Ommo's

古い曲が気になる

ケビン・コスナーの野球映画

2010-10-31 | 日記・エッセイ・コラム

               

ケビン・コスナーは、よほど野球が好きなのだろう。ケビン・コスナー主演の野球映画が、3本ある。「さよならゲーム Bull Durham 」「フィールド・オブ・ドリームス」「ラブ・オブ・ザ・ゲーム For Love of the Game 」だ。

さよならゲーム [DVD]

「さよならゲーム」は、1988年の封切り。共演は、スーザン・サランドン。ロックバンドのグルーピーのような、野球選手が大好き女を好演する。

フィールド・オブ・ドリームス (ユニバーサル思い出の復刻版DVD)

トウモロコシ畑から現れた、じぶんより若い父親のゴースト。この若い父とのキャッチボールのシーンは、泣ける。ウィリアム・パトリック・キンセラのベストセラー小説「シューレス・ジョー」(1982年)が原作だ。

ラブ・オブ・ザ・ゲーム [DVD]

チーム・オーナーから、引退かトレードの選択をせまられ、5年つき合ったガールフレンドからも別れを告げられた中年のピッチャーが、パーフェクトゲームをする、というお話。スポーツ映画であり、中年のほろ苦いラヴストーリーでもある。野球を知らなくても、中年の人たちは男も女も、涙なしくてみられない。1999年の映画、アメリカではヒットした。共演は、ケリー・プレストン。実生活では、ジョン・トラボルタの奥さんだ。

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     「フィールド・オブ・ドリームス」予告編 http://www.youtube.com/watch?v=sHTsQ9qePrQ&feature=related

  「ラブ・オブ・ザ・ゲーム」予告編 http://www.youtube.com/watch?v=KtlP12MaeuA


日本橋・コレド室町に行ってきた

2010-10-30 | 日記・エッセイ・コラム

                         

台風がやって来そうなので、そのまえにと、きのう、日本橋に出かけた。三井不動産がやってる日本橋の再開発で、三越本店の界隈に高層タワービルが3本できた。その低層部分が商業施設になっている。その店舗部分が28日にオープンした。その見物、野次馬だ。

わたしのところから日本橋は、20分くらい。地下鉄の乗り換えなしだから、銀座より近い。

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三越本店は、美しい建物だ。

わたしは、日本橋のたもとの、西川布団店ビル改修工事で、ガードマンのおっさんをやっていた。4年くらいまえのことだ。雨の日も、風の日も、一日じゅうこの中央通りに突っ立ていた。毎日、昼飯をこの界隈で食べていた。それ以来、このあたりが好きだ。

街に突っ立つ仕事が終わると、中央通りを銀座の和光まで歩く。これが楽しい。そしてまた日本橋まで歩いてもどって、地下鉄に乗て帰る。一日の終わりの楽しい散歩だった。

おなじ東京の繁華街でも、渋谷や新宿とちがって、日本橋から銀座は、街もお客も綺麗な大人の街だ。通りを歩いている人はおしゃれで、お金をかけたディスプレイのウインドーをみるだけで楽しい。古い美しい建物も多い。

最近は東京駅の丸の内側も再開発が進んで、美術館やブランドショップやレストランがならぶ綺麗な街になっている。この東京駅を中心にした、日本橋、銀座、日比谷、丸の内が、いま、街が好きな大人には楽しい散歩コースだ。女の人なら最高に楽しい界隈だろう。      

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三越本店前にオープンしたコレド室町。この界隈は、「日本橋室町」という地名・町名なのだ。

超高層ビルだが、通りの景観に合うように低層階の外観は、6、7階建てにみえるようになっている。最近の再開発高層ビルの流行りだ。

一階には、この中央通りにあった老舗が入っている。刃物の日本橋木屋、鰹節・調味料・だし場のにんべん日本橋本店、金箔・漆器製品の箔屋日本橋、フラワーショップ・第一園芸。地階に本屋のタロー書房がはいっている。

2階から4階までは、寿司、中華、焼き鳥、ラーメン、しゃぶしゃぶ、居酒屋など飲食・レストラン街だ。有名店が出店している。

コレド室町の開店がテレビでも報道されていたから、ビルの中は人でいっぱいだ。そして、花、花、花であふれていた。レストラン街には、高倉健、渡辺謙、堺正章、藤原紀香、山田優、押切もえなど芸能人からの花も多い。東京だ。

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刃物の木屋。綺麗な店になった。刃物好きのわたしには楽しい店だ。

                     

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神田神保町のロシア料理店、ろしあ亭も出店している。

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コレド室町のビルは花であふれていた。それを見るだけでも楽しかった。

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暗くなるとコレド室町は、こんな感じになる。

   コレド室町 ホームページ http://mi-mo.jp/pc/coredo/muromachi/

      

                               

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コレド室町の向いでライトアップされているビルは、中央三井信託銀行だ。この界隈には、日銀本店や野村證券本店など金融機関の古い美しい建物が多い。

                   

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コレド室町を出て、日本橋を渡り、「たいめいけん」でラーメンを食べた。たいめいけんレストランの厨房横に、立ち食いのラーメン・コーナーがあるのだ。四人も立つと肩がぶつかるようなカウンターだ。カウンターから厨房がまる見えで、職人さんたちの料理をつくる様子がおもしろい。

ラーメンは、昔ながらの東京ラーメンだ。40年以上まえに東京にでてきたときに食べたラーメンとおなじだ。子供ころ、帯広の「たんきち」や「川北屋」で食べたラーメンとよく似ている。チャーシューが食紅で染まっているが、横浜の古いラーメン屋もおなじようにチャーシューのふちが赤い。

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たいめいけんは、全国からの観光客で長蛇の列ができる有名店だ。

数年まえ、このたいめいけんで、帯広三条高校山岳部の大先輩、かつみさんにオムライスをごちそうになったことがある。そのオムライスは、伊丹十三監督映画「タンポポ」に出てきた、たいめいけんの名物料理なのだ。

伊丹十三DVDコレクション タンポポ コレクターズセット (初回限定生産)

「タンポポ」は、若い未亡人ひとりでやってる、さびれたラーメン屋タンポポ食堂を、トラック運転手が繁盛店にする、というお話。ドタバタ人情コメディーとでもいうジャンルかな? 伊丹十三監督作品の傑作だ。わたしは、伊丹十三作品で一番好きだ。メチャクチャ若い渡辺謙さんが出演している。山崎努と宮本信子が主演だ。

  「タンポポ」予告編 http://www.youtube.com/watch?v=7-75Q8-bajY

 

                                    

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丸善本店に寄ると、MI6の歴史書 The Secret History of MI6 が平積みされていた。読みたいのだが、9月に出たばかりだから、まだハードカバーしかない。高い。アマゾンでペーパーバックの予約を取っているが、来年2月発売予定だという。それでも2千円以上する。日本語の翻訳もでるのだろうが、ずいぶん先のことだろう。実際本を手にして、市川市の図書館にリクエストして購入してもらおうか、と思った。

MI6は、イギリスの諜報機関。スパイの組織だ。その秘密であるべき諜報機関が、正史を発表するなんてことは、世界ではじめてのことだ。イギリスの歴史学者、キース・ジェフリーの著書だが、SIS(イギリス情報局)が、正史と認めている。

007シリーズの作者、小説家イアン・フレミングは、このMI6の職員だった。ソ連駐在のほんものの諜報員だ。退職後、経験したことを元に、おもしろおかしくフィクションに書いて大ヒットした。MI6の殺しのライセンスを持っているジェームス・ボンドが活躍する映画は、「ドクター・ノー」「ロシアより愛をこめて」からはじまって、現在もつくられてヒットする。

(現実のMI6に、殺しのライセンスなんてものは無い、そうだ。しかし、KGBやCIAは、映画なんてかわいいものだ、というほど、けっこうエゲツないことをやってる。イギリスのスパイだけ紳士だとは、信じがたい)

小説家のサマセット・モーム(月と六ペンス)も、グレアム・グリーン(第三の男)も、このMI6のスパイだった。諜報員が、ジャーナリスト、作家、考古学者、文化人類学者という仮面で外国で活動するのは、諜報先進国イギリスの伝統だ。「アラビアのロレンス」は、考古学者だ。考古学者が表の顔だが、イギリス軍の諜報員だ。


マドンナが歌う「プリティ・リーグ」のテーマは、泣ける

2010-10-29 | 日記・エッセイ・コラム

                            

きのう、きょう、プロ野球のドラフトが大きな話題だ。ハンカチ王子・斎藤佑樹は、日本ハムに決まるようだ。決定すれば、北海道にはメデタイことだ。すぐに一軍で投げられるといいのだが。

わたしは小学生のとき、少年野球チームに入っていたから、野球は好きなんだ。しかし、高校生や大学生のときは、テレビのナイターをまったくみないし、働くようになると夜9時まで仕事だった。夜のテレビ番組なんかみれない。(大学のときは、テレビそのものを持ってなかった。音が出るのは、ソニーの小さいトランジスタ・ラジオだけだ。) そのあいだに、プロ野球がどうなっているのか、さっぱりわからなくなって、興味を無くした。でも、野球そのものは好きだ。

アメリカ人は野球が大好きだ。野球に関わる映画がいくつもある。わたしが一番好きな野球映画は、「プリティ・リーグ A League of Their Own 」だ。1991年制作の作品で、監督がペニー・マーシャル、主演は、ジーナ・ディヴィス。マドンナも出演している。

プリティ・リーグ [DVD]

この映画は、1943年(昭和18年)から1954年(昭和29年)までの12年間、実際に運営された女子のプロ野球リーグをテーマにしている。

全米女子プロ野球リーグ All-American Girls Professional Baseball League は、1943年(昭和18年)にスタートした。第二次世界大戦がはじまって、若く健康な男たちがみんな徴兵され、プロ野球リーグが成立しなくなった。全米から集まった天才的な大リーグプレイヤーといえども特権はない。ほかの若者とおなじだ。徴兵されたり、志願して戦場に行った。

プロ野球の興行主(コミッショナー)たちは、この男子の不在をうめるため、運動能力抜群な女子を全米から集めて、プロ野球リーグを続けることにした。ここがアメリカ人と日本人の違いだ。日本なら、戦時下でそんな遊びはダメだ。兵隊さんが命をかけて戦っているとき、女子が野球をやって、客にみせる?! なんという非国民だ! 不謹慎な。恥を知れ! となる。

ところがアメリカ人は、戦時下だからこそ、国民が一番好きな娯楽をたやしてはダメだ、となる。銃後の国を守り、女も老人も子供も、軍需工場で過酷な生産に励み、戦場で戦う夫や父や息子や恋人を心配して心を砕き、国難を耐えている国民に、娯楽は必要だ。暗い時代だからこそ、国民が一番好きな野球の火を消してはダメだ、となる。こうして、女子プロ野球リーグができた。

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女の子がやってます、というような、きゃしゃなものでなく、男子の不在を十分にうめるプロのベースボール・プレーだったという。

アメリカでも、まだ女性差別が激しかった。女は、良き妻で、良き母であればいい、という時代だ。女が野球をやる? なんと、ふしだらな! 野球は、男だけができるハードなゲームだ! 女にできるわけないだろ! という偏見ともこの女性たちは闘って野球をやったのだ。

終戦で男たちが戦場から帰って、男子のリーグがまた人気をあつめるようになって、女子プロ野球リーグは消滅する。この映画「プリティ・リーグ」がヒットするまで、野球好きのアメリカ人たちも、戦争中に女子プロ野球リーグがあったことは、あまり知らない歴史事実だったようだ。

 

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映画「プリティ・リーグ」は、この1943年の女子プロ野球リーグの創設のはなしだ。

コメディ仕立てだが、内容は濃い。青春映画であるし、姉と妹の家族愛の物語で、女の友情のはなしだ。アメリカの女性差別も奥にあるテーマだし、父と娘の別れのはなしでもある。チーム・メンバーの夫が戦死したりするから、戦争のはなしでもある。酒ですべてを失ったアル中男の再生のはなしでもある。子連れ選手もいるから、母子の母ものでもある。チームはバスで全米を旅するから、ロードムービーでもある。老人になってこの女子リーグ創設を回想するわけだから、老人映画でもある。そしてなにより、野球の映画なのだ。わたしは、なんどみてもジーンとして、涙を流す。

マドンナが歌うテーマソング「This Used To Be My Playground 」が、また泣ける曲なのだ。

  マドンナ 「プリティ・リーグ」テーマソング http://www.youtube.com/watch?v=E73AMgsW9sQ&feature=related

  映画「プリティ・リーグ」予告編 http://www.youtube.com/watch?v=WcN392H2jx0&feature=related

映画のエンディングの、みんな老人になって、野球の殿堂入りして、再会するシーン。http://www.youtube.com/watch?v=ufeyLsfmvQ8&feature=related  

  全米女子プロ野球リーグ オフィシャルサイト http://www.aagpbl.org/index.cfm 

Something to Remember

1995年発売の、マドンナのバラード集「Something To Remember 」にも、この「プリティ・リーグ」のテーマ・ソング 「This Used To Be My Playground 」が再録されている。泣ける。

 マドンナ This Used To Be My Playground http://www.youtube.com/watch?v=WNyCjHXUyYI&feature=related


恋の町札幌、浜口庫之助、ハマクラさん

2010-10-28 | 日記・エッセイ・コラム

 

 

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ジャズの話を書いていたが、また、ちょっと古い日本の歌謡曲にもどりたい。

浜田省吾のプロデューサーの鈴木さんに、東京・目黒のホリプロ・ビルで、部長・守屋浩さんを紹介されて、内心、興奮した、と書いた。わたしが子供ころ、テレビが、北海道・帯広でもみられるようになったとき、『僕は、泣いちっち』と歌う守屋浩さんは、この世の人ではなかった。白黒テレビの、あの電気の箱の中の、不思議の世界の人だ。まあ、そんな感じだ。

ピンクレディーで踊る小さい女の子、松田聖子を「聖子ちゃん」と憧れる幼稚園の子。わたしにとって、「泣いちっち」の守屋浩さんは、そんな感じの幼児体験にちかい。テレビの普及が、小学生の4、5年生だ。

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きょうの話は、まず、守屋浩さんのヒット曲、『僕は、泣いちっち』(昭和34年)は、浜口庫之助の作詞・作曲だ、ということからはじめる。

一昨日、ユーチューブの動画、アルゼンチンのグラシェラ・スサーナが歌う『粋な別れ』を貼った。あの『粋な別れ』も、浜口庫之助作品。石原裕次郎のために書いた曲だ。わたしは、名曲だと思う。好きな曲だ。

ほかにも、『夜霧よ今夜もありがとう』『港町 涙町 別れ町』『恋の町札幌』と、石原裕次郎のために書いた浜口庫之助の作品がある。どれも、いい歌だ。

   石原裕次郎 『恋の町札幌』http://www.youtube.com/watch?v=Q3cLc93z_nI&feature=related

      

この曲は、女歌だから(女の立場で書いた歌詞)、女性シンガーが歌うと、また違う、いい曲になる。

      長山洋子『恋の町札幌』http://www.youtube.com/watch?v=WFzit_n4J54&feature=related 

          

石原裕次郎の曲だけでなく、昭和30年後半から40年代のビッグヒットに、ハマクラ作品は数ある。日本の歌謡曲史で重要な作品ばかりだ。マイク真木の『バラが咲いた』も、スパイダーズの『夕日が泣いている』も、浜口庫之助の曲だ。『黄色いさくらんぼ』からはじまって、西郷輝彦の『星のフラメンコ』など、ハマクラ作品のヒット曲のリストをあげるとすさまじい数になる。青江三奈の大ヒット曲「恍惚のブルース』もハマクラ作品だ。「えんぴつが一本」と、坂本九が歌っていたのも浜口庫之助の作詞・作曲だ。毎日テレビに流れていたCMもたくさんある。

浜口庫之助は、戦前からプロのギタリストだ。戦後、カントリーバンドやハワイアンのギタリストやラテンバンドのリーダー。バンドマスターで、アレンジャー、シンガーだった。じぶんの曲を歌うものが好きだ。自作を歌うアルバムも発売していた。

『粋な別れ』は、石原裕次郎のために書かれた曲だ。やっぱり、裕次郎の歌がいい。でも、作者の歌もいいのだ。

   石原裕次郎 『粋な別れ』 http://www.youtube.com/watch?v=Xk4cJzkiHqA&feature=related

浜口庫之助メモリアルコレクション100

作者自身、浜口庫之助さんは、『粋な別れ』を、こんなふうに歌う。ボサノバというより、サンバ、そのものだ。じつに、カッコいい。

  浜口庫之助 『粋な別れ』 http://www.youtube.com/watch?v=5FQCuAcJ26s

わたしは、石原裕次郎が歌うハマクラ作品で、『夜霧よ今夜もありがとう』が、一番好きだ。民謡、小唄・端唄の、日本の長い歌謡史(ポップス史)のなかでも、こんなに粋でカッコいい曲は、そうはない。傑作だ。(日本民謡にもシビれる曲はたくさんある。そのことは、またいつか書く)。

  石原裕次郎 『夜霧よ今夜もありがとう』 http://www.youtube.com/watch?v=MYX-TCxcxgk

 

歌えば天国(紙ジャケット仕様)
        

  


なぜか、レフト・アローン、そして、アビー・リンカーン

2010-10-27 | 日記・エッセイ・コラム

                          

                   マル・ウォルドロン Left Alone http://www.youtube.com/watch?v=K0UbrVBYeD0&feature=fvw

レフト・アローン(K2HD/紙ジャケット仕様)

突然、ジャズの話になる。きのう、アルゼンチンから日本にやってきたグラシェラ・スサーナのことを書きながら、マル・ウォルドロンを思い出していた。

スサーナの北海道コンサート・ツアーとおなじ年、マル・ウォルドロンを主催したのだ。ピアノ・トリオのコンサートだった。

                             

マル・ウォルドロンは、ビリー・ホリデーの晩年のピアニストだ。1957年から、ビリー・ホリデーが亡くなる1959年まで、伴奏者をしていた。

ビリー・ホリデーが亡くなった翌年の1960年、このアルバム「レフト・アローン」が、ビリー・ホリデーを追悼してレコーディングされた。一曲目のLeft Alone は、ビリー・ホリデーとマル・ウォルドロンの共作、歌詞をビリーが書いた、といわれている。しかし、ふたりの録音は残されてない。このアルバムでは、そのビリー・ホリデーの歌のパートを、ジャッキー・マクリーンのアルト・サックスが切々と歌う。

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この写真は、レフト・アローンとは関係ないが、ジャッキー・マクリーンとジョン・コルトレーンの若いとき。ジャッキー・マクリーンが、マル・ウォルドロンの「レフト・アローン」に参加するのは、この時代じゃないかな。

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歳になってからのジャッキー・マクリーン。

          

Left Alone は、スタンダードになり、いまもよく演奏される曲だ。

このアルバムは、アメリカだけじゃなくヨーロッパでもヒットした。日本でも売れた。そして、このアルバムだけじゃなく、マル・ウォルドロンの演奏は日本のジャズ・ファンに好かれた。マル・ウォルドロンのピアノの、クールな寂寥感と理知的な叙情性が、日本のファンの心に響くのだろうか。

オール・アローン

マル・ウォルドロンは、日本のジャズファンに愛された。何度も来日して、ほとんど日本に住んでいるような状態で、日本のジャズ・クラブで演奏していた時期もあった。わたしが、北海道でマル・ウォルドロン・トリオ・コンサートを主催したのは、そのころだ。80年代になってベルギーに住んで、ヨーロッパで活動していた。日本女性と結婚して、子供がいる。

「レフト・アローン」も、このピアノ・ソロの「オール・アローン」も、日本では、長いあいだよく売れたLPレコードだった。

  

ユーチューブに、アビー・リンカーンが歌う Left Alone の音があった。ビリー・ホリデーが歌ったら、こんな感じになったのだろうか。1961年の録音だ。この演奏も、参加しているメンバーの、ビリー・ホリデーに対する哀悼の思いがあふれている。けっこう、せつない。ビリー・ホリデーが死んでまだ2年だ。いっしょにプレイしていたメンバーの心に、ビリー・ホリデーの姿が鮮烈に残っていただろう。

  アビー・リンカーン Left Alone  http://www.youtube.com/watch?v=s93VnJUvxPc

メンバーは、コールマン・ホーキンス(ts)、ブッカー・リトル(tp)、マル・ウォルドロン(p)、マックス・ローチ(drms)、アート・デイビス(b)、ジュリアン・プリエスター(tb)。ヴォーカル、アビー・リンカーン。

アビー・リンカーンは、ことし8月、80才で亡くなった。マル・ウォルドロンは、2002年にベルギー・ブリュッセルで亡くなっている。

Straight Ahead

  アビー・リンカーン with デイヴィッド・サンボーン First Song   http://www.youtube.com/watch?v=9D08cYFYr4E&p=3CA008E0436D3781&playnext=1&index=5

アビー・リンカーンは、ビリー・ホリデーの後継者といわれるほど表現力豊かな天才的なシンガーだった。スタンダードを歌うだけでなく、黒人差別を強く意識した曲を書く、知的なシンガーソングライターだ。黒人差別と闘う公民権運動の闘士でもあった。ただ長いキャリアのジャズ・シンガーということでなく、黒人たちから尊敬されるミュージシャンだったのだ。

  アビー・リンカーン Throw It Away http://www.youtube.com/watch?v=j2OO3vuk3r4&feature=related

Abbey Sings Abbey

                                       

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その北海道での、マル・ウォルドロン・トリオ・コンサートのときのこと。コンサートを終わって、メンバーと帯広の街にでた。

お疲れさん、と、飯を食べて酒を飲む、打ち上げは、ツアーじゅう毎日やる。コンサートが終演すると街にでて、地元の名物料理を食べて、酒を飲む。ミュージシャンは、これを楽しみにしている。

(最近の日本の若いミュージシャンたちは、ライブが終わったあとすぐに、「お疲れさん」とサラッと別れる、という。わたしに、その話をしてくれたベテランのミュージシャンは、「打ち上げのないライブの仕事なんか、ぼくはやりませんね」といっていた。)

マル・ウォルドロンたちと飯を食べていると、ドラマーが、どこかライブをやっている店はありませんか、そこに行きたい、という。ドラムスは、エド・ブラックウェル 、ベースは、レジー・ワークマンだったように記憶しているが、いま、ちょっとさだかでない。(データをみつけて、いつか正確なところを書く)

そこは帯広だったので、当時、ジャズのライブをやっている店はない。(まだ宮本ビルの中村さんの店はなかった)。生の演奏をやっているのは、キャバレーかディスコだ。すると、ドラマーは、そのディスコに行きたい、という。マル・ウォルドロンもベースマンも、それはいい、と同意する。

そんなわけで、マル・ウォルドロン・トリオとマネジャーとわたしで、西2条8丁目東仲通りのディスコにでかけた。(むかしは、いまのクラブはなく、踊り場はディスコといって、生のバンドが演奏していた、と何度か書いた)。店は満員状態で、ロックバンドの演奏で若者たちが踊っていた。そこにデカイ黒人3人が入ってきたのだ。きっとお客は驚いたろう。

席に座って飲み物がきたが、ドラマーとベースマンは、ステージの演奏をジーッとみていて、もう酒どころではない様子だ。「じぶんも、ジャズの仕事をするまえは、こういうダンス・ホールでプレイしていた」とドラマーがいう。数曲終わったところで、「ドラムをやらせてもらえないか、バンドの人に聞いてくれないだろうか?」 と、黒人ジャズ・ドラマーが遠慮がちにいう。(店に入ってバンドをみてすぐに、ドラムをやりたくしょうがなかったのだろう。だが、なかなか言い出せなかった、という感じだった)

バンドマスターは、いっしょにできるなんて光栄です、といってくれた。そうして帯広のディスコのバンドとジャズドラマーの共演がはじまった。曲は、そのころ日本の踊り場で流行っていたロックか、リズム&ブルースのダンス・ミュージックだ。

ニューヨーク・ハーレムのダンス・ホールでキャリアをつんだ黒人ドラマーが入ると、帯広のディスコ・バンドは、ビシッとしまって、生き生きと、まるで違うバンドだ。じつにファンクなダンス・バンドになった。お客さんのダンスのノリもまるで違う。

テーブル席で、その様子をみていたベースマンが、じぶんも、バンドの人から楽器を借りてプレイしたい、バンドマスターにいってくれないだろうか、と、わたしにいう。(この会話は、むこうは英語、わたしは日本語でやる。そのころ、わたしは英語をほとんど話せなかった。中学・高校の英語力があれば、このくらいのヒヤリングはできるものだ)

こうして、ベースマンが加わり、ニューヨークのジャズメンがリズムセクションという、超豪華なディスコ・バンドの演奏がはじまった。お客さんは大喜びだ。曲が終わるたびに、踊っていた若者たちから、大きな拍手がおきる。

酒を飲まないマル・ウォルドロンは、オレンジ・ジュースを飲みながら楽しそうにながめて、12時ころ、マネジャーとホテルに帰っていた。だが、ドラマーとベースマンのディスコ・ミュージックは、とまらない。店が終わるまでステージから下りず、帯広のバンドといっしょに、じつにうれしそうにディスコを演奏していた。

最後の曲が終わって、黒人ジャズメンがステージから下りると、お客さんの若者たちから「アンコール、アンコール、アンコール」と声があがった。そして、もう一曲、演奏がはじまる。そのエンディングの曲では、お客さんは踊らず、ステージまえに集まって演奏を聞いていた。

あの夜の、帯広のディスコのお客さんとバンドのメンバーには、じつに贅沢な、楽しく、貴重な音楽体験だったはずだ。

わたしが会った、マル・ウォルドロンは、酒は飲まず、静かで理知的な人だった。でも、もし、あの、帯広のディスコの夜、ステージの上にキーボードがあれば、いっしょにダンス・バンドで演奏したんじゃないだろうか。じつに楽しそうにステージの演奏をみていた。                                 


「シバの女王」は、ミッシェル・ローランがオリジナル

2010-10-26 | 日記・エッセイ・コラム

 

 

〈おとなBEST〉レイモン・ルフェーヴル

いまではもう消えて無くなりそうな音楽ジャンルに、イージーリスニングがある。そのまえは、ムード音楽といったりした。タンゴからクラシック、映画音楽、流行りのロック、ポップスまで、さまざまのジャンルの曲を、ポップにソフトにアレンジして管弦楽で演奏する。ストリングス中心のオーケストラがほとんどだが、ニニ・ロッソのようなトラペットが主役のバンドもあった。

ボストン・ポップス・オーケストラのように、クラシックの名門オーケストラがポピュラーを演奏するとき、バンド名を多少変えるケースもある。

バリバリのR&Bのサックスプレイヤーが、日本の歌謡曲・演歌 を演奏してヒットした、サム・テイラーのような人もいた。ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスも、このイージーリスニングのジャンルにいれられてレコード店で売れていた。

ニーノ・ロータやヘンリー・マンシーニのような映画音楽の巨匠たちも、じぶんのオーケストラを指揮してレコードを発売していた。フランシス・レイ、ミッシェル・ルグラン、ジョン・バリーも、じぶんの曲を指揮してレコードをだした。「映画音楽」と分けられていたが、これもイージーリスニング・ミュージックといっていい。。

1960年代後半から1970年代、日本でもっとも成功したイージーリスニングのバンドは、ポール・モーリア・グランド・オーケストラとレーモン・ルフェーブル・オーケストラだろう。

ティーンエイジャーだったロック世代が大人になり、ジャズからフュージョンという聴きやすいサウンドがうまれ、音楽業界のお客はすっかり世代交代していった。この30年くらい、ロックが基調になった音が圧倒的に主流だ。ソフトなクラシック、ソフトなジャズ、ソフトなポップス、ソフトなタンゴといってもいい、このストリングスが中心の、イージーリスニングのサウンドは、衰退して忘れられようとしている。

しかし、いま、あらためて聴くと、新鮮で、心地がいい。

       レーモン・ルフェーブル・オーケストラ 「シバの女王」http://www.youtube.com/watch?v=THf_XglYPjM&feature=related

この「シバの女王」は、日本で、レーモン・ルフェーブルとポール・モーリアのオーケストラで大ヒットした。ふたりともフランス人で、元はクラシックの人だが、ポップスのオーケストラで大成功した。

                               

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「シバの女王」のオリジナルは、ミッシェル・ローランが作詞・作曲したシャンソンだ。1967年(昭和42年)に発売された。世界で250以上のヴァージョンが発売された、という大ヒットだったのだ。

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ミッシェル・ローランは、チュニジア生まれだが、十代のとき、フランスに移住した。

    ミッシェル・ローラン 「シバの女王 Ma Reine de Saba 」http://www.youtube.com/watch?v=ATdkR6qF-GQ&feature=related

    ミッシェル・ローラン オフィシャルサイト   http://www.michellaurent.info/biography.html
                           
  

「シバの女王」は、アルゼンチンからやってきたグラシェラ・スサーナが日本語で歌ってこれもヒットした。スサーナは、タンゴの歌手だ。菅原洋一さんがアルゼンチンで出会って、日本でデビューさせた。

わたしは、菅原洋一さんの事務所の依頼で、グラシェラ・スサーナの北海道のプロモーターだった。彼女とマネージャーの旦那のアルゼンチン人、そして、東芝レコード宣伝担当・高橋さんといっしょに、北海道を旅した。

   グラシェラ・スサーナ 「シバの女王」http://www.youtube.com/watch?v=L2UYjUlkIDA

アドロ・サバの女王
 

     グラシェラ・スサーナ 「粋な別れ」 http://www.youtube.com/watch?v=yv4lKjdk1aQ&NR=1

  グラシェラ・スサーナ Zamba de Mi Esperanza                                  http://www.youtube.com/watch?v=9Dmyqjqk4Sk&feature=related


逃げ菅

2010-10-25 | 日記・エッセイ・コラム

                             

昨日投票があった北海道5区の衆議院補欠選挙は、民主党が完敗だった。自民党の町村信孝が圧勝した。

当然といえば、とうぜんの結果だ。これで民主党候補が勝ったら、北海道の有権者の良識と理性を疑われる。補欠が出たのは、民主党議員に国会議員として重大な倫理的欠陥があったからだ。悪質で、不道徳だった。それでもなお、また民主党候補を選んだら、ただのバカだろ。

北海道の教師たちの組合、北海道教職員組合から不正に選挙資金の提供うけていた民主党の小林千代美議員が、やっと辞職した。その補欠選挙だった。(事件が発覚したのが、去年だが、なんと、いままで衆議院議員だったのだ。いかにも民主党議員らしい厚顔無恥ぶりだ。まだ北海道11区には、被告になっても辞職しない民主党石川議員がいるが……。)

朝のテレビに、この選挙結果がない。驚いた。日本のテレビは、もはや報道機関ではない。ただのエンタの電気箱だ。

この衆議院補選は、新聞・テレビが捏造する内閣支持率なんかより、はるかに正確に、いまの世論を反映する国政の選挙だ。マスコミ・民主党が昨年さかんに口にしていた、『民意』だ。

朝のテレビの全国ニュースにないのも驚きだが、菅直人がダンマリを決めこんでいるのも、ブザマで、あまり無責任だ。首相であるまえに、民主党の党首ではないか。民主党の代表に選出されたからこそ、首相・総理大臣になれた。そのじぶんの党にとって、重大な選挙結果がでたんだ。最高責任者としてコメントするのが、とうぜんの常識ではないか?  菅直人は、新聞各社に、秘書を通して「(コメントは)出さない」というコメントを伝えた、という。逃げ菅だ。

いまや大多数の国民の心は、完全に民主党から離れている。民主党というだけで嫌悪の対象だろう。テレビ・新聞のマスコミは、沈む泥船から早く逃げないと、じぶんの首をしめることになるだろう。完全に国民の信頼を失うことになる。         

昨日は、隣の浦安市でも市長選挙があった。民主党・国民新党・社民党推薦の候補は、自民党の候補に完敗した。民主党・社民党が圧倒に強かった首都圏の地方選挙でも、民主党では勝てない。

                              

仙谷由人は、きょうの定例記者会見で、この北海道5区の選挙結果に言及して、「一喜一憂するべきでない」、いち選挙区に国民の民意すべてが表れるわけでない、といった。それはいくらなんでも、北海道民に失礼じゃないか? 言っていいことと悪いことがある。北海道民の選挙は、日本人の選挙でない、とでもいうのか? あまりにも無礼だ。

いち民主党員という立場で発言したならまだしも、内閣官房長官として、公式の記者会見での発言だ。政府の正式見解なのか? 自民党道連は、官房長官・仙谷由人に、厳重に抗議して、このコメントを撤回させ、謝罪させ、辞職を要求するべきだ。テメエ、北海道民をナメてるのか! と。


「帰れない二人」を残して……

2010-10-24 | 日記・エッセイ・コラム

                                                          

きょうは、寒い。いっきに冬だ。すこし前までの、あの猛暑は、いったい、なんだったんだろ。もっとおだやかに、平均的に、夏の暑さと冬の寒さをナラして、やってくれないだろうか、地球! という気分のきょうだ。

午後、NHKテレビで谷啓の追悼番組を泣きそうになりながらみた。クレージーキャッツは、おもしろかった。

きのうの話のつづき。

「サン・トワ・マミー」は、アダモがオリジナルで、日本では、越路吹雪で流行った。忌野清志郎のヴァージョンは、パロディーっぽいが、いま日本の若い人は、あれでしか「サン・トワ・マミー」を知らないだろう。

                

忌野清志郎さんは、RCサクセッションのリーダーだ。RCは、当初3人組のアコースティック・バンドだった。そのころ、わたしは、モップスの前座で雇ったことがある。いっしょに北海道を旅した。いまでは遠いむかしのことになる。

モップスもRCも、ホリプロだった。ホリプロのマネージャーから、アゴ・足、経費全部うちでもちますから、前座にだしてくれませんか。と、RCサクセッションを紹介された。(そういうケースはよくあるんだ)

RCサクセッションがすこし売れ出して、その前座をやっていたのが、井上陽水だから、おかしいね。陽水も、ホリプロのタレントだったのだ。

陽水は、バカ売れして独立する。その陽水を育てたホリプロのセクションは、つぎにまた新人を大きく育てる。浜田省吾だ。浜省も、ホリプロのタレントだったのだ。

わたしは、忌野清志郎と井上陽水の共作の、「帰れない二人」が好きだ。70年代の名曲のひとつだと思う。

  忌野清志郎&井上陽水 「帰れない二人」 http://www.youtube.com/watch?v=UsLLSQIIAkc&feature=related

わたしの関わった、ホリプロの人的関係、先輩後輩ではこうなる。(堀社長にはお会いしたことはない)。守屋浩→モップス→RC・忌野清志郎→井上陽水→浜田省吾

守屋浩さんは、鈴木幹治さん(モップスのドラマー、浜田省吾のプロデューサー)に紹介され、ご挨拶をした。30年くらい前だろうか。

『ヒヤぁ、この人が、泣いちっちの守屋浩さんだ』と、内心ひどく興奮したが、名刺をかわして普通にご挨拶をした。守屋浩さんは、一流企業の部長さんという雰囲気で、芸人の感じはミジンもなかった。「うちの浜田省吾がお世話になっています。ありがとうございます」と、丁重に挨拶された。わたしは、どう返答したのだろ。思いだせない。ただ、ひどく緊張していたのだ。


アダモ、コーちゃん、「誰もいない海」

2010-10-23 | 日記・エッセイ・コラム

                 

Infiniment (Reis)

「行かないで」は、ジャック・ブレル作のシャンソンだ。日本でジャック・ブレルは、この曲の作者くらいでしか知られてない。フランスでは1960年代を代表する偉大な芸術家のひとりだ。詩人で、脚本家で、映画監督で、俳優だった。いまの時代の感じだと、まるでロックスターのように人気あった。自家用飛行機をもっていて、じぶんで操縦するというリッチさだったのだ。

1978年(昭和53年)、49才のとき、突然肺ガンで亡くなった。このニュースは、わたしもショックだった。

(フランス人は、自国の詩人、作家を誇りにしている。ことさら詩人の地位が高い。いま日本にいる若いフランス人と話しても、ランボーを神のようにいう。(このランボーは、シルベスター・スタローンのランボーじゃない。詩人のアルチュール・ランボー、詩集『地獄の季節』の著者)。

若者が、100年もまえの自国の詩人を自慢できる国は、いいな、と思う。いま、日本の若者が、松尾芭蕉や石川啄木や与謝野晶子のことを、外国人に自慢げに話すだろうか?)

ジャック・ブレルは、フランスで活躍した詩人、シャンソン歌手だが、ベルギー人だ。ベルギー・ブリュッセルのフランス語圏の人だ。

おなじベルギー人で、フランスの大シャンソン歌手がいる。アダモだ。日本で抜群の人気があった。アダモは、イタリア・シシリー島の生まれだが、小さいときに親に連れられてベルギーに移民したベルギー人なのだ。十代の後半、パリにでて苦労して、やがて成功する。(シンガーソングライターという言葉が60年代後半でてくるが、シャンソンの時代は、みんな“シンガーソングライター”だ。吟遊詩人の伝統の人たちだ。詩人が自作を歌う歴史は、長い)

Adamo

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最初のヒットは、「サン・トワ・マミー」、1963年(昭和38年)のことだ。この年は、ビートルズが最初のシングル「ラヴ・ミー・ドゥー」を発売した年でもある。十歳いじょう年上で、パリの音楽界の寵児になっていたジャック・ブレルが、新人のアダモを絶賛した。

次の年、1964年(昭和39年)、アダモの歌う「雪が降る」がヨーロッパじゅうで大ヒットする。(アダモは、日本だけ人気があるので日本語の「雪が降る」が発売された、と誤解している人が多い。違うのだ。この曲は、世界で大ヒットして、アダモは、さまざまの言語のヴァージョンで「雪が降る」を発売したのだ)。

  この映像のアダモは、イタリア語で話して、イタリア語で歌ってる。http://www.youtube.com/watch?v=HAlpvIw1cCU

アダモは、何度も日本に来ていたから、日本だけで人気がある、とおかしな誤解があるようだが、ヨーロッパじゅうで人気があったのだ。いまもシャンソンの偉大な作詞・作曲家、歌手として、尊敬をあつめている。そして、いまも現役の歌手だ。(一時、健康に自信がないと引退状態になったが、10年くらいまえ、ライブ・シーンに復帰した。おたがい生きているあいだに、わたしは、ぜひ一度、アダモのステージをみたい、と思う)

アダモの「サン・トワ・マミー」の、若いときのライブ動画はみつけられなかった。しかし、若いときの音だけはある。聞いてほしい。めちゃくちゃ、カッコいい曲だ。10代でこんな曲を書くのは、普通の人じゃない。天才だ。

  アダモ 「サン・トワ・マミー」http://www.youtube.com/watch?v=p8g9gqRon60 

  アダモ 「雪が降る」 http://www.youtube.com/watch?v=DsWVHD63igk

  アダモ Ella http://www.youtube.com/watch?v=bNozb4U6uNE&feature=related

                       

わたしは、よく、酔って言う。ビリー・ホリデー、エディット・ピアフ? 日本にも、偉大な女性シンガーがいる。越路吹雪、浅川マキ、そして、ユーミンだ。最高は? 最高は、ちあきなおみ、じゃないか。高橋真梨子も、すごいね。美空ひばりは? 神を論じる勇気は、わたしに、ない! (好き嫌いべつにして、美空ひばりは、別格だ、と思う。)

                    

越路吹雪、コーちゃんは、いまあらためて聴くと、やっぱり、すごい。

エッセンシャル・ベスト 越路吹雪

  

アダモの「サン・トワ・マミー」は、日本の若い人は、忌野清志郎のヴァージョンで知っているだろう。わたしの年齢いじょうの人は、越路吹雪だ。

わたしがレコード屋になった1960年代後半、越路吹雪は、宝塚時代からの愛称、コーちゃんといわれ、絶大な人気があった。演歌、歌謡曲全盛の時代に、シャンソン、洋楽を歌ってすさまじい人気があったのだ。越路吹雪が歌うと、もう、フランスの歌でもアメリカの歌でもなく、コーちゃんの歌になるから、すごい。あんな歌手もいない。ほんとうに偉大なシンガーだ。

わたしがレコード屋になった昭和44年くらいのとき、東芝レコードの札幌支店長が、越路吹雪リサイタルのチケットが手に入らないと、ボヤいていた。

「なによ、コーちゃんのリサイタルのチケットも買えないの、と女房に叱られるんです」と。越路吹雪は、東芝音楽工業(東芝レコード)からレコードを発売していた。支店長の自社タレントだったのだ。

その東芝レコード札幌支店長がいうには、会社にくる越路吹雪リサイタルの招待券は、偉いさんたちが奪い合いをする。社員もお金をだせば、優先的に入場券を買える。だが、主催者からもらう枚数の枠に限りがある。その有料の入場券の予約ワクも、社員たちで奪い合いになる。北海道の札幌に転勤になると、支店長でも、そのレースに遅れる。「女房に、自分の会社の、コーちゃんのチケットくらい買えないの、なによ、それでレコード・メーカーの支店長さんなの! と叱られるんです」と、東芝レコードの札幌支店長が嘆いていたものだ。

自社タレントのコンサート・チケットが買えない? いまでは、冗談のようだが、それほど、越路吹雪のリサイタルは人気があった。 

      

越路吹雪は、1980年(昭和55年)11月7日に亡くなった。56才だった。

そのすこしまえ、東芝レコードは、越路吹雪全集のようなセット物を発売した。いまよくあるボックス物だ。しかし、あの時代、こんな高額なレコード・セットが売れるか、と思った。二枚組のLPセットでも高いな、という感覚のときだ。売ってるわたしがそう思っていた。しかし、その超高額な越路吹雪全曲集が、予約のときからすごいことになった。わたしの店はさすがにないが、駅ビルの本店には驚くほどの予約がきた。田舎のレコード屋に何十セットもの予約がくるのだから、全国ではとんでもない数になっただろう。発売する当の東芝が驚いただろう。東芝レコードは、あのコーちゃんの全集で、東京の一等地に新社屋が建つほど大儲けしたはずだ。

忌野清志郎の「サン・トワ・マミー」には、そんな歴史もある。元歌は、アダモの作詞・作曲の歌だ。

越路吹雪の旦那さんは、作曲家の内藤法美だ。トワ・エ・モワでヒットした「誰もいない海」の作曲者だ。「誰もいない海」は、最初、大木康子の歌でレコードになった。CBSソニーの創業第一回目の発売レコードだ。1968年(昭和43年)のこと。わたしは、その年、レコード屋になった。大木康子さんの「誰もいない海」は、ちっとも売れなかったが、わたしには想い出深いレコードだ。

大木康子さんは、昨年、66才で亡くなった。

東芝レコードのトワ・エ・モワで、「誰もいない海」がヒットするのは、1970年(昭和45年)のことだ。

 越路吹雪 サン・トワ・マミー http://www.youtube.com/watch?v=pVGscGR21lA&feature=related

 大木康子 誰もいない海 http://www.youtube.com/watch?v=HbowFXNcOxA

 トワ・エ・モワ 誰もいない海 http://www.youtube.com/watch?v=IgGS9OyrQks&feature=related

 コーちゃん、越路吹雪の「誰もいない海」 http://www.youtube.com/watch?v=TFYjnJ9njQM&feature=related


ジャック・ブレル「行かないで」、そして、マリア・ガドゥー

2010-10-22 | 日記・エッセイ・コラム

                      

きょうは、古いシャンソンと新しいミュージシャンの話をしたい。

ジャック・ブレルのシャンソン「行かないで Ne me quitte pas 」のいろんなヴァージョンを探していた。この曲は、1959年(昭和34年)に発表された曲だ。世界じゅうの言語のヴァージョンがある。If You Go Away のタイトルで、英語ヴァージョンもすさまじい数がある。英語版では、わたしは、イギリスのダスティー・スプリングフィールドのIf You Go Away が、せつなくて好きだ。そして、すごいのは、ニーナ・シモンの「行かないで」だ。

    ダスティー・スプリングフィールド If You  Go Away  http://www.youtube.com/watch?v=wyCVxPEPx5Y

わたしは、音楽に“古い”“新しい”はない、と思う。好きか、嫌いか、カッコいいか、ダサイか、それだけだ。(新しい音楽? そんなものは、天才モーツァルトと神・ベートーヴェンがきわめてる)

「行かないで」は、さまざまの言語のヴァージョンがある。ドイツ語ではこんな感じになる。

          ベン・ブロム Laat me niet alleen (Ne me quitte pas) http://www.youtube.com/watch?v=hReCSVe3qYw                          

そんなわけで、ユーチューブでさまざまな言語の「行かないで」を探していた。(インターネットというのは、すごい! と、ゲルマニウム・ラジオで、村田英雄の新曲に興奮する小学生だったわたしは、いまさらながら、思う)

そのジャック・ブレルの Ne me quitte pas (行かないで)をポルトガル語で歌う若い女の子の映像にヒットした。『なんだ、なんだ、この子? これ…すごいな !』と驚いた。世界は、広い。才能ある若者がいるもんだ。

マリア・ガドゥー Maria Gadu 、ブラジルの人だ。世界的には新人だが、すでにアメリカでは注目されている。日本は? 国内盤はもちろん出てない。アマゾンの輸入盤リストにもない。日本のアホウ音楽業界は、永遠に、AKBなんちゃらを売ってれば、いい。

  マリア・ガドゥー Ne me quitte pas 『行かないで』http://www.youtube.com/watch?v=pEb9hlZ-1GA&feature=related

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Maria_gadu  

    マリア・ガドゥー オフィシャルサイト http://www.mariagadu.com.br/

マリア・ガドゥーは、ことしのラテン・グラミー賞 Latin Gammy Awards の新人賞にノミネートされている。発表は、来月、11月11日だ。

    ラテン・レコードディング・アカデミー公式サイト http://www.latingrammy.com/en/home

                                    

オリジナル、ジャック・ブレルの「行かないで」 http://www.youtube.com/watch?v=RKMqCqjixyo&feature=related

 


きょうは、ディジー・ガレスピーの誕生日

2010-10-21 | 日記・エッセイ・コラム

Googledoodledizzygillespie

グーグルのページを開くと、なぜかトランペッターのイラストがある。そのトランペットが、曲がって上を向いているではないか。ムム、これは……ガレスピーじゃないか?

グーグルは、ディジー・ガレスピーの生誕93年を祝っていたのか?

                      

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     ディジー・ガレスピー・クインテット Tin Tin Deo http://www.youtube.com/watch?v=jHQaUNeErVM  

きょう10月21日は、ディジー・ガレスピーの誕生日、ガレスピーは、1917年10月21日、アメリカ・サウスカロライナ州チーローで生まれ、1993年1月6日に亡くなった。

超絶技巧のトランペッター、なかなかシブイ声で歌うシンガーだ。そして、作曲家だった。ハードバップの名曲「チュニジアの夜」は、1942年(昭和17年)、ガレスピーとフランク・パパレリが作曲した。

数ある「チュニジアの夜」の演奏のなかで、わたしは、アート・ブレイキー&ジャズメッセンジャーズのヴァージョンが好きだ。

    ルイ・アームストロング&ディジー・ガレスピー Umbrella Man

http://www.youtube.com/watch?v=ZO1uMjz3n3w&feature=related

    ディジー・ガレスピー&アルトゥーロ・サンドヴァル Night in Tunisia

http://www.youtube.com/watch?v=xncznvkB7S8&feature=related 

    アート・ブレイキー&ジャズメッセンジャーズ Night in Tunisia

http://www.youtube.com/watch?v=jU2pITrtwMs 

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1940年代の初期だろうか、若い。まだ曲がったトランペットはつかってない。

          

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セロニアス・モンクとディジー・ガレスピー。

   

バード・アンド・ディズ

「bird and diz 」は、チャーリー・パーカー(バード)とディジー・ガレスピーの歴史的名盤だ。

               

Live at Royal Festival Hall London

このディジー・ガレスピーとThe United Nations Orchestra のロンドン・ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのライヴ映像は、ユーチューブでみることができる。感動ものだ。

   ディジー・ガレスピー and The United Nation Orchestra http://www.youtube.com/watch?v=cRvUyMpoQgA

                         

      ディジー・ガレスピー・オールスターズ オフィシャルサイト http://www.dizzygillespie.org/

  アルトゥーロ・サンドヴァル  オフィシャルサイト http://www.arturosandoval.com/

                         

Night in Tunisia

ユーチューブに、このブルーノート盤の音源があった。上に紹介したライブ動画の音より、こっちのスタジオ・ライブの音質が断然いい。聴いてほしい。アート・ブレイキー&ジャズメッセンジャーズの「チュニジアの夜」は、これぞまさしく、ハードバップという名演だ。

録音は、1960年(昭和35年)、メンバーは、上の動画とおなじ。トランペット、リー・モーガン。テナーサックス、ウェン・ショーター。ピアノ、ボビー・ティモンズ。ベース、ジミー・メリッツ。そして、ドラムスが、アート・ブレイキー。

  アート・ブレイキー&ジャズメッセンジャーズ A Night In Tunisia http://www.youtube.com/watch?v=FHKyVJ5YfNU

  

 


マット・モンロー、ジョージ・マーティン、ジョン・バリー

2010-10-20 | 日記・エッセイ・コラム

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『ロシアより愛をこめて』を歌って大ヒットさせたマット・モンローは、日本ではもう忘れられた人だろうが、イギリスでは、いまも愛されている。

1956年、デッカ・レコードからデビューして、バラードシンガーとして生涯絶大な人気があった。

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1960年、マット・モンローは、EMIの子会社パーラフォン・レコードに移籍した。そこで、ジョージ・マーティンのプロデュースで、世界に知られるシンガーになった。(ジョージ・マーティンは、1963年にはビートルズをデビューさせている)。

マット・モンローは、1985年、肝臓ガンで亡くなる。54才だった。イギリスだけでなく、マット・モンローの世界的な成功をささえたのが、プロデューサーのジョージ・マーティンと作曲家ジョン・バリーだ。

                       

ジョン・バリーは、007シリーズの大ヒットで、世界的な名声を得た映画音楽の作曲家。イギリス・ヨークシャー出身の人だ。ジェームス・ボンド映画のほかにも、ジョン・バリー作品はたくさんある。『野生のエルザ』のテーマ Born Free も、ジョン・バリー作曲だ。マット・モンローが歌って、1967年アカデミー賞の作曲賞と歌曲賞を受賞した。

   マット・モンロー 『野生のエルザ』のテーマ Born Free http://www.youtube.com/watch?v=ISWOrI0WaLs&feature=related

野生のエルザ [DVD]

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マット・モンローとジョージ・マーティン

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ビートルズとジョージ・マーティン

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ジョージ・マーティンは、ロンドン生まれ。1947年からロンドンの名門、ギルドホール音楽演劇学校でクラシックの音楽理論を学び、ピアノとオーボエを専攻した。1950年にEMIレコードに入り、傘下のパーラフォン・レーベルのプロデューサーになった。

 

ジョージ・マーティン・プロダクションズ
                            

                           

映画音楽の巨匠、ジョン・バリーのプロとしてのスタートは、ジャズ・バンドのトランペッターだった。

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ジョージ・マーティンは、いま、84才。ジョン・バリーは、76才だ。

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ジョン・ヴォイトとダスティン・ホフマン主演の『真夜中のカーボーイ』、あのハーモニカが悲しいテーマ曲も、ジョン・バリーの作曲だ。

『真夜中のカーボーイ』の封切りは、1969年(昭和44年)だった。

  ジョン・バリー 『真夜中のカーボーイ』のテーマ  http://www.youtube.com/watch?v=ZGORPUzLxtU&feature=related

真夜中のカーボーイ [DVD]

ジョン・バリーは、アカデミー賞を4回、グラミー賞を1回受賞している。アカデミー賞は、『野生のエルザ』『冬のライオン』『愛と哀しみの果て Out of Africa』『ダンス・ウィズ・ウルブズ』、グラミー賞は、『真夜中のカーボーイ』。

                      

映画『真夜中のカーボーイ』からは、ハリー・ニルソンが歌う「噂の男 Everybody Talkin' 」もヒットした。ニルソンは、1994年、52才のとき突然亡くなった。

    ニルソン Everybody Talkin' http://www.youtube.com/watch?v=2AzEY6ZqkuE&NR=1

Pandemonium


やっとわかったのか

2010-10-19 | 日記・エッセイ・コラム

                          

支那の上海万博に招待されていた大阪府・橋下知事は、万博事務局から、理由も明らかにされず、一方的に招待をキャンセルされて、激怒している。支那人の本性がわかったようだ。

      中国のような人間になりたくない…橋下知事批判 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20101019-OYT1T01016.htm

      橋下知事「中国、信頼できぬ」、万博招待中止に激怒 http://www.asahi.com/politics/update/1019/OSK201010190112.html

                   

石原東京都知事は、9月21日、「あんな不愉快な国には行かない」と、10月11日、12日に開催される北京市主催の国際会議をキャンセルしていた。http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/442731/


「ロシアより愛をこめて」のレコーディングは、ジョージ・マーティン

2010-10-19 | 日記・エッセイ・コラム

                           

この夏の封切り、『パリより愛をこめて From Paris with Love 』のDVDがレンタルになった。リュック・ベッソン原案、ピエール・モレル監督のフランス映画だ。主演が、ジョン・トラボルタとジョナサン・リース・マイヤーズ。パリが舞台だが、ふたりの役は、アメリカ・CIAのエージェントなので、映画は、英語だ。

ジョン・トラボルタは、メッタやたらのタフガイで、そして下品だ。もうバカバカしいほど銃を撃ちまくり、殺しまくる。わたしは、トラボルタが登場してからのメチャメチャの撃ち合いに、笑いがとまらない。超おバカなパルプ・アクション映画なのだ。B級活劇も、ここまでバカバカしいと、下手なコメディーをみるより大笑できる。

     『パリより愛をこめて』公式サイト http://wwws.warnerbros.co.jp/frompariswithlove/

この映画をみながら、リュック・ベッソンの『ニキータ』も『レオン』も、じつは、この手のパルプ・コメディー・アクションだったのか、と今更だが認識をあらたにした。

    

1977年(昭和52年)、『サタディ・ナイト・フィーバー』で一気にスターになったトラボルタは、そのあと、『グリース』とかヒットがあったが、やがて人気は低迷する。そのジョン・トラボルタが復活したのは、クエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』(1994年)だった。タランティーノらしい、劇画調B級アクション・コメディーだ。

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この『パルプ・フィクション』のパロディを意識して、リュック・ベッソンは、ジョン・トラボルタをキャスティングしたのだろうか。トラボルタは、スキンヘッドで、ピアスに髭で登場する。これがなかなか似合う。タフで、野卑で下品だ。

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共演しているのは、アイルランドの若いハンサムな俳優、ジョナサン・リース・マイヤーズ。1977年生まれだから、33才。ジョン・トラボルタは、1954年生まれ、56才。

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ジョナサン・リース・マイヤーズ

                          

タイトルの『From Paris with Love (パリより愛をこめて)』は、1963年の007シリーズ『From Russia with Love (ロシアより愛をこめて)』のパロディーだろう。

ショーン・コネリー主演の『ロシアより愛をこめて』は、日本では1964年(昭和39年)の封切りだった。最初の邦題は、『007(ダブル・オー・セブン) 危機一発』。映画も、マット・モンローが歌った主題歌も、大ヒットした。この From Russia with Love は、 いま聴いても、いい曲だ。

  マット・モンロー From Russia with Love (ロシアより愛をこめて)http://www.youtube.com/watch?v=Pka0FczsOfo&feature=related

Seanconnery

ショーン・コネリーは、いま、80才。

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007/ロシアより愛をこめて オリジナル・サウンドトラック

この映画『From Russia with Love (ロシアより愛をこめて)』のサウンドトラックのレコーディング・ディレクターは、ジョージ・マーティンなのだ。このあとジョージ・マーティンは、リバプールのロック・バンド、ビートルズをプロデュースする。


トルストイは、Толстой

2010-10-18 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                   

じぶんのことだが、ひどいことに、ロシア語の筆記体が書けなくなっている。40年も書いてないのだから当然なのだが、なさけない。

英語罫のノートを買ってきて練習することにした。英語罫ノートとは、子供がローマ字のアルファベットを練習する、4本の罫線が何段か入ったノート(3本目の線は赤い)。

今夜、近所のダイエーで、その英語罫ノートをみつけた。ロシア語の復習のついでに、スペイン語の筆記体も練習することにした。(ノートは、78円。安い。100円ショップのノートより安い。デフレだ)。

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ロシア語の文字、つまりキリル文字を書くとき、筆記体でないとまとまりが悪いし、トロくさい。いまからもう一度、ロシア語で作文するレベルをめざすほど、いまはロシアに興味はない。だが、ロシア人の名前をメモするときくらい、キリル文字をつかいたい。トルストイは、Толстой と書くほうが、気分はもりあがる。

                        

オーストラリアからワーキングホリデーでやってきた青年に、日本語を教えたことがある。英語を教わる代わりに日本語を教えたのだ。小学生がつかう漢字練習ノートを買ってきて、漢字を教えた。

最初のころ、そのオーストラリアの若者は、教えてない「薔薇」とか「醤油」とか、日本人でも面倒な漢字を覚えてきては自慢げに書いてみせた。「薔薇を書けるようになりました」と。

わたしは、おお、すごいね、といいながら、どこの国の人間でも、文字を覚えるときの心理は、おなじだな、とおかしかった。子供のわたしも、漢字を覚えたてのころ、あまりつかわない、やたら難しい漢字を覚えて、兄弟たちに自慢した。

「薔薇はすごい。日本人でもなかなか書けないよ。でも、今日は、人、という字と、口と目と耳、右・左、を練習しようか」と、ごく初歩の実用的な漢字の書き方から教えた(薔薇も醤油も、そんなもの、書けなくてもいいんだ、と思いながら)。

そのオーストラリア青年の漢字力は、すぐに中学生、高校生レベルになって、そして、めきめき日本語力を上げ、日本語検定1級に受かった。いまは普通の日本人青年以上に、読めて、書ける。(この日本語検定1級は、日本に20年住むアメリカ人英会話教師で、毎年受験して受からない人もいた。それほど難しい)。