Ommo's

古い曲が気になる

老ミュージシャンの映画に泣いた。

2013-12-31 | 日記・エッセイ・コラム

 

  立て続けに2本、ミュージシャンの老人映画をみて、泣いた。

25年目の弦楽四重奏 [DVD]

  ジュリアード音楽院卒業の天才的ヴァイオリニスト2人とヴィオラ奏者、そして、その若者たちの、ジュリアードでの教授であったチェリストの弦楽四重奏団は、結成25年目なのだ。

  世界ツアーが迫った、ある日のリハで、リーダー格の老チェリストが、指に違和感があって、ベートーベンの131番を弾ききれない。速いテンポに指がついていかないのだ。パーキンソン病の初期と診断される。チェリストは、引退を決意するが‥‥‥‥‥ここからドラマは展開していくのだが、これ以上は内容にふれない。音楽好きの人は、ぜひ、みてほしい。40代、50代の人は、まだこの映画には、若すぎる観客かもしれないが、60歳をこえた人は、泣きながらエンディングをみるだろう。

  クラシック・ファンはもちろんだが、あらゆるジャンルの音楽ファン、とくに老ミュージシャンは、必見かな。

 

カルテット!人生のオペラハウス [DVD]

  どんなスーパースターも、生きていれば、老いる。かって、イギリス・オペラ界のスーパースターだった歌手たちだが、いまはすっかり老いてしまった4人の、老人ホームでのお話だ。

  ドラマの舞台は、音楽家のための老人ホームなのだ。この映画、すごいのは、脇役で出演する老人たちは、みな、実際、かってヨーロッパ・アメリカのクラシックの世界で活躍した、トップの指揮者や歌手や演奏者なのだ‥‥‥‥みんな老人だが‥‥‥‥‥。

  名優、ダスティン・ホフマンの初監督作品でもある。これも音楽ファン、必見だろうな。


あす正午からは、FM・WING・帯広市

2013-12-28 | 日記・エッセイ・コラム

 

  昨夜は、アッシー、ユリユリ、クロヤギさんと、ブッチと、ブルースハープで飲んだ。熱烈・浜省ファンの忘年会第2弾だ。(あすは、さらに大人数の、浜省・熱唱グループの飲み会がある。そのことは、また、あとで‥‥‥)

 

  クロヤギさんには、まず、今年5月、FM・WINGのスタジオでお会いした。浜田省吾だけをかける番組の、いわばディレクターで、かつミキサーでもあるのだ。

  その日のDJ、ブルースハープのユカさんにクロヤギさんを紹介された。クロヤギさんは、「これ、今も持っています」と、きれいな紙のスタンプカードをだした。『なんということだ』、ずいぶん昔にこの世からなくなってしまったレコード店、わたしの、サウンドコーナーのスタンプ・カードを見せてくれたのだ。あらゆる、すべてが、わたしのデザインの、カードだ。

 

  わたしは、その瞬間、泣きそうになった(ジジイだ、涙もろいのだよ)。涙をこらえて、クロヤギさんにお礼をいったが、『なんて、ありがたいことだろう‥‥‥‥レコードなんて、どこで買っても同じもの、違いは店の包装紙くらいなのに、若いとき、わたしの店で買い物をしたという、その遠いむかしの時間を、いまも、大事にしてくれている人たちがいるんだ』と、ひどく感動した。

 

  わたしは、敗残者として、貧乏・クソ・ジジイとして、このまま静かにこの世から退場しよう、と、ずっと思って東京で生活していた。暗転のまま、静かに緞帳がおりて、幕。閉演。何んの拍手もない‥‥‥‥‥‥‥だが、故郷・帯広に帰って みると、わたしが昔、やっていたことを、大事に育てている人たちが、たくさんいるんだ、と知って、心が震える。

 

 

  クロヤギさんは、このFMの浜省番組からスポンサーのCD屋さんが撤退して、番組存亡の危機のときも、番組を持続するために行動した人、ときいた。たいした人たちがいるもんだ。いま、この番組は、スポンサーなしで、局の善意で枠をもらい、週1時間、浜田省吾だけかける世界唯一のラジオ放送として、多くのリスナーがいる。(発信は、北海道・帯広の狭いエリアのFMだが、インターネットの時代だ。世界、どこからでも聴ける)。

 

  ユリユリさんが、浜省・熱唱ショッカーの、ワッタの奥さんとは、あとで知る。浜田省吾の大ファン同士だから、同志愛で、結婚しよか、となったのか? 結婚した相手が、なに!‥‥ あんたも、浜田省吾・命なの? と、知ったのか。こんど、お二人にあったとき、尋ねてみよう。

  ユリユリさんとワッタのご夫妻には、10月27日、札幌で町支寛二さんに会ってもらった。町支さんは、愛奴のときから浜田省吾さんの朋友のギタリストだ。サックスの古村さんと、カンフル罪というユニットを組んでいる。

 

 

  この忘年会の主催者のアッシーもまた、むかし、わたしのレコード店のお客さんとして、まず出会った。大学生で、21歳か、22歳の若者だったが‥‥‥‥きのう、歳を訊くと、もう数年で50歳という。ギョエッ!  アッシー、そんな歳になるの? と、わが年齢を忘れて驚いた。わたしは、愚かだ。

 

  そのアッシーが大学生のとき、学園祭で、永井真理子のライヴを主催したのだが、わたしは、そのお手伝いをした。いらい、なんだか年齢をこえて、友だちなのだ。

 

  落ちぶれて、すべてを失って、わたしが、はしゃいでいたいたとき、まわりにいた人たちは、蜘蛛の子を散らすように、みごとにいなくなった。みごとに‥‥‥。『男が、金を無くすとは、こういうことね』と、つくづく、わかった。負け犬にかかわると、自分のゲンがおちる、と思うのは、まあ当然だろが。

  帯広・西2条通りで、前から知った人が歩いてくる。挨拶しようと、笑顔をつくるって、手を上げようとすると、その人は、視線をそらして知らんぷりで、通りすぎる。すこし前まで、もみ手ですり寄ってきたやつ、よ。

  こんなようなことが何度かあって、『俺に、この街の居場所は、もう無いな』と、わたしは、東京にでた。もう中年、38歳だったかな。

 

  東京で貧乏生活しているあいだも、気にかけてくれる、何人かの先輩と、そして、若者がいた。九州の森本くんと、帯広のアッシーだ。「お元気ですか? どうしていらっしゃいます?」と、手紙や電話やメールをくれた。仕事で東京にくるときは、「お会いできますか?」と声をかけてくれた。

  その若者が、きのう、ブルースハープでいっしょにお酒を飲んだ、アッシー。森本くんとは、同じ大学の先輩・後輩だ。

 

 

  そんなわけで、あす正午から、FM・WINGで3時間の浜田省吾特番がある。なぜか、というと、12月29日が浜田さんの誕生日で、毎年、この日は、3時間の特番だ、というのだ。すごい。帯広の人‥‥‥‥好きだな 。わたしもあす、14時から一言だけ話す。聴いてくださいね。クロヤギさん、ディレクト。ユカさん、DJ。番組は、正午(省吾)からスタート。わたしの出番は、14時すぎ。

 

    サイマル・ラジオ http://www.simulradio.jp/

 

  このサイトの、FM・WINGの右にある「放送を聴く」にポイントして、クリック。FM・WINGのサイトに入ると、けっこうめんどうちいから、最初開いた、このページの、FM・WING・帯広の「放送を聴く」をポイントね。

 

 

 


なんだか、ちっと、血が騒ぐ

2013-12-25 | 日記・エッセイ・コラム

 

  北海道の音楽シーンだけじゃなく、あらゆる音楽のことに、二度とと関わりたく、ない、と、自動車生産ラインの工員をはじめたのは、38歳だったろうか。わが人生すべて破たんして、離婚したが、娘たちに、すこしでも金を送りたかったのだよ。

  65歳すぎて、また、なんだか血がさわぐのは、帯広・ブルースハープのユカさんにあったことからはじまる。そして、ユカさんに、浜田省吾さんに会ってもらったこと。5月だ。

  去年は、母を入院させず、最後の最後まで自宅で看病して看取ったこと。今年は、これが、わたしの勲章かな? ユカさんを、浜田さんに紹介したこと。

  ユカさんと、ショッカーのみなさん。ほんとうに、ありがたいことだ。おれが、むかしにやって、最初だれにも笑われたこと、を理解して、帯広の人たちは、今も大事にしていてくれてる。うれしいことだ。

 

  まあ、言いたいことは、‥‥‥‥

  つまり、浜田省吾って、かっこいい、だろ!  かな、今夜も酔っぱらった。

  来年は、音楽の世界に復帰しようかな。老い先も短いことだし‥‥‥‥‥‥。

  わたしの場合、プレイヤーではない。裏方‥‥プロモート、プロデュース、マネージメント、だが。裏方が、好きなんだ、なんでも。


小林慎(まこと)さんに、出会った

2013-12-23 | 日記・エッセイ・コラム

 

  すごいドラマーに出会った。

  人生、偶然の、人との出会いというのは、ほんとうにおもしろい。すごい人と、突然、あう。むかし、細い体の青年の、浜田省吾とあった、その歌をきいた、そのとき‥‥‥なんだか、ひどく感動したように‥‥‥‥。

 

  先週土曜日のこと。コタニ・アグリの社長ご夫妻、写真家・戸張さんと、バイプレーンで食事をしてから、ブルースハープにいった。連休の土曜日、猛烈に繁盛していて、じつに楽しい浜省の夜も深まり、小谷夫妻を見送ってから、隣のビルの、ゲンちゃんの店・B♭M7に寄った。

  そこで、帯広のピアニストと、飛び入りのお客さんのドラムでセッションがはじまった。

  なんと、お客さんの、その青年ドラマーが、すごいのだ。わたしは、(長い間、レコード屋で、かつ、北海道全域をカバーする、ライブのプロモーターだった、という)若い時の職業的直観で、『このドラムの青年、ただもんじゃないな』と思った。隣に座る戸張さんに言った。「きっと、このドラムの人、音楽大学で、きちっとパーカッションの勉強をした人だよ。きっと、プロの、ミュージシャンですね」と。

  食事にでていたゲンちゃんがもどってきて、ベースとドラムスとのセッションがはじまるのだが、そのまえに、ゲンちゃんがエレベをセットしている間、ドラムの、飛び入り青年は、入念にドラムスのチューニングをしている。その姿をみていて、わたしは、ふたたび確信した。『この青年、ただものじゃないな』と。

 

スタッフ!!

 

 

  むかし、渡辺貞夫さんのバックを、スタッフがやる、というコンサートをリハーサルからずっと見ていたことがある。ジャズのプロモーションの、ミューズコーポレーション・木之内社長がプロモーターだったので、関係者以外入れないリハの場にいることができたのだ。

(逆に、木之内社長は、わたしがプロモートする、浜田省吾や荒井由実や井上陽水のコンサート・リハを見に来ていたが‥‥‥‥おたがい、ジャンルは違うけど、バックステージ、楽屋は、フリーパスなのよ、そのころ。顔だ。アメリカのハリウッド映画やらの、ヤクザ・マフィアの世界みたいだけど、まあ、そんな感じなの、わしらのむかしは‥‥‥‥リアルに。)

 

  スタッフのリハは、まず、ドラム・セットのチューニングからはじまる。ロディーの若者が長い時間かけて、スネア、タム、バスドラなどのチューニングをする。それが、終わると、スティーブ・ガットがステージにやってくる。そして、ふたたび、長い時間かけて、ドラムセットのチューニングをやるのだ。これがとんでもなく入念で、とてもナーバスにみえる。

  わたしは、それまで日本の、ロックやジャズのミュージシャンの、本番前のリハをたくさんみていた。だが、こんなに入念に、慎重に、チューニングをするドラマーをみたことがなかった。心底、驚いた。

  アメリカだけじゃなく、イギリスのアーティストも、レコーディングやライヴでドラムを叩いてほしい、とモテモテの、世界トップのスタジオ・ミュージシャンは、じつは、律儀で、神経質な、職人さんなんだ、と感動したものだ。

  スティーブ・ガットの長いドラムス・チューニングが終わって、まずベース、そしてギターと入ってきて、長いブルースがはじまる。そのブルースをまわしながら、自分のベースアンプやギターアンプのボリュームやトーンの音を決めていく。アンプに座って、ギターを弾きながら。

  開場で、お客をいれるために緞帳をおろすまで、ドラムスからはじまって3時間いじょうの、1曲の長い長い、長いブルースがつづく。このリハは、見て聴いていて、ジャズ、フィージョン、すべての音楽ファンにとって、こんな楽しく、贅沢な体験はないな、と、わたしは、いまも思っている。

 

   土曜日、B♭M7で、ゲンちゃんと、飛び入りの青年のセッションがはじまる前、その青年が、スネアーやタムを入念にチューニングしているのを見ていて、遠いむかしの、スティーブ・ガットの、リハでドラム・セットをチューニングしている姿を思い出していた。

  ゲンちゃんとのセッションが終わったあと、その青年と話をした。やはり、子供のときからピアノと打楽器を学び、音大でパーカッションを勉強して、現在、横浜に住んで、ドラム、パーカッションの、プロのミュージシャンだ、という。青年は、小林慎(まこと)さんだ。

  わたしの職業的直観は、老いても、なかなかでしょ。

  まず、なにがこの青年のドラムで感心したのか、というと、そのときB♭M7でセッションしたピアニストの人は、かなり酔っていたのか、けっこうリズムも揺れ動いて荒っぽくなっていたんだよ。だが、そのデタラメを、ちゃんと聴きながら、主役のピアニストをたてるドラムを叩いている。

  無駄な音、叩かない。小さい音で明解にリズムをキープして、酔ったピアニストをたてる、『なに、この青年?』、すごい若者も、いるもんだ‥‥‥‥‥  。

 

 

  札幌出身の小林さんは、友人か親戚の結婚式が帯広であって、帯広駅前のホテルに泊まって、たまたま、部屋にある帯広ガイドのパンフをみた。ジャズ・スポットで、飛び入り歓迎みたいな、記事があって、B♭M7にやってきた、というのだ。ママに、「ドラムを叩かせてくれますか?」というと、大丈夫、マスターがもどるまえに、ピアノの人とやりますか? と、演奏がはじまった。そのとき、わたしと戸張さんが店に入ったわけ。

 

  ピアノとディオの、このドラムが、メチャクチャ素敵だった。わたしは、酔っていたが、わたしの感性は、そのとき、それほど、酔ってはない、それほど‥‥‥‥‥。老いてはいるが、わが感性は、それほど鈍っては、いない‥‥‥‥‥だろ!

 

     小林慎さん http://www.jazz-farout.jp/archives/896

 


陽のあたる場所・再考

2013-12-20 | 日記・エッセイ・コラム

 

  浜田省吾の不倫ソング「陽のあたる場所」は、もちろん実体験からの歌ではなく、タイトルに「陽のあたる場所」とあるように、映画『陽のあたる場所』にインスパイアされて書いた虚構の情況であろう。

 

  1951年の『陽のあたる場所』は、監督賞はじめ8部門のアカデミー賞を受賞した、大ヒット映画だ。主演は、モンゴメリー・クリフト、エリザベス・テーラー、そして、シェリー・ウインタース。

  ストーリーは(この映画、わたしは学生のとき、一度だけ、東京・蒲田の映画街でみただけなので、けっこう記憶はアヤフヤね)、超イケメンだが、貧しい青年のモンゴメリー・クリフトは、就職した会社の若い令嬢と出会う。これが超美女なのだ。若いときのエリザベス・テイラーだ。とんでもなく可愛い美女なのだ。

  とうぜん、美男美女、ふたりは恋に落ちる。しかし、イケメンには、貧しいときから支えてくれた、同棲している女性がいる。(結婚している妻だったか、さだかでないが、ともかく糟糠の妻、というやつだ)。まあ、美女とはいえないし、若くもない。イケメンより、ずっと年上かもしれない。

  で、イケメンは、美女の社長令嬢(リズ・テイラー)と結婚するため、なんと、じぶんに惚れぬいて、つくしてくれた女性を、湖のボート遊びに誘い、ボートから叩き落とすのだよ。女性は、泳げない。そして、冬の湖だ。アビが鳴いて‥‥‥‥。

 

  この映画を見終わったとき、どっと疲れた。なんて、暗い映画だよ。わたしは、18歳かそこらだったから、『なんで?  なんで、こんな暗い映画がヒットしたの?』と思ったものだ‥‥‥白黒作品だったし‥‥‥。

陽のあたる場所 [DVD]

  エリザベス・テイラーは、もちろんいいが、わたしの場合、この三角関係のなかで、哀しい立場の役を演じた、シェリー・ウインタースに心が動く。名優だ。

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  スティービー・ワンダーの初期の大ヒット曲に、この映画のタイトルそのもの、A Place in the Sun がある。( A Place in the Sun 、おそらく、聖書のなかのフレーズではないかな? と、昔から想像してはしていたのだが、そこらは、まったく無知だ。来週、お父さん牧師という、バリバリのクリスチャンの友人に会うので、尋ねてみよう)

       スティービー・ワンダー   A Place in the Sun    http://www.youtube.com/watch?v=mgyp1JWCLi4

 

  わたしの場合、 スティービー・ワンダー  の A Place in the Sun  より、断然、浜田省吾の「陽のあたる場所」のほうが、悲しいほど共感できて、好きだ‥‥‥‥。

       浜田省吾   陽のあたる場所  http://www.youtube.com/watch?v=US0BYaElXSc

 


ウイリー・ネルソン、届く

2013-12-19 | 日記・エッセイ・コラム

 

  いま、4時30分、父が朝食を食べはじめた。午前4時じゃない、16時。北国の日暮れは早い。外はもう、真っ暗だ。この時間で朝食だから、夕飯は、深夜、午前2時か3時だろうか?

  わたしは、この毎日毎日、毎日デタラメな、父の生活時間にあわせて、飯を作る。父はあと10年は生きることができるだろうが、わたしのココロと肉体の、ストレスと疲労は、激しい。いったい、この冬を、のりきれるだろうか?

  しかし!‥‥‥母を家で看取ったように、認知症の、この父をとことん介護しようと、決めた。ココロが折れるまで、体力がつづくかぎり‥‥‥。もう、なにもかも、悔いは残したくないからね。

 

 

What a Wonderful World

  何日か前、ウイリー・ネルソンとフィリオ・イグレシャスが歌う "スパニッシュ・アイズ" をユーチューブで聴いていて、このアルバム全部、聴いてみたいな、と思った。

  インターネットで注文した、そのCDが届いた。1988年のアルバムとはいえ、新品だ。アメリカから北海道・帯広までの送料含みで、5ドル。安い! (つくづく、いま、レコード(CD)屋をやってなくてよかった、と思う。)

 

       ウイリー・ネルソン  Moon River  http://www.youtube.com/watch?v=5DGRtGPZcjc


りりィ 心が痛い

2013-12-19 | 日記・エッセイ・コラム

 

  浜田省吾の"陽のあたる場所"の、哀しいサイドの女の返歌は、りりィの"心が痛い"だろうか?

    りりィ   心が痛い  http://www.youtube.com/watch?v=HizMQv2jQNE

ゴールデン☆ベスト りりィ[スペシャル・プライス]

ラヴ・レター

 

  りりィの"心が痛い"の方が先だったろうか?  浜田さんのデビューのまえに、わたしは、りりィのプロモーターでもあった。コンサートのあと、毎晩毎晩、いっしょにしたたかビールを飲んだものだ。

  アイの子、アイの子って、小さいときから、いじめられて、お母さん、みてられなくて、九州の小さい町から、お母さんに連れられて東京に出てきたの、と酔って涙ぐむ。『才能ある、こんな美女も、なんとも哀しく、せつないココロなんだな』と、話を聞きながら、わたしも酒をあおった。

  いま、りりィさんは、素晴らしいバイプレイヤーの役者さんになっていて、映像でみる姿に、なんだか、ジーンとしてしまう。


"陽のあたる場所"‥‥‥心が痛い

2013-12-18 | 日記・エッセイ・コラム

 

  マッちゃん・ゲンちゃんのコラボレーション、2回目のリハがあった。仕事をもっている、忙しい二人だ。音合わせの日程を調整するだけでも、けっこうきつい。そこが、若者のバンドとの圧倒的な違いかな。2人でたんへんなんだから、5人組のおっさんグループが、リハのスケジュールをあわせるのは‥‥‥‥想像しただけで、ご苦労様です、頑張ってくださいね、と頭がさがる。

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  マッちゃん・ゲンちゃんのコラボは、じつに、いい感じになってきた。さすがプロだ。ジャンルが違う音楽をやってきているが、30年いじょう演奏している二人だ。

  (30年いじょう前から、たがいの存在は知っていて、それぞれの演奏もみていた。しかし‥‥‥わたしが「いっしょにやってみない?」 と、二人に声をかけるまで、一度もいっしょに演奏したことがない、言葉をかわしたこともない、という。驚きだった。この帯広の、狭いミュージック・シーンで‥‥‥‥)

 

  マッちゃんは、浜田省吾デビュー直後から、浜田さんのカバーの弾き語りで、帯広の夜の街で、 音楽で食べていた青年だ(少年かな)。もちろん、レパートリーは、浜省だけじゃないが。

  ゲンちゃんは、30年ちかくウッドベースを弾いて、自分のジャズ・ライブハウスをもつ経営者、ジャズ・ミュージシャンだ。お店は、道東のジャズ・シーンの拠点でもある。もちろん、帯広・十勝だけじゃなく、全国の若いミュージシャンに演奏の場を提供している。

Born in 1952 - 愛の世代の前に

  マッちゃん・ゲンちゃんのリハで、「陽のあたる場所」を聴いていて、なんだか身につまされて、心が痛い。この大不倫ソングを、音楽を仕事にしているときは、そんなに深刻に聴かなったのだが、いま、あらためて、マッちゃんの歌で聴いていると、かずかずの、わが不道徳なるシーンを思い出して、いやぁ、ただただ、恥じ入るばかりだ。

  身勝手な、男の言いわけ・たらたらソングなのだが、浜田さんの表現は、みごとだ。"かみさんとの生活こそ大事だ、けど、若い恋人も、心の底から惚れているのよ、ほんと、俺も切ないのよ"と、みごとに聴き手の同情を獲得して、聴衆は、人間ってこんな哀しいのよね、という不条理の感情で、じぶん自身の絶望的な複雑な思いを癒すのだろうかな。

  とか、考えながら、この浜田さんが表現している、この不倫劇は、あんな感じかな、とか、こんな状況かな、とか妄想しながら‥‥‥そして、わが愚行のかずかず、心傷つけた女の人たち、かわした言葉‥‥‥を思い出しながら、わたしは、かって愛した人に死ぬほど恥いって、マッちゃん・ゲンちゃんのリハの、後半の曲「陽のあたる場所」を聴いていた。

 

    何を見ても、何かを思い出す‥‥‥ただの、ジジイだ。

 

 

 

      浜田省吾   陽のあたる場所 http://www.youtube.com/watch?v=US0BYaElXSc

 

 

 


長州ファイブ

2013-12-16 | 日記・エッセイ・コラム

長州ファイブ  chosyu edition [DVD]

  すこし前の作品だが、「長州ファイブ」をみた。

  明治維新前夜の江戸時代、長州藩の藩命で、密航して(幕府に見つかれば、死罪だ)、イギリス・ロンドンに留学した、若い武士5人の話だ。実話が元だ。この5人は、日本に帰国して、明治の時代、さまざまの分野で活躍した偉人たちだ。日本の初代・総理大臣、伊藤博文も、この"長州ファイブ"の若い武士のひとりだ。

  映画「長州ファイブ」をみてみたいと思ったのは、まず、NHK大河ドラマ「八重の桜」の、山本(新島)八重のことからはじまる。何度も書いたが、わたしの、福島に対するシンパシーは強い。

  わたしの祖父母は、福島県双葉町の出身だ、と書いた。その福島生まれの祖母が、会津戦争の話、白虎隊の話が、テレビで流れると、涙を流していた。祖母は、強烈に気の強い女性で、いつもビシッと和服を着て、絶対、人にスキをみせない。感情を露わにしない。まさに明治の人だったが、会津戦争のことが、テレビで話題になると、涙を流していた。

  最初、祖母の涙の意味が分からなかった。だが、考えると、この祖母の父ちゃんや、親戚のおじさんたちが、薩長の新政府軍と戦っていたわけだから、「バーちゃんにとっては、遠い昔の、ドラマの世界ではない、現実のこと」なのだ、と気づいた。

 

  そんなわけで、会津戦争を、女ながら、最新のライフル銃をもって戦った山本八重さんは、わがヒーローなのだが、同じそのとき、その鶴ヶ城に、8歳で籠城した会津の女性がいる。戦う会津藩士たちに、にぎめしや弾薬をとどける役を、女・子供がやっていた。会津藩降伏まで、最後まで鶴ヶ城にこもって、大人たちといっしょにいた、8歳の女の子が、大山捨松なのだ。

鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生 (中公文庫)

  大山捨松は、アメリカの大学を卒業した、最初のアジア人女性だ。

  鶴ヶ城に母と一緒に籠城した、8歳の捨松は、その後、明治4年、12歳で岩倉使節団とともに渡米して、10年、アメリカで勉強して帰国した。10年という長い、長い年月は、明治政府との契約だったのだ。それを、きっぱりやって、22歳で帰国した。みごとな会津の女だ。

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  この日本最初の、アメリカの大学を卒業した女性、大山捨松の伝記をいろいろ読んでいて、驚いた。明治4年、大山捨松も含めた5人の女子と、59人の明治政府派遣の留学生が、エール大学がある街についたとき、すでに、200人を超える、日本の若い武士たちがいた、とある。

  その若い侍たちは、藩の命令だったり、個人の意思だったり、ともかく、徳川幕府の禁制をやぶって、密航してアメリカにきた青年たちだ。

  200人だけではない。1872年までに、アメリカに勉強にやってきた日本人は、500人を超えている、という文章をみた。この文をみたときの驚きと、震えるような感動はない。『江戸時代、500人をこえる日本の青年たちが、密航して、アメリカの大学で勉強していたのかい?』

  絶対、自国民を国外にださないという・鎖国政策の、徳川幕府の禁制をやぶっても、命がけで太平洋をわたって、西洋文化・文明を学びたい、という、この向学心。この、そのココロに、心底、シビれる。

 

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「長州ファイブ」は、イギリス・ロンドンにいった、若き武士たちだ。わが福島に攻めてきた長州の侍たちだが、まあ、それもまた、日本の歴史だ。

 

  会津の女、捨松は、アメリカから帰国後、かっての敵、新政府軍・薩摩藩の司令官のひとりとして、会津藩鶴ヶ城を攻略した、陸軍大臣・大山巌元帥に、恋われ恋われて、妻になったのだ。

 

  日本語より、英語での会話、英語での文章がたくみだったという大山捨松は、明治政府の外交の場で重要な人物であった。アメリカの新聞に、英語で日本の主張を寄稿する文筆家でもあった。そして、なにより、日本の、女性の教育を啓蒙する人でもあったのだ。津田塾大の創始者、津田梅子は、大山捨松の朋友だ。捨松12歳、津田梅子8歳、いっしょにアメリカに行ったのだ。

  アメリカに行ったのは、ふたりとも、かっての幕臣だった父や兄、一家の家長の命令だ。家長の指示に、女・子供はさからえない。そんな時代だ。

  明治4年に、12歳と8歳の女の子が、親の命令で、アメリカにいく。想像するだけで、わたしは、涙がでるが‥‥‥‥。武士の娘だがら、いくわけよ。

「戦に負け、わしら一家は、朝敵と汚名をきせらているが、おまえは、アメリカに行って、最新の学問を学び、帰ってきて、お国のためにつくすのだぞ、いいか! しっかり勉強せい、会津の心を忘れるな」と、家長の、父親か兄に言われるのだろうか。

  はい、と言って、12歳と8歳の女の子は、アメリカに行ったわけだよ。

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  右の 二人が、アメリカに着いて撮影した、大山捨松12歳と津田梅子8歳。なんと幼いのか‥‥‥‥‥。 この5人が、海外に留学した、最初の日本人女性なのだ。

 

 


浜田省吾は、日本の文学史の、偉大な詩人だ

2013-12-16 | 日記・エッセイ・コラム

 

  わたしが音楽の仕事をやっている、若いとき、妻だった人に、よく言った。「もし、芭蕉や、石川啄木のとき、彼らにエレキ・ギターがあったら、躊躇せず、浜田省吾をやったな」と。

「浜田省吾は、日本の文学史の、偉大な詩人だよ」と、言うと、いつも、だれにも笑われた。そんなもんだ。わたしと、わたしの妻だけが、浜田省吾を信じていた。

 


あの日に帰りたい

2013-12-12 | 日記・エッセイ・コラム

 

  浜省と、ユーミンの、日本で最初のプロモーター。オレって、興行師としては、けっこう良いセンスじゃない? ということだけが、娘たちに残せる自慢話で、銭は、一円の遺産も残せない、情けない父なのだ。

  ユーミンのセンチメンタルな曲で、"あの日にかえりたい"も、じつにいい曲だ。ユーミンと山本潤子さんの映像がある。

 

    松任谷由実   あの日にかえりたい http://www.youtube.com/watch?v=5LGvM_h_XEk

 


福島産しゅんぎく

2013-12-11 | 日記・エッセイ・コラム

 

  近くのスーパー・テキサスで、福島産しゅんぎくをみつけたので、今夜は、春菊のおしたしが酒の肴の一品。

  "福島産"と表示された食材をみると、つい手がでる。

  何度か書いたが、わたしの福島に対するシンパシーは、強い。父方の祖父母が、ふたりとも福島県双葉町の出身だ。ジーちゃんとバーちゃんは、同じ町内で生まれ育った幼なじみだったのだ。先にジーちゃんが北海道・根室の裁判所に転勤になり、東京で看護婦をやっていたバーちゃんが、親に言われて、北海道にいる同じ双葉町出身の青年のところに嫁にきた。

  この祖父母の結婚ばなしが、また、おもしろい。ジーちゃんは、バーちゃんの妹の、可愛い美女がくるとワクワクして、根室の港で船が着くのを待った、という。(明治時代だから、東京から船で根室にいった。当時、道東の行政の中心地は、帯広でも釧路でもなく、根室だった。根室は、江戸時代から松前藩の出先機関があったのだ)

  ジーちゃんが港で同じ双葉町出身の美女を待っていると、なんと、船から降りてきたのは、姉妹の一番長女で、けっして美女とはいえない娘だった。気の強い、頭のいい、娘だ。福島県の奨学金を得て、東京の看護師学校を卒業した、とんでもない秀才と評判の女だった。けっして、可愛い美女、とはいえないが‥‥‥。

  こんな遠くの北国まで来てくれたんだから、まあ、とりあえず結婚するか、と一緒になったんだよ、と、ジーちゃん。そんなことを言いながら、10人も子供をつくったのだから、愛し合っていたのだろう。

 

  大震災、原発事故‥‥‥双葉町にもどることができない多くの人を思うと心が痛い。

 


冷たい雨

2013-12-10 | 日記・エッセイ・コラム

 

  冷たい雨のなかを歩いた。

  夜に降っていた雪は、朝には雨に変わって、一日ふっていた。その12月の冷たい雨のなか、傘をさして、長い散歩をした。考えごとをするには、歩くのが一番だ。

  その真冬の雨のなか、歩いていると、わたしの場合、とうぜんのようにユーミンの曲が頭にうかぶ。(浜田省吾の最初のプロモーターが、わたしだったように、荒井由実の最初のコンサート・プロモーターが、わたしだ。北海道・帯広の人は、よく知らんだろうが‥‥‥まぁ、なにもかも、今となっては、どうでもいいが)

 

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