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古い曲が気になる

ジャコ・パストリアスをみたのは1980年か?

2008-10-31 | 日記・エッセイ・コラム

ウェザー・リポート ウェザー・リポート

ジャコ・パストリアスの肖像+2 ジャコ・パストリアスの肖像+2

ブライト・サイズ・ライフ ブライト・サイズ・ライフ

 

 きのうは、フィル・スペクターの栄光と挫折にふれたが、ジャコ・パストリアスもまた、悲しく生涯を終えた。

 若いのに、なぜだ? ジャコが死んだ、というニュースを聞いたときは悲しかった。1987年、秋のこと、わたしは、レコード屋もイベンターもやめて、失業状態で、やることなすこと、うまく行かないときだった。

 
 ジャコ・パストリアスのレコードのデビューは、パット・メセニーのファースト・アルバム「ブライト・サイズ・ライフ」(1975年)だった。サウンドコーナーではよく売れたので、刈り取った麦畑のむこうの一本の巨木と、小さい太陽が美しい、ECMレーベルの白いジャケットのアルバムを持っている人が多いだろう。パット・メセニーのギター、ボブ・モーゼスのドラムス、そして、ジャコ・パストリアスのベースだ。

 1976年、ジャコ・パストリアスは、ウェザー・リポートに参加する。(ちょうどベースのアルホンソ・ジョンソンがぬけたときだったので、ジャコ自らジョー・ザヴィヌルに売りこんだ、という)。ウェザー・リポートは、1971年の「ウェザー・リポート」発売以来、ジャズ、フュージョンのトップ・バンドだった。(ジャコの若いファンは、ジャコが加入したからウェザー・リポートが売れたように誤解しているようだが……。ジャコは、3人目のベーシストだ。最初は、ミロスラフ・ビトウス、つぎは、アルホンソ・ジョンソン)。

 ウェザー・リポートに参加してすぐ、ジャコのソロ・アルバムが発売になった。これが売れた。「ジャコ・パストリアスの肖像」(1976年)だ。(この年は、浜田省吾ファースト・アルバム「生まれたところを遠く離れて」が発売になった年だ。ジャコと浜田さんは、ほとんど同じ年だ。ジャコは、1951年、 浜田さんは、1952年生まれだ)。

 ウェザー・リポートは、ジョー・ザヴィヌルとウェイン・ショーターの双頭のバンドだ。ふたりはモダン・ジャズの時代のトップ・ミュージシャンだった。ザヴィヌルは、キャノンボール・グループのピアニストで作曲家、大ヒット「ワークソング」は彼の作品だ。ウェイン・ショーターは、アート・ブレイキー&シャズ・メッセンジャーズ、そしてマイルス・デイビス・グループのスター・サックス・プレイヤーだった。

 わたしは、 絶頂期の1980年の公演をリハーサルから見た。ジャコのパフォーマンスはすばらしかった。それは、まるでジャコ・パストリアス・バンドの様相だった。
 
 ジャコ・パストリアスが加入したウェザー・リポートは、若いロック・ファンにも人気があって世界じゅうで大ヒットした。ジャコは長身で、とてもハンサムだった。とくに日本では人気があったから、なんども来日している。ウェザー・リポートを離れてもジャコは来日して演奏している。

 
 ジャコが死んでから知ったのだが、ジャコは、ウェザー・リポートを離れるころから奇行が激しく、酒とクスリで満足に仕事ができなくなっていた、という。(ウェザー・リポートのメンバーだったのは、1976年~ 1982年)。亡くなってから重い躁鬱病だったらしいと分かり、治療をしっかりやっていれば、と関係者たちは悔やんでいるらしいが……。

 言動がおかしい、仕事に穴をあける、満足に演奏できない、いつも酒かクスリで酔っている、という状態で、だれにも相手にされなくなり、ホームレス状態だった、というから哀しい。

 1987年9月11日、ジャコは、サンタナのライブに飛び入りで演奏しようとして断られ、その足で近くのクラブにいった。クラブのベトナム人の用心棒は、その汚い浮浪者が“世界のジャコ”とは知らず、殴り飛ばしたのだ。このガードマンは、元ベトナム政府軍の軍人で、カンフーの使い手だという。

 ジャコは、頭に激しいダメージをうけ、病院に運びこまれたが意識はもどらず、1987年9月21日、父親の手で人工呼吸器のスイッチが切られた。35年の生涯だった。

ウェザー・リポート 「バードランド」 http://jp.youtube.com/watch?v=pqashW66D7o&feature=related   

ジャコ・パストリアス A Portrait Of Tracy http://jp.youtube.com/watch?v=JXOnhzoC-i8&NR=1

ジャコ・パストリアス Solo  http://jp.youtube.com/watch?v=AxZWvhGE7CM&NR=1

ジャコ・パストリアス・オフィシャル・サイト http://www.jacopastorius.com/

ウェザー・リポート http://www.binkie.net/wrdisc/

ミロスラフ・ビトウスCOM http://www.miroslavvitous.com/

ウェザー・リポートとマンハッタン・トランスファーの「バードランド」(ベースは、Victor Bailey か?)http://jp.youtube.com/watch?v=oHD4Lxbq9Mo&feature=related

ジャコの伝記  「ジャコ・パストリアスの肖像」 ビル・ミルコウスキー著、湯浅恵子訳 リットーミュージック 1997年 (原著 The life and times of Jaco Pastorius)  http://www.rittor-music.co.jp/hp/books/artist_data/03331001.htm


フィル・スペクターの裁判が再開された

2008-10-30 | 日記・エッセイ・コラム

PHIL SPECTOR DEFINITIVE COLLECTION PHIL SPECTOR DEFINITIVE COLLECTION
フィル・スペクター 甦る伝説 増補改訂版 フィル・スペクター 甦る伝説 増補改訂版
クリスマス・ギフト・フォー・ユー・フロム・フィル・スペクター(紙ジャケット仕様) クリスマス・ギフト・フォー・ユー・フロム・フィル・スペクター(紙ジャケット仕様)
 

 フィル・スペクターの裁判が、10月20日再開された。殺人容疑だ。

 映画「ゴースト」のサントラには、ライチャス・ブラザーズの1965年の大ヒット「アンチェインド・メドレー」が使われてリバイバル・ヒットしたことは、28日に書いた。ライチャス・ブラザーズは、フィル・スペクターのプロデュースでヒットした。フィルス・レコードのアーティストだ。

 フィル・スペクターは、ロックの歴史にとって、ジョージ・マーティンとならんで、重要な役割をはたしたプロデューサーのひとりだ。Sir.ジョージ・マーティンは、ビートルズのプロデューサーだ。フィル・スペクターも、「レット・イット・ビー」を手がけ、その後、ジョン・レノンジョージ・ハリソンのアルバムをプロデュースした。「レット・イット・ビー」(1970年)でアカデミー賞、「バングラディッシュ・コンサート」(1971年)でグラミー賞を受賞した。

 フィル・スペクターは、18才の時(1958年)、ザ・テディー・ベアーズというグループで全米№1ヒットをとばす。「会ったとたんに一目惚れ To Know Him Is To Love Him」だ。フィルは、すぐにプロデューサーに転身して、ロネッツ、クリスタルズなど女性コーラスグループでヒットを連発する。1960年から65年のあいだの全米トップ40に、フィル・スペクター・プロデュースがじつに25曲入ってる。ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」(1963年)は日本でも大ヒットして、ザ・ビーナッツや伊東ゆかり、中尾ミエなどがカバーしていた。

 その音づくりは、オーバー・ダビング(多重録音)を駆使して、「ウォール・オブ・サウンド」(音の壁)といわれ、のちのポピュラー・ミュージックの録音に大きな影響をあたえた。手がけてヒットさせたアーティストは数多い。ビーチボーイズのサウンドも、フィル・スペクターなくしてあり得ない。アイク&テナ・ターナーも、「スタンド・バイ・ミー」のベン・E・キングも、フィル・スペクターだ。フィル・スペクターは、20代のはじめにして、アメリカでもっとも成功した音楽プロデューサーで、レコード・レーベルのオーナーだった。  

 ビートルズのメンバーとも親しかった。フィル・スペクターを招いて、編集に難航していたゲット・バック・セッションのテープを、アルバム「レット・イット・ビー」として完成させて発売した。以来、ジョンとジョージは、フィル・スペクターに自分たちのアルバムも任せた。しかし、ポール・マッカートニーは、過剰な音づくりに不満で、のちに、フィル・スペクターの加えた音を排除してリミックスした「レット・イット・ビー ネイキッド」を発売した。

 ポールは、とくに「ロング・アンド・ワインディング・ロード The Long and Winding Road 」にオーケストラを加えられたことが気に入らなかったらしい。スタジオ・ライブの映像と比較すると、たしかに、レコードは、大げさすぎる。実際に演奏する作者のポールと、ミックスダウンのときに、ミキシング・コンソールの前にすわって存在感を示したいフィル・スペクターとの立場の違いかな。

 ポールは、スタジオ・ライブそのままをリアルにレコード化したかった。フィル・スペクターは、フィル・スペクター・プロデュース・ビートルズを世に示したかった。ビートルズさえも自分が支配しているのだ、と。そんなとこかな。

 いまも、クリスマスになると流れる、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」は、フィル・スペクターのプロデュースだ。コーラスにも参加している。

 

 絵に描いたようなアメリカンドリームそのもの、富と名声、すべて手にしたフィル・スペクターだが、2003年2月3日、ハリウッドのフィル・スペクター自身のお城のような豪邸で、女優・ラナ・クラクソンの死体が発見された。射殺されていた。すぐにフィル・スペクターが殺人容疑で逮捕された。

 60年代ポップスの帝王、伝説のフィル・スペクターも最近は、有り余る金と暇をもてあましたのか、クスリとアルコールと女漁り三昧の生活で、奇行がめだったという。酔って、すぐに興奮して怒りだし、ピストルをだして人を威嚇した、という。

 裁判は、第二のO.J.シンプソン事件の様相だ。ふんだんに金をつかった弁護の効果だろう、2007年9月26日、陪審員の票が割れて評決が出ず、フィル・スペクターは、釈放された。しかし、今月20日に裁判が再開されたという。

 フィル・スペクターの業績は、下のフィル・スペクター・COM  のbioをクリックすると動画でみることができる。最初の全米№1ヒット曲、「To Know Him Is To Love Him」は、フィル・スペクターが9才のときに自殺した父親Benjaminの、墓石に刻まれていた墓碑銘だった。

 貧しい母子家庭の、病気がちで、チビで痩せて、孤独な少年が、音楽にだけは才能があった。ギターもピアノもドラムもホルンも、独学ですぐにマスターした。18才のとき、レコーディング・スタジオ代を出し合う仲間をつのり、シングル盤を録音した。それが全米でヒットした。

 しかし、そこでとどまらず、研鑽してプロフェッショナルな仕事をきわめ、富と栄誉を手にした。ビートルズと同様に、人類音楽史に残る永遠の栄光を手にしたはずだった。しかし、老いて殺人事件の被告席にたつ。なんという劇的で悲惨な人生だろう。まさに晩節を汚すとはこのことだ。事実は小説よりも奇なり、このフィル・スペクター・ケースも、その好例だ。どんなフィクションも現実にはかなわない。

テディー・ベアーズTo Know Him Is To Love Him http://jp.youtube.com/watch?v=DCnUsInBQws

ビートルズのTo Know Him Is To Love Himカバー To Know Her Is To Love Her http://jp.youtube.com/watch?v=nbGsPapwKfg&feature=related

エミリー・ハリス、ドリー・リパートン、リンダ・ロンシュタットが歌うTo Know Him Is To Love Him http://jp.youtube.com/watch?v=TC-d2AkPqcE&feature=related

ロネッツ Be My Baby  http://jp.youtube.com/watch?v=8-0upHlWfQ4

フィル・スペクター・COM  http://www.philspector.com/

アイク・ターナー・COM http://www.iketurner.com/

アンソニー・ブルーノのフィル・スペクター事件の記事(英語)http://www.trutv.com/library/crime/notorious_murders/celebrity/phil_spector/index.html

The Concert for BangladeshThe Concert for Bangladesh

バングラディッシュ・コンサート・オフィシャル・サイトhttp://www.concertforbangladesh.com/ 

ジョージ・ハリソン Bangladesh  http://jp.youtube.com/watch?v=jZZ96J_PVbk

ジョン・レノン Happy X'mas(War Is Over)  http://jp.youtube.com/watch?v=s8jw-ifqwkM


パステルナークは、作曲を勉強していた

2008-10-29 | 日記・エッセイ・コラム

トルストイのワルツ~ロシア文豪の音楽 トルストイのワルツ~ロシア文豪の音楽
 

 夜になってぐっと気温が下がった。まだ暖房をいれるほどじゃない。セーターを着た。
 
 
 モーリス・ジャールのテーマ音楽が大ヒットした映画「ドクトル・ジバゴ」は、ロシアの詩人、ボリス・パステルナークの小説が原作だ。小説「ドクトル・ジバゴ」は、ソ連では出版が許されず、原稿は密かにイタリアにもち出されて、イタリア語に翻訳され、1957年にイタリアで出版された。それはすぐに評判になって、世界じゅうで翻訳されて出版された。

 スターリン支配下のソ連では、詩人、小説家は、薄氷のうえを歩くような危うい日々のなかにいた。いつ反共産革命の烙印をおされて非難をあび、シベリア流刑になるか、粛清・処刑されるかわからない。物書きは命がけだった。

 (芸術家だけでなく、それは一般市民だれにも危険な国家だった。ロシア革命後、ソ連共産党によって粛清され殺されたソ連国民は、1000万人以上といわれる。毛沢東・中国共産党は、2000万人をこえる自国民を粛清した、というから、もっとすさまじい。カンボジアの共産主義者ポル・ポトの大虐殺が120万人~170万人という。120万人はアメリカ政府の出した数、170万人はアムネスティー・インターナショナルの推定。小国カンボジアにしてこの膨大な虐殺の数だ。ソ連共産党と中国共産党が殺した自国民の数も、あながちオーバーな推測ではなさそうだ)。

 ボリス・パステルナークもまた、30年代に政治的に弾劾されて自作を発表できず、シェークスピアやゲーテの翻訳をつづけた。

 1958年、パステルナークのノーベル文学賞受賞が発表になった。しかし、ソ連政府は、授章式に出席することを禁止し、受賞の辞退を強要した。西側に政治利用されるのを怖れたのだ。パステルナークの詩と小説「ドクトル・ジバゴ」は、反ソ連、反共産主義だというわけだ。

 しかし、そのソ連政府の行為は、かえって共産主義国家ソ連の欺瞞を世界に露呈することになった。つまり、小説「ドクトル・ジバゴ」が、すでに西側でヒットしていたわけだから、ノーベル賞受賞を許さないというソ連は、どうみても、芸術家を不当に弾圧する暗黒国家だ、と宣伝しているようなものだ。

 ノーベル財団は、辞退したにもかかわらず、パステルナークへ賞を贈っていた。それは死後、遺族が受けとった。

 ボリス・パステルナークは、両親とも高名な芸術家だった。父親は、ロシア印象派の画家、レオニード・パステルナークだ。モスクワ美術学院教授で、トルストイの著書の挿絵でも有名だった。母親は、有名なピアニスト、ロザ・カウフマンだ。家にはロシアの著名な芸術家たちが集まっていた。

 そんななかに作曲家のアレクサンドル・スクリャービンがいた。その影響でボリス・パステルナークは、作曲家をこころざしてモスクワ芸術学院にはいった。しかし、20才で音楽を断念して、モスクワ大学とドイツのマールブルク大学で哲学を学んだ。最初の詩集は1914年「雲の中の双生児」だ。若いときに作曲したピアノ曲は録音されて、いまもCDで発売されている。

  
 映画「ドクトル・ジバゴ」、ジバゴ役のオマー・シェリフはエジプトの俳優、ラーラのジュリー・クリスティーは、イギリスのロイヤル・シェークスピア・カンパニー出身の舞台女優。「ジバゴ」の前に、映画「ダーリング」でアカデミー主演女優賞を受賞している実力派だ。美しいだけじゃない。ジバゴの妻を演じるジェラルディン・チャップリンは、喜劇王チャップリンの娘、劇作家ユージン・オニールの孫。ユージン・オニールは、1936年にノーベル文学賞を受賞した。

  

 ボリス・パステルナークの初期の詩「発着駅」、翻訳は、工藤正廣・北海道大学名誉教授。
  

  発着駅よ ぼくの別れたちの
  であいとわかれの耐火性のひきだし
  ぼくを導く経験をつんだ友
  ひとたびその功績をかぞえあげれば─── きりがない
  

  しばしば わが愛するひとは全身
  列車が入線するや─── ショールにくるまれたもの
  そしてぼくらの眼を蒸気でおおったあと
  女面鳥身(ハルピュイア)たちの鼻革は煙を吐きだしたもの
  

  しばしば そばにならんで座るやいなや───
  それで最後 ぼくは身をかがめ そして身を引きはなしたもの
  さようなら もう時間だ ぼくのよろこび!
  今すぐに跳び降りますから 車掌さん
  

  しばしば 悪天候と枕木の
  列車の入換作業のさなかで 西はひらけ
  そして緩衝器の下に落ちないように
  雪ひらたちで引掻きにかかったもの
  

  そして繰り返された汽笛が止む
  遠くから別の汽笛が繰り返す
  そのときだ列車はつぎつぎにこぶをもつ
  ひっそりとした吹雪となってプラットホームをあとにする
  

  そして 見よ もはやたそがれはこらえきれず
  見よ はやくも煙のすぐあとから
  野辺と風は引きはなされてゆく───
  おお ぼくもまたそれらのうちの一人でありたいのに!
                                                    1913,1928                    
(ボリス・パステルナーク詩集 初期1912-1914 あるいは処女詩集から 工藤正廣 訳・
解説 発行所・未知谷 2002/3/25)

  

  「発着駅」と訳されているタイトルの、вокзал(バクザール) は、機関車の操車場がある大きな駅のことか。英語のstationに対応する語として、станция(スタンツィヤ)がある。

 ロシアの詩は、声を出して読まれてこそ効果がでるように韻律が整えられている。音とリズムを味わう音楽的な言語芸術だ。日本の和歌も、もとは声をだして詠唱し、鑑賞するものだったはずだ。そのなごりが宮中の歌会始に残っているのかな。

映画「ドクトル・ジバゴ」予告編 http://jp.youtube.com/watch?v=wAWrXTn5Www&feature=related

チャーリー・チャップリン・Officiale Website     http://www.charliechaplin.com/

日本チャップリン協会Web http://www.chaplinjapan.com/

スクシャービン・COM(アメリカ・スクリャービン協会) http://www.scriabinsociety.com/


映画「ゴースト」とライチャス・ブラザーズ

2008-10-28 | 日記・エッセイ・コラム

ゴースト ニューヨークの幻 ゴースト ニューヨークの幻
ドクトル・ジバゴ 特別版 ドクトル・ジバゴ 特別版
アラビアのロレンス アラビアのロレンス

アンチェインド・メロディ/ベリー・ベスト・オブ・ライチャス・ブラザーズ アンチェインド・メロディ/ベリー・ベスト・オブ・ライチャス・ブラザーズ

 

 マラソンの高橋尚子の引退会見をみて、すこしジーンときた。最近は不調でいろいろ言われたが、シドニーの走りだけで十分ではないだろうか。あれほど美しく、音楽的な走りはない。じつにみごとなレースだった。あの金メダルだけで、高橋尚子は、十分に偉大なアスリートだ。

 2000年シドニーの、高橋尚子の金メダルまで、日本は1912年にオリンピックに参加して以来、陸上競技での金メダルは、三段跳びで3個とっているだけなのだ。1928年(アムステルダム〕織田幹雄、1932年(ロサンゼルス)南部忠平、1936年(ベルリン)田島直人だ。

 1936年のベルリン大会のマラソンで日の丸があがるが、金メダルの孫基禎は朝鮮人だ。朝鮮半島が日本だった時代だ。伝説の女性アスリート、人見絹枝でさえ1928年のアムステルダム・オリンピックの800mで銀メダルだった。日本のスポーツ史にとって、いかに高橋尚子のシドニーの記録が凄いことか。

 マラソン11戦して7回優勝、日本最高記録も、アジア最高記録も、世界最高記録も持っていた。シドニー・オリンピックの2時間23分14秒は、16年ぶりのオリンピック最高記録だった。この五輪記録は破られてない。もちろん小出義雄監督の指導力がある。しかし、こんな偉大なマラソン・ランナーは、もう現れないだろう。

 

 テクノのシンセサイザー奏者、ジャン・ミッシェル・ジャールの父親は、モーリス・ジャールだと、きのう書いた。日本では、映画音楽の巨匠のひとりとして、父モーリス・ジャールのほうがはるかに有名ではないだろうか。「アラビアのロレンス 」「ドクトル・ジバゴ」「インドへの道」と3度アカデミー作曲賞を受賞している。

 「アラビアのロレンス 」(1962年)、「ドクトル・ジバゴ」(1965年)、「インドへの道」(1982年)は、デヴィッド・リーン監督の作品だ。ほかにも、「史上最大の作戦」「シベールの日曜日」「ライアンの娘」「パリは燃えているか」「ブリキの太鼓」「将軍SHOGUN」など、モーリス・ジャールが音楽を手がけた映画は日本でもヒットした。

 比較的新しいところでは、ハリソン・フォードとケリー・マクギリス主演の「 刑事ジョン・ブック/目撃者」、マイケル・ダグラスとグレン・クローズの「危険な情事」、デミ・ムーアとパトリック・スウェイジの「 ゴースト/ニューヨークの幻 」(1990年)も、モーリス・ジャールの音楽だ。

 映画「ゴースト」には、ライチャス・ブラザーズThe Righteous Brothersの「アンチェインド・メロディUnchained Melody」がじつに効果的につかわれてリバイバル・ヒットした。

  「アンチェインド・メロディ」は、1965年(昭和40年)のヒット曲だ。日本でも大ヒットした。ライチャス・ブラザーズは、ビル・メドレーとボビー・ハットフィールドのデュオで、ブルー・アイド・ソウルといわれた。つまり、白人がやるR&B、ソウル・ミュージックということ。1966年まではフィル・スペクターのフィルズ・レコードだった。

  ライチャス・ブラザーズは、1968年に解散するが、1974年に再結成して2003年にボビー・ハットフィールドが亡くなるまでつづけた。「ふられた気持 You've Lost That Lovin' Feelin'」は、1964年のヒット曲で、日本でも売れた。あとでエルビス・プレスリーホール&オーツがカバーしている。

 わたしがレコード屋をはじめたとき、ライチャス・ブラザーズは解散状態だったが、レコードはベスト盤がまだよく売れていた。

ライチャス・ブラザーズ「アンチェインド・メロディ」 http://jp.youtube.com/watch?v=t-idDbIfGvw

モーリス・ジャール指揮「アラビアのロレンス」 http://jp.youtube.com/watch?v=irPSvEkQl8Q&feature=related

モーリス・ジャール指揮「ドクトル・ジバゴ」 http://jp.youtube.com/watch?v=3X-Q4nmYqc4&feature=related

モーリス・ジャール Ghost Score  http://jp.youtube.com/watch?v=OTpl486S5Ik


ニーナ・シモンが、「ニキータ」に

2008-10-27 | 日記・エッセイ・コラム

ベスト・オブ・ニーナ・シモン ベスト・オブ・ニーナ・シモン
Equinoxe

Equinoxe
軌跡 ジャン・ミッシェル・ジャール

 

二キータ 二キータ
 

 予想どおりフィギュア・スケートGPアメリカ大会は、女子は、キム・ヨナが優勝した。前日のショート・プログラムの異様な高得点から流れはよめていた。このあとGPは、カナダ、中国、フランス、ロシア、東京と開かれて、ファイナルは12月12日~14日の韓国大会だ。そこでキム・ヨナを優勝させるというシナリオかな。

 昨年からフィギュア・スケート女子は、浅田真央とキム・ヨナの戦いだ。この2人は抜きんでている。アメリカのキミー・マイズナーは昨シーズンいらい絶不調だ。どんなスポーツも、いまや、政治と商売だが、アジア系の人間たちの争いになったフィギュア・スケートは、それがとくに顕著でわかりやすい。まあ、でも、浅田真央のすばらしさは、ほかの選手と較べようがない。(キム・ヨナは、3アクセルを跳べない。ということを、日本のスポーツ・マスコミはいわない。なぜだろう?)。

 

 ニーナ・シモンが、ブルースの「朝日のあたる家」を、アニマルズのロック・バージョンの前にライブ録音していたことは、昨日書いた。ニーナ・シモンは、わたしのレコード屋でもよく売れて、日本でも人気があったシンガーだ。フランスでの人気はとくに高い。

 ニーナ・シモンは、ジャズ、ブルースのミュージシャンだが、4才からピアノをやり、クラシックをジュリアード音楽院で学んだ。人種偏見の激しいアメリカを嫌って、フランスを中心にライブをやっていた。2003年にフランスで亡くなった。70才だった。

 (50年代、60年代は、多くの黒人アーティストが、アメリカを離れてヨーロッパで活躍した。そして、日本にも稼ぎにきた。ジャズでは、日本でのギャラは、アメリカの十倍という噂もあった。アメリカでは、ワンナイト1000ドルが最高のジャズ・ミュージシャンといわれるとき、日本にくると1万ドルのギャラがとれる、と)。

 リュック・ベンソン監督の映画「ニキータ」のなかに、ニーナ・シモンの曲がながれる。ニキータが、暗殺者訓練施設の部屋でふてくされているとき、『母さんが好きなニーナ・シモン』の曲を聴いていた。

 「ニキータ」の日本での封切りは、1991年1月26日だった。わたしは、三菱自動車東京工場の大型トラックを組み立てるラインで溶接工をやっていた。その「ニキータ」日本封切りの日、夜勤明けに、有楽町マリオンに並んだ。監督のリュック・ベンソンと、主演のアンヌ・パリローの舞台挨拶があるというのだ。しかし、監督とアンヌ・パリローの舞台挨拶はなかった。アンヌ・パリローをみるのがたのしみだったのだが……

 しかし、かわりにジャン・ユーグ・アングラードが舞台に登場した。暗殺者ニキータは、スーパーのレジの青年と恋におちて、いっしょに暮らす。その青年、マルコの役が、ジャン・ユーグ・アングラードだ。舞台に登場したジャンは、ジーンズに黒い皮のジャケットを着ていた。じつにハンサムだ。優しい笑顔で、すこしはにかみながら挨拶をした。たしかに、ニキータが恋におちるのは当然、うなずけるキャスティングだ。

 ニキータのとき、リュック・ベンソン監督と主役のアンヌ・パリローは結婚していたが、離婚して、アンヌ・パリローは、作曲家のジャン・ミッシェル・ジャールと結婚した。ジャン・ミッシェル・ジャールは、70年代日本でも人気のあったシンセサイザーのミュージシャンだ。「幻想惑星 OXYGENE」が発売になったのは、1977年だった。ポリドール・レコードだ。サウンドコーナーでは、セカンド・アルバムの「軌跡 EQUINOXE」(1978年)がよく売れた。

 ジャン・ミッシェル・ジャールの父親は、映画「アラビアのローレンス」の作曲家、モーリス・ジャールだ。

Nina Simone  Feeling Good   http://jp.youtube.com/watch?v=HVw0Mb8XR9M

ニーナ・シモン・COM http://ninasimone.com/welcome.html

ジャン・ミッシェル・ジャール・COM  http://www.jeanmicheljarre.com/

リュック・ベンソン・COM(フランス語) http://www.luc-besson.com/


アニマルズ、ジミ・ヘン、そしてポリス

2008-10-26 | 日記・エッセイ・コラム

アー・ユー・エクスペリエンスト? アー・ユー・エクスペリエンスト?

The Complete Animals The Complete Animals

 

 芸術新潮11月号、手塚治虫生誕80周年記念特集「手塚治虫を知るためのQ&A100」が、おもしろい。 

 フィギュア・スケートのGP(グランプリ)シリーズがはじまって、きのうから明日まではアメリカ大会だ。男子は、なんと小塚崇彦が優勝した。女子ショート・プログラムでは、安藤美姫、中野友加里が安定している。キム・ヨナの69.50は、あまりに異常な高得点だ。(キムは最後のジャップで転倒している)。あすのフリーをまえに、すでにキムの優勝が決まったようなものだ。ちょっとおかしいな。 

 
 きのうは、エリック・バードンとウォーのことを書いた。エリック・バードンは、イギリスのバンド、アニマルズのボーカルで世界に知られた。アニマルズのオリジナルバンドは、のちにアラン・プライス・セットとソロ・アルバムで日本でも人気があった、キーボードのアラン・プライスと、ベースのチェス・チャンドラーが、ニューキャッスルで結成した。そこにボーカルのエリック・バードンが加わった。

 作者不明のフォークソング「朝日のあたる家」のロック・バージョンが世界ヒットだ。アニマルズのは、ボブ・ディランのフォーク・バージョンに影響されているが、その前に、ニーナ・シモンがブルースっぽいスタイルでライブ録音していた。アニマルズの「朝日の~」をカーラジオで聴いて、ボブ・ディランはシートから飛び上がった、という。以来、「朝日のあたる家」を歌わないという。

 チェス・チャンドラーは、アニマルズ解散後、ジミ・ヘンドリックスをスカウトしてイギリスに呼び、ジミ・ヘンドリックス&エクスペリエンスを結成してデビューさせた。2枚のアルバムのプロデュース、そしてマネージャーだった。スレイド、ソフトマシンもチェス・チャンドラーがマネージャーだった。1995年には故郷のニューキャッスルにアリーナを造ったりして、ミュージック・ビジネスの成功者だ。しかし、1996年、心臓疾患で急死した。57才だった。

 アニマルズ解散後、エリック・バードンは「エリック・バードン&ジ・アニマルズ」を組む。これには、のちにポリスでブレークするギタリスト、アンディー・サマーズが参加している。 

 

 ポリスの札幌公演を、リハーサルからみたのは、1981年のことだったろうか。東川佳人くん、櫻井“さすけ”勝則くんがいっしょだった。

 

 ランボーの詩から村上春樹の小説「ダンス、ダンス、ダンス」のタイトルがきているのかな、と24日のブログに書いた。その詩句は、「地獄の一季節」の『黒い血』のなかにある。翻訳は、湯浅博雄。

  『ぼくはまだ自然を知っているだろうか? 自分を知っているだろうか?    もう言葉なんかない。ぼくは死者たちを腹のなかへ埋葬する。叫び、太鼓、ダンス、ダンス、ダンス、ダンス! ぼくは思ってもみない、やがて白人たちが上陸してきて、自分が虚無に落ちこむ時が来ようとは。
  飢え、渇き、叫び、ダンス、ダンス、ダンス、ダンス! 』

アニマルズ・オフィシャル・サイト http://members.aol.com/TheAnimalsSite/

アラン・プライス・ON LINE  http://alanprice.absoluteelsewhere.net/

ジミヘンドリックス・COM http://www.jimihendrix.com/index.php

アンディー・サマーズ・COM http://www.andysummers.com/

ニーナ・シモンの「朝日のあたる家」  http://jp.youtube.com/watch?v=FjcJjLUgZ08&feature=related 


磯部くんと釧路の小さいホールで、リー・オスカーをみた

2008-10-25 | 日記・エッセイ・コラム

Lee Oskar Lee Oskar
世界はゲットーだ! 世界はゲットーだ!

  フィギュア・スケートのグランプリ・シリーズがはじまった。寒くなるとフィギュア・スケートとマラソンが、たのしい。冬、テレビでみるスポーツでは、このふたつが断然おもしろい。

 きょうは、男子ショート・プログラムで、 小塚崇彦が第3 位につけた。あすのフリーでは、4回転をとぶという。どうなるか、たのしみだ。安藤美姫も、きょうの練習で4回転をとんだ。ルールが変わって、3アクセルと4回転の点数が高くなった。4回転時代だ。 

 
 磯部優くんの運転で釧路にでかけ、ヤマハホールで、リー・オスカーをみたことがある。1977年ころのこと、と記憶している。(しかし、ネットのリー・オスカーの資料に『1982年初来日』というのがあった。だが、1981年に古澤良治郎のバンドでレコーディングしているのだから、『1982年初来日』ということにはならないはずだ)。

 年代はともかく、釧路のヤマハの小さいホールで、リー・オスカーをみた。客は、100人前後だったか。曲のエンディングにリー・オスカーが飛び上がると、頭上の照明器具に頭があたるような低い天井のステージだった。ドラムスが古澤良治郎、ベースは川端民生だった。

 "世界の" リー・オスカーのコンサートを、どうしてろくに宣伝もしないで、こんな小さいホールでひっそりとやるのか、不思議だった。わたしはレコード屋なのに、磯部くんから誘われるまで、リー・オスカーが来日していることも、北海道でコンサートツアーをやっていることも知らなかった。しかし、ともかく楽しいライブだった。ハーモニカという小さい楽器のすばらしい表現力に感動させられた。

 リー・オスカーは、デンマーク人だが、エリック・バードン&ウォーのハーモニカで鮮烈にデビューした。エリック・バードンが抜けたあとも1993年までウォーに参加していた。ソロ活動も積極的で、日本のジャズ・ミュージシャンとの共演も多い。1976年に資生堂のCMに使われた曲がヒットした。

 エリック・バードンは、「朝日のあたる家」をヒットさせたイギリスのバンド、アニマルズのリーダーでボーカルだ。バンド解散後、アメリカに渡り、デンマークからやってきたリー・オスカーと出会う。このふたりがセッションでウォーのメンバーに会うわけだ。

 アルバム「エリック・バードン&ウォー Eric Burdon Declares "War"」(1969年)がウォーのファースト・アルバムだ。エリック・バードンなくしてのちにファンク・バンドとして大ヒットするWarはない。エリック・バードンは、ウォーをバックに2枚のLPを録音してバンドからはなれる。

 サウンドコーナーでは、ウォーのサードアルバム「世界はゲットーだ」がよく売れた。最初の曲が「シスコ・キッド」。リー・オスカーのソロ・アルバムからは、資生堂のCMに The Promised Land がつかわれて、このLPレコードもよく売れた。

エリック・バードンのオフィシャル・サイト http://www.ericburdon.com/

Eric Burdon and War   Spill the Wine  http://jp.youtube.com/watch?v=K7_U-zj2gfE&feature=related

War  Cisco Kid    http://jp.youtube.com/watch?v=ZGBba1AY1O4&feature=related

Animals  The House Of The Rising Sun  http://jp.youtube.com/watch?v=pRV9QCXLtHQ&feature=related

リー・オスカーのサイト http://www.leeoskar.com/home.html

リー・オスカーの曲の資生堂CM    http://jp.youtube.com/watch?v=eTAwLH8Jugw


iPodで、立川談志を聴く

2008-10-24 | 日記・エッセイ・コラム

Fiddlers (87th Precinct Mysteries) Fiddlers (87th Precinct Mysteries)
司馬遼太郎作「新選組血風録を読む」 司馬遼太郎作「新選組血風録を読む」

 CD「立川談志 司馬遼太郎作『新撰組血風録』を読む」をiPodにいれた。落語じゃない、朗読。ニッポン放送(ラジオ)が、平成9年の正月番組で放送したのを、CD3枚に収録した。発売は日本コロムビア。朗読だが、講談に近いかな。これを聴きながら歩き、電車に乗る。

 この談志師匠の朗読の前は、エド・マクベインの87分署シリーズの「フィドラー」をiPodで聴いて歩いた。CDブックは、丸善の洋書売り場にもかなりの数はあるが、たいがいインターネットのアマゾンのサイトで注文する。

(エド・マクベインEd McBainは、エヴァン・ハンターEvan Hunterの名でもたくさんの小説を書いてる。ヒッチコック映画「鳥」(1962年)は、エヴァン・ハンターの脚本だ。映画「暴力教室」の原作The Blackboard Jungul は、エヴァン・ハンターの小説だ。この映画の主題歌に、ビル・ヘーリー&コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が使われて大ヒットした。1955年のこと、ロック史に残る最初の全米№1のロックンロールだ。このシングルは、1700万枚売れたという)。

 

 歩きながら音楽を聴かない。つい音楽に集中して危険だ。電車では目的の駅を乗り越す。感情がたかぶって歩けなくなる。古い曲は、かならず古い思い出をよみがえらせる。ビートルズの「アビー・ロード」を聴いていて、「ビコーズ Because」になったとき、亡くなった佐藤英光を思い出し、涙がとまらなくなった。号泣しそうになった。電車のなかだった。とても危ない。だから、外では、iPodで音楽を聴かない。

 

 金曜日は、近くの小さい図書館が7時まで開館している。今夜は、「ランボー全集」(青土社 2006/08)の「地獄の一季節」を読んだ。「地獄の季節」全詩は40年ぶりくらいに読み返した。村上春樹の「ダンス、ダンス、ダンス」は、ランボーの詩句からとったのだろうか?

 

The Beatles  Because   http://jp.youtube.com/watch?v=OWkZ9ZQyVzw

アップル・コアのビートルズ・サイト http://www.thebeatles.com/core/home/

EMI・ミュージック・ジャパンのビートルズ・サイト http://www.emimusic.jp/beatles/

立川談志・公式サイト http://www.danshi.co.jp/topics.htm

エド・マクベインのオフィシャル・サイト http://www.edmcbain.com/

Bill Haley   Rock Around The Clock  http://jp.youtube.com/watch?v=F5fsqYctXgM


高橋真梨子さんが、ソプラノサックスを

2008-10-23 | 日記・エッセイ・コラム

目を見て語れ 恋人たちよ 目を見て語れ 恋人たちよ

 昼は、半袖でも汗をかくほどの日差しだったが、夕方から冷たい雨が降りだした。夜には激しい降りになってきた。 

 
 一国の首相にとって、ホテルのバーは安いか高いか、という愚かな話題が、この世界大不況の最中に日本のマスコミをにぎわしている。馬鹿なことだ。このきっかけを作ったのは、北海道新聞東京支社の記者の首相に対する愚かな質問だ。

 そもそも麻生太郎という人は、筑豊の石炭業からセメント業へのシフトを成功させた、麻生グループの中核会社、麻生セメント株式会社の社長だった。セメント、コンクリート業だけでなく、教育、医療と幅広い分野の大きなグループ企業だ。連結売り上げは、1450億円を超えている。吉田茂の孫でもある。いまの麻生グループ宗主は、首相の兄だ。麻生首相の資産は、4億5548万円と発表されている。

 だから、だいたいが庶民感覚とかけ離れた富豪なんだ。そんなことは首相になる前から国民周知のことじゃないかな。今回は、新聞記者の、こざかしいあおりに乗ってしまったが、首相の怒りはわかる。自分の金でホテルのバーで飲もうが勝手だ。そんなことはどうでもいいことだ。(それに、麻生太郎には、料亭よりホテルのバーが似合う。料亭や街のバーより、ホテルのバーが安いのも事実だ)。

 それに対して、すぐに、民主党・小沢が、居酒屋チェーンの店に行く、とコメントしている。このほうが偽善的で、じつに不快だ。日本の最大野党の党首が、学生が大騒ぎする居酒屋チェーンなんかで飲むなよ! 

 

 きのうは、ちあきなおみのことを書いた。ちあきなおみとほとんど同じ世代のすばらしい女性シンガーが、高橋真梨子さんだ。1982年のことだろうか、帯広でコンサートを開いた。まだ「桃色吐息」がヒットする前で、キャパ300席の勤労者福祉センターのホールだった。リハーサルのときから、じつに感動的なコンサートだった。

 最近みたNHKの番組で、高橋真梨子さんは、ソプラノサックスを吹いていた。父親が、プロのジャズバンドのテナーサックス・プレーヤーだった。その父に小さいときからジャズを教えられたという。ちあきなおみは、13才のときからプロとして米軍キャップでジャズとポップスを歌っていた。この世代のミュージシャンは、小さいときからジャズの洗礼をうけている人が多い。森山良子の父親は、ジャズ・トランペッター、母は、ジャズ・シンガーだ。

 「目を見て語れ 恋人たちよ」は、今年の夏発売になったばかりの、高橋真梨子さんの新曲。

高橋真梨子・公式ページ http://www.the-musix.com/mariko/index.html

ビクターエンタテイメントのよる公式ページ http://www.jvcmusic.co.jp/mariko/

ペドロ&カプリシャス ジョニーへの伝言 http://jp.youtube.com/watch?v=b5z94O4-ZgA  


「港の見える丘」は、ちあきなおみのアルバム

2008-10-22 | 日記・エッセイ・コラム

 

港が見える丘
 
 

 

 レコード屋のときに、ちあきなおみをロックやジャズのお客さんに薦めていた。歌謡曲、演歌の歌手を、なぜだ……と、不思議な顔をするお客も、LPを試聴してもらうと納得して買ってもらった。それは、ビクターから発売になったアルバム「港の見える丘」(1985年)だった。戦前、戦後の昭和の古い流行歌をカバーしたLPだ。一曲目の「星影の小径」を聴くと、その新しいサウンドに引きこまれる。そして、ちあきなおみの歌のうまさに心をうばわれる。多重録音を駆使した、アレンジも斬新でみごとだった。のちにこの「星影の小径」は、CMに使われて、テレビで流れた。つい最近もコマーシャルに使われていたような気がする。

 昭和の古い流行歌のなかに、曲も詞も、演歌、浪曲の流れではなく、新しいセンスの曲がたくさんある。それを発掘して、新しいアレンジとレコーディング・テクニックをつかって復活させた。のちにテイチクから発売されたアルバム「すたんだーど・なんばー」(1991年)のなかの「黄昏のビギン」がCMに使われて、ちあきなおみが再認識されるようになるが、そのさきがけとなったアルバムが「港の見える丘」だった。選曲もアレンジもじつにいい。

(アルバム・タイトルの「港の見える丘」は、1947年(昭和22年)発売の平野愛子のデビュー曲。作詞・作曲は、東辰三、作詞家・山上路夫の父)。

 なんどもCMに使われた、ちあきなおみが歌う「黄昏のビギン」は、作詞・永六輔、作曲・中村八大の作品で、オリジナルは水原弘が歌った。1959年(昭和 34年)の曲だ。水原弘の大ヒット「黒い花びら」も永六輔、中村八大の曲。「上を向いて歩こう」「こんちには赤ちゃん」「夢であいましょう」「遠くに行きたい」など昭和30、40年代ふたりの作品はたくさんある。

(中村八大は、ドラムのジョージ川口のジャズ・バンド「ビッグ4」のピアニストで人気があった。ビッグ4のほかのメンバーは、サックスが、松本英彦、ベースが小野満)。

 「黄昏のビギン」のCMで、ちあきなおみが再認識されだしたとき、ちあきなおみは、すでに芸能界から引退してしまっていた。1992年にプロデューサーで夫の郷鍈治さんが亡くなったときから、いっさい芸能活動をやめ、まったくマスコミにも登場しない。夫が荼毘に付されるとき、「私もいっしょに焼いてください」と、ひどくとり乱した、と当時写真誌の記事にあった。まさに、「いっしょに焼いてください」の言葉どおり、そのとき、歌手「ちあきなおみ」は殉死したのだ。壮絶な夫婦愛だ。

 ちあきなおみが、「雨に濡れた慕情」でデビューした年(1969年)、わたしはレコード屋になった。わたしの店でも、「四つのお願い」とか「喝采」のシングル盤がよく売れた。年令もほとんど同じだ。そのせいか、いつもシンパーを感じるシンガーだった。

 わたしが音楽にかかわる仕事をやめ、東京に出てきた当時、ちあきなおみは、ビリー・ホリデーをモデルにした一人芝居やジャズ、シャンソン、ファドなどを歌うライブを積極的にやっていた。そのステージをみることを楽しみにしていた。しかし、けっきょく、一度もライブをみることができなかった。じつに残念だ。  

  

 

星影の小径 https://www.youtube.com/watch?v=yGKHkWK7mSo

黄昏のビギン http://jp.youtube.com/watch?v=VcsDsOEU3B0&feature=related


グレース・スリックと同じ町内のケルドセンさん

2008-10-21 | 日記・エッセイ・コラム

シュールリアリスティック・ピロー シュールリアリスティック・ピロー

 

 わたしは中学生のとき、音楽の3Bは、バッハ、ベートーベン、ビートルズになる、といってみんなに笑われたものだ。ビートルズは、かならず学校の教科書に載る、ともいって同級生に嘲笑された。共感してくれたのは、同じクラスの佐藤英光くんだけだった。転校生したわたしの最初の友人だった。

 高校生になると、ビートルズは、すっかりポピュラーになっていて、クラスに一つはビートルズのコピーバンドがあるほどだった。いま、ポップスとは無縁な顔をしていても、ギターを弾いてビートルズを歌えるおっさん、おばさんがたくさんいるはずだ。

 このころ、わたしはもう、山登りに夢中だったから、そんなに熱心にポップスを聴かなかった。だが、家業がレコード屋だったから、店に行けば流行のものを聴くことができた。マイルスもコルトレーンもロリンズも若く、ジャズが最高に創造的で刺激的で、おもしろい時代だった。「モダンジャズ」といわれたジャズの絶頂にあった。クラシックも好きになった。

 
 10年くらい前、アメリカ人の英語教師、A・ケルドセンさんと話していると、若いのにやたらと60年代のロックにくわしい。(彼は25才くらいだ)。その知識が半端でない。とてもリアルなんだ。なぜ? ときくと、サンフランシスコ出身で、60年代に父親と叔父がフォークロックのバンドを組んでいた。叔父はいまもフィドル(バイオリン)のプレーヤーでアメリカでは知られた存在だ。父親はミュージシャンをやめてギターの製造会社を興した。いまはけっこう大きい会社で、ギター以外の弦楽器も作ってる。香港の工場で作ったヴァイオリンを日本でも売ってる、という。

 育ったところはミュージシャンがたくさん住んでいて、ジェファーソン・エアプレインのグレース・スリックは、近所のおばさんで、よく家に遊びにきて、小さいときから可愛がってもらった、という。

 ジェファーソン・エアプレインは、1965年結成のサンフランシスコのグループだ。ヒッピー文化を象徴するバンドだった。サイケデリック・ミュージックなんて言葉もあった。その中心的バンドだった。日本では「あなただけを Somebody To Love」が大ヒットした。1974年にはグループ名をジェファーソンスターシップに変えた。

ジェファーソン・エアプレイン・オフィシャル・サイト http://www.jeffersonairplane.com/

ジェファーソン・スターシップ・オフィシャル・サイト http://www.jeffersonstarshipsf.com/

Somebody To Love  http://jp.youtube.com/watch?v=V4TlDDOvsFY&feature=related


スティービー・ワンダーを帯広の友人と観る

2008-10-20 | 日記・エッセイ・コラム

太陽のあたる場所 太陽のあたる場所

キー・オブ・ライフ キー・オブ・ライフ

 

 サイゼリヤのピザからメラミンがでた。微量なので健康に影響はない、と発表された。しかし、何を根拠に影響はないといえるのか? アメリカ、カナダでメラミン入りのペットフードで数百匹のイヌ、ネコが死んだのは、去年じゃなかったか。これも原料の小麦グルテンが中国産だった。見かけのタンパク質の量を増やすためにメラミンを添加するという今回の牛乳事件とまったく同じ手口だった。中国の食品製造業では恒常的にやっている行為なのだろう。

 サイゼリアのピザのように、パン生地や餃子やシュウマイの皮、うどん、ラーメン、お菓子、スナックなどあらゆるところに中国産原料が使われているのだろう。こうして一日に摂取する中国産不純物の総量はどれほどになるのか、じつに怖ろしい食品テロだ。メラミンは、腎臓で結晶化してダメージを与える。排出されず蓄積していく。微量だから安全という根拠はないのだ。

 

 スティービー・ワンダーを帯広の友人たちと武道館でみたのは、1981年3月のことだ。似内清高くん、塚谷敏範くん、坂下くんがいっしょだった。ぎりぎりにチケットを手に入れたので、あまり良い席とはいえないが、ともかく実物の演奏をみるのは感動ものだった。

 スティービー・ワンダーは「迷信」の大ヒットで音楽シーンで復活するが、デビューはじつに古い。1961年。わたしが中学生のときからいた。リトル・スティービー・ワンダー、12才だ。盲目の天才少年登場、みたいな売りで宣伝していた。日本でも「太陽のあたる場所」が大ヒットした。「マイ・シェリー・アモール」も名曲だ。

 しかし、60年代後半のハードロックブームのなかで低迷していた。だが、1972年の「迷信Superstition 」の大ヒットで完全に復活した。そして、1976年発売の2枚組のアルバムの「キー・オブ・ライフ Song in The Key of Life」でグラミー賞を獲得する。

スティービー・ワンダーのオフィシャル・サイト http://www.steviewonder.net/

A Place In The Sun  http://jp.youtube.com/watch?v=gawYt1d0vEg

Superstition  http://jp.youtube.com/watch?v=wDZFf0pm0SE

I Just Called To Say I Love You   http://jp.youtube.com/watch?v=PY45DkaP9Ls


ホンダのオデッセイのCMは、ビージーズ

2008-10-19 | 日記・エッセイ・コラム

「小さな恋のメロディ」オリジナル・サウンドトラック 「小さな恋のメロディ」オリジナル・サウンドトラック

ファースト ファースト

 

 銀座6丁目に、十勝毎日新聞社が経営しているレストラン、十勝屋がある。十勝の食材をつかって、値段も安いから、いつもいっぱいだ。去年は、帯広出身の友人たちとなんどかいったが、3回しか入れなかった。帝国ホテルのところから、JRのガードをこえて右に曲がるとすぐだから立地もいい。今年夏、映画の帰り、東京の知人をさそって寄ったときも、満席でダメだった。予約するべきだろうか……しかし。 

 
 神田神保町の三省堂書店別館にあるレコード社では、ジェフ・ベックのLP「ベック・イン・ジャパン」が2000円、「ライヴ・ワイアー」が1700円だった。当時とほとんど変わらない。中古盤ということでは、妥当な値段だろう。バート・バカラックのコンパクト盤(17センチ、33回転、4曲入り)は、800円、これもあまり変わらない。ところが、ビートルズのシングル盤は、1000円~ 2000円する。いくらなんでも2000円のシングル盤というのは、どうだろう。

 このレコード社では、いま、レーザーデスク(LD)が50%OFFのセールをやってる。たとえばビートルズの「ヘルプ!」は、1000円の値段がついているので、500円で買えるわけだ。

 このレコード社のLDバーゲンをみて、数年前、九州の森本裕二くんが、パイオニアのレーザー・デスクのプレイヤーを手に入れて古い映画を楽しんでいるといっていたことを思い出した。ソフトが、数百円で買えるから、レンタルビデオを借りるより安いし、手元に残る、といっていた。レコード世代の人間には、柄の大きさは気にならない。コレクションの実感があってかえって所有する楽しさがあるかな。ジャケットの写真が大きいのもいい。 

  
 きょうは、渋谷の帰りに、ひさしぶりにキャットストリートを通って、表参道にでた。キャットストリートは、渋谷駅ちかくの明治通りから、斜めに表参道のシャネル・ビルまでショートカットできる遊歩道だ。川をコンクリートで覆って暗きょにしている。遊歩道の両側におしゃれな店やヘアーサロンがたくさんあるから若者であふれてる。車が通らないからブラブラという感じで快適に歩ける。

 おっさんのわたしには、まったくふさわしくない街だが、この街のヘアーサロン・ビルの建築現場に1年立っていた。現場のとなりの米屋さんや八百屋さんや、ヘアーサロンやブティックのおねいさんたちと挨拶をかわす、なつかしい街なんだ。

 表参道のシャネル・ビルとディオール・ビルの間の細い通りから、ミキサー車やダンプをいれる。現場まで100メートルくらいだが、細い道は人であふれているので、ガードマンがトラックの前を歩いて人ばらいをする。

 「すいません、トラックが通ります。ごめんなさい、工事車両を通してください」と叫びながら、ダンプの前を歩く。材料の搬入車両はぜんぶ、こうしてガードマンが先導して誘導する。荷をおろして空になった車両を、現場から表参道にだすときも、おなじようにガードマンがトラックの前を歩く。「すいません、トラックが通ります」と言いながら。

 工事車両は、4トン車までしか入れない。実際、4トン車がぎりぎり通れる一方通行の道だ。表参道から1台づつしか車両をいれられない。だから、残土をだすときも、鉄筋を搬入するときも、コンクリートを打つときも、時間がかかる。しかし、4トンしかいれない、かならずガードマンが先導する、それが住民との取り決め、住民協定だった。そのトラックの先導を1年やっていた。車両の出入りにも、工事の騒音にも、埃にも、とても気をつかう現場だった。
 
 日本で一番ヘアーサロンが集中しているのじゃないか、いわれるところで、若者と外人の観光客であふれる街だが、現場の三軒のむこうくらいに小説家の筒井康隆さんの住宅があった。「おはよう」と、着物に下駄で、筒井さんが挨拶していく。そんな界隈だ。

 きょう、2年ぶりにいくと、新しいビルがたくさん出来ていて、また新しい服屋や靴屋や、アクセサリーや宝石の店ができていた。そして、新しいヘアーサロンが、またたくさんできていた。このキャットストリートから表参道にでて、ケヤキの表参道をハナエモリビルまであがり、地下鉄半蔵門線に乗る。つまり、ジジイになってから、雨の日も雪の日も、一日中この界隈にいた。この神宮前だけで三つのビル建設の警備員をひとりでかけ持ちでやった。(現場事務所はひとつで、監督もかけ持ちだ)。だから、ここが東京では一番好きな界隈だ。

 
  
 いま、ビージーズの「スティン・アライブ Stayin' Alive」が、ホンダのオデッセイのCMにつかわれてる。この曲は、映画「サタデー・ナイト・フィーバー」で大ヒットした。1978年(昭和53年)のことだ。映画が大ヒットで、サントラのビージーズの2枚組のLPも爆発的というほど売れた。ジョン・トラボルタは、この映画だけでスーパースターになった。  
 

  ビージーズは、この映画のサントラが最初のブームではない。最初は古い。「ニューヨーク炭坑の悲劇」、1967年(昭和42年)のことだった。この年、ビージーズは、立てつづけにシングルのヒットをだす。「ラヴ・サムバディ To Love Somebody」「マサチューセッツ」「ホリデー」「ワールド」、翌年は、「ワーズ」がヒットした。日本でもよく売れたのだ。(まだわたしは、レコード屋をやってない。駅ビルのサウンドコーナーでビージーズのシングル盤がよく売れていた)。

「To Love Somebody」は、日本のグループサウンズが好んで演奏していた。世界的には、ニーナ・シモンのカバーが有名だろうか。

 そのあと、ビージーズは、映画「小さな恋のメロディー」の主題歌「メロディー・フェアー」と「イン・ザ・モーニング」がシングルカットされて、大ヒットする。1971年(昭和46年)のことだ。 

 そして、「サタデー・ナイト・フィーバー」のヒットだ。このアルバムは、全世界で大ヒットした。ビージーズは、いままで、2億3000万枚以上のアルバムを売っているという。ビートルズ、プレスリー、マイケル・ジャクソンなどと同様にポップス界でもっとも成功したグループだ。わたしは長い間、ビージーズを生粋のオーストラリア人のグループと思っていた。しかし、ギブ兄弟3人ともイギリス生まれで、家族でオーストラリアに移住したことをずいぶん後になって知った。

  わたしは、ビージーズのなかでは、「愛はきらめきの中に How Deep Is Your Love」が一番かな。

Bee Gees   To Love Somebody  http://jp.youtube.com/watch?v=gADZ5cXyYXc&feature=related

Bee Gees   Massachusetts   http://jp.youtube.com/watch?v=Iyog5mgvRK8&feature=related

Bee Gees   Melody Fair  http://jp.youtube.com/watch?v=YIUSW5jOJ7Y

Bee Gees  How Deep Is Your Love http://jp.youtube.com/watch?v=mCj0F0o9u-8&feature=related

ビージーズのオフィシャル・サイト http://beegees.com/

ロビン・ギブのホームページ http://www.robingibb.com/frontpage?cmd=cookie/check 

                                                                                     


戸張さんとコーラスラインを撮る

2008-10-18 | 日記・エッセイ・コラム
コーラスライン コーラスライン
Chorus Line/O.S.T. Chorus Line/O.S.T.

 

 依頼されて帯広市長選のためのイベントをやったことある。1985年のことだ。まず、ダンス・パーティーと体育館の大集会の企画を立てた。ダンス・パーティーは、生のビッグ・バンドで、歌は、菅原洋一が歌う。司会は、ファンファン・岡田真澄だ。この豪華なバンドで、一般のおばさん、おじさんに社交ダンスを踊って楽しんでもらう。料理も酒も出す。この予算書を出すと、なんと、OKがでた。

 (実際やってみると、想像したより、はるかにたくさんのお客さんが正装してやってきた。そして、みんなダンスがうまい。戦前生まれの人たちは、普通に社交ダンスができる事実に驚いた。社交ダンスは、今の若者がクラブで踊るようなものだったのかもしれない)。

 帯広体育館の大集会は、ロッキーがテーマだ(けっして政治集会とは思えない、派手で楽しい演出なんだ)。中央にボクシング・リングを設置して、イントレ(タンカン)で4基の照明タワーを組み、ここからピンスポットをリングに当てる。スモークも、ストロボも使う。PAもつかって大音響で音楽を流す。リング・アナウンサーは、プロを使う。照明は、ステージアンサンブル、PAは、パワーハウスで、企画書をつくった。金はかかる。ロック・ショーなみだ。この予算もすんなりOKだ。驚いた。政治の世界には、金があるんだな、と感心した。

 ダンス・パーティーも、ロッキーの集会も、まったく承認されると思っていないから、楽しんで企画書をつくっていた。(この菅原洋一さん、岡田真澄さん出演のダンス・パーティーと、体育館のロッキー集会の当日のことは、また別に日に書こう。この話も愉快なんだ)。

 そして、もうひとつ絶対に通らないはずの冗談みたいなアイデアがあった。映画「コーラスライン」の試写会を開いて、そのパロディのポスターをつくる。まったく映画のポスターと同じ構図で、劇場でモデルたちが後ろ姿で並んでいる。よく見るとパロディで、笑ってしまうが、市長選候補予定者が思い浮かぶ。(候補の名前も、選挙にかかわることも、まったくポスターには無いのだが、かならず、ある候補者を連想させる、そういう仕掛けになってる)。このパロディ・ポスターを「コーラスライン」の封切りにあわせて、街中に張る。

 この撮影は、札幌厚生年金会館大ホールを借りる。ステージ上に撮影用のタワーを組む。モデルは、プロを雇う。照明スタッフは、ステージアンサンブルから出してもらう。撮影は、写真家の戸張良彦さんにお願いする。ポスターの印刷は、東洋印刷でやる。この企画もひどく金がかかる。直接どんな効果があるかもわからない。ただの冗談といえば、冗談なのだ。しかし、この企画も通ったのだ。わたしの立てた予算どおり金をだす、という。

 モデルは、ミューズの木ノ内さんの仕込みで、札幌のモデル・クラブが手配した。モデルたちは、ステージのフロントにならび、カメラは下手奥のかなり高い位置からモデルの後ろ姿を撮影する。

 イントレでタワーを組み上げ、オリジナルと同じ角度になる高さを探すことから当日の撮影準備がはじまった。それから、やっかいなのは照明だった。これがじつに難しい。照明屋さんのステージアンサンブルでは、あらかじめポスターをみて、照明機材を運び込んでくれていた。しかし、その機材を実際に組み上げて、ライトを当ててみても、スチール写真のようにならない。ハリウッド映画のスチール写真の照明再現は、容易ではなかった。(もっと大量の数のライトを使っている。それが大小さまざまで、光量も微妙に違う)。

 ほぼ満足できる照明を実現するのに、ほとんど一日かかった。撮影の戸張さんは、そのあいだずっと高いタワーの上でカメラをのぞき、照明スタッフと打ち合わせをつづけた。モデルは、ほとんど一日おなじポーズで立ちつづけた。みんなじつに誠実で熱心な職人だった。この撮影に参加しただれもが感心したのは、ハリウッド映画の照明の複雑さだった。(あれ以来、映画をみるとき、照明が気になるから、照明もまた楽しめる)。

 しかし、じつに困難だったが、バカバカしくも愉快な撮影だった。完成したこのパロディのポスターは、帯広の街中に張られた。

 「コーラスライン」は、1975年から1990年で、6136回という超ロングラン公演をやったブロードウェーイ・ミュージカルだ。1976年のトニー賞では、最優秀ミュージカル賞ほか9部門を受賞している。音楽は、「追憶」でアカデミー主題歌賞をとっているマーヴィン・ハムリッシュ  Marvin Hamlisch だ。

 リチャード・アッテンボロー監督の映画「コーラスライン」は、1985年12月に日本で封切りになった。サウンドトラック盤はよく売れた。日本では劇団四季が1979年から公演をはじめ、全国公演もやっていた。帯広公演もあった。

 「追憶 The Way We Were」(1973年)は、バーバラ・ストライザンドロバート・レッドフォード主演の映画。このCBSソニーのサントラも売れた。シングルは、ビルボード・トップ100に23週はいっていたメガヒットだ。1974年2月に№1になってる。

A Chorus Line  One     http://jp.youtube.com/watch?v=tyZeGOsR9IA&feature=relate

Barbra Streisand  The Way We Were     http://jp.youtube.com/watch?v=n-KPGh3wysw&feature=related

    


「天国の扉」をアンジェラ・アキが歌う

2008-10-17 | 日記・エッセイ・コラム

ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア

ビリー・ザ・キッド 21才の生涯 特別版 ビリー・ザ・キッド 21才の生涯 特別版

 

 十数年前は、川崎市に住んでいた。多摩川の対岸は東京都世田谷区だが、神奈川県なので家賃など生活費は、東京より安い。そのころ、近所のマルエツやダイエーなどスーパー・マーケットでは「十勝牛」というのがたくさん売られていた。和牛より安く、輸入牛より少し高い。その「十勝牛」がどこのスーパーでも牛肉売り場の中心を占めていた。十勝では、こんなたくさんの肉用牛が肥育されていないはずだが、と思ったものだ。

 その話を西日本で肉の卸業をやっている知人に話した。「十勝」という地名そのものがブランドだからね、いま、日本全国で「十勝牛」がうけてる、それが十勝産であるかないか、わからんが……、と教えてくれた。それから数年してスーパーの店頭から「十勝牛」の文字が消えた。いまは、まったく目にしない。

 最近は、近所のラーメン屋やそば屋の店頭に、「北海道産小麦粉使用」とか「十勝産粉使用」と大きく書いてある。スーパーやコンビニの、あんパンやまんじゅうや和菓子などあんこが入っているものには、「十勝産小豆」と書いてある。

 
 70年代の北海道・十勝を舞台にした、ロック・バンドの話を小説にしてはどうか、という話があった。すこし前からそれを書いている。近いうちに別ページで冒頭部分を発表したいと思っている。

 
 アンジェラ・アキが、ボブ・ディランの名曲「天国の扉 ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」をカバーする。来年2月封切りの映画「ヘブンズ・ドア」の主題歌で、長瀬智也と福田麻由子が主演だ。

 「天国の扉 ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア Knockin' on heaven's door 」は、ボブ・ディランが1973年に出演した、サム・ペキンパー監督の映画「ビリー・ザ・ギッド Pat Garrett and Billy the Kid」の挿入歌だ。ボブ・ディランの曲で、もっとも多くカバーされているといわれる。1975年にはエリック・クラプトンがシングルを発売してヒットした。ボブ・マーリー、U2、エアロスミス、ガンズ・アンド・ローゼズ、、ブラアン・フェリー、マーク・ノップラーなどのほかまだまだある。最近ではアヴリル・ラヴィーンがカバーしている。

  「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア Knockin' on heaven's door」のディランの曲名と同じタイトルのドイツ映画が、1997年にドイツで大ヒットした。病院で知り合った脳腫瘍と骨髄腫、ともに末期の青年ふたりが、見たことがない海をめざして旅をするロードムービーの傑作だ。音楽もじつにいい。もちろんエンディングはディランの曲が流れる。わたしは、封切りを見損なって、レンタル・ビデオでみて、感動した。来年2月封切りの邦画「ヘブンズ・ドア」(マイケル・アリアス監督)は、このドイツ映画のリメイクだという。

 オリジナルのドイツ映画では、生まれてから一度も海をみたことがない、というのが、死期がせまった男たちの旅の重要な動機になる。海をみると天国にいける、と病院をぬけだし、車を盗んで海をめざす。だが、現在の日本を舞台に、海をみるために最期の旅をするというロードムービーが成立するのだろうか? 

Pat Garrett and Billy the Kid http://jp.youtube.com/watch?v=8MgubwywhiU&feature=related

Bob Dylan  Knockin' on heaven's door  http://jp.youtube.com/watch?v=l-PvCKnaW1E&feature=related

Guns N' Roses   Knockin' on heaven's door  http://jp.youtube.com/watch?v=rhCM88LhoW0

Eric Clapton   Knockin' on heaven's door  http://jp.youtube.com/watch?v=hh4WwCzjtL4&feature=related

Dolly Parton  Knockin' on heaven's door http://jp.youtube.com/watch?v=9Zkr6kb8L58   

Avril Lavigne   Knockin' on heaven's door   http://jp.youtube.com/watch?v=KUA8-AVjsaw&NR=1