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追悼、国枝幸吉さん

2009-07-03 | 日記・エッセイ・コラム

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  旧江戸川は、静かで、じつにおだやかだった。風は無いのに、川辺は秋のように涼しい。なぜだろう? 散歩からもどって、メールをひらくと、十勝の木の器、佐々木要くんから悲しい知らせがはいっていた。「訃報です。国枝幸吉さんが亡くなりました」。

 国枝幸吉さんは、帯広三条高校山岳部の先輩だ。わたしが一年のとき、三年生で部長だった。一年のとき、音更山、石狩岳に連れていってもらった。はじめてニペソツ岳にも連れていってくれた。そのあとも、ニペソツにはなんども いっしょに登った。日高のポンヤオロマップ、芽室岳にもいった。剣山にはなんどいったか。土曜日の午前中、突然、わたしの教室にやってきて、「昼から剣に行かないか?」、と誘われたものだ。

 国枝さんは、三条を卒業して、甲府市の山梨学院大学に入学した。甲府は、日本アルプス登山の基地だからだろう。富士山の麓でもある。もちろん大学でも山岳部に入った。ヒマラヤにも遠征した。大学時代、帯広に帰郷すると、一年下の中村光二さんとわたしを山に誘ってくれた。ニペソツだ。わたしたち三条高校山岳部は、ニペソツを愛していた。

 わたしが、帯広三条高校に入学して、数日たったとき、1年E組の教室に恐ろしげな三年生と二年生たちが入ってきた。先頭にいたのは、応援団長だった。その応援団長が、あろうことか、わたしの名前を呼んだ。「廊下にでろ!」という。「中学のとき、山に登ってたんだってな。山岳部に入るだろ」、これが国枝幸吉さんとの出会いだった。国枝さんは、応援団長で山岳部部長だったのだ。(ライバル校、帯広柏葉高校の応援団長、宮田幸久さんもまた、山岳部部長だった。そして、国枝さんと宮田さんは親友だった)。

 こうしてわたしは、有無もなく、山岳部員になった。すぐに「新人歓迎登山」という山行が用意された。4月のニペソツ岳だ。まったくの冬山だ。手痛い歓迎にあったわけだ。しかし、ピッケルでの制動やザイルとアイゼンの使い方を教わって、16才のわたしには収穫のある山行だった。以来長い年月、国枝幸吉さんに、山登りを教わり、酒を飲ましてもらい、さまざまのことでお世話になった。しかし、わたしが北海道をでてから、お会いしたことはなかった。

 なぜか最近、わけもなく幌加や十勝三股や裏大雪のことを思い出していた。国枝さんの近況をまったく知らず、先月23日のブログ「幌加のルピナス」で、高校一年生のときの、国枝さんと行った石狩岳登山のことを書いた。昨夜、国枝幸吉さんの訃報を知って、そういうことだったのか、と思った。

 今夜は、とても悲しい。

 似内清高くんと田中やすおくんの、札幌・帯広を歩いた話のつづきを書くつもりだった。今夜は、ヤメ。それは、あす、ということにしょうかな。

 今夜は、登山家で、わたしの尊敬する先輩、国枝幸吉さんを偲んで。「ダニー・ボーイ」を。http://www.youtube.com/watch?v=-Jgma--0WYU&feature=channel