Ommo's

古い曲が気になる

ラーメンは、大鵬、たんきち、川北屋

2009-09-30 | 日記・エッセイ・コラム

帯広三条高校の前に、食堂が二軒あった。大鵬と常磐(ときわ)だ。

右側の常磐は、いい人の入る店。左の大鵬は、悪い人たちのたまり場。まあ、そんな感じだったかな。常磐は、女の子たちが、パンを買ったり、ラーメンを食べる普通の学園前食堂だが、大鵬で三年間、女の子のお客をみたことがない。女の子や運動部でない生徒は、恐ろしくて入れない。それが、大鵬食堂だった。

帯広柏葉高校にも、ラーメンの安い学食があった。わが三条高校山岳部部長で、応援団長の国枝幸吉さんのお母さんがやっていた店だ。(部長・国枝幸吉さんが亡くなったことは、すこし前に書いた)。わたしは三条生だが、よく柏葉の学食でラーメンを食べた。

三条高校の前の大鵬食堂は、運動部の生徒たちが集まる店で、とても普通の一年生が入れる雰囲気ではなかった。しかし、わたしは山岳部員だ。山岳部の部長は、応援団長なのだ。そういうわけで、一年生のわたしも、恐ろしげな運動部の三年生のなかで、おびえながらラーメンを食べた。

当時、帯広三条高校は、運動部も文化部も、とても強かった。どの部も全国大会レベルだったのだ。わが三条山岳部も、国枝先輩と前田先輩が国体に出場した。

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娘夫婦が、北海道で夏休みを過ごして帰ってきた。帯広の北京亭のラーメンをはじめて食べた、という。濃厚スープで油ギンギンだったろう? とたずねると、いやぜんぜん、という。普通のラーメンだった、という。

そうなんだ、とやっと気づいた。いま、行列のできるような流行のラーメン屋は、濃厚豚骨スープに、魚介類のダシ、背脂たっぷりというコテコテのラーメンだ。そういうラーメンを若者は食べている。ハンバーガー、焼き肉を日常的に食べている人たちだ。昭和20年代の、戦後の食料難の時代に生まれ育ったわたしとは、基本の味覚が違う。わたしが濃厚だと思っていた北京亭ラーメンも、若者には驚くほどのものでもないわけだ。

それにだいたい、わたしは、屋台や学食で食べたような昔ラーメンが好きなのだ。支那そば、東京ラーメンというやつだ。透き通るようなスープで醤油味。具は、支那竹とチャーシュー一枚、きざみネギぱらぱら。

銀座・数寄屋橋交差点の東芝ビル地下に直久というラーメン屋がある。新宿とか色んなところに支店があるチェーン店だが、このラーメンが好きだな。帯広で、子供のころ食べた、川北屋とか、たんきちのラーメンとおなじなんだ。そう、三条高校前の大鵬食堂のラーメンだ。

有楽町か日比谷で映画をみて、直久でラーメンを食べる。このコースがいい。むかしの帯広では、オリオン座か日劇で映画をみて、たんきちの塩ラーメンを食べる。その感じかな。

いまでも、銀座・直久のラーメンは、450円だ。まあ、支那そばで、それ以上とったら、怒る。しかし、銀座5丁目の立地で、450円のラーメンを出しているのは立派だ。

   銀座・直久  ホームページ http://www.naokyu.com/1160103220871/


日本が、アフガン警察の訓練をやるそうだが……

2009-09-29 | 日記・エッセイ・コラム

鳩山首相は、オバマ大統領との会談で、アフガニスタン支援で現地警察の訓練をする、といったらしい。これは、産経新聞以外のメディアはまったく報道してない。こういう重大なことを、テレビも、ほかの新聞も、まったく無視して国民に伝えない。http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090929/plc0909291521005-n1.htm

日本の警官を、アフガニスタンに派遣して現地警察を訓練する、ということなのか? 日本の警察が、砂漠の戦場の警察を訓練する? そんなことができるわけがないだろう。

ソ連軍を破り、アメリカ、NATO軍に一歩も引かない屈強なタリバン兵たちと戦う警察官たちだ。ピストル一発撃っただけで、新聞、テレビに袋叩きになる日本の警察が、何を訓練できるのだろうか。戦乱の国での警察活動を、日本の警察が教える?

アフガニスタンの警官たちの写真だ。こういう警官たちを、日本の警察が訓練する? 冗談だろう!

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日本の警官が、現地の素人の青年を訓練して、こういう戦士のような警官を育てるというのか?   泳げないやつに、水泳を習うようなものだろう。それも、海やプールじゃなく、布団の上で。

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上の写真は、カブール市内をパトロールする警官だ。日本の警察にこういう戦乱の街のパトロールのノウハウがあるのか? 鳩山は、こういう戦場の警察活動を、日本の警察が訓練します、とアメリカ大統領にいったわけだ。オバマが、途中でマスコミを入れ、予定時間前に早々と会談を打ち切った、と伝えられるが、その気持ちもわかる。

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警官たちは、休憩するときも、見張りを立てる。

             

イラクでも、アフガンでも、警官と警察施設が、テロリストの一番のターゲットにされる。アフガニスタンでは、2008年一年間で、900人以上の警察官が、テロの犠牲で死んでいる。そういうことを鳩山が知っていて、日本の警察を派遣して訓練をすると言っているのなら、狂気だろう。

日本の警察ために、アメリカ軍か、NATO軍の護衛をお願いするのか?

現地警察訓練……実現できそうもないことを、思いつきで言っているだけなら、首脳会談というものをナメきっているだろう。その軽率な発言を国民の命であがなうことになる。海上自衛隊のインド洋での給油活動をやめるなら、日本の代案は何か、との問いの、その返答がこれなら、言質をとられたわけだ。イギリス首相には、タリバンの職業訓練をする、と言って嘲笑されていたようだが。

給油は1月でやめるわけだから、あとわずか3ヶ月だ。早く警察官を訓練する警察官を選んで、訓練しないとダメだろうな。どこの県警を送るんだ? パシュトー語やダリー語を話せる日本の警察官は、たくさんいるのか? 

タリバンの職業訓練をする人材も早く決めないといかんだろうな。せめてペルシャ語が話せないと、アフガニスタンで何かを教えるということにはならないだろう。すぐに1月だ。

1月に給油をやめて、それだけで、代わりの支援策は検討中とか、精査中です、という言い訳は、国際的には通用しないだろう。警察の訓練といったのは、口先だけかい、となる。そうして、また、人を出せないなら、金を出せとなるかな。

                  

しかし、閣議決定もなく、国会での議論もなく、国民に説明もなく、こういう国民の命にかかわる重大なことを、首脳会談の席で、軽々しく口にしていいのか。日本の警察官にも、だれもみんな、大事な家族がいるだろう。鳩山家の小作や農奴じゃないのだ。

酒飲んだパーティーの席のおしゃべりじゃない。首相と大統領の会談だ。「こういう案もあると、言っただけ」ではすまないだろうな。

                 


カワセミをみた

2009-09-28 | 日記・エッセイ・コラム

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この住宅街の汚れた川でカワセミをみた。

橋の上から、二匹のドブネズミが川のなかを泳いでいるのを見ていた。すると、青く輝く小さい物が、水面ぎりぎりに猛烈なスピードで飛んできた。まさか! こんな街のなかに現れるか? 橋の下をくぐって、水際の石にとまった。カワセミだ。

あわててカメラをかまえたが、サッと飛び立って、すさまじいスピードで遠ざかり、見えなくなった。

汚い水だが、よく見ると小さい魚がたくさんいる。ものすごい密度で群れている。東京湾とすぐそこで直結しているから、海からやってきた稚魚なのだろう。カワセミのエサの小魚は豊富なのだ。公園や神社の巨木は街中にある。すぐ近くには、宮内庁鴨場もある市川野鳥の楽園がある。葛西臨海公園も鳥には遠くはないだろう。カワセミの住環境としては、田園や山奥と遜色ないのかもしれない。

この川、猫実川(ねこざねがわ)は、東京メトロ東西線・浦安駅付近が起点で、東京湾につながる運河に注いでいる。1キロくらいの短い川だ。

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ネットで見つけたカワセミの写真二枚。下の青の色合いが、きょう見たカワセミに近い。

カワセミは、スズメくらいの小さい鳥だ。川の蝉とはよくいったものだ。しかし、飛翔のスピードと、このメタリックな青色は、じつに鮮烈だ。


関東の建築現場では、北海道・東北の人が多い

2009-09-27 | 日記・エッセイ・コラム

                         

わたしは、北海道を出てから20年以上、自動車組み立て工場や、土木・建築の現場、ガス工事や電気工事や電話工事の現場で働いてきた。この首都圏の現場で働く工員や職人、土工さんは、圧倒的に北海道や東北からの出稼ぎが多い。あるいは、いまは首都圏の住人だが、出身は、北海道・東北という職人、技術者がとても多い。

つまり、関東の土木・建築の現場で働く多くの人が、地元の人たちだけではなく、北海道や東北からやってきている、ということだ。公共工事は、地元の県や町の業者だけが仕事をもらってうるおう、という単純なことではないのだ。

東京や神奈川や千葉の建築現場では、北海道ナンバーの車を日常的にみることができる。

有明で高速道路の橋脚をつくっていた。その現場の警備員をやっていたが、ある孫請け会社の土工さんたちは、全員、函館や江差、松前、森など、道南からやってきていた。

室蘭からやってきている、鳶のにいさんたちのグループもあった。左官の若者が、帯広ナンバーの軽に乗っていて驚いたこともある。芽室町から来ている、畑がはじまるから、もう帰るといっていた。

旭川ナンバーの鉄筋工にも会う。東京のど真ん中の現場に、札幌や釧路のダンプカーもたくさん出入りする。運転者とダンプカーでいっしょに出稼ぎにきているのだ。

現場だけじゃなく、事務所の中で、土木・建築にかかわる北海道出身者も多いだろう。北海道の友人の測量士は、冬の間、関東圏で仕事をしていた。

きっと関西の建築や道路工事の現場では、沖縄や九州からの出稼ぎの人が多いことだろう。

ムダな公共事業の見直し、けっこうなことだ。ただ、ゼネコンと地元業者と現場選挙区の政治家が、利権をあさって税金をムダにしている、という、そういう単純な構造でもないだろうな。現場で汗まみれで働いているのは、地方からの出稼ぎ労働者が圧倒的に多いのだ。

夏は、故郷で農民、晩秋から春までは、東京で土木作業員という人たちだ。こうして家族を支えている若者が多い。何十年もこの生活をつづけてきた熟練工のおっさんたちもいる。そして、地方の公共事業が減ってしまって、生活に困窮した土木・建築のプロの職人たちも、安い仕事でもいい、仕事があればいい、と関東にやってきている。

                  

ダム工事中止。新幹線工事、精査のため一時休止。ほんとうに税のムダ使いを無くすというなら、けっこうなことじゃないか。しかし、政治家たちの政争のために、地方の貧しい人たちの生活が犠牲になるだけなら、それは、許されることじゃない。

                       

なぜか、電話工事では、奄美の島々からきた職人さんが多い。わたしがいた自動車組み立ての現場では、北海道と九州からの出稼ぎが、圧倒的に多い。その話は、またあすにでも。


北海道新幹線も中止か!

2009-09-26 | 日記・エッセイ・コラム

                               

前原国交相は、整備新幹線3線の事業効果を精査しなおすそうだ。今年度の着工が決まっていた北海道新幹線の長万部・札幌間の工事は、中止になる。事業効果? 北海道新幹線は、中止、工事はもうやらない、つまり、やめた、ということか?http://www.hokkaido-np.co.jp/news/2009syuinsen/189503.html

そして、きょうは、40年間日本の宇宙開発の中心だった種子島宇宙センターをやめる、と唐突にいって、地元を困惑させている。http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=19524

(日本の宇宙ロケット発射基地を、中国に移転しようとする人たちいる、と聞いていたが、現実味がある話とは思わなかった。あまりに国益に反する。おそろしいことだ)

                        

前原国交相は、北に南に、「やめた、やめた」といって歩いているが、これが民主党に投票した人たちの望んだことだろうか?

北海道新幹線は、ただ目先の採算性でなく、地域の格差をなくすためにも、九州から北海道まで新幹線でむすぶ、という大きな国家プロジェクトではなかったのか? 一部のゼネコンや土建屋、天下り官僚や政治家の不当な利益につながるから、土木・建築の公共事業すべてが悪いという発想は、あまりに幼稚だ。

それに北海道整備新幹線は、計画のときからこれまで何度も選挙があって、国民的合意を得ている事業だろう。(青森・旭川間新幹線の基本計画の運輸省告示が1972年(昭和47年)、長万部・札幌間の南回りの新幹線ルートの基本計画運輸省告示が、1973年(昭和48年)のこと)。そうして、予算案が提示され、国会で議論されて承認され、工事がスタートした、のじゃないだろうか?

そして、もうすでに、青森から新函館の工事は進んでいる。いま青函トンネルのなかを新幹線が走ることもできるのだ。

東京から札幌まで、4時間で走るという新幹線が完成すると、どれほど便利で、経済効果があるか。

野党が、権力を握ったので、その権力を使いたくてしょうがないのだろうが、国会での議論もないまま、地元住民への説明もなく、何でもやりたい放題というのは、ファシズム、独裁国家だ。

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まだ開業してないが、すでに完成している北海道新幹線海峡線。


倒れそうな電信柱

2009-09-25 | 日記・エッセイ・コラム

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散歩道で倒れそうな電信柱をみつけた。写真の中央奥の電信柱。手前の電信柱が正常に立っている。家の壁と較べてほしい。中央の電信柱は、左に大きく傾いている。

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近くで反対側から撮影した。張られた電線のテンションが、右と左ではまるで違う。右に強く引っ張られている。このままだと近いうちにこの電信柱は、折れるだろう。

折れた電信柱の復旧工事の警備を何度もやってきた。こういう危ない電信柱は意外とたくさんあるのだ。風の強い日は近づかないことだ。


カダフィーはアラビア語、胡錦涛は中国語、サルコジはフランス語で演説した

2009-09-24 | 日記・エッセイ・コラム

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リビアのカダフィー大佐の国連での演説は、痛烈な国連批判、大国批判で、痛快だ。まさに正論だ。一時間を超えるという演説のすべてを読んでみたいものだ。もちろんカダフィーは、アラビア語で演説していた。

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群馬県八ッ場ダムの付帯工事がスタートしたのは、自社さきがけ連立内閣のときだった、と、きのう書いた。このとき、新党さきがけ代表幹事は、鳩山由紀夫だ。鳩山は、住民が反対していたダム建設を決行した政府与党の幹部だったのだ。

今回の選挙で民主党は、八ッ場ダムを、自民党の土建政治、バラマキ政治の象徴だ、と断罪した。自民党の負の遺産? ほんとうにそうだろうか? 自民党だけのせいだろうか? 

1994年に工事をスタートしたのは、自社さきがけ連立内閣。首相は、村山富市。社会党委員長だ。建設大臣は、野坂浩賢、社会党。総務庁長官、山口鶴夫、社会党。そして、内閣官房長官は? 五十嵐広三、社会党だ。

こういう歴史事実を隠して、民主党は、全国140ヶ所以上ある現在建設中のダムの中から、八ッ場ダムと川辺川ダムをいけにえにした。テレビの連中がそれを煽った。

では、なぜ、八ッ場ダムなのか? それは、小渕優子の選挙区だからだろう。


日本の首相は、日本語で演説してほしい

2009-09-23 | 日記・エッセイ・コラム

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99円! 古着じゃない。新品。若い女性向けの服屋さんだ。「99円、すごいにね」と、外にいた店員さんに声をかけた。「ありがとうございます!」と、元気な返事で、なかなか愛想がいい。

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199円のブラウス、299円のセーターもある。

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夕暮れ。旧江戸川沿いの遊歩道。魚釣りをしている老人たちは、ウナギをねらっている。

「相撲も、外人ばっかりで面白くないからな」と、ウナギ釣りの老人の会話だ。

この川には、ウナギ漁のプロ漁師たちもいる。

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民主党政府は、群馬県八ッ場ダム建設の中止を決定した。しかし、ひどいやつらだ。

長い年月、地元住民が強く反対した八ッ場ダムは、平成7年、政府の指示で工事がはじまった。そのとき、新党さきがけは、連立政府の与党だ。鳩山由紀夫は、新党さきがけの代表幹事長で、内閣官房副長官だった。地元住民の先祖からの歴史と生活をまったく無視して、ダム建設を積極的に推進した政府の、主要なメンバーだったのだ。

きょう現地まで行って、なにがなんでも中止だ、といっていた国交相・前原誠司も、八ッ場ダム建設を強行に推進した政府与党新党さきがけの国会議員だった。

民主党幹事長、小沢一郎の地元・岩手県には、すでに57のダムがあり、建設中、建設予定のダムが、4ヶ所ある。民主党が建設中止を発表している岩手県のダムは、ひとつもない。http://www.pref.iwate.jp/~hp0605/hp0605/mizuumi/damdb/index.htm

                     

国連で、鳩山が英語で演説していた。なぜ、日本を代表して演説するとき、日本語で話さないのか、わたしは、理解できない。中国の胡錦涛は、中国語で演説していた。それが自分の国に誇りをもつ政治家の、普通の感覚ではないか?

それに、外交の舞台では、使いなれない外国語で表現して、妙な誤解をまねくより、母国語で話したほうが正確に伝わるだろう。翻訳は、専門家の同時通訳にまかせればいい。

                              

ともかく、日本の首相たる人は、国連では、日本語で演説してほしいものだ。

                    

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道に落ちた木の実。

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柿。


柿の実が色づいている

2009-09-22 | 日記・エッセイ・コラム

柿の実が色づいてきた。春、花が咲いてから、実が熟すまで長い時間がかかる。真冬、雪がちらつくようになっても、赤く熟れた柿の実が、葉が枯れ落ちた枝に残っていて、鳥の貴重な食料になっていることがある。あの冬の柿の光景もいい。

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小さい花のひまわりも、もうおわりかな。

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蟻、三匹。

 

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すこし前には、まったく見かけなかったのに、彼岸花が、そこらじゅうに咲いている。

                        


正しいもんじゃの焼き方

2009-09-22 | 日記・エッセイ・コラム

日曜日、娘たちと月島でもんじゃ焼を食べた。お店の人が、もんじゃを焼いてくれた。その過程を撮った。これが、月島のもんじゃの焼き方。

まず、糸状のスルメ、桜エビ、豚肉、ベーコン、シイタケ、小さく切った餅、キャベツを炒めて、丸く土手状の形にする。この中で溶いた小麦粉を焼くわけ(この中身はわからない。シイタケ、鶏などのスープで溶いているようだが、粉は、ただ小麦粉だけではないようだ)。

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つぎに、明太子をほぐして、いっしょに焼く。

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そして、チーズを加える。

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すぐにチーズが溶け出すので、これを混ぜて平らにする。

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頃合いを見て、青海苔をかけて完成。

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生ビールとじつに合う。うまい。


スズメバチとカナダ人の知人

2009-09-21 | 日記・エッセイ・コラム

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スズメバチだけでなく、ハエやトンボなど空飛ぶ昆虫は、両側の複眼と、ほかに単眼を持っている。このスズメバチの場合は、顔の正面の三つの仁丹のような点が、目なのだ。三つ眼だ。

両方の複眼と三つの単眼が、アクロバットのような飛行を可能にする。

両側の複眼の表面が茶色なのは、サングラスとおなじように光を弱めるためだ。このスズメバチの複眼のデザインは、かなりユニークだ。おそらく攻撃に弱い眼の面積をできるだけ狭くしているのだろう。ワイパーのような触角の根元も眼を守るようになっている。まるでフルフェイスの兜をかぶっているようだ。

                            

『十勝の木のうつわ』の佐々木さんの工房では、スズメバチの巣をプロの人が駆除したといっていた。

わたしは、二回もスズメバチに刺されているので、スズメバチをひどく恐れている。一度刺されると二度目からのアレルギー反応はより激しくなって、ショック死の確率は高くなる。免疫ができて、強くなるのとまったく逆なのだ。これは、アナフィラキシーショックという。

何十年も前に刺されても、その負の効力は持続するのか? 飲み友達の歯医者にたずねてみた。わたしが刺されたのは、40年も前のことだ。

「いや、時効はない。二回も刺されてしまったら、あんたはもう、生きているかぎり、ショック死の危機から逃れられないな。免疫記憶というのは、一生消えないんだ。まあ、スズメバチに気つけて」、ビールを飲みながら、歯医者がいった。

                  

7年くらい前、住んでいた家の玄関先にスズメバチが巣をつくった。まだ小さい巣だったが、そこらをスズメバチがぶんぶん飛んでいる。じつに不気味だ。こんなところで、ショック死も嫌だ。どうしたものか? 

オーストラリア人の青年に話をすると、友達のカナダ人をつれてきた。わたしも、そのカナダ人とは何度か酒を飲んだことがあった。このカナダの若者が、ハチの巣を取ってくれるという。

ジーンズにTシャツのカナダ人は、ネットをかぶるわけでもなく、帽子さえかぶらず、椅子にのって、素手でハチの巣を取ろうとする。わたしとオーストラリア人は、窓をぴったり閉めて、部屋のなかから見ていた。

「痛い(Outh)! 痛い(Outh)!」と、いってる声が聞こえる。ハチの攻撃をうけているのだ。しかし、まったくめげない。「痛い! 痛い!」といいながら、手を振ってハチを追い、なんと素手でハチの巣をもぎ取った。それをゴミ袋にいれて、まだ攻撃してくる残ったハチを素手で叩きつぶす。

すべてが終わったあと、「なつかしいです。じぶんの国で、よくこうしてハチの巣を採りました」というようなことを、よくわからない英語で話した。あとで、オーストラリア人が翻訳してくれた。「あいつ、どんな山奥に住んでいたのか?」ともいった。いくつもスズメバチに刺されたはずなのに、どこも腫れてない。なんてやつだ。おなじ人間でも、こんなやつもいるのか。

                         

このカナダ人は、日本にやってきた当初、小さい英会話学校の講師だったこともある。わたしが会ったときは、生徒の日本人と結婚して、英語の先生をやめ、電気工事の工員をやっていた。わたしは、このカナダ青年の話す英語をまったく理解できなかった。最初は、フランス語の訛った言葉か、と思ったものだ。

「あれも英語らしいです。かれの言葉は、ぼくもよくわかりません。ひどい訛りです。すごい山奥で育ったんでしょうね。オーストラリアでも、ブッシュの奥に住んでる白人が、あんなひどい訛りで話します」と、キャンベラからきたオーストラリア人が、まったく訛りのない日本語でいう。「あんなひどい英語でも、白人なら、日本では先生できますからね。習う生徒が可哀想です」

このカナダ青年、国では木こりをやっていた、といってた。ツー・バイ・フォーの大工の伯父が、日本で家を建てていたので、手伝いに呼ばれて来日した。家が完成して、伯父さんはカナダに帰ったが、かれは、すっかり日本が好きになっていて、残ることにした。そうして、なんと、英会話学校の講師の仕事をみつけたのだ。話をしなければ、日本の女の子に好かれそうな、長身で、なかなかハンサムな白人青年なのだ。 


日曜、月島、もんじゃ焼

2009-09-20 | 日記・エッセイ・コラム

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日曜日の昼、娘夫婦に月島でもんじゃ焼をご馳走になった。娘と孫に会うのは、ほんとうにたのしい。

連休のせいか、月島の町は、お客さんでいっぱいだ。もんじゃ組合インフォメーションセンター前の無料マップは、大人気だ。

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午後3時すぎ、娘たちと別れて、月島から門前仲町まで歩いて、地下鉄にのった。

            

月島から相生橋をわたって隅田川をこえる。東京商船大学(現・東京海洋大学)の正門前を通って、黒船橋をわたると門前仲町。富岡八幡宮の門前の町、深川だ。

門前仲町(門仲という)は、古い下町のにぎわいがある。いまも、昭和そのものだ。その雰囲気は、まるでむかしの北海道・帯広の中心街のようだ。規模は、昭和40年代、50年代の帯広のにぎわいの数十倍だが……。

いまもこの街は、全国からやってくる年寄りの参拝客でにぎわっている。若者の観光客も多い。兜町や東陽町のオフィスに勤めるサラリーマンが飲みにくる街でもある。

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境内の伊能忠敬像。伊能忠敬は、下総、千葉で成功した商人だ。隠居して家督をゆずり、江戸にでた。そのとき、50代の後半だ。この門前仲町1丁目に住んだ。

江戸・深川に引っ越して、趣味だった天文学、測量学を、専門家に学ぶ。そうして、まず、自分の金で実測の旅にでる。たいした人だ。巨人だ。作った地図がある。みるたびに感動する。(ネットで見ることができる)。

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きょうの午後。月島から門前仲町の散歩は、こんな感じ。


割り勘の思い出

2009-09-19 | 日記・エッセイ・コラム

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金曜の夕暮れ、近所の道路。左が一般道(357号、湾岸線)。東京から千葉方面に帰る車。右の六車線が、高速道路(東関東自動車道)。右側のこっちに向かってくる車が、千葉から東京、川崎、横浜方面に帰る車。

東京から千葉に向かう(帰る)一般道は、大渋滞だが、高速はすいてる。不景気で、高速料金を出さない会社が多いし、自腹の人たちは、一般道で通勤する。

写真では見えないが、右はじ、高速のフェンスのむこうに、千葉から東京方面にもどってくる一般道357、湾岸線の上り車線がある。ここも朝夕は大渋滞だ。

東京にもどってくる流れは、高速も一般道も混んでいる。すぐそばに東京ディズニーランドがあるので、土日休日の夕方は、一般道も高速道路も、上りも下りも、とんでもないことになる。

(ガス工事の警備員をやっているとき、半年くらい千葉市内の現場に車で通った。千葉市から渋谷の会社まで帰るのに、3時間かかるなんてのは、毎日だった。距離は、40数キロ。夕方5時に現場をおわって、10時に渋谷に着くなんて日もよくあった。ただでさえ混んでるのに、事故渋滞が日常的にある。40キロを5時間。自転車のほうが速い)。

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住宅街の画材屋さん

                  

「勘定は、割り勘にしましょう」と、取引相手にいわれてあわてた。というサラリーマンの会話をきのう書いた。そのサラリーマンの人たちの話を聞いていて、遠い昔のじぶんの愚かな失敗を思い出したのだ。

割り勘にすると、会社に領収書をだして請求できないから、自腹を切らなきゃならない。わたしは、この仕組みに気づかなかった。知らなかったのだ。

たしかに、もし、取引き先の社員がレジで割り勘の支払いをすませたあと、その領収書ください、とはいえまい。逆に、じぶんがレジにいって支払い、領収書を手にしてから、相手と割り勘の精算をするか? その領収書を会社で精算すれば勘定の半額をフトコロにできる。しかし、せこい姿をさらしたあとも、信頼されて取引がスムーズにいくか? 微妙だ。

              

かって北海道の帯広でレコード屋だった、30年以上むかしのこと。わたしは東京にやってきて、あるレコード・メーカーのディレクターと食事をした。飯のあとの二軒目は、バーだった。勘定になって、「さっきの店はごちそうになったので、ここは、わたしが……」と、わたしはいった。その当時は、興行がうまくいっていた。ちょっとフトコロに余裕があったのだ。(わたしにも、そんな時代があった。なつかしい)。

「とんでもないですよ。わざわざ打ち合わせのために、東京まで来ていただいたんです。そんなわけにいきません。支払いは、わたしが」

しかし、そのときわたしのココロでは、口にした言葉の引っこみがつかなくなっていた。見栄だ。(なにせ、フトコロが豊かだった。持ったことがない金を突然持つと、愚かにも、こうなる。)

なんとしても支払いはじぶんがする、と相手に強くいわれればいわれるほど、気持ちが硬直していった。『北海道の田舎のレコード屋だから、馬鹿にされているのか、ナメられているのか』と、卑屈なひがみの、怒りのレベルが上昇していく。そして、沸点に達した。

「それなら、割り勘にしましょう!」と、わたしはいった。

二日酔いの翌日、帯広へ帰るYS-11のなかで、前の晩のことを考えた。いかにじぶんが愚かだったか気づいた。無意味に突っ張って、人に迷惑をかけてしまった。かれは、領収書を会社にだせばいいだけのことだった。レコード業界は、バブルの真っ只中だったのだ。


もう夜は、涼しい

2009-09-18 | 日記・エッセイ・コラム

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住宅街のだんご・せんべい屋さん。まわりにお店はここしかない。まったくの住宅街だ。

          

日が落ちて半袖で歩くと涼しい。

駅からの帰り道、まえを若い二人のサラリーマンが歩いていた。ひとりは、取引先と飲んだ帰りらしい。
「勘定は、6万くらいだったんだ」
「あの店、けっこうするね」
「それが、勘定のとき、急に、きょうは割り勘にしよう、というんだ。あわてたよ。割り勘なら、自腹切らんとならんだろ。『きょうだけは払わせてください』とお願いして払ったよ」
「そりゃ、3万円の自腹は、痛いよな」
「冗談じゃないよ。小遣いが全部消えるじゃないか」


PPM、マリーさん、逝く

2009-09-18 | 日記・エッセイ・コラム

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PPM(ピーター、ポール&マリー)のマリー・トラヴァースさんが亡くなった。72才だった。

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わたしがレコード屋になった1968年には、PPMの大ブームが去ったあとだった。でも、「悲しみジョット・プレイン」がヒットした。1969年のことだ。だが、翌年には解散してしまった。

PPMは、わたしが、中学、高校のころ、アメリカ、日本だけじゃなく、世界中で大人気のグループだった。わたしの世代では、このグループに影響されてギターをはじめた人が多いはずだ。

ジョーン・バエズ、ボブ・ディランとならんで、公民権運動の象徴的なグループでもあった。リベラルのアイドル的グループだったのだ。一番上のモノクロ写真は、ワシントン大行進のときにステージで歌うPPMだ。

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1970年にいったん解散するが、1978年に再結成して、2005年までライブ・ツアーをつづけていた。最後の写真は、2007年、コンサートのチケットが、すぐに完売した、と報じるニュースにあった三人の笑顔だ。しかし、このツアーは、マリー・トラヴァースさんの体調不良でキャンセルされた。マリー・トラヴァースさんは、白血病治療の副作用に苦しんでいた、という。

  マリー・トラヴァースさんの訃報を伝えるPPMのオフィシャル・サイト http://www.peterpaulandmary.com/

  PPM 「悲しみのジェット・プレイン」 http://www.youtube.com/watch?v=HIshbtQ6LqA&feature=related

もちろん、「悲しみのジェット・プレイン」は、ジョン・デンバー作曲の名曲だ。しかし、PPMがヒットさせて、はじめて世に知られるようになったのだ。ジョン・デンバー自身が、ソロアルバムでこの曲を録音したのは、PPMのヒットのあとだ。

ジョン・デンバーがメンバーだったフォーク・グループ、ミチェル・トリオが、1967年に発表していたが、まったく売れず注目されなかったのだ。PPMのカバーが、全米№1になり、世界中でヒットした。日本でもよく売れた。そのあと、ジョン・デンバー盤がでた。そのあと発売された「悲しみのジェット・プレイン」のカバーは、何百あるだろうか。あの巨匠フランク・シナトラまでもレコーディングしていた。http://www.youtube.com/watch?v=vLBKOcUbHR0&feature=related

もちろん、この歌は、恋の終わりの歌ではない。強烈な反戦歌だ。ベトナムの戦場にいくアメリカの若者の歌だ。恋人への未練と、戦場にいく恐怖、そのゆれる心を歌っている。ときは、ベトナム戦争の真っ最中だった。アメリカの貧乏人の若者はみんな、ジェット・プレインに乗って戦場にいった。(5万人のアメリカ兵が戦死している、という。死なないまでも、手を失ったり、足を失った傷痍軍人は、その何倍いるのだろう。もちろん、ベトナムの若者も恐怖のなかで戦い、何十万人も死んでいったはずだ)。

ふしぎなことに、作者のジョン・デンバーが歌うと、なんの説得力もない平凡な曲になってしまう。だが、おなじ歌詞を、PPMが歌うと、強烈に切ない反戦歌になる。表現力のちがいだな。(普通は、下手でも、作者の歌が切実に説得力があるのだが)

これは、PPMブームの終焉のころのヒット曲だが、1961年にデビューして以来、PPMは、無名のシンガーソングライターの曲をヒットさせて、若い作者を世におくり出していた。ボブ・ディランの名曲「風に吹かれた」を、最初に全米ヒットさせ、世界ヒットさせたのは、PPMだった。

1962年にボブ・ディランが「風に吹かれて」を発表したときは、アメリカの一部のフォークソング・オタクに知られている新人だった。しかし、1963年、PPMがこの曲を歌い、世界中で大ヒットした。そして、ボブ・ディランは、天才シンガーソングライターとして世界から注目されるようになった。

  PPM  「風に吹かれて」 http://www.youtube.com/watch?v=3t4g_1VoGw4&feature=PlayList&p=74F4306A4F6DADD1&playnext=1&playnext_from=PL&index=8

  ボブ・ディラン 「風に吹かれて」 http://www.youtube.com/watch?v=ced8o50G9kg&feature=related

新人だけじゃない。PPMは、ピート・シーガーが大恐慌の1920年代の終わりころに作った曲、If I Had a Hammer をとりあげて大ヒットさせた。邦題は、「天使のハンマー」だ。このPPMの「天使のハンマー」の大ヒットで、引退したように忘れられていたフォーク・シンガーのピート・シーガーは、60年代のフォークソング・リバイバルで、フォークソングの父として、よみがえったのだ。

  PPM  「天使のハンマー」 http://www.youtube.com/watch?v=_UKvpONl3No&feature=related