージシャンが、フュージョンの中心的なバンドを結成していく。

ウエイン・ショーターとジョー・ザヴィヌルが、「ウエザーリポート」、チック・コリアが、「リターン・トゥ・フォーエバー」、ジョン・マクラフリンは、「マハヴィシュヌ・オーケストラ」。そして、ハービー・ハンコックは、ヘッドハンターズを結成し、アルバム「ヘッドハンターズ」を発表して大ヒットした。1973年のことだ。

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      ハービー・ハンコック Cameleon http://www.youtube.com/watch?v=0hmVHhH96es&feature=related

1975年夏、マイルス・デイビスは、突然、マイアミでのコンサートをキャンセルして、ミュージック・シーンから姿を消した。音楽をやめたのだ。

それから1980年まで、マイルス・デイビスは、一度もトランペットを触らなかった、という。

音楽をやめた理由の一番は、健康上のことだという。長年のドラッグ、とくにコカインの常習と酒でボロボロになっていた。糖尿病もでた。そして、股関節の炎症が悪化して、長く立って演奏できなくなっていた。

もうひとつは、心の疲労だった。

                 

  『オレは本当に長い間、音楽だけに生きてきた。芸術的にすべてを出し切った気がして、音楽的にも、もうこれ以上何もいうことがないような気がしていた。休養が必要なことはわかっていたから、プロになって初めての休みを取った。肉体的に少しでも具合が良くなれば、たぶん精神的にも良くなっていくだろうと思っていた。病院の出入りにも、足を引きずって醜い格好で歩きまわることも、ほとほと嫌気がさしていた。オレを見る人々の目つきに哀れみの色が感じられるようになってきたが、それはヤク中毒だった時代を最後に、ずっと忘れていたものだった。それが、たまらなかった。だから、人生で最も愛するもの、音楽を、すべてが良くなるまで、立ち直れるまで、やめることにした。

  たぶん半年くらい休めばいいだろうと考えていたが、長く休めば休むほど、カムバックできるかどうか、はっきりしなくなった。休んでいればいるほど、ジャンキーの時にどっぷり漬かっていた、真っ暗な世界にどんどん沈み込んでいくばかりだった。正気と光のある世界へ戻るための、再び長くて苦しい道だった。最終的には六年近くかかったが、本当にカムバックできるのか、オレにはまったく自信がなかった』 (「マイルス・デイビス自叙伝 Ⅱ」 マイルス・デイビス、クインシー・トループ著 中山康樹訳 宝島文庫 2000年)

                    

こうして、マイルス・デイビスは、すべての音楽シーンから身をひいた。クラブにジャズを聴きにいくこともいっさいなかった。なにをしていたか? 治療と、コカインと酒を断つこと、そして、気をまぎらす唯一のことが、絵を描くことだった、という。

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音楽をやめるまえ、1973年、B.B.キングのステージに登場したマイルス・デイビス。キングのバンド・メンバーからトランペットを借りて、即興でブルースを吹く。きっと客席にいたのがみつかり、B.B.キングにステージに上がってくれないか、と、ステージから声をかけられてしまったのじゃないかな。

「おい、ホーンをもってこい!」と、B.B.キングが、バンドのトランペッターにいう。マイルスに打ち合わせもなしで、演奏させようというのだ。マイルスは、演奏までねだられて、嫌な顔しないで、遠慮がちにブルースにつきあう。マイルス・デイビス、ほんと、いい人だね。http://www.youtube.com/watch?v=2UtIu16L92A&feature=related

  マイルス・デイビス オフィシャル・サイト http://www.miles-davis.com/