Ommo's

古い曲が気になる

アメイジング・グレイス

2012-03-29 | 日記・エッセイ・コラム

 

アメイジング・グレイス [DVD]
                 

 世界でもっとも有名な folk hymn(大衆聖歌?)といわれる「アメイジング・グレイス」、日本の歌手も好んで歌うこの曲も、神(God)の恵みをたたえるゴスペル・ソング(キリスト教の聖歌、讃美歌)だ。けっして、イスラム教徒は歌わないだろう。とくにアメリカのクリスチャンに愛唱されている讃美歌だ。

 1779年に出版された歌詞は、ジョン・ニュートンによって書かれた。元イギリス海軍のジョン・ニュートンは、黒人奴隷たちをアフリカからアメリカに輸送する奴隷船で財を成した。だが、嵐で難破して命からがら助かる。この海難事故で神の慈悲にめざめて回心し、奴隷貿易をやめて、イギリス国教会の司祭になるわけ。

Amazing Grace !  アメイジング・グレイス!(素晴らしき神のお恵み)
How sweet the sound      なんと優しい響きだろう 
That saved a wretch like me ! それは わたしのような悪党も 救ってくださった!

 奴隷商の過去を深く恥じていることが、 That saved a wretch like me という歌詞に反映している。“私のように見下げはてた者(悪人、悪党)も、(神は)救ってくださった”   

   エルビス・プレスリー Amazing Grace http://www.youtube.com/watch?v=B3XdXEJEI4E

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ゴスペル・ミュージック

2012-03-28 | 日記・エッセイ・コラム

 

How Great Thou Art
                     

     エルビス・プレスリー Where No One Stands Alone http://www.youtube.com/watch?v=4geGdnvh2yY&feature=related

 エルビス・プレスリーが歌う Where No One Stand Alone は、ラブソングではない。ゴスペル・ソングだ。

 “ある夜、孤独に打ちひしがれた”、その状況の説明から歌いだす、この歌の your face のyour は、恋人ではなく、ジーザス(イエス・キリスト)のこと。 Take my hand (私の手をとって)、 the great unknown へ導いてください(ジーザス=イエス様)。そこでは、だれも、ひとりぼっちじゃない………そんなような歌なのだ。

Once I stood in the night
With my head bowed low
In the darkness as black as could be
And my heart felt alone and I cried oh Lord
Don't hide your face from me

Like a king I may live in a palace so tall
With great riches to call my own
But I don't know a thing
In this whole wide world
That's worse than being alone
Hold my hand all the way, every hour every day
Come here to the great unknown

Take my hand, let me stand
Where no one stands alone

Take my hand, let me stand
Where no one stands alone
          
      エルビス・プレスリー Crying in the Chapel http://www.youtube.com/watch?v=M8MUbARRGSU&feature=related
               

 日本では、ゴスペルという言葉に、なにか誤解があるような気がしてならない。ゴスペル(聖歌)は、キリスト教徒の宗教歌だ。そして、黒人のコーラス隊の歌だけがゴスペル・ミュージックではない。アメリカ南西部のカントリー・ミュージックには、ゴスペル・ソングが多い。

 
  
   ピーサル・シスターズ Where No One Stands Alone http://www.youtube.com/watch?v=KDv3DsGjMMg&feature=related
Home to You

 

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   ピーサル・シスターズは、ずいぶん小さいときからステージに立っているようだ。

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    ピーサル・シスターズ Where No One Stands Alone http://www.youtube.com/watch?v=Tg1CyWSJ7E4&feature=related

               

  ゲイザー・ヴォーカル・バンド Where No One Stands Alone http://www.youtube.com/watch?v=jHObV_XCF4I

Give It Away

       ゲイザー・ヴォーカル・バンド Why Me, Lord http://www.youtube.com/watch?v=U3iy7NcZCEo&feature=related


Katzenjammer は、ノルウェー・オスロのグループ

2012-03-27 | 日記・エッセイ・コラム

 

   

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 カッツェンジャマー Katzenjammer は、ノルウェーのオスロのグループ。(カーゼンジャマールと発音するのかもしれないが……とりあえず、カッツェンジャマー)。歌詞は、英語で歌う。

   カッツェンジャマー I Will Dance http://www.youtube.com/watch?v=wQbbIqQaypY

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   カッツェンジャマー A Bar in Amsterdam http://www.youtube.com/watch?v=I6nWpp18Npk&feature=related

 デビューアルバム Le Pop は、2008年に発売され、2011年、セカンド・アルバム A Kiss Before You Go が発売された。

Le Pop

   カッツェンジャマー Land of Confusion http://www.youtube.com/watch?v=DpV1uz4AB_U&feature=related

                  

A Kiss Before You Go

 このグループもジャンルを超越した新鮮さがある。北欧、東欧の伝統音楽(フォーク)とロックが融合していて、歌詞は、英語なのだ。(英語でオリジナルの歌詞をつくるのは、隣国スウェーデンから出て世界で大成功したグループ、アバ ABBAを意識しているのだろうか。アバも、北欧の民謡を基調に曲をつくって、歌詞は英語だった)。

 ロシア語の記事に、このグループの音楽を、フォーク、ポップ、ロック、そして、バルカン・パンクと書いてあった。バルカン・パンク? 初めて聞く言葉だ。メンバーは、さまざまな楽器を演奏するが、みんな独習という。

  カッツェンジャマー Rock Paper Scissors http://www.youtube.com/watch?v=O4vopB5BaUM&feature=related

         

    カッツェンジャマー オフィシャルサイト http://www.katzenjammer.no/

           

 このグループは、ダブルベース(ウッドベース)ではなく、バス・バラライカ(コントラバス・バラライカ)をつかっている。バラライカには、ピッコロ・バラライカからバス・バラライカまでサイズがある。

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 バラライカは、バイオリンやギターやマンドリンの長い歴史からすると近代楽器だ。ロシアの農民が手作りした楽器が原型だ。バイオリンのように伝統的な技術を習得したプロの職人がつくるわけでないから、直線的な板の組み合わせなのだ。手に入る板で、すぐに作れて、とりあえず、弾いた弦の音が大きく響けばいい、という設計思想だ。

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どうして、カンボジアで記者会見しない?

2012-03-26 | 日記・エッセイ・コラム

               

 やっと春。

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 近所の庭の桜にメジロがやってきて、花の蜜を吸っている。立ち止まって眺めていると、ベビーカーを押した若い夫婦に話しかけられた。

「これ、桜でしょうか?」と、奥さんが尋ねる。「木の幹は桜みたいですね?」と、旦那さん。
「早咲きの桜ですね」と、わたしはこたえた。
「河津桜という種類かしら? その向こうの花は何ですか?」
「梅ですね。派手な花びらの梅ですね」
「桜と梅が、いっしょに咲くんですね」
「桜の花の蜜を吸いに、メジロも来てますよ」と、わたしは教えた。
「ほんとだ。はじめて実物をみました。ほら、あすこ、メジロだよ」
「あら、なつかしい。子供のとき、田舎の裏山でよく見たわ。可愛い鳥ね」
 そうして、「どうも」と、わたしが言い、若い夫婦も、「どうも」と言って、わたしたちは別れた。

 こうして見ず知らずの人に話しかけられるようになったのは、大震災以降ではないだろうか? あの大地震を体験し、壮絶な大津波の映像を繰り返しみて、突然亡くなったたくさんの人々の悲しい話しに涙をながし、放射能におびえて暮らす、この大都会の人の心に、何か決定的な変化があったのではないだろうか?

 旧江戸川の遊歩道に立ち止まって、川面の水鳥をみていると、「何という鳥です?」ときかれる。以前はこんなことはなかった。わたしは、話かけるには恐ろしい人相の老人なのだ。
「あれは、バン(鷭)です」と、わたしは答える。

 血のように真っ赤な肉で、焼いて食べると、すごく美味いんですよ、と、そこまでは話さないが………。バンは、絶滅危惧種にちかい希少種になってしまったが、むかしの北海道では狩猟鳥だった。何羽か撃って食べたことがある。美味い。クイナの仲間で、動きはチョコマカしていて愛らしい。

 

                               

 日本の芸人が、カンボジア国籍をとって、ロンドン・オリンピックにマラソンで出場するという。醜悪な話だ。広告代理店とテレビ局と芸能プロダクションが書いた臭いシナリオだろうが、ロンドン・オリンピックの汚点だね。

 カンボジアにはこの芸人より記録のいい選手がいるので、カンボジア陸連は選ばないだろう、と思っていたが、札束で右の頬を叩かれたから、左の頬もだしたのかな。

 貧しい国で、金ばらまいてオリンピック出場権を手にする。それで、お涙ちょうだいの臭いスポコン・ドキュメンタリー番組に仕立てる。じつに醜悪だ。こういう番組にスポンサーがつくところが、いま日本がどうしようもなく劣化しているところだろうな。誇りも、倫理観も、他国の人々への思いやりもまるでない。金儲になりゃ、どんな汚いことも、ふざけたことも許される。

 どうしてこんな恥ずかしい国になっちまったのかね。カンボジアの人々に、失礼じゃないか? と報道しているマス・メディアはあるのか? オリンピックを冒涜してないか? と疑問を投げかけて報道しているテレビはあるのか?

 カンボジア側からオファーがあった、というようなことを芸人が言っている、とスポーツ紙にあるが(図書館で読んだ)、そんなことあるわけがない。デタラメだろ。何のために、住んでもいない芸人の外国人に国籍を与えて、貴重な税金をつかって、自国の選手としてオリンピックに派遣しなくてはならない? それも、スポーツ選手でもない、芸人を?

 もし仮に、貧しい国の貴重な税金をつかって外人部隊を雇うなら、優勝を狙える本物のアスリートを選ぶだろう。(「7人の侍」を雇った農民のように、貴重な金を使うんだ。最高に腕のたつサムライをさがすはずだ)。

 他国の芸人に、「わが国のために、オリンピックにでてくれないかい?」と、普通の知能の役人や政治家が提案するわけがない。発覚すれば国民の反感をかい、自分の政治的立場を失う。命さえ危ない。

                  

 カンボジア国民に対して礼を欠いた、日本として、こんなみっともない話もない。(あの芸人はカンボジアに帰化して、もう日本人ではないから、日本の恥ではもうないか………、しかし、どうしていまも日本に住んで、日本で記者会見するのだ? カンボジアに帰って、カンボジア国旗を背に、カンボジアのプレスの前で、「カンボジア人としてオリンピックに出場します。カンボジア国家の名誉のために優勝します」と、カンボジア国旗のエンブレムを胸に、カンボジアの国語・クメール語で、記者会見するべきだろう)

 国際オリンピック委員会(IOC)は、このカンボジアのマラソン選手の出場を拒否するべきだろう。この日系カンボジア人は、マラソンを愚弄し、オリンピックを冒涜している。おぞましい話だ。オリンピックも安っぽくなったものだよ。

 これで、ロンドン・オリンピックの、男子マラソンをテレビでみることはないな。貧乏な国から金で代表権を買ったやつが走る、うす汚いレースになってしまった。

                           

 日本のテレビは、浮かれて無批判に報道しているが、このオリンピック・マラソン問題は、カンボジア国内に、大きな禍根を残すことになるだろう。政治問題にも発展しかねない。カンボジア陸連は、国民が期待していたカンボジア人の長距離選手を外して、合理的な理由もなく、少しまえに国籍を取得した日本人を選んだ。国民は黙っちゃいないだろう。

                   

 (あの国が政治混乱に陥ると激しいよ。なんといっても、クメール・ルージュ=カンボジア共産党がやりたい放題、大暴れした国だ。キリングフィールドの国だ。数百万人の自国民を、子供たちに命じて、棍棒で撲殺した凶悪な共産主義者たちを生んだ国だ。

 大虐殺があったのは大昔のことじゃない。つい最近、ビートルズが解散したあとの時代のことだ。日本の若者がソニーのウォークマンをつけているころ、カンボジア共産党軍は、自分の国の国民を殺しつづけていた。

 医者、看護婦、学者、教員、作家、音楽家、画家、アスリート、大学生、そのほかあらゆる知識人、そして、熟練した職人を皆殺しにした。共産党を批判して、権威を脅かす可能性のある人間を殺しつづけた。その犠牲者は、200万人以上とみられている。

 もともと人口の少ない国だ。これだけの人を失うと、戦乱が終息沈静化しても、人材がいない。どの分野でも、指導的立場の人々がことごとく共産主義者に殺されてしまっていた。これは国家の再建に大きな痛手だ。スポーツの分野でも同様だろう。

 そういう苦しみながら国家再建をしている国が、カンボジアだ。自国民の虐殺者・カンボジア共産党軍を鎮圧したベトナム軍が撤退して、まだ20年くらいなのだ。そういう悲しい歴史の、貧しい再建途上国につけこんで、よくもまあ、こんな恥ずかしいことができるものだよ。ロンドン・オリンピックで、カンボジアが持っている男子陸上競技の出場枠は、たった一つなのだ)。

※ 日本のマスコミは、カンボジアで200万人を超す自国民を虐殺した犯人たちを、"ポルポト派"と書くが、この表現は欺瞞だ。虐殺の実行犯は、カンボジア共産党、通称クメール・ルージュ(赤いクメール)と正確に書くのが、報道機関だろう。

                

 


’バウト・ソウル、そして、フランシス・ウルフ

2012-03-25 | 日記・エッセイ・コラム

 

 ケーブルテレビで「コールド・ケース」をみていると、エンディングがラップみたいな曲だった。

 わたしは、いわゆるラップはまったくダメだ。ラップは、言葉こそ命のようなジャンル。相当の語学力がないとついていけない。わたしの貧相な英語力では、アフロ・アメリカンのスラングと未知なる慣用句だられの歌詞は、聴いただけでは、とうてい理解不能だ。

 以前は、英語を教えてもらっている、アメリカ人やカナダ人やオーストラリア人やイギリス人に、いちいちラップの曲の解説をしてもらって、なるほどな、そんなこと言ってるんだ、と感心したものだが、最近はそういう機会もない。

 しかし、プロト・ラップとでもいう曲で好きなのがある。ブルー・ノート・レコードのジャッキー・マクリーンのLPのなかの Soul だ。録音は、1967年(昭和42年)で、リリースは翌年。

 黒人女性の詩人、バーバラ・シモンズが、自作の詩、Soul を朗読している。フリー・ジャズの時代だ。名手ジャッキー・マクリーンがフリー・ジャズをやると、ここまでかっこ良く、洗練され刺激的になるのだ、という名演だ。

  ジャッキー・マクリーン&バーバラ・シモンズ Soul http://www.youtube.com/watch?v=RY6mtjvNti4

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 このLPの影響は大きいと思う。私見だが。ニューヨークのパンクの連中はもちろん、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫婦とか、なによりアフロ・アメリカンのラップは、このあたりが大きな影響があったのではないかな。ミンガスの「直立猿人」とかかな……まあ、わたしの、北海道の田舎レコード屋の私見だが………

 

 ジャッキー・マクリーンの‘bout soul  は、日本の国内盤はプレスされてない。

 日本でも有名なジャズのレーベル・ブルー・ノートは、当時、東芝音楽工業(のちの東芝EMI)が販売していたが、ほとんどはアメリカ・ブルー・ノートでプレスしたレコード盤を輸入して、日本語のライナーノーツを添付して、日本語の帯をつけ、小売店に卸していた。

 

 このアルバムのプロデューサーは、ブルー・ノートの創設者アルフレッド・ライオンではなく、フランシス・ウルフだ。

 フランシス・ウルフは、ドイツでコマーシャルの写真家としてキャリアを積んでから、アメリカに渡り、幼なじみのアルフレッド・ライオンがはじめたジャズ・レーベル、ブルー・ノートの経営パートナーになった。財務と写真撮影を担当したが、アルフレッド・ライオンが徴兵された期間と、60年代後は、フランシス・ウルフが制作にもたずさわったのだ。

 フランシス・ウルフが撮影したジャズマンの写真は、2万枚ともいう。ブルー・ノートのLPジャッケトの凄さは、写真だ。ジャケ買い、LPレコードのカバージャケットだけで、『これ、聴いてみたいな!』と、購買意欲を刺激する。ブルー・ノートは、ジャケ買いしてけっして裏切らない。すごい写真家、すごいレコード製作者だった。

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  ブルー・ノートの創設者、アルフレド・ライオンと朋友の写真家フランシス・ウルフは、ドイツで生まれ育ち、20代になってからアメリカに渡った。

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 ブルー・ノートの創設者アルフレッド・ライオンと、フランシス・ウルフ。


オランダのトリオ・ザジー

2012-03-24 | 日記・エッセイ・コラム

                

 ユーチューブをみていると、古い音楽を新鮮な感覚で演奏する、若いグループに遭遇して、楽しい。日本のメディアでは取り上げられないが、きっと日本にも、そういう人たちがいるのだろうが……

 戦前にアンドリュース・シスターズがジャズ・バージョンをヒットさせたBei Mir Bist Du Shein (邦題 「素敵なあなた」)を検索していて、オランダのグループ Zazi(ザジー)をみつけた。女性3人のグループだ。(ザジーと発音するだろうと、勝手に思っている。ちがうかも知れない)。

  トリオ・ザジー http://www.youtube.com/watch?v=NvEaxcTvUTM

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 (写真撮影はいずれも、Eric van den Elsen さん)

 ザジーは、ウクレレ、アコーディオン、チェロのアコースティック・グループだ。ステージの映像をみると、ピアノも、ギターも、マンドリンも弾くようだ。小さいマラカスも使う。

      トリオ・ザジー  La Fee Clochette/Mira http://www.youtube.com/watch?v=9MsCClDUreA&feature=related

 トリオは、オランダ語、ドイツ語、英語、フランス語、スペイン語で歌う。

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   トリオ・ザジー http://www.youtube.com/watch?v=M8RwFYly7F4

     

 アイルランド・ダブリンのロカビリー・シンガー、イメルダ・メイにも感動したが、ヨーロッパの若者は、自分たちの伝統音楽に対するリスペクトがしっかりあって、そこから今の自分たちの時代の音楽を創造している。

 いま流行っている音楽のルーツ、古くからの民謡(フォークソング)や古い流行歌に回帰すること、エレクリックを極力避けること、電気を使ってもできるだけアナログにすること。コンピューターを使わない。こういう流れになるのは、必然だろう。

 このグループは、ヨーロッパでコンサート・ツアーをしている。まだCDを出してない。現在、夏に発売するデビュー・アルバムの準備をしている、とオフィシャルサイトにある。

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  トリオ・ザジー オフィシャルサイト http://www.triozazi.nl/

                     

 


アンドリュース・シスターズ Boogie Woogie Bugle Boy

2012-03-24 | 日記・エッセイ・コラム

 

 いまの日本の、ガールズ・グループやアイドル・グループの、ユニゾン大会の歌を聴いていると、ハーモニー、ハモる、という言葉は、もう日本のポップ界では死語なのか? と思ってしまう。

                                   

 ポインター・シスターズがデビューする50年くらい前に結成されて、一世を風靡した白人3姉妹のコーラスグループがある。アンドリュース・シスターズだ。一番年下でリード・ボーカルのパティー・アンドリューが、7歳のときから3人は、サイレント映画館の幕間で歌っている。1925年(大正14年)ころのことだ。それから半世紀以上、この姉妹のコーラスグループは現役をつづけた。

 アンドリュース・シスターズが歌う Boogie Woogie Bugle Boy は、アメリカレコード協会(RIAA)が選んだ、「20世紀のベストソング」の第6位なのだ。1位は、ジュディー・ガーランドがミュージカル「オズの魔法使い」のなかで歌った、「虹の彼方に Over the Rainbow 」。

    アンドリュース・シスターズ Boogie Woogie Bugle Boy http://www.youtube.com/watch?v=2pfCFU3Mqww

Very Best of the Andrews Sisters

  アンドリュース・シスターズ Bei Mir Bist Du Shein http://www.youtube.com/watch?v=nzlfcQ6E_RE&feature=related

 この曲 Bei Mir Bist Du Shein  のオリジナルは、ユダヤ人のソングライターが書いたイディッシュ語の曲だ。1937年(昭和12年)にレコーディングされたアンドリュース・シスターズのバージョンがヒットして、ジャズのスタンダードになった。いまでもよく歌われる曲だ。日本では、「素敵なあなた」と邦題がつけられている。

     ブダペスト・クレズマー・バンド (イディッシュ語バージョン)Bei Mir Bist Du Shein http://www.youtube.com/watch?v=ZUVEq6NC7mM&feature=related

 このハンガリーのバンドのイディッシュ・バージョンは、最近の録音だろう。

 イディッシュ語は、ドイツからロシア、バルト海から黒海に至る広い地域に住む、東欧ユダヤ人の言語だ。そして、ヒットラーのナチと、共産ソ連の迫害を逃れて、アメリカ、ヨーロッパ、イスラエルなどに移住したユダヤ人たちと、その子孫が現在もつかっている生きた言語だ。アメリカ合衆国だけも、300万人以上が母語としてつかっているといわれる。おそらく、世界中では、500万以上の人々が話している言語だろう。

 ブダペスト・クレズマー・バンド http://www.youtube.com/watch?v=ZpqVYvPIv1s

 クレズマー・ミュージックは、このイディッシュ語を母語にしているユダヤ人たちの音楽。ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』の音楽が、クレズマー・ミュージックの解りやすい例だろうか。迫害を逃れて多くのユダヤ人音楽家が、アメリカに渡って活躍した。ドイツ、東欧、ロシアのユダヤ人の伝統音楽は、アメリカのポピュラー・ミュージックに大きな影響を与えているのだ。

  クレズマティックス Spin,Dreydl,Spin http://www.youtube.com/watch?v=ZUMqeE-SnD0

 

                                                  

 アンドリュース・シスターズのスイング・ジャズ・バージョンは、いまも盛んに演奏される。

  SWRビッグバンド&Zick Sisters  Bei Mir Bist Du Shein   http://www.youtube.com/watch?v=ylLCYbySTqg&feature=related

Chesterfield Broadcasts

 アンドリュース・シスターズの父親は、ギリシャからの移民、母親はノルウェー系のアメリカ人だ。

   アンドリュース・シスターズ Gimme Some Skin,My Friend http://www.youtube.com/watch?v=kIFN13-a1iA&feature=related

Bei Mir Bist Du Schoen

       ディーン・マーティン&アンドリュース・シスターズ http://www.youtube.com/watch?v=JmY_CAydApw&feature=related

                 

       アンドリュース・シスターズ オフィシャルサイト http://www.cmgww.com/music/andrews/

             

 アンドリュース・シスターズが、1941年に録音して大ヒットした Boogie Woogie Bugle Boy は、1972年に、ベット・ミドラーが歌ってリバイバルヒットさせた。

   ベット・ミドラー  Boogie Woogie Bugle Boy  http://www.youtube.com/watch?v=fuIb22WJF-c&feature=related

Divine Miss M

  ベット・ミドラー Sentimental Journey & Boogie Woogie Bugle Boy http://www.youtube.com/watch?v=XsTy-dFjiak&feature=related


ポインター・シスターズの兄は、西鉄ライオンズにいた

2012-03-23 | 日記・エッセイ・コラム

                

 ポインター・シスターズは、カントリー・ソング「フェアリーテイル Fairytale 」を歌って、グラミー賞のベスト・カントリー・ボーカル・グループ賞を受賞した。1975年(昭和50年)のことだ。この曲のヒットで、ポインター・シスターズは、カントリー・ミュージックの登竜門的生番組、グランド・オール・オプリに出演した。ナッシュビルから放送されるこの番組に、黒人女性グループが出演するのは、はじめてのことだったのだ。

 「フェアリーテイル Fairytale 」の作詞・作曲は、ポインター・シスターズ自身だ。

   ポインター・シスターズ Fairytale http://www.youtube.com/watch?v=OcpB11BNpDs&feature=related

    ポインター・シスターズは、わたしの帯広のレコード店でもよく売れた。1970年代から80年代のことだ。

    ポインター・シスターズ Medley(Live 1985) http://www.youtube.com/watch?v=5mkxb-d-f5Y            

 

20th Century Masters: Millennium Collection

   ポインター・シスターズ Fire http://www.youtube.com/watch?v=gRCydGQvvE4&feature=related

That's A-Plenty

    ポインター・シスターズ Slow Hand http://www.youtube.com/watch?v=pnVOt2LK2Gg&feature=related

                 

Steppin

  ポインター・シスターズ Silent Night http://www.youtube.com/watch?v=PVI4XvlNJ4U&feature=related

 ジュン、ボニー、アニータ、ルースの4姉妹のグループだったが、80年代にボニーが抜けてソロになり、3姉妹になった。ボニー・ポインターは、ソロでも成功している。

 ポインター姉妹の兄は、日本の西鉄ライオンズでもプレーしたプロ野球選手、アーロン・ポインターだ。

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『アイヌ文化の源流』、届く

2012-03-22 | 日記・エッセイ・コラム

                      

 札幌の羽賀憲二くんが、石附喜三男先生の遺作『アイヌ文化の源流』を送ってくれた。

              

 一週間くらい前のこと。帯広三条高校の同期生、橋本時比康くんから「大学時代の恩師の名前、石附先生といってたね?」と、電話があった。

 司馬遼太郎の「街道を行く」のオホーツク街道を読んでたら、若く亡くなった考古学者の石附喜三男教授の著書に『アイヌ文化の源流』がある、と書いてある。たしか君は、この先生の研究室にいたんじゃない? と橋本くんが尋ねてきたのだ。

 そう、わたしこそ、石附喜三男教授の最初の弟子だ。不肖の弟子だ。教えをうけた考古学をきわめず、田舎に帰ってレコード屋になった。しかし、先生は、道東に調査にくると、かならずわたしのレコード店によってくれ、「元気だったかい?」と声をかけてくれた。

           

 司馬遼太郎の「街道を行く」は、朝日新聞に連載されていたときは読んでいたが、単行本になったものは読んだことはない。石附喜三男先生のことが書いてある「オホーツク街道」は読んだことがない。

 橋本くんからの電話のあと、札幌の羽賀憲二くんに電話した。羽賀くんは、わたしとちがって、石附先生のもとで真面目に研究をつづけ、きちっと考古学者になった人だ。

 先生の『アイヌ文化の源流』は、自分が中心になって遺稿を編集した、と羽賀くんがいう。そうだったのか……。

 札幌の小さい出版社で、1000部だけ刷ったので、古書店にもあまりでない。あってもひどく高い、と羽賀くんがいう。見つけると買うのだが、人に寄贈するので、いま手元に一冊しかない。アンダーラインがあったりするけど、自分が読んでる本より若干美本だから、それを送る。と羽賀くんがいってくれ、その本が今日どどいた。

 石附喜三男先生が亡くなったのは、昭和61年の3月27日。命日がちかい。

 先生は、まだ、48歳だった。ヅキさんが、石附先生が、死ぬ? あんなに悲しい通夜はない。

 

 


ココ・テイラー、ハウリン・ウルフ、ウイリー・ディクソン

2012-03-19 | 日記・エッセイ・コラム

                               

  ココ・テイラー Wang Dang Doodle http://www.youtube.com/watch?v=oxCa16-nxtM

Koko Taylor

 ウイリー・ディクソンに見出されたココ・テイラーは、ハウリン・ウルフのヒット Wang Dang Doodle を歌ってシカゴ・ブルース・シーンにデビューした。このシカゴ・ブルースの名曲は、ウイリー・ディクソン自身が作者だ。

        ハウリン・ウルフ Wang Dang Doodle http://www.youtube.com/watch?v=nEjUfu9-W-w

   ウイリー・ディクソン Wang Dang Doodle http://www.youtube.com/watch?v=n3mDUqgSe9c&feature=fvwrel

 ウイリー・ディクソンは、ヘビー級のプロボクサーだったこともある、190センチを超す巨体のベーシストだ。

 抜群のリズムセンスと、繊細で歌心のある有能なベーシストで、才能豊かな作詞家、ソングライターだ。そして、じつに有能なレコーディング・プロデューサーでもある。ココ・テイラー、ハウリン・ウルフだけでなく、チェス・レコードのかずかずの名盤をプロデュースしたのは、ウイリー・ディクソンだ。

Poet of the Blues

 (チェス・レコードのことは、映画『キャデラック・レコード』をみるとわかるだろう。きっと『キャデラック・レコード』のDVDは、どこのレンタル・ショップにもあるだろう)。

 ウイリー・ディクソンはたくさんの曲を書いているが、日本でよく知られているのは、クリームがカバーした「スプーンフル」だろうか。この曲も、ウイリー・ディクソンがプロデュースしたチェス・レーベルの、ハウリン・ウルフの歌が最初のレコードだ。アメリカやイギリスの若者は、このハウリン・ウルフ・ヴァージョンに驚き、コピーした。その本家本元より、クリームのカバー・ヴァージョンの方が知られているわけだ。

   ハウリン・ウルフ Spoonful http://www.youtube.com/watch?v=tyfgb9sDT1I

 わたしのレコード店に、毎日のように通ってきたお客さんの少年少女には、アメリカのホワイト・ブルースやブリティッシュ・ブルースを聴いて、その本家、シカゴ・ブルースやロバート・ジョンソンを追求する中学生や高校生たちがいた。 そして、実際ギターを持ってオリジナルのコピーをはじめて、 数年後には、まさしくシカゴスタイルのブルースを楽しそうに演奏していた。  (かれらもいまや50代後半。いまもギターを弾いている。 おやじバンド……そういう低次元じゃない)。

         

        ポインター・シスターズ Wang Dang Doodle http://www.youtube.com/watch?v=-Ryh5hVC1iE

Yes We Can: Best of Blue Thumb Recordings

 


スイート・ホーム・シカゴ

2012-03-18 | 日記・エッセイ・コラム

       

  シカゴ・ブルース・リユニオン 2008年3月   http://www.youtube.com/watch?NR=1&feature=endscreen&v=HoPG0HxxsHk                                                   

     シカゴ・ブルース・リユニオン Walk Away http://www.youtube.com/watch?v=0pX9HlfRFpE&feature=related

 

Buried Alive in the Blues (W/Dvd)

 看板にある "BURIED ALIVE IN BLUES” は、ジャニス・ジョプリンの最後のLP『パール』に収録されている曲のタイトルだ。ポール・バターフィールド・ブルース・バンドの名曲「ボーン・イン・シカゴ」の作者、ニック・グレイヴナイツがジャニス・ジョプリンのニューアルバムのために書いた曲だ。だが、バンドの演奏を録音しただけで、ヴォーカルを入れる前にジャニス・ジョプリンは死んでしまった。

 ジャニス・ジョプリンの歌声の BURIED ALIVE IN BLUES は、この世にない。残念だ。

Pearl (Exp)

 ジャニスは、このアルバムをレコーディングするために、スタジオ近くのホテルに宿泊していた。スタジオにやってくる予定だったが、来ない。ホテルの部屋で亡くなっていたのだ。

 1970年10月4日のことだ。

 ジャニス・ジョプリンの最後のLPレコード『パール』は、ヴォーカルが入っていない"BURIED ALIVE IN BLUES”を、そのまま収録して発売された。死の直後に発売された『パール』の、このインストルメンタル曲は、わたしには悲しい曲だ。ジャニス・ジョプリンは、まだ27歳だった。

   ジャニス・ジョプリン『パール』から BURIED ALIVE IN BLUES http://www.youtube.com/watch?v=DoCGykz0E1Q 

 突然の怪死の直後に発売された『パール』は、爆発的に売れた。ジャニス・ジョプリンは、20世紀のアメリカ音楽史に残る偉大な歌手のひとりだが、生前、たった4枚のアルバムしかない。死後、ライブ盤とかベストとか、いろいろでるのだが………BURIED ALIVE IN BLUES は、「生きながらブルースに葬られ」と邦題がつけられていた。

 1969年のジャニス・ジョプリンのコンサートに、ジョニー・ウィンターがゲストで出演する。ジャニスは、破格の契約金を得てデビューした同郷のジョニー・ウィンターを誇りに思い、バックアップしたかったのだろう。ジャニス・ジョプリンは、1967年のモンタレー・ポップ・フェスで衝撃的なデビューして、CBSレコードからリリースした『チープ・スリル』は、世界的に売れ、CBSの新しい時代をになうスーパースター、大看板になっていた。

 テキサスのジョニー・ウィンターが、「100万ドルのギタリスト」としてデビューするには、シカゴのホワイト・ブルースマンが関わっている。ポール・バターフィールド・ブルース・バンドのギタリスト、マイク・ブルームフィールドだ。

 1968年12月、シカゴ。マイク・ブルームフィールドと、テキサスのジョニー・ウィンターがジャムセッションをした。そうしてふたりは知り合い、マイク・ブルームフィールドは、アル・クーパーとのサンフランシスコ・フィルモアでの、「スーパー・セッション」ライブにジョニー・ウィンターを招く。

 こうしてテキサスのローカルなギタリスト、ジョニー・ウィンターは、ロックの聖地サンフランシスコ・フィルモアで衝撃的な演奏をして、メジャー・デビューする。ウッドストックの演奏も素晴らしい。

       ジョニー・ウィンター in Woodstock 69 http://www.youtube.com/watch?v=O6XTCuPDrqE&feature=related

 

ジョニー・ウィンター(紙ジャケット仕様)

 

 

  バディー・ガイ Sweet Home Chicago http://www.youtube.com/watch?v=xuRhaDrnlWo&feature=related

 「スイート・ホーム・シカゴ」の最初のレコーディングは、ロバート・ジョンソン。1936年(昭和11年)のことだ。

    ロバート・ジョンソン Sweet Home Chicago http://www.youtube.com/watch?v=T-dO7E8wouM&feature=fvst

キング・オブ・ザ・デルタ・ブルース・シンガーズ VOL.2

King of Delta Blues

 この曲は、ブルース・ブラザーズでは、こうなる。

      ブルース・ブラザーズ http://www.youtube.com/watch?v=Tlou_2lMLAc

 


スーパー・セッション

2012-03-16 | 日記・エッセイ・コラム

 

 ポール・バターフィールド・ブルース・バンドを聴くと、やはり、つぎはマイク・ブルームフィールドとアル・クーパーの「スーパー・セッション」が聴きたくなる。

Super Sessions

 1968年(昭和43年)に発売になった、このLPレコードも、わたしの店でよく売れた。世界には、このレコードを聴いてギターの練習をはじめた少年少女たちも多いのじゃないかな。アメリカでも、イギリスでも大ヒットしたアルバムだ。

    マイク・ブルームフィールド&アル・クーパー Albert's Shuffle http://www.youtube.com/watch?v=IZnPrc55Kwk

                                

 「スーパー・セッション」を聴いたら、当然、つぎは、アル・クーパーとシュギー・オーティスの「クーパー・セッション」だろうか。このとき、ギターのシュギー・オーティスは、まだ15歳なのだ。(シュギー・オーティスの父親は、先日亡くなったリズム&ブルースの巨星、ジョニー・オーティスだ)

       アル・クーパー&シュギー・オーティス Shuggie's Shuffle http://www.youtube.com/watch?v=n7Rhfz_EJK8

クーパー・セッション

 「クーパー・セッション」は、1969年発売のLP。

    アル・クーパー&シュギー・オーティス Lookin' For A Home http://www.youtube.com/watch?v=gE-ZC63WgLw

  じつにいい曲だ。そして、名演だ。アル・クーパーのボーカル、アレンジ、そしてオルガンの、そのセンスの良さに、何度聴いても新鮮な驚きがある。感動する。

 オリジナルの作者は、盲目のブルースマン、エドワード "Little Buster" フォーヘッド。これも名唱なのだ。

  エドワード "Little Buster" フォーヘッド Looking For A Home  http://www.youtube.com/watch?v=5Y8fy1I-wRc

Right on Time

    


ボーン・イン・シカゴ

2012-03-15 | 日記・エッセイ・コラム

                         

 ロカビリーの話が続いたので、すこし後の話を。

 アメリカのロカビリーに影響された、イギリスのポップ・グループのビートルズなどが世界を席巻しているとき、リズム&ブルースの元になったブルースそのものを演奏したい、という白人の若者たちが、アメリカでもイギリスでも盛んに活動をはじめた。

 それらの若者の音楽を、白人のブルース、‘ホワイト・ブルース’と呼ばれるようになるのだが、そのなかで、わたしが特に好きなのは、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドと、そのグループから分かれた、エレクリック・フラッグだ。

Butterfield Blues Band

   ポール・バターフィールド・ブルース・バンド Born In Chicago http://www.youtube.com/watch?v=7xUGpxiXLsc

 1965年(昭和40年)発売の衝撃的なファースト・アルバム、A面1曲目の痛快なこの曲は、シカゴ・ブルースそのものだが、作者ニック・グレイヴナイツは、白人だ。曲は、シカゴ・ブルースに対する愛とリスペクトそのものだ。

 ニック・グレイヴナイツと、ポール・バターフィールド(ハーモニカ)とマイク・ブルームフィールド(ギター)は、シカゴ生まれで、少年のときから黒人街のブルース・クラブに入り浸りの、ブルース小僧の仲間だ。大多数の白人の若者が、ロカビリーやツイストや、イギリスのポップ・バンドを聴いたり、コピーしているとき、黒人街のクラブにたむろして、黒人ブルースマンに、ドロドロのブルースの教えを乞う白人少年たちは、はみ出し者だったのだ。(ビートルズや、サーフィンに興じる若者を歌うバンドが大ヒットいていた時代だ……)

 もうひとりのギタリスト、エルビン・ビショップは、カルフォルニア州の生まれ、オクラホマ州タルサ育ちの人だが、シカゴ・ブルースが好きで、シカゴ大学医学部に入学する。そうしてポール・バターフィールドと知り合い、バンドに誘われる。

 ミネソタ州からシカゴ大学に来ていたマーク・ナフタリンは、大学のダンスパーティーでピアノを弾いているとき、ハーモニカのポール・バターフィールドと知り合ったという。

 黒人の二人のメンバー、ドラムスのサム・レイと、ベースのジェローム・アーノルドは、このバンドに参加する前からシカゴのブルース・シーンで活躍している。

 ボブ・ディランが、エレキギターをもってロックバンドをバックに歌い、フォークソング・ファンから大ブーイングうけた、1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルは、ロック史に残る事件だが、ディランの、そのバックバンドが、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドなのだ。

Newport

  ボブ・ディラン Like a Rolling Stone (1965 Newport Folk Fes.) http://www.youtube.com/watch?v=cKOJO3pKxw0&feature=related

               

East-West

          

       

 みんなずいぶん歳だが、ポール・バターフィールド・ブルース・バンド再結成か、というような映像があって泣かせる。作者が歌う「ボーン・イン・シカゴ」だ。2004年とある。

 マイク・ブルームフィールドは、1981年、37歳で亡くなった。ポール・バターフィールドは、1987年に亡くなった。44歳だった。

   ニック・グレイヴナイツ Born In Chicago  http://www.youtube.com/watch?v=ru4Ke5jjs1I&feature=related

      

 このポール・バターフィールド・ブルース・バンドの2枚は、1965年と1966年にリリースされたLPレコードだが、北海道・帯広のわたしのレコード店では長い間よく売れた。1980年代になっても店の基本在庫だった。

Live at Bill Grahams Fillmore West 1969

 マイク・ブルームフィールドと朋友、「ボーン・イン・シカゴ」の作者ニック・グレイヴナイツが、フィルモア・ウエストで共演している名盤。

 

Long Time Comin

    エレクリック・フラッグ Killing Floor http://www.youtube.com/watch?v=Tq3NwCHm-4U

 このエレクリック・フラッグがカバーしている Killing Floor は、ハウリン・ウルフの曲。すさまじい内容の歌だが、ブルースやカントリー&ウエスタンに、こういう歌がよくある。

    ハウリン・ウルフ Killing Floor http://www.youtube.com/watch?v=0OV10lbNjfY&feature=related

    

Real Folk Blues/More Real Folk Blues


「冷たくしないで」は、オーティス・ブラックウェルが作者

2012-03-14 | 日記・エッセイ・コラム

                                    

    ザ・フー Daddy Rollin’ Stone http://www.youtube.com/watch?v=UgbrSe6lXtk

 1966年のテレビ番組で、ザ・フーが演奏している曲 Daddy Rollin‘ Stone は、オーティス・ブラックウェルの曲だ。

 ロカビリー(ロックンロール)は、カントリー&ウエスタンから発展した音楽で、ブルーズやリズム&ブルースなどアフロ・アメリカンの音楽に強く影響されて成立した。と、わたしは書いた。実際、ロカビリーの名曲のかずかずを書いたのは、アフロ・アメリカンのソングライター、つまり黒人の作曲家だ。

 その黒人の偉大なソングライターのひとりが、オーティス・ブラックウェルなのだ。きのう紹介したエルビス・プレスリーの大ヒット曲「冷たくしないで Don't Be Cruel 」も、オーティス・ブラックウェルの作品だ。

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 オーティス・ブラックウェルは、1932年、ニューヨークで生まれた。子供ころからピアノを習っていて、リズム&ブルースとカントリー&ウエスタンが好きだったという。十代のときから曲をつくっていたので、エンターテインメントに関わりたいと思っていた。それで、最初についた職業は、ニューヨーク劇場の床磨きで、つぎに洗濯室のプレス係に昇進したという。

 1952年、ニューヨーク・ハーレムのアポロ劇場のタレント・コンクールに優勝する。そうして、最初にレコーディングした自作の曲が、ザ・フーがカバーしていた Daddy Rollin' Stone なのだ。

    オーティス・ブラックウェル Daddy Rollin' Stone http://www.youtube.com/watch?v=JVuVEC2TCAQ&feature=related

 オーティス・ブラックウェル自身のレコードはヒットしなかったが、ジャマイカのデレイク・マーチンがカバーしてヒットした。それをイギリスのモッズのバンド、ザ・フーがカバーしたのだ。

    デレイク・マーチン Daddy Rollin' Stone http://www.youtube.com/watch?v=TL1Ebx-sg_E

Things Are Swingin

 ペギー・リーが歌って大ヒットした「フィヴァー Fever 」は、いまもビヨンセなどが歌うスタンダードだが、この曲も、オーティス・ブラックウェルの曲だ。

     ペギー・リー Fever http://www.youtube.com/watch?v=JGb5IweiYG8

              ビヨンセ Fever http://www.youtube.com/watch?v=VpZT_tG8HnI&feature=related

                  

 1955年のクリスマスの前、貧しいソングライターだった、若きオーティス・ブラックウェルは、自作の6曲を音楽出版社に売る。1曲25ドルだったという。その6曲のなかに、エルビス・プレスリーで大ヒットする「冷たくしないで Don't Be Cruel 」も、ペギー・リーのヒット曲「フィーヴァー Fever 」もはいっていたという。

 「フィーヴァー」は、黒人シンガーのリトル・ウイリー・ジョンのために依頼されて、オーティス・ブラックウェルが書いた曲だ。リトル・ウイリー・ジョンのオリジナル・バージョンは、黒人マーケット(レイス・レコードとして)だけで売られ、全米的な成功はなかった。しかし、白人ジャズ・シンガーのペギー・リーのカバーが世界的にヒットして、いまも演奏されるスタンダードになった。

      リトル・ウイリー・ジョン Fever http://www.youtube.com/watch?v=nr8XOuesG3s&feature=related