マル・ウォルドロン Left Alone http://www.youtube.com/watch?v=K0UbrVBYeD0&feature=fvw
突然、ジャズの話になる。きのう、アルゼンチンから日本にやってきたグラシェラ・スサーナのことを書きながら、マル・ウォルドロンを思い出していた。
スサーナの北海道コンサート・ツアーとおなじ年、マル・ウォルドロンを主催したのだ。ピアノ・トリオのコンサートだった。
マル・ウォルドロンは、ビリー・ホリデーの晩年のピアニストだ。1957年から、ビリー・ホリデーが亡くなる1959年まで、伴奏者をしていた。
ビリー・ホリデーが亡くなった翌年の1960年、このアルバム「レフト・アローン」が、ビリー・ホリデーを追悼してレコーディングされた。一曲目のLeft Alone は、ビリー・ホリデーとマル・ウォルドロンの共作、歌詞をビリーが書いた、といわれている。しかし、ふたりの録音は残されてない。このアルバムでは、そのビリー・ホリデーの歌のパートを、ジャッキー・マクリーンのアルト・サックスが切々と歌う。
この写真は、レフト・アローンとは関係ないが、ジャッキー・マクリーンとジョン・コルトレーンの若いとき。ジャッキー・マクリーンが、マル・ウォルドロンの「レフト・アローン」に参加するのは、この時代じゃないかな。
歳になってからのジャッキー・マクリーン。
Left Alone は、スタンダードになり、いまもよく演奏される曲だ。
このアルバムは、アメリカだけじゃなくヨーロッパでもヒットした。日本でも売れた。そして、このアルバムだけじゃなく、マル・ウォルドロンの演奏は日本のジャズ・ファンに好かれた。マル・ウォルドロンのピアノの、クールな寂寥感と理知的な叙情性が、日本のファンの心に響くのだろうか。
マル・ウォルドロンは、日本のジャズファンに愛された。何度も来日して、ほとんど日本に住んでいるような状態で、日本のジャズ・クラブで演奏していた時期もあった。わたしが、北海道でマル・ウォルドロン・トリオ・コンサートを主催したのは、そのころだ。80年代になってベルギーに住んで、ヨーロッパで活動していた。日本女性と結婚して、子供がいる。
「レフト・アローン」も、このピアノ・ソロの「オール・アローン」も、日本では、長いあいだよく売れたLPレコードだった。
ユーチューブに、アビー・リンカーンが歌う Left Alone の音があった。ビリー・ホリデーが歌ったら、こんな感じになったのだろうか。1961年の録音だ。この演奏も、参加しているメンバーの、ビリー・ホリデーに対する哀悼の思いがあふれている。けっこう、せつない。ビリー・ホリデーが死んでまだ2年だ。いっしょにプレイしていたメンバーの心に、ビリー・ホリデーの姿が鮮烈に残っていただろう。
アビー・リンカーン Left Alone http://www.youtube.com/watch?v=s93VnJUvxPc
メンバーは、コールマン・ホーキンス(ts)、ブッカー・リトル(tp)、マル・ウォルドロン(p)、マックス・ローチ(drms)、アート・デイビス(b)、ジュリアン・プリエスター(tb)。ヴォーカル、アビー・リンカーン。
アビー・リンカーンは、ことし8月、80才で亡くなった。マル・ウォルドロンは、2002年にベルギー・ブリュッセルで亡くなっている。
アビー・リンカーン with デイヴィッド・サンボーン First Song http://www.youtube.com/watch?v=9D08cYFYr4E&p=3CA008E0436D3781&playnext=1&index=5
アビー・リンカーンは、ビリー・ホリデーの後継者といわれるほど表現力豊かな天才的なシンガーだった。スタンダードを歌うだけでなく、黒人差別を強く意識した曲を書く、知的なシンガーソングライターだ。黒人差別と闘う公民権運動の闘士でもあった。ただ長いキャリアのジャズ・シンガーということでなく、黒人たちから尊敬されるミュージシャンだったのだ。
アビー・リンカーン Throw It Away http://www.youtube.com/watch?v=j2OO3vuk3r4&feature=related
その北海道での、マル・ウォルドロン・トリオ・コンサートのときのこと。コンサートを終わって、メンバーと帯広の街にでた。
お疲れさん、と、飯を食べて酒を飲む、打ち上げは、ツアーじゅう毎日やる。コンサートが終演すると街にでて、地元の名物料理を食べて、酒を飲む。ミュージシャンは、これを楽しみにしている。
(最近の日本の若いミュージシャンたちは、ライブが終わったあとすぐに、「お疲れさん」とサラッと別れる、という。わたしに、その話をしてくれたベテランのミュージシャンは、「打ち上げのないライブの仕事なんか、ぼくはやりませんね」といっていた。)
マル・ウォルドロンたちと飯を食べていると、ドラマーが、どこかライブをやっている店はありませんか、そこに行きたい、という。ドラムスは、エド・ブラックウェル 、ベースは、レジー・ワークマンだったように記憶しているが、いま、ちょっとさだかでない。(データをみつけて、いつか正確なところを書く)
そこは帯広だったので、当時、ジャズのライブをやっている店はない。(まだ宮本ビルの中村さんの店はなかった)。生の演奏をやっているのは、キャバレーかディスコだ。すると、ドラマーは、そのディスコに行きたい、という。マル・ウォルドロンもベースマンも、それはいい、と同意する。
そんなわけで、マル・ウォルドロン・トリオとマネジャーとわたしで、西2条8丁目東仲通りのディスコにでかけた。(むかしは、いまのクラブはなく、踊り場はディスコといって、生のバンドが演奏していた、と何度か書いた)。店は満員状態で、ロックバンドの演奏で若者たちが踊っていた。そこにデカイ黒人3人が入ってきたのだ。きっとお客は驚いたろう。
席に座って飲み物がきたが、ドラマーとベースマンは、ステージの演奏をジーッとみていて、もう酒どころではない様子だ。「じぶんも、ジャズの仕事をするまえは、こういうダンス・ホールでプレイしていた」とドラマーがいう。数曲終わったところで、「ドラムをやらせてもらえないか、バンドの人に聞いてくれないだろうか?」 と、黒人ジャズ・ドラマーが遠慮がちにいう。(店に入ってバンドをみてすぐに、ドラムをやりたくしょうがなかったのだろう。だが、なかなか言い出せなかった、という感じだった)
バンドマスターは、いっしょにできるなんて光栄です、といってくれた。そうして帯広のディスコのバンドとジャズドラマーの共演がはじまった。曲は、そのころ日本の踊り場で流行っていたロックか、リズム&ブルースのダンス・ミュージックだ。
ニューヨーク・ハーレムのダンス・ホールでキャリアをつんだ黒人ドラマーが入ると、帯広のディスコ・バンドは、ビシッとしまって、生き生きと、まるで違うバンドだ。じつにファンクなダンス・バンドになった。お客さんのダンスのノリもまるで違う。
テーブル席で、その様子をみていたベースマンが、じぶんも、バンドの人から楽器を借りてプレイしたい、バンドマスターにいってくれないだろうか、と、わたしにいう。(この会話は、むこうは英語、わたしは日本語でやる。そのころ、わたしは英語をほとんど話せなかった。中学・高校の英語力があれば、このくらいのヒヤリングはできるものだ)
こうして、ベースマンが加わり、ニューヨークのジャズメンがリズムセクションという、超豪華なディスコ・バンドの演奏がはじまった。お客さんは大喜びだ。曲が終わるたびに、踊っていた若者たちから、大きな拍手がおきる。
酒を飲まないマル・ウォルドロンは、オレンジ・ジュースを飲みながら楽しそうにながめて、12時ころ、マネジャーとホテルに帰っていた。だが、ドラマーとベースマンのディスコ・ミュージックは、とまらない。店が終わるまでステージから下りず、帯広のバンドといっしょに、じつにうれしそうにディスコを演奏していた。
最後の曲が終わって、黒人ジャズメンがステージから下りると、お客さんの若者たちから「アンコール、アンコール、アンコール」と声があがった。そして、もう一曲、演奏がはじまる。そのエンディングの曲では、お客さんは踊らず、ステージまえに集まって演奏を聞いていた。
あの夜の、帯広のディスコのお客さんとバンドのメンバーには、じつに贅沢な、楽しく、貴重な音楽体験だったはずだ。
わたしが会った、マル・ウォルドロンは、酒は飲まず、静かで理知的な人だった。でも、もし、あの、帯広のディスコの夜、ステージの上にキーボードがあれば、いっしょにダンス・バンドで演奏したんじゃないだろうか。じつに楽しそうにステージの演奏をみていた。