Ommo's

古い曲が気になる

369歩兵連隊 “ハーレム・地獄の戦士”

2012-01-31 | 日記・エッセイ・コラム

                                 

 1970年、ジェリー・ジェフ・ウォーカーの「ミスター・ボージャングル」を、ニッティー・グリティー・ダート・バンドがカバーしてヒットすると、当時のアメリカの大物アーティストがこぞってステージで歌い、レコーディングした。

 それは、留置場で出会った“ミスター・ボージャングル”と呼ばれる、タップダンスがうまいホームレスのおっさんの話が、ヒューマンで心温まる、ということじゃなく、この曲が、実在した偉大な黒人タップダンサー、ビル“ボージャングル”ロビンソン へのオマージュだからだろう。

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 黒人公民権運動の先頭にたっていたハリー・ベラフォンテやニーナ・シモンがいち早くレコーディングしている。

    ハリー・ベラフォンテ Mr.Bojangles http://www.youtube.com/watch?v=poYHe54Dyfc&feature=related

  ニーナ・シモン Mr.Bojangles http://www.youtube.com/watch?v=tJs3ooeQDYY 

       

 ビル“ボージャングル”ロビンソンは、天才的なタップダンサーで、白人社会にも認められた、超高額なギャラの最初の黒人エンターテイナーということだけではない。実質的なハーレムの市長、といういわれるほどニューヨークの黒人街での信望があった。

 1949年に亡くなったときの葬儀の映像がある。沿道で葬列を見送った人々は、3万人を超えていたといわれる。

     ビル・ボージャングル・ロビンソンの葬列 http://www.youtube.com/watch?v=Qy30vnq0Pdc&feature=related

           

“ミスター・ボージャングル”、ビル・ロビンソンは、第一次世界大戦のとき、ニューヨーク・ハーレムの黒人青年たちの志願兵で編成した部隊、369歩兵連隊のライフル兵だった。ナイトクラブのショーやブロードウェイで大金を稼ぐ、人気のタップダンサーだったが、志願して黒人部隊に入隊するのだ。

 このニューヨーク・ハーレムの志願兵部隊は、フランス国防軍の指揮下にはいって、フランス軍の軍服を着て戦った。

 

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 “Harlm Hellfighers”(ハーレムの地獄の戦士)といわれ、勇猛果敢で恐れられたのだ。すこし前まで奴隷制があった、そのアメリカというの祖国ために戦う黒人部隊は、黒人の地位向上に大きな役割をはたした。ニューヨークのハーレムの黒人たちには、369歩兵連隊“Harlm Hellfighers”は、誇りなのだ。

 タップダンサー、“ミスター・ボージャングル”・ビル・ロビンソンは、この“Harlm Hellfighers”の隊員だ。ニューヨークの凱旋行進では、先頭をいく音楽隊のドラマーだった。(この369歩兵連隊の音楽隊は、ジャズ史では大きな存在だ。そのことは、またいつか書こう)

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 ニューヨークを凱旋行進する、369歩兵連隊音楽隊。

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  サミー・デイビス・ジュニア  Mr.Bojangles  http://www.youtube.com/watch?v=NvYmL5KsvYA&feature=related 


ミスター・ボージャングル

2012-01-30 | 日記・エッセイ・コラム

 

  「ミスター・ボージャングル」は、60年代の名曲のひとつだ。ポップス、ジャズまで、さまざまなミュージシャンにカバーされている。

    ジェリー・ジェフ・ウォーカー Mr.Bojangles http://www.youtube.com/watch?v=FpELGrF1Fy4

ミスター・ボージャングル

 ジェリー・ジェフ・ウォーカーのアルバム『ミスター・ボージャングル』が発売されたのは、1968年(昭和43年)のことだ。

 アルバムタイトルにもなっているこの歌は、ジェリー・ジェフ・ウォーカーが実際に体験したことをもとにつくったという。

 1965年、彼は酒に酔って逮捕され、留置場にいれられた。アメリカやヨーロッパの国には、public intoxication (パブリック・イントキケーション)という罪がある。(道路など)公共の場で酒に酔って徘徊してはダメ、という軽犯罪で、アメリカの州によっては30日間勾留される。JR新橋駅界隈で酔ってふらついているサラリーマンのおっさんたちは、30日ブタ箱なら、すぐに会社はクビだ。

 愉快に飲んでいたはずが、そこで記憶が飛ぶ、二日酔いで目が覚めたら、そこは、警察の留置所だった、というのは落ちこむ。ジェリー・ジェフ・ウォーカーは、その状態だったらしい。30日留置されたら、仕事も家族も、すべて失う。と思うと、誰だって沈みこむ。

   

 そのとき、同じ留置場に“ミスター・ボージャングル”というアダ名のホームレスの爺さんがいた。その爺さんが、「きみは若いんだ、まだまだ人生は長い、いくらでもやり直しがきくさ、そんなに落ちこむんじゃない」、とか慰めてくれた。旅回りのショーのダンサーだったという自分自身の話をしてくれ、留置場にいる連中がしずんでいると、ボロボロの服を着た“ミスター・ボージャングル”は、タップダンスを踊って、ブタ箱のみんなをはげましてくれた。“ミスター・ボージャングル”が跳ぶときは、それは高いんだ。

 まあ、荒々に説明すると、そんなような歌なのだ。

Uncle Charlie And His Dog Teddy

  この曲が決定的にメジャーになったのは、ニッティー・グリティー・ダート・バンドの、このアルバムだろうか。

    ニッティー・グリティー・ダート・バンド Mr.Bojangles http://www.youtube.com/watch?v=j3YMyW0SqmU

 このアルバムは、1970年(昭和45年)の発売だ。北海道・帯広の、わたしの小さいレコード屋でもよく売れた。お客さんは、二十代の前半の若者と、そして、高校生や中学生だ。あの当時の少年少女は、耳も良い。音楽センスもいい。ポップスやハードロックも聴くが、こういうカントリーっぽいフォークロックも聴く。

 ニッティー・グリティー・ダート・バンドのアルバム「With The Circle Be Unbroken 」もよく売れた。LP2枚組だ、当時としては高額だったが、驚くほどよく売れた。きっと、北海道では、わたしの店で一番売れたのではないだろうか。

Will the Circle Be Unbroken

 

 もちろん、この曲「ミスター・ボージャングル」が、いまもカバーされる名曲になったのは、留置所のホームレス“ミスター・ボージャングル”を歌ったからではない。実在のタップダンサー、“ボージャングル”は、黒人のエンターテイナーのヒーローだったからだ。

 

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 1878年に生まれた、ビル“ボージャングル”ロビンソンは、幼いとき両親を亡くし、小さいときから大道芸のタップダンスで生き、ショーのメンバーなり、ニューヨークのクラブ、ブロードウェイの舞台、そして映画スターになった人だ。

   ボージャングルとシャーリー・テンプルhttp://www.youtube.com/watch?v=AjCFYpWDmfM

 黒人公民権運動の先頭に立っていたハリー・ベラフォンテやニーナ・シモンが、白人カントリー・シンガーが作った、ビル“ボージャングル”ロビンソンを賛美する曲をレコーディングする。おもしろいね。

   ニーナ・シモン Mr.Bojangles   http://www.youtube.com/watch?v=86wME5d_yZM

 

   

 


天満屋の重友梨佐が優勝

2012-01-29 | 日記・エッセイ・コラム

  

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 きょうの大阪国際女子マラソンもおもしろかった。優勝は天満屋の重友梨佐。2時間23分23秒、タイムもいい。そして、まだ24歳だ。日本女子マラソンに、ニュースター登場だ。

 27キロで、福士加代子を振り切り、あとは独走だった。最高に調子のいいころの高橋尚子や野口みずきの強さをみるようで、みごとなレースだった。日本女子マラソン・歴代9位の記録だ。まだ24歳、2度目のマラソンというから、まだまだ伸びる逸材だろう。

 いったんトップグループにおくれたが、諦めず追い上げて3位になった、野尻あずさの走りもなかなか素晴らしかった。

     天満屋女子陸上部 重友梨佐 http://www.tenmaya.co.jp/track_and_field/member/shigetomo.html

 


エレキギターは、すごい

2012-01-28 | 日記・エッセイ・コラム

     

 ロイ・ブキャナンのことを書いていて、あらためて思った。エレキギターの発明は人類音楽史にとって、すごいことだ。

 鉄の弦の振動を電磁石でひろって、増幅して、電磁石を使った紙のラッパで拡大して出す。「簡単なことだ」と、できたものをみれば言える。しかし、最初にギター用のピックアップを作り、最初にギター用の真空管アンプを作った人は、はやり、すごい。

 


「雨にぬれた朝」、オリジナルは賛美歌

2012-01-27 | 日記・エッセイ・コラム

                            

 ケーブルテレビでイギリスのドラマをみていると、キャット・スティーヴンスを話題にしていた。

 キャット・スティーヴンス………懐かしい名前だ。日本でも、60年代の後半から70年代の半ばくらいまでずいぶん売れたミュージシャンだ。日本のフォークソングやニュー・ミュージックのソングライターで影響された人もたくさんいるだろう。(猫なんとかいう芸人も、名前をいただいのだろうか?)

Very Best of

     キャット・スティーヴンス Father and Son http://www.youtube.com/watch?v=Q29YR5-t3gg&feature=related

Tea for the Tillerman

Mona Bone Jakon
Teaser & The Firecat (Dlx)

                                

 しかし、1977年、イスラム教に改宗して、芸名も、コスフ・イスラムに変えた。そのせいか、日本ではすっかり忘れられた存在になった。

                    

    キャット・スティーヴンス Morning Has Broken http://www.youtube.com/watch?v=FP7Ry9MfkQU&feature=related

 「 Mornig Has Broken (雨にぬれた朝)」は、1971年、キャット・スティーヴンスが歌って大ヒットした。しかし、この曲は、キャット・スティーヴンスのオリジナルではない。キリスト教の賛美歌だ。スコットランドの古い曲 Bunessan が元歌で、イエス・キリストの誕生を歌ったクリスマス・キャロル Child In A Manger として教会で歌われていた。キャット・スティーヴンスが歌った歌詞は、童話作家で詩人のエレナ・ファージョンが作詞して、1931年に発表された。

           サラ・ブライトマン&リカルド・コチャンテ Child In A Manger http://www.youtube.com/watch?v=4GvD1gA-SNg

    ナターシャ・マーシ Morning Has Broken http://www.youtube.com/watch?v=WfBOrtK1sx4&feature=related


ロイ・ブキャナンの「メシアが再び」

2012-01-26 | 日記・エッセイ・コラム

                               

 ロイ・ブキャナンの「メシアが再び The Messiah Will Come Again 」は、日本でもヒットした。        

   ロイ・ブキャナン The Messiah Will Come Again '74 http://www.youtube.com/watch?v=6PLh4t7_JzM

 きのうのジョニー・オーティスの記事で、ジョニー・オーティスと息子のシュギー・オーティス、そして、ロイ・ブキャナンが演奏する Bye Bye Baby の映像を紹介した。ロイ・ブキャナンもまた、ジョニー・オーティス・ファミリーといえるブルースマンなのだ。

 ロイ・ブキャナンは、15歳でプロのミュージシャンになったが、それが、ジョニー・オーティス・ショーのメンバーだったのだ。

 その後、デイル・ホーキンズのバンドのギタリストなる。チェス・レコードの My Babe でロイ・ブキャナン、18歳のギターが聴ける。ロカビリーだ。

      デイル・ホーキンズ My Babe http://www.youtube.com/watch?v=oTUaEY8tDdY

 ロイ・ブキャナンは、カナダ・ツアーのトロントでグループをぬけて、デイル・ホーキンスの従兄弟、ロニー・ホーキンズのレコーディングに参加してベースを弾いている。このロニー・ホーキンズのバック・バンドは、ザ・ホーキンズといった。のちにボブ・ディランのバックバンドとして名声を得る、ザ・バンドだ。

 ロイ・ブキャナンは、レコーディングに参加しただけですぐにアメリカに帰国した。その後、サイドマンとしてロックやR&Bのさまざまなミュージシャンのライヴとレコーディングに参加するのだが、60年代後半、音楽を離れる。家族ができたためだという。貿易商の見習いや、美容師になろうとして美容学校に通ったという。あれほどのギタリストでも、ブルースギターを弾いて家族を養うのは、困難だったのだろう。せつない話だ。

ロイ・ブキャナン

 ソロ・デビューしたのが、このアルバムだ。1972年だからロイ・ブキャナンは、もう33歳だろうか。美容師になって家族を養う……とまで思いつめたスーパー・ギタリストが、どういう経過でソロアルバムを出したのか、好奇心をくすぐるドラマじゃないかな。このソロ・アルバムは、いきなりゴールドデスクなのだ。

 感動したジョン・レノンは、プラスチック・オノ・バンドに誘い、ローリング・ストーンズもリードギターに、とオファーした。だが、ロイ・ブキャナンは、その誘いを断った。

Street Called Straight Street Called Straight

   ロイ・ブキャナン Hey Joe http://www.youtube.com/watch?v=H0pUl5f8wwA&feature=related

 

 1977年(昭和52年)だったろうか。札幌厚生年金会館で、ギタリストの東川佳人くんと、ロイ・ブキャナンのライブを、リハーサルからみていた。プロモーターがミューズ・コーポレーションの社長、木ノ内さんだった。木ノ内さんのご好意で、PA、照明の仕込みのときから、本番のアンコールが終わるまで、ずっと、2階席最前列からみることができた。

Charly Blues Legends Live Vol9

   

        ロイ・ブキャナン Sweat Dreams http://www.youtube.com/watch?v=swX9oq6TVAU&feature=related

 

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 ロイ・ブキャナンは、バージニア州フェアファクス郡の自宅近くで、飲酒運転で逮捕された。翌日、1988年8月14日早朝、警察の留置場で、じぶんのシャツを首に巻いた状態で発見された。警察発表は、自殺。

    ロイ・ブキャナン The Messiah Will Come Again http://www.youtube.com/watch?v=On5372UztI0

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ジョニー・オーティス

2012-01-25 | 日記・エッセイ・コラム

                             

 Azuさんが知らせてくれた。エタ・ジェームズが20日に亡くなったが、そのエタ・ジェームズを発見してレコードデビューさせた、ジョニー・オーティス自身が、17日に亡くなっていた、という。

  http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2012/01/22/DDGK1MS7CL.DTL

 ジョニー・オーティスは、リズム&ブルースとロックに大きな影響を与えた偉大な才人だが、日本ではほとんど忘れられている。残念なことだ。

 ジョニー・オーティスの両親はギリシャからの移民だが、ジョニー・オーティスは、アフロ・アメリカンの文化を愛し、生涯、黒人コミュニティーの一員として生きた。人種差別の激しい時代だ。偏見のない生き方はたいへんな勇気が必要だったのではないだろうか。

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 1921年、カリフォルニア州に生まれたジョニー・オーティスは、18歳のときジャズ・オーケストラのドラマーとしてプロ・ミュージシャンのキャリアをスタートした。自分のバンドをもった、1945年、「ハーレム・ノクターン」をR&Bチャートのナンバーワンにして全米に知られる存在になった。

             ジョニー・オーティス Harlem Nocturne http://www.youtube.com/watch?v=3bYPnfXXUp4

 「ハーレム・ノクターン」は。日本ではサム・テーラーのバージョンが知られているが、ジョニー・オーティスのビッグヒット以来、R&Bのスタンダードとしてさまざまなミュージシャンが演奏している。

               

 ジョニー・オーティスは、エタ・ジェームズを見出しただけでなく、多くのR&Bのスターをデビューさせている。初期のリトル・リチャードのレコードは、ジョニー・オーティスがプロデュースしている。エルビス・プレスリーでヒットした「ハウンド・ドッグ」のオリジナルは、“ビッグ・ママ”ソーントンが歌ったが、これもジョニー・オーティスがプロデューサーだ。

     “ビッグ・ママ”・ソーントン Hound Dog http://www.youtube.com/watch?v=5XUAg1_A7IE

Hound Dog-Peacock Recordings Hound Dog-Peacock Recordings

 

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    ジョニー・オーティス、ロイ・ブキャナン&シュギー・オーティス Bye Bye Baby http://www.youtube.com/watch?v=icwUx_xGPXg&feature=related

            

 ジョニー・オーティスは、ドラム、ヴィブラフォン、ピアノ、ギターを弾き、有能なバンドリーダーで、タレント・スカウト、そしてレコードディング・プロデューサーだが、ただ音楽の分野だけでなく、じつに多才な人だ。ワッツ暴動をテーマにした本を書いている。R&Bの歴史を書いている。政治家であり、教会の牧師でもあり、大学で音楽を教えていた。南カリフォルニアで最も有名なラジオのDJで、このラジオ番組はなんと50年以上つづけていた。テレビ・ショーももっていた。絵も描く。自分のアルバムジャケットを描くだけじゃなく、画集を出版している。そして彫刻家でもあるのだ。(ジョニー・オーティスの兄は、ヨルダンとエジプトのアメリカ大使だった)

Listen to the Lambs Listen to the Lambs

Upside Your Head! Rhythm and Blues on Central Avenue: Rhythm and Blues on Central Avenue (Music/Culture) Upside Your Head! Rhythm and Blues on Central Avenue: Rhythm and Blues on Central Avenue (Music/Culture)
Red Beans & Rice and Other Rock 'N' Roll Recipes Red Beans & Rice and Other Rock 'N' Roll Recipes
Colors and Chords: The Art of Johnny Otis Colors and Chords: The Art of Johnny Otis

雪だ

2012-01-24 | 日記・エッセイ・コラム

    

 きのうは、すさまじい夜だった。まず、けっこう大きな地震があった。次に、近所に落ちたか? というほど強烈な稲妻と大音響の雷だ。そして、大雪。東京でも、こんな大雪になるのか、というほど激しい降りだ。

 今朝は、そこらで人がコケ、車がスリップして大混乱だ。

 「雪国の人たちは平気なのに、東京は、こんなわずかな雪で混乱している」とか、テレビのニュースショーのキャスターは、いつものように、紋切り型のマヌケなコメントをしていた。

 ここは雪国ではない。

 むしろ亜熱帯の北限といえるよう気候の土地だ。真冬だが、そこらに花が咲き、畑では小松菜やホウレン草が青々としている。朝、路面が凍結していることなど、10年に数度しかない。人々は底がツルツルの、普通の夏靴しかもってない。スノータイヤももってない。だれもアイスバーンの道など歩いたことがないのだ。コケて当然だろう。


B.B.キングのSweet Sixteen は、エタ・ジェームズ?

2012-01-23 | 日記・エッセイ・コラム

   

 

At Last (Eco) (Rpkg)

          ビヨンセ At Last http://www.youtube.com/watch?v=Vx_AhWeFcOU&feature=related

 エタ・ジェームズは、1938年、ロサンゼルスで生まれた。母親は十代で、父親はさだかでないという。

 ティーンエージャーの母親は育児放棄して、養母に育てられた。 5歳のときから教会でコーラスを習った。レコードデビュー したのは、14歳のときだ。女の子3人でアマチュアのコーラス・グループをつくっていた。そのグループに、ジョニー・オーティスが注目して、エタ・ジェームズをレコードデビューさせた。

 ジョニー・オーティスは、「ウイリー・アンド・ハンド・ジャイブ」のビッグヒットがある、R&Bのバンド・リーダーだ。シンガー・ソングライターでピアニスト、ビッグバンドの有能なオーナー。R&B史、ロック史では重要なミュージシャンのひとりだ。アル・クーパーとのセッション・アルバム「クーパー・セッション」の、“若き天才ギタリスト”シュギー・オーティスの父親だ。

    ジョニー・オーティス Willie And The Hand Jive http://www.youtube.com/watch?v=qOrQTh_Cq7U

                

 エタ・ジェームズは、14歳でデビューして73歳で亡くなるまで、生涯現役のシンガーだった。最後のアルバムは、2011年のthe dreamer だ。ブルースシンガーとして、みごとな生涯ではないだろうか。

 十代の母親に捨てられ、父親は、白人らしいということしかわからず。大好きな、歌うということを磨いて、人生を切り開き、生き抜いてきた。これぞ、ブルースマンじゃないか。

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   エタ・ジェームズ At Last http://www.youtube.com/watch?v=_1uunRdQ61M

 B.B.キングのSweet Sixteen は、エタ・ジェームズのこと、という説があるらしい。たしかに、エタ・ジェームズがデビューして注目されているとき、新進のブルースマン、若きB.B.キングと親しかったのだ。エタ・ジェームズは、16歳。B.B.は結婚していた。

   B.B.キング Sweet Sixteen  http://www.youtube.com/watch?v=J1vJos6rI_s

 

   エタ・ジェームズ At Last  http://www.youtube.com/watch?v=ADDigK8LwyE&feature=related

            

The Greatest Johnny Otis Show

クーパー・セッション


エタ・ジェームズ、逝く

2012-01-22 | 日記・エッセイ・コラム

    

       

 

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 チェス・レコードの歌姫、エタ・ジェームズが亡くなった。http://www.cnn.co.jp/showbiz/30005345.html

    エタ・ジェームズ I'd Rather Go Blind http://www.youtube.com/watch?v=YApNirMC9gM

 チェス・レコードの創業期を描いた映画『キャデラック・レコード』で、ビヨンセが演じていたのが、エタ・ジェームズなのだ。

 男と女の三角関係で、悲しい立場になった女の心情を、切々と歌って、エタ・ジェームズはじつに見事だ。ビヨンセも歌っていた All I Could Do Was Cry は、恋人だった男の結婚式に出席して嘆く、女の失恋の歌だ。教会の鐘が鳴り、聖歌隊が歌い、私の彼は、彼女の指に指輪をいれ、ふたりは手を握りあった。『私は……もう、泣くしかなかった……』

           エタ・ジェームズ All I Could Do Was Cry http://www.youtube.com/watch?v=0_i-AI61PEo&feature=related

Love Songs

キャデラック・レコード コレクターズ・エディション [DVD]

   

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   エタ・ジェームズ I've Been Lovin You Too Long http://www.youtube.com/watch?v=QDz-rSVj_e4&feature=related

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 エタ・ジェームズとビヨンセ

    


あらためてポール・サイモンに感動する

2012-01-21 | 日記・エッセイ・コラム

 

 ずいぶん久しぶりにポール・サイモンを聴いた。すごい。やはり、すごいのだ。

 

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 クックさんのコメントにあるように、ポール・サイモンのアルバムThere Goes Rhymin' Simon (ひとりごと)は、傑作だ。40年まえ、テスト盤を聴いていて、A面1曲目の「コダクローム」のあと、レコード針が、2曲目の Tenderness(君のやさしさ) を走って、完全にわたしはノックアウトされた。

    ポール・サイモン Tenderness http://www.youtube.com/watch?v=vVDz3TgfI0o

 この曲のコーラスも、エンディングの曲 Loves Me Like a Rock (ママはご機嫌)とおなじ、デキシー・ハミングバーズなのだ。

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  ゴスペル・グループ、デキシー・ハミングバーズは、リーダーのジェームス・デヴィスが12歳のときに結成したグループからはじまる。そのグループ史は長い。サウス・カロライナ州のグループだ。結成は、1928年のことなのだ。

 ポール・サイモンは、1966年のニューポート・フォーク・フェスティバルでこのグループと親しくなったようだ。きっと、少年のときにラジオで聴いていたミュージシャンとおなじステージに立つ。これは、光栄なことであり、大興奮だったろう。

   

 アルバムThere Goes Rhymin' Simon (ひとりごと)の3曲目も、またいいのだ。「ニューオーリンズのお祭り・マディグラに連れってちょうだいね」という歌だ。ニューオーリンズのブラスバンドが登場する。レコードのホーンのアレンジャーは、ニューオーリンズのピアニスト、アラン・トゥーサンだ。

   ポール・サイモン Take Me to the Mardi Gras http://www.youtube.com/watch?v=ITDgDkqYbss

                     

  バーブラ・ストライサンド Something So Right http://www.youtube.com/watch?v=SpRK-57XxIo


Loves Me Like a Rock 、邦題は “ママはご機嫌”

2012-01-20 | 日記・エッセイ・コラム

               

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 1973年にシングルカットされた、ポール・サイモンのKodachrome(ぼくのコダクローム)のレコーディング・メンバーは、マッスル・ショールズ・リズム・セクションだ。アルバムThere Goes Rhymin' Simon (ひとりごと)のなかの5曲は、アラバマ州シェフィールドのマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで録音された。

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 ソウルやカントリー・ミュージックのかずかずの名盤、大ヒット曲を生んだ、マッスル・ショールズのFAME・レコーディング・スタジオで活躍していた、4人のミュージシャンが設立したスタジオ。それが、マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオだ。創設は、1969年(昭和44年)のこと。

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 ウイルソン・ピケットやオーティス・レディングやアレサ・フランクリンやエルビス・プレスリーなどがレコーディングしたFAME・スタジオと、70年代にこのマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオでつくられたレコードの音楽が、“マッスル・ショールズ・サウンド”といわれる。

 マッスル・ショールズ・スタジオの正面にある “3614 JACKSON HIGHWAY ” は、ここの住所なのだ。シェールは、このスタジオで録音したアルバム・タイトルにそのままこの住所をつかった。1969年の、このアルバムこそ、マッスル・ショールズ・スタジオ創設最初のレコーディングだったのだ。ロック史にとっても、アメリカ南部の音楽史にとっても、歴史的なレコードだ。

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 ポール・サイモンの名盤だけでなく、ボブ・ディランやローリング・ストーンズなど、1969年の創設から、70年代80年代のロックやソウルやカントリーなど、20世紀の音楽史で重要なアルバムの多くが、このアラバマのスタジオでレコーディングされた。その数は500枚以上になる。

 その主なレコードは、マッスル・ショールズ・スタジオのサイトに詳しい。    http://www.muscleshoalssound.org/Site/Albums.html

                         

 ポール・サイモンの アルバムThere Goes Rhymin' Simon (ひとりごと)からは、マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで録音されたLoves Me Like a Rock もシングルカットされてヒットした。

 この曲のバックのコーラスは、ゴスペルグループのデキシー・ハミングバーズだった。ユーチューには、ジェシー・ディクソン・シンガーズをバックに歌っている若いときの映像と、ずいぶん歳になってからの、スティービー・ワンダーとデキシー・ハミングバーズとの映像がある。                                 

    ポール・サイモン&ジェシー・ディクソン・シンガーズ Loves Me Like a Rock http://www.youtube.com/watch?v=EIgLotGJ2vQ&feature=related

    ポール・サイモン、スティービー・ワンダー&デキシー・ハミングバーズ Loves Me Like a Rock http://www.youtube.com/watch?v=qA-yk4k14V0&feature=related

 

 このLoves Me Like a Rock は、邦題が、“ママはご機嫌”だった。今は、“母からの愛のように”と改題されているようだが……。

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コダクローム

2012-01-19 | 日記・エッセイ・コラム

                 

 アメリカのフィルムとカメラの老舗メーカー、イーストマン・コダック社が破産法適用を申請した。

   コダックが破産法適用申請 http://www.47news.jp/CN/201201/CN2012011901001471.html

 予想されたことではあるが、わたしのような年齢のアメリカのジジイたちには、感慨深いニュースではないだろうか。1888年にロールフィルムとそのカメラの特許をとって以来、民生の小型カメラ用フィルムだけでなく、映画フィルム、X線など医学用フィルム、軍事用カメラのフィルムなど、世界の写真フィルム市場の圧倒的シェアーを握っていた。

 フィルムだけでなく、カメラ本体でも1900年に小型カメラ「ブローニー」を発売した。このカメラの売り方は、画期的な販売方法だったのだ。ずっとあと、デジカメが登場する少しまえに大ブームだった、使い捨てカメラの概念は、すでに1900年、ジョージ・イーストマンが実践していたのだ。

 フィルムが装填されたブローニー・カメラを買って撮影する。そのカメラをコダック社に送る。すると、プリントアウトされた写真と、新しいフィルムが装填されたブローニー・カメラが返送されてくる。こうして、アメリカでは、写真技術にまったくの素人が簡単に写真がとれるようになったわけだ。

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 これがプロトタイプのコダックのブローニー。

 

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 1915年になると、コダックのブローニーは、こんなにかっこ良くなる。

 日本などデジカメの圧倒的な技術開発力に負けた、といわれる。しかし、デジタルカメラを開発したのは、コダックの技術者なのだ。皮肉なことだ。

 イーストマン・コダック社が開発したリバーサルのカラーフィルムなくして、カラー映画はない………

                                

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 日本でも、コダックのフイルムやカメラや写真用品を愛用した人たちがたくさんいただろう。とくに、リバーサル・フィルムのコダクロームは、人気があったのではないだろうか。このフィルムのことは、ポール・サイモンも歌った。「Kodachrome (僕のコダクローム)」は、1973年の大ヒット曲だ。

    ポール・サイモン Kodachrome http://www.youtube.com/watch?v=pLsDxvAErTU

ひとりごと(紙ジャケット仕様)

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 ポール・サイモンの「Kodachrome (僕のコダクローム)」は、アルバム『There Goes Rhymin' Simon (邦題 ひとりごと)』のA面1曲目だ。発売は、1973年(昭和48年)。シングルカットされたKodachrome は世界中でヒットしたが、イギリスではシングルカットされなかった。特定のメーカーの製品名がタイトルで、歌のなかでもその製品名を連呼していて、BBCなどで放送できないから、との理由らしい。

 高校で習うことはつまらないことばかりだったが、ニコンのカメラで、コダクロームを使って写すことが最高に楽しかった、と、元カメラ少年が回顧するコダクローム賛歌だ。「写真を写すことが大好きなんだ。だから、母さん、僕のコダクロームを取り上げないで!」と。

Kodachrome
They give us those nice bright colors
They give us the greens of summers
Makes you think all the world's a sunny day, Oh yeah
I got a Nikon camera
I love to take a photograph
So mama don't take my Kodachrome away

Mama don't take my Kodachrome away
Mama don't take my Kodachrome away
Mama don't take my Kodachrome away

                         

 1973年5月、このポール・サイモンの「Kodachrome (僕のコダクローム)」が発売されたときにヒットしていた曲に、トニー・オーランド&ドーンの Tie a Yellow Riboon the Ole Oak Tree がある。邦題は、「幸せの黄色いハンカチ」。

   トニー・オーランド&ドーン Tie a Yellow Riboon the Ole Oak Tree http://www.youtube.com/watch?v=FjqBhZj_37U

 この曲の内容をもとに、山田洋次監督、高倉健・倍賞美津子主演の映画「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)がつくられた。のかな?

Definitive Collection

    トニー・オーランド&ドーン Knock Three Times http://www.youtube.com/watch?v=k7Jvsbcxunc


寒い、寒い……が

2012-01-18 | 日記・エッセイ・コラム

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 寒い寒い、といっても花が咲いてる。北海道育ちのわたしには、何年住んでも、不思議の冬景色だ。

 江戸=東京が、何百年も日本の中心都市であるのは、この気候の温暖さが大きな要素だろう。江戸時代には、世界で最も人口が多い街だったのだ。

 雪が積もらないということが、どれほど生活しやすいか。こういう温暖な土地に生まれ育った人たちには実感がないのだろうな。つまり、雪がどれほど恐ろしく、つらいか、を。


ジョニー・スミス

2012-01-18 | 日記・エッセイ・コラム

  

     

  ベンチャーズ  Walk Don't Run http://www.youtube.com/watch?v=1Rl3yVq6rrg&feature=related

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 日本でも、ベンチャーズでヒットした「ウォーク・ドント・ラン Walk Don't Run 」は、伝説のジャズギタリスト、ジョニー・スミスの曲だ。1954年に発表された。それをチェット・アトキンスがカバーしてヒットした。それをまた、ベンチャーズがカバーして日本でも流行ったわけだ。

  チェット・アトキンス Walk Don't Run http://www.youtube.com/watch?v=vDTJTSAuois&feature=related

 “伝説の( Legend)”と、常に、ジョニー・スミスの名前に枕詞のよう付けられるのは、若くして突然ジャズシーンから消えたためだろう。ジミ・ヘンやチャーリー・クリスチャンのようにわずかな年月活躍して、若く死んだわけではない。絶頂期に、突然、自らの意志で引退して、メジャー・シーンから消えたのだ。

  ジョニー・スミス Walk,Don't Run http://www.youtube.com/watch?v=0HwQxdrmwY8

 ジョニー・スミスは、1961年、ニューヨークからコロラドの田舎町に移り住んだ。妻が亡くなったので、幼い娘を育てることに専念したい、と。楽器店を持ち、ギターを教え、ときどき町の小さいクラブで演奏する、という地味な生活をそれからずっと送ったのだ。ニューヨークで超人気のジャズ・ギタリストだったのに……だ。

 ギブソンのジョニー・スミス・モデルは、もちろんジョニー・スミスのデザインだ。 コロラドに引退してからジョニー・スミスがデザインしたのだ。

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 歳をとってからの、小さいジャズ・フェスで演奏したり、大学で教えている映像がある。

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 “伝説のギタリスト”ジョニー・スミスは、コロラドにいる、という雑誌の表紙。

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 なんといっても、ジョニー・スミスでメチャクチャかっこいいのは、「ムーンライト・イン・ヴァーモント」ではないだろうか。これが1952年の録音、昭和27年だ。

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  ジョニー・スミスft.スタン・ゲッツ Moonlight in Vermont http://www.youtube.com/watch?v=7xf3rAXoYjA

 

 

Sound of Johnny Smith

Jazz at NBC Series

             

   ジョニー・スミス Cherokee http://www.youtube.com/watch?v=BoEDu00GCJE&feature=related