Ommo's

古い曲が気になる

タモリとマイルス・デイビス

2009-07-22 | 日記・エッセイ・コラム

K11696410  植草甚一さん

タモリが、ジャズ・ファンだということは、有名だ。ジャズ評論家で作家の、植草甚一さんが亡くなったとき、膨大なレコード・コレクションを買い取って散逸を防いでいる。遺族(奥さん)のことを思って、相場よりはるかに高く買い取った、ともいわれる。

(きっと業者の中古レコード買い取りは、二束三文だろう。植草さんのコレクションは、約4000枚といわれる。一枚100円と高めに見積もって、40万円。タモリは、2000万円で買い取った、という話をどこかで読んだ。ほんとうかどうかわからない。200万円でも高いような気がするから、もしほんとうなら、心からジャズが好きで、植草甚一さんを尊敬していたのだろう。)

そのタモリが、マイルス・デイビスにインタビューをしている。

   タモリによるマイルス・デイビスへのインタビュー http://www.youtube.com/watch?v=kjLQrV7Zy3E

マイルス・デイビスは、黒人としては小柄な人だ、と聞いていた。こうしてタモリと並んで座っていると、たしかに大きくはない。小さくみえるのは、老人になって、すこし枯れかかっているせいもあるのだろう。しかし、存在感はある。

   マイルス出演のTDKのコマーシャル http://www.youtube.com/watch?v=vg1cFfRVK-w&feature=related

                 

マイルスも小柄だが、映画監督のスパイク・リーも小さい。そして、プリンスも小柄だ。そのプリンスとマイルス・デイビスは、仲がよかった。孫のような年令のプリンスの才能をべた褒めだった。プリンスから、いっしょにレコードをつくり、コンサート・ツアーにでよう、と提案されて、心から楽しみしていたようだ。

060531_prince_vlarg_11a_widec

1980年代に、マイルス・デイビスが気に入っていったダンス・バンドが、カッサブ Kassav だった。ズークといわれる音楽だ。

ズーク Zouk は、カリブ海のハイチや仏領マルティニーク島周辺で盛んなダンス音楽だ。カッサブは、フランス、パリで活躍しているバンドだ。マイルス・デイビスは、パリでみて注目した。そのときから20年以上たったいまも、カッサブはステージをつづけていて、人気のグループなのだ。

   カッサブ  http://www.youtube.com/watch?v=aZ0BpzVRQPc

Sobs72608kassav

           

 マイルス・デイビス Tutu (Live)  http://www.youtube.com/watch?v=00tzcnyDL68&feature=related

マイルスの話が、数日つづいて長くなった。マイルスのことなら、いつまでも書いていたいが、きょうでちょっと休むとして、マイルスの復帰のことをすこし。

1981年、マイルス・デイビスは、5年間の引退状態からステージにもどってきた。のちにメディアは、『奇跡のカムバック』、と書いた。まさに奇跡だった。トランペットなどのホーンの奏者は、すこし休むと唇がヤワになる。現役の状態にもどすには、とんでもない努力と時間がかかる。マイルスは、5年以上もいっさいトランペットを吹いてなかった。

(超一流の、オリンピックレベルのマラソンランナーが、長いブランクのあと、現役に復帰するようなものだろうか? マラソンの場合はあり得ない。マイルスなみにすごいのは、テニスのクルム伊達公子さんの復帰だろうか)。

マイルスは、思い立って突然、ステージに立ったわけじゃない。そこは帝王マイルス・デイビスだ。そんな無謀なことはしない。音楽をナメてない。カムバックを決意してから、実際にステージに立つまで、じつに一年半ちかく、トランペットの練習とバンドのリハーサルをかさねていた。

「OKだ。もう一度やるぜ。そうだ、やるとも」、プロデューサーのジョージ・バトラーにマイルス自身が電話して、カムバックを宣言した。1980年はじめのことだ。そして、復帰最初のステージ、ボストンのクラブ「キックス」に出演したのが、翌年1981年の6月末のことなのだ。

この間、マイルスは、バンドのメンバーを選び、リハーサルをかさねた。そうして、十分ステージでやっていけると確信して、マネージャーにプロモーターと連絡をとるように指示をだした。

(まったくギャラが入らないのに、バンド・メンバーを雇い、一年以上リハーサルをつづけられる、そのマイルスの財力もまた、帝王たるゆえんだな)

51hvk33i4kl__ss500_

1981年6月の終わり、マイルス・デイビスは、ボストンの「キックス」に4日間出演した。復帰第一弾の仕事だ。「キックス」は、客席425席のクラブだった。7月の第一週目に、ニューポート・ジャズ・フェスティバル出演の契約をしたので、「キックス」での演奏は、ウォームアップにはちょうどいい、と考えたのだ。

                         

        『オレの新しいバンドはマーカス・ミラーのベース、マイク・スターンのギター、ビル・エバンスのサックス、アル・フォスターのドラムス、ミノ・シネラのパーカッションという面子だったが、みんなとてもうまくやってのけていた。最初の晩も行列ができたが、オレが本当に現れるのかどうか、疑って待っている連中のほうが多かったようだ。出ることがわかるとクラブは超満員になって、どこも足の踏み場もないくらいになった。オレを見て泣く人や、演奏を聴いて泣く人がいたりして、なんともすごかった。
 
 ある晩、脳性小児麻痺で身体が不自由な小さい黒人の男が、車椅子でステージの前に座っていた。三十五歳くらいに見えたが本当の歳は知らない。オレはブルースを吹く時、彼に向かって演奏しようとした。彼がブルースをよく理解していることがわかったからだ。ソロの途中で彼の目を見ると泣いているじゃないか。で、震えるしぼんだ手を差しのべて、その麻痺している手で、トランペットを、そしてオレを、まるで祝福するかのように触ったんだ。その瞬間、ほとんどすべてを忘れて、オレも泣き崩れそうになった。彼に会いたくて、追いかけて外に出たが、もう誰かが連れて帰った後だった。知らない人間に、しかも男に会えなくて悲しくなったことなんて一度もなかった。オレは、彼の行動がオレにとってどんなに大きな意味があったかを、どうしても伝えたかったんだ。
 
 あんなふうに手を差しのべた彼の態度は、すべてを理解した心だけが為せる業だった。カムバックしたばかりのオレにとって、彼のしてくれたことは、とても大きな心の支えになったし、感謝したかった。彼はまるで、「すべて問題ないよ、マイルス。前みたいに力強くて、すばらしい演奏じゃないか」と言ってくれてるようだった。本当に勇気づけられたんだ。こうして続けてこられたのも、彼がいたからだ』 (「マイルス・デイビス自叙伝」)

                           

プロモーターから、むかしのメンバーを集めて、むかしの有名な曲を演目にして、世界ツアーをやらないか、と巨額のギャラでオファーがあった。マイルスは、そんな話にのらない。マイルスの場合、カムバックとは、むかしの演奏を再現することじゃない。復帰のステージでさえ、よりファンクで過激なエレクトリック・マイルスなのだ

                                                      

       『現代のジャズ・ミュージシャンが、昔のオレ達と同じような演奏をしているのを聴くと、本当にかわいそうになる。まったく年寄り臭いし、本当の年寄りとベッドに入るようなものだ。オレだって年を取っているし、年寄りのことを馬鹿にしているわけじゃない。だが正直なところ、それがオレの気持ちだ』

      マイルス・デイビス Decoy http://www.youtube.com/watch?v=oZkcUukH3iM

Cameoword_up_album_cover  キャメオ Cameo

      これもマイルスが好きだったファンク・グループ、キャメオ(Cameo)のライブ http://www.youtube.com/watch?v=_3vHUZBfYgQ

マイルスは、以前のアコースティックでクラシックなスタイルの演奏は二度としなかった。むかしの演奏を聴きたかったら、レコードを聴いてくれ、と言ってた。

アルバム「カインド・オブ・ブルー Kind of Blue 」の歴史的レコーディング映像がある。曲は、「So What 」。 テナーサックス、ジョン・コルトレーン。ピアノ、ウイントン・ケリー。ドラムス、ジミー・コブ。ベース、ポール・チェンバース。そして、3本のトロンボーンは、ギル・エヴァンス・オーケストラのメンバーじゃないだろうか? 1959年3月2日、ニューヨーク、コロンビア・レコード・32ストリート・レコーディング・スタジオでの演奏だ。http://www.youtube.com/watch?v=P4TbrgIdm0E&feature=related

 

Dxc__um1833743

Milesdaviskindofblue1959

   

                 

                                                                       

795  早朝、散歩の途中で、雨だ。

793 雨の江戸川。小型のタンカーが係留される桟橋。SANKYO-maru 、なぜかこのボートがいつも気になる。