いまの若いロック・バンドも、クリスマス・アルバムを発売している。これは、リライアント K というバンドが、2007年にリリースしたクリスマス・アルバムだ。
バンドのサウンドは、パンク・ロックっぽく荒々しいが、歌はメロディーが明快で美しい。リード・ボーカルは、ハンサムで歌がうまい。そして、日本のパンクと決定的にちがうのは、キリスト教の信仰を積極的にアピールすることだ。クリスチャン・ロックとか、クリスチャン・バンドというらしい。だから、アナーキーな、いわゆるパンクとは対極にいることになる。しかし、ことはそう簡単ではないようだ。これはもうすこし聞きこんでから論じることにする。
リライアント K Be My Escape http://www.youtube.com/watch?v=lvz0J0WBZPE&feature=related
スウィッチフット Switchfoot の11月10日発売予定のアルバム「Hello Hurricane 」。スウィッチフットも、インディーズ・レーベルでデビューした1996年当時は、クリスチャン・ロックという狭いジャンルでくくられていたという。 スウィッチフット Meant To Live http://www.youtube.com/watch?v=54WGYWyPU0I&feature=channel スウィッチフット Dare You To Move http://www.youtube.com/watch?v=uK_E7xS7AtQ
若いアメリカのバンドの映像をみていると、これが、なかなかおもしろい。ロックは、もう終わってる、と思っていたのだが、ちょっと待てよ、という気分になってくる。パフォーマンスも、サウンドも好みだし、詞が気になる。 リライアントK http://relientk.com/ スウィッチフット http://www.switchfoot.com/
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クリスチャン・ロックというなら、エルビス・プレスリーこそ元祖だろう。プレスリーは、母親思いの敬虔なクリスチャン。賛美歌のLPを何枚も発売して、毎年のようにクリスマス・アルバムを発売した。
1960年代、70年代の反戦、反権力、反国家、反キリスト教という、アナーキーで左翼的で、リベラルな傾向のロック・ミュージシャンと、エルビス・プレスリーは決定的にちがった。キリスト教信仰を誇りにして、非常に保守的で、愛国的だ。ここが50年代のスターなのだ。アメリカ国民が、自国の戦争を正義の戦いだと信じることができた時代の若者だ。
プレスリーは、ロックンローラーとして人気絶頂の1958年、徴兵に応じて、ドイツ駐留アメリカ陸軍に入隊した。これをマネージャーのパーカーは、プロモーションとして最大限に利用した。国家に奉仕する、良きアメリカ青年の模範というわけだ。政府とプレスリー側の利害が、かんぜんに一致した。
グリーンに染めた髪をリーゼントにして、腰を振って黒人みたいに歌う、パンクなロックンローラーは、これでかんぜんに保守層に受け入れられた。もう、悪魔の音楽で少年少女を扇動する危険な不良ではなく、華やかな芸能界の人気と高収入を捨て、貧しい若者とおなじように、歩兵として戦地へ赴いた国民的英雄なのだ。
(徴兵制度があった時代だ。徴兵を拒否すれば刑務所に行かなくちゃならない。プレスリーが軍隊に入隊したことは、とうぜんのことで、別に英雄的行為でもなんでもないのだが……。まるで義勇兵に志願したようにメディアは報道した)
リーゼントにバリカンを入れてG.I.カットにする入隊シーンも、除隊のときも、ニュース映画になった。その満期除隊が世界のニュースになっているとき、映画「G.I.ブルース」を撮影する。そして、テーマソング「G.I.ブルース」を発売して、映画もテーマソングも、世界じゅうで大ヒットした。アメリカ陸軍にとっても、こんなに安上がりで、最大の効果があがるプロモーションはなかっただろう。
こうして、エルビス・プレスリーは、少女たちはもちろん、パンクなロック小僧から、ごりごりの保守層のジジ・ババまで、左も右も、プロテスタントもカソリックも、共和党も民主党も、南部も北部も、あらゆるアメリカ白人をファンにしてしまったのだ。
エルビス・プレスリー G.I.Blues http://www.youtube.com/watch?v=JosUZjWUAkQ
エルビス・プレスリーの軍隊時代のおもしろい写真があるページ。http://www.elvispresleymusic.com.au/pictures/1958_1959_elvis_presley_army.html
オンコの実。本州では、イチイ、あるいはアララギ。ここらで「オンコ」は、通じない。短歌雑誌「アララギ」の名前の由来になっている木だ。帯広の祖父の庭に、太いオンコの木があった。たくさん実がなった。甘いてうまい。種や葉には、毒があるらしいが……。
夕方のWeb版のニュースをみていて、驚いた。今月おこなわれた、クレー射撃(トラップ)、全日本選手権の優勝者が、女性だ。クレー射撃は、強靱な精神力と体力が必要な、じつにタフな競技だ。12番口径の上下二連の散弾銃をつかうので、射撃の反動も大きく、銃も重い。競技時間も長い。勝負は、3日間つづく。
北京五輪クレー射撃で中山由起枝さんが、4位入賞で話題になった。だが、オリンピックのときは、女だけの女子クレー射撃トラップ競技での入賞だ。しかし、日本ではついに、男たちを破って堂々優勝する女性が登場した。http://www.tokyo-np.co.jp/article/sports/news/CK2009102802000209.html
優勝したのは、鈴慶子さん。東京新聞は「歴史的快挙」と書いている。まさにそうだ。今月の18日におこなわれた決勝戦のことだ。テレビとか、ほかのメディアは、どうして話題にしないのだろう。
日本クレー射撃協会のサイト http://www.jctsa.or.jp/
鈴慶子さんのブログ http://sweetnovember.no-blog.jp/
エイミー・マンのクリスマス・ショーは、ことしもロサンゼルスのナイトクラブ Largo である。4年つづいている。ことしは12月13日、14日の二日間。毎年、スケジュールをみて、みたい……と思うのだが……。
「I'll Be Home for Christmas (クリスマスはわが家で)」は、「ホワイト・クリスマス」とならんでもっともカバーされ、レコーディングされているクリスマス・ソングだろう。いまも、若いミュージシャンが年末に発売するアルバムにいれている。オリジナルは、1943年にビング・クロスビーが録音した。
曲のアイデアは、第一次世界大戦に出征した兵士が、故郷に帰って、愛する家族とすごすクリスマスを夢見て、戦地で書いた詩にある、といわれる。クリスマスに、家に帰れない人の歌なのだ。
戦場で戦う兵士も、出稼ぎの労働者も、親元をはなれたホームシックの学生も、残業や夜勤で家に帰れないサラリーマンも、コンサート・ツアーにでたミュージシャンも、単身赴任のお父さんも、家族を亡くした人も、さまざまな、クリスマスに家族とはなれて、寂しくすごす人が共感できる歌詞だ。
クリスマスに孤独でいる、だれもが感情移入できるのだ。これがスタンダードとして、70年ちかく歌いつがれている、大ヒットの重要な要素だろう。メロディーも、きっぱりと迷いなくセンチメンタルに美しい。
カーペンターズ I'll Be Home for Christmas http://www.youtube.com/watch?v=qLuW8joOge4
ビング・クロスビー I'll Be Home for Christmas http://www.youtube.com/watch?v=0NFUTVmEslY
ラスカル・フラッツ I'll Be Home for Christmas http://www.youtube.com/watch?v=iW8wMMIVBFM
今月発売のスティングの新譜は、冬の楽曲だ。前作「ラビリンス」は、16世紀~17世紀に活躍したイギリスの作曲家、ジョン・ダウランド(1563年~1626年)の作品をとりあげ、クラシックへの傾倒が話題になった。
新譜「ウインターズ・ナイト If On A Winter's Night …」は、自作のほかに、17世紀イギリスの作曲家ヘンリー・パーセルやシューベルト、バッハの曲も英語の歌詞をつけて演奏している。冬が好きだというスティングが、冬に触発され、冬に捧げたアルバムだ。とうぜん、シューベルトの歌曲集「冬の旅」から「辻音楽師」が歌われる。
イギリス人が、大学時代からジャズ・ベースを演奏し、ロック・ミュージシャンとして世界的に成功する。そうして年をかさねると、自分たちの伝統音楽であるクラシックに帰るのは、自然なことなのかもしれない。(ポリスを結成するまえ、教育大学をでて小学校で国語を教えていた、という経歴の人だ。クラシックに回帰するのもわかる)。
この冬のアルバムは、クリスマス・アルバムでもあるようだ。
10月の終わりは、クリスマス・アルバムが発売になる季節だった。1950年代、60年代には、ヒットしているミュージシャンは、この季節になるとクリスマス・ソングをだしたものだ。クリスマス・アルバムを発売するのは、売れているスターのステイタスだった。
最近でもいいアルバムがある。3年まえに発売になったエイミー・マンのクリスマス・アルバムが好きだ。エイミー・マンは、ロック以前の曲で、クリスマス・アルバムをつくりたかった、という。http://www.youtube.com/watch?v=bI2TvaoCEAU&feature=related
エイミー・マン Whatever Happened To Christmas http://www.youtube.com/watch?v=seiYZgc4duk&feature=PlayList&p=D87526C095C750A4&playnext=1&playnext_from=PL&index=34
このエイミー・マンが歌う「 Whatever Happened To Christmas?」は、いまや忘れられていたクリスマス・ソングのひとつだろう。オリジナルの録音は、1968年、フランク・シナトラが歌った。作詞・作曲・アレンジは、ジミー・ウエッブだ。(you tubeの映像では、ふたりの歌う動画はみつけられなかった)。
ジミー・ウエッブは、作詞と作曲と編曲、そしてプロデュースをひとりでこなす才人だ。分業化されているアメリカではめずらしい音楽家だ。ピアノを弾いて、じぶんの曲をステージで歌う。アルバムも発売している。シンガーソングライターの草分け的な存在だった。
この曲 Whatever Happened To Christmas?がはいったシナトラのアルバム・タイトルは、The Sinatra Family Wish You a Merry Christmas。シナトラが、じぶんの娘、息子とつくったアルバムだ。1999年にCDで再発売になっている。
The Sinatra Family Wish You a Merry Christmas
作詞・作曲のジミー・ウエッブは、たくさんのヒット曲がある。フィフス・ディメンション「ビートでジャンプ Up,Up,And Away 」、グレン・キャンベル「恋はフェニックス By The Time I Get To Phoenix 」、「ウイチタ・ラインマン」、「ガルベストン」。そして、1968年にリチャード・ハリスが歌って大ヒットした、「マッカーサー・パーク」がある。
イギリスの俳優、リチャード・ハリスは、日本では役者としか知られてないが、シンガーでソングライターでもあった。「マッカーサー・パーク」では、グラミー賞にノミネイトされた。リチャード・ハリスは、2002年10月に亡くなった。
リチャード・ハリス MacArthur Park http://www.youtube.com/watch?v=amzJDSsC2IA
リチャード・ハリスのオリジナル・ヒットから10年、「マッカーサー・パーク」は、ドナ・サマーのカバーしたディスコ・バージョンが、再び大ヒットした。1978年のことだった。 http://www.youtube.com/watch?v=QfL7Gk7Fpes&feature=related
カーペンターズには、2枚のクリスマス・アルバムがある。
カーペンターズ Merry Christmas Darling http://www.youtube.com/watch?v=QnT8sYz_ASk&feature=related
ジミー・ウエッブ オフィシャル・サイト http://www.jimmywebb.com/index.html
スティング アルバム「ウンターズ・ナイト」のサイト(日本語) http://www.universal-music.co.jp/classics/artist/sting/ucch1028/index.html
スティング オフィシャル・サイト http://www.sting.com/
エイミー・マン オフィシャル・サイト http://www.aimeemann.com/index.php
ドナ・サマー オフィシャル・サイト http://www.donnasummer.com/?content=home
ここ数日の、突然の寒さときょうの陽気が刺激になったのか、部屋のまえの歩道に、タンポポが咲いていた。
きょうは、悲しいくらい美しい秋晴れだ。気温は、25度。
ところがきのうは、台風接近、雨と強風、まるで真冬のような低温。わたしは、真冬でもそんなに使わない暖房をいれた。突然のはげしい気温変化は、こたえる。
そんな寒い嵐のなか、夕暮れの恵比寿で、似内清高くん、平田てつやくんと待ちあわせて、モツ鍋でビールを飲んだ。
清高くんは、帯広柏葉高校の学生のときから、わたしのレコード店の優秀な、無給のスタッフだった。ボランティアで、さまざまなことを手助けしてくれたのだ。サウンドコーナー・サッカー・クラブでも大活躍した。
そして、わたしのプロモーターの仕事を助けてくれた。家業のスーパー・マーケットのライトバンに、バンドの楽器をつんで、広い北海道を走りまわってくれ、コンサート会場でも活躍してくれた。
てつやくんは、元キャデラックスリムのギタリストだ。帯広にいたときは、わたしのレコード店で働いてもらったこともある。バンドが解散したあとも、ずっと、音楽を職業にしてがんばっている。
3人で会うのは、30数年ぶりのことだ。
30年いじょうまえのこと、わたしは、レコード・メーカーのコンベンションで上京した。その夜、中学生や高校生のときからレコード店のお客さんだった人たちが集まってくれた。吉祥寺の居酒屋が「マグロ・ディー」なので、安い、と大学生らしい提案で、マグロをサカナに飲んだのだ。
集まったのは、帯広出身の人間だが、そこに、デビューしたばかりの浜田省吾さんが来てくれた。浜田さん、22才のときだ。
清高くん、てつやくん、わたし、3人がいっしょに顔をあわせるのは、その夜いらいのことだった。じつにたのしかった。帯広時代の話はつきない。東西線の終電に乗りおくれそうになって、あわてて地下鉄日比谷線に乗った。
帯広三条高校合唱部OGのkameさんから、全日本合唱連盟のホームページを教えていただいた。わが三条高校合唱部は、金賞、文部科学大臣賞を受賞している。http://www.jcanet.or.jp/jca/concour/2009con-kekka01.htm
わたしの高校時代も、三条高校合唱部は全国大会に出場していた。部長は、わたしの友人、橋本時比康くんだった。上田文雄・札幌市長も合唱部メンバーだ。「十勝の木のうつわ」工房の佐々木要くんもまた名テナーだった。わたしたちは、昭和42年の卒業、帯広神社まえの旧校舎のときだ。
この旧校舎を解体したときのドキュメンタリー映画がある。最後の一年の学園生活を記録している。この映画をみると、三条高校出身者は、みんな泣く。いっしょにみていた帯広柏葉高校出身者も泣いていた。三柏定期戦の光景も映像にあるのだ。
帯広・旭楽器社長・田中康雄くんが歌う、「緑が丘公園ブルース」。http://www.youtube.com/watch?v=FrI3DUlqEE8 康雄くんは、浜田省吾・北海道コンサート・ツアーの最初のドラマーだ。
名古屋の叔母が亡くなって、もう一年。そのことは、去年書いた。
十人姉妹、二人の兄、という大家族の一番下だ。相続の問題がやっかいだったのだ。もめたわけじゃなく、人が多い。すごい老人も、行方不明の人もいる。叔母の車を合法的に廃車にするだけでも、相続人全員の印鑑証明が必要だった。
12人の子供を産んで、94才まで元気だった。わたしの祖母だ。死ぬすこしまえまで、自炊をしていた。わたしの両親と同居していたのだが、じぶんの飯は、じぶんで作っていた。それが、故郷・会津の伝統だ、といっていた。
家督を息子にゆずって隠居すると、老夫婦は、離れで暮らし、かまどは別なのだ、と。そういって死ぬすこしまえまで、じぶんの食事はじぶんで作っていた。94才、すごすぎる。わたしの祖母だ。遺伝はしてない。女の人は、すごい。男は……
名古屋の叔母は、杖をついた老婆になっても、いつも財布に30万円をいれていた。近所の人や米屋の人がいっていた。いつも現金で支払い、配達のお兄ちゃんには、チップをあげる。この叔母の遺伝子も、わたしには、遺伝してない。
名古屋駅ビル。
名古屋駅前。
上の写真と反対側の駅前広場。ここにもビッグカメラの大きな店舗がある。
名古屋駅から地下鉄にのって、藤が丘という駅までいく。そこが叔母の暮らした街だ。いつもその車両が混んでいて、若者が多い。途中の駅にも、この終点の藤が丘にも大学がある。
名古屋にいく! あれも食いたい、これも食いたい、と、東海林さだおさんのようになる。しかし、きょうはダメだった。
きょうの名古屋は、まるで北海道の真夏のように暑い。朝の新幹線で着いて、亡くなった叔母の車を廃車にするために、午前ちゅうから歩き回った。そして、叔母の家の庭の草を刈り、立木の枝をはらった。そのまま、炎天下で、不動産、リフォーム、解体の業者のひとたちと、叔母の土地・家屋を売りに出すための打ち合わせをして、午後3時。
とりあえずの仕事は、終わった。帰りたい。ホテルに泊まりたくない。新幹線で、2時間で、東京だ。
東京駅から、わたしの部屋まで、20分くらいか。4時30分の新幹線にのれば、7時には部屋にいる。帰ろう。
そんなわけで、新幹線の待ち時間で、新幹線改札口のラーメン横丁「名古屋・駅麺通り」で、名古屋ラーメン750円を食べた。うまかった。名古屋まできて、駅ビルのラーメンかい、と思ったが、うまかった。
冬の花、さざんかが咲いている。そんな季節になってしまった。
東京メトロ東西線、南行徳駅一階の花屋に、なぜかリンゴが売っていた。
西友の850円ジーンズ。ジーンズの本来的性格(普段着、作業着)からすると、わたしには、850円で十分だ。スーパー西友の紳士服売り場で、あまり若者の姿はみないが、これは売れているようだ。数日まえ山積みだったのが、売り切れのサイズもある。わたしのような、中年、老人の男たちが買っているのかな。
ジーンズと呼ばれるまえは、Gパンといっていた。そのまえは、デニムといっていた。デニムのズボンは、子供のときからはいていた。そのズボンは、安くて丈夫だった。
850円ジーンズは、普段着、作業着の、デニム・パンツの本来的な価格にもどったのかな。
5000円スーツも西友の目玉だ。上着が3400円、ズボンが1600円。これが意外とよくできている。通勤だけに着るとか、大学生の就職活動なら、これで十分だろう。それに、よれよれ、テカテカ、くたくたのスーツを着てるより、新品の5000円スーツを着ているほうが、はるかに好感度は高いだろう。
あすは、名古屋。ブログを更新する時間はない、かもしれない。昼は、味噌カツにしようか。名古屋は、何を食べても、はずれなくうまいのでたのしみだ。
靖国神社、大鳥居、午後4時。
夕暮れの、この時間の参道が好きだ。参道のイチョウ並木は、まだ、緑。
午後5時で門が閉まるので、この時間の靖国神社境内は、とても静かだ。こうして、夕暮れか、朝に参拝するのが好きだ。昼間は、たくさん人がいる。
かって戦場で、あらゆるものの運搬に活躍したのは、馬だ。騎兵という馬に乗って戦う将兵もいるが、大砲も、砲弾も、弾薬も、食料も、すべて馬が運んだ。トラックの時代になっても、ロクに道がないところでは、馬車が活躍した。荷馬車が通れない山道では、馬の背に武器弾薬をのせて運んだ。エンジンの燃料が手に入ら無いところでも、馬が、高射砲を引き、弾薬を載せ、食料を運んで、戦場の最前線で活躍した。大昔のはなしじゃない。第二次世界大戦のときだ。
北海道・帯広に近い音更町に、十勝種畜牧場という広大な牧場がある。あそこでは、かって、軍馬を育成していた。
日本の将兵といっしょうに、戦地にいった馬は、100万頭をこえる、という。その一頭も生きて帰還してない。そして、ほとんどシェパード種だが、数多くの軍犬が戦地で活躍した。最前線の警備と、伝令に活躍した。この犬たちも、一匹として、日本に帰ってくることはできなかった。
その軍馬と軍犬に感謝して、霊をなぐさめる像が、靖国神社境内にある。
午後7時すぎに、銀座の、勝毎(十勝毎日新聞社)が経営するレストラン・十勝屋のまえを通った。混んでる。予約のないお客を断っていた。この写真のふたりは、このあと、断られた。
十勝屋は、3周年だ。
十勝屋の向かい、オイスター・バーの店頭。ここも超満員、大繁盛だ。
銀座の中央通りにもどって、日本橋まで歩いて帰ることにした。
三愛の招き猫。
猫は、花屋の店先にある。
山野楽器の店頭は、ビートルズ。
このソフト帽は、85,000円。じつにいい。
きょうの散歩は、ここまで。
日本橋・高島屋の地下におりて、地下鉄にのる。歩く時間もいれて、30分以内でじぶんの部屋で寝ころんでいられる。電車代、230円。
高島屋の店頭の靴屋。このBerluti 日本上陸10周年記念モデルは、182,175円、だそうだ。
きょうの気温は、27度。まるで真夏にもどったようだった。
嵐が接近するまえ、放電のすさまじいうえなりをあげていた鉄塔。きょう、下を通ると、まったく音はしない。静かなものだ。このまえの、あの不気味な轟音がウソのようだ。
もしいま、ゴッホの絵が、オークションにでれば、世界でもっとも高額な値がつく絵だろう。商品として、高額で取引される。とうぜんのことだ。ゴッホは、それを意図していたのだから。
ゴッホは、わき上がる創作意欲と情熱にまかせて、無闇やたらと描きなぐっていたわけではない。商品としての絵画を描いている、という意識と計算があったのだ。素人画家が、たまたま大天才で、偶然、傑作を描いていた、というわけじゃない。なぜなら、ゴッホは、画家になるまえは、画商だったのだ。
叔父がパリで設立した画商、グーピル商会のハーグ支店に就職したのは、1869年、16才のときだ。ロンドン支店にも勤務している。パリ本店でも働いている。1876年に退職するまで、7年間も画商の社員だった。それも、十代の後半から二十代はじめの、感性がみずみずしく冴えている年令のとき、絵を買い付け、絵を売ることを職業にしていたのだ。
画商・グーピル商会で働いているころのゴッホ。
つまり、ゴッホは、画家になるまえ、すでに、商品としての絵画の流通に精通していた。どんな絵が売れるか、よく知っていたのだ。
そして、ゴッホは、27才にもなって、本格的に画家になる決心をする。ブリュッセルの美術院にはいる。十歳も若い学生に混じって、基礎から絵画の勉強をした。油彩や水彩の習作を描きはじめるのは、翌年、1881年からだ。1890年には、ピストルで胸を撃って自殺するから、画家であったのは、たった10年間くらいのことなのだ。
画商だった経験で、じぶんの絵はヒットすると確信していた。やはり画商・グーピル商会パリ店長だった弟テオも、兄の絵がうけると信じていた。だがしかし、ゴッホの絵は、生きているあいだ一枚も売れない。たった一枚だけ、パン屋のおやじが、貧乏なゴッホに同情して、パン代の代わりに絵を受け取ってくれた。その一枚だけが、生前に他人が受け取ってくれた絵だ。
画廊に並ばなかったわけじゃない。弟テオは、パリのグーピル画廊店内に兄のコーナーをつくったりして、売ろうとした。しかし、一枚も売れない。
大衆が、愚かだ、ということだろうか? 評論家がほめて権威づけたり、サロンで賞をとったり、皇帝や王族が買い上げたり、新聞が煽って書いたり、そんなことでもないと無名の画家を認めようとしないのか? じぶん自身の審美眼というものがない。じぶん自身の美意識で判断する勇気がない。このときの画廊のお客には、無名の貧乏画家ゴッホの作品を評価する能力がなかった。それはたしかだ。
評価もされず、一枚も売れず、ゴッホは、貧困のなかで絶望して、じぶんの胸をピストルで撃つ。郊外の畑のなかで撃つのだが、弾丸は、急所をはずれて、歩いてじぶんの部屋にもどり、苦しみぬいて死んでいった。最後まで可哀想な人だ。
いま最高値がつく絵なのだから、ゴッホは、画家としてはもちろん、画商として、きわめてすぐれていたわけだ。
なかなか美しいクモだ。
近所のてんぷら屋さんのメニュー。なかなか。安くない。特別定食6000円、が気になる。
このザクロの木もすごい。そうとう古い。
「本日のおすすめ。Food、カマンベール味噌のせ焼き 1200円。剣先あたりめ 750円。えいひれあぶり焼き 600円。チーズ盛り合わせ 800円~」
となりは、バー。
営業時間、20:00~9:00 がすごい。
警備員の制服を着て、東京の街に立っていると、よく道をきかれる。それも若い男たちにきかれる。若いサラリーマンや、リクルート・スーツを着た若者たちだ。
いまは、たいがいヤフーやグーグル・マップからプリント・アウトしたコピーを手にしている。地図をもっていて、どうして、わたしのようなジジイに道をきくの? とわたしは思う。地図を手にして、地図の上のどこにじぶんがいるか、という基本がわからないのだ。
プリント・アウトした地図を、わたしにみせて、「警備さん、ここに行きたいのですが?」という。ほとんどは逆の方向にきている。「反対に来ているから、もう一度、駅にもどって、そこで道をきいたほうがいいね」と、わたしはいう。
会社説明会のプリントをみせてくれるリクルート・スーツの若者たちも多い。大汗をかいて、ここをさがしてます、という。その紙に地図があって、集合時間が書いてある。『もう、時間が過ぎてるじゃないか』と、思いながら、「走っていっても、20分くらいはかかるな」と、道順を教える。
「地図は、上が、北なのね」と、街のなかでプリント・アウトの地図をもって道に迷った青年たちにいう。「エッ?」と、いわれる。なに、ジジイ、ナメてるのか、と敵意むきだしの顔になる。
『この紙の上が、北なのね。これが地図の約束ごとなの。太陽は南にあって、いま、午前11時だから、だいたいの真北はわかるよね。だったら、その紙の上を北にあわせて……そこで、あのコンビニが地図でみつられかい? みつけられたら、じぶんがその地図のどこに立っているか、わかるでしょ』と、教えてやれるといいのだが、ジジイ、うざい、を感じるから、ニヤニヤ笑いでやりすごす。
わたしたちは、小学の低学年で、地図の上は常に北、と習った。例外のときは、→N か、→北、が地図のなかに表記されている、と。最近の高学歴の人たちは、地図を持って山も歩けないのか?
バリバリのスーツを着たやつらや、大学生らしい黒スーツの青年が、ヤフーやグーグルの地図を持ちながら街に迷う。これじゃ、とても、日高山脈やニペソツは歩けない。
ヘミングウェイが、1899年に生まれた家。お屋敷といっていいだろう。
アーネスト・ヘミングウェイが生まれるまえの、若い両親。
文豪でも、だれでも、たれ流しのガキのときがある。しかし、このパパ・ヘミングウェイは、かしこそうなガキだ。
文豪アーネスト・ヘミングウェイの父は、裕福な開業医だった。母グレースは、音楽教師で、チェロも教えていた。若いときはオペラ歌手を志した人だ。長男アーネストにプロフェッショナルなチェロ奏者になってほしいと思い、小さいときからチェロを教えていた。
ヘミングウェイの文体の簡潔さとリズムは、音楽的だ、という人もいる。
しかし、ヘミングウェイは、父親の影響で、音楽より、マス釣りとカヌーとハンティング、そして、文学に興味が移っていく。
ハイスクールでは、フットボールとボクシングに熱中した。マッチョ、(日本でいえば)体育会系だが、しかし、英語(つまり国語)の成績が抜群に優秀だった。短編小説の習作と詩が残っている。それはもうハイスクールのレベルじゃない。
日本では、いつのころからか、文学は、虚弱体質か、病気がちの青年の分野みたいになっているが、日本には、文武両道という言葉がある。武闘派のマッチョも、和歌をつくり、漢文を理解し、算術ができ、たくみに文章を書けなくちゃダメ、という伝統だ。
ヘミングウェイの話にもどろう。ヘミングウェイは、魚釣りが好きで、カヌーが好き、ヨットが好き、つまり、アウトドアー・ライフが好きだ。しかし、いまのレジャー感覚とは、すこしちがう。銃が好きで、狩猟が好きで、そして、戦場が好きなのだ。戦場は、究極のアウトドアー・ライフだ。
ハイスクールを卒業すると、父親が希望した大学進学をせず、おじさんのコネをつかって新聞社に就職する。「カンサス・シティー・スター」新聞の使い走りの記者になる。
そして、第一次世界大戦の泥沼、地獄のヨーロッパ戦線に志願していく。従軍記者じゃない。イタリア戦線(ドイツ軍がイタリア北部に侵攻していた)の最前線で、赤十字の救急車(トラック)のドライバーになる。
交戦状態のなかで、イタリア側からトラックをだして、イタリア兵の遺体と負傷者を収容する部隊だ。若いヘミングウェイは、赤十字の救急トラックを運転して、交戦中の前線から、イタリア人負傷兵をトラックにのせ、野戦病院まで運んだ。
救急トラックは、敵の砲撃の目標になって爆撃される。前線の歩兵からの襲撃もうける。なかなか、きつい。このとき、ヘミングウェイ、まだ10代のおわりか、20代のはじめか、そんなときだ。
イタリア兵を救った、というこうことで、イタリア政府から勲章をもらっている。(このとき前線ではトラックに書いてある赤十字のマークは、あんまり意味はないようだ。激しく攻撃の目標になるようだ)
そうして、若いヘミングウェイは、負傷する。10代のおわりころにも、20代のはじめにも、何度か戦場で負傷する。回復すると戦場にもどるのだ。徴兵されているわけじゃない。志願して前線にいくのだ。まさにボランティアだ。このときは、イタリア軍の軍服を着て、前線で負傷兵と遺体を収容していた。
負傷してもめげない。戦場が好きだ。スペイン市民戦争にもいく。第二次世界大戦では、キューバの島で、じぶんのヨットでドイツのUボートを追跡したりする。そして、パリに最初に入城した、という話も残っている。連合軍がパリを解放するまえに、パパ・ヘミングウェイたちジャーナリスト・グループがパリに入っていた、という伝説だ。
そのジャーナリストたちは、武装していて、ヘミングウェイが、ボス、指揮官で、写真家ロバート・キャパもいた。パリに最初に入ったのは、連合軍ではなく、パパ・ヘミングウェイをボスとする、作家と写真家の人たちだった。ヘミングウェイが先頭に立って、ドイツ兵たちと交戦して、敗走させた。だから、パリに入ってくる連合軍を撮影できたのだ、という。この伝説が、好きだな。
従軍記者たちが武装して戦ったのは、国際法に反しないか、と、非難があったらしい。しかし、パリのヘミングウェイは、腰にコルト45をさげていた。
銃と、魚釣りと、戦争と、闘牛とボクシングと、女と酒が、好きという人だ。動物とも、人とも、殺し合いをしてきた。60才をすぎて、身体の自由がきかなくなったら、どうするか、知っていたのだろう。じぶんの小説で、なんどかテーマにしてきたことだ。
東芝EMIから発売された加藤和彦さんのアルバムに、「パパ・ヘミングウェイ」がある。
「老人と海」でノーベル文学賞を受賞した、アメリカの作家・アーネスト・ヘミングウェイは、50代おわりから躁鬱病に苦しみ、61才のとき、じぶんのライフル銃で自殺した。1961年7月2日のことだ。
孫の女優マーゴ・ヘミングウェイは、41才のとき自殺した。35年まえ、祖父アーネスト・ヘミングウェイが自殺したおなじ日、7月2日に亡くなった。1996年のことだ。日本では、映画「リップスティック」(1976年)がヒットした。
アーネスト・ヘミングウェイの、医者だった父親ドクター・クラレンス・ヘミングウェイは、1928年、ピストルで自殺している。
ヘミングウェイの妹 Ursulaは、1966年、64才のときに薬で自殺。末の弟Leicester は、1982年、67才のときに、兄アーネスト・ヘミングウェイとおなじように銃で頭を撃って自殺した。
ヘミングウェイは、ノーベル賞授賞式には出席してない。ヘミングウェイにとって、そんな賞は、どうでもよかったのだろう。
1915年。ヘミングウェイ一家。ネクタイの青年が、文豪アーネスト・ヘミングウェイ。母親に抱かれているのが、末っ子、Leicester.