もう2週間まえ、10月19日のことになる。土屋直樹さんの案内で熊代弘法先生のアトリエを訪ねた。
このことをブログに書こうとしているとき、入院していた叔母の容態が急変して亡くなった。通夜や葬儀で、先週は、この話を書く気持ちの余裕がなかった。
熊代弘法先生のアトリエに連れていってくれた直樹さんは、あのあと、デンマークへ出張といっていたが、もう帰国しているだろうか。
熊代弘法先生と土屋直樹さん。
夏、帯広のブルースハープでのこと。浜省熱唱グループ・ショッカーの直樹さんとビールを飲みながら話をしていて、直樹さんが八千代出身だと知った。
「八千代というと、熊代先生をご存じですか?」「もちろん、八千代中学で美術を教わりましたし、山にも連れていってもらいました」というではないか。それだけじゃなく、先生は、直樹さんの、お父さんの土地の一部を譲っていただいてアトリエを建て、今もお元気で絵を描かれている、というではないか。
ぜひ、熊代先生にお会いしたい。アポをとっていただけないか、とお願いした。そうして、10月19日、直樹さんに先生のアトリエに案内していただいた。
もう40年いじょう前のこと。わたしは、ファンファンというバーで熊代先生と出会った。先生は、画家だが、登山家でもある。はじめて先生と話をした、その夜以来、わたしは、稲田に新築したばかりの先生のアトリエに出かけては飲んだくれ、泊めていただいた。先生はまだ独身で、アトリエには何人もの青年たちが集まって、飲んでは芸術論でもりあがっていた。(多いときは、アトリエに20数人が泊まっていたこともあった、と先生がおっしゃっていた)。
わたしは、20歳をすぎたばかり、レコード屋になったばかりのころで、先生のアトリエに集まるなかでは、一番若い、ガキの飲んだくれだった。絵描きさんや、詩人や彫刻家の人など、その話を聞いているだけで楽しかった。
先生のアトリエに泊まった、ある朝。先生は、帯広五中で美術を教えていたから、朝はやく出勤する。わたしのレコード店は、10時開店だから、わたしは二日酔いでアトリエのソファーで寝てる。目が覚めると、先生の置手紙があった。「ご飯は、電気釜にある。納豆と卵は、冷蔵庫だ。朝飯を食って出かけてくれ」
わたしが結婚したときは(こんなわたしでも、結婚できたこともあったのだ)、先生に発起人代表をやっていただいた。先生の結婚式にも出席した。
30数年ぶりに熊代弘法先生にお会いすることができた。土屋直樹さんには、ほんとうにお世話になった。心から感謝している。
熊代弘法先生の展覧会が、11月9日から帯広百年記念館で開催される。
長野の地から先生の御活躍を🙏願っています❤