Ommo's

古い曲が気になる

大江くんが、ユニキャブで十勝平野を走る

2008-08-31 | 日記・エッセイ・コラム

明日なき暴走 明日なき暴走
きょうの北海道マラソンは、じつにおもしろいマラソンだった。男女ふたりのニュー・スターが誕生した。男子優勝の高見澤勝は、27才、佐久長聖高校の教師だ。山梨学院大学では箱根駅伝を走っていた。卒業後は、日清食品に入ったが、昨年、母校にもどって教員になり、駅伝部を指導している。きょうの札幌の、気温29度という暑さのなかで、2時間12分10秒と驚異的なスピードだった。

女子の優勝は、佐伯由香里(さはくゆかり)、身長143㎝と小柄だが、折り返し手前から独走になった。みごとな走りだった。19才、初マラソンで優勝だ。優勝の佐伯由香里と2位の新谷仁美(しんやひとみ)は、ふたりとも小出義雄監督の門下生だ。

女子マラソンは、世代交代のときだが、やはりリードするのは、小出義男監督だった。

十勝の木のうつわ』の佐々木要くんのブログで、昔、国鉄・士幌線の、停車駅でないところで、列車に止まってもらったと書いてる。そのとき、わたしも同行していた。それは、ニペソツを登った帰りだった。ニペソツ山は、北海道の中央部、大雪山系の南側にある2012mの、鋭利な山頂が美しい山だ。

山頂からの帰り、十勝三ツ股駅へもどらず、前天から、糠平湖に近い三の沢をおりて、林道を国鉄・士幌線の釣り場駅に向かった。十勝三ツ股発、帯広行きの最終列車が、釣り場駅に到着する時間はわかっていた。思ったより時間がかかっていたので、急いで沢をくだり、山道を走った。

板張りの短いホームにたどり着くと、そこは、釣りのシーズンだけ停車する臨時駅だった。今はシーズンオフで、この駅で列車は止まらない。もちろん駅舎もない。周辺に人家もない。原生林の谷間の真ん中だ。

もう秋の日が落ちかかっていた。そこらでテントを張って、もう一泊してもいい。でも、その前に、幌加駅か、糠平駅まで歩いて、電話をみつけなくちゃ、親が心配する。遭難騒ぎにもなりかねない。翌日の月曜日は、学校を休むことになる。わたしたちは、まだ高校2年生だった。山岳部の顧問教師にも言わず、生徒だけで週末一泊でやってきたのだ。

さて、どうしようか? 糠平駅まで歩こうか? 2時間か、3時間かな。わたしたちは、板張りのホームに座りこんでいた。レンガ色の一両だけのディーゼルカーが近づいてきた。誰かがひとり立ち上がって手をあげた。すると、列車がスピードを落としたのだ。わたしたちは、驚いてみんな立ちあがった。列車は止まり、「早く、乗れ」、窓から顔をだした運転手が言った。北海道の、燃える秋のことだ。

1975年のことだろうか、ペニーレーンのリード・ギターは、藤野敦志くんに替わった。その夏、十勝管内13カ所のライブを組んだ。ホール、公民館を貸してくれる町と村はすべて回ろう、という計画だった。ロックバンドには貸せない、町外の人間には使わせない、というところもあった。

こうして、「いまなりあきよし&ペニーレーン・十勝平野すみずみコンサート」がスタートした。いまなりあきよしは、ポリドール・レコードからシングル「九条物語」を発売してスマッシュ・ヒットしていた。アルバム「無風地帯」の発売キャンペーンに、十勝を選んだのだ。いまなりあきよしの経費は、プロダクションとレコード・メーカーが負担した。

ほとんど無名のフォーク・シンガーとアマチュア・ロックバンドのライブだ。チケット販売は、手売りだ。5枚売ってくれる高校生を10人みつけると、50枚が売れる。という地味な作業を、大江くんが引きうけてくれた。大江くんも高校生のときから、サウンドコーナーに通ってきたロック好きのお客さんだった。

大江くんは、わたしが手に入れた中古の黄色い、いすゞ・ユニキャブに乗って、広い十勝平野を走りまわってくれた。ユニキャブは、ジープ風スタイルの車だが、4WDではなかった。

1975年は、ブルース・スプリングスティーンのアルバム「明日なき暴走 BORN TO RUN」が発売になってバカ売れした。

Bruce Springsteen - Born to Run (Live and acoustic)  http://jp.youtube.com/watch?v=ccKzusBCZKc&feature=related 

Springsteen - Born to Run  http://jp.youtube.com/watch?v=aQewwkbrp8o&feature=related

ブルーススプリングスティーン・ネット http://www.brucespringsteen.net/news/index.html


アメリカン・グラフィティは、ジョージ・ルーカス監督

2008-08-30 | 日記・エッセイ・コラム

アンナ・カレーニナ 1 (1) (光文社古典新訳文庫 Aト 3-2) アンナ・カレーニナ 1 (1) (光文社古典新訳文庫 Aト 3-2)
アメリカン・グラフィティ ― オリジナル・サウンドトラック アメリカン・グラフィティ ― オリジナル・サウンドトラック
愛媛・松山市で開かれていた女子野球のワールドカップで、日本は、カナダに11-3で快勝して優勝した。予選リーグから6戦全勝の完全優勝だ。星野ジャパンとは大違いだ。順位は、①日本 ②カナダ ③アメリカ ④オーストラリア ⑤台湾 ⑥韓国 ⑦インド ⑧香港 

日本男子がボロ負けした韓国には、11-0でコールド勝ちしてる。しかし、なぜテレビは、この女子野球ワールドカップの試合を放送しないのだろうか? 毎日新聞が後援だ。なぜ、TBSは、決勝だけでも放送しなかったのだろうか? 深夜の録画放送でもいいじゃないか。

不動産商売に忙しいTBSには、もう時代を読むセンスはないのか。いつまでもお笑いブームでもないだろうに、見飽きたお笑いのやつらばかりの、安手の番組を垂れ流す無神経、たしかに、テレビはすでに終わっている。爆笑問題・太田が、賢者づらしてるのも、まったく理解できないテレビの不思議だ。

トルストイの「アンナ・カレーニナ」の新訳が、光文社古典新訳文庫から出た。「アンナ・カレーニナ」の冒頭には、とても有名な文章がある。この望月哲男の新訳と英語訳(原典はもちろんロシア語)を下に引用する。

  幸せな家族はどれもみな同じにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。

  Happy families are all alike; every unhappy family is unhappy in its own way.

トルストイの小説は、ある程度歳をとってから読むと、じつにおもしろい。それがわかったのは、「戦争と平和」を、30才過ぎて読みなおしたときだった。10代に読んだのは、いったい何だったのか、と思うほど新鮮な驚きだった。小説ってのは、おもしろいな、とあらためて思ったものだ。

中年になったトルストイが、5年の歳月をかけて書いた超力作を、10代の高校生が理解するのは、どだい無理だ。学習、勉強の意味では有意義だが、小説をたのしみ、理解することは出来なかった。読んだつもりになっていただけだった。しかし、中年になって読みかえすと、まったく目からウロコだった。映画よりずっとおもしろいのだ。

「戦争と平和」に驚いて、「アンナ・カレーニナ」を読みなおした。これがまた、おもしろい。単に不倫の恋愛小説ではなく、じつにさまざまなテーマが濃厚に織りこまれている。そして、なにより読み物としての完成度が高い。娯楽作品として、という意味でも。

ウライジミール・ナボコフは、「アンナ・カレーニナ」をロシア文学の傑作として解説している。ナボコフは、ロシア革命を逃れて、ヨーロッパを経てアメリカに渡ったロシア貴族の作家だ。アメリカのコーネル大学でロシア文学を講義していた。ヒット作は、「ロリータ」、ロリコンの語源になったロリータだ。「ロリータ」は、ナボコフが、はじめて英語で書いて発表した小説だ。(それまでロシア語以外では、フランス語とドイツ語で小説を書いていた)。世界的なベストセラーになり、映画も大ヒットした。

(ウラジミール・ナボコフの『ロシア文学講義』(1992年 TBSブルタニカ)は、絶版だが、たいがいの図書館にあるはず……、近所の小さい図書館にもあった)。

新訳の「アンナ・カレーニナ」は、2巻が出て、残りの2巻も続刊される。濃密、重厚な小説に没頭するのも、なかなか楽しい。「戦争と平和」も、読みはじめると、とまらない。両作品とも、あんまりむずかしく考えず、エンターテイメント作として読むのがたのしい。じっさい、リアルタイムのロシアの読者は、恋愛小説、娯楽作品として読んでいた。忠実な歴史再現小説だの、ロシア社会の諸矛盾の表現だの、労農主義だの、トルストイ主義なんてのは、あとから評論家や学者が、こむずかしく屁理屈をつけたのだ。

1974年。帯広市でのこと。ベルの2階でペニーレーンのライブを見て、マネージャーを引きうけることにした。レコード屋をやり、プロモーターをやっていると、どうしても欲求不満が残る。今売ってるものじゃなく、もっと新しい感覚のものを作りたい。なにがヒットするか、わかっている。それを自分で実現してみたい。自分の感性も試してみたい。

宮坂寿文くんや東川佳人くんたちのバンドで、それをやりたかった。しかし、かれらは、音楽を仕事にする気はまったくないようだった。

その4年くらい前には、ひかげのかずら(田守くん)のことをデビューさせたい、と思っていた。しかし、そのときは、レコード屋をはじめたばかりで、興行の経験もなく、音楽業界のしくみもよくわかってなかった。まだ売り上げも少なく、レコード・メーカーにもまったく相手にされてなかった。磯部優くんにギターで参加してもらい、デモ・テープを作って、何社かに送ったが、反応はまったくなかった。

そんなわたしでも、、かずらは、頼りにしてくれた。しかし、京都のヤンケ(糸川くん)と会わせるところまでしかできなかった。ヤンケは、URCレコードを紹介してくれたが、かずらはメジャー・デビューできなかった。このひかげのかずらのことが、長く心に残っていた。

もし、札幌に住んでいたら、東川佳人くんが札幌で作ったバンド「グッド・ニュース」の、マネージャーをやらせくれ、と言っただろう。

この年(1974)の暮れには、ジョージ・ルーカス監督・脚本の「アメリカン・グラフィティ」が封切りになり、映画は大ヒットして、サウンドコーナーでは、サントラ盤が2枚組にもかかわらず、よく売れた。この映画のプロデューサーは、フランシス・コッポラだ。Richard Dreyfuss American Graffiti #1 (the beginning)http://jp.youtube.com/watch?v=LJJ4JyeAIoE

戸張良彦写真展
8/23(土)~9/9(火)
10:00~18:30  水曜定休
弘文堂画廊 
帯広市西2条9丁目6 六花亭本店3階
Tell 0155-23-4517

Azuさんが送ってくれたオールマン・ブラザーズ、「ストミー・マンディー」の映像 Allman Brothers / Stormy Monday  http://jp.youtube.com/watch?v=1gDhR1R3S0s


KISSのファースト・アルバムは、1974年

2008-08-29 | 日記・エッセイ・コラム

地獄からの使者~ファースト 地獄からの使者~ファースト
夜になって、また雷が鳴って、荒れてきた。しかし、風は南風、ひどく暑く、蒸す。

若者の物ばなれ、買い物ばなれが、はげしい、という。それは、そうだろう。不景気で仕事も金もないのだ。散財する余裕はないだろう。ガソリンは、あまりに高い。まず、新車の販売と海外旅行は、惨敗のようだ。

現場の青年たちと話をすると、車は、かんぜんにやっかいものだ。始発電車が動くまえの早朝に出かけてくるから、車は必要だが、できれば手放したい。休日は、もう車に乗らない。家族で遊びにいくのも、いまは、電車だ。買い物も、往復1時間くらいのところは、歩く。それより先は、自転車だ。車は手放して、必要なときはレンタカーですましたい。

最近、わたしの娘たちも、ひとりは、無いほうが気が楽と、車を手放し、ひとりは、ワゴン車を1000ccクラスに替えた。

若い現場監督たちにも聞いた。車を運転すること自体が嫌いだという。燃料や保険が高いのもあるが、事故や故障、そして何より他人とのトラブルがうっとうしい、という。絶対に必要なとき以外、運転したくない、と。たしかに、最近は、すぐにぶち切れるやつや、わけもなく難癖をつけてくる、おかしなやつらが、やたらと多い。運転マナーも、悪くなるばかりだ。(きょうも千葉県我孫子市で交通トラブルで2人が刺殺された)。

どんな免許を持っているのか、運転している外国人たちも、いっぱいいる。アラブ系、インド・パキスタン系、アフリカ系、南米系、アジア系、そして中国人たち。わずかなワイロで運転免許証が買える国もある。日本の交通法規をまったく知らないやつらもいる。都合が悪くなると、日本語、ぜんぜん分からないと、とぼける。わたしは、東京で交通誘導の警備員をやっていて、そういう外人ドライバーに日常的にあっていた。

東京にいる外人たちの素行をみていると、外国へのあこがれなんてものは、すっかりなくなる。わたしは、ガードマンで表参道のビル建築現場の前に立っているとき、若い白人の女に、突然、「バカ野郎!」と、罵倒された。もちろん日本語で。ロシア人か、ウクライナ人のようなスラブ系の白人女で、モデルかコールガールのようだった。え? なんのこと? と、唐突な攻撃に動揺していると、「バーカ、じじい!」と、大笑いして通りすぎていった。

すこし前にいた建築現場の所長は、通勤は電車だったが、休日出勤のときは、BMWのM6 カブリオレでやってきた。課長は、マツダのRX8だった。セカンドカーだという。「いい車に乗ってますね」というと嬉しそうだった。どうも、いまも車に執着しているのは、中年以上の人たちのようだ。

銀座の山野楽器のギター売り場にならぶのは、80万円、90万円というエレキだ。そんな価格のフェンダーやギブソンのギターがずらっとならんでる。これがよく売れるという。かってのロック小僧には、あこがれのギターだ。10代のころはとても手が届かなかったが、いま、中年、初老になり、これくらいの買い物は、苦じゃない。そんなお客に売れている。山野楽器本店4Fのギター・フロアーでは、出張で東京にやってきたような中年の男たちが、ガラスケースの中のギターを、まぶしそうに眺めていた。

1974年。ボーカル・アンプの故障をみてください、と、ペニーレーンの相良光紀くんからの電話で、ベルの2階にでかけた。ベルは、帯広市の西2条7丁目の角にあった衣料品屋だ。その前は、スバル座という映画館だった。1階は店舗で、2階の半分を倉庫と事務所に使っていた。その2階で、フローリングの広いフロアーが使わずに空いていた。日曜日、そのフロアーを高校生のバンドに解放してライブをやっていた。

ベルの店長にお願いして、ライブ会場として借りたのは、相良光紀くんだった。ベルの女性スタッフが、シルクスクリーンでポスターを作ってくれた、という。

会場に入ると、高校生と中学生でいっぱいだった。キャロルの全盛期だったから、男の子たちは、革ジャン、リーゼントが多い。女の子は、ポニーテールだ。バンドの演奏でみんなが踊っているから、いまのライブとすこし雰囲気は違う。

バンドは、どれも、すさまじく速いテンポのロックンロールを演奏した。あまり上手いとは言えないが、ここでは、そんなことは、問題じゃないだろう。まさに、パンク・ロックだ。

ペニーレーンは、4人組だった。ギターとボーカルの相良光紀くん、リード・ギターの川瀬康次くん、ベースとボーカルの葛西隆能くん、ドラムの林秀人くんだ。

1974年には、キッスのファースト・アルバムが発売になった。KISS I WAS MADE FOR LOVING YOU  http://jp.youtube.com/watch?v=HnqUAbGMjL  Kiss - Rock-n-Roll All Night http://jp.youtube.com/watch?v=DWLpbcgc814 

戸張良彦写真展
8/23(土)~9/9(火)
10:00~18:30  水曜定休
弘文堂画廊 
帯広市西2条9丁目6 六花亭本店3階
Tell 0155-23-4517 

     


相良光紀くんとペニーレーン

2008-08-28 | 日記・エッセイ・コラム

マイ・スウィート・ロード マイ・スウィート・ロード
先日、高校時代の友人たちと会ったときに話題になった。石原裕次郎が歌った「錆(さ)びたナイフ」(萩原四朗作詞)は、石川啄木の歌集『一握の砂』からパクってる、のじゃないか、と。

啄木の歌は、
  いたく錆びしピストル出でぬ
  砂山の
  砂を指もて掘りてありしに

裕次郎の「錆びたナイフ」は、
  砂山の砂を 指で掘ってたら 
  まっ赤に錆びたジャックナイフが 出て来たよ
  どこのどいつが 埋めたか 胸にじんとくる 小島の秋だ

この最後の詞句の、「小島の秋」も、『一握の砂』の最初の歌
  東海の 小島の磯の 白砂に 
  われ泣きぬれて 蟹とたはむる
この「小島の磯」」から引かれているのは、たしかだ。

なんだ、パクリか! 高校生の時に啄木の「一握の砂」を読んでいて、この錆びたピストルの歌に出会ったときは、ショックだった。裕次郎の「錆びたナイフ」の歌詞は、好きだった。しかし、啄木のオリジナルの、錆びたピストルのイメージのほうが、はるかに鮮烈だ。詩句には、美しい旋律がある。思いうかぶ映像には、強烈な寂寥感(せきりょうかん)がある。

そのときから、わたしにとって、「錆びたナイフ」の歌詞は、すっかり色あせたものになった。

日活映画「錆びたナイフ」の封切りは、1958年で、啄木没後、50年はたってない。著作権侵害で問題にならなかったのか? 昭和30年代は、著作権にゆるい時代だったのか。いまなら、大騒ぎになったろう。石川啄木が亡くなったのは、1912年(明治45年)だった。26才の若さだ。

日本の和歌には、本歌取(ほんかどり)という過去の歌を取り入れる技法がある。しかし、きびしい作法ある。原則をやぶって、むやみと古歌を盗むのは、粋じゃない。

この「錆びたナイフ」のパクリ疑惑は、ずいぶん前から知られていることらしく、検索するといくつか記事がヒットする。

わたしたちには、ジョージ・ハリソンの「マイ・スウィート・ロードMy Sweet Lord 」(1971年)の盗作疑惑が、記憶に鮮明だろう。裁判では、ジョージが負けた。しかし、「錆びたナイフ」ほど単純ではない。

なんと言ってもビートルズだ、ヒットは、世界的なメガ・ヒットになる。すると、メロディーが似てる、曲の構成、構造が似てるから盗作だ、と非難され、巨額の賠償金を請求され、訴訟をおこされる。弁護士の取り分も、ばく大だ(アメリカの場合、勝訴して獲得した賠償金の3分の1を弁護士がとる)。難癖つけて、もし、勝てばボロイ。たった一曲で、一生、安泰だ。弁護士は必死になる。

ならば、過去の形式によらないで、完全なオリジナル曲というのが、いったいこの世にあり得るのか?  形式、様式が否定されると、音楽は成り立たないだろう。つまり、五・七・五・七・七の形式が、和歌の美しさの根幹であるように。

ともかく、わたしは、ジョージ・ハリソンのファンで、「マイ・スウィート・ロード」が好きだから、世間でなんと言われても、たとえ裁判で負けても、ジョージを信じているわけだが……。しかし、たしかに、ザ・シフォンズThe Chiffonesの曲He's So Fine(1963年)とは、よく似ている。裁判で負けるのは、しょうがないかな。

だが、シフォンズのオリジナル曲も、ジョージの曲も、もし同じ賛美歌をよりどころにしているとしたら、話は変わってこないだろうか。元歌は、18世紀の賛美歌だという説がある。ぜひ、そいつを見つけたいものだ。

1974年のことだったろうか? わたしの事務所に相良光紀くんがやってきた。相良くんは、レコード店のお客さんだった。ビートルズのファンの帯広北高生だ。ロック・バンドをやってるので、一度みてくれませんか? という。そのときは、曖昧な返事でこたえた。

しかし、相良くんは、なんどもやってきて、バンドの話をしていく。わたしは、相良くんの熱意に心が動いた。そこで、ライブのときは、足りないアンプ類を貸しだすことにした。あるとき、「借りたボーカル・アンプの調子が悪いので、見てくれませんか?」 と言ってきた。それが、ペニーレーンを見に行くきっかけだった。 

The Chiffons - He's So Fine  http://jp.youtube.com/watch?v=nToEQ3HRM18

Jody Miller "He's So Fine”  http://jp.youtube.com/watch?v=NDAOE_RaVGY
このジョディー・ミラーのヴァージョンは、ジョージ・ハリソンの「マイ・スウィート・ロード」との時間的な前後関係が、かなり怪しくはないか?

My Sweet Lord - Concert For George  http://jp.youtube.com/watch?v=FXvV6fOUedo&feature=related


来生たかお「夢の途中」は、星勝さんの編曲

2008-08-27 | 日記・エッセイ・コラム

来生たかお TREASURE COLLECTION 来生たかお TREASURE COLLECTION
もう秋だが、わたしは長いあいだ、春に花の咲くハナミズキを、「花見月」と書くと思っていた。草木の名に月とは、不思議な名前だが、花見のころに咲くから、まあいいか、と勝手になっとくしていた。しかし、花見月は、3月をさす言葉で、ハナミズキは、「花水木」と書く。これを知ったのは、けっこう歳になってからのことだった。花が咲くミズキということだったのか……。

「こんどは、来生(きすぎ)たかおをやる」と、いつもキャデッラクスリムのことを手伝ってくれる渡辺さんに言った。

「なんですか? キスギタカオって」、と渡辺さんは聞いてくる。「来生たかおは、来生たかお、だよ」、「その、着すぎた、顔って、どんな顔ですか?」

来生たかおの「夢の途中」は、薬師丸ひろ子主演の映画「セーラー服と機関銃」の主題歌だった。「夢の途中」が入ったアルバムは、1981年に発売になった。

来生たかおは、作詞家の姉、来生えつこと組んで、それまでも素晴らしい曲の入ったアルバムを発表していた。あまり売れてるとはいえなかった。しかし、この「夢の途中」は、シングル盤もLPも爆発的に売れた。

このヒットで、ぐっと知名度が上がるが、ミュージシャンとしてのキャリアは長い。井上陽水の「少年時代」のピアノは、来生たかおが弾いてる。ユーミンのアルバムにも参加している。1977年にヒットした、しばたはつみが歌ったマツダのCM「マイ・ラグジュアリー・ナイト」は、来生たかお・来生えつこの曲だ。中森明菜のデビュー曲「スロー・モーション」や大橋純子の「シルエット・ロマンス」など、二人の作品はたくさんある。

「夢の途中」は、星勝さんの編曲だ。わたしは、1982年に帯広市福祉センターで、来生たかおのコンサートを開いた。

この1982年には、はじめてCDが発売になった。レンタル・レコード店の乱立の嵐で、足腰が弱っているところにCDの発売は、レコード屋には、きつい。同じソースを3種類在庫しなくてはならない。つまり、レコードとテープとCDだ。

たとえば、浜田省吾のアルバム「PROMISED LAND ~約束の地 」は、1982年11月21日の発売だった。LPレコードとCDとカセット・テープが同時に発売になった。同じ音源のもの3種類をメーカーから仕入れて在庫しなくてはならない。これは、大きな負担だった。CDプレーヤーの普及より速くCDがぞくぞくと発売されていった。まだそれほど売れないのに、CDの在庫だけがふくらんでいく。このレコードからCDの転換期が、90年代まで長くつづく。

最近わたしは知ったが、アップルのファンはすでに知っていることだろう。iMacやiPodのデザインは、ドイツのブラウン(髭そりで有名)のデザイナー、ディーター・ラムスDieter Ramsから影響を受けている、という。これは、パクリといってもいいかな。いずれも1960年代の製品だ。比較写真の記事は、http://gizmodo.com/343641/1960s-braun-products-hold-the-secrets-to-apples-future

薬師丸ひろ子with来生たかお セーラー服と機関銃(1981)http://jp.youtube.com/watch?v=pobuV0VclWU&feature=related

マイ・ラグジュアリー・ナイト/来生たかおhttp://jp.youtube.com/watch?v=M19oS98iPJo&feature=related

大橋純子 1982 シルエット・ロマンスhttp://jp.youtube.com/watch?v=jqc0KLaovpA&feature=related
中森明菜 Slow Motion スロ?モ?ション (1997 Live)  http://jp.youtube.com/watch?v=f6CVBomcrls&feature=related

部屋中の野口五郎ポスター

2008-08-26 | 日記・エッセイ・コラム

血と汗と涙 血と汗と涙
涼しい。日が落ちて散歩にでると、半袖では寒いくらいだ。まだ8月の末だから、これで終わるわけはない。またガーンと猛暑がやってくるだろう。

レコードの再生には、とうぜんレコード針が必要だ。いまでも、ナガオカ・トレーディングがレコード針を発売している。ネットでも買えるが、売ってる店舗もある。神田神保町の本屋街にある三省堂別館には、広いレコード売り場がある。もちろん中古レコードだ。しかし、当時ヒットしたLPは、洋楽も邦楽もほとんど手に入る。値段も当時の定価と変わらない。レコード・プレーヤーも、レコード針もここで売っている。

70年代には、ナガオカと日本蓄針(オーム)の2社がレコード針を発売していた。しかし、その種類が多くて、お客を混乱させていた。機能的には、最初から最後まで残っていたシンプルなネジどめのやつでいいはずだ。しかし、プレーヤーのメーカーは、さまざまな形態のカートリッジを発売して、針の販売の現場を混乱させていた。企業の利益優先で、ユーザーをナメきったごう慢な商売の典型だった。

新しい針に交換しても、針飛びをするので、プレーヤーを見てくれませんか、とお客さんにいわれて、でかけたことがあった。こういうことは、よくあった。きっと、それまでの電氣屋さんの営業スタイルの影響だろう。レコードの配達もしたが、レコード針を届けて取り付けることもよくやった。

そのお客さんの部屋にはいると、壁のすべて、天井まで、野口五郎のポスターとブロマイドで埋めつくされていて、ギョッとさせられた。そして、そのポータブル・プレーヤーは、テントウムシのプレーヤーのようなやつだった。

テントウムシのプレーヤーは、テントウムシの形をした赤いプラスチックのプレーヤーで、おもちゃ売り場で爆発的にヒットした。このプレーヤーのピックアップでは、LPレコードの少しの歪みにもついていけず、針飛びする(基本的は、シングル盤再生専用にデザインされてる)。方法はひとつ、ピックアップの上に、一円玉など硬貨をのぜて重くするしかない。そのときも、セロテープで何枚かの一円玉をつけて解決した。針飛びするLPのほかは、シングル盤ばかりだったから、はじめて買ったLPレコードだったのかもしれない。

その部屋のレコード・プレーヤーを見て、うちのお客さんは、立派なステレオ装置で聴いている人のほうが少ないのかもしれない、とあらためて気づいた。自分も、最初は、電氣屋で捨てられるプレーヤーをもらって、手製のアンプにつないで聴いていた。

やっと買った、あこがれのアーティストのLPレコードが、針飛びして聴けない……、どれほどがっかりするか。

一度針飛びでレコード面にキズが付くと直すことはできない。そこで、お客さんが、針飛びするともってくるレコードは、無条件ですべて新品と交換することにした。「針を交換したほうが、いいかもしれませんね」と言って。販売のときは、かならず、レコード面のキズを確認することにした。

Blood, Sweat & Tears - Spinning Wheel  http://jp.youtube.com/watch?v=8T97f2kBzOQ&feature=related


大栗さんは、車でやってきた

2008-08-25 | 日記・エッセイ・コラム

A Night at the Opera A Night at the Opera
北京オリンピックが、やっと終わった。野球と男子サッカー、マラソンが袋だたきにあっている。しかたがないだろう。国庫から金が出ているのだ。国民には罵倒する権利はある。わたしのようにロクに所得税を払ってない人間でも、酒税での国家への貢献度は、オリンピック選手並だ。食品も含めて、あらゆる物から消費税をとられている。いまだにタバコを止められない国民もいる。だから、納税者全員、星野ジャパンを叩く正当性をもっている。

WBCは、商売のスポーツ興行だから、国から金は出てない。だから、また星野を使おうが、知ったことじゃない。しかし、負けるのは、くやしい。

レコード屋をやっているころ、メーカーは、北海道を三つに分けて営業していた。道南と道東、そして道央だ。ひとりの営業マンの担当するテリトリーは、おそろしく広い。当時は、ほとんどのレコード・メーカーは、車での移動を禁止していた。移動は、汽車だ。北海道に電車はない。

道東は、ひとりのセールスマンが、帯広、釧路、根室、網走、北見、旭川を担当する。レコードメーカーにとっては、日本で一番広くて、一番人口の少ないところだ。セールスマンは、このテリトリーを一周するだけで一週間かかる。札幌の自宅を出て、一週間は帰れない。たいへんな仕事だ。まるで西部劇の世界のようなものだ。たとえば、首都圏で神奈川県全域を担当しても、毎日、東京の自宅にもどれる。そして、道東の十倍の売り上げがあるだろう。

一週間分の着替えと、注文書とテスト盤と資料をつめこんだカバンを両手にかかえ、最初に降りるのが、帯広だ。当時は、札幌から特急で4時間かかった。そして、まず、駅ビルのサウンドコーナーに寄り、サウンドコーナー駅前店にやって来る。

浜田省吾を熱心に売りこんだCBSソニーの高市さんは、大学を出てCBSに入社して、初任地が北海道で、担当が道東だった。南国、四国の人だから、冬はきっとつらかっただろう。そうした、レコードメーカーのセールスマンと店の人間とは友情がうまれた。

日本フォノグラムの鈴木雄三さんとは、よく酒を飲んだし、いっしょにキャンプにも行った。鈴木さんは、わたしがマネージャーをやっていたバンド、ペニーレーン(のちのキャデッラクスリム)のテープを、フォノグラム本社に何度も送ってくれた。

ワーナー・パイオニアの大栗功(いさお)さんは、ワーナー・パイオニア創業のときから道東担当のセールスマンだった。ワーナー・パイオニアは、1970年、アメリカ、ワーナーブラザーズと日本の音響メーカー、パイオニア、そしてナベプロ、渡辺プロダクションが作った会社だ。

大栗さんは、拓殖大学を出て、旭川の本間興行社長の運転手兼ボディーガードをやっていた。拓大の空手部出身だった。ワーナー・パイオニア創業のとき、本間興行から出向したのだ。本間興行とナベプロは、近しかった。

創業のころのワーナー・パイオニア札幌支店は、たった二人の営業マンで北海道をカバーしていたから、大栗さんは、車でまわっていた。道東もふくめて、宗谷も天塩もテリトリーにしていたのだ。じつに広大だ。

ワーナーは、ロックの売り物が多い。わたしと大栗さんが会う時間も多かった。夏、湧洞湖(ゆうどうこ)のキャンプに誘うと、わたしたちが到着するずっと前から、釣り竿を湖畔に立てて、待っていてくれた。翌日は、オートバイの曲乗りをみせてくれて、驚かせてくれた。

大栗さんは、当時、車で4時間以上かかった札幌から帯広のあいだを、3時間切って走ってくる、という。「カーブはすべて頭に入っているから、夜、走るときは、ライトを消すんだ。交差点が近づいたら、ライトを点けて、通過するとまた消す」という。なぜ? 「捕まらないでしょ。あっちこっちに覆面パトカーが隠れているけど、真夜中にライトを消した車が、100㎞以上のスピードで走ってるなんて考えないでしょう」。真夜中の北海道の原野を疾走する車を想像するとワクワクする。

堤防に車をとめて居眠りをしていると、暴走族のアンチャンたちに取り囲まれていた。何なの、何か用、と外に出ると、すぐに棒で殴られ、金を出せと言われた。「ボコボコにしてやったよ、死人は出てないと思う」と笑う。

髪を短く刈って、ダークグリーンのダブルのスーツを着ていたから、けっしてレコード・メーカーのセールスマンには見えなかった。任侠映画の人だ。胸板も厚く、スーツの上からも、格闘技で鍛えた身体だとわかる。「店長、店長」と店に入ってくると、店員たちはみんな、引いた。でも、わたしとは気が合った。

大栗さんとは、クイーンを売ったのが、大きな仕事だった。サウンドコーナーでの売り上げは、ワーナー・パイオニア本社で驚異だったらしい。日本の北端で、いったい何が起こっているのだ、と。

大栗功さんは、北海道のあと、仙台支店に転勤になり、札幌支店長になってもどってきたが、突然、会社で倒れ、意識がもどることもなく、亡くなってしまった。

Queen - Bohemian Rhapsody  http://jp.youtube.com/watch?v=irp8CNj9qBI

この「ボヘミアン・ラプソディー」は、放蕩生活の末に、人を撃ち殺してしまったやつの懺悔の歌だ。複雑な心理を表現していて、みごとだ。


ペレラさんは、ボブ・ディランを買いに来た

2008-08-24 | 日記・エッセイ・コラム

レット・イット・ブリード レット・イット・ブリード
サウンドコーナー駅前店をはじめた1968年のころは、ベトナム戦争の真っ最中だった。浦幌のロランC基地の将兵の数も多かった。ロラン基地は、米軍のレーダー基地だ。帯広から車で1時間くらいの、太平洋を望む丘の上にある。

週末になると、ロラン基地の兵隊たちは、帯広の街にやってきて、レコード屋にも立ち寄った。ほとんど十代の兵隊だから、買うものは、店のお客の高校生たちと変わらない。ローリング・ストーンズ、グレートフル・デッド、ボブ・ディランは、とくに人気があった。ジョニー・キャッシュやグレン・キャンベルなどのカントリー系も人気があった。

まだドルは固定相場で、1ドル360円だったから、高い日本のLPレコードの値段もそれほど気にならなかったのか、兵隊たちは、ひとりで10枚とか20枚とか、ごっそり買っていった。戦地手当みたいな特別な収入があったのかもしれない。

サイゴンの帰りに、ウイスキーとタバコをごっそり雑嚢に入れて帰ってきて、全部やるから、マリファナを手に入れてくれ、と言った兵隊もいた。「来週、ベトナムに行くけど、また浦幌にもどってくるから、レコード買いにくる」と言って、帰ってこなかった兵隊もいた。

75年頃か、インド系のハンサムな青年が、レコードを買いにやってきた。言ってるミュージシャンの名前がよく聞き取れない。書いてください、とメモ用紙を渡した。「なんだ、ボブ・ディランか」、Bob Dylanと書いてあったのだ。わたしのヒヤリング能力は、そんな程度だ。いまでもBob Dylanは、「バブラン」としか聞こえない。

これが、ライオネル・ペレラさんとの出会いだった。

いま、帯広でカレー屋さん「ライオン・ハウス」と英会話教室を経営しているライオネル・ペレラさんは、帯広畜産大学の学生だった。スリランカの大学の先生だが、留学してきていた。環境植物学科の美濃教授のゼミにいた。

学生のときからペレラさんもレコード屋のお客さんだったのだ。アパートの部屋に招待されて、カレーをごちそうになったこともあった。いま、九州福岡で歌っている森本裕二くんも、ペレラさんとおなじ美濃先生のゼミで、大豆の結花率だったかの研究をやっていた。

(花が咲いても、それが全部、実になるわけではなく、花だけで終わるやつも多い。それが苗の間隔とか畝幅でどんなふうに変わるか、とかいう研究をやっていた。花の数を毎日カウントするような地道な研究だ。違うかな?)

森本くんは、ナッツ(ベース・門脇優くん、リードギター・テツヤくん、ボーカルとギター・松ちゃん、ドラムス・櫻井‘サスケ’勝則くん)と、「森本裕二&ナッツ」というユニットを組んでいた。わたしは、森本くんの畜大卒業記念コンサートを帯広福祉センターで開いた。ペレラさんたち畜大生たちがたくさんやってきて、じつに楽しいコンサートだった。

Gimme Shelter - The Rolling Stones  http://jp.youtube.com/watch?v=LJMnES7WoT4&feature=related

Rolling Stones - "Sweet Virginia" Live Fort Worth 1972  http://jp.youtube.com/watch?v=Us-Qzze9iGk&feature=related


旭川でウッドストック

2008-08-22 | 日記・エッセイ・コラム

Déjà Vu Déjà Vu
きょうのオリンピックでは、競歩50㎞の山埼勇喜選手が7位に入賞した。競歩は、じっさいのレースを見たことがないが、ぜひ一度見たいと思っている。

以前、川崎市の多摩川沿いに住んでいた。対岸が、東京都世田谷区の二子玉川だ。よく堤防の遊歩道を歩いて、等々力公園まで出かけた。等々力グラウンドは、川崎ヴェルディ(今は、東京ヴェルディ)のホームだった。1994年ころのことだ。Jリーグが開幕したばかりで、日本のサッカーに熱気があって、じつにおもしろいときだった。三菱自動車東京工場の、週末の夜勤明け、等々力グラウンドでヴェルディの練習をみるのが楽しみだった。

その多摩川の遊歩道で、早朝、朝もやのなかを競歩の選手が練習をしていた。テレビでみる奇妙な格好で歩くという印象と違って、じっさいに走っている(歩いている?)姿は、じつにかっこいい。そして、びっくりするほど速い。これは、一度レースを見に行きたいものだ、と思ったものだ。

1970年のこと、旭川の国原楽器のLM(ライト・ミュージック)担当のオモテさんから電話がきた。旭川の常磐公園でロックフェスをやるので、帯広からバンドを出演させてくれないか、「北海道のウッドストックにしたいんだ」という。

ウッドストック・ロック・フェスティバルは、前年の1969年にニューヨーク州で40万人を集めて開かれた。60年代ヒッピー・ムーブメントを総括する大イベントだった。当初は、1万人くらいの規模の有料のロックフェスのつもりだったらしいが、ラジオと口コミで、40万人以上が集ってしまい、けっきょく、無料のフリーコンサートになった。

これだけの数が集まっても、暴力ざたも、けが人も、餓死者もなく(食料を客たちで分け合った)、大きなトラブルはなかった。「ウッドストック」まさに、アメリカの輝かしい「愛と平和」の世代の象徴的な伝説になった。プロモーターは、フェスそのものでは赤字だったが、レコードと映画で収支は合った、という。

同じ年の1969年、ローリング・ストーンズが、カリフォルニア州オルタモントで開催したフリーコンサートでは、ストーンズが警備に雇ったヘルズ・エンジェルによって、観客の黒人青年が撲殺された。オルタモントの悲劇といわれる事件だ。この最悪なコンサートと、平和なウッドストック・ロック・フェスとは、好対照だった。

旭川のウッドストックには、帯広畜産大学の学生バンド、レインズを送ることにした。レインズは、池田さんがギターとボーカル、ケムシさんがベースだった。CCR(クリーデンス・クリアーウオーター・リバイバル)のコピーをやっていた。畜大生の池田さんとケムシさんは、レコード屋サウンドコーナーのお客さんだった。

ほかにも、旭川の野外ロック・フェスで演奏しないか、と、夜バンのバンマス(バンド・マスター)たちに声をかけたが、トラがみつからないから、ダメだ、と断られた。(トラは、エキストラ、代役のバンドとか、演奏者のこと)。当時は、ディスコという踊れる店も、キャバレーも、生バンドの演奏だったから、帯広にもプロのロック・バンドが、いくつもあった。

レインズは、畜大生だったから、旭川教育大学の学生寮に泊めてもらった。わたしは、三条高校の友人、池田純くんの車で、佐藤英光くんといっしょに真夜中、帯広を出発した。この旭川のウッドストックは、ギャラも、交通費も出ないボランティアだった。弁当も自前だ。お客は、5、600人くらいだったか?

この1970年は、ジミ・ヘンやジャニスが突然なくなったりしたが、ロックでは、おもしろい年だた。BS&Tにつづいて、シカゴの「長い夜25 or 6 to 4」がヒットして、あとのチェイスの「黒い炎Get It On」につながる、ブラス・ロック・ブームが起こった。

フォーク・ロックでは、CSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)のアルバム「デジャ・ヴDeja Vu」が、サウンドコーナーでバカ売れしたのも、この年、1970年のことだった。

Chicago- 25 or 6 to 4- Amsterdam 1969  http://jp.youtube.com/watch?v=q2y5-DY5oU4&feature=related

Crosby Stills & Nash - Teach Your Childre  http://jp.youtube.com/watch?v=p6pphVs8bF0&feature=relatedn

Bruce Springsteen & Neil Young - Helpless  http://jp.youtube.com/watch?v=qP4dmUV2roc&feature=related

チェイスは、1974年にコンサート・ツアーの移動中に飛行機が墜落して、リーダーのビル・チェイスとバンドメンバーを含む4人が死亡して解散した。youtubeで、チェイスじゃない、「黒い炎」の演奏をみつけた。医者がリーダーのアマチュア・バンドらしい。とても、おもしろい。http://jp.youtube.com/watch?v=YmX3uBsyEY8&feature=relateduo9mTQ&watch_response  


植草甚一が、スイングジャーナルでニューロックを紹介した

2008-08-21 | 日記・エッセイ・コラム

キープ・ミー・ハンギング・オン キープ・ミー・ハンギング・オン
なでしこジャパンは、残念だった。ドイツに負けた。しかし、よくやった。ソフトボールは、アメリカに勝って金メダルだ。上野由希子は、三連投を投げ勝った。まさに、神様、仏様、上野様だ。

北京に流れる君が代は、じつに美しい。テレビで表彰式をみて、生まれてはじめて涙を流した。日本選手の全員が君が代を歌っていた。

君が代は、宮内省雅楽課の奥好義と雅楽奏者の林廣孝が作曲して、ドイツ人の音楽家フランツ・エッケントが和声をつけた。1880年(明治13年)のことだ。イギリス人ジョン・ウィリアムス・フェントンが最初の国歌をつくったらしいが、あまりに洋風なので、不評で廃棄された。それで、コンペをやって、いまの君が代に決まったわけだ。じつに壮麗で、美しい曲だ。

ときどき、大手門から入って、皇居東御苑のなかを散歩する。途中、楽部で立ちどまって、外にもれてくる雅楽の練習を聴くのが楽しい。楽部は、宮内庁で雅楽を担当する部職。洋楽も演奏する。(芸大卒のトップ奏者しか入れない)。楽部で、しばらく、立ちどまってから、江戸城天守閣跡を通って、北の丸公園にぬける。そして、武道館のまえを通って、九段坂をくだって、神田神保町の本屋街にたどりつく。これが一番好きな散歩コースだ。

すこし前、中村とうようが編集長の「ニューミュージック・マガジン」のことを書いた。いまは「ニュー」を取って、「ミュージック・マガジン」になっている。発刊になったのは、ニューロックとか、アートロックという言葉を、レコードメーカーが使いはじめて数年たった、1969年のことだ。

CBSソニーは、ニューロック、ポリドールは、アートロックという言葉をつかった。ポリドールのアートロックで大ヒットしたのは、ヴァニラ・ファッジの「キープ・ミー・ハンギング・オンYou Keep Me Hanging On」だ(1967年)。オリジナルは、モータウンのシュープリムスだが、ヴァニラ・ファッジは、まったく違う重厚なアレンジで若者の心をつかんだ。これは、いかにもアートロックという言葉にふさわしいサウンドだった。

サウンドコーナーでヴァニラ・ファッジは、まずジングル盤が高校生たちに爆発的に売れた。クリームも最初は、「ホワイト・ルーム」のシングル盤が、高校生に売れたのだ。クリームも、ティラノサウレス・レックス(Tレックス)も、ポリドールのアートロック・シリーズだ。

(きっと「ニューロック」も「アートロック」も、日本のレコードメーカーの造語だと思う。確認はしてないが。)

音楽評論家で、このニューなロックに注目したのは、植草甚一だった。「 スイングジャーナル」のジャズ評論のコラムで、ロックのことを書いたのだ。ドアーズやジャニス・ジョップリンのことを紹介した。ジャズのファンから、ロックは、まだ小馬鹿にされていた時代だ。ジャズで最も権威ある雑誌に、植草甚一は、ジャズもいいが、ロックで何かおもしろいことが起きているようだ、と書き出したのだ。中村とうようの「ニューミュージック・マガジン」 が発刊になる、ずっと前のことだ。

植草甚一は、単に音楽評論家ではない。映画評論家で、ミステリーの紹介者、文芸評論家で、翻訳家、コラムニストで、コラージュのアーティストだ。50年代~70年代のサブカルチャーの、ディレッタントの巨人だ。(死後、コレクションの4000枚といわれるレコードは、散逸を防ぐため、タモリがすべて買い取ったという)。

わたしは、黒人作家、チェスター・ハイムズChester Himesの小説「ピンクツゥーPinktoes」(1961年) を、植草甚一の翻訳で読んだ。 チェスター・ハイムズは、墓掘りジョーンズと棺桶エドの黒人刑事コンビを主人公としたシリーズで、日本でも読者が多かった。

ヴァニラ・ファッジYou Keep Me Hanging On,1967 http://jp.youtube.com/watch?v=8lhIc-ByUmU


秋といえば、「恋人よ」かな?

2008-08-20 | 日記・エッセイ・コラム

恋人よ 恋人よ
きょうのソフトボールは、ピッチャー上野由岐子が、すごかった。1日2試合(アメリカ、オーストラリア)21回、300球いじょうをひとりで投げぬいた。まさに死闘、またまた日本女子の心意気をみた。

(オリンピックのメダルに関わらず、なでしこジャパンの澤穂希さんと、ソフトボールの上野由岐子さんには、日本人から金メダルを贈るべきだろうな)

夕暮れ、旧江戸川沿いの遊歩道の川風は、涼しい。秋だ。

秋といえば、五輪真弓の「恋人よ」かな。あの歌は、単純な失恋ソングではなく、突然死んだ恋人を追悼する歌だ。あの曲のもっている悲壮感と喪失感は、切実だ。

「この別ればなし」とは、恋人の突然の事故死だ。(わたしの深読みではなく、じっさい木田高介さんを追悼する歌だ。東京芸大打楽器科、元ジャックスのドラム、アレンジャーの木田高介さんは、1980年、交通事故で亡くなった。31才だった。「出発の歌」「神田川」「私は泣いてます」とか、あの時代、木田さんの編曲作品は多い)

二番の、「砂利道を 駆け足で マラソン人が 行き過ぎる」という歌詞が、好きだ。映像が鮮明に浮かぶ。そのシーンに自分が入っていける。一番の冒頭からの公園の情景描写の効果がいきてきて、このフレーズの動きのある具体的なイメージで、一気に、ドラマのなかに感情移入できる。悲しいドラマの主人公が、聴いてる、わたしだ。みごとだ。

五輪真弓コンサートは、デビュー直後と、「恋人よ」が発売された後、2回やった。最初は、帯広勤労者福祉センターだった。「恋人よ」のあとは、帯広市民会館大ホールがいっぱいだった。満員札止めを祝して、ふい井ホテルの地下、鳥ふくさんで、ビールで乾杯したものだ。

五輪真弓さんは、酒はあまり飲まなかった。しかし、話すと、さまざまなジャンルの音楽の知識がじつに豊富で楽しい人だった。

コンサートのポスターやチラシなどの印刷物は、いつも帯広市の東洋印刷にお願いしていた。デザインは自分でやっていたから、部長の坪川さんの厚意で、工場のなかに入れてもらい、写植や色彩の具合をチェックさせてもらった。

その工場で、いろんな歳の人に、「五輪真弓のコンサートをやってください」と言われた。幅広い年令層にファンがいるんだな、と感心したものだ。

同じころ、シルクスクリーンの印刷物をお願いしている、高橋さんのところでも、「つぎの、五輪真弓は、いつですか?」と聞かれた。五輪真弓は、印刷屋さんに人気があるんだ、と思ったものだ。1980年前後の頃だった。

恋人よ - 五輪真弓http://jp.youtube.com/watch?v=_ZkgtU8UoZE

戸張良彦写真展
8/23(土)~9/9(火)
10:00~18:30  水曜定休
弘文堂画廊 
帯広市西2条9丁目6 六花亭本店3階
Tell 0155-23-4517 


フェニックスは、アリゾナ州都

2008-08-19 | 日記・エッセイ・コラム

トゥルース(紙ジャケット仕様) トゥルース(紙ジャケット仕様)
What's New What's New

帯広在住の写真家、戸張良彦さんの写真展が、今週土曜日から、帯広市で開かれる。北海道のひとは、ぜひ、でかけてほしい。

戸張良彦写真展
8/23(土)~9/9(火)
10:00~18:30  水曜定休
弘文堂画廊 
帯広市西2条9丁目6 六花亭本店3階
Tell 0155-23-4517 

Azuさんが、ドリー・パートンの映像を送ってくれた。ドリー・パートンのLPが、30年の前、サウンドコーナーの在庫にあったことを覚えている、という。あのころ、サウンドコーナーでは、リンダ・ロンシュタットとかウィリー・ネルソンのようなカントリー系のミュージシャンも売れた。とくに、リンダ・ロンシュタットは、よく売れた。

(イーグルスは、リンダ・ロンシュタットのバックバンドから生まれた)。

わたしは、リンダ・ロンシュタットでは、「What's New」が好きだった。ネルソン・リドル指揮のビッグバンドでジャズの古いスタンダードを歌っている。ウィリー・ネルソンがスタンダードを歌った「スターダスト~我が心のジョージアStardust」もサンドコーナーでよく売れたアルバムだ。

しかし、残念ながら、ドリー・パートンは、まったく売れなかった。わたしは好きで、エサ箱に在庫していたが、売れなかった。アメリカでは、まさに国民的歌手だったが、日本ではまったく評価されなかった。日本の音楽ジャーナリズムの偏見のせいだろうか?

ジェフ・ベック・グループのファースト・アルバム「トゥルースTruth」(1968)がでたとき、ニューミュージック・マガジンが、ボーカルをクソミソにけなした。ギターは、すばらしいが、ボーカルは、下手くそな、嘘くさい黒人の物真似で、アルバムを汚している、と。ボーカルは、ロッド・スチュアートだ。

わたしは、このアルバムが発売になったとき、まずボーカルが気に入ったから、ニューミュージック・マガジンのロッド・スチュアートに対する激しい非難が、まったく理解できなかった。とうじは、ヤードバーズ出身三大ギタリストなんてことを、レコードメーカーは煽っていた。メーカーに気をつかって、ギタリストを論評できないから、日本ではまったく無名のボーカルを批判したのだろうか?

ロッド・スチュアートは、このジェフ・ベック・グループで評価され、スモール・フェイスに参加して、そして、ソロで世界的な名声を得るわけだ。ニューミュージック・マガジンは、何にもわかってなかったということだ。

グレン・キャベルを覚えているだろうか。カントリー系のミュージシャンで、日本でもめちゃくちゃ売れた。しかし、なぜか、70年代後半には、日本ですっかり忘れられてしまった。

グレン・キャベルは、ロサンゼルスの有能なスタジオ・ミュージシャンだった。フランク・シナトラやライチャース・ブラザーズ やモンキーズのレコードでギターを弾いてる。ビーチ・ボーイズの64年と65年のツアーでは、ブライアン・ウイルソンに代わって参加している。

ソロになって、ジミー・ウェッブの曲で立て続けに大ヒットをとばす。「恋はフェニックスBy the Time I Get to Phoenix」「ウイチタ・ラインマンWichita Lineman」「悲しきスージーWhere's The Playground Susie?」「ガルベストンGalveston」。1967年から1969年のことだ。

サウンドコーナーでも、「恋はフェニックス」は、よく売れた。フェニックスとは、アリゾナ州の州都フェニックスのこと、不死鳥とか火の鳥のことではない。だから、この邦題「恋はフェニックス」は、意味不明で、とても奇妙なタイトルなのだ。(「恋の街・札幌」みたいに演歌では、よく地名が入ったご当地ソングがあるが……。この邦題のパクリなのか、布施明の曲に「愛は不死鳥」(1970年)がある)。

グレン・キャンベルが歌う、「恋はフェニックスBy the Time I Get to Phoenix」は、いっしょに暮らしていた彼女を捨てて、旅に出た男の歌だ。「恋は不死鳥」とは、まったく無縁の、エゴな男の言い訳の歌だ。

この曲は、最初1965年にジョニー・リバースで発表されたようだが、わたしは、きょうまで知らなかった。

By the time I get to Phoenix she'll be rising
She'll find the note I left hangin' on her door
She'll laugh when she reads the part that says I'm leavin'
'Cause I've left that girl so many times before

By the time I make Albuquerque she'll be working
She'll prob'ly stop at lunch and give me a call
But she'll just hear that phone keep on ringin'
Off the wall that's all

By the time I make Oklahoma she'll be sleepin'
She'll turn softly and call my name out loud
And she'll cry just to think I'd really leave her
Tho' time and time I try to tell her so
She just didn't know I would really go

ボクがフェニックスに着くころには、彼女は起きてるだろう
そして、ドアにつるしたメモに気づくはず
彼女は笑うに決まってる
だって、ボクは今までなんども別れを口にしてきたから

アルバカーキに着くころには、彼女は仕事してるかな
お昼どきに、ボクに電話をするかもしれない
でも電話にはだれも出ないんだ

オクラホマに着くころには、彼女はたぶんベッドだ
寝返りをうって、ボクの名前を呼ぶんだ
そして、彼女はきっと泣く。ボクがほんとに去ったと知って
ボクはなんども別れを伝えようとしたけれど、
彼女はいつも本気にしなかったんボクは伝えようとしたんだけれど・・・

(上の訳詞は、ネット上の「音楽の殿堂」さんから拝借。http://www.musicdendo.com/index.htm

原詞は、Cowboy Lyrics.com    http://www.cowboylyrics.com/lyrics/campbell-glen/by-the-time-i-get-to-phoenix-652.html

Glen Campbell-By The Time I Get To Phoenix   http://jp.youtube.com/watch?v=IlWjm0cPF5U

Jimmy Webb - By The Time I Get To Phoenix  http://jp.youtube.com/watch?v=sJoi2QpbiF4&feature=related


むかし、郷ひろみ握手会があった

2008-08-18 | 日記・エッセイ・コラム

SONGS I SONGS I
なでしこジャパンは、2-4で、アメリカに負けた。アメリカ、強い! しかし、ロスタイムで1点を入れたのは、さすが、日本女子だ。最後まで見せてくれる。ゴールを決めたのは、アフロの荒川恵理子、西友・練馬店でレジを打ってる。負けても、ひたむきにサッカーをやっているから、日本男子のサッカーより、見ていて、はるかにおもしろい。つぎは第3位決定戦のドイツ戦、勝ってほしい。

今夜の女子サッカー、スイス人の女性審判は、じつに中立で、フェアーだった。アジア人と白人の試合を白人がジャッジすることでは、めずらしいことだ。(男の国際試合では、こんなフェアなジャッジにはならない、ほとんど。人種にかかわらず、どちらかに買収されている、と疑ってみるべきなのが、男の審判だ)。やはり、中立国スイスのせいか、女性審判のせいか、あるいは、FIFA会長の観戦試合だったせいか?

コンサート会場でのレコード即売は、自分のところが主催している催しのほかにも、メーカーに依頼されて出かけていった。主催者に売り上げの10%を支払うことがあるが、レコード店には、オイシイ商売だ。仕入れの負担がない。残りは送料着払いで全部返品する。

八代亜紀や森進一などの演歌のショーでは、一回の公演で、100万円とか簡単に売れた。昼、夜2回公演で、200万~300万と売れる。演歌の観客は、普段、レコード屋にいったりしないお客だ。しかし、学生と違って財布に金をもって会場にやってくる、おばさん、おっさんたちだ。衝動買いで、LPレコードが、ばんばん売れる。直筆のサイン色紙なんか付いていると、争って買っていく。

(100万売れても、飲食業のように利益があるわけじゃないよ。7掛けの仕入れだ、と、前に話した。ここで主催者に10%を払うわけだから、20%の利益がのこる。これから、即売場のバイト代とか、その子たちの弁当代を出す。レコード屋の、オイシイ商売なんてのは、こんなものさ)。

1975年ころだ。まだジャニーズ事務所にいたころだろうか、郷ひろみの握手会というのがあった。コンサート会場でシングル盤を買うと、コンサート終了後、郷ひろみと握手ができる。これは、猛烈に売れた。郷ひろみの大ファンだから、高いチケットを買ってコンサートにきている。その郷ひろみと握手ができるのだ。ファンの子は、うれしい。

郷ひろみは、テーブルの前に座って、テーブルに両手のひじをつけて、お客さんが差し出した手を両手ではさむ。ちょうど拝むように。(あまりにも人数が多いので、ぎゅうと握手をしていると手がもたない、手がこわれる?)

お客さんは、握手をしてもらうと、もう一度レコード売り場にきて、またジングル盤を買って、握手券をもらって、また列にならぶ。これはなかなか終わらない。会場の係員が、閉館にされてくれ、と催促に来るまで即売がつづいた。これを全国ツアーでやってるのだから、すさまじい売り上げになるだろう(作家も、出版記念サイン会とかいって、同じようなことをやっている)。

(半年くらいまえ、NHKの英語でしゃべらナイトに、郷ひろみさんが出演していた。じつに英語がうまい。あれだけの歌手になると、語学に集中すると、マスターすることは容易なのだろう)

アイ高野さんがドラムで参加した、中村雅俊コンサートでは、終演後、ホールのロビーで地元のファンクラブ会員が集まる。そこで中村雅俊さんが、サインをしたり、一緒に写真をとったりする。ファンの人たちとのこうした交流は、きっと芝居の人たちの伝統なんだろう。音楽の世界の習慣にはない。演劇では終演後、出口で、すべての出演者がお客を見送ったりする。東京キッドブラザーズも出演者全員が、出口で、ありがとうございました、と挨拶して客を送りだす。

中村雅俊・北海道ツアーのあいだ、どこの町のファンの集いにも出席している女性がいた。ずっとコンサートを追いかけてきているわけだ。中学、高校生くらいファンが多いなかで、ひとりOL風のスーツを着ていた。毎日顔をあわすので、わたしたち主催者側のスタッフと挨拶をするようになった。苫小牧から来ている。半年も前から休暇を予約して、北海道ツアーの全部をみるのを、たのしみにしていた、という。

最終日が函館だった。翌日は、メンバーをバスで千歳空港に送っていく。途中、苫小牧を通過する。函館のコンサートの終演後、ファンクラブの集いが終わって、札幌のスタッフが、そのファンクラブのOL風の女性に言った。「あしたは、苫小牧まで、いっしょにバスに乗って帰りませんか? 中村雅俊さんも乗っているし、女性のスタッフもいます」

しかし、苫小牧の女性は、「いいえ、ほかのファンのみなさんに悪いので」と、同乗を断った。いかにも東北の人らしく、ぼくとつ、誠実な人柄の中村雅俊さんのファンらしくて好感がもてた。

中村雅俊 - ふれあい Masatoshi Nakamura - Hureai http://jp.youtube.com/watch?v=MsEHG18hmSk&feature=related
 
1981-夏 Hiromi Go お嫁サンバ http://jp.youtube.com/watch?v=Qi9VUGmV32Y   

ヤンケとワライダケを食す

2008-08-17 | 日記・エッセイ・コラム

パール パール
オリンピック女子マラソンは、ルーマニアのコンスタンツァ・トメスク選手が優勝した。ひじょうに遅い前半だった。その牽制し合いの中、20キロ手前から飛びだして独走になった。じつに野口みずき的戦術だ。

(びっしり沿道を囲った鉄柵は、いかにも一党独裁国家を象徴していた。テロも恐れるが、沿道の観衆の粗暴な行動をけん制しているのだろう。悲しい国だ。中国の映像を見て、日本人が、日本に生まれてよかった、と思うようになったことが、このオリンピックの最大の効用かな)。

それにしても、日本テレビのマラソン中継は、ひどかった。コマーシャルがメインで、ときどきマラソン中継が付録についていた。マラソンは、レースの過程こそ、みていておもしろい。結果は、そのあとだ。過程、プロセス、行程の、熾烈なかけひきと、勝負の流れで、限界まで追いこんで、激しく変化していく肉体の全表情が、テレビでみていて、心をうつ。

民放のコマーシャルの時間の割合は、法律で、きびしく制限するべきだ。国の許認可事業で、国家に保護されて、巨額の利益をあげている独占商売だ。やりたい放題は、許されないだろう。あれだけの頻度のCMを提供する企業も、品位を欠いている。今回のCMもすべて、みていて不快なだけだった。

前半に、あれだけ大量にコマーシャルがはいると、CM中、チャンネルを変えるだけでなく、マラソン観戦はあきらめて、他の番組をみる。わたしは、テレビで見るスポーツで、マラソンが一番好きだが、さすがに今朝は、あきれはて、なんどもテレビのスイッチを切ってしまおう、と思った。

サウンドコーナー駅前店が開店したころは、汽車通生、バス通生が、たくさんいた。国鉄の士幌線、広尾線、池北線も生きていた。士幌線、広尾線には、まだSL機関車が走っていた。汽車待ち、バス待ちの時間つぶしに、レコード屋、本屋は、最適だ。毎日のように顔を出す学生たちも、たくさんいた。

(士幌線は、帯広・十勝三股の路線、広尾線は、帯広・広尾の路線、ともに1987年(昭和62年)廃止。池北線は、池田・北見の路線、1989年に、ふるさと銀河線となるが、2006年、廃止)。

帯広畜産大学は、街の郊外にあって、駅前からバスが出ていた。畜大生たちもバス待ちに立ちよった。ほとんど、みんな貧乏学生だから、レコードを買うことはまれだった。しかし、試聴は大歓迎だった。

当時、大半の畜大生が、北海道の外からきていた。京都・伏見からきていたヤンケ(糸川くん)は、草地学科の学生だった。わたしより、ひとつ年上だった。よくレコードを聴きにやってきた(きっと買ったことはない)。ときどき、水色のヘルメットをかぶって、駅前をジグザグ・デモする十数人のデモ隊の先頭に立っていた。ときどき、ファンファンでギターを弾いて、岡林信康を歌っていた。

(ヤンケとは、言葉の語尾に、~やんけ、をつけて話すので、ヤンケというあだ名になった)。

そんなヤンケと、いっしょに酒を飲むようになった。1969年のころだ。わたしの部屋にもきたし、かれの汚い部屋にもいった。部屋では、ビール・ケースの上にコンパネを敷いてベッドにしていた。

畜産大学草地学科のかれの説では、ワライダケ(きのこ)は、LSDとおなじ効果があるはずだ、という。「笑い茸」という名前からして、ハイになることを象徴している、と。ワライダケは、牧草地に生える。かれは、牧草地の菌糸類の研究で卒論を書いていた。

そこで、かれが、牧草地で収穫したワライダケらしいものを、乾燥して、ふたりでパイプで吸った。なにも効果がない。酒を飲んでるせいかもしれないな? そこで、生をバターで炒めて食べた。これは、しびれた。

比喩ではなく、ほんとうに、しびれた。噛んでいるあいだに、すぐに、口びるがしびれて、顔の感覚が麻痺しだした。そこでふたりとも、怖ろしくなって吐き出し、胃の中の物も全部吐いた。もうすこしで、ハイになったまま、ジャニス・ジョップリンのところに行けたのかもしれない。(時間的には、わたしとヤンケが先にいって、ジャニスを待つことになったのか……)。

この年、わたしは、ひとりで京都に行った。一週間もヤンケの実家に泊めてもらって、ヤンケのガールフレンドに京都を案内してもらった(このとき、かれは帯広にいて、畜大に通学していたのだが……)。

ヤンケは、帯広畜産大学卒業後、名古屋で「ライブ」という喫茶店をはじめた。この「ライブ」に、名古屋で学生生活をおくった帯広柏葉高校出身の磯部優くんが行っていた。磯部くんもサウンドコーナーのお客さんだ。最初は、マスターが、帯広畜大卒で、サウンドコーナーに通っていて、わたしの友人だとは、知らなかったらしい。おたがいに、知ったときは、驚いたことだろう。世間は、狭い。

HAPPY END はっぴいえんど 岡林信康 私たちの望むものはhttp://jp.youtube.com/watch?v=kjAI9V1G6bA&feature=related 


スタッフのリハーサルをみた

2008-08-16 | 日記・エッセイ・コラム

スタッフ!! スタッフ!!

帯広出身の陸上女子100mの選手、福島千里さんの予選をみた。5位だが、すばらしい走りだった。日本女子が、オリンピックで陸上100メートルに出場するのは、56年ぶりだという。56年ぶりの出場選手が、北国・北海道・帯広出身というのが、泣かせる。

星野ジャパンは、韓国に負けた。お金のことをいえば、あのサッカー反町ジャパンの無気力Jリーガーは、平均月収200万円という。年収じゃない、月収だ。きっと、星野ジャパンのプロ野球選手たちは、この10倍はあるだろう。爽快なサッカーをみせてくれる、なでしこジャパンの女子サッカー・チームの環境と比較すると、雲の上の世界だ。それでいて、日本男子は、サッカーも、野球も、いらつかせてくれるだけだ。見ていて、からだに悪い。

コンサートのリハーサルをみるのが好きだった。自分で主催しているときは、かならず、一階の中央に座ってみた。札幌ミューズの木ノ内さんが主催するコンサートでも、よくリハーサルをみせてもらった。

木ノ内さんの主催で、渡辺貞夫さんとスタッフStuffのコンサートが、札幌厚生年金会館であった。スタッフが貞夫さんのバンクをやる、というコンサートタイトルだった。しかし、実際は、スタッフ・コンサートに、貞夫さんがゲスト出演しているのが近い。それをリハーサルを見ていてわかった。

リハーサルを始める前に、「リハに関わらない係員は、全員場内から出てください」と言われた。わたしは、2階にあがって、かくれるように最前列の席に座った。まず、ロディーが、長い時間をかけてドラムのチューニングをやる。それが終わると、スティーヴ・ガッドが出てきて、またドラムのチューニングをやり直す。それがじつに長く、丁寧で、慎重だ。

ドラムのチューニングが終わって、スティーヴ・ガッドがドラムを叩きだす。すぐに、ゴードン・エドワーズがベースをもって登場する。ベース・アンプのチューニングをやりながら、ドラムとベースだけでブルースが演奏されていく。(これが、けっこう長い)。

そこにリチャード・ティーのキーボードが加わる。そして、コーネル・デュプリーが、ギターをもって現れ、アンプの調整をしながら演奏に加わる。最後にエリック・ゲイルが登場して、ギターアンプにジャックを差しこむ。

ギターの二人とベースは、アンプのボリュームとトーンのチューニングをやりながら、ブルースは進行していく。この一曲のブルースが、1時間以上つづいていく。リハーサルをやっているというより、かんぜんに、演奏を楽しんでいる。コーネル・デュプリーは、自分のアンプに腰かけて演奏している。

2時間ちかい長いのブルースがつづいているところに、渡辺貞夫さんが、アルトとソプラノ・サックスを両手にもって登場して、ブルースに加わる。アルト・サックスをソプラノにもちかえて演奏したところで、コーネル・デュプリーが、OKのサインを出して、演奏が終わった。

そこで貞夫さんは楽屋に退場する。すると、スタッフは、またブルースをはじめたのだ。この演奏が、開場まえ、客入れ寸前までつづいた。

STEVE GADD (1984) with SADAO WATANABE    http://jp.youtube.com/watch?v=v-94MFYFLXI&feature=related