Ommo's

古い曲が気になる

十勝川のイトウの記録は、2メートル10センチ

2009-04-30 | 日記・エッセイ・コラム

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 今夜は、空気が乾燥して三日月が美しい。このブログ、きのうは一日のアクセスが、1000回を超えた。

 
 世界卓球、女子シングル、石川佳純選手の2回戦の勝利にはジーンときた。相手は、世界ランキング10位の中国人・帖。3ゲーム先取されてからの逆転だった。

 

 然別湖のヤマトザリガニがいなくなったのは、水質の劇的な悪化だとおもう。不気味なのは、然別湖に生息していなかったウグイが大繁殖していることだ。ウグイは、やたらと汚染に強い。

  

 わたしの小学生のころ、帯広川はまだそんなに汚くはなかった。急激にドブ化したのは、台所用洗剤、電気洗濯機、水洗便所などが普及しはじめてからだ。初期のころ、水洗トイレの汚水は下水に流され、下水は直接帯広川に流れこんでいた。帯広川にそそぐウツベツ川(弁慶川)がとくに汚く、合流点の下流と上流ではまるで水の色がちがっていた。

 

 西4条の橋の上から、のぼってくる鮭が見えるくらいきれいだった帯広川から、最初にいなくなったのは、川エビだった。つぎにヤツメ(スナキリ)とカジカ(ドンカチ)がいなくなり、ドジョウが消えた。カジカは、醜くいごつい姿のわりに非常に繊細で清流を好む。十勝川の十勝大橋のあたりにもたくさんいたが、わたしが高校生のころ、とつぜん、消えた。きっと、エサにしていた、石の下にすむ水棲昆虫が、汚染で消えてしまったので、生きていけなくなったのだろう。

 

 つぎに帯広川から姿を消したのは、フナだった。そして、鯉がいなくなった。最後に残ったのは、ウグイだった。ウグイは、ドブのようになった帯広川にも群れていた。

 電気屋の祖父が少年のころ、十勝川にはチョウザメがいたという。イトウは、生きたドジョウを餌にしていくらでも釣れた、ともいう。イトウは、いまでもわずかに住んでいるだろうが、十勝川の記録は、なんと2m10㎝だ。1937年(昭和12年)、豊頃あたりで網にかかった。巨大だ。ジャイアント馬場さんクラスの大きさだ。馬場さんは、209センチだった。馬場さんのような、あんなでかい魚が、かって十勝川を泳いでいたわけだ。想像すると、たのしい。

 帯広の街にでてきて電気屋をやるまえ、祖父は、芽室の伏古で父親と農業をやっていた。畑仕事の合間に、十勝川の古川で、でかい鯉を釣って、馬に乗って、帯広の料亭にもっていくと、当時の土工の日当くらいで売れた、という。農夫の若者にはいい小遣いかせぎだった、という。

 チャーリー・パーカー with チェット・ベイカー http://www.youtube.com/watch?v=mr2-sOiagNg&feature=related

 

バード・アンド・デイズ+3 バード・アンド・デイズ+3

 

 チャーリー・パーカーとディジー・ガレスビー http://www.youtube.com/watch?v=91dolWWdetI

 クリント・イーストウッド監督がこういってる。「わたしはモダン・ジャズといっしょに育った。……十四歳のとき、ビューグル(ラッパ)を吹けるようになった。当時はあまり知られてない楽器だが、いまではとても重要な楽器になっている。その後、学校でコルネットを吹くようになった。それから、バーでピアノを弾いてみた。オークランドのオマー・クラブでラグタイムやブルースを弾いた。そこでタダで食事をさせてもらっていた。

 学校では、リズム・アンド・ブルースをやり出した。それから、フィルハーモニック・コンサートに通いつめた。チャーリー・パーカー、コールマン・ホーキンス、レスター・ヤング、その他有名なジャズマンが出ていた。その頃、ウエストコースト・ジャズが人気を集めはじめていた。五十年代はデイブ・ブルーベックとジェリー・マリガンの二大スターに夢中だった。彼らがまだ地元でしか人気がなかった頃、すでにわたしは授業をサボって彼らの演奏を聴いていた」  (『映画作家が自身を語る 孤高の騎士 クリント・イーストウッド』 マイケル・ヘンリー・ウィルソン編 フィルム・アート社 2008年)

Time Out


週刊文春と週刊新潮の発売日なのだ

2009-04-29 | 日記・エッセイ・コラム

307  週刊文春と週刊新潮の山の差。

 週刊文春も週刊新潮も、ゴールデンウイーク版なので、水曜日のきょう発売だ。(コンビニには、きのうの夜ならんでいた)。いつもはおなじように減っていく両週刊誌の山が、ぜんぜん違う高さだ。驚いた。これは、近所の西友4Fの書店、きょうの午前中の写真。おそらく、最初はおなじ高さだったはずだ。つまり、週刊新潮がぜんぜん売れてない。

 

 週刊新潮が、朝日新聞襲撃犯のニセ告白連載で、すっかりミソをつけて、読者に愛想をつかされたのだろうか? あるいは、週刊文春のグラビア・原色美女図鑑が、「滝川クリステルー太陽の下のクリステル」、だからだろうか? 週刊新潮のほうの山が、すこしぐちゅぐちゃなのは、お客が手にとって、櫻井よしこさんと高山正之さんのコラムを立ち読みして、買わずにもどした、ということだろうか。

 

 週刊新潮の編集長は、単純に自称真犯人にだまされたのだろうか? あるいは、なにか大がかりな組織の陰謀に、はめられたのだろうか? これが気になる。とても残念だが、週刊新潮が、長年の愛読者の信頼を失ったのは事実だろう。

バード [DVD] バード [DVD]

 

 クリント・イーストウッド監督の「バード」は、1988年の作品だ。チャーリー・パーカーへのオマージュだ。クリント・イーストウッドは、16才のとき、オークランドでチャーリー・パーカーのステージを見たという。レスター・ヤングがアイドルで、レスター・ヤングを見にいったら、共演者がすごかった。チャーリー・パーカー、コールマン・ホーキンス、フリップ・フィリップス、ハワード・マギー、ハンク・ジョーンズだ。「すごい面々だろう?」と、クリント・イーストウッドはいってる。

 


イーグルスは、リンダ・ロンシュタットのバック・バンドだった

2009-04-25 | 日記・エッセイ・コラム
   
ホワッツ・ニュー  

 

 

 戸張良彦さんのサイトに、氷の然別湖の写真がある。http://www.y-tobari.jp/topics/?ct=1 然別湖の氷は、ゴールデンウイークが終わるころまで残っている。北海道・大雪国立公園の然別湖は、標高800mの高さにあるので、寒い。日本の桜前線の最後じゃないだろうか。青い湖のほとりに咲く、白く小さいミヤマザクラの花が美しい。六月の桜だ。

 

 むかし、然別湖のオショロコマ釣りは、毎年、氷が張ってるときから解禁になった。ホテルは冬のあいだ休業で、道は、展望台までしか除雪されなかった。展望台に車をおいて、釣り竿とリュックを背負って、雪のなかの、一本道の踏みあとを氷の湖面まで歩く。原生林のなか、吹きだまりがあったり、積もった新雪をラッセルすることもある。リュックのなかは、魔法瓶の熱いお茶と弁当だ。

 

 オショロコマは、赤い斑点があるイワナで、然別湖のやつは肉が赤い。イワナは白身だが、この湖のオショロコマは、サーモン・ピンクなのだ。

 
 

 解禁のとき、氷の厚さは、まだ50センチ以上ある。鍛冶屋につくってもらった、1メートル以上の長い柄のノミで、時間をかけて突いて、穴を開ける。ドリル状の道具は、まだ釣具屋で売ってなかった。氷を突きぬいた瞬間、勢いで、鉄の重いノミは、手からすっぽぬけて湖底に落ちてしまう。水深は100mもある。特製のノミは高い。大きな損害だし、つぎの穴を開けられない。失敗から学習して、ノミの柄にヒモをつけて、首にかけることにした。

 

 5本くらいの針に、エサはブドウ虫やミミズをつけて、どんどん底まで落とす。深いところでは100mをこえる。ワカサギの穴釣りの大がかりなやつだ。トンと重りが底について、ひと巻きくらいのところで待つ。棚は季節が暖かくなり、氷が薄くなると、浅くなる。大きなのでは30センチ超の魚体で、卵をもっているのも多い。上手な人は、数十、百匹とあげる。

 

 このオショロコマのイクラを醤油漬けにして、飯にのせて食べる。粒は小さいが、独特の臭味と味があって、なかなかうまい。サーモン・ピンクの身は、塩焼き、てんぷら、フライ、なんでもじつにうまい。 

 

 ゴールデンウイークがすぎ、氷が落ちると、ボートをだして釣る。夏になり、水温がどんどん上がると、ボートを漕ぎなら、エサを引いてのトローリングでなくちゃ釣れなくなる。しかし、釣れる数は毎年毎年少なくなっていった。

 

 そんなときから、解禁時期がどんどん短くなって、いつごろだったか、通年全面禁漁になった。いまは、期間で解禁になるのだろうか。

 

 湖にカヌーをだしていると、黒い雲が流れるように、ワカサギの大きな群れが水の色を変えてやってくる。すると、そのあとを巨大な魚が追ってくる。ニジマスだ。湖岸で群れているのは、ウグイの大群だ。湖畔のボート乗り場に真っ黒く群れている魚は、ウグイなのだ。異常に繁殖している。「オショロコマだ!」と、観光客がエサをやっている魚は、然別湖にはいなかった魚、ウグイだ。

 

 (これは、20年以上まえの然別湖畔の情景で、いまはもう、あのウグイの大群は駆除されているのかもしれない。わたしが然別湖にカヌーをだしていた20数年まえ、すでに在来のザリガニは、完全に姿を消していた。高校生のとき、あれだけいたザリガニとオショロコマがいなくなり、ウグイとニジマスが大繁殖して、岸近い湖底の岩にヘドロ状の堆積物が一面に付着していた。ショックだった。短期間で劇的に水質が悪化したのだろう。いまは、綺麗になっているのだろうか? もう一度、然別湖にカヌーをだしたいものだ。じつに美しい風景の湖なのだ)。

 

Living In The USA Living In The USA

 

 イーグルスは、リンダ・ロンシュタットのバック・バンドがオリジナル・メンバーだ。1971年のこと。だから、1975年末にハードロック・バンド、ジェームス・ギャングのギターだったジョー・ウォルシュが加わった。

 

 

 イーグルスのベスト・アルバム「グレーテスト・ヒット・1971~1975」は、マイケル・ジャクソンの「スリラー」をおさえて、現在まで、アメリカでもっとも売れたアルバムなのだ。2,900万枚が、ことしの一月までの記録だという。「グレーテスト・ヒット Vol.2」も、1,100万枚、「ホテル・カリフォルニア」が、2,000万枚以上売れている。

 

 イーグルス・オフィシャル・サイト http://www.eaglesband.com/

 

 

グレイテスト・ヒッツ 1971-1975(スーパー・ファンタスティック・ベスト2009)  

 

 

  ジェームス・ギャング Walk Away http://www.youtube.com/watch?v=vUud1VvdQsU

 ジョー・ウォルシュ Funk 49 http://www.youtube.com/watch?v=y3lEqVAroX4&feature=related

 

Live in Concert Live in Concert

 

 

 ジェームス・ギャング.com  http://www.jamesgangridesagain.com

 

 馬の写真が印象的なアルバム・ジャケットの「ジェームス・ギャング・ライブ・イン・コンサート」は、サウンドコーナーではよく売れた。発売は、1971年(昭和46年)だった。

 

 

 ジョー・ウォルシュ・オフィシャル・サイト http://www.joewalsh.com/

 ドン・ヘンリー・オフィシャル・サイト http://www.donhenley.com/

 

 

 リンダ・ロンシュタットのアルバムでは、ネルソン・リドル指揮のオーケストラをバックにジャズのスタンダードを歌う「ホワッツ・ニュー」が好きだ。1983年、プロデュースは、ピーター・アッシャーだ。

 

 

 ピーター・アッシャーは、イギリスのデュオ、ピーターとゴードンで「愛なき世界」のヒット曲がある。妹の女優、ジェーン・アッシャーとビートルズのポール・マッカートニーが同棲していた。「愛なき世界 A World Without Love」は、ポール・マッカートニーの作詞・作曲だが、クレジットはレノン/マッカートニーになっている。1964年、イギリスとアメリカでヒット・チャートの№1になった。日本でも大ヒットした。じつにポールらしい名曲だ。

 

 

 ピーターとゴードンを解散して、ピーター・アッシャーは、ジェームス・テイラーのアップル・レコードからのデビュー・アルバムをプロデュースして、アメリカに渡りる。ボニー・レイト、リンダ・ロンシュタット、シェールなどかずかずのミュージシャンのアルバム制作を手がけて、1977年と1989年、二度もグラミー賞のベスト・プロデューサー賞を受賞している。以来現在にいたるまで数多くのヒット・レコードを制作している。アメリカ・ポップス界でもっとも成功しているプロデューサーのひとりだろう。

 

 

 ポール・マッカートニーとジェーン・アッシャーhttp://www.youtube.com/watch?v=NxncY61kF5E&feature=related

 ピーターとゴードン 愛なき世界http://www.youtube.com/watch?v=TeP8QvElQKU&feature=related   

 

 

 

 

 リンダ・ロンシュタット What's New http://www.youtube.com/watch?v=u1uujp4uDj4&NR=1    


ビワの実はまだ青い

2009-04-22 | 日記・エッセイ・コラム

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 アジサイの花芽とビワの実。黄色くなるのはまだ先だ。

 

 ビワの実をみると運動会を思い出す。小学生の低学年のときは、父子家庭だったが、運動会の昼飯のとき、父が、弁当とビワの実をもってきてくれた。帯広北栄小学校は、まだできたばかりで、西側は芽室までずっと田んぼがつづいていた。運動会の昼ごはん、アイヌの子たちは田んぼのむこうの家に帰っていった。

 

 田んぼのむこう、西16条のあたりに日新会館というアイヌの人たちの集会所があって、その周辺にアイヌの人たちが住んでいた。クラスメイトの相馬くんもそのあたりから通学してきた。各クラスには、ひとりかふたりアイヌの子がいた。わたしのクラスには、相馬くんともうひとりアイヌの女の子がいた。子供は残酷だから、アイヌの子たちは毎日毎日、徹底的にいじめられた。とくに、アイヌの女の子は可哀想だった。

 

 アイヌの女の子は、「ア!イヌがきた」と、はやし立てられた。はやしたてるのは、クラスの女の子たちだった。相馬くんは、おなじの女の子をかばってよくケンカをしていた。アイヌの相馬くんも女の子も、よく学校を休んだ。あれだけいじめられれば、休みたくもなる。

 

 あるとき担任の教師が、きのうはどうして休んだのか、と聞いた。「傘がないんです」と、相馬くんは答えた。たしかに前の日は雨だった。

 

 田植えや稲刈りの農繁期には、相馬くんはまったく学校に来ない。中学校もおなじクラスになったが、中学でのいじめはますます激しく陰険になった。相馬くんは、まったく学校に来なくなった。そして二度と中学校で顔をみることはなかった。

 

 高校生のとき、阿寒湖にいったことがあった。みやげ屋の店先で熊の木彫りを彫ってる青年がいた。相馬くんだった。「相馬! ここにいたのか」、相馬くんは、アイヌの衣装を着て、頭にアイヌ模様のハチマキをして、中学のときよりずっと健康そうで、幸福そうな笑顔だった。

 

 そのつぎ、相馬くんをみたのは、わたしが帯広駅前でレコード屋をはじめたときだ。駅前の花壇で酔って倒れこんでいるおっさんがいた。かたわらにゴードー焼酎の瓶がころがっていた。その汚い服のおっさんは、相馬くんだった。髭だらけの顔は、まるで老人のように老いて疲れていた。ぼくらはまだ21才だった。相馬くんのうす汚れたズボンは、たれ流した小便で濡れていた。

  


マルセイビスケットをいただいた

2009-04-21 | 日記・エッセイ・コラム
   

 

 

クール・ストラッティン+2 クール・ストラッティン+2

 

 戸張さんからおみやげにいただいた、帯広・六花亭のマルセイビスケットが、美味い。

 

 午後から雨が降りだした。濡れた若葉が生き生きとしている。この季節の雨は恵みの雨だろう。

 

 清水由貴子さんが亡くなった。自殺だ。清水由貴子さんが「お元気ですか」でCBSソニーからデビューしたのは、1977年(昭和52年)のことだった。日本テレビの「スター誕生」からでてきた。http://www.youtube.com/watch?v=31Uu8yqTaBc

   清水由貴子さん ヤクルトCM http://www.youtube.com/watch?v=c9RPxHBUlPY

 

 

 1977年(昭和52年)といえば、山口百恵では「イミテイション・ゴールド」「秋桜」がヒットして、ハイ・ファイ・セット「フィーリング」、森田公一とトップギャランの「青春時代」があり、演歌では、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」、都はるみ「北の宿」がヒットして、ピンクレディーのほとんどのヒット曲が発売になった年だ。 キャンディーズの「暑中お見舞い申し上げます」もこの年の曲だ。

 

  山口百恵 「イミテイション・ゴールド」 http://www.youtube.com/watch?v=DLhj4ilgfII

 

  ハイ・ファイ・セット 「フィーリング」  http://www.youtube.com/watch?v=z-k3ZTZ8ViU 

 

 

 洋楽では、ビリー・ジョエルのアルバム「ストレンジャー」が発売になって、大ヒットしたのも1977年のことだった。http://www.youtube.com/watch?v=QPiK_yGG8ag

Blu-spec CD ストレンジャー Blu-spec CD ストレンジャー

 

 

 

 黒人のあいだで大ヒットしていた、ビッグ・ママ・ソートンの「ハウンドドッグ」をカバーして、白人マーケットでスーパーアイドルになったのが、エルビス・プレスリーだ。これもサンレコードのプロデューサー、サム・フィリップスの商才だろう。

 

 ロックの歴史は、黒人音楽のパクリの歴史ともいえる。ところが、その黒人音楽を制作していたのが、黒人じゃないから、またおもしろい。オーティス・レディングを売ったブラック・ミュージックの名門レーベル、スタックス・レコードのオーナー、ジム・スチュワートと姉のエステル・アクストンは、白人だ。

 

 R&B、ブルースの老舗レーベル、チェス・レコードのオーナーのチェス兄弟、レナードとフィルは、ポーランド移民のユダヤ人。

 

 アトランティク・レコードの3人の経営者、アーメットとネスヒのアーティガン兄弟は、イスタンブール生まれのトルコ移民、もうひとりのジェリー・ウエクスラーは、ニューヨーク生まれのユダヤ人。アレサ・フランクリンやウイルソン・ピケットを売り出したアトランティク・レコードの名プロデューサーのトム・ダウトは、学生時代、コロンビア大学のオーケストラを指揮していた白人だ。

 

 トム・ダウトのホームページのディスコグラフィーをクリックしてみてほしい。みごとだ。ドリフターズやジョン・コルトレーンからオールマン・ブラザーズ、ロッド・スチュワートまで、アトランティク・レコードのそうそうたるアーティストの制作を手がけている。http://www.thelanguageofmusic.com/index.htm

 

 

 ロックは、黒人音楽のコピーからはじまるが、アメリカ黒人の音楽はまた、アフリカ音楽そのものじゃない。イギリスやフランスやスペインなどヨーロッパからの移民たちの音楽に影響されて形成されてきた。そして、アメリカ黒人の音楽のマーケットが、黒人だけじゃなく白人の若者にまで拡がったとき、白人・ユダヤ人のプロデューサーたちのセンスが大きく影響するようになるのは、とうぜんのことだ。

 

 

 ジャズの場合も、ヴァーブ・レコードの創設者のノーマン・グランツは、ウクライナ移民のユダヤ人家系。ブルーノートは、ドイツからきたアルフレッド・ライオンがつくったレーベル。インパルス、CTIのオーナー、クリード・テイラーも白人だ。

 

   ヴァーブ・ミュージック・グループ http://www.vervemusicgroup.com/

 

 CTI.com http://ctijazz.com/creed.php?title=Creed Taylor

   ソニー・クラーク Blue Minor http://www.youtube.com/watch?v=M_-rPHcH6_g

 

 

 ソニー・クラークのアルバム「クール・ストラッテン」は、1958年の録音のアルバムだ。その10年後の、わたしがレコード屋をやっていた60年代末から70年代でもよく売れた。

 

 


「ボール・アンド・チェーン」は、ビッグ・ママ・ソートンの曲

2009-04-20 | 日記・エッセイ・コラム
   

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 スーパーでみたカレイ。おいらんかれい、となっているが、北海道にいるとき、聞いたことないカレイの名前だが、函館のネット販売においらんかれいがあった。道東でいう、ナメタガレイとおなじだろうか? 

 

 

 

 

 

 1969年、トム・ジョーンズのテレビ・ショー、This Is Tom Jones に出演したジャニス・ジョップリン。ふたりで歌うのは Raise Your Hand。驚異のデュオだ。http://www.youtube.com/watch?v=8ib2b4BOZIQ&feature=related

 

 

 おとつい紹介したマンガがジャケットの、ジャニス・ジョップリンのアルバム「チープスリル」は、全米№1に8週間、ビルボード200のチャートに、なんと66週間とどまっていた。まさにメガヒット・アルバムだった。1968年の8月の発売だ。わたしの店では、LPが売れるまえに、まず「ふたりだけで」と「サマータイム」のカップリングのコンパクト盤が売れた。コンパクト盤は、17センチ、33回転で片面8分くらい録音できるから、たいがい両面で4曲はいっていた。

 

 

 ジャニスが歌う「サマータイム」のなかで、グラスが割れる音を鮮烈に記憶しているだろう。あのライブは長くて、シングル盤にはおさまらなくて、コンパクト盤なのだ。

 

 

 (シングル盤とコンパクト盤は、大きさはおなじ17㎝だが、回転数がちがうから録音できる時間がちがう。シングル盤は速く、コンパクト盤とLP盤はおそい。もっとむかしの硬いSP盤は、78回転。超速い。

 

 

 発円盤のレコード盤を発明したのは、フランスのエミール・ベルリナーだ。いまのCD、DVDにいたる円盤録音媒体の発明だ。エジソンの録音方法の発展だが、エジソンは円筒に固執した。フロッピー・デスクも、パソコンのハードデスクもまた円盤。つまり、1887年に発表された録音媒体は、いまにいたるまで、そんなに形態は変わっていないわけだ)。

 

パール パール

 

 

 

 アルバム「チープスリル」は、わたしの店ではよく売れた。ジャニスが急死した直後、CBSでの三枚目のアルバム「パール」が発売になった。「パール」は猛烈に売れた。そして、過去のアルバムの「チープスリル」と「コズミックブルース」も、爆発的に売れだした。

 

 (当時、ジャニス・ジョップリンの変死にも、CIA謀殺説がでたものだ)。

 

 

 

 ジャニス・ジョップリンが、衝撃のメジャー・デビューしたのは、モンタレー・ポップ・フェスティバルでの「ボール・アンド・チェーン」だ。1967年。ジミ・ヘン、オーティス・レディング、ザ・フーが、鮮烈に世界に登場した音楽祭だ。

 

 

 ジャニス・ジョップリンが歌って世界を驚かせた曲 Ball and Chain は、ビッグ・ママ・ソートンの作詞・作曲だ。ビッグ・ママ・ソートンは、「ハウンド・ドッグ」を最初にレコード発売した女性ブルース・シンガーだ。1953年こと。「ハウンド・ドック」は、ビルボードR&Bチャートの№1になった。これをカバーしてスーパーアイドルになったのが、エルビス・プレスリーだ。「ハウンド・ドッグ」は、白人のプレスリーがカバーするまえに、黒人の女性が歌って、黒人若者たちのヒット曲だったわけだ。。

 

 

 ビッグ・ママ・ソートン Hound Dog http://www.youtube.com/watch?v=5XUAg1_A7IE

 

 

  エルビス・プレスリーのHound Dog http://www.youtube.com/watch?v=zU4i5gyFK1s&feature=related

 

 

 

 

 

 

 ジャニス・ジョップリンは、十代のときから、ビッグ・ママ・ソートンを敬愛するアイドルにしていた。ジャニスのカバーで Ball and Chain は、だれもが知ってる曲になった。おもしろいのは、ジャズ・フェスのライブで、ビッグ・ママは、「ジャニス・ジョップリンの曲、Ball and Chain」と、ジョークをいってから歌いだす。このとき、もうジャニスは亡くなっているから、すこし悲しい。

 

 

 ジャニス・ジョップリンは、1970年、10月4日、亡くなった。27才だった。このニュースがあった日、わたしは、ファンファンで酔いつぶれた。

 

 

 ビッグ・ママ・ソートン Ball and Chain http://www.youtube.com/watch?v=SMULTQ9G3Nc&feature=related

 

 

 亡くなるすこしまえのビッグ・ママの Ball and Chain  http://www.youtube.com/watch?v=uSAOHwQhPcQ&feature=related  このライブが、4月14日、ビッグ・ママ・ソートンが亡くなったのは、7月25日だ。

 

 

 

 

 

In Concert In Concert

 

 

 

 

 

 ジャニス・ジョップリン Summertime  http://www.youtube.com/watch?v=mzNEgcqWDG4

 

 

 

 

 


街は花であふれている

2009-04-19 | 日記・エッセイ・コラム

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  北海道・十勝の初秋のようなさわやかな天気だ。陽射しがやわらかくなった夕方、散歩にでた。街は、花にあふれていて、乾いた風がじつに気持ちがいい。こんな心地のいい日は一年に何日もない。貴重な一日だ。

 

 来日している国際オリンピック委員会(IOC)評価委員のムータワキル委員長が、サッカーボールを巧みにリフティングをしている映像をニュースでみた。このおばさん、できる! 何者だ? と気になった。

 

 ナワル・エル・ムータワキル Nawal El Moutawakel は、1962年生まれのモロッコ、カサブランカのひと。ロサンゼルス・オリンピックの400mハードルのゴールドメダリスト。これは、アフリカ女性では最初の、イスラム教徒の女性としてもはじめての金メダル受賞だった。イスラム教徒、アフリカ人女性のアスリートとして尊敬をあつめている。と、いうことがインターネットでわかった。

 

 東京オリンピックの招致に、マスコミ論調は否定的だ。どうしてか? 税金のムダ使いだ、という意見がある。しかし、税金は、こういうことにこそムダに使うべきじゃないか? 国威発揚の危惧があるという。国威発揚がいけないか? マスコミのれんちゅうの世論誘導で、世の中、オリンピックの東京招致には冷淡なようだ。しかし、マスコミは、中国の国威発揚、北京オリンピックの馬鹿騒ぎには、はしゃぎまくっていたのじゃないか。

 

 ジャガーズの岡本信さんが浴槽で亡くなっていた、とニュースにある。これも孤独死だ。ジャガーズは、わたしがレコード屋になった1968年頃売れていたグループサウンズだった。わたしの店は、グループサウンズやアイドルが苦手だったから、それほど印象にないが、帯広ステーションデパートのサウンドコーナー本店ではよく売れていたのじゃないだろうか。

The Dude The Dude

 クインシー・ジョーンズのアルバムで、わたしの店でもっとも売れたのが、The Dude だ。A面一曲目が「愛のコリーダ」。1981年の発売だった。

 (1981年(昭和56年)は、キャデラックスリムがメジャー・デビューした年だ)。

 

 クインシー・ジョーンズの「愛のコリーダ」は、日本でも大ヒットした。オリジナルは、イギリスのチャス・ジャンケルの曲だ。クインシー・ジョーンズの「愛のコリーダ」のボーカルにも、チャス・ジャンケルが参加している。http://www.youtube.com/watch?v=J7h_hR13Wfc

 

    クインシー・ジョーンズ Ai No Corrida http://www.youtube.com/watch?v=a7Vi40fVC-0

 

  


ジャニス・ジョップリンは神だ

2009-04-18 | 日記・エッセイ・コラム

 

 かって、実家の病院が帯広にあって、高校は、帯広柏葉高校を卒業したのに、中島みゆきが、「札幌出身」というのは不思議だ、というひとたちがいる。しかし、札幌で生まれて、勤務医だった父親の転勤で一家が引っ越し、道南、道央で育ち、かなりの年齢になって、帯広にやってきたわけだから、帯広出身というに抵抗があっても不思議じゃない。(小学生の高学年か、中学生のときか知らないが、父親が、故郷の帯広にもどって病院を開業した)。

 

 中島みゆきは、札幌生まれなのに、帯広出身というには抵抗がある、それだけのことだろう。

 

 わたしの場合は、青森県八戸市生まれだが、釧路に引っ越した。3才のころ、父親の故郷、帯広にやってきて、小学校から高校卒業まで帯広ですごした。だから、躊躇なく「帯広出身」だ。生まれは? ときかれると、「青森の八戸だけど、戸籍では釧路になっている。育ったのは、北海道・帯広だよ」と答える。それに大学を中退してから帯広にもどり、38才まで暮らしていたのだ。『帯広出身』以外なにものでもない。青森出身であるわけがない。

Blu-spec CD チープ・スリル Blu-spec CD チープ・スリル
価格:¥ 2,500(税込)
発売日:2009-01-21

 

  人類音楽史に永遠に残るアルバムだろう。ジャニス・ジョップリン、「チープスリル」だ。

  ジャニス・ジョップリン Ball & Chain http://www.youtube.com/watch?v=Tb4t0Mxq3J4

 

 オリジナルの Ball&Chain は、こんなに深刻な表現ではない。ジャニスの歌は、まるで違う曲だ。ジャニス・ジョップリンのブルース表現は、ジャニスだけのものだ。

 

 わたしにとって、この世で最高のボーカリストは、ジャニス・ジョップリンと、ちあきなおみ、かな。とくに、ジャニス・ジョップリンは、この世のひととは思えない。神だ。


銀座で、戸張さんと会った

2009-04-17 | 日記・エッセイ・コラム
アビイ・ロード アビイ・ロード

 

 銀座・山野楽器前で、写真家の戸張良彦さんと待ちあわせて、お茶を飲んだ。戸張さんは、北海道・帯広に住んで30年になった、という。戸張さんは、東京出身のひとだ。品川区の武蔵小山のテーラーが実家だという。『ふるさと十勝』のカメラマンが、北海道での最初の仕事だった。

 

 十勝の雑誌『ふるさと十勝』は、阿部さんが社長で、派手に展開していたことがある。松山千春の写真集を出版したりもしていた。1979年頃だろうか。ロックバンド、キャデラックスリムの最初のシングル盤も、『ふるさと十勝』が制作した。その猛烈に忙しくなった『ふるさと十勝』のカメラマンとして、戸張さんは東京から呼ばれた。

 

 キャデラックスリムが、日本武道館で開催された世界歌謡祭に出演したことがあった。そのときも戸張さんが撮影にきてくれた。1980年の11月14日のことだった。

 

 戸張さんと、然別湖畔のホテル福原に滞在していた井上陽水を訪ねたことがある。井上陽水は、テレビCMの撮影にきていた。そのことはまえにも書いた。陽水は、わたしを忘れていて、戸張さんのことはおぼえていた。

 

 戸張さんは、東京で、井上陽水のレコード・ジャケットの写真撮影にアシスタントとして参加したことがあった。陽水は、その戸張さんをおぼえていた。わたしは、陽水がデビューしたころのプロモーターで、舞台監督だった。いっしょに北海道中を旅した。それは2年にわたっていて、延べにすると2週間以上のコンサート・ツアーだった。しかし、わたしのことはおぼえていなかった。

 

 「井上陽水をやろう」と、ポリドールの木村さんにいった。『傘がない』のヒットのまえだ。1971年(昭和46年)頃かな。木村さんは、道東担当のセールスだ。「ブラキ」というアダナだった。

 

 ポリドールの木村さん、ポリ・キム、ブラ・キム、「ブラキ」となっていくのか、レコード屋の店員の女の子たちは、レコード・メーカーのセールスマンたちにアダナをつける。学校の先生にアダナがある、あれだ。

 

 ブラキのポリドールから、井上陽水担当の沢山さんというホリ・プロの担当マネージャーを紹介された。そんなこんなのことは、またいずれ書く。むかしばなしだ。

 

 

 戸張さんはいま、十勝のすばらしい風景写真を撮っている。http://www.y-tobari.jp/ モノクロの十勝だ。じつにいい。いま、東京での個展を計画している。わたしもお手伝いしたい、と思っている。

The Beatles 1967-1970 The Beatles 1967-1970

The Beatles 1962-1966 The Beatles 1962-1966

 

 

 発売になって1年とか2年の期間では、サイモンとガーファンクルがもっとも売れたLPレコードだが、わたしの店が開店してから閉店した20年くらいのトータルでは、ビートルズの「アビーロード」こそ、もっとも売れたアルバムだろう。日本の他の地域のことは知らない。十勝・帯広のサウンドコーナーでは、「アビーロード」が一番売れたレコードだ。そのことなど、またあした書こう。

 

  ビートルズ because http://www.youtube.com/watch?v=OWkZ9ZQyVzw

  ビートルズ Something  http://www.youtube.com/watch?v=wBe85UKa1GQ&feature=related

    ビートルズ Here Comes The Sun http://www.youtube.com/watch?v=U6tV11acSRk&feature=related

  ジョージ・ハリソン、リンゴ・スター、エルトン・ジョン、フィル・コリンズ、エリック・クラプトン Here Comes The Sun http://www.youtube.com/watch?v=yGKPHFrHVVY&feature=related

 

    ビートルズ.com http://www.thebeatles.com/core/home/

    ジョージ・ハリソン.com http://www.georgeharrison.com/

  ポール・マッカートニー.com http://www.paulmccartney.com/

  ジョン・レノン.com http://www.johnlennon.com/html/news.aspx

   井上陽水・オフィシャル・サイト http://www.y-inoue.com/

 

 


ストーンズのLove In Vain、マンドリンはライ・クーダーだ

2009-04-14 | 日記・エッセイ・コラム
Chicken Skin Music Chicken Skin Music

 

 「きらら397」がなくなったので、「ななつぼし」を買ってきた。米のことだ。北海道米しか食べない。以前、川崎市に住んでいたとき、近所の米屋で、「北海道米はありませんか?」と聞くと、「北海道米はないけど、おなじような(安い)お米はありますよ」と、いわれた。

 

 ちがうんだ。北海道は寒いから、病害虫の発生と雑草が少ない。だから、殺虫剤と除菌剤、除草剤の使用量が、ほかの地方とは比較にならないくらい少なくてすむ。つまり、米に残留する農薬が、圧倒的に少ない。と、米屋のおばさんに教えてやったのだが、わかってくれたかどうか。

 

 米は、毎日食べるものだから、残留する微少な化学物質(環境ホルモン)でも、体調に影響するだろう。

 
 

 砂漠や寒冷地などの気象条件の悪い地に、あえて人間が移住した理由のひとつに、熱い地方で発生する害虫や伝染病を嫌った、という説がある。わたしが北海道米に固執するのは、ちょっとこのことと似ているかな。

 

 オーガニック、有機栽培といっても、まったく農薬、化学肥料をつかわない農業は、あり得ない。趣味としてなりたっても、業としてあり得ない。それに、農産物、食品の表示が、まったく信頼できないのは、いまや、だれもが知っていることだろう。(きのうも、中国産ゴボウを栃木産に偽装していた野菜加工卸の原町パッケージセンター(福島県南相馬市)の元社長が逮捕された)。

 

 偽装は、米も例外でない。偽装事故米からは、地球上最強の発ガン物質といわれるアフラトキシンB1が検出されている。中国産米からは、メタミドホスがでてくる。メタミドホスは、日本では使用が禁止されている殺虫剤。中国産冷凍毒ギョウザ事件の農薬だ。ひとの神経系統を破壊する。

 

 わたしは、米に関して、北海道米だけが信頼できるブランドなのだ。それにいま、北海道米は、じゅうぶんうまい。しかし、ここらのスーパーでは、一番安い米として、セールのメダマで売られることが多い。いまだに、安いだけというイメージを払拭できないようだ。

 

 

 

パリ、テキサス パリ、テキサス

ライ・クーダー・ファースト ライ・クーダー・ファースト

 

 ライ・クーダーを知ったのは、ローリング・ストーンズのアルバム「レット・イット・ブリード Let It Bleed 」(1969年)からのことだ。このアルバムには、ライ・クーダーのほかにも、アル・クーパーとレオン・ラッセルが参加していた。ヒットしたストーンズの「ホンキー・トンク・ウーマン」のギター・リフは、オリジナルがライー・クーダーだったとあとで知った。http://www.youtube.com/watch?v=ZP5c2t945p8

レット・イット・ブリード レット・イット・ブリード

 

 ファースト・アルバムのときから、帯広駅前のサウンドコーナーには、ライ・クーダーのマニアックなファンが何人もいた。「サウンドコーナーさんで売れた数が、北海道の数字ですね」と、レコードメーカーのセールスマンに皮肉をいわれていた。J.J.ケールのことでもそういわれていた。『こんなマイナーで売れない商品を、よくも仕入れて在庫してるね』と、軽蔑的にいっているのだ。いまでは信じられないことだろうが、60年代末、70年代のはじめ、わたしの店のロックをメインにした商品構成を、レコードメーカーのセールスマンから、いつも馬鹿にされたものだ。

 

 ライ・クーダーは、1947年、カリフォルニアで生まれた。18才のとき、タジ・マハール、エド・キャシディと Rising Sons を結成してレコーディングをするが、これは発売にならなかった。(のちにドラマーのエド・キャシディは、ギターのランディー・カリフォルニアとスピリットをくんでエピック・レコードからデビューした。タジ・マハールは、いまも活躍するブルースマンだ。http://www.tajblues.com/

Spirit Spirit

 

 ライ・クーダーは、スライド・ギターとフラット・マンドリンで数々のレコーディングとライブのセッションに参加して、1968年、ローリング・ストーンズの「レット・イット・ブリード」で世界的に知られるようになった。最初のソロ・アルバム発売は、1970年だ。しかし、日本ではまったくポピュラーじゃなかった。

 

 ライ・クーダー& The Moula Banda Rhythm Aces  Down In Missippi http://www.youtube.com/watch?v=CXKQlCQKtIg&feature=related

 

 ライ・クーダーは、映画音楽でも活躍するようになる。日本では、「パリ、テキサス」(1984年)と「クロスロード」(1986年)で、やっとライ・クーダーが認知されたのではないだろうか。

 

  映画「クロスロード」http://www.youtube.com/watch?v=Tm50YoK_wH8

クロスロード [DVD] クロスロード [DVD]

 

 スティーヴ・ヴァイとライ・クーダーのギター・バトル(映画「クロスロード」)  http://www.youtube.com/watch?v=SSJv_apyIR4&feature=related

 スティーヴ・ヴァイ・オフィシャル・ウエブサイト http://www.vai.com/home.html

 ローリング・ストーンズ Love in Vain http://www.youtube.com/watch?v=vDOmIUnlfIg&feature=related  マンドリンを弾いているのは、ライ・クーダー、もちろん、この曲のオリジナルは、ロバート・ジョンソン。  

 


ボブ・ディランのBrownsville Girl は、サム・シェパードと共作

2009-04-13 | 日記・エッセイ・コラム

マンボ・キング

マンボ・キング

 

 

 

 

 

 カルロス・サンタナは、メキシコの人で、15才でサンフランシスコに移住してからバンドをくんだ。その20年まえ、マンボで有名なペレス・プラードは、キューバからメキシコに移って、ペレス・プラード・オーケストラを結成した。

 

 マンボは、ペレス・プラードのオリジナルではない。キューバのルンバと、ビッグ・バンド・ジャズをミックスしたダンス音楽は、1930年代後半にはすでにハバマのクラブで演奏されていた。マンボは、ペレス・プラードのまえに、すでにあったのだ。ペレス・プラードは、そのハバマのクラブでピアニストとして十代のときから働いていた。キューバのカジノ・クラブで、ピアニスト、アレンジャーとしてキャリアをつんで、1948年にメキシコシティーに移住して、じぶんのバンドをつくった。

 

 メキシコシティーで人気がでて、RCAレコードと契約して、アメリカに進出したのだ。そして、「マンボ №5」が世界ヒットした。日本でも人気があった。なんと17回来日している。マンボがアメリカで下火になった1967年、ペレス・プラードのバンドは、またメキシコシティーにもどっている。

 

 マンボは、キューバ発の音楽だが、ペレス・プラードのマンボは、メキシコ発の音楽といえるわけだ。サンタナをメキシコのバンドといわず、アメリカ・サンフランシスコのロック・バンドというように。

 

  ドキュメン・TV  マンボ http://www.documen.tv/asset/Mambo_film.html

 

 

 

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ

 

 

 

 

 

 

 

 1997年、ライ・クーダーが、プロデュースして大ヒットしたアルバムだ。忘れられていたキューバの音楽、ソンを紹介した。ヴィム・ヴェンダース監督のドキュメンタリー映画、「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」も、音楽もののドキュメンタリー映画として出色の傑作だ。(レンタル・ビデオ屋にかならずあるはず)。

 

 

 ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ Chan Chan http://www.youtube.com/watch?v=INkLVwtIr_I 

 

 

 

 映画の冒頭で、サイド・カーに乗って、ハバマの街を走っているのは、ライ・クーダー親子。アメリカのギタリスト、ライ・クーダーと、ドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダーズとは、「パリ、テキサス」(1984年)のヒットがある。映画「パリ、テキサス」のヒットは、ライ・クーダーの音楽なくして考えられない。

 

  パリ、テキサス http://www.youtube.com/watch?v=Dt42lwoHp9U

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 「パリ、テキサス」の脚本を書いたのは、アメリカの名優、サム・シェパードだ。サム・シェパードは、役者より劇作家が本業だ。1979年にピューリッツァー賞を受賞している。そして、The Holy Modal Rounders のドラマーだったことがある。作家、俳優、ミュージシャンで、じつにしぶい二枚目、才人だ。ボブ・ディランと Brownsville Girl を共作している。http://www.youtube.com/watch?v=RjYb__HQHQw&feature=related

Knocked Out Loaded Knocked Out Loaded

 

 

 

 今回のタイの争乱、赤シャツのバックは、中国共産党か? 騒動にも金がかかる。赤シャツをそろえるだけでもそうとう資金がいるだろう。中国は、こんどはタイに手をつっこんでいる、ということか? アジアの政治紛争のうしろには、かならず中国の影がちらつく。

 

 

 

 

 

 

 


銀座・山野楽器の店頭は、ユーミン

2009-04-12 | 日記・エッセイ・コラム

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銀座・山野楽器の店頭は、ユーミン大会だ。たのしい。(写真をクリックすると拡大する) 

 

 

 「いきなりこれかい!」と、いいたくなるほどの気温だ。先週までの、あの寒さは、いったいなんだったのか。この天気、北海道なら真夏だ。

 

 人形町甘酒横丁の喫茶店・快生軒で、和多田さんにお会いしたあと、あんまり気持ちのいい午後なので、すぐに、部屋に帰るのはもったいない。人形町から日本橋をとおって、銀座中央通りを歩いた。心地いい風が吹いて、半袖のひとも多い。

 

 丸善本店横の桜並木は、すっかり葉桜になっている。すこし前にとおったときは、硬いつぼみだった。きょうは見ごろの満開か、と思ったのだが、残念。でも、葉桜もまたいい。(葉桜に雨がふるのが好きなんだが)。

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 数日、部屋にこもっているあいだに、街は、若葉のときだ。いきなりの暑さのせいだろうか。イチョウの、芽吹いたばかりの若葉が、美しい。

 

 昨夜9時過ぎに、10万アクセスを超えた。

 


カルロス・サンタナは、メキシコ生まれ

2009-04-11 | 日記・エッセイ・コラム

 

 世の中、なにが起こるかわからない。10日、将棋の名人戦の対局中に、主催の朝日新聞の観戦記者が、なんとサインをねだったのだ。これはNHKBSでテレビ中継されていたので、Youtubeに、この漫画の世界のような事件の映像がある。http://www.youtube.com/watch?v=x_JRMJ3UEgM

 

 対局は、羽生善治名人と郷田真隆九段の名人戦だ。映像からは羽生名人の戸惑いが伝わってくる。そして、この理解しがたい異常事態に、冷静に対応した。さすが羽生名人だ。人間の出来がちがう。いっぽう、この朝日の記者は、狂っている。さすが朝日新聞だ。傲慢な新聞社の、いかれた新聞記者が起こしたこの事件は、あり得ない珍事として、将棋界で永遠に語りつがれることだろう。

 

 しかし、プロの真剣勝負のさなかにサインをねだる、こんな無礼、非礼は、日本の大人の社会で、許されることじゃないだろう。侍の時代なら、手討ちだ。

Santana Santana
 

 サンタナ Soul Sacrifice 1969年ウッドストック・ロック・フェス http://www.youtube.com/watch?v=XnamP4-M9ko&feature=related

 

 ウッドストックのサンタナ・バンドで、2分をこえるドラムソロをとるマイケル・シュリーヴは、弱冠19才 、カルロス・サンタナ、22才。みんな若い。わたしが、サンタナのファーストアルバムを売っていたときは、21才だった。きのうで、61才になった。なんと……時のながれの容赦のないことか。

 

 カルロス・サンタナは、1947年、メキシコのハリスコ州アウトラン・デ・ナヴァロで生まれた。父親はマリアッチのバイオリン奏者だ。8才から父親にギターを習い、B.B.キングやレイ・チャールズ、リトル・リチャードに影響された音楽を演奏していた。15才のとき、一家は、サンフランシスコに移住した。とうじサンフランシスコは、ヒッピー・ムーブメントの中心地だった。アメリカでもっとも熱いロック・シーンが展開されていた。

 

 1966年、19才のとき、ストリート・ミュージシャンのベーシスト、デビッド・ブラウンとキーボードのグレッグ・ローリーをさそって、サンタナ・ブルース・バンドを結成した。ラテン、ジャズ、ロック、サルサ、アフリカン・リズムをミックスした新しいサウンドは、すぐにサンフランシスコの音楽シーンで注目されるバンドになった。1969年、バンド名をサンタナに変え、ウッドストック・ロック・フェスティバルで衝撃的な世界デビューをはたす。

 

 この年、CBSからファースト・アルバムが発売になった。LPジャケットのイラスト、ライオンの顔は、よくみると人の顔と姿が組みあわせてある。このジャケットも評判になった。日本でのシングル盤は、「イヴィル・ウェイズ Evil Ways」が最初だった。サウンドコーナーではライオンのイラストのファーストLPがよく売れだしていた。

 

 日本で決定的にサンタナが認知されたのは、「ブラック・マジック・ウーマン」のヒットじゃないだろうか。この曲は、イギリスのバンド、フリートウッド・マックのオリジナルで、アルバム「英吉利の薔薇 English Rose」にはいっている。ピーター・グリーンの作詞・作曲だ。

英吉利の薔薇 (イングリッシュ・ローズ) 英吉利の薔薇 (イングリッシュ・ローズ)

 

 ピーター・グリーンは、イギリスのブルース・ギタリスト。エリック・クラプトンがぬけたあと、ジョン・メイオール&ブルースブレーカーズのリードギターになった。その後、1968年、フリートウッド・マックを結成したが、1970年、突然自分がつくったバンドを退団した。イギリス・ロック界の才人のひとりだが、このひともドラッグのひとだ。

天の守護神 天の守護神

 

 サンタナの「ブラック・マジック・ウーマン」がはいったセカンド・アルバム「天の守護神 Adraxas」は、全米ナンバーワンの大ヒットになった。日本でも爆発的に売れた。「ブラック・マジック・ウーマン」のほかにも、「僕のリズムを聞いとくれ Oye Como Va」と、サンタナの名曲のひとつ「君に捧げるサンバ Samba Pa Ti」 がはいっている。

 

   サンタナ 君に捧げるサンバ Samba Pa Ti http://www.youtube.com/watch?v=WzSayxVM_E0

   ピーター・グリーン・フリートウッド・マック Black Magic Woman http://www.youtube.com/watch?v=nvgO9jWaSFM&feature=related

   サンタナ Black Magic Woman http://www.youtube.com/watch?v=ik8JjtxHI0M&feature=related

キャラバンサライ キャラバンサライ

 

 サード・アルバム「サンタナⅢ」(1971年)と、1972年の「キャラバンサライ Caravanserai」もじつによく売れた。とくに「キャラバンサライ」は、日本のそれまでのロックの売れ方ではないメガ・ヒットだった。演歌やアイドルなど国内制作のヒットLPを、洋楽のロックが、はるかに超えるセールスをあげる時代がやってきたのだ。それまでは考えられない現象だった。そして国内盤は、井上陽水のLPが、水爆的に売れるようになる、その胎動がはじまっていた。

 

 1971年には、とうじ17才だったギタリスト、ニール・ショーンがサンタナに加入している。翌年、ニール・ショーンとグレッグ・ローリーがサンタナをぬけ、ジャーニーを結成するわけだ。(サンタナは、才能ある無名の若いミュージシャンを世おくりだしている。ジャズの世界では、アート・ブレーキーとマイルス・デイビスが、若いミュージシャンをたくさん育てている)。

 

 サンタナ 1971年のモントレー・ジャズ・フェス ニール・ショーンがはいっているライブ http://www.youtube.com/watch?v=qc1nqaJXuq0&feature=related

 ニール・ショーン.com http://www.schonmusic.com/

 サンタナは、いまもばりばりの現役だ。2005年発売のアルバムは、All That I Am はビルボートのチャート、全米2位のセールスだった。

オール・ザット・アイ・アム オール・ザット・アイ・アム

 カルロス・サンタナ Maria Maria  http://www.youtube.com/watch?v=6Ml3NUIDpFg&feature=related

  カルロス・サンタナ Put Your Lights On http://www.youtube.com/watch?v=q5a0OAtzrXE&feature=related

 サンタナ.com http://www.santana.com/

  マイケル・シュリーヴ.com http://www.michaelshrieve.com/index.html

 


ユーミンの新譜は、35枚目のアルバム

2009-04-09 | 日記・エッセイ・コラム
そしてもう一度夢見るだろう そしてもう一度夢見るだろう

 

 きのうも紹介したユーミンの3年ぶりの新譜だ。きのう発売になった。ジャケットがとてもいい。LPレコードのサイズだとこのジャケットのセンスがセールスに反映するのだろうが、CDの大きさじゃ効果はうすいだろう。

 

 

 これが35枚目のオリジナル・アルバムなのだから、すごい。40年ちかく持続する創作意欲、枯渇しない才能。荒井由実や浜田省吾が、これほど強靱な精神と、あふれるエネルギーをもった才人だとは、デビューのころ、だれも想像できなかったろう。

 

 

 1973年(昭和48年)、ユーミンのファーストアルバム「ひこうき雲」を聴いて、すぐに、東芝レコード札幌支店の宣伝マンの高橋さんに、北海道のコンサート・ツアーをやりたいので、プロダクションを紹介してくれ、というと、強く反対された。そして、一本のカセット・テープを送ってくれた。(このあたりのことは、以前にも書いたが)。

 

 

 高橋さんは、『デビューしたばかりの新人なのだから、まだ売れるかわからないのだから、しばらく様子をみてはどうか?』という否定的な意味で、わたしにテープを送ってくれたらしい。それは、ピアノの弾き語りのライブ録音だった。学園祭の教室か、小さいライブ・ハウスの雰囲気だった。

 

 

 (先日、荒井由実のマネージャーだった嶋田さんに30年ぶりにお会いした。あのときのユーミンのテープは、嶋田さんがつくって、東芝の札幌支店に送った、と知った)。

 

 

 しかし、わたしは、そのカセットテープの荒井由実が、ひどく気に入った。いままでの日本にはまったくない感性だ、と感動した。こうして、おなじ東芝レコードのアーティストで、「ダウンタウン・ブギウギ・バンド&荒井由実ジョイント・コンサート」をくんだのだ。そのあたりの経過も以前に書いた。

 

 

 

 

 ユーミン ルージュの伝言 http://www.youtube.com/watch?v=gRgQI37-Brk&feature=related

 

 

 

 荒井由実は、松任谷由実になって、ステージのスケールは、とてもわたしのような弱小な業者の手に負える規模でなくなってしまった。北海道では大きな赤字をつくるのが目にみえていた。が、しかし、わかっていながら一度だけやって、大きな傷をおって、わたしは、手を引いた。(でも、その商売の損失と、ミュージシャンとしてのユーミンが好きなのは、べつのことだ)。

 

 

 ユーミン あの日にかえりたい http://www.youtube.com/watch?v=gaNT6mSbYg0&feature=related


レオン・ラッセルを聴いたら、つぎはドクター・ジョンかな

2009-04-07 | 日記・エッセイ・コラム

 

 きょうはなぜか900以上のアクセスがある。 

 Azuさんからコメントがはいっていた。相良音楽堂の時間が変わったのだ。きょうは間に合わないけど、ぜひ来週。

 「相良光紀君のFM放送(相良音楽堂)の放送時間が変更になりました!」

   毎週火曜日PM8:00~PM9:00
   http://www.channel-apple2.com/streaming_apple.html

 

 相良光紀くんは、帯広のバンド、ペニーレーンをつくったリーダー。ペニーレーンのあと、東京でデビルスを結成して、日本フォノグラムからメジャーデビューさせた。プロデュース、マネージメントのセンスは、抜群だ。ペニーレーンは、キャデラックスリムの母体になったバンド。いま相良くんがDJをやっているFM放送の「相良音楽堂」は、ジャズを紹介する番組だ。

ガンボ ガンボ

 ドクター・ジョンの「ガンボ」が発売になったのは、1972年(昭和47年)のことだ。A面1曲目の「アイコ、アイコ Iko Iko」からニューオーリンズの雰囲気いっぱいで楽しいアルバムだった。

 

 ドクター・ジョン Iko Iko http://www.youtube.com/watch?v=vx1KhaEc_8I&feature=related

 

 上の映像のなかで、ひざにギターを置いて弾いているのは、カナダ、トロントの盲目のブルース・ギタリスト、ジェフ・ヒーリーだ。座ってギターを弾くのは、足も肉腫ができて長く立っていられないからだ。目は3才のとき、癌で失った。そして、昨年(2008年)、肺とひざの癌の手術のあと、41才で亡くなった。

 

 スティーヴ・レイ・ヴォーンとジェフ・ヒーリー Look at Little Sister http://www.youtube.com/watch?v=XqU9RZqvFKY&feature=related

24thストリート・バンド 24thストリート・バンド

 

 Iko Iko の映像でジェフ・ヒーリーとギター・バトルをやっているのは、ハイラム・ブロックだ。70年代後半から80年代に活躍したジャズ、フィージョン、ブルースのギタリストだ。ファンクでブルースで、じつにセンスがいい。若いときから、さまざまのミュージシャンのサイドマンとしてライブやレコーディングに参加している。それは、マイルス・ディビス、ビル・エバンスなど巨匠たちから、マーカス・ミラーやデヴィッド・サンボーン、スライ・ストーンなどのフュージョン、ファンクのひとたち、そして、スティーリー・ダンやポール・サイモン、ビリー・ジョエルなどロック、ポップスまでじつに幅広い。

 

 24丁目バンド The 24th Street Band は、ギターがハイラム・ブロック、キーボード、クリフォード・カーター、ベースがウィリー・リー、そしてドラムスはスティーヴ・ジョーダンだった。ファーストアルバムは、1978年の発売だ。

 

 わたしの3大ギタリスト、宮坂くん、東川くん、磯部くんと、ハイラム・ブロックは、おなじ年だ。たしか3人は、早いときからハイラム・ブロックに注目していた。きっと同世代で共感するものがあったのだろう。しかし、ハイラム・ブロックも昨年、喉頭癌で亡くなった。52才。ハイラム・ブロックは、日本の大阪生まれだ。

 

 ハイラム・ブロック Funky  Broadway  http://www.youtube.com/watch?v=5Le4oFsKMAc

  スティーヴ・レイ・ヴォーンとハイラム・ブロック http://www.youtube.com/watch?v=4cW8Uj10_9s&feature=related

 ハイラム・ブロック.com http://www.hirambullock.com/index.html

   ハイラム・ブロック・メモリアル http://www.respectance.com/Hiram_Bullock/memorial

 ドクター・ジョン.com http://www.drjohn.org/

 

 ドクター・ジョンの最初のプロのキャリアは、ギタリストだった、という。ナイトクラブで演奏しているとき、銃撃ざたのトラブルにまきこまれて、左手の小指を撃たれた。それで、ギタリストの道を断念して、ピアノに転向した、という。ニューオーリンズのクラブのミュージシャンらしい伝説だ。

 (ジャンゴ・ラインハルトは、左手の指2本が火傷の後遺症で自由に動かないが、ギターの名手だ。MJQの名曲「ジャンゴ Django 」は、偉大なギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトに捧げた曲 http://www.youtube.com/watch?v=UmpLtYmSlvM)。

Django in Rome 1949-1950

Django in Rome 1949-1950

Django Django