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古い曲が気になる

「Killing Me Softly with His Song やさしく歌って」

2019-07-31 | 日記・エッセイ・コラム


ロバータ・フラックの二枚目の全米ナンバー1「Killing Me Softly with His Song やさしく歌って」(1973年)のオリジナルは、ロリ・リーバーマン。ドン・マクリーンのライヴに感動したロリ・リーバーマンは、“Killing me softly with his blues”という詩を書いた。blues を songと変えて、プロフェッショナルなソングライター・チームのノーマン・ギンベルとチャールズ・フォックスが曲を完成させた。ロリ・リーバーマンのレコードはヒットしなかったが、この曲を聴いたロバータ・フラックは、じつに三ヶ月スタジオにこもってレコーディングし、そして大ヒットした。(1968年のファースト・アルバムは、“The First Time Ever I Saw Your Face(愛は面影の中に)”を含めた8曲をたった10時間でレコーディングしていたが………)。



「愛は面影の中に」は1972年

2019-07-26 | 日記・エッセイ・コラム


ロバータ・フラックの「愛は面影の中に The First Time Ever I Saw Your Face」は、イギリスのイワン・マッコルが1957年につくった曲がオリジナルでキングストン・トリオやPPMなどフォーク・グループが好んでレパートリーにしていた。ロバータ・フラックは、黒人のデュオ、Joe&Eddieのバージョンを聴いていたという。この曲を含めて8曲が収まったロバータ・フラックのファースト・アルバムは10時間で録音され、1968年11月にリリースされた。それから3年、クリント・イーストウッドは初監督作品「恐怖のメロディPlay Misty for Me」のロマンティックなシーンに使う曲を探していた。そのとき、カーラジオでロバータ・フラックが歌う“The First Time Ever I Saw Your Face”聴いた。こうしてこの曲は、1972年4月全米ナンバー1のビッグヒットとなる。ロバータ・フラックは音楽とかかわって24年、33歳になって初めて商業ベースにのった成功を収めた。そして翌1973年2月、「やさしく歌って Killing Me Softly With His Song」が再びナンバー1になる。プロデューサーは、アトランティック・レコードのジョエル・ドーン。



「ラヴァーズ・コンチェルト」はバッハ?

2019-07-23 | 日記・エッセイ・コラム

ザ・トイズのヒット曲「ラヴァーズ・コンチェルト A Lover's Concerto」は、バッハの『メヌエット ト長調(BWV Anh.114)』のメロディをつかっている。(近年の研究ではJ.S.バッハの作品ではなく、クリスティアン・ベツォールドの作曲らしいが………)。日本ではザ・トイズよりサラ・ヴォーンのバージョンのほうが馴染みがあるようだ。この『メヌエット ト長調』をつかった「ラヴァーズ・コンチェルト」は、ザ・トイズの20年前の40年代にフレディ・マーティン(Freddy Martin)オーケストラがレコーディングしているらしい。


「シェルブールの雨傘」と「イパネマの娘」

2019-07-19 | 日記・エッセイ・コラム


メキシコの曲「キエン・セラ」には英語の詞がつけられてヒットした。その曲「Sway」の英語の詞はノーマン・ギンベルが書いている。またノーマン・ギンベルは、フランスやブラジルの楽曲の英詞でも成功している。ミッシェル・ルグランのミュージカル「シェルブールの雨傘」のフランス語で歌われたメインテーマは、ノーマン・ギンベルの英語の詞で”I'll Wait For You"となり多くのシンガーがレコーディングをした。ブラジルのボサノバ、アントニオ・カルロス・ジュピンの「イパネマの娘」は、アストラッド・ジルベルトが英語で歌う部分はノーマン・ギンベルの詞。



「キエン・セラ」が「Sway」

2019-07-18 | 日記・エッセイ・コラム


日本でもトリオ・ロス・パンチョスの歌でヒットしたラテンのスタンダード「キエン・セラ」は、1953年、メキシコのルイス・デメトリオによって作られた。このスペイン語版のオリジナルが売れてすぐに英語の歌詞がつけられ、まずディーン・マーティンがレコーディングしてこれもヒットした。それが「Sway」、英語の作詞はノーマン・ギンベル Norman Gimbel。



「ラストダンスは私に」はドク・ポーマスの詞

2019-07-18 | 日記・エッセイ・コラム


エルビス・プレスリーの「サレンダー」の英語の歌詞(元歌はイタリア・ナポリのカンツォーネ)は、ドク・ポーマスが書いている。ドク・ポーマス Doc Pomus(1925-1991)は、プレスリーのヒット曲のほか多くのロックン・ロールの作詞をしている。ドリフターズの「ラストダンスは私に Save The Last Dance For Me」もドク・ポーマスの詞だ。”最後のダンスはぼくと踊ろう”と書くドク・ポーマスは、小児麻痺の影響で脚が不自由だった。
ドリフターズの「ラストダンスは私に」がヒットしたのは1960年、リードボーカルはベン・E・キング。ベン・E・キングは、この後ソロになり、1961年、「スタンド・バイ・ミー」が大ヒットする。






サラメシのDream

2019-07-17 | 日記・エッセイ・コラム


一年くらい前にも書いたが、NHK『サラメシ』の故人を偲ぶ「あの人が愛した昼メシ」のバックに流れる曲は、パイド・パイパーズが歌う"Dream" 。パイド・パイパーズは、トミー・ドーシー・オーケストラに属した8人組のコーラスグループからスタートして後に男3人、女1人という編成になった。若きシナトラもハリー・ジェームス・オーケストラからトミー・ドーシー・オーケストラに移籍してアイドル的スターになった。"Dream"の発表は1944年、作詞・作曲はジョニー・マーサー。





「帰れソレントへ」が「サレンダー」に

2019-07-16 | 日記・エッセイ・コラム


エルビス・プレスリーの15番目の全米ナンバー1、「サレンダー Surrender」(1961年)は、その50年以上まえ、1902年に作れらたイタリア・ナポリのカンツォーネ「帰れソレントへ Torna a Surriento」が元歌。ジャバッティスタ・デ・クルティスとエルネスト・デ・クルティスの作詞・作曲。「忘れな草 Non ti scordar di me」もクルティス兄弟の作品。エルビス・プレスリーのバージョンは、ドク・ポーマスとモート・シューマンが作詞と編曲。



「ストレンジャー・イン・パラダイス」はボロディン

2019-07-15 | 日記・エッセイ・コラム


トニー・ベネットが歌いジャズのスタンダードになっている「ストレンジャー・イン・パラダイス」は、ロシアの作曲家ボロディンの歌劇『イーゴリ公』の「ダッタン人の踊り」のメロディをつかっている。アレクサンドル・ボロディン(1833-1887)は医師で化学者。異色の作曲家だ。





「ブルー・ムーン」のドゥーワップ・バージョン

2019-07-12 | 日記・エッセイ・コラム


ロシアやイタリアの古い曲に英語の詞をつけて新しいアレンジでヒット曲をつくる。またライチャース・ブラザーズの「アンチェインド・メロディ」のように十年前に映画のためにつくられた曲をリメイクしてヒットする例もある。「ブルー・ムーン」は、1938年のリチャード・ロジャースとロレンツ・ハートの作品でジャズやカントリー&ウエスタンのスタンダードになっていたが、1961年、ピッツバーグ出身のマーセルズのドゥーワップ・バージョンが発売されて大ヒットした。プロデューサーは、ステュ・フィリップス。シェリー・フェブレーの「ジョニー・エンジェル」もこの人がプロデュース。





冷夏

2019-07-11 | 日記・エッセイ・コラム
いったい“地球温暖化”はどうなってしまったのか、7月になって二週、寒いくらいの天気がつづく。この天候とは何の関係もないが、なぜかライチャース・ブラザーズを聴いていた。

ライチャース・ブラザーズは、「アンチェインド・メロデイ Unchained Melody」が映画『ゴースト』(1990年)につかわれてリバイバルヒットしたが、60年代の日本でもよく売れた。ヒット曲は、1964年の「ふられた気持ち You've Lost That Lovin' Feelin'」、そして1965年は「アンチェインド・メロディ 」と「ひき潮 Ebb Tide」。プロデューサーはフィル・スペクター。





「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」は、「オー・ソレ・ミオ」

2019-07-09 | 日記・エッセイ・コラム


全世界で2000万枚以上売れたというエルビス・プレスリー最大のヒット曲「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」(1960年8月15日ビルボード・ナンバー1。全英8週連続ナンバー1)は、イタリアのカンツォーネ(ナポリ民謡)「オー・ソレ・ミオ」が元歌。1898年発表の「オー・ソレ・ミオ」は、作詞がジュヴァンニ・カプーロ、作曲はエドゥアルド・ディ・カプア。プレスリー・バージョンの英語の作詞は、アーロン・シュローダーとウォーリー・ゴールド。
エルビス・プレスリーは人気絶頂の1958年、特例措置をうけることなく、一兵士として西ドイツの米軍基地で軍務につき、1960年3月満期除隊した。こうして、腰をくねらせてロックン・ロールを歌うシンガーは、立派に国家に仕えたアメリカ人として尊敬を得る。この曲"It's Now or Never"は、エルビス・プレスリーが除隊直後に録音したアルバムからのシングル・カットで、ラジオのイージーリスニング局が初めてエルビスの曲をオン・エアーして大人のファン層を獲得することになる。プロデューサーは、スティーヴン・H・ショールズとチェット・アトキンス。録音はRCAのナッシュビル・スタジオ。