Ommo's

古い曲が気になる

吉田拓郎のコンサートも、帯広でやったものだが…

2015-12-23 | 日記・エッセイ・コラム

 

 帯広市民会館(いまは、もう無い)。吉田拓郎のコンサートもやったな。1972年。斉藤哲夫、友部正人も出演した。

 その時のポスター。帯広・CLOUD の加藤光邦社長が、40年以上も前のポスターを大事に持っていてくれて、写真家の戸張良彦さんにその古いポスターを撮影していただいた。

 このとき1972年の、帯広の吉田拓郎は、アコースティック・ギターで、椅子に座って歌った。バックバンドは、やはり、アコースティックのギターバンド、猫だ。

 もちろんわたしの企画だから、東京・帯広往復航空運賃、宿泊費、ギャラ、会場費すべて、わたしが払うわけ。これは北海道ツアーではない。帯広だけのコンサート。(当時の業界の用語では、”行って来い”というやつ)。

 拓郎さんの事務所は、エレック・レコードだったか、すでにユイ音楽工房だったか……な? 斉藤哲夫さん、友部正人さんは、URCレコードの東京事務所に紹介してもらった。

 

 このあと、吉田拓郎は、ロックバンドをバックにする。おなじ広島の”愛奴”だ。ギターが町支寛二さん、ドラムスが浜田省吾さん。わたしは、この”吉田拓郎 with 愛奴"の北海道コンサートには関わってない。京都出身の元北大生の、札幌の大西さんがやっていた。

 

 しかし………40年以上前………小さいレコード店のあんちゃんの、素人のわたしがデザインした『吉田拓郎コンサート』のポスター……そんなに、悪くないでしょ?

 印刷は帯広の東洋印刷。東洋印刷は、まだ白樺通りに移転してなくて、東1条南7丁目あたりに工場があった。ファンファンの吉田ママに東洋印刷の坪川部長を紹介していただいて、この『吉田拓郎コンサート』のポスターを刷った。それ以来15年以上、わたしの企画するイヴェントの印刷物すべて、坪川さんにお願いした。帯広に戻って、坪川さんが数年前に亡くなったと聞いた。

 当時、帯広で、わたしがやっている音楽のイヴェントの意味を理解してくれていたのは、印刷物を刷っていてくれた、東洋印刷の坪川さん、そして、新生広告の田西さんかな。

 帯広市民会館の連中(市の職員)には、さんざんバカにされ、ナメられたものだ。「この、吉田拓郎ってなに? 大ホールなんか使って、客、入るのかい(レコード屋のアンちゃん)!」

 

 ところが吉田拓郎コンサート当日、大ホール1600席は満席、立見びっしり(当時は消防法がまだゆるく、立見が許された)、わたしは、2000人くらいのお客さんを入れただろうか。

 わたしが主催した、この吉田拓郎のコンサートに来てくれた方は、いま、60歳前後になるだろうか? 

 

 その当時はまだ、ロカビリーとか、グループサウンズのなごりなのか、なぜか、観客がステージに紙テープを投げる。(お客がステージに紙テープを投げる、おかしな流行りだった。むかし青函連絡船が出港するときも紙テープだったが‥‥‥)

 お客が投げた紙テープが、イスに座って歌っている吉田拓郎の眉間に、バシッと当たった。

 すぐに歌をやめ、「僕らは真剣に歌ってるんだ。君らも、聴く態度というのがあるだろう!」と、言った。帯広市民会館大ホール、満員の会場が、シーンと凍りついた。

 

 

 

 


「そうだ難民しよう!」、届く

2015-12-21 | 日記・エッセイ・コラム

 

 ”ホワイトプロパガンダ漫画家”  はすみとしこさんの 『そうだ難民しよう!』が、届いた。12月17日発売、というから、北海道のわたしに、20日にくるか…………な‥? やはり、20日の夕暮れに届いた。アマゾンは、凄いわな。郵便だが…

 

   『そうだ難民しよう!』

   おもしろいね。

 


魔法の黄色い靴

2015-12-19 | 日記・エッセイ・コラム

 

 ”チューリップ”がデビューしたとき、北海道全域のプロモーターが、帯広の小さいレコード店の店長のわたし、だったとは………帯広の人たちは知らないでしょうね。(まあ、べつに、帯広の人たちは永遠に知られなくていい………矢沢永吉も、井上陽水も、荒井由実も、浜田省吾も………まだ貧しい無名の青年たちだったが、みんな強烈な輝く意志があった。わたしは、それが好きだ。その生きる若者、その命の輝き、その輝く才能………それを手助けする。それが、興行師ってもんじゃなかろかね)。

 財津和夫さんの音楽は、好きだ。

 チューリップのデビューのテスト盤を聴いたとき、いいね、と思った。東芝レコード(そのころは、東芝音楽工業だったか、そして、東芝EMIかな)の宣伝担当・高橋さんに、「このチューリップのコンサートを北海道でやりたいから、事務所を紹介してくださいな」と、言って、シンコーミュージックを紹介された。その音楽出版・プロダクションの、チューリップの担当者は、新田さんといったかな?

 そんなわけで、わたしは、北海道でチューリップのコンサートをやることになる。札幌と帯広は、じぶんで主催していたが、苫小牧とか釧路とか旭川は、地元の新聞社にやってもらった。

 それは、1972年だったろうか?

    チューリップ  魔法の黄色い靴  https://www.youtube.com/watch?v=00Q-HG8RobM


 

魔法の黄色い靴
 
 

セリーヌ・ディオンの『愛の賛歌』に泣いた

2015-12-16 | 日記・エッセイ・コラム

 

 深夜にNHK・BSで放送された、AMA's 2015(アメリカン・ミュージック・アワーズ 2015)のパフォーマンスでは、セリーヌ・ディオンの『Hymne à L'Amour 』が圧巻だった。わたしも涙が流れた。

 『愛の賛歌 Hymne à L'Amour 』は、エディット・ピアフ(1915-1963)が1950年に発表したシャンソンの名曲。作詞エディット・ピアフ、作曲マルグリット・モノー。

   セリーヌ・ディオン ”Hymne à L'Amour” Live at The AMA's 2015  https://www.youtube.com/watch?v=y4ITfyUoO2M

ベスト・オブ・エディット・ピアフ
 
 

   エディット・ピアフ  愛の讃歌 Hymne à L'Amour  https://www.youtube.com/watch?v=1gTGmbA40ZQ

 

 


九州の唐揚げ届く

2015-12-11 | 日記・エッセイ・コラム

 

  九州の森本くんに、『大分とり天』『中津風骨なし唐揚げ』『ピリ辛チキンバー』を送っていただいた。

  まずは『とり天』と『チキンバー』を肴に飲みはじめた。今日は雨が降って気温が高かったので、玄関先の氷を3時間かけて粉砕した。


ピンクの 「ミー・アンド・ボギー・マギー」も、じつにいいね

2015-12-10 | 日記・エッセイ・コラム

 

 1971年3月20日から2週間ビルボードのナンバー1は、ジャニス・ジョップリンの「ミー・アンド・ボギー・マギー」。ジャニス死後の全米ナンバー1だ。

  このヒットの前年、1970年10月4日、ジャニスはヘロインの大量摂取で死んだ。その3週間前にジミ・ヘンが、やはり薬で死んでいたから、ジャニス・ジョップリンの死はショックだった。ふたりとも27歳。長い苦節の時代があって、その音楽性とパフォーマンスの、とんでもないオリジナリティーを人々にやっと理解されたとき、二人は、自滅していく。

 

 わたしは、ジャニス・ジョップリンの熱烈ファンでレコード屋のあんちゃんだったから、新しいアルバムをレコーディングしていると、CBSソニーの洋楽の人に聞いて楽しみにしていた。

 「ジャニスが死んだ? えッ、ジャニス・ジョップリンが死んだ…………」

 わたしは、その晩、荒れた、ひどく酔った。でも、いまでも、鮮明にその夜、どの店で飲んだくれたかも覚えている。ジャニス・ジョップリンの死は、ほんとうに悲しかった。

 わたしの小さいレコード店の正面に、ジャニス・ジョップリンのモノクロの写真を大きなパネルにして飾っていた。わたしの店、帯広駅前・サウンドコーナーは、そんな店だ。

 「ミー・アンド・ボギー・マギー」を、ピンクが歌ってる。これは、ジャニス・ジョップリンのヴァージョンで、じつに、メチャクチャ、いい。

   ピンク Me and Bobby McGee  https://www.youtube.com/watch?v=wwmUMvhy-lY

 

 ジャニス・ジョップリンの「ミー・アンド・ボギー・マギー」は、すごいよ。 https://www.youtube.com/watch?v=N7hk-hI0JKw

 

 

 

 


『ビルボード・ナンバー1・ヒット』1971~1985

2015-12-09 | 日記・エッセイ・コラム

 

 嬉しいことに九州の森本裕二くんから、『ビルボード・ナンバー1・ヒット 1971~1985』(フレッド・ブロンソン著 1988年 音楽之友社) を送っていただいた。福岡で見つけた本で長い間大事にしていたそうだが、わたしの、憂鬱な老老介護の冬を慰問するにふさわしいだろう、と送ってくれたのだ。

 この本にある、1971年~1985年は、まさにわたしの店、サウンドコーナーの黄金期だった。1971年は、帯広駅前で小さいレコード店を開店して3年目。開店以来わたしは、毎月のように喫茶店を借りてロックの新譜の試聴会をやったり、フイルム・コンサートをやってみたり、洋楽の販売促進をいろいろ試みて、やっとその成果が出はじめた時だった。そして同時に、アメリカ、イギリスのロック、ポップスが最高に面白い時代になった。

 他の地方のことは知らないが、当時、北海道・帯広で洋楽が聴けるラジオ番組は少なく、例えば、ピンクフロイドの”新譜”『原子心母 Atom Heart Mother 』(1970年10月)を、お客さんが発売前に聴きたいと思ってもかなわないことだった。情報は、音ではなく、音楽雑誌など紙媒体の記事だけだ。そこでわたしは、”ロック・レコード・コンサート”と称して、発売前のLPのテスト盤、発売したばかりの新譜LPをデカイ音で聴かせる会を毎月開いた。そのころオーディオブームだったせいか、ジャズ喫茶はもちろんだが、そうじゃないお店にも、立派な真空管のプリ・メインアンプと、高級なスピーカー、高性能なレコードプレイヤーをそろえていた。わたしは、そういうお店を借りて、音圧でグラスが共鳴するようなボリュームでロックの新譜を聴かせた。

 最初は数人というお客さんだったが、『レッド・ツェッペリン』ファーストアルバムをフルボリュームで聴いた中学生、高校生たちは、きっと心が震えたのじゃないかな。


 この本で最初に紹介する1971年1月23日リリース、3週間ナンバー1だったのは、ドーンの「ノックは3回 Knock Three Times 」。

 そして、この本の最後の曲、1985年4月13日発売、4週間ナンバー1は、「ウィ・アー・ザ・ワールド We Are the World 」


    ドーン  Knock Three Times   https://www.youtube.com/watch?v=k7Jvsbcxunc

    USA for Africa  We Are the World  https://www.youtube.com/watch?v=M9BNoNFKCBI


 おもしろいね。ドーンのメイン・ボーカル、トニー・オーランドは、ニューヨーク・マンハッタンの人。13歳のときには、キャロル・キングとグループを組んだりしている。アイドル歌手で1961年エピック・レコードからデビューするがあまり売れず、CBS系の音楽出版社で仕事をすることになる。ローラ・ニーロやジェームス・テイラーなどのレコーディング現場のディレクターだったりするのだが、なぜか、たまたま頼まれてこの曲のボーカルをやる。バックコーラスの女性、テルマ&ジョイスはカルフォルニアの人で、コーラスのレコーディングはロスアンゼルスでやっていた。つまり、ドーンの「ノックは3回」が全米ナンバー1になったとき、ドーンというグループは、まだこの世に無い。

 世界で大ヒットしているとき、ボーカルのトニー・オーランドとコーラスのテルマ&ジョイスは、出会ったことがない、まったく面識がないミュージシャンだという。

 つまり、この大ヒット曲は、バックコーラスとインストはカリフォルニアで録音され、メインのボーカルはニューヨークでいれている、という。カルフォルニアの女性ボーカルの二人は、この”ドーン”というグループでツアーをすることをひどく嫌った、と、この本にある。


     


 


”ひまわり” サントラ

2015-12-04 | 日記・エッセイ・コラム

 ちあきなおみが歌う『雪』は、惚れた男を探して、男が暮らすアパートを訪ねると女がドアを開けた、というストーリーだが、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ主演の『ひまわり』(1970年 ヴィットリオ・デ・シーカ監督)は、さらに悲劇的な状況だ。第二次世界大戦で引き裂かれた夫婦の愛の物語だ。
 新婚早々に召集されてロシア戦線に出征した夫だが、終戦になって数年たっても帰らない。夫の帰還を待ち、ミラノで夫の病身の母親を介護しながら貧しく暮らす妻。帰国した戦友から夫とはロシアの雪原で別れた、と消息を聞く。そこで妻は、夫の安否を確かめにソ連まで行く。しかし、探しあてた夫は、ソ連の町で若い妻と暮らしていて幼い娘までいたのだ。
 ロシア人の若妻を演じるのは、リュドミラ・サベーリエワ。その切ない美しさは、この悲劇をさらに悲しくしている。


 わたしが外国語学部ロシア語学科に入学したとき、何人もの同級生の男たちが『戦争と平和』でナタシャを演じたリュドミラ・サベーリエワの可憐さ、美しさに感動してロシア語を学ぶことにした、と言っていた。男とは愚かなものだが、動機はどうあれ、それで皆、優秀なロシア語スペシャリストとして人生を切り開いていったのだから、それはそれでなかなか立派なことじゃないかな。(あの、30人のロシア語学科のクラスメイトの中で何人がロシア美女と結婚したかは知らないが……)。

 映画『ひまわり』は、リュドミラ・サベーリエワも美しいが、ヘンリー・マンシーニの音楽が素晴らしい。
 

    ヘンリー・マンシーニ ”ひまわり”のテーマ  https://www.youtube.com/watch?v=YMwGHVzBBFA

ひまわり
 
 

 

 

 ソ連映画『戦争と平和』のナタシャ、リュドミラ・サベーリエワ。


また雪かきか……

2015-12-04 | 日記・エッセイ・コラム

 

 『また雪かきか……』。まだ12月になったばかりだというのに、すでに50センチ近く積もっている。

 長い鬱状態から脱して、最近は気楽に冬を乗り切ろうと、吹っ切れた気分でいたのだが、また雪がちらつくのを見ていると、やはり気分は落ち込む。『あとまだ5ヵ月、この冬が続くのか…………』


ちあきなおみの『雪』、凄いよ

2015-12-03 | 日記

 また、雪。

 雪、雪、雪だ。

 

 わたしが大好きな偉大なシンガー、ちあきなおみさんの『雪』は、凄いよ。

  作詞 吉田 旺   作曲 池 毅

   この二人の作家もすごい。アレンジがすごいね。どなたなのか?

 

   ちあきなおみ  雪 https://www.youtube.com/watch?v=pJVOgeAxOVk


菅直人、敗訴

2015-12-03 | 日記・エッセイ・コラム

 

 当然のことだが、菅直人が起こした、安倍首相への名誉棄損の訴えは棄却された。

 菅直人のような、頭の悪い、無能な、売国奴の左翼が、国家の首相をやっていた、ということも恐ろしいことだが、この幼稚な政権に国家運営を委ねた国民も、すさまじいね。愚民、そのものだ。

 3年と3ヵ月、よく日本はもった。日経平均株価は8000円台、対ドル円は、なんと80円台。大企業では大リストラの嵐で、何十万人という若者が解雇された。テレビ・新聞のマスコミは、民主党政権サポーターだからこの事実をまったく報道しない。

 中学校の生徒会以下の、無能、低能な左翼政権が、日本を無茶苦茶にしていたのだが、マスコミは、この無能を応援していた。あれで、新聞・テレビというのは、完全に信頼を失ったのじゃないかな。

 今、テレビに出てきて、何だか分かったようなことをコメントしている文化人やら、学者やら、新聞社の論説委員だの、キャスターだの、やつらの言ってることを日本人だれも、まったく信じてないだろう。(わたしの父のように、テレビ・新聞を信仰している老人たちは、まだテレビ・新聞信者だろうが………)

 (わたしは、2009年、東京メトロ東西線・浦安駅前で、菅直人の演説をみていた。バカだわな。頭の悪い左翼そのもの。学生運動のなれのはてだろな)。

 

   稲田朋美さんの歴史的国会演説 https://www.youtube.com/watch?v=QkEborOE4DY

 


真冬にもアイスキャンデー

2015-12-03 | 日記・エッセイ・コラム

 

 12月。2012年6月、末期ガンの母の看病のために北海道・帯広にもどって、ついに3年と6ヵ月となった。

 母を看取ってすぐに東京に帰ろうと思っていたのだが……しかし、父を残して行くこともできない。かと言って、東京に連れて行くこともできない。

 母が亡くなってすぐの時は、父を連れて東京に戻ろう、とも思った。だが、この帯広で生まれ、この気候で90年暮らした老人に、関東の気候で暮らすのは、あまりに酷だろうと思った。

 夏は、わたしにはそれほど暑くないだろう、と思う気温で、冷房をガンガンかけている。冷房をイヤってほど効かせて、寒いのか厚着をして、アイスキャンデーを食っている。

 冬は、暖房ガンガンにして、下着姿で、アイスキャンデーをむさぼり食っている。不思議だ、不思議だ……北海道の人は、じつに不思議だ。

 父が認知症初期のボケ老人だから、何かおかしくなってアイスをやたらとむさぼり食う、というわけじゃないんだ。父は、若い時から、今と同じように一年中、アイスキャンデーをむさぼり食っていた。

 

 最近まで毎日、階下に下りて冷凍庫を開ける度に愕然とした。「今日もまた、アイスを買いに行かなきゃならんのかよ?」

 下の写真。これがアイスキャンデーの収納部分。小さいアイスが30本入る。このアイスが、三日ともたない。

 

 しかし、もうイラつかない……ことにしてる。『天気予報は吹雪だけど、あしたも、わたし、お父様のアイスキャンデーを買いに行くのね』と………。


ラグビー、おもしろいですね

2015-12-01 | 日記

 

 にわかファンのわたしだが、ラグビー、おもしろいわ!

 日本女子もカザフスタンに勝った。

 

 帯広第一中学校の一年生のとき、代田先生にラグビーを教わった。

 そのとき、「ともみ! ダメだ、ダメだ。タックルは、腰から下、下半身だけ。それがルールなんだ」と、言われ、それでラグビーのことに興味を失った。

 いま、ラグビーを見ると、”タックルは、腰から下、足だけ” なんて、まあ、そんな偽善的なルールではないわな。