Ommo's

古い曲が気になる

サイモンとガーファンクルは、アシッド・ミュージックだった

2008-11-30 | 日記・エッセイ・コラム

明日に架ける橋 明日に架ける橋
サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド
 

 叔母の葬儀をおえて、名古屋からもどって、きのう、きょうと、二日間ほとんど寝ていた。亡くなった人の命の残像が重い疲れとしてカラダの芯に残っていた。それも今朝は解消した。快適とはいわないが、落ちるものは落ちた。

  
 40年以上まえ、LSDをやったことがある。紙にしみこませたやつ(ペーパー・アシッド)を、食べたのだ。最初は4分の1からはじめるようにいわれていた。「初心者なんですから、一度に大量にやると、この世に、もどってこれませんよ」と、いわれた。「ビルから飛びおりないにしても、一生よだれをたらしたまま、病院のなか、ということにもなりかねません」、最初は、ひとりではやるな、ともいわれた。

 真夜中、酒を飲みながら、ひとりで4分の1、食った。なにも効かない。しばらく待っても、べつに、なにも起こらない。なんだ、これは! だまされたか? そうしてもう4分の1、クスリをしみ込ませた紙を酒でながして、食った。最初からやっちゃダメですよ、という量をこえた。しかし、なにも効かない。普通の酒の酔い方だ。聴いてるロックもいつもと同じだ。べつに特別なものは聞こえない。

 だが、それはやってきた。突然、目の前の黒い電話機が、グニャと溶けた。壁の白いクロスの細かい花模様が鮮明に浮き出してきた。カーテンが、音楽のリズムにあわせて、ゆれだして、溶けていく。音楽の細部が目でみている感覚でわかる。タイム感覚がかんぜんに狂った。すべておそい。速弾きのギターのフレーズがゆっくりゆっくり聞こえる。まるで視覚で音を感じるように、音楽が見えるのだ。

 レコード・ジャケットの絵もじつにおもしろい。デザイナーの意図がわかる。絵の筆の流れのあとがみえる。写真のなかの陰影の意味が明確にわかる。写真家の意思がわかる。モデルの瞬間の微笑みの心理がわかる。おもしろい。

 あの時代のサイケデリックなレコード・ジャケットの絵は、単にデザインではなく、現実にみたものを描いていたのだ。

 いろんなレコードを聴いてみた。ヘビメタっぽいのは意外とおもしろくない。しかし、きっとミュージシャンだったら、十分たのしめるのだろう。ギタリストなら、どんな速弾きのフレーズもおもしろいほど指使いがわかるだろう。

 ビートルズの「サージェント・ペパーズ~」のアルバムは、かんぜんにたのしめる。わたしが、いちばんおもしろかったのは、なんとサンモンとガーファンクルだったのだ。歌詞の意味が鮮明に理解できる。なぜ、ハードで深刻な詩の内容が、ソフトなサウンドで歌われるのかもわかる。詩の奥に暗示されてる意味がわかるのだ。そう、アイロニーとメタファー。これがじつにおもしろい。サイモンとガーファンクルは、ほんとうはアシッド・ミュージックだった、と知った。(だから、あの時代の若者にうけたのだ)

 本を読んでみる。しかし、これはダメだ。読めないのだ。文章を読んで理解できない。音楽にのって歌われる詩はいつもよりはるかに理解できる。英語の詩が、中学一年の英語の教科書を読むようにわかる。しかし、日本語の文章が読めない。不思議だ。

 読むという行為は、積極的な力いることが、このときわかった。LSDに影響されているとき、受け身のことしかできない。ほかの人のことはわからないが、わたしは座りこんで、音楽を聴き、絵をみることしかできなかった。それがおもしろくて、もう食べることも、飲むことも忘れていた。   
 
 20時間以上そうしていたのだろう。まったく眠気も空腹も感じない。ただ聴くもの、見るものがたのしい。レコードを聴き、画集を眺めていた。そのたのしさは、高さで言えば、エベレストなみだ。

 ところが、揺れもどしがやってくる。酒のはしゃいだ酔いのあとに、二日酔いがあるように揺れもどしがくる。それは、たのしんだと同じ大きさで返ってくる。エベレストの高さまでたのしんだのだから、その深さまで落ちこむ。どんなにはしゃいでも、人の心は、この水面、この地平にもどるようになっている。

 その気分は最悪だった。じぶんの限界と、じぶんの死が、かんぺきにみえる。死ぬ瞬間をリアルに実感できる。その海底の闇のなかの気分がつづく。その憂鬱は耐えられないほどだ。しかし、眠れない。瞳孔が開いたまま、眠れないのだ。最悪なときが20時間以上つづく。しかし、眠れない。わたしは、救急車を呼んで入院しようとさえ思った。発狂したままもどれないのじゃないかと不安におびえた。手首を切るのじゃないか、と自分自身を怖れた。震えながら、その最悪な気分に耐えた。

 わたしは、二度とやろう、とは思わなかった。地獄の憂鬱の代償に、あの現実を超越したたのしさをとるか、といわれれば、酒でほろ酔いでいるだけでいい。

ビートルズ Lucy in the Sky with Diamonds http://jp.youtube.com/watch?v=A7F2X3rSSCU&feature=related

サイモンとガーファンクル Sound of Silence http://jp.youtube.com/watch?v=eZGWQauQOAQ&NR=1
 


もう若者は、永ちゃんを知らない

2008-11-29 | 日記・エッセイ・コラム

YAZAWA YAZAWA

 NHK杯のフィギュア・スケート、浅田真央の演技はじつにすばらしかった。最初のトリプル・サルコは、完ぺきだ。高さもあるし、美しい。もう4回転といってもいいほどだ。いま、あらゆるスポーツで、最も強く美しいアスリートは、浅田真央ではないだろうか。

 名古屋のホテル前の居酒屋で、味噌煮込み牛すじと、手羽先を食べた。名古屋名物だそうだ。じつにうまかった。そこの若い従業員のお兄さんやおねいさんと話をした。お兄さんは21才で、大学生、広島出身だという。

「広島といえば、吉田拓郎だよね。浜田省吾とえーちゃんだ」と、わたしはいった。しかし、21才のお兄さんは、それ誰ですか? という。エ? だれ? 広島フォーク村の村長、吉田拓郎だよ、エーちゃんは、矢沢永吉じゃないか。ソニーのテレビのコマーシャルにでてるだろう!

「あのおじさんは、矢沢永吉というんですか。知りませんでした。歌手なんですか?」

 よせばいいのに、わたしは、ウエートレスのおねいさんにも聞いてみた。20才で、名古屋の人だという。「矢沢永吉って、知ってるよね?」と。

「すいません、知りません」

 わしら老兵は黙して去る、そのときがきたんだな、とわたしは痛感した。ソニーのテレビのコマーシャルも、吉永小百合をつかうシャープも、広告代理店の偉いさんと、メーカーの老人たちの自己満足で、お客には何の意味も、効果もないのだ。

 家庭のなかで家電の購買に決定権をもっているのは、20代、30代の主婦だろう。彼女らにとって、矢沢永吉も吉永小百合も、何の説得力もない。それどころか、名前も知らない。メーカーは、高い広告料をまったくムダにしていたわけだ。広告代も価格にのせて、消費者に払わせるわけだから、それでいいのか、やつらは。

 

 名古屋の叔母が亡くなったので、遺品を整理した。詩を書く叔母だ。ずっと前に亡くなった福島の伯母、太田光子は、歌詠み、今回逝ったこの叔母は、詩人。遺品のなかに使いこんだ万年筆があった。女手の細字用だが、これがじつに使い安い。手にすると、創造力がわくような気する。

 叔母は、分かりやすい詩を書いた。わたしの父は、少女のような、歌謡曲のような、と自分の妹の詩を批評していた。わたしは、わかりやすくていいんじゃないか、と思っていた。

 石川律子、というのが叔母の名だ。「青焔」という詩誌の2000年・春の号にのせた詩を紹介する。ずいぶん老婆になってからの詩だ。


   時は流れて
   
         石川 律子

  果もない
  はるかな波間を漂よい
  霧ふかい谷間をさまよい続け

  幾重にも苦渋の時を身につけて
  死の淵を見つめ
  長い時をさ迷い続けた人よ
  何がそれ程に悩み続けたのか
  闇にひしがれた時にも
  温かい時だってある日月を
  失って仕舞ったのか

  笑顔の美しかった時は
  過去ではなく
  これからだってある
  たしかに残された瞬間は
  今までより長くはない

  悔いのない深みで
  湯浴みするように
  豊かに流れ流してゆこう

  優しさが溢れておぼれて
  行く先が解らなくなっても
  それはそれで良いのではないのか
  人よ 愛しい人よ


名古屋から、もどる

2008-11-28 | 日記・エッセイ・コラム

 ただいま帰還。
 
 東京駅に着いて地下鉄の大手町のホームに立つと、ほっとする。いまや、ここがわたしの町なんだな、と痛感する。知らない町で、たったひとりで叔母をおくってきた。人ひとりが死ぬということはたいへんなことだ。

 葬儀も火葬も、きちっとやってきた。お坊さんとわたし、二人っきりだが。たったひとりで骨をひろった。お寺の本堂で初七日のくりあげ法要もやってもらった。広い本堂にわたしひとりだったが。

 叔父と叔父の弟がはいってるお墓に納骨してきた。お経もあげてもらった。ちゃんと成仏するためのことは、すべてやってきた。ひとり暮らしの老人だったが、無縁仏のようなさみしい思いはさせない。

 人ひとりが死ぬということは、たいへんなことだ。儀式的、心情的なことだけでなく、具体的なことだ。電話をとめる。電氣をとめる。ガスをとめる。水道をとめる。郵便の配達をとめる。新聞をとめる。新聞代を支払う。高期高齢者保険証を返還する。そのほかもろもろ。生命の電源が切れてしまったのだから、生活の具体的な実態のすべてをOFFにする。

 だれかがOFFにしなければならない。フェイドアウトということにはならない。それもやってきた。役所の手続きから、葬儀の手配、葬儀、火葬、納骨と、3日かかったが、まだやり残していることがいくつもある。きれいに手続きをして終わりにしてやりたい。

 だれもが、生きて生きていれば、老婆になるのだ。

 
 叔母は詩人だった。埃まみれの古いノートや生原稿があった。独居老人の臭気と、長い間の線香の匂いが染みついたあらゆるもの臭気と、そして死臭の漂う部屋に半日いて、わたしは叔母の書いたものを選びだした。他人には埃まみれで汚く黄ばんだ古紙にすぎない。それを捨てられないように抜きだして、梱包して、わたし宛てに宅配便で発送した。しばらくは叔母の詩を読むたのしみができた。
 
   あすからは、またロックと、ニューミュージックのはなしにもどろう。


いとしのレイラには、デュアン・オールマンが参加している

2008-11-24 | 日記・エッセイ・コラム

The Allman Brothers Band The Allman Brothers Band
フィルモア・イースト・ライヴ フィルモア・イースト・ライヴ
いとしのレイラ いとしのレイラ
 

  カーペンターズのビッグ・ヒット「スーパースター」は、最初、デラニー&ボニーが「グルーピー」というタイトルで発売したことは書いた。エリック・クラプトンは、クリーム、ブラインド・フェイスのあと、このデラニー&ボニーのツアーに参加した。そこで知り合ったメンバーとつくったユニットが、デレク・アンド・ザ・ドミノズDEREK AND THE DOMINOSだ。オールマン・ブラザーズ・バンドのデュアン・オールマンも参加している。

 

 このデレク・アンド・ザ・ドミノズの「いとしのレイラ」が、世界のポップス界でのエリック・クラプトンの存在を決定的なものにした。そして、いまに至るじつに長い年月の人気の所以だ。

 

 ヤードバーズのギタリストのときは、日本ではまったく注目されてない。そもそもヤードバーズが日本では売れてない。つぎのジョン・メイオール&ブルースブレーカーズのギタリストのときは、ホワイトブルースがポップス・ビジネスではまだそれほど注目されてなかった。クリームが大ブレイクして、ヤードバーズやジョン・メイオール・バンドのころのレコードが再発売になった。しかし、それでクリーム以前のクラプトン参加のアルバムが売れたわけでない。

 

 クリームの大ブレークと、ビートルズのアルバムに参加したことで、クラプトンはイギリスで最も有名なロックギタリストになった。そして、クリーム解散後のブラインド・フェイス結成のバカ騒ぎ。レコード・メーカーの宣伝と音楽誌の記事の量はすさまじいものだった。しかし、スーパー・グループは、たった5ヶ月の活動で霧散した。そのあと、エリック・クラプトンはアメリカにわたり、スワンプ・ロック(サザン・ロック)のデラニー&ボニーのバック・バンドに参加する。

 

 そして、このデラニーのプロデュースではじめてソロ・アルバムをだし、つぎに、そのメンバーでデレク・アンド・ザ・ドミノズをつくり、「いとしのレイラ」を発売した。1970年のことだ。これがヒットした。ロックも、クリームも、クラプトンも知らない人も、この曲は知っていた。それほど売れた。レイラは、当時、喫茶店やスナックの名前にもなっていた。

 

 

 名古屋の叔母が亡くなったので、あす朝、名古屋にでかける。すこしブログを休むことになる。少なくても明日、明後日は書けない。

 

 何日か前、外にでるときは新しいパンツに履き替える、ということを書いた。そのとき、孤独死のことにふれた。そう書いてすぐに身内で起きた。(話題にしたり、書いたり、想像したことが、すぐに現実のことになる。偶然というにはあまりにタイミングいい。この現象はいったい何なんだろう?)。

 

 亡くなった叔母は、ひとり暮らしで、名古屋に親戚はいない。子供もいなかった。叔母は、父のすぐ下の妹だ。北海道・帯広の人で、やはり帯広の男と結婚した。叔母が結婚した亭主、つまり、わたしの義理の叔父は、北海道拓殖銀行帯広支店に勤めていた。帯広支店のあと、札幌、東京、名古屋と勤務地がかわった。名古屋支店の勤務が長かった。そこで家を建て、そこで定年になった。帯広を出て40数年、住み慣れた名古屋をはなれて、北海道に帰るということにはならない。

 

 名古屋で、叔母夫婦と叔父の弟と、3人暮らしだった。10年くらい前、叔父が亡くなり、今年、同居していた叔父の弟が病死した。叔母はひとりになった。気丈で元気いっぱいの人だが、つい最近、介護付きのマンションに入ろうか、という話がでていた。そんな話がでるのだから、どこか悪いのか、と思った。その矢先だ。たったひとりで亡くなってしまった。

 

 わたしが名古屋に行って、役所の手続きをして、火葬をして、骨を拾い、納骨する。家や、そのほか、もろもろの片付けもあるだろう。そんなわけで、あすの朝、新幹線にのる。

 

 ひとり暮らしで、貧しいわたし自身が逝くとき、身内に迷惑をかけないために、どんな準備をしておくべきか、叔母が教えてくれるのだろう。

 
 叔母は詩人だった。「詩集なんて、自主出版がいいのよ。売れるもんじゃないでしょ、詩なんて」といって、分かりやすく優しい詩を書いて、何年かに一冊づつ、詩集をだしていた。自主出版など本じゃない、という知人がいたが、叔母は、詩集はじぶんで出して、知り合いにあげる、それでいいのよ、と笑っていた。つぎのブログでは、叔母の詩を紹介できるだろう。

 

 そういうわけで、数日ブログを休むことになる。よろしく。

 冷たい雨のふる夜だ。わたしの心も雨だ。

 

 オールマン・ブラザーズ・バンドのデュアン・オールマンのことは、名古屋からもどってゆっくり書こう。思い入れがある。わたしがもっとも好きな白人のギタリストなのだ。

オールマン・ブラザーズ・バンド 1970.9.23 Filmore East http://jp.youtube.com/watch?v=KHhKnc0XZrs

オールマン・ブラザーズ・バンド Stormy Monday http://jp.youtube.com/watch?v=B-mx63tN7Qg&feature=related

デレク・アンド・ザ・ドミノズ Layla http://jp.youtube.com/watch?v=uN2TI4sKQdg&feature=related

オールマン・ブラザーズ・バンド.com http://www.allmanbrothersband.com/

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ボヘミアン・ラプソディーは、人を撃ったやつの懺悔なのだ

2008-11-23 | 日記・エッセイ・コラム

Burnin' Burnin'
オペラ座の夜 オペラ座の夜
水曜の朝、午前3時 水曜の朝、午前3時
461オーシャン・ブールヴァード 461オーシャン・ブールヴァード
 

 今年の1月12日のことだ。MacBookの新しい薄いやつ MacBook Air を見てみたくて、銀座のアップル・ショップに入った。すぐに店員が近づいてきて、「何かお探しですか?」と、きかれた。他の客のだれにも、そんな応対をしていない。わたしは、いかにもMacとか、iPotとは縁のない風体をしているのだろう。毎度のことだが、それを痛感させられる。ガードマンにつまみ出されなかっただけましかな。

 iPodのミニが新発売になったときもそうだ。いつもひどく混んでいるので、毎日、前を通るのだが、入らない。入りたいが入らない。若者の多いところは行きたくないのだ。その日は、新発売のiPod shuffleを、ぜひ見てみたかった。混んでいる店内に入ってiPotをながめていると、すぐに店員が横にきた。

 「カッコいいでしょ。この小ささで240曲も入るんです。ステレオです。ウォークマンみたいなものですね」と説明しだした。なるほど。わたしは、なんだかムッとして、その日は買うつもりはなかったのだが、それ以上しゃべりを聞かずに、「これ、もらうわ」といって、ひと箱つかんでレジにならんだ。買うのなら近所の大型量販店で買うつもりだった。値引きがあるし、ポイントもつく。

 
 日本橋のすぐ近くに現場があったので、仕事帰り、丸善本店に寄ってから中央通りを歩いて銀座4丁目までいく。アップル・ショップの前を通って、山野楽器のCD売り場をながめてから、交差点をわたって銀座コア6階の書店、ブックファーストで新刊をみる。ここはデパートのワンフロアー全部が本屋という銀座のど真ん中では一番大きい書店だ。新刊本とベストセラー本のコーナーに、新聞や週刊誌の書評にのった新刊本を集めた書棚がある。ここを見るのがたのしみなのだ。今日、書評で読んだ本を手にとってみることができる。

 そうして、また中央通りを日本橋までもどって地下鉄に乗る。これが、好きな夕暮れの帰り道だった。4年くらいつづいた。兜町の東京証券取引所の向かいが現場だったときも、帰りは、銀座4丁目まで歩いて地下鉄に乗った。
 
 
 アップルのiPodやMacとは無縁の風体のジジイだが、わたしがパソコンをおぼえたのは、Mac だ。Macintosh Performa 5220の中古を、秋葉原で、19800円で買ったのだ。長いあいだ使っていたキャノンのバブルジェット最初のワープロが、ひんぱんに故障するようになり、ついに修理代の見積もりが、4万円を越えたとき、たまらずパソコンの中古とプリンターの中古を買うことを決意したのだ。いまはWindowsをつかっているが、最初がMacでなかったら、きっと、ひとりでパソコンをおぼえるのはつらかったろう。

 

 サイモンとガーファンクルの1964年発売のファースト・アルバムは、「水曜日の朝、午前3時 Wednesday Morning, 3 A.M」だ。このタイトル曲は、水曜日の夜明け前の午前3時、ベッドのなかで眠れずに、となりで眠っている恋人の静かな優しい寝息を聞きながら、横顔をながめている男の独白からはじまる。彼女のからだは、柔らかくて温かい。呼吸で胸がゆっくりと上下する。(ここまでは、やさしい平和な恋人たちの情景を歌っているようだが、違うんだ、そうは甘くない)。男は、明るくなる前に彼女を残して出ていかなくてはならない。男は、たった25ドルのために、酒屋に強盗に入ってしまったのだ。

 

 そういう歌なのだ。なんてことをしてしまったのだ、恋人も人生も、すべて失ってしまった、と後悔しながら、恋人の隣に横たわって、朝がくるのを怖れている。逃亡するのか、自首するのか、歌のなかでは明かされない。しかし、事態は深刻だ。サイモンとガーファンクルのサウンドはソフトだが、歌詞は、単純なラブソングの日本のスローな曲とは、ひと味ちがう。 

 
 クイーンの「ボヘミアン・ラプソディーBohemian Rhapsody」(1975年)もまた 、S&Gの「水曜日の朝、午前3時」に近い犯罪者の告白だ。クイーンの場合は、銃で人の頭を撃って殺してしまったやつが、逃亡する前に、母さんに切々と懺悔する歌だ。人生ははじまったばかりなのに、ぼくはなんて可哀想な子なんだ、ママ!と。

 
  ボブ・マーリーの「アイ・ショット・ザ・シェリフI shot the sheriff(1973年)は、保安官を撃って捕まった男が、保安官が悪い、あれは正当防衛なんだ、と無罪を主張する歌だ。保安官のジョン・ブラウンの野郎は前から俺を憎んでた。保安官補を殺したといって俺をつけ回したけど、ぬれぎぬだ。俺はやってない。自由になったら、俺は、町を出て行く。俺は、保安官を撃ったけど、正当防衛なんだ。やつは、突然、俺に銃を突きつけやがったんだ。というようなことを歌っているわけだ。

 

 1974年にエリック・クラプトンがカバーした「アイ・ショット・ザ・シェリフ」は、ビルボードの№1になった。ボブ・マーリーは、最初、シェリフ(保安官)じゃなく、ポリス(警察官)にしたかったらしいが、「俺は警察官を撃った」じゃあまりにリアルで、ジャマイカ政府が問題にするだろうと、シェリフにしたという。

クイーン.com http://www.queenonline.com/

ボブ・マーリー.com http://web.bobmarley.com/index.jsp

サイモンとガーファンクル.com http://www.simonandgarfunkel.com/

エリック・クラプトン.com http://www.ericclapton.com/

サイモンとガーファンクル 水曜日の朝、午前3時 http://jp.youtube.com/watch?v=1K0eknfuix8

クイーン ボヘミアン・ラプソディー http://jp.youtube.com/watch?v=irp8CNj9qBI

ボブ・マーリー アイ・ショット・ザ・シェリフ http://jp.youtube.com/watch?v=XAixXMbyOBc

エリック・クラプトン アイ・ショット・ザ・シェリフ http://jp.youtube.com/watch?v=OlQYhdql3xc&feature=related

MacBook Air http://www.apple.com/jp/macbookair/

北海道・幕別町百年記念ホールでの新春落語会「桂吉弥・独演会」
   日時/ 2009年1月26日(月)午後7時開演
   チケット発売中 S席2500円 A席2000円 B席1000円
   問い合わせ/ 幕別町百年記念ホール(0155-56-8600)
mail@m100.jp 


ジョニーB.グッドは、永遠の名曲だ

2008-11-22 | 日記・エッセイ・コラム

Jazz on a Summer's Day Jazz on a Summer's Day
LONG LIVE ROCK’N’ROLL LONG LIVE ROCK’N’ROLL

ベスト・オブ・チャック・ベリー ベスト・オブ・チャック・ベリー

 
 

  自分が厚生事務次官を刺した、という男が、今夜、自首した。

 10月からはじまった、TBSテレビの新しいニュース番組「情報7daysニュースキャスター」、今夜は、安住紳一郎アナウンサーのとなりにビートたけしがいない。たけしがいない方がずっといい。安住アナだけで十分だ。たけしの話は鬱陶しいだけで、まったく内容がなかった。床屋の政談レベルだ。ふざけてみても、ユーモアのセンスは、毒もなければ、おもしろくもない。いまや尊大で愚鈍なだけだ。わたしとほとんど同じ年令だから……老害かな。

 
 今夜は、安住アナのとなりには、佐々淳行が座っていた。本番中、タイミングよく「自分が厚生次官を刺した」と、コイズミ・ツヨシ(46才)と名のる男が警視庁に自首した。それをリアルタイムの生番組が伝える。あわてることなく、安住アナはじつに冷静に対処している。男を上げた。これでかんぜんに、ビートたけしぬき、安住アナひとりでいける。ぜひ、そうしてほしいものだ。

 
 

 木曜日に銭湯にでかけて、予期せず定休日で、銭湯のまえでぼう然としたことは書いた。その真相がわかった。やはり、あの銭湯は、毎週金曜日が定休日だった。わたしの記憶は間違ってなかったのだ。だがしかし、第3週目だけ、木・金と連休になる、という。今夜、歩いていって番台のおばさんに確認した。よかった。安心した。わたしがボケてしまったわけではなかったのだ。

 
 

 小室哲哉、釈放の映像がニュースに流れる。本人が詐欺を認め、昨日、起訴された、という。しかし、これは本来起訴されるべきケースなんだろうか? いったんは双方民事で和解しているのだ。と、すれば、民事の和解金6億円というやつを支払えば、詐欺は成立しなくなるのじゃないのか?  (はなしに裏がなく)報道されているとおりなら、発端は、個人間の金の貸借と担保の問題ではないか。

 
 今回の保釈保証金3000万円は、エイベック社が出したという。ならばこの際、払えなかった和解金の一部を、エイベックが一旦立て替えてやれば、起訴という事態はいまからでも回避できるのではないか? 毒食わば、皿までだ。きっと5%とか1割とか、まず、そんな手付け金が支払われたら、この5億円の詐欺容疑のケースは、不起訴にするしかないだろう。相手が受け取らなければ、法務局に供託するとか……。

 
 巨額の税金の滞納とか、もろもろあるようだから、シャバにいて働いて、ヒット曲をだして、ライブで稼いでもらう、そのほうが、債権者のためにも、そして国益にもなるだろう。

 
 それに、だいたいポップス・ビジネスの世界は、世間の常識的道徳観の通用するところでもないだろう。いい音楽、売れる音楽を提供してくれれば、多少、性癖がおかしかったり、人間的に問題があっても、べつにいいんじゃないかい、の世界だろう。小室哲哉さんは、早いところ、新曲をリリースするのがいい。曲は……謝罪と更正の決意を、切々と歌うべきかな……。いまの世間の注目度だと新譜がでるとけっこう売れるだろう。

 
 

 ロック史のなかで最も偉大なアーティストのひとり、チャック・ベリーは、1955年のデビュー曲「メイベリーン」がいきなりヒットして、立てつづけに大ヒットを飛ばした。「ロール・オーバー・ベートーヴェン」(1956年)、「スクール・デイズ」「ロックンロール・ミュージック」(1957年)、「スウィート・リトル・シックスティーン」「ジョニーB.グッド」「キャロル」(1958年)だ。

 こうして、チャック・ベリーは、ロックンロールのトップ・スターになった。全米ツアーは満員で、ニューポート・ジャズ・フェスティバルにも出演した。この1958年のジャズ・フェスのドキュメンタリー映画「真夏の夜のジャズ Jazz on a Summer's Day」は世界中でヒットした。

 そしてチャック・ベリーは、ビジネスマンとしての才覚もあった。セントルイスに自分のナイトクラブ、ベリーズ・クラブ・スタンドをもっていた。このクラブは、当時ではめずらしく、客は、白人も黒人も入ることができたのだ。

 
 1959年、チャック・ベリーは、若く、ハンサムで、トップスターで、金持ちで、絶頂だった。黒人は、そんなときこそねらわれる。サム・クックは、人気絶頂のとき、白人女とジャガーの新車でモーテルに乗りつけ、管理人の白人に撃ち殺された。

 チャック・ベリーは、メキシコで知り合ったチェロキー・インディアンの娘を、自分のクラブのウエートレスに雇った。その娘は店をやめて、売春で逮捕される。年令が14才だ、ということで、チャック・ベリーが逮捕された。売春強要の嫌疑と、マン法(Mann Act)違反、つまり未成年というか、子供と性的関係をもった、という容疑をかけられた。事実なら破廉恥な事件だ。マスコミが大騒ぎして、ロックンロール界をゆるがす大スキャンダルになった。

 チャック・ベリーは、再審まで争うが、懲役5年と罰金5000ドルの有罪判決をうける。1959年から1963年まで服役したのだ。

 
 若くハンサムな黒人シンガーでギタリスト、白人の若者にも絶大な人気があって、大金を稼いでる、というのは、アメリカの白人たちには許しがたいこと、そんな風潮の時代だ。白人の乗るバスに黒人は乗れない、白人の食堂に黒人は入れない、という時代だ。まだ南部では、KKKが、罪のない黒人たちを縛り首にしている、奇妙な果実の時代だ。

 
 きっと、チャック・ベリーのケースは、白人保安官と検事と裁判官がでっちあげた冤罪だろう。いまなら無罪だろう。マイケル・ジャクソンは無罪だったし、O.J.シンプソンでさえ、殺人では無罪になったのだ。

 
 4年の不在は長い。音楽界に復帰したあと、チャック・ベリーは、かっての人気を回復できなかった。しかし、ビートルズやストーンズなど白人の若いロック・ミュージシャンがチャック・ベリーの曲をカバーしていた。

 この不遇のあいだもずっと、チャック・ベリーは、ライブをつづけ、アルバムとシングルを出しつづける。そうして、60年代後半から70年代、尊敬をあつめる偉大なロックンロールのシンガー、ギタリストとして完全に復活をはたした。なにより「ジョニーB.グッド」は、永遠の名曲だ。

チャック・ベリー.com    http://www.chuckberry.com/ 

ビートルズ Rock and Roll Music http://jp.youtube.com/watch?v=Ioiv2IGRcVY

ローリング・ストーンズ Carol 1964 http://jp.youtube.com/watch?v=PDUoOZwv5QU

ローリング・ストーンズ Carol http://jp.youtube.com/watch?v=QI7t3kQLf0s&feature=related

ビートルズ Roll Over Beethoven  http://jp.youtube.com/watch?v=RDKC7IsTg8E&NR=1

チャック・ベリーJohnnyB.Goode1958  http://jp.youtube.com/watch?v=6ofD9t_sULM

チャック・ベリー&ブルース・スプリングスティーン Johnny B.Goode 1995   http://jp.youtube.com/watch?v=epHPXZBsp8M&feature=related

チャック・ベリーとジュリアン・レノン Johnny B.Goode http://jp.youtube.com/watch?v=Zrcm39i42-0&feature=related

チャック・ベリー Sweet Little Sixteen http://jp.youtube.com/watch?v=zzY28Unb3v0&feature=related

チャック・ベリー Roll Over Beethoven  http://jp.youtube.com/watch?v=Avzv6laPCsE&feature=related

 

北海道・幕別町百年記念ホールでの新春落語会「桂吉弥・独演会」
   日時/ 2009年1月26日(月)午後7時開演
   チケット発売中 S席2500円 A席2000円 B席1000円
   問い合わせ/ 幕別町百年記念ホール(0155-56-8600)
mail@m100.jp 


ソウル・トレインのテーマ・TSOPは、MFSBの演奏だ

2008-11-21 | 日記・エッセイ・コラム

360 ディグリーズ・オブ・ビリー・ポール 360 ディグリーズ・オブ・ビリー・ポール
ベスト・オブ・MFSB ベスト・オブ・MFSB
 

 日本でMTVの放送がはじまったのは、1984年のことだと以前に書いた。それまで、ロックやR&Bの動く映像をみることはほんどできなかった。だから、ビートルズの映画や、モンキーズのテレビショーが新鮮で刺激的だった。わたしのレコード店が開催していたロックのフィルム・コンサートにもたくさんの中学生や高校生が集まってくれた。

 
 そんな1970年代の前半、深夜にテレビで放映されていた「ソウル・トレイン」は、たのしい番組だった。ダンスではじまって、ヒットしているソウル・ミュージシャンの動画をみることができた。きっと中学生や高校生のとき、親に叱られながら観ていたことだろう。ディスコでは、オープニングのダンスのコピーもずいぶん流行ったものだ。

 

 あの当時(1973年~1975年)の、「ソウル・トレイン」のオープニングのテーマ・ソング、TSOP(The Sound Of Philadelphia)は、ギャンブル&ハフのコンビが作詞・作曲、プロデュースした曲だ。MFSBの演奏で、スリー・ディグリーズが歌っていた。

 

 MFSB  (Mother Father Sister Brother というふざけた名前のバンド)は 、フィラデルフィア・インターナショナル・レコードのスタジオ・ミュージシャンたちのストリングスも入ったビッグバンドだ。このフィラデルフィア・インターナショナル・レコードをつくったのが、ソングライターでプロデューサーの、ケニー・ギャンブルとレオン・ハフなのだ。フィラデルフィア・ソウル(サウンズ)とよばれて、メローで洗練されたソウル・ミュージックだ。

  

 スリー・ディグリーズのほかにも、ビリー・ポール、オージェイズ、シャイライツ、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ 、テディ・ペンダーグラス、スタイリスティックス、スピナーズ、ハニー・コーンなども日本でも売れたフィラデルフィア・ソウルだ。サウンドコーナーでもよく売れた。そして、パティー・ラベルもフィラデルフィア出身の歌手だ。

 

 ビリー・ポールの名唱「ミー・アンド・ミセス・ジョーンズ Me & Mrs.Jones」(1972年)も、ギャンブル&ハフの作品だ。この歌詞は、ジョーンズ夫人との道ならぬ恋を歌っている。まあ不倫かな。別れなきゃならないんだが、ふたりは、毎日同じカフェで6時30分に会ってしまう……てなことを歌ってる。

 

 そして、デトロイトのモータウン・レーベルのスター、ダイアナ・ロス&シュープリムスandテンプテーションズで大ヒットした「君に愛されたいI'm Gonna Make You Love Me」(1968年)も、ギャンブル&ハフふたりのコンビの作品なのだ。

 

 ソウル・トレインのテーマ、T.S.O.P. http://jp.youtube.com/watch?v=2s02l3fudK8&feature=related

 ビリー・ポール Me And Mrs.Jones    http://jp.youtube.com/watch?v=eWeHR4cuMVw&feature=related

 ダイアナ・ロス&シュープリムスandテンプテーションズ I'm Gonna Make You Love Me http://jp.youtube.com/watch?v=SnMBNvc5wZY&feature=related

 ギャンブル&ハフ.com http://www.gamble-huffmusic.com/

 ビリー・ポール.com http://www.billypaul.com/

 ソウルトレイン.com http://www.soultrain.com/index.html

 

 モンキーズ Daydream Believer http://jp.youtube.com/watch?v=kxz_JBuyF4I&feature=related

 モンキーズ I Wanna Be Free http://jp.youtube.com/watch?v=eCnlyMXt6Zw&feature=related

   

北海道・幕別町百年記念ホールでの新春落語会「桂吉弥・独演会」
   日時/ 2009年1月26日(月)午後7時開演
   チケット発売中 S席2500円 A席2000円 B席1000円
   問い合わせ/ 幕別町百年記念ホール(0155-56-8600)
mail@m100.jp


たどり着いたら、いつも雨降りなのだ

2008-11-20 | 日記・エッセイ・コラム

元気です。 元気です。
ゴールドラッシュ ゴールドラッシュ
Briefcase Full of Blues Briefcase Full of Blues
 

 今夜はひどく寒いので、散歩の途中に銭湯に寄ることにした。ユニットバスの狭い浴槽につかっていると気分が滅入るので、毎日、ほとんどシャワーだけで済ます。しかし、急に寒くなったので、広い浴槽でゆったりしたい。

 両足首にウエートをつけて、いつもの散歩よりすこし遠くまで歩いた。銭湯にたどり着くと、シャッターが閉まってる。定休日の木札がさがってる。なにか思い立ってやると、いつもこれだ。たどり着いたらいつも雨降りなのだ。

 たしか、一年くらい前になんどか来たときは、金曜日が定休日だった。いちど失敗しているので、今夜もでかけるときにそのことを思い出した……たしか金曜日が休みだから、今夜はだいじょうぶだ、と。

 ここで諦めるのは、くやしい。『もうすこし先に、もう一軒、銭湯があったはず……』と、4、5年前にいちど自転車でいったことのある、遠い風呂屋まで歩くことにした。けっこう汗をかいてたどり着いた。こんどは、銭湯は真っ暗で、廃屋になっていた。近所の八百屋のおばさんに聞くと、もうずいぶん前に閉店してしまったという。「もう近所に一軒もないものね」というのだ。たどり着くと、ドシャ降りだったのだ。

 ここらは千葉県だが、旧江戸川をこえれば東京都で、日本橋まで地下鉄で19分というところだ。マンション、アパートが林立する人口密集地帯なのだが、少なくなってしまったという東京都内のほうがまだ銭湯はある。銀座1丁目にも銀座湯という普通の銭湯がある。銭湯らしい銭湯が好きで、都内でみつけると、つい寄ってみるのだ。

 

 昨夜、雪の北海道で大きな交通事故があったようだ。わたしも、真夜中、吹雪のなかを緊張して走ったものだが。

 

 北海道にいたころは、新車というものに乗ったことがない。いつも古い車に乗っていた。父親が乗りつぶしたローレルをゆずり受けて、その屋根に、でかいラウンド・スピーカーをとりつけて、北海道じゅうを走ってたことがある。そのスピーカーでがなり立てて、コンサートの宣伝をやるんだ。「あのキャロルの矢沢永吉のソロ・コンサートが、ついにご当地、函館で開催されます!」などとマイクでどなって走りまわる。街なかだけじゃなく、畑のなかの集落も、海辺の村も、森のなかの一軒家も、人が住んでいるところをくまなく走りまわった。

 北海道は広いので、何日もかかる。旅先では、友人のところや、民宿やビジネスホテルに泊まる。そんな旅に、似内清高くん、東川佳人くん、塚谷敏範くん、磯部優くんが、よくつきあってくれた。

 コンサート会場でのアンケートで、街のなかのポスターの掲示と、この街頭での宣伝カーが、もっとも効果的な宣伝だとわかっていた。それに、フォークもロックも、ニューミュージックも、テレビとか、新聞の広告を使えるほどメジャーじゃなかった。動員はいまのJ-POPとは比較にならないほど少なかった。それに、お客の中心は、中学生、高校生、大学生たちだったから、入場料そのものがひどく安かった。

 そして、放送局や新聞社にでかけて、番組や記事でとりあげてもらおうとしても、ほとんど相手にされないときだ。会館でさえ、申し込みにいくと「荒井由実って誰です?」「浜田省吾は歌手なんですか?」「矢沢永吉って人は、フォークですか?」といわれる、そんな時代だ。じぶんの身体を使って走りまわって宣伝するのが安いし、確実だった。
 

 映画「ブルース・ブラザーズ」に、払い下げのパトカーのルーフに、ラウンド・スピーカーを積んで、コンサートの宣伝をしてまわるシーンがある。まさにあれを、北海道じゅうを走りまわってやっていたのだ。わたしの愛車の古い日産ローレルも、あのブルース・ブラザーズのパトカーのボロさかげんに近かった。

フォーライフ・ミュージックの吉田拓郎のページhttp://www.forlife.co.jp/yoshidatakuro/

テイチク・エンターテイメントの吉田拓郎のページhttp://www.teichiku.co.jp/artist/takuro/

「たどり着いたらいつも雨降り」http://jp.youtube.com/watch?v=JPihM5wHihA&feature=related

ブルース・ブラザーズ・ギャラリー http://www.bluesbrothersgallery.com/

矢沢永吉・オフィシャル・サイト http://www.yazawa.ne.jp/

キャピトル・ミュージックの矢沢永吉のページ http://www.emimusic.jp/capitol/artist/yazawa/

ユーミン・サウンド・ライブラリー http://www.emimusic.jp/yuming/

浜田省吾・オフィシャル・ウェブ・サイト http://shogo.r-s.co.jp/

ブルース・ブラザーズhttp://www.bluesbrothers.com/25th_Anniversary_DVD.html

吉田拓郎&中村雅俊 広島の旅 http://jp.youtube.com/watch?v=ttTFROUq3X0  (これは1~8まであるから長い。わたしも全部はみてない)。

北海道・幕別町百年記念ホールでの新春落語会「桂吉弥・独演会」
   日時/ 2009年1月26日(月)午後7時開演
   チケット発売中 S席2500円 A席2000円 B席1000円
   問い合わせ/ 幕別町百年記念ホール(0155-56-8600)
mail@m100.jp 


「スーパースター」のタイトルは、「グルーピー」だった

2008-11-19 | 日記・エッセイ・コラム

D&B トゥゲザー D&B トゥゲザー
スーパースター スーパースター
マッド・ドッグス&イングリッシュメン マッド・ドッグス&イングリッシュメン
 

 Azuさんのコメントに、わたしの車にのるとユーミンがかかっていた、とあるが、それは、1973年から1974年のことではないだろうか。札幌、函館でもコンサートを主催していたから、その準備や打ち合わせで、車の旅が多かった。たとえば、帯広から函館なら、10時間くらいひとりで運転しなければならない。北海道は、広い。その間、ひたすらユーミンばかりを聴く。自分が企画したコンサートのミュージシャンは、徹底的に聴く。それが、あるときは、ユーミンだったり、浜省だったり、矢沢永吉になった。ちょうどAzuさんと旅をしたときは、ユーミンを聴きこんでいる時期だった。おなじものばかりひたすらかかるので、同乗する人には迷惑なのかも知れないが、わたしは苦痛じゃないのだ。

 わたしは、小学生のときから、祖父の電気屋の店頭でレコードを聴いて育ったレコード屋の孫だ。むかしは、楽器屋や電気屋の片隅にレコード売り場のコーナーがあった。だから、音楽はたのしみのひとつであるけれど、売れるか売れないか、という商品という意識が子供のときからあった。ヒットするものを予想するのが好きだった。それにはかなり聞きこまないとわからない。第一印象は大事だが、何度も何度も聴いて気づくことがある。
  

 

 今夜は、ワールドカップ・サッカー・アジア地区最終予選の対カタール戦がある。中村俊輔が足を負傷しているという。さて、どうなるか。

 

 昨夜のブログでは、キャロル・キングの曲It's Going to Take Some Time をカーペンターズが歌っているのを紹介した。カーペンターズとサイモン&ガーファンクル、そしてビートルズは、当時のレコード・ビジネスにとって大きな存在だった。そう、まさにわたしたちの生活を支えてくれたのだ。

 ハードロックやヘビメタやプログレのロックが売れた時代だが、ソフトな路線のポップスがヒットすると、売り上げのスケールはまるで違う。それが、カーペンターズやサイモン&ガーファンクルだった。

 カーペンターズのファースト・アルバム「Offering」が発売になったのは、1969年のことだ。世は、ハードロック、サイケデリック・ミュージック、ホワイト・ブルースの全盛期だ。ウッドストック・ロック・フェスが開催された年のことだった。そんな時代にソフトなカーペンターズが登場した。評論家の受けは悪く、音楽雑誌の記事も好意的ではなかったのだ。

 ファースト・アルバムのアメリカでの最高ランクが150位だから、日本の88位のほうか高い。イギリスは20位 、オーストラリアが19位だった。アルバムは、アメリカではそんなに売れなかったわけだが、ビートルズの「涙の乗車券」をカバーしたシングル「Ticket To Ride」がじわじわと売れ出した。わたしの店でも動きだした。

 そして、翌年のアルバム「遙かなる影Close To You 」、1971年の「雨の日と月曜日は」(のちに「スーパースター」のタイトルに変わる)と立て続けにヒット・アルバムを発売していく。「遙かなる影Close To You 」は、バート・バカラックとハル・デヴィッドの曲。「愛のプレリュードWe've Only Just Begun」は、ロジャー・ニコルス作曲、ポール・ウィリアムス作詞の曲だ。

 そして、「スーパースターSuperstar」は、レオン・ラッセルとボニー・ボラムレットがつくった名曲。ボニー・ブラムレットは、デラニー&ボニーのボニー・ブラムレット。「Comin' Home」のカップリングで発売されたエリック・クラプトンとのシングルは、「グルーピーGroupie」というタイトルだ。(いま発売されているアルバム「D&B Together」では、カッコ書きでSuperstarとある)。

 レオン・ラッセルとジョー・コッカーの「マッドドック&イングリッシュメン」のツアーで、リタ・クーリッジが歌ったときも、「グルーピー」というタイトルだ。歌詞は、昔グルーピーだった子が、コンサート・ツアーで出会って恋におちたギタリストの曲が、ラジオから流れてきて、もう一度あっていっしょに寝たい、と、男をなつかしく思い出す、みたいな曲だ。けっこう露骨な表現で、リタ・クーリッジが歌っていた。カレン・カーペンターは、それをずっとソフトに、せつなく歌っていて、これもじつにみごとな表現だ。

 

 カレンが、1983年2月4日に亡くなったときは、ほんとうに驚いた。重症の拒食症に苦しんでいたことは知らなかった。ロック・スターにつきものの不健康な生活とか、ドラッグとか、突然死といちばん無縁なミュージシャンだと思っていた。

 カレン・カーペンターの歌は20世紀のポップス史に残るみごとな歌唱表現だ。そして、あの声質は、まるでこの世のものではない。そして、ドラマーとしてもすばらしい腕をもっていたことを忘れてはならないだろう。

Close To You http://jp.youtube.com/watch?v=87XQKCXfFjQ

Rainy Days And Mondays http://jp.youtube.com/watch?v=dPmbT5XC-q0&feature=related

Superstar  http://jp.youtube.com/watch?v=qn-z1WMoHQM

カーペンターズ・オフィシャル・サイト http://www.richardandkarencarpenter.com/

ユニバーサル・ミュージックのカーペンターズのページhttp://www.universal-music.co.jp/u-pop/artist/carpenters/

レオン・ラッセル・オフィシャル・サイトhttp://www.leonrussellrecords.com/

ジョー・コッカー・オフィシャル・サイトhttp://www.cocker.com/

リタ・クーリッジ・オフィシャル・サイトhttp://ritacoolidge.com/index.shtml

デラニー&ボニーの「グルーピー」http://jp.youtube.com/watch?v=g41skywKptA&feature=related

リタ・クーリッジの「スーパースター 2003」http://jp.youtube.com/watch?v=tFnbCuetA5g&NR=1

デラニー&ボニーwith エリック・クラプトン1969 http://jp.youtube.com/watch?v=ir2eAEhtXvE&feature=related

デラニー、ボニー&フレンズ Comin' Home  http://jp.youtube.com/watch?v=8EOxy3TF3OY&feature=related

ボニー・ボラムレット・オフィシャル・サイト http://www.bonniebramlett.com/index.htm

Db_with_friends


キャロル・キングと共演?

2008-11-18 | 日記・エッセイ・コラム

つづれおり つづれおり
 

 なぜかアフガニスタンに関する本をたてつづけに2冊読んだ。「アフガニスタンの歴史 旧石器時代から現代まで」(マーティン・ユアンズ著 明石社)と「アフガニスタン 終わりなく騒乱の国」(ラリー・P・グッドソン著 原書房)だ。有史以来、侵略と内戦、騒乱が絶えない、まさに終わりなき騒乱の国で、読んでいて気がめいる。日本の戦国時代などかわいいものだ。こんな国に生まれ育つということは、どんなことなんだろう。想像もつかない。

 元厚生次官をねらったテロが起きた。つぎは、空幕長を解任して国会でさらし者にしたつけもくるだろうか。クーデターもありか?

 Azuさんが報告してくれたTBSテレビのキャロル・キングとSMAPの共演は観なかった。しかし、想像するだけで、気分が悪くなる。ポップス史におけるキャロル・キングの偉大さをわかっていない。共演などとんでもない、恐れ多いことだと反対するやつがテレビ界にはいないのか?

 ニール・セダカに「オー、キャロル」というヒット曲があるが、あれはキャロル・キングに捧げた曲だ。サイモン&ガーファンクルのポール・サイモンとバンドを組んでいたこともある。

キャロル・キング・オフィシャル・サイト http://www.caroleking.com/

キャロル・キング作詞・作曲 「ロコモーション」http://jp.youtube.com/watch?v=hjFR_mLYToQ

キャロル・キング&ゲリー・ゴーフィン作詞・作曲 Will You Love Me Tomorrow http://jp.youtube.com/watch?v=NIP6FSYx0LQ&feature=related

キャロル・キング作詞・作曲 You Make Me Feel Like A Natural Woman    http://jp.youtube.com/watch?v=ouQ3HeluFV4

キャロル・キング作詞・作曲  It's Going to Take Some Time http://jp.youtube.com/watch?v=FoO_sBL3cF8

キャロル・キング 「オー! ニール」http://jp.youtube.com/watch?v=fa6vW82u8ZI&feature=related


ユーミンと宇崎さん

2008-11-17 | 日記・エッセイ・コラム

初恋~浅き夢みし 初恋~浅き夢みし
ひこうき雲 ひこうき雲

 今夜は、ソニー・ミュージックアーティスツの嶋田さんにお会いした。嶋田さんは、ユーミンが、荒井由実だったときのマネージャーだ。わたしたちは、荒井由実&ダウン・タウン・ブギウギ・バンド・ジョイントコンサートという楽しいコンサート・ツアーをいっしょにやった。もう34年も前のことになる。ユーミンと、宇崎竜童さんのブギウギ・バンドとのジョイントなんて、いまでは考えられない贅沢なコンサートだ。実際、じつに愉快なコンサートだった。

 そのあと嶋田さんとは、村下孝蔵のマネージャーだったとき、帯広のライブ・ハウス、バンバンでお会いした。そのことはブログに書いた。

 フォーク・ソングからニュー・ミュージックと呼ばれるようになる時代、音楽の商売が、演歌、ムード歌謡、アイドルものから、変わるとき、ミュージシャンじゃないビジネス・サイドのわたしたちも、熱い情熱をもっていた。嶋田さんは、わたしが尊敬するマネージャーのひとりなのだ。

 

 「荒井由実なんかやって、損するだけどよ」と、東芝EMI、札幌支店の宣伝マン・高橋さんにいわれた。そうして、高橋さんは、一本のカセット・テープを送ってくれた。ライブの荒井由実だ。高橋さんは、『こんなレベルの、シロウトの子なんだから、北海道ツアーなんてことにならん、だろ』というつもりでわたしに送ったのだろう。しかし、わたしは、そのヘタウマが好きだった。すごいとも思った。

 そのヘタウマの、若いユーミンのライブ・テープを作って、東芝・高橋さんに送ったのは、嶋田さんだったと、今夜知った。そのカセット・テープを宝物のように大事にもっていたのだが、貧乏の放浪で、いつの間にか無くしてしまった。


アカペラで、バッハ

2008-11-16 | 日記・エッセイ・コラム

G線上のアリア~スイングル・シンガーズ・ベスト・セレクション G線上のアリア~スイングル・シンガーズ・ベスト・セレクション
 

 どうして東京国際女子マラソンを横浜に変えるのか、訳がわからない。東京での大会は今日で終わってしまった。女性が日本の首都を走るという象徴的な意義があったのだが……。

 高橋尚子が引退する時代の、若い人は信じられないだろうが、女はマラソンは走れない、42.195キロを女性に走らせるのは、過酷だ、残酷だ、人権、人道に反する、という時代があったのだ。将来の母体に影響があるのだ、と。

 まだそんな風潮の時代に、世界ではじめて開催された女性マラソンの国際大会が、東京国際女子だった。1979年が第1回目だ。女子マラソンが、オリンピック種目になったのは、1984年のロサンゼルス大会から、東京国際女子マラソンは、それより5年も早い。
 
 高橋尚子と野口みずき、ふたりの偉大なマラソン・ランナーが生まれるのは、30年前からこの東京国際があったからだ。

 第一回大会のイギリスのジョイス・スミスの優勝、翌年のみぞれの中のジョイス・スミスの鼻水をたらしながらの二連勝の優勝、鮮烈の記憶している。『日本女子の体格では、やっぱり、マラソンは無理なのか……』と、思ったものだ。

 しかし、中村清監督が育てた佐々木七恵さんが1983年の5回大会で優勝した。白人でも、黒人でもない、小さい身体のアジア人の女性が、マラソンで勝てるんだ!

 そして、1991年の谷川真理さんの優勝。谷川さんのレースの終盤、35キロからの追い上げと独走は鮮烈だった。わたしが最も好きなマラソンのシーンが、あの谷川真理さんの後半5キロだ。つぎに印象深いのが、シドニーの高橋尚子さんのサングラスを捨ててからの走り。三番目が、バルセロナ・オリンピックの有森裕子さんとエゴロワの死闘かな。

 谷川真理さんの走りは、独創的だった。それまでは、男子も女子も、強いやつの後ろを走って、40キロ過ぎで、そいつを抜く、というコーチ、監督の作戦のまま走る、高校、大学の陸上部的レース展開だった。しかし、谷川真理さんの走りは、まったく違ってた。自分の描いたシナリオで走っていると、みんなをぬいてトップに立っていた、という創造的な走りだった。資生堂には所属していたが、市民ランナーらしい谷川さんのレース展開だった。       

 横浜は好きな街だ。しかし、日本で開催される国際女子マラソンは、首都・東京がふさわしい。

 なん年か横浜市民だった。横浜市港北区日吉に住んでいた。三菱自動車の寮があったのだ。当時はバブルの絶頂で、溶接工のわたしも、寮は、日吉のマンションの個室だった。
 
 日吉には、慶応大学の教養があるから、慶応ボーイにはなつかしい街だろう。

 (その前、その後のタコ部屋のことは、またいずれ書くが、景気がリアルに住環境に反映する貧民、期間社員の工員わたしだ。景気のいいときは、寮が足りなくなって、民間のマンションを借り上げて寮にした。朝、自転車の乗って、野毛坂の県立図書館にいくのが日曜日のたのしみだった。帰りに元町公園までいって海をみる。中華街で飯を食う余裕はない、わたしは出稼ぎの期間工だ、金がないのだ)

  テレビにアカペラのグループがでる。わしらの時代には、フランスの素晴らしいアカペラのグループがあった。スイングル・シンガーズだ。http://jp.youtube.com/watch?v=wxdAHh8ir3g&feature=related

 

 
 


「ミッション・インポシブル」のテーマは、ラロ・シフリンの曲

2008-11-15 | 日記・エッセイ・コラム

ザ・キャット ザ・キャット
 

 あすは、東京国際女子マラソンの最後の日だ。30年の歴史がおわる。来年からコースは、横浜市になる。去年は大手門交差点で、目の前を、野口みずきと渋井陽子が併走して駆けぬけるのをみた。しかし、あすは沿道にでかけられない。残念だ。 

 
 今夜、フジテレビで映画「ミッション・インポシブル」をやっていた。この有名なテーマ・ミュージックは、ラロ・シフリンの作曲だ。1967年から日本のテレビでも放映されて人気があった「スパイ大作戦」のオープニングの音楽だった。もちろん「ミッション・インポシブル」は、この「スパイ大作戦」シリーズのリメイクだが。

 ラロ・シフリンは、ジャズのピアニスト、アレンジャーで、ハリウッド映画の作曲家だが、アメリカ人じゃない。アルゼンチン、ブエノスアイレスの人だ。父親は、オペラハウス、コロンバス劇場のオーケストラの第一バイオリンのリーダーを30年やっていて、シフリンは、6才のときからエンリケ・バレンボイムにピアノを習った。指揮者でピアニストのダニエル・バレンボイムの父親だ。ブエノスアイレス大学で社会学と法学を勉強していた20才のとき、奨学金をもらい、パリ国立音楽院に留学した。

 ここまではクラシックの人だが、パリでは、同郷の友人アストル・ピアソラとタンゴを演奏した。ブエノスアイレスにもどると、ジャズ・バンドを組んでプロのキャリアをスタートし、テレビ、映画の仕事もはじめた。そして、ディジー・ガレスビーにさそわれてアメリカにわたる。

     ディジー・ガレスビー with ラロ・シフリン 

 

 アメリカでは、ガレスビーのバンドだけじゃなく、キューバのラテン・ダンス・オーケストラ、ザビア・クガート・バンドやジャズのクインシー・ジョーンズ・バンドでピアノを弾き、ハリウッドの映画、テレビの音楽で活躍する。

    ラロ・シフリンのピアノ ザビア・クガート指揮  Comana

 

 「燃えよドラゴン」「シンシナティー・キッド」「ダーティー・ハリー」などのラロ・シフリンの映画音楽は多数だ。そして、ハモンド・オルガンジミー・スミスが、1964年にリリースして大ヒットしたヴァーブ・レコードの「ザ・キャット」は、ラロ・シフリンのアレンジと指揮だ。

 このアルバムは、わたしが高校生のときにヒットしていて、帯広のジャズ喫茶のエースにいくと、かならずのようにかかった。それから4、5年たって、レコード屋になった1969年になってもよく売れた。そのころは、ロック、ポップスのファンの若いお客が買っていった。

 プロデューサーがクリード・テイラーだ。のちのCTIレーベルのようにアーティストの写真を使わないジャケット・デザインが新鮮だった。猫の写真だ。いま聴いても、ラロ・シフリンのアレンジは気持ちがいい。このアルバムは、ビルボードのポップ・アルバム・チャートで12位までなった。

          

       ラロ・シフリン  「ミッション・インポシブル」ライブin パリ 2007 

           ラロ・シフリン・com

           ディジー・ガレスビー・net

           ダニエル・バレンボイム・com

       CTI JAZZ.com    

           ヴァーブ・ミュージック・グループ.com

 

 

 レイ・チャールズが歌った「シンシナティー・キッド」のテーマ・ソングもラロ・シフリンの曲だ。映画は、スティーブ・マックイーンが主演だった。

           レイ・チャールズ「シンシナティー・キッド」 

 1998年、ラロ・シフリンは、自分の国アルゼンチンの音楽、タンゴに回帰して、映画「タンゴ」の音楽を手がけている。なんといって、ラロ・シフリンはアルゼンチンの人だ、50年代、パリでバンドネオンの名手ピアソラとタンゴ・バンドを組んでいたのだ。

               

      映画「TANGO」 ラ・クンパルシータ 

       アマゾンのミュージック・サンプラー 「タンゴ」サントラ

             ジミー・スミス  ザ・キャット 

 

北海道・幕別町百年記念ホールでの新春落語会「桂吉弥・独演会」
   日時/ 2009年1月26日(月)午後7時開演
   チケット発売/来週11月19日(水)から
   問い合わせ/ 幕別町百年記念ホール(0155-56-8600)
mail@m100.jp

         


森寿男とブルーコーツが譜面を一番持っている

2008-11-14 | 日記・エッセイ・コラム

ベスト・オブ・レス・ポール&メリー・フォード 90歳バースディ 記念エディション ベスト・オブ・レス・ポール&メリー・フォード 90歳バースディ 記念エディション
ゴールデン☆ベスト 菅原洋一 シングルコレクション ゴールデン☆ベスト 菅原洋一 シングルコレクション
 

 フィギュア・スケート・GP・フランス大会が明日(今夜)から開かれる。ついに浅田真央が登場するのだ。しかし、日本時間では土曜日早朝だ、テレビ中継はない。夜19時からテレビ朝日が(録画)実況中継する。

 どんなスポーツでも、結果がわかっていて観ると、たのしさは半減する。フィギュア・スケートも、結果がわかってしまうと、みているこっちに緊張感がまるでなくなって、ちっともおもしろくない。

 だから、浅田真央の演技のときは、放送があるまで、スポーツ・ニュースやインターネットの情報を遮断する。テレビの放映まで結果はみない、断固。いつも、そのつもりなんだが……それが、つい気になって我慢できず、ネットをみてしまうのだよ。深夜はリアルタイムで実況中継して、翌日ゴールデンタイムは、再放送にしてくれないか? テレビ朝日さん。

 

 菅原洋一さん、岡田真澄さんを招いてダンスのイベントを開催したことは、10月18日にすこし書いた。選挙の事前運動みたいのものなんだが、年配の女性にうける企画ということで考えついた。

 ビッグバンドの生の演奏で、菅原洋一が歌う。それをバックに社交ダンスを踊ってたのしんでもらう。司会は、ファンファン・岡田真澄だ。ぜいたくなダンス・パーティーじゃないか。高級な酒も、うまい料理も、飲み放題、食べ放題、もちろん入場料はとる。これはかなり高く設定する。で、手売りのときに割引して売る。政党だから、手売り(チケットを直接売る)の要員はいっぱいいる。
   
 考えついてすぐに、札幌・ミューズ・コーポレーションの木ノ内久嗣さんにギャラの見積もりをお願いした。

 ソーシャルダンスなら、ビッグバンドは、森寿男とブルーコーツがいいだろう、と木ノ内社長はいう。ニューハードやシャープ&フラッツはジャズ・バンドだが、ブルーコーツが一番譜面を持っている(レパートリーが広い)という。なるほど、さすがプロの知識だ。木ノ内さんは、ミューズのまえ、BB企画の部長をやっていて、ススキノのメガ・キャバレーにビッグショーを提供していた。

 当時、ススキノは全盛で、大箱のキャバレーがたくさんあった。1000人のホステスさんがいるキャバレーがあった時代だ。ステージのうえでは、毎晩、歌謡曲、演歌のビッグ・スターのショーが行われていた。そのショーが一晩、500万円とか600万円の予算なのだ。そんなキャバレーがススキノにはいくつもあった。BB企画は、そのショーを仕込んで提供していた。

 バンドは、森寿男とブルーコーツということで、50万円、菅原洋一さんが30万円、司会の岡田真澄さんが30万円、という見積もりをもらった。合計で110万円。木ノ内さんの会社の企画料込みだ。1985 年(昭和60年)のことだ。

 20人ちかいメンバーのビッグバンドが、50万円のギャラとはいかにも安い。フォーク、ロックを手がけてきた、わたしの印象だった。しかし、これが相場ですよ、と教えられた。

 照明は、札幌ステージ・アンサンブル、PA(音響)は、札幌・パワーハウスにお願いした。これもそんなに高くはない。メンバーの移動は、長谷川修身さんの「芸能人専用」バスだ。会場は、帯広市の結婚式場、寿御苑をつかった。

 

 当日、リハーサルのまえに、政党の婦人部が実質の主催だ、と菅原さんと岡田さんに説明した。そこはプロだ。それ以上説明しなくても、すぐに状況をわかってくれた。岡田さんは、MCのなかで立候補予定者の名前をなんども出してくれた。

 当日は期待した以上のお客の入りで驚いた。中年、初老の男と女が、ドレスアップして集まって、踊ってくれた。みんなソーシャルダンスがうまい。これにもびっくりした。途中で、候補者が夫婦でタンゴを踊る、というのがわたしの演出にあった。(クサイ演出だが)。これもうまくいった。驚いたことに、市長候補夫妻がじつにダンスがうまいのだ。

 きっと昭和20年代、30年代の若者たちには、ダンスホールでソーシャルダンスを踊ることが、普通にカッコいい遊びだったのだろう、いまクラブで踊るように。

 岡田真澄さんは、まだ50才くらいでじつにハンサムだった。とうぜんだが、司会も洗練されていて、うまい。そして、菅原洋一さんの歌もみごとだ。ワイヤレス・マイクをもって、ダンスフローまで下りて、踊ってる人のなかで歌うのだから、お客はたのしい。そして、生のビッグバンドだ。これで、全編、アゴ・アシ・マクラ、照明、PAで、200万円くらいだった。安いか、高いかは、考え方だ。費用対効果だ。お客も満足、そして、目的の、政治的宣伝効果はバツグンだ。

 ここ何日か、この1985年の夜を鮮明に思い出すために、iPodに菅原洋一さんの歌をいれて散歩した。あらためて聴くと、これが、なかなかいいんだな。良質な音楽は、時代がどんなに変わっても色あせない。

 菅原洋一さんは、「父と子のコンサート」というツアーをやっている。北海道は今月だ。11月22日は、帯広で開催される。

菅原洋一、冴木杏奈 「小雨降る径」 http://jp.youtube.com/watch?v=UUT3c6lr6FY

 「小雨降る径」のオリジナルは、1935年、ティノ・ロッシが歌ったシャンソン。http://jp.youtube.com/watch?v=dkHQ-HRWIEo

菅原洋一 「知りたくないの」 http://jp.youtube.com/watch?v=LLAK1rqXjxc&feature=related

 「知りたくないの」の元歌は、1953年に発表された、レス・ポールとメリー・フォードのヒット曲 I Really Don't Want To Know 。http://jp.youtube.com/watch?v=ZPZrgebMLAw&feature=related

ウェイロン・ジェニング&レス・ポール I Really Don't Want To Know (知りたくないの)http://jp.youtube.com/watch?v=h8E5Rs9GAb8

菅原洋一・オフィシャル・ウェブ・サイトhttp://www.sugawara-yoichi.com/index.htm

レス・ポール・Online http://www.lespaulonline.com/

北海道・幕別町百年記念ホールでの新春落語会「桂吉弥・独演会」
   日時/ 2009年1月26日(月)午後7時開演
   チケット発売/来週11月19日(水)から
   問い合わせ/ 幕別町百年記念ホール(0155-56-8600)
mail@m100.jp 

11/22 帯広市民文化ホール (北海道)
歌手生活50周年記念 菅原洋一&英介 父と子のコンサート
   13:30開場/14:00開演   
   ¥4,500 
   問:エーダッシュ TEL 011-533-7711 

 


ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス最後のひとり、ミッチ・ミッチェルが逝った

2008-11-13 | 日記・エッセイ・コラム

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エレクトリック・レディランド エレクトリック・レディランド  
 

    9日ぶりの太陽だろうか、ひさしぶりの晴天だ。満月が美しい。

 (月と旧暦のことは、月齢・旧暦カレンダーを「お気に入り」にいれておくと便利だ)。

 12日、ミッチ・ミッチェルの遺体が、ホテルの部屋で発見された。ミッチ・ミッチェルは、全米をまわる4週間のthe Experience Hendrix Tourを終えたオレゴン州ポートランドで、4日間の休暇をとってホテルに宿泊していた。その部屋で死んでいるのが発見されたのだ。死因は不明。12日に解剖される、とある。61才だった。いまの時代ではまだ死ぬには若い。しかし、ロック・ミュージシャンとしては、「若いのに……」とは言えまい。

 これで、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの最後のひとりも逝ってしまった。ジミ・ヘンは1970年、27才で怪死。ベースのノエル・レディングは、2003年5月11日、アイルランドの自宅で死んでいるのを発見された。肝硬変による食道動脈瘤破裂で、多量に出血したショックが死因、とされた。57才だった。

 
 「ロックンロールにゃ老(とし)だけど、死ぬにゃチョイト若すぎる Too Old to Rock 'n' Roll: Too Young to Die!」というタイトルのアルバムがあった。ジェスロ・タルの1976年のアルバムだ。タイトルも内容も気に入っていたが、サウンドコーナーでは、ちっとも売れなかった。風刺の効いたロック・オペラみたいなものだから、たしかに日本で売れる要素はひとつもなかったが……

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 「ロックンロールにゃ老(とし)だけど、死ぬにゃチョイト若すぎる Too Old to Rock 'n' Roll: Too Young to Die!」、不謹慎にも、ミッチ・ミッチェルの訃報を読んでいて、このふざけたタイトルを思い出してしまった。若いジミヘンの突然死、ノエル・レディングとミッチ・ミッチェルの初老の孤独死、なんとも寂しいが、いずれもロック・ミュージシャンらしい最期かな。

 

 ジミヘンは、デビュー4年で亡くなり、ビートルズは、メジャー・デビューして7年しかグループ活動をしてない(1963~1970)。短くても、鮮烈に時代を切りひらいたわけだ。ジャニス・ジョプリンも、マーク・ボランも同様だ。短い人生だが、ロック史のなかで永遠を手にした。そしていま、長生きしてるロッカーもぞくぞく鬼籍にはいる時がきている。わたしもひとごとではないが……。

CNN.co.jpのミッチ・ミッチェルの記事http://www.cnn.co.jp/showbiz/CNN200811130036.html

ジミ・ヘンドリックス Purple Haze http://jp.youtube.com/watch?v=5hSW67ySCio&feature=related

ジミ・ヘンドリックス Fire http://jp.youtube.com/watch?v=qQRUcybOjOM

ジミ・ヘンドリックス Johnny B. Goode http://jp.youtube.com/watch?v=P5BOf-8vHoY&feature=related

ドラマーワールドのミッチ・ミッチェルのページ http://drummerworld.com/drummers/Mitch_Mitchell.html

A TRIBUTE TO MITCH MITCHEL http://www.mitchmitchell.de/mitch/mitchindex.htm

Classic  Rock のミッチ・ミッチェルの記事 http://www.classicrockmagazine.com/page/classicrock?entry=mitch_mitchell_found_dead

北海道・幕別町百年記念ホールでの新春落語会「桂吉弥・独演会」
   日時/ 2009年1月26日(月)午後7時開演
   チケット発売/来週11月19日(水)から
   問い合わせ/ 幕別町百年記念ホール(0155-56-8600)
mail@m100.jp