![640x640_rect_2288488 640x640_rect_2288488](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/91/064bd619f3b4e51f7173efd0fcbbd916.jpg)
(この写真は、わたしのではない。食べログ/北海道から拝借した)
札幌から鈴木さんが訪ねてくれたので、マサミさんを誘って、まず、「炉端のあかり」にいった。
「炉端のあかり」は、昨年、帯広に帰ってきて、ぜひ、もう一度いってみたいと、何度か訪ねた。だが、休みだったり、閉店後だったりして、残念な思いをしていた。
やっと昨日、店内にはいった。30年ぶりだろうか。この店「炉端のあかり」は、わたしが中学生のときから、父に連れられてきた店だ。もちろん、まだ酒は飲まない。ホッケの開きや、シシャモを食べ、イクラやタラコのお握りを頬張った。先代のご主人が名ハンターで、わたしの父の、狩猟の先生だったのだ。ご主人と父との、ハンティングの話を楽しく聞いていたものだ。
そのあと、わたしは、レコード屋のおにいちゃんをやりながら、北海道全域をテリトリーにする、音楽のプロモーターになった。(わたしは、”プロモーター”より、興行師という日本伝統の言葉の方が好きなのだが、なぜか、カタギでないような、なにか悪しきイメージがあるのか、いまは、あまり使わない語のようだ。まぁ、実際、大きなリスクがある商売だから、まともな、普通の常識ある人は、恐ろしくてやらない仕事だろうな)。
そのプロモーターをやっているとき、帯広での打ち上げは、ジンギスカン屋か、炉端焼きの店だった。とくに「炉端のあかり」は、ミュージシャンに人気の店だった。炭火で魚を焼いている店の二階が畳の部屋で、出演バンド全員と地元スタッフが座れるスペースがあったのだ。
アンコールの曲が終わって緞帳がおりて、午後9時くらい。そのあと、出演者の着替えやらシャワーやら、後片付けが終わって、「お疲れさん」と、おそい夕食を食べることができるのは、午後11時ちかいだろうか。地元の美味いものを食べてもらいたいが、どの市(まち)でも、そんな遅い時間に営業している店は限られているものだ。
帯広で、ミュージシャンに人気があった店が、「炉端のあかり」だった。ホッケの開くとキンキが大人気だった(北海道の炉端焼きの開きホッケは、東京で食べる全国チェーンの居酒屋の”ホッケ”とは、異次元のものだ。一度食べたミュージシャンは、かならず驚愕する)。一度この店で打ち上げをやって、次のコンサートのとき、「今夜、夕食は、あの、炉端焼きの店でしょうか?」と、ロード・マネージャーさんが遠まわしにたずねてくる。もちろん、わたしは、何週間も前から「炉端のあかり」を予約しているのだ‥‥‥‥。
ユーミンも矢沢永吉も、この「炉端のあかり」で、ホッケの開きを食べた。
たいがいのミュージシャンは、シメにイクラのお握りか、イクラ丼にしたものだ。自家製のイクラの塩ずけと熱々の飯にパリパリの上質な海苔。このデカい握り飯が適度の塩かげんでじつに美味い。そして、自家製のイクラの醤油漬けがたっぷりのった、イクラ丼‥‥‥‥‥(わたしは、この文章を打っていて、なんだか、ひどく腹が減ってきた。階下におりて、イクラのお握りでも作ろうかな)。
30年ぶりに「炉端のあかり」にはいると、店のなかは、あの当時とまったく変わらなかった。57年、まったく同じだ、というのだ。
その店に、浜田省吾の写真があった。先代の髭のご主人(名ハンターの)とお母さん(いつも炉端の前に座って、魚を野菜を焼いていた、あのお母さん)の真ん中に、浜田さんがいた。若い。わたしが主催したコンサートの打ちあげのときだ。わたしは、この時をよく覚えている。この写真の、シャッターを切ったのは、わたしだ。
ご主人(わたしたちは、お父さんと呼んだ)は、亡くなって13年、お母さんは、4年まえに亡くなった、と、昨夜聞いた。お二人にはずいぶんお世話になった。
その「炉端のあかり」のお父さんとお母さんとの写真の隣にも、浜田さんの写真があった。この写真は、つぎの年のコンサートだったろうか?(昨夜、そのお店にある浜田さんの写真を撮影しなかった。それはそれで、お店の財産だ、と、わたしは思う。その写真をみたいと思う人は、お客として訪ねてほしい)。
帯広 炉端のあかり http://tabelog.com/hokkaido/A0111/A011101/1016119/dtlrvwlst/1195655/