Ommo's

古い曲が気になる

Otis Blackwell とは

2009-06-30 | 日記・エッセイ・コラム

Otisblackwell300

   昨夜は、新橋駅前の機関車のところで、似内清高くんと待ち合わせて、飲んだ。

 この写真の人が、オーティス・ブラックウエル。きのうの記事で、エルビス・プレスリーの主要な曲を書きながら、いまは忘れらえている、とマイケル・ジャクソンがスピーチで紹介していた黒人のソングライターだ。1000曲以上の曲を提供した真のプロだ。晩年は生活に貧窮して、それこそ無一文で亡くなった。

オーティス・ブラックウエル作の代表曲は、
エルビス・プレスリー 「オール・シェイク・アップ All Shook Up」
エルビス・プレスリー  「ドン・ビー・クール Don't Be Cruel」
エルビス・プレスリー 「心の届かぬラブレター Return to Sender」
ジェリー・リー・ルイス 「火の玉ロック Great Ball of Fire」
ペギー・リー エルビス・プレスリー 「フィーバー Fever」

 これだけの大ヒット曲があって、1000曲以上をアーティストに提供しても、気楽な印税生活とならなかったわけだ。マイケル・ジャクソンの怒りもわかる。きっと著作権は、レコード会社か音楽出版社か、あるいは悪徳マネージャーがもっていて、本人には何も残っていなかったのだろう。

  日本のアレンジャーの話だから、すこし話ははずれるが、35年くらい前に、ある日本のアレンジャーがいっていた。一曲5000円で編曲をひきうけて、それっきりです。そのあと、何十万枚売れても1円も入りません、と。いまはきっと違うのだろうが、アメリカの黒人のソングライターも似たような待遇だったのだろう。

  黒人の歌を歌い、黒人のように腰をふり、黒人の服装をした、エルビス・プレスリーに対する黒人たちの敵愾心は強かったろう。マイケル・ジャクソンがエルビス・プレスリーの娘と結婚したことは、この心理と関係があるのだろうか?

 ペギー・リー Fever  http://www.youtube.com/watch?v=EYxoAJ3Boyc

  


ハリー・ベラフォンテとキング牧師は友人だった

2009-06-29 | 日記・エッセイ・コラム

 雨がやむと、冷たい北風が吹いて、まるで秋だ。『また秋がくるな……』と、まだ夏がはじまってもいないのに思った。

Belafonte5

 マイケル・ジャクソンの映像をチェックしていて、Making of we are the world で好きなシーンをみつけた。むかし観たとき、ジーンときたものだ。レコーディングのすべてが終わったとき、期せずして、全員でハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボート」を歌いだす。このシーンが好きだ。

 「ウィー・アー・ザ・ワールド」は、ハリー・ベラフォンテの提唱で、アメリカを代表する45人のアーティストが集まったのだ。1985年1月28日に録音された。曲は、ライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソンが書いた。アレンジと指揮が、クインシー・ジョーンズだ。

 ライオネル・リッチーは、アラバマ州のオーバーン大学の大学院をやめて、タスキーギ大学のときにつくったバンドとともにモータウン・レコードと契約した。まずジャクソン5のバックバンドになったのだ。ライオネル・リッチーは、サックスを吹いた。アラバマ州の黒人大学・タスキーギ大学のときにつくった、そのバンドが、コモドアーズだ。

 ハリー・ベラフォンテは、1956年に「バナナ・ボート」の世界ヒットがあるジャマイカ系のシンガーで、俳優だ。そして、黒人の地位向上をめざす、先鋭的な公民権運動家でもある。マーチン・ルーサー・キング牧師とも親しかった。1963年のワシントン大行進では、キング牧師たちと先頭を歩いた。

 黒人たちから尊敬されるのは、ビッグ・ヒットがあるエンターテイナーとしてだけじゃないのだ。ブッシュ政権の黒人閣僚だったコンドリーザ・ライスやコリン・パウエルを、「白人の主人にこびる奴隷」と痛烈に批判する人なのだ。http://www.youtube.com/watch?v=bgNuzQxRcGA&NR=1

Belafonte at Carnegie Hall

 この1959年のカーネギー・ホールでのライブ盤は、日本でもよく売れた。

 ハリー・ベラフォンテ 「マチルダ」 http://www.youtube.com/watch?v=b36dcPi_KqA&feature=fvst

 

 1963年8月28日。ワシントン大行進の映像。http://www.youtube.com/watch?v=d7s30wFCqlw 大統領が黒人の現在では信じられないことだろうが、当時、アメリカ黒人は、満足に参政権すらなかった。すべての黒人に参政権があったわけじゃないのだ。百年前に奴隷制度がなくなったはずなのにだ。ワシントン大行進は、黒人の完全な参政権と差別撤廃をもとめるデモ行進だったのだ。全米から20万人がワシントンに集まった。

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 LA在住の日本人Mさんが、マイケル・ジャクソンのプライベートな日本語のホーム・ページTHE ONE&ONLYを開いている。ここに2002年、ニューヨーク、ハーレムでのマイケル・ジャクソンの、人種差別に関するスピーチが翻訳されている。すこし長いが引用する。

『 私が6歳か7歳くらいだった時の、遥か昔のインデアナでのことを思い出します。
私はパフォーマーというか、皆さんもご存知でしょうが、エンタテイナーになりたいという夢を持っていた。
夜寝ている時いつも、母は私を起こしてこう言ったものだ、
「マイケル、マイケル、ジェームズ・ブラウンがテレビに出てるわよ!」 と。
私はベッドから飛び起きて、ただ画面を凝視したものだし、すべてのツイストやターンや腰を動かしたり、グラインドしたりしようとしたものだ。Jackie Wilsonも出てきた。他の有名人もたくさん次から次へだ。本当に目を見張るような、際限もないような偉大な才能の連続だった。

この時のアーティスト達が現実に一文無しな状態なのを見る事は本当に悲しいことだ。 彼等は世界中にとてつもない喜びを生み出したのに、 レコード会社を初めとするシステムが完全に彼等を利用したからだ。
レコード会社がいつも主張するように、”アーティスト達は豪邸を建てた”とか、”大金を浪費している”とか、”たくさんの車を買った”とか、 言うようなことではないんだ。そんなこと馬鹿げている。それは言い訳だ。
そのようなことはアーティストが成し遂げたことに比べれば、なんでもないことだ。

我々が現在闘っていることは、非常に重要なことだと皆さんに知ってもらう必要がある。
なぜなら私はうんざりしているからだ。 私はごまかしに対して心底うんざりしている。
現在の状況で実際に何が起きているのかに関してマスコミがいかに全てを操作しているか本当に嫌気がさしている。
メデイアは真実を話さない。彼等はうそつきだ。
それから彼等は我々の歴史の本を操作している。
我々の歴史書は真実ではないんだ。 それは嘘だ。歴史の本は嘘だ。
皆さんはそれを知らなければならないし それを知るべきなんだ。
ジャズからヒップホップ、ビーバップ、ソウルにいたるまでのすべてのポピュラー音楽の形式や、 Cake WalkからJitter Bug、Charleston、Break Dancingまで異なるダンスの形、つまりこれらのすべては、Black dancingという様式なんだ。

現実逃避という感覚、つまりエンタテインメントという現実逃避を人々に与えること以上に重要なことって何だろう?
歌がなかったら我々はどうなるだろうか? 
ダンスがなかったら我々はどうなるだろうか?
喜びや笑いや音楽がなければ?
これらはとても重要なことだ。

しかし、もし我々が角の本屋に行けば、 たった一人の黒人さえも本の表紙になってはいない!という現実を見るわけだ。
皆さんはエルビス・プレスリーの顔を表紙に見るだろうし、ローリング・ストーンズも見るだろう。
でもそれを最初に始めた本当のパイオニアはどこにいるんだ?
Otis Blackwell は多作で素晴らしい作曲家だ。彼は最も偉大なエルビスの曲の幾つかを書いた。
でも彼は黒人だったんだ。 彼は一文無しで亡くなった。そして誰も彼のことなんか知らないし、つまり、彼について書かれた本なんか一冊もない。 なぜなら僕は世界中探してきたからわかるんだ。
今日私は彼のお嬢さんにお目にかかった。とても光栄だった。彼女に会った時、私にとっては、それはイギリスの女王に謁見するのと同じレベルのことだったんだ。

しかし、今日私はすべての不公正について話すためにここにいる。
皆さんは思い出さなければならない。
私がレコードセールスで過去の記録を全て破った次の瞬間から、、つまり、私がエルビスの記録を、ビートルズの記録を破った瞬間から、ギネスブックの歴史上、史上最高に売れているアルバムとして認知された瞬間から、一夜明けたら、彼等は私を変人、ホモセクシュアル、 児童虐待者と呼び始めたんだ。
私が自分の皮膚を漂白しようとしているとも言った。
彼等は世間の人が私に背を向けるようにするために、ありとあらゆる全てのことをしようとした。
これは全て完全な陰謀だ。皆さんはそれを知らなければならない。

私は自分の人種をわかっている。鏡を見れば、自分は黒人であることがわかっている。
今や変革すべき時だ。 この建物を去るときに、何が(スピーチで)語られたかを忘れないようにしよう!
心に入れて、皆さんの自意識の中に入れて、それに対して何か行動を起こそう!
我々はそうしなければいけないんだ!
長い間待望されてきたが、今や変革がおきなければならない時なのだ。
だから、我々の松明を高々と掲げ、我々が本来当然受ける資格のある尊敬を受け取ろう。

I love you.
I love you.  
どうぞ今日心に留めたことを明日に忘れないで。
そんなことをするようなら、我々は自分達の目的を達することはできないだろうから。
こんな(差別は)やめなければならないんだ。 止めなければならないし、だから私はそれを確実に止めさせるために
自分の最善を尽くすためにここにいるのだから。
皆さん、I love you.
”And remember: we’re all brothers and sisters, no matter what color we are. 
そしてどうか覚えていてください。 我々は皆兄弟であり、姉妹であるということを。
たとえ我々がどのような皮膚の色(人種)であろうとも。”  』

 Michael Jackson Latest THE ONE&ONLY http://mjlatest.main.jp/index.html

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近所の神社で、マイケル・ジャクソンの冥福を祈った

2009-06-28 | 日記・エッセイ・コラム

695  近所の神社、鳥居にみなれない丸い飾りがあった。北海道では、一度もみたことのないワラの飾りだ。

 旧江戸川沿いを歩いた。。川筋を吹きぬける風が、秋風のように冷たく、寂しい。マイケル・ジャクソンのことを考えながら歩いていたせいだろう。

 帰りに近所の神社によって、マイケル・ジャクソンの冥福を祈った。小さい稲荷神社が、マイケルを追悼する場にふさわしいかわからない。いいんだ。音楽業界の最末端にいた、わたしも、マイケル・ジャクソンに世話になった。ある時期、わたしの給料のいくらかは、マイケル・ジャクソンのレコードの売り上げから出ていただろう。

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 子供のときから、ろくに小学校にも行かせてもらえず、友人もなく、ただひたすら歌を歌ってきたのが、マイケル・ジャクソンだろう。子供らしい遊びをすることもなく、近づいてくる人間は、金儲け目的のれんちゅうばかり。親でさえ、稼がせることしか考えていない。こうして、ひたすら歌いつづけたわけだから、その浮き世ばなれした純粋さは、この世の人ではないだろう。

 「マイケル、じぶんだけのディズニーランドをつくらないか? 金? いまのマイケルの稼ぎなら、何の問題もないさ」、そんな具合に、野獣のようなやつらに簡単にだまされて、巨額の借金を負わされる。金融業者、土建屋、弁護士、信じているスタッフも家族も、まわりの人間みんなが、なかを抜いて大儲けする。ネバーランド建設の愚行なんぞ、そんなことだったろう。 

 幼児虐待の裁判も、賠償金目的の母親の狂言だった。たきつける弁護士がいて、不名誉な被告になってしまった。アメリカの場合、弁護士は、手にした賠償金の3分の1をとる。ごつい商売だ。芸能人の弱みにつけこんで、あることないこと難癖をつけて、訴訟を起こすとおどす。示談になれば、ラッキーなのだ。マイケル・ジャクソンは、裁判を闘い、無罪になっているのだ。しかし、不道徳な性癖があるという不名誉な噂は、もう消えない。

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 マイケル・ジャクソンの偉大さは、テレビや新聞にあるので、今更、そこはふれないが、黒人として、アメリカ白人社会に完全に受けいれられた、はじめての黒人ミュージシャンだろう。スティーヴィー・ワンダーも、アース・ウインド&ファイアーも、すでに世界的なスターになっていたが、アメリカではやはり黒人社会のスーパースターで、白人に受けいれられていたわけじゃないのだ、じつは。

 60年代の話だ。トム・ジョーンズが、イギリスからラスベガスにやってきて、一週間で稼ぐ金額は、レイ・チャールズの年収だった、とレイ・チャールズ自身が書いている。トム・ジョーンズは、レイ・チャールズのコピーからはじまった人だ。このとき、レイ・チャールズは人気絶頂だったのだ。つまり、アメリカでいかに黒人ミュージシャンが冷遇されていたか、ということだ。

 しかし、マイケル・ジャクソンがソロ・デビューした1979年には、時代は大きく変わっていた。むしろ、深層の人種偏見を隠して、黒人を優遇することこそ、かっこいい、クールだ、という社会になっていた。

   マイケル・ジャクソンが、スーパースターになっても、真面目で、純なプロのミュージシャンだったことがわかる映像がある。 Making of we are world http://www.youtube.com/watch?v=J0IweJ0g39I&NR=1

 Paul_mccartney_michael_jackson

   マイケル・ジャクソン Dirty Diana http://www.youtube.com/watch?v=7Hg-IRZk4D0&feature=related

   マイケル・ジャクソン Dangerous http://www.youtube.com/watch?v=cC1TTz2bMmM&feature=related


マイケル・ジャクソン、逝く

2009-06-27 | 日記・エッセイ・コラム

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 マイケル・ジャクソンのことを書くまえに、ファラ・フォーセットが昨日亡くなったことを伝えたい。チャリーズ・エンジェルを覚えている人も多いだろう。62才。闘病生活をささえたライアン・オニールにみとられた、という。

オフ・ザ・ウォール(紙ジャケット仕様)

 クインシー・ジョーンズが、はじめてプロデュースをしたマイケル・ジャクソンのアルバム。1979年(昭和54年)の発売だ。これがわたしの店では売れた。ジャクソン5のファンはもちろん、コアなリズム&ブルースのファンや、クインシー・ジョーンズのファンにも注目された。(ジャクソン5は、モータウン・レコードをはなれてエピックと契約して、グループ名は、ザ・ジャクソンズになっていた)

 クインシー・ジョーンズは、弱冠21才のとき、ジャズの名盤「ヘレン・メリル&クリフォード・ブラウン」を編曲した才人だ。1954年だ。以来、レイ・チャールズの一連のヒット曲や、サラ・ボーン、フランク・シナトラなどプロデュース作品は多数ある。じぶん自身のヒット・アルバムもある。つねに、時代をリードする名プロデューサーだ。いまも73才で、現役で活躍している。

ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン

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 「オフ・ザ・ウォール」から十年にわたって、クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンのコラボレーションがつづいた。もちろん「スリラー」もクインシー・ジョーンズのプロデュースだ。クインシー・ジョーンズなくして、マイケル・ジャクソンの成功はありえない。逆には、クインシーは、マイケル・ジャクソンというブラック・ミュージック界最高の才能の若者と出会って、15才のときから、プロ・ミュージシャンとして生きてきて学んだ、すべてを発揮できたのだろう。クインシー・ジョーンズが、マイケルの「オフ・ザ・ウォール」を手がけたのは、46才のときだ。マイケル・ジャクソンは、21才。「ABC」の可愛いマイケルから10年のときがたっていた。http://www.youtube.com/watch?v=C4VCUbL7jsc&feature=related

 マイケル・ジャクソンが、鼻を細くする整形手術をしたあと、ダイアナ・ロスが激怒した、という。「でも、お姉さん(シスター)たちと、おなじことをやっただけだよ」と、マイケル・ジャクソンがいったという。

 ダイアナ・ロスは、モータウン・レコードの大先輩だ。「ドリーム・ガールズ」は、ダイアナ・ロス&シュープリムスが、モデルだ。黒人相手のインディーズ・レコード、モータウンを世界のモータウン・レコードにしたのは、ダイアナ・ロス&シュープリムスの功績だろう。レコード・メーカーが勢いにのると、またつぎつぎスターをだせる。スティーヴィー・ワンダーも、マーヴィン・ゲイも、こうしてモータウンからスターになっていく。そして、若いジャクソン5も登場する。http://www.youtube.com/watch?v=-16fDpOW948&feature=related

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  ベンのテーマhttp://www.youtube.com/watch?v=46rGlj8--Xk&feature=related このシングルが、サウンドコーナーでよく売れた。お客さんは、中学生と高校生の女の子だった。彼女たちは、いま、どれほど悲しんでいるか。


マイケル・ジャクソン死亡! とニュースのある?

2009-06-26 | 日記・エッセイ・コラム

691  大潮の上げ潮にのって、東京湾からもどってきた屋形船。

 (マイケル・ジャクソン死亡、とネットのニュースのある。ほんとか?)

 細い月が美しい夜だ。短パン、半袖で川辺を歩くと、すこし冷たいくらいの川風に吹かれて、気持ちがいい。

 三菱自動車をやめて、さまざまなアルバイト仕事をやってきた。50才も近かったので、ろくな仕事にはありつけなかった。羽田空港ちかく、東京湾岸の工業地帯にある、日東製缶で働いたことがあった。点滴用のブドウ糖液をいれるビニール・ケースの製作だった。週払いのバイトだ。

 わたしは、川崎市の宿河原にすんでいた。朝、JR南武線にのって川崎駅まででる。川崎で、京浜急行・大師線に乗り換える。産業道路駅でおりて、国道409号線まで歩くと、会社の送迎バスが迎えにくる。だいたい朝6時すこしまえに部屋をでると、8時の作業開始に間にあう。

 まだバブルのなごりがあったから、残業は午後7半まであった。つまり、夜勤のバイトと交代するまで作業はつづいた。2交代で生産が止まることはない。10時と15時、10分の休憩が2回ある。それと45分の昼休みだ。わたしが一番のおっさんで、若者たちばかりだった。三十人くらい配属されていただろうか。製造も検査も、すべて週払いのバイトたちだけで作業が進められた。溶けたビニールをあつかうから熱いつらい現場だ。

 そうして、一日の仕事を終え、夜、工場のまえから、疲れはててバスにのる。道路の沿線には石油の精製プラントがある。明かりが煌々と点いた巨大な工場群は、SF映画のようで、とてもこの世の光景ではない。ところどころからガスを燃やす炎が吹きあがって、じつにシュールだ。

 (夜、羽田空港に飛行機がおりるとき、上空から、この石油精製工場の夜景がよくみえるはずだ)。

 バスの窓から、そんな石油精製工場の夜景をながめていた。「ぼく、火の玉をよく見るんです」と、とつぜん、隣に座っていた青年が話しかけてきた。「え?」、わたしは、とつぜんの攻撃に動揺して、返答に窮した。

 「ぼく、子供ときから、とぎどき、火の玉を見るんです」、「はあ、そうですか」。なんどか社員食堂でみかけた青年だが、話したことはない。職場の部署もちがった。青年は、話をつづけた。

 「その夜も、アパートのトイレに行こうとすると、ドアのところに、青い火の玉が浮いていたんです。そのとき、田舎で、お母さんが死んでいったんです」と、言って黙りこんだ。泣いていた。青年は、声をあげず、すすり泣いていた。

 わたしは、なにも言えず、バスの窓から、石油プラントの吹きあがる炎をながめていた。泣きたい気持ちは、よくわかる。

 

Cooke

 ゴスペルの世界から、最初にリズム&ブルースのスターになったのは、なんといってもサム・クックだろう。サム・クックは、黒人だけではなく白人のあいだでも、スーパースターになった。とうじ、サー・デューク・エリントン以外、白人専用のニューヨーク・コパ・クラブに出演した黒人は、サム・クックだけだった。長身、ハンサム、美声。子供のことからゴスペルでつちかった表現力、リズム感。どれをとっても、卓越していた。そしてなにより、すぐれたソングライターだったのだ。

 サム・クックは、人気の絶頂のとき、白人にピストルで射殺された。

 他国の選挙なのに、日本のマスコミが浮かれたようにはしゃいた、アメリカ大統領選挙の、オバマが使っていた、Change Gon' Come は、サム・クックの名曲だ。かって、人種偏見のすさまじいアメリカで、こういう歌を作り、歌う。そのサム・クックの勇気に頭がさがる。

 サム・クックがいて、マルカムXいて、カシアス・クレーがいた。

 1964年にサム・クックが射殺され、

 1965年2月21日に、マルコムXが、演説会場で、散弾銃でこなごなに撃たれて死ぬ。

 キング牧師が射殺されたのは、そのあと、1968年のことだ。

    サム・クック Twistin' The Night Away http://www.youtube.com/watch?v=f0aLkdi3GQo&feature=related

(オバマ大統領は、アメリカ奴隷黒人とは、なんの関係もないアフリカ系アメリカ人だろうな。オバマは、アフリカからハワイの大学に留学した父と、そこの白人女子大生が母だ。祖父母にだれも奴隷はいないだろう)

 写真家の戸張さんのサイトに、足寄のラワンブキと、オンネトーの、湯の滝のテラピア駆除の写真がある。http://www.y-tobari.jp/topics/?ct=1

 戸張さんの写真でみるとおり、ラワンブキは、フキなんだが、人の身長を超える強大なフキだ。もちろん、食用になる。でかいが、美味い。足寄の螺湾(らわん)地区で自生している。いまは、栽培もされている(先日テレビでみて、はじめて栽培している若い農民がいることを知った)。

 足寄町の螺湾地区とは、足寄から阿寒湖へいく途中にある。雌阿寒岳の麓だ。冬の積雪も深いし、寒さもきついところだ。

 小学5年の夏休み、父と母と弟の4人で、阿寒にいく国道でバスをおり、湯の滝まで歩いて、キャンプをしたことがあった。オンネトーの野中温泉からの林道は、もう荒れていて、草が、小学生だったわたしの胸まで伸びていた。

 (ずっとあとになって、じぶんの車でいってみて、「湯の滝まで車が入れる! 」と、驚いたものだ)。湯の滝のあたりは、ラワンブキのジャングルになっていて、視界がきかず、恐ろしいところだった。(ヒグマの生息地なのだ)。 

 湯の滝には、かって木こりたちの飯場があったので、滝の下のちょうどいいところに、木製の浴そうが残っていた。ラワンブキのジャングルのなかに、雪につぶれた飯場の残骸もまだあった。そこに残っていた薪を拝借して、たき火をして、飯をつくった。湯の滝の温度には驚く。なんの調整もしていない自然の滝の温水が、まったく適温だ。熱すぎない。

 ずっとあとになって、じぶんで車でいったときは、もうすべてが変わっていた。ラワンブキのジャングルは、消えてなくなり、もちろん飯場の残骸もなく、きれいに整地されていた。観光地になっていた。もう秘湯でもなんでもなかった。

 じぶんも、車でいっているのだから、なにも言えないが、愕然としたのは、湯の滝から流れる小川に、びっちり魚がいたことだ。テラピアだ。こんな北海道の山奥の、国立公園のなかにまで、熱帯の魚を持ちこんで放流するやつがいる。この人間のゆがんだ欲望。いったい何なんだろう? 釣るためでも、食うためでもない。ただ愉快だからか? 

 

 ブログの背景を変えた。暑いので、すこし涼しげに。

Thrillerera

 

 マイケル・ジャクソン ベンのテーマ http://www.youtube.com/watch?v=46rGlj8--Xk&feature=related

 

  ジャクソン5 http://www.youtube.com/watch?v=-16fDpOW948

 ジャクソン5 I'll Be There http://www.youtube.com/watch?v=_4QyZH0EXcQ&NR=1

マイケル・ジャクソン スリラー http://www.youtube.com/watch?v=cIqj0xD7VCY


まるでジャニス・ジョップリンがよみがえったようなキャロリン・ワンダーランド

2009-06-25 | 日記・エッセイ・コラム

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  すこしまえ、東川佳人くんが、セルビアの女性ブルース・ギタリストのアナ・ポポヴィッチを紹介してくれた。今回は、現代にジャニス・ジョップリンが蘇ったようなテキサスの女性をみつけてくれた。キャロリン・ワンダーランド Carolyn Wonderland だ。ジャニス・ジョップリンやジョニー・ウインターなどの、テキサス・ブルースの伝統をしっかりといまに伝えている。http://www.youtube.com/watch?v=M8MfUJs3tWo&feature=related

  キャロリン・ワンダーランドは、1973年、テキサスのヒューストン生まれ。音楽のために高校を中退して、じぶんのヴァンで車上生活をしながら、ライブ・パーフォマンスの旅をつづけ、一年に300日以上のライブをやっていた。テキサスでは、1999年ころには、高く評価され、さまざまな賞を受賞している。ボブ・ディランもファンだという。1995年からインディーズのCDを出している。昨年は、6枚目のアルバム MIss Understood を発売した。来月開催のニューヨーク・ロチャスター・インターナショナル・ジャズ・フェスティバルの、メインの出演者のひとりだから、すでに全米的な評価があるのだろう。(なさけないことに、とうぜんのように日本では発売になっていなかった。いまの日本の音楽事情をよく象徴している)。

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  ブルース・シンガー&ギタリストのスーザン・デテスキと、デレク・トラックスが夫婦だ。きょう知った。デレク・トラックスは、オールマン・ブラザーズ・バンドのオリジナル・メンバーでドラムのブッチ・トラックスの甥だ。現オールマン・ブラザーズ・バンドのギタリストでもある。

 スーザン・デテスキとデレク・トラックス・バンド http://www.youtube.com/watch?v=zs50uz3a_-M

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 オールマン・ブラザーズ・バンドは、いまもちゃんと活躍していて、うれしいことに、ドラムのブッチ・トラックスも現役なのだ。

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 グレック・オールマン オフィシャル・サイト http://www.greggallman.com/

 キャロリン・ワンダーランド オフィシャル・サイト http://www.carolynwonderland.com/

 スーザン・デテスキ オフィシャル・サイト http://susantedeschi.com/

  日本では化石のようになってしまっているらしい、ジャズやブルースが、本国アメリカはもちろん、世界ではばりばりの、いまの音楽だ。キャロリン・ワンダーランドのことを調べていて、今年のロチャスター・ジャズ・フェスティバルのスケジュールをみて驚いた。そのスケールの大きさと、多彩な出演者のボリュームに圧倒される。「ジャズ・フェス」となっているが、アメリカのいまの音楽、総出演だ。ロック、ジャズ、ブルース、ソウル、ゴスペルなどが、アメリカの誇る文化だとよくわかる。

  アーティストのラインアップとスケジュールを、クリックしてみてほしい。http://www.rochesterjazz.com/artist_lineup/

  わたしが驚いたスケールの大きさというのは、日本のジャズ・フェスやロック・フェスの、商売としての、興行的な意味のスケールのことじゃない。ロチャスター地区のさまざまな規模の会場で同時に開催される。もちろんホールでの有料のコンサートがあるが、多くは、無料のフリー・コンサートだ。それが今年も7月12日から20日まで、9日間にわたって開催される。スタッフはボランティアだ。

  リズム&ブルースからスモーキー・ロビンソン、ジャズからは、デイブ・ブルーベック、ふたりの大御所がフェスティバルのメインというのが、じつにいい。偉大な先達にたいする敬愛だ。

  フェスの第一日目に「ジャズ・マンドリン・プロジェクト」というバンドがある。マンドリンでジャズ? はて、おもしろいのか? バンドの映像をユー・チューブでみつけた。わたしがあまかった。真剣に音楽しているひとたちが世界にはいる。わたしが、日本のテレビでみるJ-POPとやらの音楽の、なんと貧相なことか。日本のJ-POPやらの連中は、アメリカのブルースやジャズの連中など問題でなく、とんでもなく莫大な金をかせいでいるのだが……。

  アメリカには、車上生活をしながらテキサス・ブルースを歌う子がいて、いっぽう日本には、六本木の月200万円のマンションに住んで、J-POPを歌う子がいる。世界はひろい。

http://www.youtube.com/watch?v=98CPtDDMqqE&feature=related


花火の季節だね

2009-06-24 | 日記・エッセイ・コラム

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 とつぜん、30度を超える気温になった。日が落ちてから、旧江戸川の遊歩道を歩く。川風が気持ちいい。海、大河、運河、小川、渓流、沼、湖、池。ダム湖。どこでも、水辺が好きだ。子供たちが、花火をしていた。

THE BEST 1200 マーヴェレッツ THE BEST 1200 マーヴェレッツ

 ビートルズやカーペンターズが、カバーしてヒットした「プリーズ・ミスター・ポストマン」は、リズム&ブルースの女性グループ、マーベレッツがオリジナルだ。戦場にいっている恋人からの手紙を待つ女性の気持ちを歌った。女と男のおかれた状況は深刻だ。だが、ブラック・ミュージックの場合、ただ深刻に表現するのは、粋じゃないのだ。ポップに、ヒップにやらなくちゃクールじゃない。深刻をきわめるなら、ゴスペルというシリアスの極致の音楽がかれらにある。それは、いまも昔も変わらない。http://www.youtube.com/watch?v=-nuEY6fQgzk&feature=related

 「郵便屋さん、ちょっと待って。わたしへの手紙があるはずよ!」と、リズミックに歌う背景の現実は、重い。1953年に、やっと朝鮮戦争が休戦して、第二次世界大戦からつづいた、若者たちの悲惨な戦死、戦病死、が終わるはずだった。しかし、アメリカは、フランスが敗退したベトナムに深入りしていく。貧乏な若者が戦場で死ぬのは終わらない。黒人の戦死率は、白人とは問題にならないほど高かった。1961年、J.F.ケネディー大統領は、国連を無視して、アメリカ軍事顧問団を3000人に増兵する。(JFKは、ベトナムから撤兵しようとしていた、というキレイな伝説は、あとのことだ。大統領になったばかりのときは、いけいけだったのだ。泥沼への一歩は、JFKが踏みだしたのだ、ほんとうは)。

 アメリカが、積極的にベトナムに介入しだしたのが、1961年。マーベレッツの「プリーズ・ミスター・ポストマン」が、黒人たちのあいだで大ヒットしたのは、おなじ年、1961年。

 ビートルズの「ツイスト・アンド・シャウト」は、アイズレー・ブラザーズがオリジナルだ。アイズレーは、60年代後半70年代、ファンク・バンドのようになっていたが、50年代から活躍したドゥー・ワップ・グループだ。「ツイスト・アンド・シャウト」の、とうじの映像がみつからないが、アイズレー・ブラザーズが、どんなドゥー・ワップ・グループで、なぜ人気があったかわかる映像がある。http://www.youtube.com/watch?v=VL9xOLpwI0I&feature=related

 デビューまえのジミ・ヘンは、このアイズレー・ブラザーズのバックでもギターを弾いていた。イギリス人チェス・チャンドラーが誘う。イギリスでバンドを組んでデビューしないか、と。そうして、ジミ・ヘンは、アメリカをでる。チェス・チャンドラーは、「朝日のあたる家」のアニマルズのベーシストだ。

 イギリスに渡るまえのジミ・ヘンドリックスが、どれほどアメリカのリズム&ブルース・シーンで評価されず、仕事に苦労していたのか、悲しい映像がある。スライやサンタナのような若者が、じぶんたちの音楽をつくろうとしていたときだ。ジミ・ヘン自身の苦悩もわかる。食べていかなくちゃならない。 http://www.youtube.com/watch?v=C2wBPix-nmg&feature=related 

 リズムが悪い、下手なダンスで、下手な歌の、主役ふたりのうしろの、左ききのギター弾きが、ジミ・ヘンだ。黒人がやればなんでもグッド・ミュージックか? という問いの、答えが、この映像だろう。黒でも白でも、ダメなのはダメだ。問題は、音楽に対する真剣さだな、と思う。アメリカで、こんなダサイ仕事で食べていたジミ・ヘン。このジミ・ヘンのすごさを理解して、イギリスに誘ったイギリス人の感性もまたすごい。

Jimihendrix

 ジミ・ヘンへの思いは、たくさんある。死んだ、というニュースを聞いた日は、あまりの悲しさに、荒れた。1970年のこと。ジミ・ヘンは、まだ27才だ。わたしは、22才だったかな……


幌加のルピナス

2009-06-23 | 日記・エッセイ・コラム

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 北海道沼田町のルピナス(のぼりふじ)が美しい、とニュースにある。北海道は、スズランがおわり、ルピナスの季節がきたのか。

 登るわけじゃない。ただニペソツ岳を近くでみたくて、車を飛ばしたことがある。北海道をでるまえのことだ。もう二度とニペソツをみられないかもしれない、と。

 帯広から国道273号線を走って、糠平湖をすぎ、音更川に架かる丸山橋で車をとめる。そこからみるニペソツが好きだった。そして、十勝三股にむかって車を走らせた。1キロくらいのところ、右手に、ルピナスがいっぱいに咲く広い草地があった。もちろん家は、一軒もない。ただルピナスが咲き乱れる草原だった。

 わたしは、その光景の寂しさに言葉を失った。かって、そこには駅があった。駅前にはラーメンが食べられる食堂があった。なんでも売ってる小さい商店があった。幌加の町だ。「お父さんとお母さんは、幌加で出会ったのよ」と、詩人の泉谷田鶴子さんがいっていた。(田鶴子さんは、若くして、がんで亡くなった)。

 国鉄士幌線の幌加駅前には、大きな貯木場があって、製材工場があった。そこで働く人たちの住宅が、駅前から国道までつづいていた。わたしは、高校生のとき、ニペソツ岳からの帰り、なんども幌加まで下って汽車に乗った。二両だけのジーゼル列車だった。

 その幌加の町が、跡形もなく消えていた。ただルピナスが咲く草原だった。ルピナスは、日本の自生の花じゃない。幌加の町に暮らした人たちが、庭に植えたものだろう。人はだれもいなくなって、そのルピナスだけが繁茂していた。

Lupinroad 原野に咲くルピナス

 北海道の林業が衰退して、鉄道路線が消え、森のなかの集落が消え、人びとは、大きな町へ出ていった。

800pxcxblack2  ネットでみつけた十勝三股駅。(1978年12月24日頃、とある)。 いまは跡形もない。駅舎も周辺の人家も、左の奥にみえる学校も、いまは、なにもない。(町のすべてが消えた跡に、レストランが一軒建ったようだ。いま、どんな様子なのか?)。

 この十勝三股の写真には、感動した。正面にみえる山塊は、石狩の連山だ。高校一年の夏、十勝三股駅前の商店の小型トラックにのせてもらって、麓にむかった。メンバーは、部長の国枝幸吉さん、二年生の中村光二さん、そして一年兵の二ッ森くんとわたしだった。副顧問の酒巻先生が同行してくれた。酒巻先生は、大学をでたばかりだった。

 ユニ石狩歩道を登りはじめたときは、晴天だったが、ユニ石狩岳に登り、尾根でキャンプを張った夜から強い雨になった。真夏でも、北海道の2000メートル近い高度の雨は、きつい。寒い。いまと比べると当時の雨具も、テントも貧弱で、テントなど麻地かなんかで、化学繊維じゃない。雨を吸ってどんどん重くなる。濡れたままだと雨が漏るようになる。

 雨を吸って重くなった荷物を背負って、雨雲の濃い霧のなか、音更山を登り、石狩岳にむかった。(重い物をかつぐのは、一年生だ。わが山岳部には、軍隊のようにきびしい序列があった。一年生は、テントや食料や燃料や水など、重い物すべてをかつぐ。三年生は、じぶんの寝袋とじぶんの着替えだけを背負う)。

 あのころも登山用の軽い乾燥食品はあったはずだが、高くてとても高校生では手がでなかった。数日のことだから、乾パンとインスタント・ラーメンだけでも栄養失調になるわけでもないのに、夕食は、なぜか、カレーライスが定番のメニューだった。それも、じぶんらの家で食べるカレーライス、それを再現するための食材全部を買ってもっていく。レトルト食品は、まだない。

 タマネギ、人参、ジャガイモ。みんな重い野菜だ。それに米。「そして、肉だ。肉がはいらないカレーはない、だろ」と、肉を持っていくのだ。真夏、リュックのなかで長時間運ぶから肉は腐りやすい。どうするか? 氷やドライアイスといっしょに包む。この氷やドライアイスがまた重い。山の上で、そこまでしてカレーライスをつくる必要があるのか? しかし、わたしたちは何の疑問も持たず、重い食材をかつぎあげ、カレーライスをつくった。これがうまかった。

  
 ずぶ濡れになりながら、霧のなかの石狩岳の頂に立ち、シュナイダー・コースをすべり下りて御殿にもどってきた。雨はあがっていた。御殿まで、十勝三股駅前の商店のトラックが迎えにきてくれて、幌加温泉にむかった。(御殿は、営林署の巨大な木造の建物だった。深い原生林のなか、突然の大きな建物だ。驚く。木造三階建てだったように記憶する。まさに御殿だ。70年代後半、取り壊されて跡形もない)

 こうして、その高校一年の夏、ずっと雨の濃霧のなか、何の眺望もなく、裏大雪の石狩山系を歩いたわけだ。濡れながら、震えながらのつらい山行だった。だが、たのしかった。雨のキャンプでも、みんなはしゃぎまくっていた。高校生。若い。

 この十勝三股駅の写真は、線路脇に建つ給水塔の上から撮影したのじゃないだろうか。左手前にうすく影がみえる。タンクの上に、ひとが立っているような影がみえる。それが撮影者の影だろうか? 風景は美しい。貴重な写真だ。(十勝三股駅は、士幌線の終着駅だ。蒸気機関車に水を補給するための、給水塔があった)。

 写真の列車の方向の先、そこに十勝と北見・旭川方面の上川との境、三国峠がある。この三国峠側からみる十勝三股を中心にした広大な盆地状の森林の光景は、みごとだ。そのあまりの美しさに畏敬さえ感じる。東川佳人くんは、十勝の風景でも、とくに美しいと絶賛していた。わたしもまったく同感だ。十勝・帯広のひとは、あの景色をみるためだけに、三国峠まで走って、風景をたのしみながら、ゆっくり引き返してくるのがいいだろう。

Okitsu2  JR東海 名松線 伊勢奥津駅に残る蒸気機関車用の給水塔 (撮影者 Nknsさん)

 

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 まずブルースの女性シンガー、ビッグ・ママ・ソートンが歌い、のちに白人のエルビス・プレスリーが大ヒットさせた「ハウンド・ドッグ」。このふたりが、「ハウンド・ドッグ」の作者なのだ。ジェリー・レイバーとマイク・ストーラ。http://www.youtube.com/watch?v=X5JALwwaASg ふたりの若いときの写真もある。

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 「ハウンド・ドッグ」だけじゃない。ふたりは、50年代からたくさんのリズム&ブルースを書いている。「カンサス・シティー」もそうだし、「ラブ・ポーション・ナンバー9」、プレスリーの「監獄ロック」も、ふたりの作品だ。そして、「スタンド・バイ・ミー」こそ、ふたりとベン・E・キングとの共作だ。http://www.youtube.com/watch?v=Vbg7YoXiKn0

 「スタンド・バイ・ミー」を、ジョン・レノンのカバーで知っているひとが多いだろう。オリジナルは、ドリフターズのリード・シンガーだったベン・E・キングが、ソロになって放った大ヒット曲だ。1961年のことだ。ビートルズは、まだアマチュア・バンドだ。ジョン・レノンがカバーしたのは、1975年のこと。(日本のコミック・バンド、ドリフターズは、もちろん、このアメリカ黒人の、リズム&ブルースのグループ、ドリフターズからバンド名をパクった)。http://www.youtube.com/watch?v=a24Odc1qrB0

 日本で、「ラヴ・ポーション・ナンバー9」は、白人バンドのサーチャーズでヒットした。1965年のことだ。しかし、オリジナルのヒットは、黒人グループのクローバーズ、1959年のヒット曲だ。作者は、上の写真のふたり、ジェリー・レイバーとマイク・ストーラだ。http://www.youtube.com/watch?v=iQgKOcjIh4M&feature=related

 サーチャーズ Love Potion No.9 http://www.youtube.com/watch?v=7rXhXLsNJL8&feature=related

 モータウン・レコードのグループ、テンプテーションズのビッグ・ヒット「マイ・ガール」は、リズム&ブルース・グループ、ミラクルズのスモーキン・ロビンソンとドナルド・ホワイトの作品だ。http://www.youtube.com/watch?v=ltRwmgYEUr8&feature=related

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 ビートルズがやっていた You Really Got A Hold On Me は、このミラクルズのカバーなのだ。ミラクルズが発表したのは、1961年のこと。http://www.youtube.com/watch?v=AdDnqSFYXFs&feature=related

 ビートルズ  You Really Got A Hold On Me http://www.youtube.com/watch?v=zs26kKHxjS4

 エルビス・プレスリー Jailhouse Rock (監獄ロック) http://www.youtube.com/watch?v=tpzV_0l5ILI&NR=1


ふたたび、カルロス・サンタナをたたえる

2009-06-22 | 日記・エッセイ・コラム

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  きのうは、ローリン・ヒルと共演するサンタナの映像を紹介した。じぶんの子供のような年令の、若い創造的なミュージシャンと共演することになんのためらいもない。そして、媚びることもなく、いつもサンタナは、サンタナでありつづける。すごい! 共演する若いミュージシャンは、そんなサンタナを、尊敬をこめて、「ビバ! カルロス・サンタナ!」と呼びかける。

  まえにも紹介したプロモーション・ビデオだ。もういちど、みてほしい。http://www.youtube.com/watch?v=6Ml3NUIDpFg&feature=related

 日本のだれもが、サンタナを知ったのは、1969年のウッドストック・ロック・フェスティバルのころだろう。40年前だ。そのときから、サンタナは、あのサンタナ・ミュージックの興奮とたのしさ、そのままだ。

 どんな批判、非難をあびても、わたしは、あえて言いたい。60年代70年代、ロックの世界に天才といわれるギタリストがたくさんでた。しかし、いま、カルロス・サンタナこそ、最高のギタリストだ。http://www.youtube.com/watch?v=S7amYNaPTRI&feature=related

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 サンタナ ウッドストック・フェス http://www.youtube.com/watch?v=XnamP4-M9ko&feature=related

 サンタナ Samba Pa Ti  http://www.youtube.com/watch?v=WzSayxVM_E0&feature=related


サンタナは、ローリン・ヒルとも共演している

2009-06-21 | 日記・エッセイ・コラム

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   フージーズのヴォーカル、ローリン・ヒル。アンプラグドの I Gotta Find Peace of Mind http://www.youtube.com/watch?v=EyOhUXsGqak&feature=related

  1975年生まれのローリン・ヒルは、ヒップ・ホップ、レゲエ、ファンクのグループ、フージーズのメンバーだ。いったんグループを解消して、ソロ活動をつづけていたが、現在は、再結成された。フージーズ The Fugees 「Killing Me Softly(やさしく歌って)」 http://www.youtube.com/watch?v=wIiMswvY6Go&feature=related

  ローリン・ヒル Doo Wop http://www.youtube.com/watch?v=WVpT-3wBNoQ&feature=related

  カルロス・サンタナとローリン・ヒルは共演をしている。http://www.youtube.com/watch?v=iwJ3u2wk0Ko&feature=related

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  サンタナとローリン・ヒルとシー・ラ  http://www.youtube.com/watch?v=dBpYM_f5zHs

  ローリン・ヒル(フージーズ)がカバーしていた、Killing Me Softly With His Song(やさしく歌って)は、1973年、ロバータ・フラッグの大ヒット曲。http://www.youtube.com/watch?v=-B1wdau8uHU&feature=related

                     665   近所の神社、狛犬の台座の犬(狐?)。 巻物をくわえている。

 イランのデモ騒動を報道しても、きのう中国であった暴動は、まったく伝えない日本のテレビ・ニュースが不気味だ。すでに、中国共産党政府の報道規制が、日本国内までおよんでいる、ということだろう。

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 17日からはじまった、中国湖北省石首市で起きた7万人規模の暴動では、軍隊が鎮圧に出動して、多数の死傷者がでているようだ。先月、5月23日には、広東省英徳市でも大きな暴動があって、武装警察が出動して、400人以上の犠牲者がでている。これもまた、日本のマスコミはまったく無視している。

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 ときどきテレビで、ドゥー・ワップ・グループをコピーしたような、日本のダンスつきのコーラス・グループをみる。(ドゥー・ワップ・グループは、リズム&ブルースのコーラス・グループのこと)。しかし、コーラスのテクニック、ダンスのかっこよさ、芸人としての徹底したサービス精神、どれも比べようもない。50年以上まえ、いかにかっこいいことをやっていたか、勉強してほしいものだ。ザ・フラミンゴスだ。http://www.youtube.com/watch?v=q6S__6GAOn4&feature=related

 あらゆるジャンルのダンスをみるのが好きなので、テレビのコンテスト番組をよくみる。ブレーク・ダンスというか、ヒップ・ホップ・ダンスというか、アクロバットようなダンスを披露してみせるチームもある。しかし、とうていアメリカ黒人のセンスと運動能力にはかなわない。70年もまえに、黒人若者はこんなかっこよく踊っていた。http://www.youtube.com/watch?v=mTg5V2oA_hY&feature=related

 このスイング・ダンスのスタイルは、消えたわけでない。いまも楽しんでいるひとたちがいる。http://www.youtube.com/watch?v=myJj0mNNe1Y&feature=related


レイ・チャールズの映画の監督は、カサブランカのビクター・ラズロだったのか

2009-06-20 | 日記・エッセイ・コラム

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  高校生のとき、帯広のオリオン座で、レイ・チャールズ主演の映画「星空 Ballad in Blue」をみた。同時上映が、ルイ・アームストロングの世界ツアーの記録映画「サッチモ、世界を回る」だった。この二本立て映画をみたことは、忘れられない新鮮な体験だった。1965年(昭和40年)ころのことだ。MTVもYouTubeもない、あの時代、あこがれのミュージシャンの動画をみるのは、驚きで、感動ものだった。http://www.youtube.com/watch?v=suSslTPipzM

  イギリス映画「星空」は、コンサート・ライブの記録映画ではなく、盲目の少年をレイ・チャールズが励ます、というストーリーのあるドラマだった。レイ・チャールズは、本人の役で出演して、ステージのシーンもたくさんある。きょう、この映画のことを調べていて、監督と脚本が、ポール・ヘンリードだと知った。ポール・ヘンリードは、「カアブランカ」でハンフリー・ボガート、イングリット・バーグマンと共演して、反ナチスの英雄、ビクター・ラズロを演じていた。

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 ダニー・マクラーキン牧師のゴスペルをもう一曲 Great Is You Mercy          http://www.youtube.com/watch?v=ODmHMKfD_iY&feature=related

674_2  夕暮れ、東京湾にでていく屋形船


もういちど、リー・オスカーのこと

2009-06-18 | 日記・エッセイ・コラム
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 1948年、デンマーク、コペンハーゲン生まれのリー・オスカーは、子供ときからラジオで聴くアメリカの音楽が好きだった。レイ・チャールズがアイドルだった。18才のとき、ハーモニカひとつをポケットいれて、憧れのアメリカに渡った。そして、ニューヨークのストリートでハーモニカを吹きはじめた。

 少年のときからのブラック・ミュージックへの憧れがつのって、ヨーロッパからアメリカに渡るのは、ウエザー・リポートのジョー・ザビヌルとよく似てる。そして、黒人ミュージシャンのなかの、ただひとりの白人メンバーとして、おなじバンドで長い年月活動する。そこも似ている。

 ザビヌルがアメリカにきたとき27才で、クラシックをきわめた音楽家だった。クラシックとジャズでピアノを弾き、ビッグバンドのアレンジもした。ドイツの音楽番組のプロデュースをして、放送のための作曲もやっていた。

 だが、リー・オスカーは、まだ18才で、ストリート・ミュージシャンからのスタートだった。アメリカ、カナダを流れて、ロサンゼルスでエリック・バードンに出会う。「朝日のあたる家」の大ヒットがあるアニマルズを解散して、エリック・バードンは、ロサンゼルスのクラブで歌いながら、つぎのバンドの構想をねっていた。リー・オスカーとセッションをして、ふたりはすぐに意気投合する。

 エリック・バードンは、リー・オスカーのハーモニカとサックスとのペアー・リードのバンドを考えつく。そして、ファンク・バンド、ウォーとリー・オスカーとの合体が実現した。エリック・バードン&ウォーだ。エリック・バードンはアルバム2枚でぬけるが、リー・オスカーはその後22年、ウォーのメンバーとして活躍する。日本でソロ活動をやっているときも、ウォーのメンバーだった。

 磯部優くんといっしょに観たリー・オスカーのライブは鮮烈に覚えている。

 リー・オスカー オフィシャル・サイト http://www.leeoskar.com/riderjam.html

 
Love Is All Around  

 

 

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 相良光紀くんが、世界中のストリート・シンガーが歌う Stand  By Me の映像を添付してくれた。http://www.youtube.com/watch?v=Us-TVg40ExM&eurl=http%3A%2F%2Flabaq%  


BURASは、田中聖人さんのユニット

2009-06-17 | 日記・エッセイ・コラム

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 田中やすおくんの甥(田中みのるくんの息子さん)がCDを制作した。http://www.hokkaido-nl.jp/detail.cgi?id=852 ブラス BURAS というユニットだ。音更町出身のKIYOTO(田中聖人)さんと北見出身Tizさんのふたり。ヒップホップだ。音はつぎのサイトで聴ける。http://www.myspace.com/kiyotofly (田中やすおくんは、最初の浜田省吾・北海道コンサート・ツアーのドラムスだった)。

Still Making History

 
 アナ・ポポヴィッチも、ジャイソン・リッチも、国内盤が発売になっていない。ショックだった。わたしは、音楽にかかわる仕事をやめてから、ブログをはじめるまで、20年ちかく、流行りのものをまともに聴いたことがなかった。唯一気にいっていたのは、エイミー・マンだった。そのエイミー・マンにしても日本ではまともに紹介されていないから、あまりに知られていない。アカデミー賞のセレモニーで歌うくらいのミュージシャンが、日本では、ほとんど無視されているのだ。

 きっとわたしが、レコード屋をやっている時代のレコード・メーカーなら、アナ・ポポヴィッチやジャイソン・リッチの国内盤を発売していた。そして、レコード・メーカーの宣伝マンは、ラジオ局や音楽誌への売り込みにかけずり回っただろう。

 アナ・ポポヴィッチのサイトに過去のスケジュールがのっていた。ヨーロッパ、アメリカをじつにこまかく回っている。ひょっとすると、日本にやってきて、東京か大阪の小さいクラブかライブ・スポットで演奏してるのじゃないか? 2004年までさかのぼって調べてみたが、来日していない。彼女の公式サイトには、来日の痕跡はない。

 いったい日本の音楽関係者は、なにをやっているのだろうか? 日本から売れ出して世界のスーパースターになった、クイーンの例をあげるまでもなく、かって日本は、洋楽、ポップスの流行の発信地であった。クラシックにおけるカーネギー・ホールのように、日本武道館でのコンサートは、世界のミュージシャンのステータスなっていた。もちろん、日本のお客のすぐれた感性があったからだ。それも、中学生、高校生もふくめた若者たちだ。そして、それは、レコード・メーカーやプロモーターのなかに、その音楽を情熱をもって紹介した人たちの存在があったからだ。ラジオ局や音楽誌のなにも熱い人たちがいた。この二十年あまり、金額だけは巨大に成長した音楽業界にあぐらをかいて、なにか大事なものを忘れているのじゃないか?

 

Done with the Devil

 ジャイソン・リッチのアルバムは、日本ではBSMFレコードが輸入販売している。http://www.bsmfrecords.com/index.htm

 もちろん、アナ・ポポヴィッチも、ジャイソン・リッチも、CDはアマゾンの通販で買うことができる。