Ommo's

古い曲が気になる

帯広にも、ブルース少年たちがいた

2009-02-26 | 日記・エッセイ・コラム
The Allman Brothers at Fillmore East

The Allman Brothers at Fillmore East

   毎日寒い。これで4日間、雨だ。

 なぜか、25日、このわたしのブログは、一日のアクセスが700を超えた。

 

 大阪の広告代理店、新生企業(伸生)の社長が逮捕された。第3種郵便物の不正だ。120円の料金を8円で発送していた。100億円以上の利益をあげていた、という。昨年の11月8日のわたしのブログで、朝日新聞の記事を引用して、博報堂が、この新生企業からの提案で、大手家電量販店のDM、1100万通を、障害者団体の郵便物と擬装して差額を儲けている、と伝えた。弱小の代理店は捕まり、大手の博報堂には手も足もでないのか? なさけない。  

 
 クラレンス・ゲイトマウス・ブラウンClarence "Gatemouth" Brown のことを調べていると、60年代には音楽をやめて、ニューメキシコ州で保安官補になった、とある。おもしろい。70年代になって、白人の若者たちにブルースが注目されて復興するまで、黒人ブルースマンたちのなかには、音楽だけでは食っていけなくて、ラジオのDJになったり、肉体労働をやって暮らす人たちもいた。しかし、保安官とは、ブルースマンとかロッカーとは一番遠い仕事のようで、おかしい。(保安官になったミュージシャンより、保安官に捕まったミュージシャンのほうが圧倒的に多いだろう)。

 

 ルイジアナ&テキサス・ブルースのクラレンス・ゲイトマウス・ブラウンは、70年代にアメリカ政府がスポンサーになって、アメリカ音楽大使official ambassador for American musicとして世界ツアーにでた。「大使」とは、元保安官のブルースマンにふさわしいのかもしれない。

 

 60年代後半から70年代、日本では、クリームやポール・バターフィールド・ブルース・バンドや、アル・クーパーとマイク・ブルームフィールドのセッションや、オールマン・ブラザーズ・バンドやジョニー・ウインターなどでブルースを知った人たちが多いだろう。そして、ルーツの黒人ミュージシャンを聴きこむ若者たちがでてくる。わたしのレコード屋で、ブルースのレコードを、毎日のように熱心に聴いていた若者たちの、ひとりひとりの顔を、いまも思い出すことができる。

 

 クラレンス・ゲイトマウス・ブラウン Pressure Cooker http://www.youtube.com:80/watch?v=xZ40kVRvcdk&feature=related

 

 保安官補になったケースとまったくちがうが、ニューオリンズ・ジャズのクラリネットの名手、ジョージ・ルイスは、突然、音楽界から引退する。1942年ころのはなしだ。女性関係のトラブルで、バンドメンバーがステージの上で射殺された。その現場にいて、ショックをうけて、クラブの仕事に嫌気がさした。という説もある。スイング全盛、モダンジャズも始まろうとしていた。ニューオリンズ・ジャズでは、もう食っていけなかったのが現実かもしれない。

 

 港湾労働者になって港で荷下ろしをやっていた。その作業中に肩に大怪我をする。この療養中にクラリネットの練習を再びはじめてなければ、音楽シーンに復帰することはできなっただろう。バンド仲間が楽器をもって見舞いにきて、セッションをやり、ジャズ研究家のウイリアム‘ビル’ラッセルは、ポータブルのレコードプレーヤーを見舞いに置いていく。そうして、リハビリのあいだに、ジョージ・ルイスの代表的な曲 Burgundy Street Bluesがつくられた。この曲をウイリアム‘ビル’ラッセルがレコーディングしてジョージ・ルイスは復活した。美しい曲だ。

 

 ジャズ研究家のウイリアム‘ビル’ラッセルや熱心な愛好家の支持で、ニューオリンズ・ジャズのリバイバルがやってくる。ここでも、ブルースの場合とおなじように、白人のインテリのマニアックなファンが、忘れられかけた音楽を世界に紹介してよみがえらせたのだ。ジョージ・ルイスのバンドは、アメリカはもちろん、ヨーロッパと日本でうけた。63年、64年、65年と来日公演をやっている。

 

 わたしは、中学生のとき、帯広市民会館でジョージ・ルイスのバンドをみた。クラリネット、トランペット、トロンボーン、バンジョー、ウッドベース、ドラムスという編成だった。そのたのしさに心底感動した。労音が主催だった。

 

 ジョージ・ルイス Burgundy Street Blues http://www.youtube.com/watch?v=4Ie0CNf33zE&feature=related

  ジョージ・ルイス Old Rugged Cross http://www.youtube.com/watch?v=eH2HQTMSVo4&feature=related

 

 


たいめいけんで、タンポポ・オムライスをごちそうになった

2009-02-25 | 日記・エッセイ・コラム
タンポポ [DVD]

タンポポ [DVD]

 もう3年まえのことになる。帯広三条高校山岳部の先輩かつみさんに、日本橋「たいめいけん」で名物のオムライスをごちそうになったことがあった。その オムライスは、伊丹十三映画「タンポポ」にでてきたオムライスを再現している。なかなかうまい。「たいめいけん」は、昭和6年創業という洋食屋で、ラーメンからステーキまである。帯広でいうと藤森食堂だろうか。いつも観光客で長い列ができている。大繁盛店だ。

 
 かつみさんにタンポポ・オムライスをごちそうになってからすこしして、「たいめいけん」のすぐそばの、西川ふとん店ビル改装工事の警備員になった。現場のすぐ裏なので、たいめいけんのラーメンをよく食べた。厨房の横にカウンターだけのラーメン立ち食いコーナーがあるのだ。ここから厨房がまる見えで、職人の仕事をながめながらラーメンを食う。工場でも、キッチンでも、ものをつくっているのをみるのは、たのしい。

093_3 たいめいけん、キッチン横のラーメン・カウンター


Switched-On Bach がシンセのはじまりだ

2009-02-24 | 日記・エッセイ・コラム
Two For The Road: The Music of Henry Mancini Two For The Road: The Music of Henry Mancini
The Movie Album The Movie Album

 サントリーの缶コーヒー「BOSS贅沢微糖」のテレビCMが、桑田真澄とソフトボールの上野由岐子の映像になった。しかし、バックの音楽はおなじ、電子楽器テルミンの印象的なイントロではじまる曲は、1970年代のテレビドラマ・シリーズ「刑事コロンボ」のテーマだ。作曲は、ヘンリー・マンシーニだ。

 

 ヘンリー・マンシーニのことは以前にも書いた。映画音楽の巨匠だ。ジャズのスタンダードになっている「酒とバラの日々」や、オードリー・ヘップバーンの「ティファニーで朝食を」のテーマ「ムーンリバー」、「シャレード」「ひまわり」、ピンクパンサーのシリーズなど、その数はすさまじい。下の、ヘンリー・マンシーニのサイトと、IMDbのページで、映画、テレビ作品の膨大な内容をみてほしい。驚く。

 

 カバー・レコードも多い。わたしは、ジャズ・ピアノのディーブ・グルーシンのアルバムと、バーブラ・ストレイザンドのアルバムが好きだ。

Switched-On Bach

Switched-On Bach

 

 テルミンは、ロシアの科学者レフ・テルミンが1920年に発明した、シンセサイザーのルーツともいわれる最初の電子楽器だ。2本のアンテナの間で手を動かすことで音程と音量を変化させる。まず、テルミン自身が演奏して、クラシックのオーケストラでつかった。ポップスでは、ビーチ・ボーイズが「グッド・バイブレーション」でつかって有名になった。いまもつかわれる楽器で、販売されている。http://www.moogmusic.com/

 

 シンセサイザーは、アメリカのロバート・モーグ博士が開発して、1964年に発表した。このモーグ・シンセサイザーで最初に世界的に売れたのは、クラシックだった。このアルバムが、その後の音楽にあたえた影響は大きい。それが、ウェンディ・カルロス Wendy Carlos 演奏の「スイッチト・オン・バッハ Switched-On Bach 」だ。シンセサイザーでバッハを演奏した。これは、サウンドコーナーでよく売れた。1969年のことだ。CBSソニーのクラシックのジャンルで最初に売れたLPレコードだろう。

 

 このアルバムが世界で大ヒットしたあと、1970年、ライブ演奏につかえるコンパクトなミニモーグMinimoog が発売になって、キース・エマーソンやリック・ウエクマン、日本の冨田勲などのシンセサイザー・プレーヤーが続々と登場する。ロックやポップスのまえに、最初は、ウェンディ・カルロスの革新的なバッハの演奏だったのだ。(この人は性転換して女性になった。アルバムをリリースした当時は、ウォルター・カルロス、男だったのだ。これもまたロックンロールだ)。

 

 ウォルター・カルロスは、6才からピアノを習い、ブラウン大学のあと、コロンビア大学の大学院で音楽を勉強した博士号をもつクラシックのミュージシャンだ。やはり、こういうインテリだからこそ、ロバート・モーグ博士の新しいテクノロジーに好奇心をもち、だれもいかない水平線のむこうの新しい世界にのりだしていくのだろう。

 

 ベートーヴェンもショパンも、ピアノという楽器が、まだいまの形に確立するまえ、試作途中のときの作曲家だ。弦を張る構造も、弦を叩くハンマーのシステムにもいろんな方式があって、それぞれ音色もテンションも、ピアノのメーカーでちがっていた。ベートーヴェンもショパンも、ちがうメーカーの、ちがう構造のピアノを提供されていた。だから、その楽器のちがいが、ふたりの音楽のちがいになった、というはなしもある。ピアノもまた新しい楽器なのだ。バッハのときはない。だから、バッハをモーグで弾くのも、ピアノで弾くのも、おなじように新しい表現だった。

  

  ヘンリー・マンシーニcom.  http://www.henrymancini.com/

     IMDbのヘンリー・マンシーニのデータ http://us.imdb.com/name/nm0000049/

   ウェンディ・カルロス com. http://www.wendycarlos.com/

  刑事コロンボのオープニング・テーマ http://www.youtube.com/watch?v=7-hbLGqmzsw&feature=related

  Dr.ボブ・モーグによるミニモーグの説明 http://www.youtube.com/watch?v=0z0cbMkOvY0&feature=related

  ボブ・モーグ・オフィシャル・サイト http://www.bobmoog.com/

  キース・エマーソンcom.の写真、オートバイに乗るボブ・モーグ博士 http://www.keithemerson.com/Gallery/GalleryMain.html

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 「おくりびと」が、アカデミー賞をとった。わたしがみるジャンルの映画じゃないが、めでたいことだ。テレビ・ニュースが大騒ぎしていたが、それもわかる。アメリカで、日本映画が賞をとるのは、いいことだ。ちょっとちがうが、伊丹十三監督に「お葬式」(1984年) という作品があった。葬儀は、わかりやすいテーマだ。

 

 しかし、わたしはすこしまえ、孤独死の叔母をたったひとりで送ってきた。テレビのニュースのなか、演技とはいえ、朝から納棺の映像をみるのは、つらい。悲しみもあるが、強い臭気もまたリアルによみがえる。

 

 (伊丹十三作品では、わたしは、「タンポポ」が好きだ。宮本信子の流行らないラーメン屋を、トラック運転手の山崎努がたてなおして繁盛させる、というストーリーだった。いまや世界の渡辺謙が、まだひどく若くて線が細い。山崎努の若い相棒で、二枚目半の役だ)。


Ain't No Sunshine と Green Onions の関係

2009-02-23 | 日記・エッセイ・コラム
Ain't No Sunshine: The Best of Bill Withers Ain't No Sunshine: The Best of Bill Withers
グリーン・オニオンズ グリーン・オニオンズ

 Azuさんがギターを弾いて Youtube に投稿した映像があるので、まずみてほしい。曲は、1971年のビル・ウィザーズのヒット曲 Ain't No Sunshine だ。http://www.youtube.com/watch?v=qfH4mS0Pb50&feature=channel_page

 

 Ain't No Sunshine は、「消えゆく太陽」とか邦題がついていた。日本ではそれほど売れなかったが、全米では売れた。さまざまなカバー・ヴァージョンがある。ポール・マッカートニーもボブ・マーレーもスティングもやってる。現在、ローリングストーン誌が選ぶ最も重要な500曲の280位にランクされている。ビル・ウィザースは、工員をやりながら曲をつくり、デモテープを送りつづけて、やっと33才のときにヒットした曲なのだ。ギターをスティーヴン・スティルス Stephen Stills が弾いている。プロデューサーが、ブッカー・T・ジョーンズだ。

 

 ブッカー・T・ジョーンズは、オルガン、ピアノのプレイヤーで、作曲家、アレンジャーだ。スティーヴ・クロッパーとMGsを結成して、大ヒット曲「グリーン・オニオンズ Green Onions」を作曲している。1962年、ブッカー・T・ジョーンズは、なんと18才のまだハイスクールの学生なのだ。「グリーン・オニオンズ」は、いまもCMやドラマにつかわれる馴染みの曲だろう。このヒットのあと、ブッカー・T・ジョーンズは、インディアナ大学に入学して、クラシックの作曲と編曲を勉強している。週末にはメンフィスに帰り、スタックス・レコードのセッション・マンをつづけていた。

 

 ブッカー・T&the MGsは、スタックス・レコードのハウス・バンドとして、オーティス・レディング、ウイルソン・ピケット、サム&デイブ、アルバート・キングなど、さまざまのミュージシャンのレコーディングに参加している。クリームがカバーして有名になった、アルバート・キングの Born Under A Bad Sign は、ブッカー・T・ジョーンズが作曲している。

スターダスト 30周年記念盤 スターダスト 30周年記念盤

 ブッカー・T・ジョーンズが70年代にプロデュースしたミュージシャンは、ビル・ウイザースのほかにも、リタ・クーリッジ、ウイリー・ネルソン、スティーヴン・スティルス、ニール・ヤング、レイ・チャールズなど数多い。わたしは、ウイリー・ネルソンがスタンダードを歌ったアルバム「スターダスト Stardust 」(1978年)が、とくに好きだった。

 

 ブッカー・T&the MGsのギター、スティーヴ・クロッパーは、オーティス・レディングの名曲「ドッグ・オブ・ザ・ベイ」をオーティスといっしょにつくっている。スティーヴ・クロッパーとベースのドナルド・ダック・ダンは、1978年にブルース・ブラザーズ・バンドに参加するから、日本のブルースファンにもなじみのミュージシャンだろう。

  

 ブッカー・T&MGsが、レコーディングで活躍したスタックス・レコードは、60年代、70年代のもっとも重要なブラック・ミュージックのレーベルのひとつだが、この黒人音楽専門のような真っ黒いレーベルは、ふたりの白人によって設立された。これが、おもしろい。ジム・スチュワートとエステル・アクストンが共同経営をしていた。弟と年の離れた姉だ。

 

 フィドルのプレイヤーだった弟がはじめたインディーズ・レコードメーカーを、姉が手伝って経営して、20世紀の音楽史にのこる歴史的なレーベルになった。初期のころ(サテライト・レコードの名だった)は、カントリー&ウエスタンも手がけたようだが、メンフィスの黒人街の劇場跡をスタジオにして、ブラック・ミュージックのレコード制作に方向を変えた。じつに先見性がある姉弟だ。最初の成功は、ルーファス・トーマスだった。そしてオーティス・レディングが世界的に大ヒットした。

 レーベル名、STAX は、ジム・STewert とエステル・AXton、オーナー 姉弟の名前からとっている。姓がちがうのは、姉が結婚しているからだ。

 

 (モダン・ジャズの名門レーベル、ブルーノートは、アルフレッド・ライオンが設立して、友人の写真家フランシス・ウルフと経営していた。このふたりもドイツ出身の白人だ)。

 

 

 ブッカー・T&the MGs Green Onions http://www.youtube.com/watch?v=ar-Z_l907DY

   ビル・ウイザース Ain't No Sunshine http://www.youtube.com/watch?v=tIdIqbv7SPo

   ブッカー・T・ジョーンズcom. http://www.bookert.com/

   スティーヴ・クロッパー・オフィシャル・サイト http://www.playitsteve.com/

  ウイリー・ネルソン Stardust http://www.youtube.com/watch?v=TvQn7lhtkyI

 スタックス・ミュージアム http://www.soulsvilleusa.com/

 


マイク・ブルームフィールドは、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドのギターだった

2009-02-22 | 日記・エッセイ・コラム
The Paul Butterfield Blues Band The Paul Butterfield Blues Band
East-West East-West

 ブルースを復興して、白人社会の若者に紹介した偉大な先駆者は、イギリスにアレクシス・コーナーがいれば、アメリカでは、ポール・バターフィールドだろうか。シカゴ大学の学生、エルビン・ビショップ、マーク・ナフタリンとつくったポール・バターフィールド・ブルース・バンドがファースト・アルバムを発売したのは、1965年のことだ。リード・ギターに、マイク・ブルームフィールドをむかえた。リズムセクションは、ハウリン・ウルフ・バンドのメンバーだった、ドラムスのサム・レイとベースのジェローム・アーノルド、黒人だ。

 

 このアルバムでは、エルモア・ジェームス、マディー・ウォーターズ、ジュニア・パーカー、ウィリー・ディクソン、リトル・ウォーターなどモダン・ブルースの巨匠たちの曲をとりあげて演奏している。日本の国内版が注目されたのは、わたしがレコード屋になっていたから、1968年以降のことだ。日本ビクターから発売になっていた。売れるようになったのは、CBSソニーの、アル・クーパーとマイク・ブルームフィールドとのセッション、「フィルモアの奇跡」が発売になって大ヒットしてからのような気がする。

 

 エルモア・ジェームスは、ロバート・ジョンソンの曲 Dust My Bloom を演奏したスライド・ギターが有名だろう。http://www.youtube.com/watch?v=aKo80b-QfK0

 

 ポール・バターフィールド・ブルース・バンド Driftin' Blues (Monterey 1967) http://www.youtube.com/watch?v=e3LEhfbKCSc&feature=related

 マイク・ブルームフィールド・オフィシャル・サイト http://www.mikebloomfield.com/

 


クロスロードは、ロバート・ジョンソン

2009-02-21 | 日記・エッセイ・コラム
The Complete Recordings The Complete Recordings
King of the Delta Blues Singers, Vol. 2 King of the Delta Blues Singers, Vol. 2
King of the Delta Blues Singers King of the Delta Blues Singers

  ブルース史、ロック史にとって最も神話的な存在は、なんといってもロバート・ジョンソン Robert Johnson だろう。27年の生涯で、たった3枚の写真と29曲を残しただけのミシシッピー・デルタのブルースマンだ。ミステリアスな生涯と、その音楽の影響力は、まさに伝説にふさわしい。

 
 そして、人妻に手をだして、毒殺されたらしいという死に方もブルースマンらしい。(のちに妹が、病死だった、とインタビューでいっているようだ。しかし、ウイスキーを飲んだあと、苦しんでいる現場にいた、というミュージシャンの証言も残っている。その翌日亡くなったという)。

 
 この記事の冒頭に紹介しているLPレコード "King of The Delta Blues Singers" が、その後のロック史に大きな意味をもつ。1960年の発売だ。ロバート・ジョンソンが1936年と37年に録音していた16曲がはじめてLPレコード化されたのだ。最初の曲が、「クロスロード・ブルース」だった。クリームのカバーで名曲の仲間入りする曲だ。

 
 このLPが発売された直後の1961年には、アレシス・コーナー Alexis Korner が結成したブルース・インコーポレイテッドに、ジョン・メイオールが参加する。イギリス・ブルースバンドの黎明期だ。このあと、ジョン・メイオールは、ブルース・ブレーカーズ John Mayall & The Bluesbreakersを結成する。1965年には若いエリック・クラプトンが参加する。

 

 アレシス・コーナーのバンドには、ジョン・メイオールのほかにも、クリームのジョック・ブルース、ジンジャー・ベイカー、ローリング・ストンズのチャーリー・ワッツ、ブライアン・ジョンズ、コロシアムを結成するジョン・ヘクトール・スミス、ロング・ジョン・バルドリー、グラハム・ボンドなどが参加してした。60年代後半、イギリス・ロックの隆盛をつくる、そうそうたるミュージシャンたちだ。ジミー・ペイジやロッド・スチィアートなどもアレシス・コーナーとのセッションに参加している。いわは、イギリスのブルース・スクールの様相だったのだ。アニマルズ、ローリング・ストンズ、ヤードバーズ、クリーム、フェイセスなどの世界的な成功は、イギリス・ブルースの師であるアレシス・コーナーの存在なくしてあり得ないだろう。

 

 ロバート・ジョンソンの "King of The Delta Blues Singers Vol.2" には、ローリング・ストンズのカバーで有名になった "love In Vain" が入っている。このアルバムがCBSソニーから発売になったのは、1970年だった。わたしは、じぶんで買った。(レコード屋もじぶんでお金をだして買うこともある。いつもテスト盤を当てにするわけじゃないのだ)。

 トリビュート・アルバムは、ピーター・グリーン「The Robert Johnson Songbook」(1998年)、「Me And The Devil」(2001年)、グラハム・ボンド「At The Crossroads」(2001年)、そして、クラプトンが、「Me And Mr.Johnson」を2006年に発表している。ピーター・グリーンは、フリートウッドマックのリーダー、サンタナがカバーしてヒットした「ブラック・マジック・ウーマン」の作者。

 

 ロバート・ジョンソン Sweet Home  Chicago http://www.youtube.com/watch?v=O8hqGu-leFc&feature=related

  ブルース・ブラザーズSweet Home  Chicago  http://www.youtube.com/watch?v=GmiFZH98_Lw&feature=related

 ロバート・ジョンソン Love In Vain http://www.youtube.com/watch?v=DRIgWqXI79Y&feature=related

  ローリング・ストンズ Love In Vain http://www.youtube.com/watch?v=nmVW94UWgBg&feature=related

 ロバート・ジョンソン Crossroad http://www.youtube.com/watch?v=Yd60nI4sa9A&feature=related

 クリーム Crossroad http://www.youtube.com/watch?v=0lxLv8Vu2k8

 


ストーミー・マンデーは、T-ボーン・ウォーカーの曲

2009-02-20 | 日記・エッセイ・コラム
モダン・ブルース・ギターの父 モダン・ブルース・ギターの父

 隣りの市の図書館利用カードをつくった。住んでる市の中央図書館より、隣りの市の中央図書館のほうが断然近い。帯広でいうと、札内に住んでる幕別町民、あるいは木野に住む音更町民のようなものだ。町立図書館より帯広市の図書館が近いはずだ。

 職場が、隣りの市にあるなら文句なくつくれるのだが……。先週のこと、「隣りの市民だが、貸し出しカードをつくれないか?」と、ダメモトで、聞いてみた。すると、隣の市民でも近接したところに住んでいれば、多少制限があるが利用できます、という。聞いてみるものだ。すぐに申請をして、今夜、カードができた。

 

 きっと日本中がおなじような状態だったはずだが、50年代60年代に北海道の町に育って、まともにブラック・ミュージックを聴くチャンスはなかった。テレビはもちろんだが、ラジオで流れることはない。ジャズは、ジャズ喫茶にいく、という手があった。しかし、HBCやSTVラジオで、R&Bやブルースを聴くことは難しかった。レコード屋にも在庫がなかった。仕入れても売れないのだ。レイ・チャールズか、モータウン・レーベルがヒットするだけだった。

 
 そんなわけで、電氣屋・レコード屋の孫のわたしも、ジョン・リー・フッカーを聴いたのは、じぶんがレコード屋になってからだった。そして、シカゴ・ブルースをまともに聴いたのもそのころ、1968年だった。キングレコードから発売になった2枚組のアンソロジー「シカゴブルースのすべて」だ。オーティス・ラッシュやバディ・ガイ、マジック・サム、メンフィス・スリム、エルモア・ジェームス、オーティス・スパンなんどの存在をはじめて知った。そして、T-ボーン・ウォーカーを知った。

 
 60年代の終わり、3人のキングのレコードも発売されるようになった。フレディー・キング、アルバート・キング、B.B.キングだ。ぞくぞくと発売になるブルースのレコードを聴いて、いままで聴いていたイギリスやアメリカのロックは、ブラック・ミュージックを淡泊に漂白したコピーだったんだ、と気づいて、ショックだった。

 
 T-ボーン・ウォーカーは、1910年生まれのブルースのギタリストで、作曲家、シンガーだ。オールマン・ブラザーズ・バンドが、フィルモアのライブでやっていた名曲「ストーミー・マンデー Call It Stormy Monday」の作者だ。「ストーミー・マンデー」は、なんと1947年に発表された曲だ。ジミ・ヘンが少年時代、T-ボーン・ウォーカーをアイドルにしてコピーをした、といわれる。ジミ・ヘンが、ギターを背中で弾いたり、歯で弾くのは、T-ボーンの影響なのだ。3人のキングも、T-ボーン・ウォーカーの影響なくしてあり得ない。チャック・ベリーもまた少年のとき、T-ボーンをコピーしたという。そのギターのスタイルも曲もボーカルも、いま聴いてもじつに新鮮だ。

 

 ジミ・ヘンドリックスが、T-ボーン・ウォーカーをアイドルにしていたとは、おもしろい因縁だ。ジミ・ヘンの祖母は、チェロキー族だが、T-ボーン・ウォーカーもまたチェロキーの血が入っているのだ。ジミ・ヘンは、それを知っていてシンパシーを感じたのだろうか?

   

 T-ボーン・ウォーカー Stormy Monday http://www.youtube.com/watch?v=hVR8lg1YLuc&feature=related

 T-ボーン・ウォーカー Live in UK 1966 http://www.youtube.com/watch?v=pFqK6PBq-hA&feature=related

   T-ボーン・ウォーカー Don't Throw Your Love On Me So Strong http://www.youtube.com/watch?v=V1xvx0UHa0A&feature=related

 

 1970年代のはじめのことだ。ヤマハのバンド・コンテストで高校生のバンドが、「ストーミー・マンデー」を演奏した。楽屋のモニターで聴いていたゲスト・バンドのソウル・パワーが、本格的なブルースを演奏するバンドがあるので、あわてて舞台そでに来て見ていた、という話がある。その高校生バンドは、帯広北高のバンドで、東川佳人くんがギター、田中みのるくん、富川くんがメンバーだった。舞台そでで見ていたソウル・パワーのボーカルが、沢チンだ。もちろん、ベースがチャーさんで、バンマスは、ギターの大塚さんだ。札幌パワーハウスの社長・大塚さんも、背中でギターを弾き、歯で弾いた。体型的には、3人のキングにちかい。

 

 アルバート・キング Born Under A Bad Sign http://www.youtube.com/watch?v=BKY8KIt9kqc&feature=related

   フレディー・キング Hide Away http://www.youtube.com/watch?v=aimj-mTeFKA&feature=related

 フレディー・キング Ain't No Sunshine When She's Gone http://www.youtube.com/watch?v=16AnGcB7MHA&feature=related

  B.B.キング B.B. King on Ralph Gleason's Jazz Casual 1968 http://www.youtube.com/watch?v=tBWcSc3nPow


わたしにおけるBoom Boom Boom と浜田省吾の関係

2009-02-19 | 日記・エッセイ・コラム
Boom Boom and Other Classics Boom Boom and Other Classics

 エディ・コクランとバディー・ホリーが、ヨーロッパ・ツアーで歓迎され、のちのイギリスのバンドに大きな影響をあたえた、と書いた。おなじように60年代初期にヨーロッパ・ツアーをおこなって、イギリスのロックの隆盛に大いに貢献したブルースマンがいる。ジョン・リー・フッカーだ。

 

 わたしは、中学生のとき、アニマルズが好きだった。しかし、アニマルズの歌う「ブーン・ブーン・ブーン Boom Boom Boom」が、ジョン・リー・フッカーの曲だとは知らなかった。当時は、ジョン・リー・フッカーの存在も知らなかったのだ。レコード屋になってから、ABCレーベルのジョン・リー・フッカーのアルバムを聴いたのが最初だった。それ以前は、アニマルズとか、ローリングストーンなどをとおしてジョン・リー・フッカーを聴いていたことになる。

 

 とくにアニマルズのエリック・バートンが好きだったから、日本のモップスが好きになった。モップスは、アニマルズのカバーをよくやっていたのだ。ザ・モップスのドラマーが鈴木幹治さん、ギターが星勝さんだ。鈴木幹治さんは、浜田省吾のプロデューサー、星勝さんは、浜田省吾のアレンジャーだ。のちに、わたし自身でモップスのプロモーターになって北海道ツアーを主催したが、学生のときは、ただのファンだったのだ。

 

 ジョン・リー・フッカーは、1917年生まれのアメリカ南部のブルースマンだが、独特のスタイルは、白人のロック少年たちに絶大な影響をあたえた。アメリカではキャンド・ヒートのボブ・ヘイト、イギリスではTレックスのマーク・ボランなどが、ジョン・リー・フッカーの直系のロッカーだろう。

 

 ジョン・リー・フッカー Boom Boom Boom http://www.youtube.com/watch?v=2EHWujXubNM&feature=related

  ジョン・リー・フッカー Boom Boom Boom http://www.youtube.com/watch?v=rOyj4ciJk34&feature=related

  アニマルズ Boom Boom Boom  http://www.youtube.com/watch?v=aPd5xltuAbQ

 ジョン・リー・フッカー Boogie Chillen http://www.youtube.com/watch?v=-WGdtV6Af2U&feature=related

 

 ジョン・リー・フッカーcom. http://www.johnleehooker.com/

 ボブ・ヘイトnet. http://bobhite.net/


エディ・コクランとバディー・ホリーは、21才と22才で亡くなった

2009-02-18 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg2835  満開の夜桜。河津桜だろうか。

Cimg1353  旧江戸川のある水門。新川(船堀川)の入り口だ。新川は、1629年(寛永6年)に掘られた運河で、江戸川と荒川を直線的につないでいた。新川をのぼって荒川を渡った船は、小名木川に入り、隅田川に達するわけだ。寛永6年とは、三代将軍・家光の治世だが、父秀忠もまだ生きている。仙台藩主一代目、伊達政宗が健在だ。そんな時代だ。Cimg2827_2

 江戸市中から、隅田川、荒川、江戸川の三本の大川を横断して、直線的に、浦安、行徳の海岸にでることができる航路だった。房総からの物流の幹線だった。いまの都営新宿線と東京メトロ東西線のあいだを、ほとんど平行して走る運河のルートだ。江戸時代の土木工事は、感動ものだ。

 

 ビートたけしが、中川昭一さんをちゃかしていた。おまえにはいわれたくない、の最たる人間がたけしだろう。フライデーに、21才の愛人の専門学校生を暴露されて激怒して、深夜、酔って、手下のチンピラ芸人を引き連れて講談社におしかけ、編集者たちに怪我をさせたのは、おまえだろ。懲役(執行猶予2年)を、控訴しなかったはずだが。

 

 そのあとも、酒飲んで、原チャリで自損事故を起こして、顔面をつぶして番組に穴をあけ、たくさんの人やスポンサーに迷惑をかけたんじゃないのか? 他人の失敗をちゃかす資格があるのか? つまらん映画つくって、「世界の北野」だのとおだてられ、テレビ局の茶坊主たちに、まったくおもしろくもないギャグを笑ってもらって、じぶんが偉いと錯覚して、もうなにも見えないのだろう。

 

 テレビとスポーツ新聞は、たけしの毒舌炸裂とか、はしゃいでいるが、あれは毒舌とはいわない。すでに責任をとって辞めているのだ。辞任したあとで言っちゃぁダメだ。すでに謝り、腹を切ったのだ。弱い立場になってしまった人に、うしろから石を投げる。人間として最低の言動だ。芸人がいちばんやっちゃいけないことだ。世界の巨匠で、もう芸人ではないカスか。

 

カモン・エヴリバディ~ベスト・オブ・エディ・コクラン ベスト・オブ・エディ・コクラン

  

 サン・レコードのロックンローラーのことを書いたから、エディ・コクランとバディー・ホリーとジーン・ヴィンセントのことを書かなくちゃ片手おちだ。(片手落ちも差別用語だということで、放送禁止用語らしい。くだらない)。この3人は、エルビス・プレスリーとほとんど同じ年令だ。(エディ・コクランだけ3才若い)。カントリーを演奏していたが、プレスリーに触発されて、ロックンロールの曲をつくるようになった。

 

 この3人がロックの歴史で注目すべきは、ヨーロッパ、とくにイギリスの若者に対する影響だろう。アメリカでヒットすると、3人は海外公演にでた。イギリスでの人気は、ツアーの効果だろう。のちにビートルズに代表されるイギリスのバンドが、エディ・コクランとバディー・ホリーを好んでコピーしたのだ。

 (エルビス・プレスリーは、なぜか生涯、カナダ以外の海外公演をやらなかった。じぶんのジェット機をもっていたわけだから、飛行機嫌いということではないようだ)。

 

 エディ・コクランは、「サマータイム・ブルース Summertime Blues」で知られているだろう。ザ・フーのカバーが有名だ。「カモン・エヴリバディ C'mon Everybody」も70年代によくカバーされた。わたしは、中学生のとき、「バルコニーに座って Sittin' in the Balcony」が好きだった。

 

 バディー・ホリーは、「ペギー・スー Peggy Sue」だろうか。エディ・コクランもバディー・ホリーも、リアルタイムでは日本では売れなかった。よく知られるようになるのは、ビートルズやホリーズなど、つぎの世代のロッカーがカバーするようになってからだ。しかし、ジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ Be Bop A Lula」は、日本でもヒットした。日本のロカビリー歌手も好んで歌っていた。
 
 

 エディ・コクランとジーン・ヴィンセントは、イギリス・ツアー中に交通事故にあって、エディ・コクランは亡くなる。1960年のこと、まだ21才だった。その前年、1959年には、飛行機事故でバディー・ホリーが亡くなっている。22才だ。この二人がもうすこし長生きしてくれると、もっとたくさんの名曲を残してくれただろう。ジーン・ヴィンセントは、60年代後半のロックの大きな流れに乗れず、1971年に病死する。36才だ。

 Azuさんがコメントで紹介してくれた動画 エディ・コクラン School Days http://www.youtube.com/watch?v=fQL1KN2zCsM

 エディ・コクラン C'mon Everybody  http://www.youtube.com/watch?v=lyU5bsfRdpE&feature=related

 エディ・コクラン Summertime Blues http://www.youtube.com/watch?v=Vm2Mdma2dXw&feature=related

 バディー・ホリー&ザ・クリケッツ Peggy Sue http://www.youtube.com/watch?v=WQiIMuOKIzY

  バディー・ホリー&ザ・クリケッツcom. http://www.buddyhollyandthecrickets.com/

 ジーン・ヴィンセント Be Bop A Lula http://www.youtube.com/watch?v=vDU9FP5_B2M&feature=related

 

  東京・江東区のバラバラ殺人事件で、東京地裁の平出喜一裁判長は、無期懲役の判決を下した。日本には死刑制度がある、ということを納得して裁判官になったはずだ。死刑判決を下す勇気がないのなら、裁判官である資格はない。即刻やめて、死刑反対の弁護士として、殺人犯の助命活動をすればいい話だ。それが法律家としての道だろう。その道を選んでる弁護士はたくさんいる。自分個人のイデオロギーで法を司ることなど、法治国家の裁判官として許されることではないだろう。

  

 


中川昭一さんの大臣辞任は、残念だ

2009-02-17 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg2825_2  東京の江東区にあるジンギスカン屋、店頭のメニュー。北海道のひとは、このメニューをどう思うのか、興味がある。

 

 

 中川昭一さんは辞任した。ロイターでは、G7でじつにいい仕事をした、世界は評価している、と伝えている。ヒラリー・クリントン国務長官も、同様のコメントをしていた。昭一さんの辞任は避けられないことだが、テレビ・新聞は、よれよれの記者会見のまえに、G7で日本のため、世界経済のために、なにをやったのかを伝えるべきだろう。嫌韓、嫌中国の政治家は、どんどんマスコミにつぶされていく。

 
 去年からずっと、週刊誌の選挙予想でも、「中川昭一危険水域、民主が強いか?」と、じぶんたちの願望を記事にして、煽っていた。中川昭一つぶしのプロパガンダだと、非常に不快だった。テレビ、新聞、出版界は、コリアン左翼と親中派の巣窟だから、昭一さんとか、安倍晋三のように、歴史教科書問題などで、外国勢力に迎合しない政治家を執拗につぶしにかかる。2005年にあった、朝日新聞とテレビ朝日からの攻撃はすさまじかった。リベラルという偽善の看板をあげている反日、売国のれんちゅうが、きょうの昭一さんの辞任を、手をたたいて喜んでいることだろう。

 
 圧倒的に選挙に強いので、汚れ仕事にかかわらず、高潔をたもってこられた。そんな政治家は希有だろう。能力的にも、総理になるべき人だ。日本にとっても、十勝にとっても大事な政治家だから、十勝の支持者のひとたちは、結束して、中川昭一さんを守ってほしい。つぎの選挙で圧勝させるのだ。

 

 クリントン国務長官が東大でタウンミーティングをやっていた。東大生が質問するのだが、東大生の英語は、ひどすぎる。いっぽう、来日してからの記者会見で話すクリントン国務長官の話し方はみごとだ。じつにゆっくり、はっきり、やさしい英語で話している。日本人の記者とテレビの視聴者の英語力に配慮しているのだろう。正確に伝わらなければ、アメリカ国務長官がコメントする意味がない。そして、じつに知性を感じさせる話し方だ。さすが、有能な弁護士で、元ファーストレディーで、上院議員で、長い大統領選を戦っただけはある。スピーチ力もみごとだが、存在感と眼力はすごい。しかし、まあ、世界不況でも傷が浅いほうの日本に、アメリカ国債をごっそり買わせる魂胆なんだろうが。


ハウリン・ウルフも、サン・レコードだった

2009-02-16 | 日記・エッセイ・コラム

Blue_suede_shoes  昨夜のブログ、冒頭の写真のレコード「ミリオン・ダラー・セッション」は、サン・レコードのスタジオに集まった、エルビス・プレスリー、カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、ジョニー・キャッシュ、四人のジャム・セッションだ。1956年12月4日火曜日のことだ。

 

 カール・パーキンスは、「ブルー・スエード・シューズ」の作者で、最初にサン・レコードでこのシングルを発売して南部でヒットさせた。1956年1月のことだ。そのあと8月、エルビス・プレスリーが、RCA・レコードからカバーのバージョンを発売して、全米で大ヒットになった。

 

 サン・レコードは、ラジオのDJだったサム・フィリップスが、1950年、テネシー州メンフィスにつくったローカルのレコードメーカーだ。サム・フィリップスがみいだして売り出した最大のロック・スターが、エルビス・プレスリーだった。1954年ことだ。

 

 サン・レコードで5枚のシングルを発売して、プレスリーは、55 年11月、大手のRCAレコードと契約した。サム・フィリップスには、RCAが3万5千ドルの移籍金を提示した、といわれているから、当時では大金だ。

 

 プレスリー、カール・パーキンス、「火の玉ロック」のジェリー・リー・ルイス、ジョニー・キャッシュ、ロイ・オービソンなど、白人のロッカー、カントリー&ウエスタンのミュージシャンだけでじゃなく、サム・フィリップスは、黒人のブルース、R&Bのミュージシャンも発掘してサン・レコードから発売している。アイク&ティナ・ターナーのアイク・ターナー、ジェームス・コットン、ルーファス・トーマス、リトル・ミルトン、そして、B.B.キングとハウリン・ウルフだ。黒人のレーベル、チェスのまえに、白人のプロデューサー、サム・フィリップスが、若いハウリン・ウルフを録音している。

 

 サム・フィリップスは、テープをつかったエコーを好んでつかったが、オーバー・ダビングとか、ボーカルとインストルメンタルの別録音を嫌っていたようだ。ボーカルとバンドといっしょに録音する、いわゆる、一発どりだ。(レス・ポールがすでに多重録音をやっていたわけだから、サム・フィリップスが知らないテクニックではないはずだ。スタジオのなかでも、よりライブっぽい生々しさが好きだったのだろうか。ミュージシャンの演奏にはあまり介入しないで自由にやらせる、というプロデューサーだったようだ)。エルビス・プレスリーは、RCAに移っても、20年以上、1977年、42才で亡くなるまで、700曲を超える曲の録音で、そのサン・レコードの、一発取りのレコーディング方式を変えなかったという。

 

 (伝説だが、日本では、石原裕次郎が、レコーディングは、オーケストラといっしょに取る一発どりで、それも、テイク1 しかやらなかった、といわれている。ビールを飲みながら、一回歌って、お疲れ! と帰る。石原裕次郎だから成立する伝説だろう。エルビス・プレスリーはテイク1 ということはないようだ。生真面目なひとだから、納得いくまでなんども歌う、というはなしはある)。

 

 ロック・バンドの楽器編成、ギター、ベース、ドラム、ボーカル&リズムギターという、いまではあたりまえの形は、サム・フィリップスが、エリビス・プレスリーのためにつくったバンドが最初だろう。これは、ごく経済的な、金銭的な問題からうまれたシンプルな編成だったにちがいない。それまでのロカビリーの編成は、ファッツ・ドミノやリトル・リチャードのバンドをみるとわかるように、ジャズのビッグバンドにちかい。つまり、大きなボールルームのダンス・パーティーのためのバンド、ダンスバンドから発展している。

 

 PAもまともにない時代、体育館のような大きなホールで、たくさんの観衆を踊らせるために演奏する。音量的には楽器の数で勝負するしかない。だから、金管中心の大編成になる。トランペット、サックス群が中心で、ピアノが大きな役割を担う。ドラムス、ウッドベース、ギターは、リズムセクションだ。これが白人バンドも黒人バンドも、ダンス・バンドの編成だった。初期の黒人ロッカーも、この編成を踏襲した。

 

 サム・フィリップスは、この人件費のかかるバンドを使えなかったのか、シンプルな編成にした。それまでのハンク・ウイリアムスなどカントリー&ウエスタン・バンドの編成から、フィドルとスチールギターをはずして、リードギターとドラムスとベースだけにした。黒人のブルースバンドの形に近い。コストのこともあるが、このシンプルな編成だと、管楽器の大きな音がない分、エルビス・プレスリーのボーカルを前面にだすことができる。客を、踊るということより、プレスリーのパフォーマンスに集中させることができる。

 

 そうして、サム・フィリップスが選んだバックのメンバーがすばらしかった。サム・フィリップスの意図を明確に理解していた。バックバンドとはなんであるか、知っていた。エルビス・プレスリーをかっこよくみせる演奏に徹底していた。ギターがスッコティー・ムーア、ベースはビル・ブラック、ドラムスがD.J.フォンタナだ。エルビスが、サンからRCAに移っても、この3人がバンクについた。ロックンロールの名手、名職人たちだ。

 

 エルビス・プレスリー Heartbreak Hotel  http://www.youtube.com/watch?v=_1Qo1eaWF8c

 ハウリン・ウルフ Shake It For Me http://www.youtube.com/watch?v=ux6N00CwudA&feature=related

 ハウリン・ウルフ How Many More Years http://www.youtube.com/watch?v=4Ou-6A3MKow&feature=related

 ハウリン・ウルフ Spoonful http://www.youtube.com/watch?v=6TwEYuues6Y&feature=related

 

 サン・スタジオcom. http://www.sunstudio.com/home-alt/

Cimg2826 小名木川 荒川から隅田川まで江戸時代に掘った運河。行徳の塩田から江戸城まで塩を運ぶために作られた。この川を下って、松尾芭蕉も旅立っていった。

Cimg2829 公園の鴨 飼ってるわけじゃない。野性だ。しかし、人が近づいても逃げない。寄ってくる。公園のハト化してる。

 

 

 中川昭一さんの醜態は、残念なことだ。(酒での失敗が、人生のすべての、大酒飲みのわたしとしては、同情以上のシンパーを感じるが)。今夜、首相が続投、留任を指示しても、あすから野党の攻撃にさらされる。すでにマスコミの餌食にもなっている。

 辞任するのがいいだろう。首相を守るより、じぶんを守ることだ。麻生に忠誠をつくして、ズタボロになることもないだろう。まれにみる高潔の政治家で、冷静な国家意識をもっている人、国粋、愛国の人のようだ。内閣からはなれ、利権の政治権力の闘争とは違う、真の保守党をつくる研究をしてみてはどうだろう。評論家の櫻井よしこさんと、中川昭一さんの意見は、けっこうわたしが同感できることが多い。もちろん、帯広が選挙区という親近感は大きい。(むかし、ラーメン屋の北京亭で、なんどか隣りになったこともあるような気もする)。 


サム・フィリップスがプロデュースしたのは、プレスリーだけじゃない

2009-02-15 | 日記・エッセイ・コラム
The Complete Million Dollar Quartet

The Complete Million Dollar Quartet

 ロックバンドの楽器編成のことと、エルビス・プレスリーをみつけた、サン・レコードのサム・フィリップスのことを書こうと思ったのだが、なぜか、突然、帯広のラーメン屋を思い出した。

 

 もう35年以上もむかしの北海道のラーメンばなしだ。帯広信用金庫・駅前店の南隣り、ラーメンの「北京亭」に、小ラーメンがあった。小ラーメンは、子供用のような小さいどんぶりのラーメンだ。ここには、醤油ラーメンしかない。「ラーメン」「ラーメン小」と、壁に書いてあるだけだ。ほかにメニューはない。ライスもない。そうだ。ゆで玉子があった。ゆで玉子とラーメンだ。たまに、はじめてのお客が、「味噌ラーメン!」なんて注文すると、おばさんは返事もしない。

 
 たのむと、チャーシュー麺もつくってくれた。それができあがると驚く。チャーシューで、まったく麺が見えないのだ。重ねたチャーシューで覆われている。でも、そのチャーシューは、とても薄い。だから、見た目の量のわりに肉のグラム数は多くないだろう。しかし、そんなことは問題じゃない。この向こうが透けて見えるような、限りなく薄いチャーシューがまた北京亭ラーメンのうまさのひとつだった。フグ刺しの、あの感じだ。

 
 シナチクもまた、細く薄く切られていた。あるときいちど、おばさんが仕込みをしている早い時間に行ってしまった。外が雨だったので、店に入れてもらって、仕込みをみていた。A4サイズのノートのようなシナチクの原料を、あの北京亭ラーメンの、千切りダイコンのようなシナチクに薄く繊細に切っていく。きっと、実利的、商売的に、儲けるため、利益をあげるために、見た目、量があるようにする、そのためのなのだろう。商売だ。

 
 しかし、その手をかけた細いシナチクや、限りなく薄いチャーシューが好きだった。厚い大きな塊のようなチャーシューが、ドーンと麺に乗っているより、その同じグラムのチャーシューが、10枚に、紙のように薄くスライスされて、スープに浮いているほうが、わたしは、好きだ。

 椅子5、6個くらいのカウンターだけの小さい、古い店だったが、おばさんには、ある気品があった。きっと、充分儲けているという自信が、あの気品のもとだったのだろう。

 

 豚骨骨髄の濃厚スープ、ラードをたっぷりいれたラーメンだが、好きだった。とくに、二日酔いで、朝から何も食えない、まったく食欲がない、吐き気だけだ。食べなきゃな、でもラーメン一杯は、吐くかな。そんなときの午後、北京亭の、小ラーメンを食べると覚醒した。「今夜も飲むぞ!」

 

 

 


バレンタインデーは、チェット・ベイカーかな

2009-02-14 | 日記・エッセイ・コラム
My Funny Valentine My Funny Valentine

 バレンタインデーだ。ジャズのスタンダード My Funny Valentine のヴァレンタインは、好きな女の子の名前。おかしな(funny)顔だが、大好きなぼくの芸術品、そのままでいて、そうすれば毎日がヴァレンタインデーだ、というような他愛もないラブソングで、1937年のブロードウエイ・ミュージカルBabes In My Arms の挿入歌がオリジナルだ。作者は、リチャード・ロジャース&ロレンツ・ハート。

 
 なぜか、50年代の若いジャズ・プレイヤーたちが好んでカバーした。マイルス・デイビスの演奏も有名だが、ジャズ界のジェームス・ディーンといわれたチェット・ベイカーが、アルバムChet Baker Sings で歌って、これが売れた。発売は1956年のことだ。そして、ジャズ・ミュージシャンがこぞって演奏し、レコーディングするスタンダードになった。 

 
 チェット・ベイカーのプロのキャリアは、チャーリー・パーカーのグループからはじまる。小さいときは、父親にトロンボーンとトランペットを教わり、教会で歌っていた。そしてアメリカ軍に入隊して音楽隊に入る。除隊後、プロのジャズ・ミュージシャンになるわけだ。

 
 チャーリー・パーカーのグループのあと、ジェリー・マリガンのクワルテットに加入する。1952年のことだ。My Funny Valentineが入っていて、いまも歴史的名盤して聞かれる、アルバム"Chet Baker Sings "は、ジェリー・マリガンがプロデュースしている。

 

 トランペットの演奏はもちろんだが、その気をぬいたような、ちょっと冷淡で、醒めた独特の歌い方は、若いジャズ・ファンの心をつかんだ。新しい。クールだったのだ。そして、ボサノバのボーカル・スタイルに影響をあたえた。ジョアン・ジルベルトの歌い方は、あきらかにチェット・ベイカーを意識している。

 
 チェット・ベイカーは、マイルス・デイビスをしのぐ人気者になる。ヴレッジヴァンガードかどこかジャズ・クラブのライブの映像をみたことがある。観客の若い女たちの騒ぎは、まるでロックンロールのショーのようだった。チェット・ベイカーは、白いTシャツ姿で、若くてとてもハンサムだ。女の子が騒ぐのもわかる。

 
 しかし、60年代にはいって、チェット・ベイカーは、麻薬におぼれる。イタリアやイギリスで刑務所に入り、アメリカにもどっても留置場の出入りをくりかえす。かんぜんに音楽シーンから消えることもあったが、70年代に復活する。トランペットをフルューゲルホーンにもちかえた美しいアルバムもある。

 
 しかし、1988年4月13日、アムステルダムのホテルから転落して亡くなった。58才だった。自殺か他殺か、謎の残る死だった。そのすこし前、ドキュメンタリー映画がつくられていた。Let' Get Lost だ。若い溌剌としてハンサムな青年が、疲れた老人になっていて、まだ50代半ばのはずなのにな、と、わたしは、ショックだった。この、じぶんの人生と音楽を語るドキュメンタリーは、亡くなってから、渋谷の小さい映画館でみた。わたしには悲しい映画だった。

 
 あらためてディスコグラフィーをみると、1952年から亡くなる1988年まで、とぎれることなくアルバムを発表している。刑務所やブタ箱の生活で音楽シーンからはなれていた、と思っていたのは、わたしの先入観と情報不足の誤解だったのかもしれない。資料を調べ、もう一度聴き直す必要があるミュージシャンだ。

 

 Chet Baker  My Funny Valentine    http://www.youtube.com/watch?v=jvXywhJpOKs

 エルビス・プレスリーやリトル・リチャードのロックンロールが全盛のとき、チェット・ベイカーは、これをやっていたわけだから、たしかにクールで、新しい。

 Chet Baker Live (Belgium 1964) : Time After Time http://www.youtube.com/watch?v=nchEXBimNlg&feature=related

 Chet Baker Foundation のサイト http://www.chetbakerjazz.com/


リッキー・ネルソンもまた、50年代ロックのスーパースターだ

2009-02-13 | 日記・エッセイ・コラム

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あすはヴァレンタイン・デー、金曜日の今夜、このピザ屋さんは、カップルで満員だ。 

 

 

 

 風が強い。しかし、冷たくはない。南風だ。部屋のなかは、暖房を入れてないのに、汗をかくほど温かい。春一番なのだ。

 
 蕨市の不法滞在のフィリピン人親子3人の国外退去が確定した。法務大臣の決定は、とうぜんのことだろう。このフィリピン人の両親の手口は、非常に悪質だ。母親は、他人の旅券で入国して、十数年不法就労していた。いっしょに他人になりすまして入国した妹は、日本人と結婚して、子供をつくってから離婚している。子供を滞在要件に利用する手口は、知りぬいているわけだ。

 しかし、女が子供をつくった相手が日本人ではなく、同じように他人の旅券で入国した不法滞在のフィリピン人だった。ここが女の大きな誤算だろう。2006年に不法滞在、不法就労が発覚して、国外退去命令がでた。しかし、子供を盾にいままでごねてきた。それには、とうぜんのように支援団体というやつらがバックについている。どんなやつらか、想像はつくだろう。

 テレビ・ニュースは、この両親の、不法入国、不法滞在、不法就労という悪質な犯罪にはまったく触れず、中学一年生の少女を話題の中心にして、視聴者の同情を煽ってきた。テレビ報道の誘導、プロパガンダは、じつに露骨だ。

 それにしても、他人の旅券で、簡単に入国させる、日本の入管も情けない。また、不法滞在だと知っていて、フィリピン人を雇う雇用主を野放しにしているのも問題だろう。そいつらもまた、外国人だったりするのかな?

 

Greatest Hits

Greatest Hits
リッキー・ネルソン

 きのうはパット・ブーンのことを書いたが、50年代の白人ロックシンガーで真にハンサムといえるのは、リッキー・ネルソンだろう。いまの時代に登場しても、きっと、ティーンエイジャーのスーパーアイドルになれる。ルックスだけじゃない。両親とも有名なミュージシャンだったせいか、音楽的才能にもめぐまれていた。

 

 テレビがはじまったころ、ネルソン一家のファミリー・ドラマじたてのショー番組 The Adventures of Ozzie & Harriet をやっていた(1952年~1966年、320 episodes)。リッキー・ネルソンは、ギターを弾き、ドラムを叩き、歌を歌っていた。このシリーズの一部は、日本でも放送されて、たのしみにして観ていた。

 
 

 リッキー・ネルソンのファースト・シングルもまた、ファッツ・ドミノの曲、I'm Walkin' だった。1957年のことだ。このとき、すでにラジオとテレビのショーで全米的なティーンエイジ・アイドルになっていた。1961年には、"Travelin' Man" "Hello Mary Lou" とビッグヒットをとばす。日本でもヒットした "Hello Mary Lou" は、ジーン・ビンセントがリッキー・ネルソンのために書いた曲だ。

 
 

 リッキー・ネルソンは、俳優としてもいくつもの映画にでている。ジョン・ウェインと共演した西部劇「リオ・ブラボー」(1959年)は、日本でも大ヒットした。そして、60年代後半にはカントリー・ミュージックにどんどん傾倒していった。1972年に"Garden Party"をヒットさせ、この曲が入ったアルバムは、わたしの店でもよく売れた。

 

 しかし、悲しいことに、リッキー・ネルソンは、1985年の12月31日、ニューイヤー・コンサートに向かう途中、テキサスのダラス郊外で飛行機が墜落して亡くなった。45才だった。1990年、双子の息子たちがネルソンというバンドでデビューしている。

Bye Bye Love http://www.youtube.com/watch?v=sxzR9BjbxQ4&feature=related

Lonesome  Town http://www.youtube.com/watch?v=mVvIfoNBY3w&NR=1

Hello Mary-Lou http://www.youtube.com/watch?v=zLkCWT2neuI

Travelin' Man  http://www.youtube.com/watch?v=0janfcZ8LUw&feature=related

ファッツ・ドミノとリッキー・ネルソン I'm Waling  http://www.youtube.com/watch?v=qWfsJx1ycY0&feature=related

リッキー・ネルソン・オフィシャル・サイト http://www.rickynelson.com/


ファッツ・ドミノとリトル・リチャード、そしてパット・ブーン

2009-02-12 | 日記・エッセイ・コラム

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Cimg2814 イルミネーションは歯科医院

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きょうの散歩道でみたもの 金目鯛は1匹5,100円 

        

 週刊新潮の朝日新聞襲撃犯、島村の告白は、CIAとかFBIとかがでてきて、かなり怪しくなってきた。わたしは、だいたい、凶器の散弾銃をゴルフバッグにいれて、オートバイに乗って現場までいった、というところが、どうもしっくりこない。オートバイの二人乗りでゴルフバッグじゃ、目だちすぎるし、切りつめたショットガンを隠すのに、ゴルフバッグは必要ないだろう。

 
 犯行の武器として、アメリカ大使館職員の“佐山”から、銃身を短く切った上下2連の散弾銃を渡された、という。わたしもSKBの上下2連銃を狩猟につかってきた。切りつめた銃なら、ゴルフバッグでなくても、普通の大きさのカバンに入るだろう。

 
  それに、銃身、銃床を切らなくても、上下2連銃は、銃身部分の筒と機関部の、二つにバラして分けることができる。だから、ゴルフバックのように目だつ大きなバッグは必要ない。バラした銃を組み立てるのも、すこし練習して慣れると数秒でできる。

  
 島村告白で、わたしが疑問に思うのは、この銃とゴルフバッグの件だった。週刊文春の今週号は、週刊新潮の島村告白を取りあげて、告白者の実像にせまっている。

 週刊新潮の連載は、CIA とFBI という言葉がでて、また次号につづく。はなしとして興味はあるが、告白者も新潮記者も、はなしの詳細を繕うほどに、どんどん馬脚をあらわしているような気がする。さて、来週どうなるか?

The Fat Man: 25 Classic Performances The Fat Man: 25 Classic   Fats Domino

The Greatest Gold Hits The Greatest Gold Hits ~ Little Richard

 エルビス・プレスリーが、メンフィスのサン・レコードから、メジャーのRCAへ移って全米デビューする1955年ころ、黒人のロッカーがロック史上重要な名曲を発表した。ファッツ・ドミノの「Ain't That a Shame」、そして、リトル・リチャードの「Tutti Frutti」と「Long Tall Sally」だ。

 

 しかし、これら黒人作家の曲で、全米、全世界の人気を得たのは、カバーした白人だった。パット・ブーンだ。パット・ブーンは、50年代、黒人音楽をカバーして、もっとも成功した白人ポップスシンガーのひとりだろう。日本では、エルビス・プレスリーより人気があったかもしれない。ホンモノのロッカーでカッコいいが、ちょっと危ない感じのプレスリーより、ハンサムで健全で、敬虔なクリスチャンで、漂白されたロック・ミュージックの、甘い声のパット・プーンのほうが、日本人にはうけた。そんな感じのことは、いまもよくあることだろう。

 

 この時代、つまりビートルズ以前、パット・ブーン、リッキー・ネルソン、そして、黒人コーラスグループだが、ザ・プラターズのようなソフト&メローが、日本で絶大な人気があるポップスだった。もちろん、エルビス・プレスリーも人気があった。湯川れい子さんのような熱烈なファンがたくさんいた。しかし、アメリカ人のようにプレスリーを愛している、という風潮ではなかった。プレスリーは、当時の日本の女の子には、不良っぽ過ぎたのだろう。

 

 パット・ブーンが歌う Ain't That a Shame は、日本では、「悪いのはあなた」と邦題がつけられてヒットしていた。それが黒人のファッツ・ドミノのオリジナルだということや、Tutti Frutti やLong Tall Sally が、リトル・リチャードの曲だと知られるのは、ずっとあとのことだ。それは、アメリカでも同じような状況だったのだ。黒人向けのリズム&ブルースのチャートや、黒人の放送ではヒットしていたが、全米的には、白人のカバーの方が大ヒットしていた。

 

 しかし、イギリスでもアメリカでも、つぎの世代の十代の少年たちが、黒人のオリジナルを聞いていた。エルビス・プレスリーから入って、ファッツ・ドミノやリトル・リチャードやチャック・ベリーにあこがれた少年たちが、60年代のロックシーンをつくっていく。そして、怒濤のようにその創造のエネルギーが爆発する。そのなかで、もっとも商業的に成功したのは、ビートルズだろう。

 

 ファッツ・ドミノ Ain't That a Shame http://www.youtube.com/watch?v=2OG3uPULQRs

 パット・ブーン Ain't That a Shame http://www.youtube.com/watch?v=Z8dx0oE--VI&feature=related

 ジョン・レノン  Ain't That a Shame http://www.youtube.com/watch?v=L9MavBkyaHg

 リトル・リチャード Tutti Frutti http://www.youtube.com/watch?v=KmiLTUDRhu0&feature=related

 クィーン Tutti Frutti http://www.youtube.com/watch?v=UHcvnWsyCTs&feature=related

 リトル・リチャード Long Tall Sally http://www.youtube.com/watch?v=QFL047fmsgg&feature=related 

 エルビス・プレスリー Long Tall Sally http://www.youtube.com/watch?v=iEqcPZfh8fY

 ビートルズ Long Tall Sally http://www.youtube.com/watch?v=6OBgPyK9J6M&feature=related

 ポール・マッカートニー Long Tall Sally http://www.youtube.com/watch?v=aJBaLcZprZE&feature=related

 レッド・ツェッペリン Long Tall Sally http://www.youtube.com/watch?v=DftQYxA_OtQ&feature=related

 

 

四月の恋~パット・ブーン・ベスト・セレクション 四月の恋~パット・ブーン・ベスト・セレクション

 パット・ブーンには、1957年にも「砂に書いたラブレター」「四月の恋」というふたつの大ヒット曲がある。わたしが小学生のときだ。「砂に書いたラブレター」は、1931年のヒット曲のカバーだが、パット・ブーンのバージョンは、全米№1、5週間、トップ100にとどまること、なんと34週のビッグヒットだった。「四月の恋」は、パット・ブーン主演の映画のテーマソングで、これも全米№1になった。

 

 50年代、ロック誕生の時代、まだ激しい人種差別の時代だ。もっとも収穫があったのは、リトル・リチャードのように偉大な創造的黒人ミュージシャンたちではなく、カバーをした白人のパット・ブーンかもしれない。4000万枚以上のアルバムを売り、いまも74才で健在で、ゴスペルのアルバムを出し、政治活動も積極的にやっているようだ。

 

 「砂に書いたラブレター Love Letters In The Sand」http://www.youtube.com/watch?v=m7TTkmC7HX8&NR=1

 「四月の恋 April Love」http://www.youtube.com/watch?v=sLaKFpMoRt0&feature=related

 Pat Boone.com    http://www.patboone.com/

 ロックの殿堂 ファッツ・ドミノのプロフィール  http://www.rockhall.com/inductee/fats-domino

 ブリタニカ百科事典 リトル・リチャードhttp://www.britannica.com/EBchecked/topic/344190/Little-Richard