Ommo's

古い曲が気になる

スタインウェイのGIピアノが、北海道にある

2009-08-31 | 日記・エッセイ・コラム

                         

朝から強風と雨。台風だ。

一日じゅう、部屋から一歩もでず、本を読んでは居眠りをしていた。読んでいたのは、『あるピアノの伝記 スタインウェイができるまで』( ジェイムズ・バロン著 忠平美幸訳 2009年 青土社)。

翻訳が、ちょっとまわりくどい日本語表現で、かったるいから、英語で読めるひとは、原書で読むのがいいのかもしれない。わたしは、翻訳で読んでいるが……じつにおもしろいドキュメンタリーだ。

スタインウェイができるまで―あるピアノの伝記

ニューヨークのスタインウェイ工場で作られていく一台のピアノが主役だ。製造中は、K0862。製品になって、CD-60という番号のピアノの、できていく行程を追いながら、スタインウェイ社の歴史から、ピアノ製造の作業工程の詳細、そして、現場の職人のプライベートな生活までドキュメントしている。創業一族も移民、現在の職人たちも移民たちだ。

日本に入ってくるスタインウェイのピアノは、ほとんどドイツ・ハンブルグ工場製だが、アメリカ・ニューヨーク工場が、スタインウェイ社の創業地だ。いまも、150年まえとおなじニューヨークの工場で、450人の職人が、むかしとおなじ手作業で製造している。

スタインウェイ家は、アメリカに移住するまえは、シュタインヴェクというドイツ風の名字だった。ドイツでピアノを製作していた。一家は、1850年にドイツを離れ、1853年、ニューヨークで「スタインウェイ&サンズ」を創業した。

一家がアメリカに移住する一年まえには、次男カールが、先行してアメリカに入り、アメリカのピアノ産業を偵察して、ちくいち父親に手紙で報告している。ドイツ人らしく周到なのだ。アメリカに移住してもすぐには開業しない。一族のメンバーは、ほかのピアノ会社の職人になったり、下請け仕事をやって、3年待つ。

一族のなかでもっとも天才肌といわれる、C.F.テオドール・スタイウェイ(シュタインヴェク)はアメリカになじめず、1884年にドイツに帰国してしまう。そうしてハンブルグに工場をつくる。それが、ドイツのスタインウェイなのだ。

ドイツに帰ったテオドールは、アメリカには二度ともどらなかったが、肉親と連絡を取りつづけた。改良したピアノの作業仕様書を送りつづけた。こうして、何世代にわたってふたつの工場は、おなじ基準で、おなじ型の製品をつくっている。わずかに外観のデザインが違うことと、塗装剤が違う。とうぜんだが、音はちがう、という。

第二次世界大戦ちゅう、コンサート用も家庭用も、ピアノの需要が全くなくなった戦時下をどうしのぐか。木製品の専門メーカーとして、仕事をさがさなくてはならない。スタインウェイは、アメリカ軍の輸送用グライダーCG-4Aの木製部品を製作したのだ。

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このグライダーは、武器、弾薬とジープを積んで、90メートルのロープで輸送機に曳航される。目的地の上空で切りはなされて、あとはパイロットの技量にまかせた胴体着陸だ。アメリカもまた、特攻隊なみに兵士の命は軽い。着陸に適した平坦なところなど少ないだろうし、うまく着陸しても敵のど真ん中というケースが多いだろう。レジスタンスのれんちゅうが、たいまつの火を目印に着陸地を確保している、といううまい話は、映画のなかだけだろう。

パラシュートで降下させて大量に兵士を殺されるより、パイロットと搭乗するわずかな兵が殺されるほうが、数の上では有効な作戦だ、という発想らしい。

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そして、スタインウェイは、1930年代の売れ残りのアップライト・ピアノを改良して、前線用に数千台のピアノを軍に売りつけた。軍服とおなじ色に塗装されたピアノは、GIピアノというらしい。

品質にこだわるスタインウェイは、前線の兵士が調律できるように、道具と取扱説明書をGIピアノにつけた。

スタインウェイは、こうして、グライダーと前線用のピアノの製作で戦時下をしのいだのだ。

このGIピアノが、北海道の北広島市に残っている、と訳者のあとがきにある。北広島東記念館・郷土資料収蔵室にあって、つい最近オーバーホールされて、いまは豊かな音色をとりもどしている、とある。いちど、このGIピアノをみてみたい。

20090306101731  北広島東記念館収蔵のGIピアノ

    北広島市のスタインウェイ・ピアノ解説のページ http://www.city.kitahiroshima.hokkaido.jp/hotnews/detail/00001918.html

アメリカで、家庭のなかでピアノを弾くという娯楽は、ラジオ、テレビ、オーディオの普及ですっかり衰退した。ピアノ産業は、斜陽産業の代表だった。それに加えて、日本のヤマハ、カワイが台頭していた。1972年、倒産寸前だったスタインウェイ&サンズは、スタインウェイ一族と役員が持つ、すべての株式をCBSに売却した。創業者たちの末裔のスタインウェイ一族は、巨額の金を手にしたが、スタインウェイ&サンズとはいまや無縁だ)。


マックは店外まで人の列

2009-08-30 | 日記・エッセイ・コラム

         

ハンサムなコーラス・グループ、イル・ディーヴォが誕生したのは、イタリアのテナー歌手アンドレア・ボチェッリとサラ・ブライトマンのデュエットを、サイモン・コーエルが聴いた。そのことがきっかけだった。

そのデュエットの曲、Time To Say Goodbye が、これ。http://www.youtube.com/watch?v=QbN0g8-zbdY 最初は、サンレモ音楽祭のために書かれたイタリア語の曲だった。英語の歌詞は、このデュエットのためにつけられた。

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アンドレア・ボチェッリは、盲目のテナー歌手だ。緑内障で視力をなくし、オペラ歌手になる夢を断念して、法学部を卒業して弁護士をやっていた。弁護士から歌手への転身では、フリオ・イグレシャスがいる。盲目の弁護士から歌手への転身は、アンドレア・ボチェッリが、はじめてかな?

歌手になりたい、その夢をすてず、弁護士をやりながら、ライブ・ハウスに出演し、デモ・テープをさまざまのところに送っていた。

こういう抑えた表現を、イタリア人もできるのだ、と驚く。(わたしのイタリア人への、無知と偏見がいわせているのだが)。

トスカーナでのライブを聴いてほしい。http://www.youtube.com/watch?v=YbGKQ8YASCY&NR=1 Nessun dorma! じつにいい。力まない、影がある。

  アンドレア・ボチェッリ  オフィシャル・サイト http://www.andreabocelli.com/

                       

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マックの外にあふれた人の列。

ビッグマック200円のテレビコマーシャルの効果か、マクドナルドの人の列は、店内から歩道まであふれていた。ハンバーガーはうまくないが、宣伝は、うまい。

わたしでさえ、『ビッグマック、200円か。8年くらい食べてないな。ひさしぶりに食ってみるか』と、テレビのCMをみて思ったものだ。

かって、マックまで歩いて2分というところに住んでいた。毎晩のように、真夜中、マックにでかけ、夜食を食った。まずいコーヒーを飲んでは、『コーヒーは、じぶんの部屋でいれるのが一番だな』と、矛盾した思いにかられたものだ。

じぶんでハンバーガーをつくり、コーヒーをいれる。そのほうが美味いし、コストも安い。しかし、真夜中の孤独は深まる。だから、ふらふらと外にでて、町内のマックにでかけた。

                   

テレビのニュースショーでは、毎日のように酒井法子を断罪している。だが、その覚醒剤は、朝鮮人と中国人が持ちこんで、日本人をヤク漬けにして稼いでいる、と、テレビのれんちゅうは報道しない。

きのう、警視庁神田署の警察官たちが、中国人の風俗店からワイロをとって捜査情報を流していた、と逮捕された。ワイロだけじゃない。この警官たちは、中国人の、その不法商売に出資していたともいう。「風俗店」と報道にあるが、中国人マフィアの支配する売春組織だ。

夜、新宿から池袋まで歩くといい。そこはもう日本ではない。中国租界だ。中国領だ。朝鮮自治区もある。やつらのやりたい放題だ。そこらじゅうに従軍慰安婦が立っていて、声をかけてくる。ここを歩くと、日本に警察というものがあるのか? と、思う。

JR川崎駅のすぐ近くに、堀之内という風俗街がある。これほどあけすけな売春街はない。ここは、ほんとうに日本か? と思う。治外法権の、朝鮮租界なのか? 飾り窓がある。ほとんど裸の女たちが、通りを歩く男たちを誘う。奥にベッドだけの小部屋がある。この飾り窓がずらっと並んでいる。

わたしは、川崎・堀之内の、この飾り窓の前に、まる一日突っ立っていた。10年くらい前だろうか。道路工事の警備員のおっさんだ。道に突っ立っていても誰にも不審に思われない、ガードマンは、マン・ウオッチングには最適なんだ。

最近、堀之内のこの飾り窓を、神奈川県警が摘発した。しかし、わたしが突っ立っていた時から10年だ。すぐにまた、もとの朝鮮租界にもどるだろう。いまは、飛び地の中国領土かな。

警察も、役人も政治家も、マスコミも、外国から金をもらってヘラヘラしている。これを、売国というのだが……

                 

だれもが予想したように、選挙は、民主党が圧勝した。これから、国民が恐れなくてならないのは、軍事クーデターだろうか。ひどい時代がはじまる。

国家のユートピア度と警察権は、比例する。警察権が強くなると、最大の武装集団の軍が黙っていない。だいたい、そんな図式かな。それに、本気で自衛隊を否定すると、閣僚は、226とか515の悲劇に怯えるだろうな。

政権交代で、国際的な信頼をなくして、景気はさらに落ちこむ。自由貿易というユートピア的農政で、農業は、壊滅的な打撃をうけるだろう。負けた自民党も黙ってない。こいつらは、政治システム、行政のシステムのすみかすみまで知っている。敵になって、権力者を攻めるとき、容赦はしないだろう。

荒れた時代になる。それもこれも、国民の選択だ。日本人は好んで、民主党といっしょに地獄に堕ちるわけだ。テレビと新聞のプロパガンダを、単純に信じこむ幼稚さは、やがて国民自身に返ってくるだろう。


イル・ディーヴォとブレイク

2009-08-29 | 日記・エッセイ・コラム

Il Divo

イル・ディーヴォ Il Divo は、2004年にイギリスで結成されたグループだ。しかし、イギリス人のグループというわけではない。メンバーにイギリス人はだれもいない。仕掛け人のサイモン・コーエルが、イギリス人なのだ。

サイモン・コーエルは、レコードのプロデューサーで、テレビのプロデューサーだ。日本円で40億円以上のサラリーをとっている、といわれる、テレビ界と音楽界、両方に足をかけて稼ぐ、イギリス芸能界の顔役だ。テレビのオーディション番組、「ポップ・アイドル」「アメリカン・アイドル」などの審査員としても有名らしい。

イル・ディーヴォは、サイモン・コーエルが、イタリアのテナー歌手アンドレア・ボチェッリとサラ・ブライトンとのデュエット「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」を聴いて、思い浮かんだアイデアから生まれたコーラス・グループだ。

サラ・ブライトンは、ミュージカル「キャット」「オペラ座の怪人」のオリジナル・キャストで有名なイギリス人女性歌手。いわばポップスの人だ。イタリア・オペラのテナーと、ミュージカルの主役の共演、これが、仕掛け人サイモン・コーエルの発想のもとらしい。

正式な音楽教育をうけて、クラシック界で活躍している歌手、それも、とびっきりハンサムな若者を4人、ヨーロッパの色んな国から集めて、さまざまな言語でポップスを歌わせる。というのが、サイモン・コーエルのアイデアだった。

4年かけてオーディションをかさねて結成したのが、イル・ディーヴォなのだ。ファースト・アルバムが、いきなり世界じゅうで大ヒットした。かれらは、英語、イタリア語、スペイン語、フランス語で歌う。

プロミス

イル・ディーヴォ Il Divo。左から、アメリカ人デヴィッド・ミラー。フランス人セバスチャン・イザンバール。スイス人ウラス・ブーラー。スペイン人カルロス・マリン。

      イル・ディーヴォ With Out You http://www.youtube.com/watch?v=Q3p1TDwjU2Y&feature=related

            イル・ディーヴォ Si tu me amas http://www.youtube.com/watch?v=NN143cZepV4&NR=1

             トニ・ブラクストン&イル・ディーヴォ The Time Of Our Lives
http://www.youtube.com/watch?v=aVzkjXffAuU&feature=related

             イル・ディーヴォ  オフィシャル・サイト http://www.ildivo.com/

                  

ブレイク Blake は、2007年にデビューしたイギリス人のコーラス・グループだ。

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ブレイクは、イル・ディーヴォと逆に、グループが先にあって、じぶんたちでプロデューサーに売りこんでメジャーデビューをした。みんな子供のときからクラシックの声楽を学んで、黒人霊歌やポピュラーなクラシックや映画音楽をレパトリーにするコーラス・グループを組んでいた。

デビューしてから、ひとりメンバーがぬけて、代わりの新メンバーを募集すると、数千人が応募したという。このグループ4人も、なかなかハンサムなのだ。

ブレイク(初回限定盤)(DVD付)

愛と青春の旅立ち
Together

ブレイクの新譜「TOGETHER」は、12月31日の発売予定だ。

 

     ブレイク  Moon River http://www.youtube.com/watch?v=bmws4ZGpfQg&feature=related

             ブレイク Swing Low  http://www.youtube.com/watch?v=zVBphgf7vHA&feature=channel

             ブレイク オフィシャル・サイト(オーストラリアのページ。イギリスのサイトは工事中)http://www.blakeofficial.com.au/

                    

この数日、秋風が吹いていたのだが、揺れもどしの夏がやってきた。きのう、きょうと30度を超える暑さだ。

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オランダでの柔道世界選手権、日本女子は、63キロ級も上野順恵が金メダルをとった。四試合すべて一本勝ちのみごとな試合だった。なんと、これで日本女子は、きのうまでの4階級の試合、3階級で優勝した。

もうどうでもいいことだが、日本男子は、優勝どころか準決勝戦すらいけない。すべて一本負けで敗退している。


あすから、マイケル・ケイナの写真展が、釧路である

2009-08-28 | 日記・エッセイ・コラム

                                         

8月2日のブログで、マイケル・ケイナが撮影したアーチ橋を紹介した。北海道・十勝の廃線になった国鉄士幌線、糠平湖に架かる崩壊寸前の橋だ。

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撮影したマイケル・ケイナは、1953年、イギリス生まれ。現在はアメリカに住んでいる。日本の風景作品も多い。北海道の写真集も出版している。冬の北海道には、毎年のように撮影にきているようだ。

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そのマイケル・ケイナの写真展が、あすから釧路芸術館で開催される。あした、29日には、マイケル・ケイナ自身の講演会が無料で開催される。写真家の戸張良彦さんから、あす、釧路の講演会にいきます、とメールをいただいた。マイケル・ケイナとはどんな人か、話を聞きたいものだが……

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釧路芸術館での「マイケル・ケイナ写真展」は、8月29日~11月11日の開催だ。

                      

  マイケル・ケイナ  オフィシャル・サイト http://www.michaelkenna.net/html/archive/index.html

  北海道立釧路芸術館 http://www.kushiro-artmu.jp/


女子柔道が、おもしろい

2009-08-27 | 日記・エッセイ・コラム

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写真ではきれいに見える境川。水は、濁って汚い。ゴミも浮いてる。ところが、よく見ると、驚くほどの数の魚がいる。15センチくらいの小魚で、川を埋めつくすほどの群れだ。もし、水がもうすこし透明なら、人だかりになるだろう。それほどの群れが、汚い水のなかで見え隠れする。

大潮のときは、海との間の水門を開けることになっている。すると、ボラの稚魚やハヤの群れが入ってくるんだ、と、犬を散歩させてる老人がいっていた。でも、水門を閉めると、魚はみんな死んでしまう。水が腐ってるから、酸欠になるだろうね、という。

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これは用水路のなかに咲いてる派手な花だ。あまり近づけないので、ズームで撮ったから画質は粗い。

                     

                              

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わたしの個人的な好みなんだろうが……柔道世界選手権、谷亮子がいないと、どうしてこんなに、おもしろく、ちゃんとスポーツらしい、健全な雰囲気になるのだろう。

48キロでは、福見友子が優勝した。心から祝福したい。よくここまで心が折れずやってきた。たいしたものだ。いままで谷亮子に、2度も勝っていながら、オリンピックにも出場できなかった。福見に負けた谷亮子が出場して、ぶざまな試合をしていた。それをマスコミは、「ヤワラちゃん」がどうしたこうした、と気持ちの悪いはしゃぎようで報道していた。じつに不気味で、不快だった。

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三十才すぎた武道家を、「ヤワラちゃん」と呼ぶ、日本のスポーツ・マスコミの幼稚さにあきれる。代表選考試合に負けた弱い選手が、オリンピック代表になる。その不正を批判できないマスコミこそ、じつにぶざまだ。そんなやつらが、政権交代だ、とはしゃいで世論誘導しているわけだから、どんな日本になっていくのか、そら恐ろしいことだ。

52キロ級は、中村美里が優勝した。北京の雪辱をはたしたわけだ。中村美里も、本来48キロの選手だった。だが、このクラスに谷亮子がいて、谷に勝っても代表にはなれずつぶされるから、階級をあげたのだ。北京の銅メダルではぶ然としていたが、きょうの優勝会見で、笑顔をみせていた。

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57キロの松本薫もいい選手だ。今回は、準々決勝で右手を痛めて不本意な結果だったが、力はある。柔道家らしい、殺気ある、いい顔をしてる。かならず世界のトップになるだろう。女子柔道、おもしろい。

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日本男子は、まるでダメだ。もう男子に関して、柔道はお家芸などとはいえない。マラソンやサッカーとおなじように、日本男子は、世界のレベルについていけないのだ。体力、技術をうんぬんするまえに、アスリートとしての闘争心の欠如が問題だろうな。いまや日本男子柔道は、初戦もビビって勝てないのだ。


同じ種類かな?

2009-08-26 | 日記・エッセイ・コラム

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このふたつの花は、同じ種類の色ちがいのような気がする。一キロくらい離れたところに咲いていたが、枝の様子と葉がよく似ていた。植物のことは、waterさんがくわしいかな?

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なんどか書いたが、母の実家は、電気屋だ。家電の量販店ができる前は、街の電気屋とお客さんとの関係はひじょうに濃密だったものだ。電気屋は、蛍光灯一本の交換にも、スーパーカブに乗ってでかけていった。支払いもローン会社など使わず、店のリスクで月賦販売をした。

日掛けというのもやっていた。これは、お客さんが日払いで支払うのだ。日掛けを利用するのは、飲食店やそこに勤める人たちが多かった。だから電気屋さんは、お客さんのところに毎日集金にいく。こうして、お客さんは、テレビとか冷蔵庫のような高額な家電製品を買った。

それ以外でも、たいていの顧客は、月に一度の支払いだった。だから、電気屋さんは、スーパーカブやミゼットに乗って、街を走りまわっていたものだ。集金にいくと、なにか修理を頼まれ、新製品のセールスもできた。家電製品がどっと世の中にでまわりだした時代だった。電気屋さんは大忙しだったのだ。

ところが、大型スーパーが開店し、家電量販店ができて、街の電気屋さんでは価格競争にとても勝てない。多くの街の電気屋が廃業した。しかし、蛍光灯一本でも交換にきてくれる電気屋さんの需要は、いまでもあるのだ。量販店より多少高くても、むかしからつき合いのある電気屋を贔屓にしてくれるお客さんもいる。

蛍光灯を配達するついでに、お線香を買ってきてよ、という年寄りもいる。ひとり暮らしだったおばは、毎月、電気屋さんの車に同乗して銀行に行っていた。タクシーを使えばいいのだが、気を許せるのは、電気屋さんとお米屋さんだったようだ。

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地下鉄東西線、南行徳駅ちかくでマンションを新築していた。きょう、数週間ぶりに通ると、もう完成していた。一階は、でかい寿司屋が開店していた。回転寿司ではない。しかし、ウインドーをのぞくと、メニューの金額は高くない。客は、いっぱいだ。みんな寿司が好きなんだね。


電気の先生

2009-08-25 | 日記・エッセイ・コラム

おじが亡くなった。母の兄だ。母の祖父と兄弟、つまり、ふたりのおじさんは、わたしの電気の先生だ。

わたしは、小学生のときから、母の実家の電気屋に入りびりだった。その修理室は、わたしに夢の世界だった。あんなに楽しいところはない。そこで、祖父とふたりのおじさんに電気のことと、エンジンのことを教わった。当時、電気器具は、修理してつかうものだし、バイクや自動車は、できるだけ自分で修理したものだ。

わたしは、毎日、学校から帰ると、家の玄関にカバンをおき、西4条をまっすぐ歩いて、10丁目にあった電気屋まで出かけた。アイロンのヒーターの交換や、電源コードの断線修理のような簡単なことは、すぐに覚えてやらせてもらった。おじさんたちに教えてもらいながら、自作のステレオ・アンプを作ったのは、小学6年生のときだった。

50才をすぎてからPCをつかうようになったが、ジジイになっても、そんなに苦なく扱えるようになったのも、小学生のときに、祖父とおじさんたちに教わった電気の知識があったからだ。真空管アンプなら、きっと、いまでも修理できるだろう。


ダスト・マイ・ブルームほど、刺激的なイントロはない。

2009-08-24 | 日記・エッセイ・コラム

              

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左から、エルモア・ジェームス、ソニー・ボーイ・ウイリアムソンⅡ、トミー・マッケナン、リトル・ウォーター。わたしの好きな写真だ。1953年のシカゴらしい。みんな若く、ハンサムだ。

  エルモア・ジェームス http://www.youtube.com/watch?v=aKo80b-QfK0

名曲「ダスト・マイ・ブルーム」は、最初は、ロバート・ジョンソンが録音した。戦前の1937年のことだ。エルモア・ジェームスが、あの刺激的なイントロで録音したのは、1951年だった。

しかし、あのギター。すごい。

このあとのすべてのロックンローラーに影響をあたえたスライドギターの名演だ。ベートーベンの運命と、匹敵する、刺激的なイントロだ。

 


三上寛、高田渡、遠藤賢司、加川良

2009-08-23 | インポート

帯広で三上寛のコンサートがあると、佐々木要さんのブログにある。

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わたしが、三上寛のライブを主催したのは、1972年のことだったか。

遠藤賢司、高田渡、加川良、そして三上寛の4人が出演した。これは、東京で組んだパッケージではなく、わたしの独自のキャスティングだった。そして、ツアーではなく、帯広だけ、一晩のライブだった。

いまでは、豪華なメンバーだが、当時はみんな若く、いわば、かけだしで、ギャラも安かった。マネージャーはついておらず、生ギター1本だから、東京から飛行機でやってくるのは、4人だけ。これは、北海道の場合、大きな経費の節約になる。

(高田渡さんは、2005年に亡くなられた)。

(のちにニューミュージックといわれ、当時、フォークソングといわれたそのジャンルは、まだマイナーで、スポンサーも付かなかった。航空券は定価でしか買えなかった。わたしが24才で、まだ若く、地方の小さいレコード屋の店長にすぎなかったから、だれからもナメられていた、ということもある)。

この前に吉田拓郎のコンサートや、エレック・レコードのパッケージショーは主催していた。しかし、これらは東京でできあがった企画をうけただけで、わたし独自の企画は、これがはじめてで、いわばデビュー戦だった。

会場は、帯広市民会館の大ホールだった。客の入りは、満員という具合にはいかなかった。大半が高校生と中学生だった。しかし、十分に採算はとれたのだ。なんといっても、東京からの直行便でやってくるのは、たった4人で、ひとりのギャラは、5万円くらいだったのだ。(本人にいくらはいるかわからない。当時の5万円は、芸能人のギャラとしては小さいが、ひとりの日当としては、大きい。大卒の月給の金額だろうか)。

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PAは、ハウスPA、つまり会場の音響設備だけをつかう。アンプ、ミキサーを持ち込まない。照明は、会場におまかせ。生明かりで、ほとんど色をつかわない。センターのサスピション・ライトとピンスポットだけ。そして、ギター1本。安上がりなステージなのだ。

(わたしたちが、PAや照明機材を持ち込む前の地方公演は、たいがい、その会場の音響、照明の技術さんにおまかせだった。台本と進行表、舞台図と照明のプラン図を事前にわたしておくと、完璧にやってくれる職人さんたちが、たくさんいた。みんな市役所職員、地方公務員なんだろうが、役人臭さはまったくない。いいステージをつくりたい、という情熱をもった職人さんたちだった。その地方の会場の市職員からプロの音響屋さんになったひともいる。照明屋さんもいる。

最初にわたしたちが、音響機材を持ち込み、照明機材を持ち込みだしたとき、会場の技術屋さんと、東京からやってきた技術のスタッフとのあつれきがあった。わたしは、主催者なのでその仲裁をするのも仕事だった。その話はまた後日)。

わたしの、このデビュー戦は、まずまずの成績だった。興行というものの要領もわかりかかってきた。つぎは、北海道ツアーを組むことにした。そして、井上陽水、モップス、チューリップ、ユーミン、ダウンタウン・ブギウギ・バンド、矢沢永吉、浜田省吾と、どんどんいけいけとなるわけだ。

そうそう、わたしの興行師としてのデビュー戦は、ビートルズの映画大会だった。そのあとにエレック・レコードの「唄の市」をやり、吉田拓郎コンサートをやった。独自企画生ものデビューが、このフォークソング4人衆のライブだったのだ。宿は、ふく井さんだった。

かって、打ち上げは、ろばたの灯り二階で飲み、そのあと、ホテルの地下、鳥ふくさんで飲む。これが、わたしが主催したコンサートのミュージシャンの、夜の王道だった。


デューク・ロビラードは、ファビュラス・サンダーバーズのギターだったのか

2009-08-22 | 日記・エッセイ・コラム

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きょうは朝から、デューク・ロビラードのブルースを聴いていた。たまたまT.ボーン・ウォーカーのことを調べていて、影響をうけた現代のギタリストに、知らない名前のブルース・ギタリストをみつけた。Duke Robillard 、このギタリスト、キャリアは長い。いかにわたしが長い年月、音楽を聴いてなかったかだ。知らないことは気になる。調べないと落ち着かない。それで、朝から、ブルースを聴くことになった。

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デューク・ロビラード Michael John "Duke" Robillad は、1948年生まれだから、まったくわたしとおなじ世代だ。1967年、アル・クーパーとブルースバンドRoomful of Blues を結成したとある。ということは、わたしは知ってなければならないはずだが、このバンドRoomful of Blues 自体が初耳だ。日本ではまったく話題にならず、もちろん国内盤は発売にならなかったのか? きのうのことは忘れても、むかしのことは鮮明に覚えているつもりだったが、このバンド名は、不覚にも知らなかった。

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L_image_10941787f49_93_88_fa_d0_7a0  アル・クーパー

デューク・ロビラードは、このRoomful of Blues のギタリストを1990年までやっていた。23年もおなじバンドのギタリストをやっているのは、日本のバンドでは奇異な感じがするが、きっとアメリカ的にはおかしなことじゃないのだろう。

だいたい、このRoomful of Blues というバンドそのものが、1967年に結成されて現在もつづいているのだ。(もちろんメンバーの出入りはある)。

Kimwilson2  キム・ウイルソン

そのあとデューク・ロビラードは、ファビュラス・サンダーバーズ The Fabulous Thanderbirds に参加する。これも白人のブルースバンドだ。ボーカルでハーモニカのフロントマンが、キム・ウイルソン Kim Wilson。ギターは、ジミー・ヴォーン Jimmie Vaughan

Vaughan ? ヴォーン? ジミー・ヴォーン?

6863019md  ジミー・ヴォーンとキム・ウイルソン

ジミー・ヴォーンといえば、スティーヴン・レイ・ヴォーンの兄弟じゃないか!

Larryaberman33  ヴォーン兄弟

Nn_jimmie_vaughan_15  ジミー・ヴォーン

  デューク・ロビラード Gee I Wish http://www.youtube.com/watch?v=Badr8UW1o6k

  ファビュラス・サンダーバーズ http://www.youtube.com/watch?v=zVJvwfJm-5U

              

     デューク・ロビラード  オフィシャル・サイトhttp://www.dukerobillard.com/

  ジミー・ヴォーン  オフィシャル・サイトhttp://www.jimmievaughan.com/

  Roomful of Blues com. http://www.jimmievaughan.com/

     The Fabulous Thanderbirds  オフィシャル・サイト http://www.fabulousthunderbirds.com/main.html?version=html

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ジミー・ヴォーンは、ツアー中に事故死した弟、スティーヴン・レイ・ヴォーンより3才上、いま58才だ。テキサス・ブルースの伝統の人だが、タイトでロックンロールで、いわばテキサス・ロカビリーだ。じつにかっこいいギターを弾く。http://www.youtube.com/watch?v=wAno6opLXe0&feature=related

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巨大すすき、パンパスグラス

2009-08-21 | 日記・エッセイ・コラム

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この巨大なススキは、「パンパスグラス」と、Waterさんに教えていただいた。ありがとうございます。

しかし、この巨大なススキが、日本の野原をうめつくす光景は想像したくない。

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二日前にハリウッド映画の音楽の巨匠、マックス・スタイナーのことを書いた。ハリウッドで活躍した作曲家たちはみな、音楽家としてびっくりするような学歴をもっている。たとえば、「カサブランカ」や「風と共に去りぬ」のマックス・スタイナーは、ウイーンで生まれ、子供のころ、ブラームスにピアノの手ほどきをうけ、15才で入学したウイーン国立音楽大学では、マーラーに作曲と指揮を習っている。

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それからすると、わが北海道出身の伊福部昭さんや早坂文雄さんは、ほとんど独学でクラシック音楽をマスターしたのだから、その努力と情熱には敬服する。北海道に音楽を教える学校がなかった、ということもあるのだろう。

25才すぎて上京して、東宝映画の専属作曲家になった早坂さん。30代になって東京にでて、東京音楽学校の教授になった伊福部さん。ふたりは、日本のクラシック(純音楽)界の中心になり、日本映画最盛期、世界的にヒットした映画の作曲家として世界に名を知られた。(なんどか書いたが)、ふたりが大学生だった当時の札幌がどんな音楽状況だったか、おもしろい。

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伊福部昭さんは、映画では「ゴジラ」の音楽で有名だが、東京音楽大学(東京藝術大学)学長だった。作曲では、芥川也寸志や黛俊郎が教え子だし、大学での弟子は多数いる。

札幌時代の音楽仲間だった早坂文雄さんは、「七人の侍」「羅生門」など黒沢映画の作曲家だ。ふたりとも、映画音楽のほかにクラシック(純音学)作品も多数ある。

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永代橋をわたる

2009-08-20 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜は、娘と孫と、銀座で会った。あんな楽しい夜はなかった。孫は、女の子ふたりのほうだ。

1022  永代橋 午前零時。

孫も可愛いし、娘とは話がつきない。時間はあっという間にすぎていく。娘たちが泊まっているホテルをでると、終電はとうにおわってるので、楽しかった時の余韻をあじわいながら、歩いて帰ることにした。

銀座からわたしのところまで、3時間30分と予想した。わたしの脚力では、どうということもないのだ。ちょっと遠回りして、夜明けの江戸川をながめたから、3時間50分くらいかかった。隅田川、荒川、江戸川と三つの大きな川をわたる。


「風と共に去りぬ」も、マックス・スタイナーの曲

2009-08-19 | 日記・エッセイ・コラム

佐々木要さんのブログに、カサブランカという花がある。

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映画の「カサブランカ」は、テーマソング「As Time Goes By」が有名だ。いまでも、映画音楽の人気ランクでは上位にある。しかし、この有名な曲は、この映画のために作られたのではない。映画より11年前に ブロードウエイ・ミュージカルで歌われてヒットしていた。だから、映画のなかで「ふたりの思い出の古い曲」として使われるのは、じつに正解なのだ。

映画「カサブランカ」の音楽は、巨匠マックス・スタイナーだ。ハリウッドで映画音楽を手がける前は、15年間ブロードウエイ・ミュージカルの指揮者をやっていた。ハリウッドに行ってからは300本以上の映画音楽を作曲し、26 回アカデミー賞にノミネートされ、3回受賞した。

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マックス・スタイナー作曲で、日本でよく知られている曲は、「風と共に去りぬ」の「タラのテーマ」だろう。しかし、このもっともよく知られている曲は、アカデミー賞を受賞しなかった。

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「タラのテーマ」のタラは、主人公スカーレット・オハラ(ビビアン・リー)が守りぬこうする農園がある土地の名前。南北戦争の敗戦で、故郷の南部は荒廃する。しかし、そこから復興するのだ、というスカーレット・オハラの強い決意に、敗戦国の日本人は共感した。そんなこともあって、この映画は、戦後の日本で大ヒットした。制作されたのは、戦前の1939年だ。そんな昔に、ハリウッドでは、こんなフルカラーの大スペクタル映画を作っていた。焼け落ちるアトランタの街からの脱出シーンは、いまみても古さを感じさせない大迫力だ。日本での封切りは、戦後の1952年のことだ。

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作曲家マックス・スタイナーは、オーストリアの人だ。ウイーンで劇場を経営している家にうまれた。名付け親は、リヒャルト・シュトラウスで、ピアノは、ブラームスに習った。15才でウイーン帝室音楽院(現ウイーン国立音楽大学)に入学して、マーラーに教えをうけている。1914年にアメリカに渡った。そして、15年間ブロードウエイ・ミュージカルの指揮者をやっていた。ハリウッドに招聘されて最初の大ヒット作は、「キングコング」だった。

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   映画「風と共に去りぬ」 タラのテーマ http://www.youtube.com/watch?v=dF48Oo7hKeU


まさに、時代は変わる、だな

2009-08-18 | 日記・エッセイ・コラム

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ボブ・ディランが、警官から不審尋問をうけた、という。警官は、ボブ・ディランの名前は認識していたが、本人だと信じなかったという。

7月23日、ニュージャージ州ロングビーチでコンサートがあったボブ・ディランは、ツアーバスを降りて、散歩していた。売り出し中の家を窓からのぞいていると、近所のやつが警察に通報した。やってきた警官は、ともに24才の男女ふたりだという。

ボブ・ディランと名のったが、警官は信じず、身分証明書の提示をもとめた。ツアー・バスまで同行して身分証明書をみせた、という。

記事では、ひとりの警官は、ボブ・ディランの名前を認識していた、とあるから、もうひとりの警官は、ボブ・ディランの名前すら知らなかった、ととれる。顔はふたりとも知らなかったわけだ。アメリカの警官のレベルが低い、ということだが、24才の若者は、もうボブ・ディランを知らないともいえる。

20世紀の、最も影響力があったシンガー・ソングライターもかたなしだ。時代は変わり、人は老いて忘れ去られるのだろうが、寂しいはなしだ。

                             

 「ボブ・ディラン? 知らんな。おい、ボブ・ディランって、知ってるか?」
 「名前、聞いたことあるわ。死んだおばあさんの遺品にレコードがあったわ。たしか歌手よ。もう生きてないでしょ」
 「このじいさんが、そのボブ・ディランだってよ」
 「もうろくしてるのよ。本気で若いときスターだったと思いこんでいる年寄りがいるのよ」
 「どうする、このじいさん?」
 「撃ち殺したら」
                          

ボブ・ディランは、ロンビーチ近郊で、ウイリー・ネルソンとのコンサートがあって、会場にいく途中だった。ツアー・バスをおりて、雨のなかを傘をささず、フードをかぶって歩いていた。なぜ、雨のなかを歩いているのだ、と警官に訊かれて、「歩きたい気分だった」、と答えたという。

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もうそろそろボブ・ディランが、ノーベル文学賞をとってもいいのじゃないか、と、わたしは思うのだが……歳も歳だし。

  ボブ・ディラン 時代は変わる The Time They Are A Changing http://www.youtube.com/watch?v=wgECKj9LSH4

     ボブ・ディラン  オフィシャル・サイト http://www.bobdylan.com/


すごいススキをみた

2009-08-17 | 日記・エッセイ・コラム

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散歩の途中でみた、すごいススキ。家庭菜園にしては広い畑だ。畑にいた菜園オーナーの人と話をした。ススキの種類だが、日本のものではない、という。どなたかこのススキの名前を知っているだろうか?

                            

民主党が、反日的な政党だということは知っていたが、ここまでひどいとは、あきれはてる。なんと日本の国旗日の丸を切り刻んで自分たちの党旗をつくったのだ。

Long1250485821363 日の丸を切って、党旗にしている。

確実にこの反日政党が、今度の衆議院選では圧勝するだろう。恐ろしいことだ。この政党が勝つのは、その政策が国民に支持されたからではない。この数年、マスコミの強力な反自民党のキャンペーンがあったからだ。

田中真紀子が民主党に入党した。勝ち馬に乗ろう、というわけだ。政権交代後は、小沢が国権の中心になるだろう。ひどい国になったものだ。日本でもっともダーティーな政治家が、政権の中心に座るわけだ。

世界的には化石のような、社会主義者、共産主義者と、かっての自民党の最暗部を担った政治家が、いっしょになって国政を担う。それは、だれの意図なんだろうか? マスコミの、安倍、福田、麻生とつづいた、現首相に対する攻撃は異常だった。ほとんど狂気だろう。新聞、テレビは、首相の言葉じりをとらえるという、日本人が一番軽蔑する幼稚で、姑息なやりかたを平気でつかっていた。

媚中、親朝鮮の小沢が、国政の中心になって、どんな国になるのだろう? 恐ろしいことだ。いま、東京の中国人は、16万人、日本中では60万人を超えた。これは、正式に外国人登録している数だ。不法に滞在しているのは、この数倍いるという。在日朝鮮人の数を超えた。昨年、長野で、やりたい放題大暴れした中国人留学生という連中をおぼえているだろう。

小沢・鳩山で、かれらが大好きな中国や北朝鮮のような国をつくるのだろうか? 恐ろしいことだ。

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中国政府から流失したという、中国共産党の願望図だ。2050年には、日本は、チベット化されている、というやつら漢人の願望が絵になっている。その前に、自己崩壊している、とわたしは思うのだが、いま、小沢とか鳩山は、この絵を信じているのだろう。恐ろしいことだ。