広島市・三島食品の『ゆかり』が届いた。
早速、お茶漬けに使い、夜、スパゲティー・カルボナーラにもパラパラとかけて、ワインを飲んでいる。明日は、暖かいご飯に混ぜてお握りを作ろうかな。
![]() |
三島 ゆかり 200g |
北海道・十勝の野に桜が咲くまで、もうふた月だろうか?
机に桜を飾った。
広島市・三島食品の『ゆかり』が届いた。
早速、お茶漬けに使い、夜、スパゲティー・カルボナーラにもパラパラとかけて、ワインを飲んでいる。明日は、暖かいご飯に混ぜてお握りを作ろうかな。
![]() |
三島 ゆかり 200g |
北海道・十勝の野に桜が咲くまで、もうふた月だろうか?
机に桜を飾った。
大塚家具? いち家具屋の家族争いが、何故、テレビのトップニュースなのか、田舎のジジイのわたしに、テレビの奴らの感性にまったくついていけない。
銀座・日本橋の現場に10年以上通っていたから、毎日のように、銀座の大塚家具店の前を歩き、何度か入ったこともあるが………………全国放送のニュースで大騒ぎする話かいな? くだらん!
1973年3月26日。その日は、札幌・旭川・北見・釧路・帯広と北海道の五つの市をまわる、モップス・北海道コンサートツアーの最終日だった。ツアーの千秋楽が、帯広だ。
五ケ所のコンサートも、無事、盛会に終えることができ、帯広の炉ばた焼の店で座敷を借りて、楽日の打ち上げになった。
お疲れ、乾杯、その前に「今日は、ドラムの幹治の誕生日なんですよ」と、鈴木ヒロミツさんが言った。ドラマーの幹治さんは、ヒロミツさんの弟だ。
ツアーの打ち上げ、そして、幹治さんの誕生日を祝って、鈴木ヒロミツさん、星勝さん、三幸太郎さん、鈴木幹治さんと夜明けまでしたたか飲んだ。1973年3月26日のこと。
3月26日が誕生日のモップスのドラマー、鈴木幹治さんはグループ解散後、浜田省吾のプロデューサーになり、現在も活躍している。
![]() |
ロックン・ロール’70+2 |
![]() |
モップスと16人の仲間+2 |
![]() |
雨 モップス’72+2 |
(モップスの、北海道でのプロモーターは、札幌も旭川も釧路も北見も、じつは、帯広のわたしが主催者だったのだ…………名義主催は、新聞社や放送局だったりするが………それらの会社は総売り上げの15%前後の名義主催料をとった。赤字であろうが黒字であろうが、売り上げからパーセンテージで…………。現在のことは知らないが、わたしが現役のプロモーターだった時の北海道での、音楽の興行界はそんな構造だった。すべての金銭的リスクは、実際の企画・制作・主催者である、わたしが負うわけ………”主催”の新聞社や放送局ではない。インターネットの無い時代、新聞紙・電波という宣伝媒体をもってるメディアの、独占的商売だったわけ)
先週のこと、九州の森本くんからの電話で、テレビで映画を観て、いたく感動したという。『イン・ハー・シューズ In Her Shoes』。2005年の作品だが、わたしは観てなかった。
それは、トニ・スコットとキャメロン・ディアスが演じる姉妹、そしてシャーリー・マクレーンが祖母の、家族の話だ。
10年前の作品だが、観てない人もいるだろうから、ストーリーの内容に触れない。
内容はもちろんだが、音楽が、じつにいいのだ。それでまず、この映画に入りこんだ。
"Sitting in Limbo"、ジミー・クリフの曲だ。https://www.youtube.com/watch?v=wPI3dhcmYEI
ジミー・クリフが好きなんだ。
”Many Lives To Close" は、じつに名曲だ。ジャマイカ映画『ハーダー・ゼイ・カム』で、この曲が流るシーンが好きだ。(スラムで育った、貧しいチンピラ不良青年が、かたぎになろうとして、職を探して歩くシーンだったかな…………)。
その昔、北海道・帯広の映画館で、ジミー・クリフ主演のジャマイカ映画『ハーダー・ゼイ・カム』を観た人たちがいるだろう。じつは、それは、わたしが主催者だったのだ。
映画館を借りて、フィルムをとってもらった。
もちろんフィルム代、宣伝費など、すべてわたしの負担だった。
しかし、赤字ではなかった………もちろん、儲かりはしない。北海道・帯広で、ジャマイカ映画上映にスポンサーがつくわけもないし………。
そのあと、『ハーダー・ゼイ・カム』のサントラやジミー・クリフのLP、ボブ・マーリーのレコードも、北海道の小さい町の、7坪のレコード屋にしてはとんでなく売れたから、「まぁ、いいか」という気分だった。
![]() |
ザ・ハーダー・ゼイ・カム オリジナル・サウンドトラック |
ジミー・クリフ Many Rivers To Cross https://www.youtube.com/watch?v=SF3IktTk_pQ
3月22日。雪。
ソメイヨシノが咲き、田植えがはじまったところがあるというのに、ここは、今日も雪が降っている。
日本列島は、南北じつに長い。
新しくレコードが今も制作されているのも驚きだが、真空管アンプも静かに支持されている。
驚くべきことに今の日本に、個人のオーディオファンのために真空管アンプを制作・発売しているマイナーなメーカーがいくつもあるのだ。
何年か前、秋葉原の電気街で、iPodをセットして再生する真空管アンプを見たときは笑った。『いまの若い人たちの発想は、まぁ愉快だわな』、真空管は、ガラス管の中を真空状態にして、金属の電極板を超高温に加熱して電子を飛ばす、という……デジタルの信号の世界と、すこし違う。焚火の世界、キャンプファイアーの世界だ。
秋葉原に行くと、新品・中古、ほとんどの真空管が手に入る。そして、ネットでは、アメリカ・ヨーロッパはもちろん、ロシア、中国など世界中で製造された、新品・中古の真空管が買える。
ロックの時代、ジミヘンやクリームのクラプトンなど、マーシャルやフェンダーのアンプの音は、真空管アンプの音だ。
やっと昼間の気温がプラスになって、雪もすこしづつ融けてきた。やっと春近し、という気分だ。
だが、すぐにまた、冬。
母が亡くなった直後は、『この冬だけ我慢して、夏がきて母の一周忌法要を済ませたら、父に施設に入ってもらって、娘たちや孫たちが暮らす東京に帰ろう』と、思っていた。
しかし、そうもいかず、2年目、3年目の冬を越してきた。
『もうゴメンだ! この長い暗い冬も、父との無言の、この陰鬱な暗い生活も、もうウンザリだ。今年こそ、母の命日が過ぎたら、東京にもどろう!』
と、固い決意だった……のだが……………。
いま春が来て、すぐに夏。はっきり決めなきゃな。今日から5ヶ月後、8月半ば、お盆をすぎると冷たい秋風が吹き、すぐにまた冬だ。
1月に90歳になった父は、ますます元気で、毎日酒を飲み、タバコをバクバク吸って、気ままに生きている。施設に入って、この優雅な生活を送ることは不可能だろう。
しょうがない。あと1年でも2年でも3年でも、4年でも…………5年でも、わたしの手に負えなくなるまで、とことん付き合ってやるか!
と、覚悟を決めつつある、今日この頃だ。またすぐ冬だからね…………。
きっぱりと、この町に骨を埋める覚悟で、この家の二階も改装して住環境を冬仕様にして、わたしの手に負えなくなるまで、とことん父親の介護をしようか?
臨終間際の母に「じいさんのこと、頼むね」と言われ、「できるだけのことはするよ」………………と応えた、あの約束を最後まで果たすか。
(春になったら東京にもどるんだ、と、仮の宿と思うから、この三年、長い冬を超厚着で十度以下の室温に耐えてきた。だが、この先何度かの越冬が続くなら、二階の部屋の仕切り壁をぶち抜いてワンルームにして、灯油のファンヒーターを設置する。そう決断した今日であった)。
1995年3月20日、地下鉄サリン事件の日。あの朝も、JR南武線→東急東横線→東京メトロ・日比谷線→有楽町線と乗り継いで新木場の現場に通勤した。東京ガスの、プラント本管を20年ぶりに新しくする長期工事で、毎日早朝、巨大な鋼管を積んだトレーラーを敷地内に誘導するため、朝一番の電車に乗って、地下鉄を乗り継いで現場に通っていた。
多数の被害者がでた日比谷線六本木・神谷町間、事件が起きる2時間前、わたしも乗っていた。たまたまわたしは、建築現場への早朝の通勤だったが、オウムの鬼畜たちは、都心の朝の通勤時間のピーク、ラッシュアワーを狙って凶行におよんだのだ。
多くの死者と6000人を超える負傷者(20年後の今も後遺症に苦しんでいる人たちが多数だ)を出した小伝馬町駅は、隣が人形町、そして、茅場町駅だ。茅場町駅は、日本橋兜町のある駅。兜町、つまり東京証券取引所がある街だ。日本国内どころかアジア全域、そして世界経済に大きな影響力がある、世界有数の証券取引所がある街だ。茅場町のビルには、大小数百の証券会社がある。日本橋の野村証券本社ビルも、日本銀行も、歩いて10分くらいだ。神谷町と小伝馬町の地下鉄構内でサリンをばら撒き、朝の、都心へ向かう勤勉な人々を殺戮する……………日本経済のまさに中心をテロで破壊しようとしたんだよ、やつらは。
地下鉄サリン事件から、ずいぶんたって………。
東京証券取引所のすぐ前、運河を越えた、日本橋小網町・ぺんてる本社ビルの改修工事のガードマンをやっていた。
仕事帰りは、茅場町で地下鉄に乗らず(自分の街、浦安駅まで乗り換え無し15分なのだが)、逆方向、東京駅方向に歩く。歩くのが、好きだ。
日本橋まで歩いて丸善本店に寄って、中央通りを銀座に向かう。そして、銀座1丁目の銭湯・銀座湯に入る。
そして、山野楽器とかウロウロして、銀座線に乗って日本橋で東西線に乗り換えて部屋に帰る。(いまや、なつかしの自由生活であった……………………今……老父の気ままな食事時間や、ときどき床も糞まみれになるトイレの掃除や下着の洗濯や…………老父の介護。長い、長い冬。あまりに、あまりにも退屈な町。)
雪が融けつつある。春がくる。春がくりゃ、夏になり‥‥そして、また冬。
春が来たということは、また、冬が来るということだ。
決意のときだろうな。
もうひと冬、あるいは、ふた冬、この故郷の町にいるか? あるいは、いないか、という、わたしの決意だな。
昨夜のNHKテレビの『サラメシ』に、横浜・鶴見区の東洋化成のカッティング・エンジニア師弟がでていた。カッティングとは、録音された音源をレコード原板に刻む作業。音楽センスと、超絶の、熟練の匠の技が必要な、とてもデリケートで難しい仕事だ。
東洋化成は、CDの時代になってもずっとレコードを制作してきた会社だ。今、レコード制作は静かなブームで、カッティングの仕事はとても忙しい、と番組でいっていた。
数年前のこと。テイラー・スウィフトか誰かのホームページで、「欲しかったレコード・プレーヤーを買ったのよ」というブログ記事を読んだ。『ムッム? 何のことだろ? カントリー&ウエスタンの若いスーパーアイドルが、レコード・プレーヤー?』
「私は、小さい時から母と父の膨大なレコードコレクションを聴いて育って、今も、アナログ(レコード)しか聴かないの。コンサートツアーの楽しみのひとつは、その街のレコード屋さんに行くことなのよ」と、書いてあって驚いた。
![]() |
スピーク・ナウ-デラックス・エディション | |||
|
アメリカのアーティストが、新譜のCDとLPレコードを発売していることに驚いたのは十年くらい前からだったろうか。調べると、売れている大物アーティストは、CDと同時にLPレコードも発売していた。これは、商売というより、LPレコードも同時発売することが、あるステータスなのか、とも思うほどビッグなアーティストは、アナログのレコードを発売していた。
その、スーパーアイドルが買ったレコード・プレーヤーとは? 書いてなかったが、きっと超高級プレーヤーに違いない。昔も今も、レコード・プレーヤーは、価格の幅がとんでもなく広い。1万円でお釣りがくるようなプレーヤーから、新車が買えるような価格のスーパーなレコード・プレーヤーもある。レコード針の代わりに、レザー光線でレコードの溝をトレースするプレーヤーさえある。
電気を使わないゼンマイ駆動のレコードプレーヤーさえあるのだ。77万7千円。
![]() |
ゼンマイ駆動式LPレコードプレーヤー |
(有)美梼社 | |
15日、TOTOのベーシスト、マイク・ポーカロが亡くなった。享年59歳。兄ジェフ・ポーカロは、1992年、38歳で亡くなっている。
![]() |
TOTO IV~聖なる剣 |
この4枚目のアルバム(1982年)から、ポーカロ3兄弟のマイク・ポーカロが参加していただろうか? その記憶はさだかでないが、わたしの帯広駅前のレコード店で、TOTOは人気のバンドだった。ファーストアルバムからよく売れた。
今夜はワインを飲みながら、YouTubeで、 ”ロザーナ” と ”アフリカ” の映像を観ながら、ちょっとジーンとなって少し涙した。
マイク・ポーカロ、長い闘病だったようだ。R.I.P
北海道・帯広で、わたしの小さいレコード店は、人口比にかかわらず、異常に、ある洋楽のアルバムが売れたり、ほかの日本国内どこも売れてない国内アーティストのアルバムがバカ売れしたりするのだが、それは、努力して仕掛けるからだ。
わたしは、ビートルズの最後のアルバム”アビー・ロード”のDMハガキを、自分でガリ版刷りで作っていた。
レッドツェッペリンのファーストアルバムの宣伝DMも、自分で一枚づつ、ガリ版で刷って、なおかつ、水性ぺんで彩色さえした。500枚以上だったかな………。なおかつ、発売前にテスト盤の試聴会をカフェとジャズ喫茶をかりてやったもんだ。(今では信じられないイベントだろう。ただレコードをかけるだけ。新譜を、いいレコードプレーヤーで、パワーのあるアンプで、クリアーな、いいスピーカーで、大音響で再生して、楽しみたい。ただそれだけのレコードコンサートだ。二十歳の、レコード屋のあんちゃんがはじめた。ずっと年上のジャズ喫茶のオーナーや、ジャズファンの人たちも、おもしろがって手助けしてくれたものだ…………みなさん、なつかしい方たちだ…………)。
(たとえば、A4サイズが刷れるガリ版ではハガキ4枚ならべて刷れる。しかし、これでは、一枚一枚綺麗に刷れない。やはり大判な道具でも、サイズにかかわらず一枚一枚、刷る。これにすぐ気づいた。だから、ハガキ500枚のDMは、500回。千枚のときは、千回ガリ版を刷る。そして彩色する。これを、”興行師の” わたしは、店のあるビルの3F(事務所)作業場でひとりやっていた。宛名を書くのも、当時は、パソコンもない、手書きだ。わたしは、自作のガリ版ハガキに彩色して、手書きでお客さんの宛名を書いた。500枚とか600枚とか一千枚とか………ツェペリンや浜省やユーミン、そして、TOTOの新譜のために…………)
ヴァレンタイン・デーに、姪たちからワインをもらったので、街の中心まで行って、何かお返しの物を選ぼうと思った。
早めに父の夕飯の支度をして、歩きはじめた。すこし長い散歩だ。
ところどころアイスバーンだろうが、”1時間30分かければ、帯広駅周辺にたどり着くだろ” と、思った。
こういう道を歩いて行くわけ。沿道があまりに、退屈そうでしょ。ほんと、退屈なんだ。(散歩、という概念とはあまり距離がある)。
歩道の氷が溶けて乾いていたので、1時間10分で西帯広から帯広駅前に到着した。
買い物をして、それを届け、また歩いて帰ってきた。帰りは、気温は氷点下、路面はすべる、すべる。まあ、ロング・ジャーニーではあった。
東京23区、路上のキスは勝手だが、路上で喫煙はできない。
指定された場所だけでタバコを吸えるが、路上での歩きタバコは条例で禁止されている。違反すると、罰金だ。(吸い殻をポイ捨てすることがダメということでなく、タバコを路上で吸うことを禁止している)。
東京23区だけでなく、わたしが住んでいた千葉県でも、駅周辺の路上でタバコは吸えない。歩きタバコは、2000円の罰金だ。
歩道のアスファルト路面にこの表示があるが、これは、お願い、警告、オドシではない。そんなヤワなものじゃない。
路上禁煙地区でタバコを吸っている人がいると、体格のいい、長身の柔道有段者のような、こわもての制服巡視員が二人近づいて、歩きタバコの人に声をかける。注意じゃない。その場で、罰金2000円を徴収するのだ。