Ommo's

古い曲が気になる

ピーター・ネロ、好きなピアニストだ

2011-06-30 | 日記・エッセイ・コラム

 

    ピーター・ネロ  Summer of '42 http://www.youtube.com/watch?v=-M7h3wtSG2k&feature=related

Greatest Hits
                  

 ピーター・ネロは、60年代のアメリカのスター・ピアニストだ。覚えているだろうか?

 80年代に、フランスのピアニストのリチャード・クレイダーマンが、よく売れたが、ピーター・ネロは、60年代のアメリカのポピュラー・ミュージックのスター・ピアニストだった。ジュリアード音楽院出身の人だが、ジャズ、ポップスのピアニストで、フィラデルフィア管弦楽団のメンバーを中心に結成したフィリー・ポップスというオーケストラを指揮している。

 クラシックのピアノの巨匠ウラジミール・ホロヴィッツがピーター・ネロの大ファンだったという。レイ・チャールズも絶賛していた。

 ピーター・ネロは、1962年度のグラミー賞最優秀新人賞を授賞した。翌年がフランスのコーラス・グループ、スイングル・シンガーズが授賞し、1965年の新人賞は、ビートルズだった。そんな時代だ。(いまジョン・レノンが生きていれば、71歳だ)

 ピーター・ネロは、77歳になるが、現在も現役だ。

   ピーター・ネロ Summer of '42 http://www.youtube.com/watch?v=qM8ZUyEWWcs&feature=related 

 Summer of '42 は、ミシェル・ルグラン作曲の映画音楽。邦題は、『思い出の夏』

                       

   ピーター・ネロが、コンサートのリハーサルのまえにウォームアップしてる映像がある。これがおもしろい。

 むかし、チック・コリア・コンサートの運転手をやって、リハーサルをみていたが、チック・コリアは、モーツァルトを、すさまじいスピードとパワーで弾いていた。「まず、自分ができる最高の速度で、最大のフォルテシモで弾く。それから私が解釈した曲に仕上げていく」、そんなようなことをいっていた。

     ピーター・ネロ リハーサル前のウォームアップ ショパン  http://www.youtube.com/watch?v=WNNSckbBiUc&feature=related

         ピーター・ネロ Night and Day http://www.youtube.com/watch?v=yBuwV2sYy94&feature=related

 


宍戸錠が、義妹ちあきなおみに復帰してくれ、とメッセージをおくった

2011-06-28 | 日記・エッセイ・コラム

                        

 中森明菜がデビューしたとき、『なんて歌のうまいアイドルの子なんだろう』と思ったものだ。レコード会社は、最初、中森明菜をアイドルとして売りだしたのだ。

 レコード屋だったわたしは、あまり自分でレコードを買うということはなかったが、中森明菜のセカンド・アルバム「バリエーション」を買って店のスタッフに不思議がられたものだ。たしか、娘に頼まれたとか、ヘタな言い訳をしたような記憶がある……。

 (レコード屋で、テスト盤が手に入るということもあるが、洋楽はべつにして、邦楽のLPを買うことなどなかったのだ……中森明菜と、ちあきなおみを除いて)

 一度、中森明菜のステージをみたいものだ、と長年思っていたのだが、体調が悪く、音楽活動をやめているという。残念だ。ぜひ、健康を回復して、復帰してほしい。

     中森明菜 天城越え http://www.youtube.com/watch?v=EkOXC8hKAW4

     中森明菜 スローモーション 少女A  http://www.youtube.com/watch?v=X9XxuP-YWpI

バリエーション〈変奏曲〉 AKINA NAKAMORI SECOND(紙ジャケット仕様)

       中森明菜 with 井上陽水・安全地帯  飾りじゃないのよ涙は http://www.youtube.com/watch?v=eAKgSkCVPo8&feature=related

                      

 先週号の週刊新潮で、宍戸錠が義理の妹・ちあきなおみに、「もう一度歌え!」とメッセージをおくっている。ちあきなおみの引退は、夫の病死が原因のようだが、その亡くなった旦那さんは、宍戸錠の弟・郷鍈治なのだ。

 宍戸錠の紹介で、ふたりは出会い結婚した。その最愛の夫のために復帰して、弟・郷鍈治へのレクイエムを歌え、と宍戸錠は書いてる。わたしも、宍戸錠の言葉に共感する。

 ちあきなおみは、1969年(昭和44年)に『雨に濡れた慕情』でデビューいらい所属していた日本コロムビアをはなれて、1982年、ビクター・レコードに移籍した。そのビクターから、1985年にアルバム『港の見える丘』を出した。わたしは、この古い歌謡曲をカバーしたLPに驚いた。歌のうまい人だな、とあらためて感動したのだ。

 わたしが東京に住むようになったころ、ちあきなおみは、ビリー・ホリデイを演じる一人芝居などでノッているときだった。ぜひライブをみたいと思っていたが、工員生活に四苦八苦しているあいだに機会を失い、旦那さんが亡くなって、ちあきなおみは、芸能界から姿を消してしまった。

 ちあきなおみの旦那さんが亡くなったのは、1992年。もう、19年もたってしまった。

港が見える丘(紙ジャケット仕様)


中森明菜が、好きだ

2011-06-27 | 日記・エッセイ・コラム

    

  中森明菜 「ラストダンスは私に」 http://www.youtube.com/watch?v=AUJSWeIyYT0&feature=related

   中森明菜 「東京ブギウギ」 http://www.youtube.com/watch?v=aIYwNkWH_qw&feature=related

 中森明菜は、ワーナー・パイオニアからデビューした。1982年(昭和57年)のことだ。

 ワーナー・パイオニアの大栗さんも、パイオニアの笹島くんも、若くして亡くなってしまった。中森明菜は、体調が悪いということで活動を休止している。残念だ。

中森明菜イースト・ライヴ インデックス23〈5.1 version〉 [DVD]

 

  


ひどく蒸す

2011-06-27 | 日記・エッセイ・コラム

444

 気温は22度くらいで低いのだが、ひどく蒸す。近所の八百屋のおかみさんは、「あすはもっと蒸すらしいですよ」という。

 最近、近所の八百屋やスーパーや、レンタル・ビデオ屋の店員さんと会話をかわす。ここに住んで、もうそろそろ5年、長く住んでいることもあるが、震災のあと、なにか人の気持ちが変化したのではないだろうか? 震災直後から、電車のなかで席をゆずり合う光景をよくみるようになった。

 

431

 

421

 近所の道ばたの花。

440

 まだ小さい柿の実。これが美しい。ベビー柿だ。枯れた花が実の先に残ってる。へソのオ、かな。

                                          


野口雨情・中山晋平の流行歌

2011-06-25 | 日記・エッセイ・コラム

        

 「シャボン玉」「赤い靴」、野口雨情・中山晋平の童謡の名曲は数あるが、ふたりが作った流行歌の名曲もある。わたしが好きなのは、「船頭小唄」と「波浮の港」だ。

    ちあきなおみ 波浮の港 http://www.youtube.com/watch?v=0sADUFPwqek&feature=related

    島津亜矢  船頭小唄 http://www.youtube.com/watch?v=0XEomYQEPo4&feature=related


すでに30年まえ、市川房枝さんは、菅直人を見限っていた

2011-06-25 | 日記・エッセイ・コラム

                        

 無能をさらし、国の復興をさまたげているのに、いっこうに辞めない、売国奴・菅直人。こいつの頭のなかには、国民の生活も、国家の復興もまるでない。おのれの権力欲だけだ。この無能が首相として存在することだけで、日本じゅうを覆う、この閉塞感と無力感は、あまりに重く暗い。異常だ。

 わたしは、一年まえ、ルーピー鳩山から、売国奴・菅直人に首相がかわったとき、「日本は、菅直人という不幸に耐えなくてはならない」と書いた。それが、これほど現実味をおびるとは……

 

 菅直人は、何かというと市川房枝さんの名前をだして、さも婦人参政権獲得に奮闘した市川房枝の高弟で、市川房枝の信任をえた後継者でもあるかのようなフリをするが、これも菅直人のウソだ。息をするようにウソをつく、売国奴・菅直人らしい姑息なウソだ。

 市川房枝さんは、菅直人の人間性を見抜いて、ひどく嫌悪していた。それが事実だ。テレビ・新聞は、菅直人側に都合のいい話しか報道しないから、大多数の国民は知らないのだろうが……。

87sai

 市川房枝さんは、「菅直人は、ずるいから、気をつけるように」と周囲にいっていた。それを文章にも残しているのだ。よほど菅直人に腹が立っていたのだろう。冷静な文を書く、市川房枝さんにめずらしい、激しい文章だ。

 市川房枝さんは、昭和52年(1977年)、『七月の参院選挙に対する私の立場』という文章であえて、菅直人の名前をだして、「推薦応援はしない」と書いてる。その文章を下に引用する。

                                     

 江田三郎氏が主唱した社会民主連合は無所属ではなく政党だが、その市民の側として私の四九年の選挙の際、事務長をしてくれた菅直人氏が「参加民主主義をめざす市民の会」の代表として参加し、東京地方区から立候補するようである。

 私は(菅直人が代表の)右の会にも関係なく、社会民主連合への参加や立候補について菅氏から何の相談も受けていないし、他の人たちと同様推薦応援はしないつもりである。

 菅氏は昨年十二月五日の衆議院選挙の際、東京都第七区から無所属候補として立候補した。この時は立候補を内定してから私の応援を求めて来た。彼等の意図は理解するが衆議院の無所属は賛成できないので推薦応援はしなかったが、五十万円のカンパと、私の秘書、センターの職員が手伝えるよう配慮し、「自力で闘いなさい」といった。

 ところが選挙が始まると、私の名前をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達にカンパや選挙運動への協力を要請したらしく、私が主張し、実践して来た理想選挙と大分異なっていた。然し彼等は七万票獲得、私の時と同様大いに意を強くしたであろうが、選挙を甘くみてはいけない。自分たちの小さい組織を強くし、先ず社会に貢献する運動をして積みあげるべきだと思うのである。この度の、社会民主連合で、組織のない、難しい市民団体の代表として果たしてうまくやれるかどうかと心配している次第である。(五・三〇)[『婦人展望』第二六四号 昭和五十二年六月]   『市川房枝集 第8巻』(日本図書センター 1994年) 145~146ページ

           

 つまり、市川房枝さんは、菅直人の裏切りにあい、政治家としても人間としても、まったく信用してなかったということだ。きっと市川さんが、もっとも菅を許せなかったのは、市川房枝の名を語って、菅自身の選挙のために金を集めたことだろう。菅直人が市川房枝さんを裏切った衆議院選挙のときから、市川房枝さんは、菅直人と決別しているのだ。

 市川さんが亡くなっていることをいいことに、いまも菅直人は、市川房枝さんの名前を利用して自分を権威づけている。とんでもないペテン師だ。

 婦人参政権運動の闘士、市川房枝さんは、菅直人の、権力を手にするために師をも裏切る、デタラメな人間性を看破して、菅直人を忌み嫌っていたのだ。

市川房枝自伝〈戦前編(明治26年5月-昭和20年8月)〉 (1974年)

市川房枝―私の履歴書ほか (人間の記録 (88))


シドニー・ポワチエとハリー・ベラフォンテは、偉人だ

2011-06-24 | 日記・エッセイ・コラム

                

 クックさんがコメントで書いているように、シドニー・ポワチエは、偉人だ。わたしになかで、シドニー・ポワチエとハリー・ベラフォンテは、偉大な黒人アーティストだ。

Poitier_belafonte_heston_civil_righ

   ハリー・ベラフォンテ Banana Boat Song http://www.youtube.com/watch?v=RfxX1GjIZtA&feature=related


メキシコ・オリンピック、ふたりのメダリストを、覚えてます?

2011-06-23 | 日記・エッセイ・コラム

                       

 シドニー・ポワチエが、白人生徒と対峙する黒人教師を演じた『いつも心に太陽を』は、1967年(昭和42年)の封切りだった。この時代は、公民権法が成立したが、まだアメリカでは厳しい人種差別があって、黒人たちの激しい差別反対運動があった。マルカムXなどの回教徒に刺激された若者たちのなかには、ブラックパンサーなど武装化するグループも登場して、やたら過激になっていった時代でもあった。

 メキシコ・オリンピックの陸上200mの表彰式で、金メダルのトミー・スミスと銅メダルのジョン・カーロスが、黒人差別に抗議して、黒い革手袋の手を突きあげたのは、1968年(昭和43年)のことだ。

 オリンピックを政治パフォーマンスにつかったということで、ふたりのベダリストは、即日選手村を追放になり、陸上選手としてオリンピック競技から永遠に追放になったが、ふたりの映像が世界に与えた衝撃は大きい。アメリカの黒人解放史に永遠に残る映像だろう。

Tommiesmith20johncarlosmexicomessic

86ff09170a5246a8a99e8b59ec4bf020

 メキシコ・オリンピックのふたりのメダリスト。黒い革手袋のゴールドメダリスト、トミー・スミスは、現在、大学教授だ。


シドニー・ポワチエを知ってますか?

2011-06-22 | 日記・エッセイ・コラム

                 

  ひさしぶりに陽が射す明るい日だ。ずっと雨と曇天がつづいていたから、暑いが心地はいい。太陽の力だね。

 そんなわけで、きょうは、ルルのことから……

     ルル To Sir With Love http://www.youtube.com/watch?v=sczEBtOnD3k&feature=related

From Crayons to Perfume: Best of

 1964年(昭和39年)にデビューしたルルは、いまもステージ、テレビで活躍するイギリスのビッグ・シンガーだ。ルルを世界的スターにしたのは、映画『To Sir With love (邦題 いつも心に太陽を)』の大ヒットだ。ルルは、この映画のテーマソングを歌い、自らもハイスクールの生徒役で出演している。

  

 映画『いつも心に太陽を To Sir With Love 』は、1967年(昭和42年)の大ヒット・イギリス映画だ。そして、その後の学園物の映画・ドラマに与えた影響がもっと大きい、歴史的ハイスクール映画なのだ。

 ルルが歌ったテーマソング To Sir With Love は、イギリスだけじゃなく、アメリカでも大ヒットした。ビルボード誌のポップス・チャートで5週間№1だっただけじゃなく、1967年の年間ベスト・ソングの№1に選ばれた。(これはビートルズをおさえて、アメリカで売上№1の曲だったということだから、1967年としては、じつにすごいことなのだ)。

         

 映画『いつも心に太陽を To Sir With Love 』は、ロンドン下町の荒れたハイスクールに、教育の理想に萌える、正義の教師が赴任して、ひにくれ悪ガキどもを、改心・更生させて、いい子にする、という話だ。

        

 ところが、この心やさしい、熱意の、善意の、誠実な教師が、黒人だ。ニガーだ。ここがこの映画が、衝撃に新しくて、大ヒットした所以だろう。アメリカの大統領が黒人のいまでは信じられないだろうが、1967年(昭和42年)は、まだアメリカではすさまじい黒人差別があったのだ。

 この映画はイギリス映画で、ロンドンが舞台だから、アメリカとは黒人差別の状況はかなり違うだろう。しかし、イギリスでも黒人が、白人ひにくれ悪ガキたちに、まともな教師と認められる時代じゃない。

To Sir With Love [VHS] [Import]

 ひにくれ悪ガキたちに誠実にむきあう教師を、シドニー・ポワチエが演じた。

U_s_presidentbarackobamapresentsmed

 『いつも心に太陽を』は、白人悪ガキを更生させる教師だが、この時代、シドニー・ポワチエ主演のヒット作は多い。『野のユリ』は、ポーランドか、そこのあたりからアメリカ南部の砂漠地帯にやってきた白人尼さんたちが、女手だけで石を組んで手作りで教会を造ってる。それを手伝う、黒人・流れ者の役だ。この映画では、『エーメン』と歌う曲がヒットした。

     『野のユリ』  Amen http://www.youtube.com/watch?v=rn6w255CGkk

Sidneypoitiermovie

            

 『招かざる客 Guess Who's Coming to Dinner 』は、黒人男と白人女のカップルの結婚話だが、この時代らしい状況だ。娘が、婚約者をディナーに連れてくる。婚約者のその男は、医師だ。

 娘が連れてきた、婚約者の医者は、黒人なのだ。娘の黒人婚約者に戸惑う父親の、名優スペンサー・トレイシーの演技がみごとだ。そして、なによりみごとなのは、母親役のキャサリン・ヘップバーンだ。(と、わたしは思う。むかし、封切りで一度みただけだが……)

Commingdinner

 

   映画『To Sir With Love  いつも心に太陽を』オープン・クレジット http://www.youtube.com/watch?v=flu63E4tvLQ&feature=related

 

 このルルのテーマソングで大ヒットした映画『いつも心に太陽を』は、そのあとのハイスクール物の映画に大きな影響を与えた。もちろん、この映画のまえに、『暴力教室 Blackboard Jungle 』がある。『暴力教室』は、ビック・モローが熱血教師だ。ビック・モローは、『コンバット』のサンダーズ軍曹だ。

 日本のテレビ・ドラマの、なんとか先生とか、いろいろの、悪ガキと、熱血教師の学園物は、このふたつの映画にインスパイアーされている。というか、パクリだ。

   Glee  To Sir With Love http://www.youtube.com/watch?v=3qc7sUtkQfM&feature=related

 To Sir With Love ( いつも心に太陽を)は、イギリスのソングライター、ドン・ブラックの作詞だ。ドン・ブラックには、映画やミュージカルの作品が数ある。マイケル・ジャクソンが歌った『ベン』のテーマソングも、ドン・ブラックの作品だ。

    マイケル・ジャクソン Ben  http://www.youtube.com/watch?v=cRTJ2xVr0PA&feature=related

 そして、シドニー・ポワチエの最大ヒット映画は、『 In the Heat of the Night  夜の大捜査線』だろう。黒人差別激しいアメリカ南部の田舎町の事件を、ニューヨークからやってきた黒人刑事が解決する、というお話だ。

 シドニー・ポワチエは、1955年には『暴力教室』で、最低の粗暴な黒人生徒を演じていたが、1967年の『いつも心に太陽を』では、最低の生徒を更生させる熱血先生になっていた。1955年の『手錠のままの脱走』では、トニー・カーティスと手錠で逃げる囚人だが、1967年の『夜の大捜査線』では、ニューヨーク市警のエリート刑事になっているのだ。

 『夜の大捜査線』は、レイ・チャールズの音楽がじつにいい。

   映画『夜の大捜査線』 レイ・チャールズ In the Heat of the Night http://www.youtube.com/watch?v=_kI_GkosWio

 

                

 


テン・イヤーズ・アフターには、40年すぎても心が騒ぐ

2011-06-21 | 日記・エッセイ・コラム

                      

 CCRが、ストレートの剛球で新鮮だったと書いたが、ストレートということでは、アルビン・リーのテン・イヤーズ・アフターも、グランド・ファンク・レイルロードも、そして、ジョニー・ウィンターも、ストレートの超剛球で、心地よかった。還暦をすぎたジジイの、いま聴いても、心が騒ぐ。

  テン・イヤーズ・アフター I Am Going Home http://www.youtube.com/watch?v=LFpfureaCVs

Undead

  

    グランド・ファンク・レイルロード Heartbreaker http://www.youtube.com/watch?v=uW3nPqPPBDw

On Time

                        

   ジョニー・ウィンター Be Careful With A Fool http://www.youtube.com/watch?v=8Tyg5SJDpiQ&feature=related

ライヴ(紙ジャケット仕様)

                  

 最近、携帯電話のテレビCMで、『ロコモーション』のカバーが流れる。『ロコモーション』は、1974年(昭和49年)、グランド・ファンク・レイルロードでリバイバル・ヒットして全米№1になった。日本でもよく売れた。オリジナルのヒットは、1962年(昭和37年)のリトル・エヴァだ。もちろん、作曲は、キャロル・キングだ。

   グランド・ファンク・レイルロード The Locomotion http://www.youtube.com/watch?v=sSQOeQakExU&feature=related 

        リトル・エヴァ The Locomotion http://www.youtube.com/watch?v=C5OoQadZTPk

       キャロル・キング&スラッシュ The Locomotion http://www.youtube.com/watch?v=ehVaMey2e7A&feature=fvwrel

Welcome to My Living Room [DVD] [Import]


雨を見たかい……ジョン・フォガティが好きだ

2011-06-20 | 日記・エッセイ・コラム

                         

 CCR(クリーデンス・クリアーウォーター・リバイバル)には、雨にまつわるふたつの名曲がある。『フール・ストップ・ザ・レイン Who'll Stop The Rain 』と『雨を見たかい Have You Ever Seen the Rain? 』だ。

 『フール・ストップ・ザ・レイン Who'll Stop The Rain 』は、アルバム『コスモズ・ファクトリー』のなかの曲で、1970年(昭和45年)、シングルカットされたときは、『トラベリン・バンド Traverin' Bad 』のB面だった。

コスモズ・ファクトリー+3

   クリーデンス・クリアーウォーター・リバイバル Who'll Stop The Rain  http://www.youtube.com/watch?v=lIPan-rEQJA 

 最初わたしは、この曲をタイトルも曲名も書いてないテスト盤で聴いた。ジャケットは、安い画用紙のような粗末な白い紙。白いレーベルは、レコード番号がタイプされているだけの、いわゆる白盤、サンプル盤だ。もちろん、歌詞カードはない(はじめて聴く歌詞を理解する英語力はない)。

 そのテスト盤で聴いたとき、Fool Stop The Rain と聞こえた。『アホが、雨を止める……』とは、どういう状況なんだろ? 不思議な歌だな……と思ったものだ。

 空耳ではなく、きっと、ビートルズの Fool On The Hill からの連想で Fool Stop The Rain と歌っていると思ってしまったのだろう。

 ビートルズの『フール・オン・ザ・ヒル Fool On The Hill 』は、1968年(昭和43年)発売のアルバム『マジカル・ミステリー・ツアー』に入っている、ポール・マッカートニーの曲だ。シングル盤ではなく、17センチ33回転の‘コンパクト盤’といわれる6曲入りのレコードでも発売された。

   ビートルズ Fool On The Hill http://www.youtube.com/watch?v=8KkGVccgJrA

 『フール・オン・ザ・ヒル』は、ブラジルのグループ、セルジオ・メンデス&ブラジル'66 のカバーも大ヒットした。これも1968年(昭和43年)の発売だ。

   セルジオ・メンデス&ブラジル'66    Fool On The Hill http://www.youtube.com/watch?v=OzP-KvfC8QQ

            

 CCRのもうひとつの雨の名曲、『雨を見たかい Have You Ever Seen the Rain? 』 は、日本でもっとも売れたCCRのシングル盤だそうだ。たしかに、わたしのレコード屋でも爆発的に売れた。アルバム『ペンデュラム』もよく売れた。お客さんは、高校生、中学生たちだった。いまはみんな五十代だろう。

    クリーデンス・クリアーウォーター・リバイバル Have You Ever Seen the Rain?(雨を見たかい) http://www.youtube.com/watch?v=TS9_ipu9GKw 

           

ペンデュラム+3

 CCRのほとんどすべての曲を書き、歌い、レコードのプロデュースとアレンジをやっているのは、ジョン・フォガティだ。ジョン・フォガティは、まちがいなく、20世紀アメリカの偉大なミュージシャンのひとりだ。

Ccr20070726221558

John_fogerty

          CCR   Susie Q  http://www.youtube.com/watch?v=1mxaA-bJ35s

 ジョン・フォガティの作る音楽はとてもサザンっぽいが、ジョン・フォガティは、カリフォルニア州バークレーの出身なのだ。子供ころから、南部のブルースやロックンロールやカントリー・ミュージックが好きでコピーしたという。CCR 最初のヒットは、『スージーQ』(1968年)だが、このオリジナルは、1957年にリリースされた、ルイジアナのロックンローラー、ダル・ホーキンズ(1936~2010)の曲だ。

    ダル・ホーキンズ Susie Q http://www.youtube.com/watch?v=_wq2f_X_6Nk&feature=related

 1969年の『プラウド・メアリー』もまた、ジョン・フォガティ作の名曲のひとつだが、アルバム『バイヨー・カントリー Bayou Country 』でこの曲をはじめて聴いたとき、南部の古いブラック・ミュージックか、古いカントリー・ミュージックのカバーかな、と思ったものだ。わたしには、それほどサザンっぽい曲だった。クレジットでジョン・フォガティのオリジナルだと知って、すごいミュージシャンだな、と感心したものだ。

 サイケデリック・ロックだのアシッド・ロックだの、ニュー・ロックだの、アート・ロックだのさわがしいとき、ジョン・フォガティの音楽の、ストレートの豪速球は、じつに新鮮だった。

    CCR    Proud Mary http://www.youtube.com/watch?v=0ROalKnVZfU

Bayou Country (Dig)

 ジョン・フォガティは、現在、66歳だ。

   ジョン・フォガティ Who'll Stop The Rain  http://www.youtube.com/watch?v=sVD6lEyQs5c

   ジョン・フォガティ Have You Ever Seen the Rain? http://www.youtube.com/watch?v=SCQ6XmsJ8tE&feature=related

              

   ジョン・フォガティ オフィシャルサイト  http://www.johnfogerty.com/


『君恋し』の作詞者、時雨音羽は、北海道・利尻島出身

2011-06-19 | 日記・エッセイ・コラム

                                  

 歩いているといろいろ考えはめぐるのだが、野口雨情から、なぜか時雨音羽を連想した。時雨音羽(しぐれおとわ 1893~1980)は、北海道出身の作詞家だ。利尻島の沓形(くつがた)に生まれた。沓形小学校をでて沓形町の役場に勤めていたが、19歳のとき上京して検定に合格して日本大学法学部に入学する。大学卒業後は大蔵省主税局に勤めていた。

 大蔵省に勤めながら詩を発表し、1928年(昭和3年)、中山晋平が作曲した『出船の港』が藤原義江の歌でヒットする。これを機に、時雨音羽は、ビクターレコード(日本ビクター蓄音機株式会社)に文芸顧問として迎えられた。大蔵省の役人から、流行歌の作詞のプロになったわけだ。

 時雨音羽は、生涯1500曲以上の作詞作品があるといわれる。校歌、民謡も多い。流行歌でいまも知られているヒット曲は、なんといっても、『君恋し』だろうか。

 『君恋し』は、1961年(昭和36年)、フランク永井の歌で大ヒットした。わたしは、小学の高学年になっていたのでよく覚えている。だが、これはリバイバル・ヒットだったのだ。最初のヒットは、1928年(昭和3年)のことだ。浅草オペラのスター、二村定一の歌でヒットしていたのだ。

 オリジナルはまだ古い。二村定一のヒットの2年まえ、作曲者の佐々紅華(ささこうか)によって東京レコードで録音された。それを時雨音羽が歌詞を変えリメイクして大ヒットしたのだ。そして、30数年後、寺岡真二のアレンジで、『君恋し』は、またよみがえった。それがフランク永井の『君恋し』だった。

 またいつか、才能あるアレンジャーと歌手の力で『君恋し』は、よみがえることだろう。時代をこえて何度も大ヒットした曲は、いつの時代でも人々の心をゆさぶる、そういう強烈な力を秘めているものだ。

                   

        二村定一 『君恋し』 http://www.youtube.com/watch?v=wbNF8YOQA3c

   藤山一郎&フランク永井 『君恋し』 http://www.youtube.com/watch?v=etVBKBczd6I

   フランク永井&ニニ・ロッソ 『君恋し』 http://www.youtube.com/watch?v=cTAR3mJRDeA

 時雨音羽の年譜は、利尻町役場のホームページにくわしい。下のページの『添付資料:時雨音羽年譜』をクリック。

  利尻町役場 どんと詩人時雨音羽年譜 http://town.rishiri.jp/modules/pico2/index.php?content_id=83

Kkq72101

                       

  ちょうどいま頃の季節、高校一年とき、ひとりで利尻島にでかけた。利尻岳に登ったり、夜釣りをやったり、島を一周したりして、一週間沓形に泊まっていた。その沓形が、作詞家・時雨音羽の生まれ育った町だ。

 町のほとんどが焼けた大火から復興したばかりで、町じゅう新築の家がならぶ、不思議な光景の港町だった。町のはずれに『どんと どんとどんと 波乗り越えて~』の、出船の港の歌碑がある。その歌碑のところからみる利尻岳は、じつに美しい。 

Qsu8wwj4


雨ふりといえば……雨降りお月さん、かな

2011-06-18 | 日記・エッセイ・コラム

                                    

    Raindrop keep Fallin' On My Head  (雨にぬれても) http://www.youtube.com/watch?v=uBV9_QzUPac                     

 60年代70年代の洋楽に、雨にまつわるヒット曲がいろいろある。ポール・ニューマンが主演した名画『明日に向かって撃て』の挿入歌『雨にぬれても Raindrop keep Fallin' On My Head 』がある。これは巨匠バート・バカラックの曲だ。そして、70年代、ホセ・フェリシアーノの『 Rain  雨のささやき』があり、CCRに2曲の雨の名曲がある。その話をしたいが……そのまえに。

 その話のまえに、きょうは、野口雨情。

 野口雨情の、雨の童謡で好きなのは、『雨降りお月さん』だが、いま冷静に聴くと、寂しく、子供が歌うためには、不思議な歌詞だ。作曲は、中山晋平。

    雨降りお月さん http://www.youtube.com/watch?v=q7T7tudCI_Y&feature=related 

    岩崎宏美  雨降りお月さん http://www.youtube.com/watch?v=VhJTaB-Xh6w&feature=related

   


『雨に歌えば』は、1920年代の曲

2011-06-17 | 日記・エッセイ・コラム

                                        

 

10101766agenekellyposters

ジーン・ケリー

                              

 ミュージカル映画が好きなわたしには、ふたりの天才ダンサー、ジーン・ケリーとフレッド・アステアは、神だ。このふたりのことは、また近いうちに話すことにして……きのうからのつづき、雨の曲のはなし。

 1952年(昭和27年)の、映画『雨に唄えば Singin' In the Rain 』は、歴史に残る傑作ミュージカル映画だ。だが、このタイトルにもなっている有名な曲は、この映画で初めてつかわれたわけじゃない。もっとずっと古い曲なのだ。

 (だから、このミュージカル映画が封切られたときはすでに、Singin' In the Rain は、アメリカの観客にとって、なつかしい馴染みの曲だった。と、わたしは推測している。それは映画『カサブランカ』の有名な挿入歌、『As Time Goes By (時の過ぎゆくままに)』の場合と似ている。と、わたしは思う。この曲も古い。映画につかわれる10年以上まえ、ブロードウェーのショーで歌われてヒットした曲だ。

 『カサブランカ』が制作されたのは、1942年(昭和17年)、この曲が作曲されヒットしたのは、1931年(昭和6年)のことだ。だから、映画が封切られたとき、この曲は、観客のよく知ってる、古い、なつかしいヒット曲だったはずだ。と、わたしは以前から思っていた。『ノッティングヒルの恋人』に、Ain't No Sunshine や She がつかわれたように。そのことはいずれ書くとして……)

 この傑作映画『雨に唄えば Singin' In the Rain 』は、MGMの敏腕プロデューサー、アーサー・フリードの制作だ。アーサー・フリードは、ヒット映画のプロデューサーだが、若いときは音楽で食べていた。プロ・ミュージシャンのはじめは、ティンパンアレーやブロードウェーのピアニストで、作詞家でもある。作曲家のナシオ・ハーブ・ブラウンと組んでブロードウェー・ミュージカルのヒット作をいくつも書いている。

 プロデューサーのアーサー・フリードは、自身が作詞をして、ナシオ・ハーブ・ブラウンが作曲してヒットした、過去の曲をつかうミュージカル映画を企画したわけだ。新曲を発注する予算は節約できるし、なにより、眠っていたじぶんの曲が、また著作権使用料を稼ぎだしてくれる。

 かなりイージーで、地位を利用した身勝手な企画のようだが、これが、天才振付師・ジーン・ケリーの振り付けとダンスで、みごとなミュージカル映画になって全世界で大ヒットした。このみごとなキャスティングこそが、アーサー・フリードの大プロデューサーたるところかな。会社は大儲け、作詞家としてのじぶんの懐にもガッポリ、親友の作曲家も大金持ち。あの名シーンで、天才ダンサー、ジーン・ケリーは、永遠の命を生きる。

                    

 Singin' In the Rain (雨に唄えば)は、1927年(昭和2年)ころすでにブロードウェーのショーで歌われていたというが、著作権登録されたのは、1929年(昭和4年)のことだ。トーキーのミュジカル映画『ハリウッド・レビュー・オブ・1929 The Hollywood Revue of 1929 』のなかで歌われ、フィナーレにもつかわている。

Hollywoodrevue

 1929年版のSingin' In the Rain 、ウクレレを弾いて歌うのは、クリフ・エドワーズ。3人の女性は、ブロックス・シスターズ。カナダ出身の姉妹のコーラス・グループだ。20年代30年代、抜群の人気があった。歌は、じつにうまい。半世紀まえのキャンディーズかな。

 この1929年のSingin' In the Rain もメチャクチャかっこいい。と、わたしは思う。音楽もダンスも、十分いまに通用する。というより、もっと何か、いまの音楽シーンが失った、洗練されたセンスがある。この映画をオリジナルの鮮明な映像でみたいものだ。

    クリフ・エドワーズ&ブロックス・シスターズ Singin' In the Rain http://www.youtube.com/watch?v=7GdN_NncZkM

Broxsisters1929hollywoodrevueof1929

 この『ハリウッド・レビュー・オブ・1929』が制作された、1929年(昭和4年)は、トーキーのミュージカル映画が最初に登場する年だ。この映画では一部カラーなのだ。フィナーレのSingin' In the Rain は、カラー映像だ。

 (トーキー talkie とは、音声がある映画のこと。talking picture のことだ。それまで映画に音は無かった。無声映画・サイレント映画だ。

 トーキーの最初は、音はレコード盤に記録して再生し、映写機のフィルムと同期させて上映した。だが、映像と音を合わせて再生するのは、なかなか難しい。すぐに、フィルムそのものに音声信号を記録する、光学方式が採用された。

 このフイルムで、音声が記録されている部分を、サウンドトラックという。ここから、その映画に入っている音楽やセリフのレコード盤を『サウンドトラック』盤といい、日本では略して『サントラ』というようになったわけだ)

                      

    『ハリウッド・レビュー・オブ・1929』フィナーレSingin' In the Rain http://www.youtube.com/watch?v=fUba07FwXSw&NR=1

 バックの絵は、ノアの箱船だろうか、そこに虹がでて、200人の雨合羽のダンサーが踊り、出演したスターたちが歌う。ミュージカル・ショーのフィナーレらしい感動のラスト・シーンだ。(映画『コーラスライン』もこんなふうに終わる。宝塚のショーもこんな感じのフィナーレかな。 テレビでしかみてない。生きてるあいだに、ぜひ一度、宝塚の舞台をみたい!と、いつも思う)

Sjff_04_img1484

 Singin' In the Rain (雨に唄えば)の作曲者・ナシオ・ハーブ・ブラウン(1896~1964)と、作詞のアーサー・フリード(1894~1973)。このアーサー・フリードが、ミュージカル映画の傑作、あのジーン・ケリーの雨のダンスシーンの、映画『雨に唄えば』のプロデューサーなのだ。

                                     

      映画『カサブランカ』 “Play it, Sam” As Time Goes By http://www.youtube.com/watch?v=7vThuwa5RZU&feature=related

          

 トーキー映画のフィルム。右側のギザギザ部分が、音声が記録されているサウンドトラック。

Film

 光学式のサウンドトラック方式には、ふたつの方式がある。濃淡で音声信号を記録する方法と、上のフイルムのように波状に音声を記録する方法だ。いずれにしても通過する光を感知して音を再生する。レコード盤とおなじアナログだ。

420pxopticalfilmsoundtrack_svg

 もちろん現在では、この光学アナログ方式をつかってない。とうぜん、デジタルなのだ。これもふたつの方式がある。ひとつは、従来の光学アナログと同様にフィルムのサウンドトラックにデジタル信号を載せる方法だ。

 そして、もうひとつは、フィルムのサウンドトラックには同期信号 time-code しか記録せず、音声そのものは別のCD盤にデジタル録音されている。フィルムの信号に同期してCD-ROMから音声が再生される。これが一番新しい方式なのだから、おもしろいね。

 100年以上まえ、1900年代の初頭、最初に実用化されたトーキーのシステムと最新システムが同じだ。音声は、フィルム面とは別の、レコード盤に記録して、映写機と蓄音機がシンクロされて、セリフと音楽のある映画が上映された。

Soundtrackonfilmsmall

  上の図が、最近の劇場用35ミリフィルムの端っこの拡大。このいずれかの方式をつかっている(アナログ・サウンドトラックは、for backup とあるから光学アナログ映写機にも対応できる、ということかな?)。右端のDTS(デシタル・シアター・システム)Time-code が、CD-ROMの同期コード。

 わたしは、むかし、映画の興行もやっていたので、映画館の映写室に出入りして、映画の35mmフィルムはみている。だが、デジタル時代になったフィルムはみたことがない。SDDS やドルビーデジタルやDTSのトラック は、この図ではじめてみた。

 

   


きょうもまた雨ふりだが……雨に唄えば

2011-06-16 | 日記・エッセイ・コラム

                             

 また、雨だ。夕方になると雨がシトシト降ってくる。梅雨だ。しょうがない。だが……雨は嫌いじゃないが、毎日のようでは気分は沈む。ことしの梅雨は、いまのところ涼しいのでまだ救われる。しかし、気は許せない。先は長い。敵も、このままでは引きさがらないだろう。やがて、高温でムンムン・ムシムシの、耐えがたい雨の日が続くはずだ。7月の28日まで梅雨が明けない年もあった。さて、ことしはどうなるか。

                      

 18歳のとき、はじめて十勝を出て札幌に住んだ。驚いたのは、おなじ北海道でも、十勝と札幌では、ずいぶん気候がちがうことだった。札幌では、6月から7月にかけて、すこし梅雨っぽい時期がある。(アカシアの花が咲くころ、冷たい雨の日がつづく)。初夏の抜けるような青空の晴天がつづく十勝では体験したことがない季節感覚だった。

 そして、なにより違和感があって憂鬱だったのは、冬だった。札幌では、午後になると、街の西側に連なる低い山脈に雲がかかり、雪がちらつき出して、日暮れにむかってどんどん本降りになっていく。これが冬のあいだ、毎日のようにつづく。その雪は、十勝の雪とちがって湿って重い。

 日本海がすぐ近くだから、海からの湿った大気が、午後には陸地をめざして流れこみ、藻岩の山波にぶち当たって、雪になって札幌の街に降るのか。マイナス25度の超低温地帯だが、乾いて晴天がつづく十勝の冬で育ったわたしには、なんとも気の滅入る札幌の暗い冬だった。

 北海道のなかで、札幌は豪雪地帯といっていいのではないだろうか。冬の新潟にいったことがあるが、札幌の雪質とよく似ている。ダイアモンドダストは漂うが、サラサラのパウダースノーの十勝で育つと、日本海側の雪は、重く暗く、恐ろしい。

                          

 雪……ちがう、雨だ。雨の話だった……。

 雨の歌で陽気になれるのは、なんといっても、『雨に唄えば Singin' In the Rain 』だろう。MGM映画の傑作ミュージカルの『雨に唄えば』(1952年)の、ジーン・ケリーのダンスシーンは、永遠に残る名シーンだ。

    ジーン・ケリー Singin' In the Rain  http://www.youtube.com/watch?v=rmCpOKtN8ME

610_kelly_intro

 このジーン・ケリーの歌とダンスは、半世紀以上たっても色あせることはない。20世紀フォックスのテレビ・シリーズの『グリー glee』では、この名シーンへのリスペクトをこめて今風に踊り歌われる。

           グリー Umbrella/Singin' In the Rain http://www.youtube.com/watch?v=dbZcYy6AAGg&feature=related

雨に唄えば 50周年記念版 スペシャル・エディション [DVD]