ハーブ・アルパートの「マルタ島の砂」は、日本で大ヒットした。作曲したのは、西ドイツのベルト・ケンプフェルトだ。
ベルト・ケンプフェルト The Maltese Melody (マルタ島の砂)http://www.youtube.com/watch?v=bpLJ_W299Z8
(いまは、ベルト・ケンプフェルトと表記するようだ。わたしは昔と同じように、ベルト・ケンペルトと書きたいのだが……)
ベルト・ケンプフェルトは、西ドイツのトランペッターで、作曲家、バンドリーダーで指揮者、アレンジャー、そして、レコーディング・プロデューサーだ。
ベルト・ケンプフェルト live 1967 http://www.youtube.com/watch?v=QUFvr2kcwYw
ポピュラー・ミュージックの世界で、ムード・ミュージックとかイージーリスニングがほとんど死語になった、いまの日本で、ベルト・ケンプフェルトは、すっかり忘れられたミュージシャンだろうか。
しかし、ビートルズ神話の重要な登場人物の一人なのだ。ビートルズが最初にレコーディングしたのは、西ドイツ・ポリグラム社(ポリドール・レコード)のスタジオで、ベルト・ケンプフェルトが制作したトニー・シャリダンのレコードなのだ。
1961年(昭和36年)のベルト・ケンプフェルト。ベルト・ケンプフェルトは、トランペットをフィーチャーした自分自身のオーケストラで、かずかずのヒットレコードを発売し、ポリドール・レコードのプロデューサーとしても、さまざまなアーティストのレコードを制作して活躍していた。
ベルト・ケンプフェルトは、トニー・シャリダンのレコーディングのとき、バック・バンドに、ハンブルグのクラブに出稼ぎにきていたイギリス・リバプールのロック・バンドを雇う。のちのビートルズだ。ハンブルグ出身のベルト・ケンプフェルトは、地元の音楽事情にくわしかったのか、ハンブルグで働くイギリスの、このバンドを知るなにかがあったのだろう。
ビートルズが、ブライアン・エプスタインのマネージメントと、ジョージ・マーチンのプロデュースでメジャーデビューするのは、1963年。ベルト・ケンプフェルトが、ビートルズを雇ったのはその2年まえ、1961年のことだ。
この、西ドイツでベルト・ケンプフェルトがプロデュースした、トニー・シャリダンのポリドール盤は、ビートルズのデビューに大きな役割をはたす。というは、ビートルズが出稼ぎ先のドイツ・ハンブルグからイギリス・リバプールにもどって、ライブハウス・キャバンクラブにでているときのこと。
リバプールの老舗家具店のレコード売り場主任ブライアン・エプスタインに、「ドイツで発売された“マイ・ボニー”というレコードはないですか?」と若者がたずねた。「地元リバプールのバンドが、バックで演奏してるんです」という。ブライアン・エプスタインがまったく知らないレコード、グループで、とうぜん在庫もなかった。エプスタインは、このレコードが気になって調べるわけ。
(わたしは、レコードショップの店員の体験から、その心理がよくわかる。お客さんに尋ねられて、知りません、わかりません、と、アホな応対をして、自分自身、プライドが傷ついている。オレ、何年この仕事やってんだろ、なさけないな、とヘコむわけ。在庫がなくて、みすみす売上を失った、という実利の、商売人としてのミスもある。
だから、お客さんが帰ったあと、納得できるまで徹底的にしらべる。むかしはパソコンというものがないから、これがやっかいな作業なのだ。各レコード・メーカーの年鑑のようなカタログをみる。このカタログにない新しいレコードは、月毎の新譜注文書をみていく。日本の場合、オリコン年鑑がでたのは、70年代の半ばかな。オリコン年鑑と月毎の分冊があっても、新しい曲のタイトルだけで探すのは、やっかいなのだ。それに、お客さんがいうタイトルが、いつも正確とはいえない)
ブライアン・エプスタインは、その西ドイツ・ポリドール制作のレコード“マイ・ボニー”のバンドがおなじ街のライブハウス・キャバンクラブに出演している、地元のバンドだと知る。そして、キャバンクラブにそのバンドを見にいく。
こうして、ビートルズのサクセスストーリーが現実のものになっていく。これからの話は、どんなビートルズ物の本にも書いてあるから、みんなが知っていることだろう。わたしがあらためて書くことでもないが。
ブライアン・エプスタインは、ビートルズをデッカ・レコードで断られた、そのとき、どういう言葉でデッカ・レコードは、エプスタインを罵倒し、断ったのだろ。そのこと、興味あるな。
こんなクソバンド、とか、田舎リバプールのバンドなんか、とか。こんなクソバンド、売れるわけねえだろ、あんたは、田舎のレコード屋だから、なにが流行るかなんて、なんにも、わからないだよ! とか罵倒されたのかな。
こうして、ブライアン・エプスタインはデッカ・レコードから断られてもめげず、エンジェル・レコードの子会社、エピフォン・レコードのプロデューサー、ジョージ・マーチンにデモ・テープを聴かせて、共感をえて、そして、メジャーデビューするわけだ。そして爆発する。(しかし、今夜は、ビートルズの話ではなく、ベルト・ケンプフェルトの話をしたい)
ジョージ・マーチンが、リバプールのブライアン・エプスタインの売りこんだバンド、ビートルズと契約をした、その遠い背景には、西ドイツ・ポリドールの名プロデューサー、ベルト・ケンプフェルトが才能をみとめてバックバンドで雇った、ということがある。と、わたしは思っている。ビートルズがデビューするころ、ドイツのベルト・ケンプフェルトは、すでに世界で知られるミュージシャン、プロデューサーだった。(同世代のジョージ・マーチンが、ドイツからヒットをとばすベルト・ケンプフェルトを知らないわけがない。)
(ドイツ・ポリドールは、ヨーロッパ老舗レーベルだ。ベルト・ケンプフェルトがライト・ミュージックで活躍した、そのとき、クラシックでは、カラヤン&ベルリン・フィルのポリドール盤が世界じゅうでメチャクチャ売れていた)
日本でも、ベルト・ケンプフェルトの曲がヒットした。50年代おわりから、60年代初頭のことだ。
ベルト・ケンプフェルト Till (愛の誓い) http://www.youtube.com/watch?v=Dl_BK8kmsN4
日本では、ムード音楽のバンドリーダーという感じかな。しかし、ベルト・ケンプフェルトが作曲して、それをアメリカ人がカバーして英語の詩で歌い、世界的にヒットして、それが日本でもヒットしたという曲がいくつもある。
ナット・キング・コールのL‐O‐V‐E とか、ブレン・ダリーやコニー・フランシスが歌った「ダンケ・シェーン」とか、フランク・シナトラの「夜のストレンジャー」とか、日本でもヒットした曲は、ベルト・ケンプフェルトの曲なのだ。
最近もサントリーの、麦なんとやらのCMにも、L‐O‐V‐E が使われている。この曲が、ドイツのベルト・ケンプフェルトの曲だ。
ナット・キング・コール L‐O‐V‐E http://www.youtube.com/watch?v=JErVP6xLZwg
ベルト・ケンプフェルト・オーケストラ Afrikaan Beat http://www.youtube.com/watch?v=mOf4uNwvC6c&feature=related
ベルト・ケンプフェルト・オーケストラ That Happy Feelimg http://www.youtube.com/watch?feature=fvwp&v=_9Wx8BRjzoI&NR=1
フランク・シナトラの「夜のストレンジャー」も、ドイツのベルト・ケンプフェルトの曲だ。
フランク・シナトラ Strangers In The Night http://www.youtube.com/watch?v=hlSbSKNk9f0
日本ではコニー・フランシスやブレン・ダリーの歌で流行った「ダンケ・シェーン」も、ベルト・ケンプフェルトの曲だ。
ウェイン・ニュートン Danke Schoen http://www.youtube.com/watch?v=0m_giioppT4
プレスリーやフィリオ・イグレシアスが歌っていた Spanish Eyes も、作曲はベルト・ケンプフェルトなのだ。
エンゲルベルト・フンパーディンク Spanish Eyes http://www.youtube.com/watch?v=F4s__QO9kG0
ベルト・ケンプフェルト オフィシャルサイト http://www.kaempfert.de/en/