朝から強風と雨。台風だ。
一日じゅう、部屋から一歩もでず、本を読んでは居眠りをしていた。読んでいたのは、『あるピアノの伝記 スタインウェイができるまで』( ジェイムズ・バロン著 忠平美幸訳 2009年 青土社)。
翻訳が、ちょっとまわりくどい日本語表現で、かったるいから、英語で読めるひとは、原書で読むのがいいのかもしれない。わたしは、翻訳で読んでいるが……じつにおもしろいドキュメンタリーだ。
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ニューヨークのスタインウェイ工場で作られていく一台のピアノが主役だ。製造中は、K0862。製品になって、CD-60という番号のピアノの、できていく行程を追いながら、スタインウェイ社の歴史から、ピアノ製造の作業工程の詳細、そして、現場の職人のプライベートな生活までドキュメントしている。創業一族も移民、現在の職人たちも移民たちだ。
日本に入ってくるスタインウェイのピアノは、ほとんどドイツ・ハンブルグ工場製だが、アメリカ・ニューヨーク工場が、スタインウェイ社の創業地だ。いまも、150年まえとおなじニューヨークの工場で、450人の職人が、むかしとおなじ手作業で製造している。
スタインウェイ家は、アメリカに移住するまえは、シュタインヴェクというドイツ風の名字だった。ドイツでピアノを製作していた。一家は、1850年にドイツを離れ、1853年、ニューヨークで「スタインウェイ&サンズ」を創業した。
一家がアメリカに移住する一年まえには、次男カールが、先行してアメリカに入り、アメリカのピアノ産業を偵察して、ちくいち父親に手紙で報告している。ドイツ人らしく周到なのだ。アメリカに移住してもすぐには開業しない。一族のメンバーは、ほかのピアノ会社の職人になったり、下請け仕事をやって、3年待つ。
一族のなかでもっとも天才肌といわれる、C.F.テオドール・スタイウェイ(シュタインヴェク)はアメリカになじめず、1884年にドイツに帰国してしまう。そうしてハンブルグに工場をつくる。それが、ドイツのスタインウェイなのだ。
ドイツに帰ったテオドールは、アメリカには二度ともどらなかったが、肉親と連絡を取りつづけた。改良したピアノの作業仕様書を送りつづけた。こうして、何世代にわたってふたつの工場は、おなじ基準で、おなじ型の製品をつくっている。わずかに外観のデザインが違うことと、塗装剤が違う。とうぜんだが、音はちがう、という。
第二次世界大戦ちゅう、コンサート用も家庭用も、ピアノの需要が全くなくなった戦時下をどうしのぐか。木製品の専門メーカーとして、仕事をさがさなくてはならない。スタインウェイは、アメリカ軍の輸送用グライダーCG-4Aの木製部品を製作したのだ。
このグライダーは、武器、弾薬とジープを積んで、90メートルのロープで輸送機に曳航される。目的地の上空で切りはなされて、あとはパイロットの技量にまかせた胴体着陸だ。アメリカもまた、特攻隊なみに兵士の命は軽い。着陸に適した平坦なところなど少ないだろうし、うまく着陸しても敵のど真ん中というケースが多いだろう。レジスタンスのれんちゅうが、たいまつの火を目印に着陸地を確保している、といううまい話は、映画のなかだけだろう。
パラシュートで降下させて大量に兵士を殺されるより、パイロットと搭乗するわずかな兵が殺されるほうが、数の上では有効な作戦だ、という発想らしい。
そして、スタインウェイは、1930年代の売れ残りのアップライト・ピアノを改良して、前線用に数千台のピアノを軍に売りつけた。軍服とおなじ色に塗装されたピアノは、GIピアノというらしい。
品質にこだわるスタインウェイは、前線の兵士が調律できるように、道具と取扱説明書をGIピアノにつけた。
スタインウェイは、こうして、グライダーと前線用のピアノの製作で戦時下をしのいだのだ。
このGIピアノが、北海道の北広島市に残っている、と訳者のあとがきにある。北広島東記念館・郷土資料収蔵室にあって、つい最近オーバーホールされて、いまは豊かな音色をとりもどしている、とある。いちど、このGIピアノをみてみたい。
北広島市のスタインウェイ・ピアノ解説のページ http://www.city.kitahiroshima.hokkaido.jp/hotnews/detail/00001918.html
アメリカで、家庭のなかでピアノを弾くという娯楽は、ラジオ、テレビ、オーディオの普及ですっかり衰退した。ピアノ産業は、斜陽産業の代表だった。それに加えて、日本のヤマハ、カワイが台頭していた。1972年、倒産寸前だったスタインウェイ&サンズは、スタインウェイ一族と役員が持つ、すべての株式をCBSに売却した。創業者たちの末裔のスタインウェイ一族は、巨額の金を手にしたが、スタインウェイ&サンズとはいまや無縁だ)。