ボニー・レイト&ノラ・ジョーンズ Tennessee Waltz http://www.youtube.com/watch?v=zzDUi_L6MzA&feature=related
21歳でデビューしたボニー・レイトも、ことし62歳。
4月10日、ボニー・レイトは、19枚目のアルバム Slipstream を発売する。スタジオ録音は、7年ぶりのことだ。
ボニー・レイトは、カントリー・ブルースのスライドギターを弾くブルースシンガーというだけではない。狭いジャンルではなく、アメリカのポップ・ミュージックの王道を歩いてきたのだ。
アデルなど多くのシンガーがカバーしている I Can't Make You Love Me は、ボニー・レイトが歌ってヒットした曲だ。
ボニー・レイト I Can't Make You Love Me http://www.youtube.com/watch?v=gMAvKt-s_Fs
アデル I Can' Make You Love Me http://www.youtube.com/watch?v=sLfWPLLn-QI
ジョージ・マイケル I Can' Make You Love Me http://www.youtube.com/watch?v=TEOKJe3QqoE&feature=related
当時、1970年代初頭、白人の若い女性がカントリー・ブルースのスライド・ギターを弾いてメジャー・デビューすることは、じつに画期的で注目すべきことだが、日本では、ほとんど話題にもならなかった。しかし、北海道・帯広の、わたしのレコード店ではよく売れた。そして、学校帰りに試聴していく、中学生や高校生たちもたくさんいたのだ。
ギターだけでない。ボニー・レイトの歌は心に響く。ブルースを無理して黒人っぽい声では歌わない。カントリー・ミュージックの歌唱表現にちかいだろうか。(白人と黒人では、声帯の筋肉組織の質と構造が、おそらく根本的にちがう。白人は、白人らしい声質でブルース表現するのがいい。なにも日本の自称ブルースシンガーのように、作り声の野太いダミ声で怒鳴ることはない。日本人は、日本人らしい、透明感のある、細い美声でブルースを歌うといいのだ)
スライド・ギターを弾き、真っ黒いカントリー・ブルースを歌っても、ボニー・レイトには、ある気品がある。それが、ボニー・レイトの魅力だ。
1949年(昭和24年)、ボニー・レイトは、カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれた。父は、ブロードウェイ・ミュージカルのビッグ・スターで、ハリウッド映画でも主役を演じたジョン・レイト、母のマージョリー・ヘイドックは、ピアニストだ。
ボニー・レイトの父、ジョン・エメット・レイト。
ジョン・レイトは、1940年代、ニューヨーク・ブロードウェイ・ミュージカルのヒット作「ラ・マンチャノの男」「屋根の上のバイオリン弾き」「その男ゾルバ」「南太平洋」などで主役を演じて、人気のスターだった。そして、50年代にはハリウッドでも活躍し、ドリス・デイと共演したミュージカル映画「パジャマ・ゲーム」はヒットした。
ジョン・レイトとドリス・デイ。
ただシンガーだけではない、この「パジャマ・ゲーム」で歌われる曲、 Hey There などを書いているのも、ジョン・レイト。ボニー・レイトの父さんだ。
ジョン・レイト Hey THere http://www.youtube.com/watch?v=dJJcDSZjxrk&feature=related
ボニー・レイトと、父ジョン・レイト。
ジョン・レイト&ボニー・レイト It's Wonderful http://www.youtube.com/watch?v=pmyBA2xPN4g&feature=related
ジョン・レイト&ボニー・レイト Broadway Melodies http://www.youtube.com/watch?v=kbf0nEUoWE8&feature=related
ブロードウェイ・ミュジカルとハリウッド映画のスター・シンガーの娘が、ブルースを歌ってデビューするというのがおもしろい。ボニー・レイトは、8歳からギターを弾きはじめたというが、「ブルースを歌って職業にするなど、まったく考えになかった」という。「両親ともミュージシャンだったから幼いときから音楽に親しんでいたが、クエーカー教徒の家庭に育った女の子に、ブルースを演奏するという発想はなかった」というが……
しかし、同級生の証言では、高校生のときすでに、ボニー・レイトのギターの腕はプロレベルだった、という。
ボニー・レイトは、ハーバード大学ラドクリフ・カレッジに入学して、アフリカ研究を専攻する。そこで、大学の友人からディック・ウォーターマンを紹介される。ディック・ウォーターマンは、ブルースのプロモーターで写真家だ。
ディック・ウォーターマンは、ボニー・レイトをサン・ハウスやハウリン・ウルフやジュニア・ウエルズなど黒人ブルーマンたちに会わせ、ボストンのコーヒーハウスやクラブでのセッションに参加させたのだ。こうしてボニー・レイトは、黒人ブルースメンのなかで研鑽をつんでいくことになる。
1971年(昭和46年)、ボニー・レイトのデビューアルバムが発売されたとき、わたしもレコード屋デビューしたばかりのころだったから、とくに印象深いミュージシャンのひとりだ。
それに、ボニー・レイトの日本国内盤は、ワーナー・パイオニア(現ワーナー・ミュージック・ジャパン)から発売された。ワーナー・パイオニアもまた、できたばかりの会社だったのだ。アメリカのワーナー・ブラザースと日本のパイオニア、そして、渡辺プロダクションが出資してつくられたレコード会社だ。
ワーナー・パイオニアは、1970年(昭和45年)に創業した。できたばかりの北海道営業所では、たった二人の営業マンが広い北海道全域をカバーしていた。道東・道北担当は、大栗さんだった。
誕生したばかりのレコード・メーカー、ワーナー・パイオニアの道東担当、大栗さんもまた、レコードの仕事ははじめてだった。わたしたちは同じ歳ということもあって、気があった。「新譜の、ボニー・レイトのデビュー・アルバムを売りたいね」と、大栗さんと話したことを思い出す。(もう、40年も前のことになってしまうのか……)
ワーナー・パイオニアの大栗さんとは、レコードメーカーの営業マンと小売店の仕入れ担当という関係をこえて、わたしがレコード屋をやめたあとも、友人としてつき合っていた。だが、悲しいことに、大栗さんは、まだ45歳にもならない年齢で亡くなった。
ボニー・レイト&ダジ・マハール on the Today Show! http://www.youtube.com/watch?v=VpsRV4A-0jM&feature=related
ボニー・レイト&アリソン・クラウス Papa Come Quick http://www.youtube.com/watch?v=qecodpVYAJo&feature=related