Ommo's

古い曲が気になる

MTVは、1981年、放送開始

2008-09-30 | 日記・エッセイ・コラム

ライク・ア・ヴァージン ライク・ア・ヴァージン
野獣生誕(エアロスミスI) 野獣生誕(エアロスミスI)
 雨だ。夕方に霧雨になってやむかと思ったが、夜になって音がするほど激しい降りになった。今夜で3日目の雨になる。

 わたしが興行をやっていたころ、21時にコンサートが終了しないと、懲罰的に高額な超過料金を会場から請求されると、ソニー・ロリンズ・コンサートの件で書いた(7/29 ソニー・ロリンズは、とまらない)。きょうのニュースに、マドンナが、イギリスで高額な超過料金を払うことになった、とある。金額は、2,640万円だという。

 マドンナはいまワールドツアーをやっている。9月11日、ロンドン、ウェンブリー・スタジアムで、マドンナは40分遅れてステージに登場して、ショーの終了が午後11時10分になってしまい、スタジアムの閉館時間10時30分を40分超過した。超過料金は、15分につき5万ポンド(約975万円)、合計13万5,000ポンド(2,640万円)だという。もともとの使用料金も高いのだろう。それに罰金的な割合を掛けるから高額になったのだろう。最終閉館時間に終わらないのだから、それなり請求するのは、会場として当然のことだ。

(出演者は、終演で仕事は終わって、打ち上げのパーティーか、ディナーにでもいけばいいが、会場係りは、終演後のかたずけに何時間もかかる。終演からが大仕事だ。だから、1分でも早くショーが終わるのを待ってる。それも仕事だから仕様がないが、それぞれ立場があるわけだ。スタジアムの場合は、何百人かの人間が、真夜中、片付け仕事をするのだろう)。

 2,640万円など、マドンナには屁でもないだろう。客をじらして遅れて登場するのは、ロック・ショーの常とうの、陳腐で、客をナメた演出だが、効果はある。そして、マドンナが高額の超過料金を払う、というニュースが世界中に配信されたのだから、宣伝効果は抜群だ。(こうして)マドンナのワールド・ツアーなど、どうでもいい者たちの話題にもなった。いつものことだが、じつに臭くて露骨な宣伝だが、費用対効果は抜群にいい。最初から計算ずくで遅れて開演したのだろう。

 日本では、客入れして、開演時間になってから1時間も緞帳をあげず、客をじらすロック・シンガーがいた。やっと登場すると、たった40分だけ歌って退場する。とうぜん、客は、アンコール! アンコール! となるわけだ。そこで2曲くらい歌って、終演。正味1時間のショーだ。まあ、客がこれで満足しているのだから、それでいいのだろうが……。マドンナの場合は、40分遅れて登場したが、予定どおり2時間のコンサートはやって、終演がおした。

 きょうは、1973年デビューのエアロスミスのボーカル、スティーヴン・タイラーと女優のリブ・タイラーのことなど書こうかな、と思っていたのだが、マドンナのことなってしまった。エアロスミスのことは、あす、ということで。 

 マドンナが「ライク・ア・ヴァージンLike A Virgin 」でデビューしたのは、1984年のことだ。MTVの放送開始のあとだ。マドンナの成功は、MTVによるところが大きい。ヴィジュアルの時代、ダンス・ミュージュックの時代だ。(MTVのアメリカでのスタートは、1981年10月、日本で放送されるようになったのは、1984年10月)。ロックは、すでに終焉期に入ったといえる。ロックの創造のエネルギーは、どんどん終息して、元気なのは、60年代70年代からやっているバンドだった。

Aerosmith Dream On http://jp.youtube.com/watch?v=sNzEQ8hG1zA


スーパーボウルに、B・スプリングスティーンが

2008-09-29 | 日記・エッセイ・コラム

アズベリー・パークからの挨拶 アズベリー・パークからの挨拶

青春の叫び 青春の叫び

 ブルース・スプリングスティーン&E・ストリート・バンドが、来年2月1日のスーパーボウルのハーフタイム・ショーへの出演が決まった、とニュースにある。全米1億4,800万人がTV視聴する最大のエンターテイメント・ショーだ。世界中にオンエアーされる。じつに楽しみだ。

 1976年、帯広のメンバーをバック・バンドにして、浜田省吾の北海道コンサートツアーをやったことは、6月のブログに書いた。そのときのことだ。浜田さんたちといっしょに、ブルース・スプリングスティーンのライブ・映像をみた。前年に「明日なき暴走 Born To Run 」が出て、日本でもブレークしかけていたときだ。

 浜田省吾&バンバンのジョイント・コンサート、札幌の会場は大谷会館だった。札幌だけは、バンバンがラジオ番組の出演があるというので、先に出演して、浜田さんがトリだった。バンドのメンバーをもう一度書くと、ドラムス・田中やすおくん、ギター・東川佳人くん、ベース・門脇優くんだった。そして、リードギターが、町支寛二さんだ。

 大谷会館の翌日、みんなでCBSソニー札幌支店にでかけた。ブルース・スプリングスティーンのライブ・ビデオがあるから観にこない? と高市さんに誘われたのだ。高市和久さんは、道東担当の営業マンだった。「愛奴」をおしていたし、浜田省吾のソロデビューのときは、道東でのキャンペーンを企画して、浜田さんと自分の担当地区をまわっていた。

 ビデオでみたブルース・スプリングスティーン&E・ストリート・バンドのステージは、強烈だった。ブルース・スプリングスティーンの動く映像をみるのは、このときがはじめてだった。荒々しく歌われる言葉のリアルなドライブ感、疾走するバンドのエネルギー、クラレンス・クレモンズのサックスのパワー。表現しようとする詩の世界が、誠実に伝わってくるみごとなステージだ。これこそまさに、ロック! すごい! みてるこっちも充電されてパワーが満ちてくる。浜田さん、町支さん、そして、帯広のメンバーたち、みんなが感動していた。

 サウンドコーナーでは、ファースト・アルバム「アズベリー・パークからの挨拶Greetings From Asbury Park, N.J.」が発売になってすぐに、まっちゃんが気に入ってお客さんに薦めていた。だから、「明日なき暴走Born To Run 」で火がつく前に、十勝にはブルース・スプリングスティーンの顧客がたくさんいた。レコード屋の店員の推薦は、売り上げを大きく伸ばすものなのだ。

 「何か、おもしろいの入った?」、話をするようになったお客さんからは、かならず、こう聞かれるようになる。これに的確にこたえるには、お客さんの好みを頭にいれておかなければならない。ただ自分の好きなものを薦めてもダメなのだ。ベテランの店員になると、新譜を試聴したとき、そのレコードを好みそうなお客さんの顔が浮かぶようになるものだ。

 Blinded By The Light  http://jp.youtube.com/watch?v=uzGt4T5lJBQ&feature=related 


ビリー・ジョエルは、アッティラだった

2008-09-28 | 日記・エッセイ・コラム
   
ストレンジャー(期間生産限定盤)
SMJ
 

ビリー・ジョエルの来日公演のテレビ・スポットがたくさん入ってる。コンサートは、11月18日(火)東京ドームで開催される。

ビリー・ジョエルもまた、ソロでブレークするまで時間がかかってる。十代の半ばからプロのキャリア(1963年から)があるようだが、わたしが最初に知ったのは、CBSソニーから発売になったグループ、アッティラAttilaだった(日本発売は1970年)。

アッティラは、ドラムのジョン・スモールとビリー・ジョエルのオルガンという2人のグループだった。鎧を着こんで、鉄兜を持ったフン族の戦士が2人、肉がぶら下がった中に立っている、かなりナンセンスな写真のアルバム・ジャケットだった。長髪のビリー・ジョエルは、肩から毛皮を掛けていた。

(5世紀、フン族の兄弟王、アッティラとブレダが東ローマ帝国を侵略して大帝国をつくった。バンドの名前は、そのアッティラ王からとったのだろう)。

きっと、アルバム「アッティラ」の数少ない日本での売り上げで、サウンドコーナーの売り上げは大きいだろう。当時、開業したばかりのCBSソニーは、このアルバムにもけっこう力を入れていたが、あまり売れなかった。ビリー・ジョエルのファンは、アッティラをまったく評価しないらしいが、内容的には、それも納得できる。

1973年に「ピアノマン」が出ても、まだ売れなかった。アメリカで、「ピアノマン」がトップ20に入り、、アルバムがゴールドデスクを獲得しても、まだ日本では売れてなかった。ブレークしたのは、「ストレンジャー」だった。1977年のことだ。ビリー・ジョエル、28才、アッティラ発売から8年、ソロになって7年かかったわけだ。5枚目のソロ・アルバムだった。「ストレンジャー」が大ヒットして、「ピアノマン」など過去のアルバムも売れ出した。

アルバム「ストレンジャー」からは、「素顔のままで Just the Way You Are」がシングルカットされてこれも売れた。

ビリー・ジョエルは、アメリカ・レコード協会(RIAA)のトップ・セールス・アーティストの6位にランクされている。ちなみにその順位は、

  ①ビートルズ
  ②ガース・ブルックス
  ③エルビス・プレスリー
  ④レッド・ツェッペリン
  ⑤イーグルス
  ⑥ビリー・ジョエル
  ⑦ピンクフロイド
  ⑧バーバラ・ストレイザンド
  ⑨エルトン・ジョン
  ⑩AC/DC

  ⑪ジョージ・ストレイト
  ⑫エアロスミス
  ⑬ローリングストーンズ
  ⑭ブルース・スプリングスティーン
  ⑮マドンナ
  ⑯マライア・キャリー
  ⑰マイケル・ジャクソン
  ⑱メタリカ
  ⑲ヴァン・ヘイレン
  ⑳ホイットニー・ヒューストン

(わたしは、②ガース・ブルックス、⑪ジョージ・ストレイトをカントリー・シンガーということ以外まったく知らない)。

Piano Man  http://jp.youtube.com/watch?v=BCyKcwvV5gE&feature=related

 


「雨にぬれても」は、バート・バカラック

2008-09-27 | 日記・エッセイ・コラム

明日に向かって撃て! 明日に向かって撃て!
ポール・ニューマンが亡くなった。83才だった。代表的な主演作には、「ハスラー」「スティング」があるが、わたしには、なんといっても「明日に向かって撃て!」だ。日本の封切りは、1970年。ポール・ニューマンとロバート・レッドフォード、キャサリン・ロスが主演だ。

そして、B・J・トーマスが歌う主題歌が大ヒットした。「雨にぬれてもRaindrops Keep Fallin' On My Head 」だ。作詞がハル・デヴィッド、作曲が、バート・バカラック。1970年1月にビルボード週間№1、1970年の年間№1になり、アカデミー主題歌賞、ゴールデングローブ賞、そして、1970年グラミー賞を受賞した。

バート・バカラックは、全米ヒット、トップ40に、なんと70曲が入っているという、60年代70年代を代表する大作曲家だ。

バート・バカラックは、1958年から1961年の間、マレーネ・デートリッヒのピアニストをやっていた。アレンジャー、バンドリーダーとして、マレーネ・デートリッヒの世界ツアーを成功させた。

(マレーネ・デートリッヒのことは、「リリー・マルレーン」のことを書いたときにすこしふれた。ヘミングウエイとも仲がよかった。晩年の長編小説「海流の中の島々」に、マレーネ・デートリッヒがモデルらしい女性が登場する)。

ビートルズがカバーしていた「ベイビー・イッツ・ユー Baby It's You」もバート・バカラックの作曲だ。オリジナルは、シレルズThe Shirellesが1962年にヒットさせた。

カーペンターズがヒットさせた「クロス・ツー・ユー Close To You」もまたバカラックの曲だ。

   雨にぬれても  http://jp.youtube.com/watch?v=VILWkqlQLWk&feature=related      

Burt Bacharach & the A&M '67 All-Stars - Medley          http://jp.youtube.com/watch?v=YNPIQAPpSYQ&feature=related

アルフィーは日本ではバンドの名前だが、1966年のイギリス映画のタイトルだ。音楽は、ソニー・ロリンズが書き、主題歌をバート・バカラックが作曲した。インパルス・レコードから発売されたソニー・ロリンズのアルバム「アルフィー」もヒットした。

「アルフィーAlfie」は、バート・バカラックの最高傑作ともいわれる曲で、サントラは、イギリス版ではシラ・ブラック、アメリカ版はシェールが歌ったが、その後、さまざまな人が好んでカバーしている。バート・バカラック自身、最も好きな曲といっている.

バート・バカラックは、ことしの来日のとき、TBSテレビ「金曜深夜便」に出演して、膳場貴子のインタビューにこたえて、「ジス・ガイ This Guy's」がお気に入りだといって歌った。わたしは、この曲のダスティ・スプリングフィールドのバージョンが好きだ。オリジナルは、ハープ・アルパートの1968年のヒット曲だ。ハープ・アルパートにとって、これが最初の№1ヒットではないが、自らのレコードレーベル、A&Mでの最初の全米№1ヒットだった。

Burt Bacharach "alfie"      http://jp.youtube.com/watch?v=4hUhtLYhlhE&feature=related

Alfie - Whitney Houston http://jp.youtube.com/watch?v=SN-1aF8tDd8&feature=related

Dionne Warwick - Alfie (with Burt Bacharach ) http://jp.youtube.com/watch?v=70msV5GDBaw&feature=related


「グッバイ」は、Sirポールの曲

2008-09-26 | 日記・エッセイ・コラム

ポスト・カード(紙ジャケット仕様) ポスト・カード(紙ジャケット仕様)
Sirポール・マッカートニーのテルアビブ公演は、自爆テロもなく無事終了したようだ。5万人がYarkon Parkに集まったとある。「ハロー・グッバイ Hello,Gooddby」が最初の曲で、ユダヤ人の新年(9月29日)の挨拶をして、モスリムのラマダンの挨拶をした、とイスラエルのwebニュースにある。

ポールには、2才若い弟がいる。マイク・マッカートニーだ。ミュージシャンのときは、マイク・マッギアMike McGearという名でレコードを出した。1968年のファースト・アルバムは、アップル・レーベルだから東芝だった。サウンドコーナーではちっとも売れなかった。音楽の才能は、ただ遺伝子の問題ではないようだ。いまは写真家として著名だ。http://www.mikemccartney.co.uk/

アップル・レーベルからは、ジェームス・テイラーとバッド・フィンガーが出た。そして、メリー・ホプキンの「悲しき天使 Those Were the Days 」(1968年)が大ヒットした。サウンドコーナーでは、このシングル盤がよく売れた。

この曲のオリジナルは、ロシアの曲だ。コンスタンチン・ポドレフスキーKonstantin Podrevskyの詩に、ボリス・フォーミンBoris Fominが曲をつけた。これをアメリカ人のシンガー、ジーン・ラスキンが自分の曲として発表した。露骨なパクリだ。

(いま聴くと、たしかに、ロシア、ウクライナのユダヤ系の人たちの民謡にある、センチメンタルなメロディーだ)。

つぎのメリー・ホプキンのシングル「グッバイ Goodbye」は、レノン/マッカートニーとクレジットされた曲だが、ポール・マッカートニーがひとりで作った曲だろう。ポール・マッカートニー節全開の、美しい曲だ。これも、わたしのレコード屋では売れた。(ビートルズで、レノン/マッカートニーとなっている曲で、ふたりで作った曲はない、と本人たちが言っている)。

バッド・フィンガーでは、アルバム「ノー・ダイス」がよく売れた。ハリー・ニルソンの「ウイズアウト・ユー Without You」のカバーがいい。

メリー・ホプキン 悲しき天使   http://jp.youtube.com/watch?v=X5pkkAhETYg

ポール・マッカートニー Goodbye http://jp.youtube.com/watch?v=rvBQXZLXarA&feature=related


今夜、Sirポールがイスラエルでコンサートを

2008-09-25 | 日記・エッセイ・コラム

Band on the Run Band on the Run
Sirポール・マッカートニーは、今夜、はじめてイスラエルのテルアビブで野外コンサートを開く。

43年前の1965年、イスラエル政府は、強権でビートルズのコンサートを中止させた。風紀を乱す、ということが公式な理由だったらしい。それ以来、はじめての公演なのだ。

シオニストのスポンサーで、イスラエル建国をバックアップした国が、イギリスだ。MBE勲章のイギリスの音楽家をボイコットするとは、当時のイスラエルは、とんでもなく無礼な国だったわけだ。(実際は、その前にクリフ・リチャード公演で問題を起こし、イスラエル政府が、同じプロモーターのビートルズ公演を許可しなかったのが真相らしい。ビートルズではなく、プロモーターに問題があったということだろう)。

43年前、たしかに世の中は、まだビートルズについて行けなかった。日本でも武道館を使うのに賛否両論あった。評論家は、ビートルズの音楽や風体を、くそみそにけなすことで商売をしていた。いまでは長いとさえいえない、あの髪が、長髪だと非難された。エレキギターも悪だった。

今回、イスラエル政府は、Sirポール・マッカートニーに43年前の非礼を謝罪して、建国60周年記念イベントに招聘したという。イスラエルの新聞は、建国60年で最大のイベントと書いてる。しかし、イスラム過激派が、今回のポール・マッカートニーのイベントに反対しているので、最大級の警備体制だという。

イスラエルに到着したことはwebのニュースにあるが、コンサートの様子は、まだどこにも書いてない。150ドルのチケットが1500ドルになっているとか、ホテルのスイートを21部屋とったとか、80トンの機材をロンドンから空輸したとか、クリントン大統領が泊まった部屋にポールのグランドピアノを入れた、とか、そんなことがニュースになっている。イスラム過激派のことが気になるのだが……。

ポール・マッカートニーとユダヤ人の関係は深い。いちばん長い間の妻だったリンダは、旧姓イーストマンだが、彼女の父親はニューヨークの弁護士で、レオポルド・ヴァイル・エプスタインをリー・イーストマンと改名したユダヤ人だ。

(リンダ・マッカートニーは、1998年、乳ガンで亡くなった。56才だった。ポールは、母親も14才のとき、乳ガンで亡くしてる。だから、ポールは父子家庭の子だ。プロのジャズミュージシャンだった父親は、妻が亡くなると、リバプールの市営バスの運転手になって、子供を育てる。この父親にポールは、ギターもトラッペットもドラムも教えてもらう。ピアノは、母さんが教えてた)

そして、ビートルズ成功の最大の功労者、マネージャーのブライアン・エプスタインが、ユダヤ人だ。ビートルズとユダヤ人の関係、そのようなことが、イスラエルでは大きな話題のようだ。

ジョン・レノンやジョージ・ハリソンと違って、政治的な行動をとらないポールだったが、今回のイスラエル訪問は、めずらしく政治的な意思を明確にしているように思える。リンダとの間に生まれた自分の娘が、ユダヤ人であるわけだから、当然といえるが。

Band on the Run http://jp.youtube.com/watch?v=pb4HSBAQ9ZY

ポール・マッカートニー&ウイングスのLP「バンド・オンザ・ランBand on the Run」は、1973年に発売になった。全英、全米ナンバー1になったアルバムだ。サウンドコーナーでも爆発的に売れた。

ビートルズ http://jp.youtube.com/watch?v=0I91CFOCp04&feature=related


WESSの最初は、コミニュケーション・ポイント

2008-09-24 | 日記・エッセイ・コラム

レッド・ツェッペリンIV レッド・ツェッペリンIV

日曜日に、小栗秀秋さんとお会いした。6月のブログに、小栗さんをPA屋の社長さんと書いたが、わたしの認識不足だった。北海道・札幌の音楽史でもあるし、現に盛況のイベンター、札幌・WESSの社史でもあるので、小栗さん自身の説明を引用されてもらって正確を期したい。

WESSは、コミニュケーション・ポイントという集団からスタートした。小栗さん自身から、初期のウイークエンドの成り立ちを説明したメールをいただいたので、すこし長くなるが下に引用する。読みやすいように、段落を変えたが、文章には手を加えてない。

「コミニュケーション・ポイントはクリエイター集団です。僕が主宰していました。道内、全国のクリエーターのコミニュケーションのポイントになってくれればと思ってつくりました。

札幌丸井今井デパートで「フリーバザー」と言う企画を実施しました。100以上のクリエーターが作品を持ち寄り販売すると言うイベントです。デパートの中に小さな町が出来たように演出して、中心になる広場ではライブがあったり・・・・中近東あたりの「バザー」のイメージですよね。グラフィックも仲間がつくりました。丸井今井はとても保守的なデパートで、外部のスタッフの企画、実施は始めてのようでした。(1971年)

そのイベントの前後、定期的にコンサートを行ってました。地元のバンドを前座に東京からバンドをよんでね。お金がないからバンドメンバーやスタッフは僕の家に泊まってましたね。(これは、ウイークエンドスタート時もそうだったかも)

その後、ウイークエンドをスタートします。コンサートの制作、主催とデパート、ホテルなどのイベント制作・・・なんでも楽しいものだったらやりましたね。

東急、パルコ、松坂屋のイベントも当時で、第一回ワールドロックフェスティバル、(ジェフベックグループ他)の札幌アイスアリーナが、パルコのオープニングのメインイベントです。

初めて名義主催をウイークエンドではなく、「パルコ」にしました。制作、事務局長が僕です。300~400人のボランティアの協力を得て出来たコンサートでしたね。

人口100万人の街で1%にあたる1万人集めるのは大変だった。老人、子供を除くとコンサートに行く若者ってそうは多くなかったから・・。札幌以外からも沢山の人がきてくれました。もちろん、帯広からも。

PAセクションはそれの少し前だったと思います。東急のオープニングのころはまだPA借りていたから・・・。PAセクションとともに楽器のレンタルも平行してやってましたね。フェンダーのエレピやアンプもね。そういう会社をする人いなかったから。本当にやりたくてやっていたのかわからない。音楽をきっかけに沢山の人が集まり、コミニュケーションが始まり、新しい文化が生まれるんじゃないかと夢みていました。それが、表現したい「アート」だと思っていた。」

このように、小栗秀秋さんが札幌WESSの草創期を解説してくれた。単にPA屋さんというのは、完全にわたしの誤解だった。

1971年(昭和46年)がどんな年かといえば、ジョージ・ハリソンがバングラディシュのためのチャリティー・コンサートを開催し、日本では、箱根アフロディーテにピンクフロイドが出演した。吉田拓郎が「人間なんて」を発売し、キャロル・キングの名盤「つづれおりTapestry」が出た年だ。

キャロル・キングの「つづれおり」に収録されている名曲
  ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロウ (Will You Love Me Tomorrow) 
  ナチュラル・ウーマン (A Natural Woman) 
  ユー・ガット・ア・フレンド/君の友達 (You've Got A Friend) 
  イッツ・トゥー・レイト (It's Too Late)

71年は、オールマン・ブラザーズ・バンドのデュアン・オールマンがバイク事故で亡くなり、ドアーズのジム・モリソンが突然死した。「レッド・ツェッペリンIV」が発売になり、日本では、はっぴいえんどの「風街ろまん」が出た。

「レッド・ツェッペリンIV」は、レッド・ツェッペリンで最も売れたアルバムだ。アメリカだけで、2,300万枚売れたという。世界中となるととほうもない数になるのだろう。「天国への階段Stairway to Heaven」は、このアルバムに入っている。

下の、「天国への階段」のつぎに、キャロル・キングの「君の友達 You've Got A Friend」もみてほしい。中年になったおっさん、おばさんたちが、キャロル・キングの歌にあわせて歌いながら涙ぐんでいる。

この映像をDVDでみたとき、思わず、わたしも涙ぐんでしまった。きっと、このおばさん、おじさんたちも、この歌が流行ったころは、長髪の若者で、顔に花のペインティングをしたりしていたのかもしれない。もともと感傷的な曲だが、若いときのほろ苦い思い出がよみがえるのだろう。同じ世代の人たちの感傷に共感して、わたしもYou've Got A Friendを口ずさんでジーンとしてしまった。

ジミー・ペイジのギターだけの「天国への階段」も興奮する。終わりのころに、クラプトンとジェフ・ベックがでてくるが、ジミー・ペイジの演奏は、圧巻だ。

レッド・ツェッペリン Stairway to Heaven  http://jp.youtube.com/watch?v=ayzhJKy8H_A&feature=related

ジミー・ペイジ Stairway to Heaven  http://jp.youtube.com/watch?v=93ubRaUm2J0&feature=related

キャロル・キング You've Got A Friend  http://jp.youtube.com/watch?v=B_L4epGowZU&feature=related 


「卒業」が、CBSソニー最初のLP

2008-09-23 | 日記・エッセイ・コラム

明日に架ける橋 明日に架ける橋
1970年(昭和45年)に、ピンクフロイドの「原子心母」が発売になったことは、書いた。ジャニスやジミヘンの突然死があったこの年は、ロック史ではたくさんのことが起きた年だ。そして、ポップス界で空前のビッグセールスをあげた2枚のアルバムが発売になった。サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」と、ビートルズの「レント・イット・ビー」だ。

S&G(サイモンとガーファンクル)のデビューは1964年だから、古い。しかし、デュオ・グループの結成は、1957年で、トム&ジェリーとしてビルボード49位の"Hey, Schoolgirl"を出したのは、ハイスクールのときだ。じつに長い芸歴だ。しかし、売れなかった。アルバム「水曜の朝、午前3時Wednesday Morning,3A.M.」(1964年)を発売して最初の解散状態になった。

ポール・サイモンは、ヨーロッパを放浪し、アート・ガーファンクルは、大学院にもどった。このあいだ、ポールは、ロンドンのフォーク・クラブに出演して、イギリスのミュージシャンたちと知りあっていた。こうして、ふたりがデュオでやるのを諦めているとき、プロデューサーのトム・ウィルソンが、アコースティック・バージョンの「サウンド・オブ・サイレンス」に、エレクトリック楽器を加えてシングル盤で発売した。これが、ラジオ局から火ついて、全米No.1ヒットになったのだ。(ふたりは大ヒットするまで、エレクトリック・バージョンの発売を知らなかった、という。これも伝説だが……)。

「サウンド・オブ・サイレンス」が最初にヒットしたとき、日本での発売は、日本コロムビアだった。CBSソニーはまだない。わたしは高校生だった。「サウンド・オブ・サイレンス」は、二回ヒットしているのだ。二回目は、映画「卒業」のサントラに使われたときだ。今度は日本でも大ヒットになった。

映画「卒業」は、ダスティー・ホフマンとキャサリン・ロスが主演の青春映画の傑作だ。日本では1968年の封切りだった。わたしがレコード屋をはじめたとき(1969年)、帯広で上映していた。

CBSソニーの第一回目のLPレコード発売に、S&G「卒業」サントラ盤がある。きっとCBSソニーの最初のヒットLPだったろう。そして、わたしの店、サウンドコーナー駅前店の初ヒットLPでもあった。

演歌を勉強しろ、とミノルフォンのセールスマンに叱られたが、ロックの風が吹いてきたのだ。

そして、1970年の「明日に架ける橋Bridge Over Troubled Water 」の発売になる。サウンドコーナー店頭に、サイモンとガーファンクル「明日に架ける橋」の大看板を上げた。駅をおりてすぐに目につく。

アート・ガーファンクルの愉快な伝説がある。

「いま、東京駅にいます」と、突然、アート・ガーファンクルからCBSソニー本社に電話がきた。70年にS&Gを解散して、ひとりで世界旅行にでていたときの話だ。CBSソニーでは驚いた。最大の売り上げをあげるビッグスターだ。なぜ、日本にいるんだ? あわてて幹部うちそろって東京駅に迎えにいったそうだ。(CBSソニー創設期、S&Gのはたした貢献は計り知れないだろう)。

アート・ガーファンクルは、自転車で韓国をまわって、フェリーで九州に着き、もうひと月も日本を旅していた、という。京都駅から新幹線に乗ろうとすると、自転車は持ち込めないといわれ、京都駅前の自転車屋にあずけて東京にきた、というのだ。自分らのレコードの、日本での発売元に挨拶をしてから、日本を離れようと、東京にやってきたのだ。

旅行中は、大ポップスターと知らずに出会った日本人がたくさんいたわけだ。貧乏外人の自転車旅行と思われて、おもしろい体験だったろう。

わたしは、1982年5月12日の後楽園球場の公演をみた。再結成のセントラルパーク・コンサートで53万人を集めた翌年のことだ。ふたりの歌のあまりのうまさに感激した。とくに、「明日に架ける橋」を歌うアート・ガーファンクルは、神々しくさえあった。ポール・サイモンのギターもじつにいい。ドラムは、スティーブ・ガットだった。

Sound of Silence  http://jp.youtube.com/watch?v=eZGWQauQOAQ&feature=related 

Bridge Over Troubled Water http://jp.youtube.com/watch?v=qFruKvAq8PQ&feature=related


イアン・アンダーソンのフルート

2008-09-22 | 日記・エッセイ・コラム

日曜日の印象 日曜日の印象
ひんやりと寒いくらいの朝。秋だ。むかしは、この季節になると気持ちが浮き立ったものだ。鴨猟の季節がやってくる。北海道は、10月1日が狩猟の解禁だった。

小学生のときは、父の猟犬役だった。アシのヤブの中から鴨を追いたて、沼に落ちた鴨をゴムボートで回収した。半矢(はんや。羽に被弾しただけで生きている)の鴨は、首を折った。

小学6年のとき、自分の銃をもらった。父が長いあいだ使っていたSKBの上下二連銃だ。 いちばん上手かったのは、高校生のときだった。おもしろいように当たった。狙った鴨は、かならず落ちた。二十歳になって、合法的に撃てるようになると、なぜか腕が落ちた。結婚して子供ができると、まるで当たらなくなった。狩猟にいくのも楽しくない。二十代の終わりで、猟にいくのをやめてしまった。

ゲームでハンティングするのは、もう気持ちがのらないが、自分が食うものを自分で捕るのは理想だ。道具が好きで、鉄が好きだから、とうぜん、銃もナイフも、刀も好きだ。見ているだけで楽しい。

9月の終わりになって寒くなると、父のオートバイの後ろに乗って、池田や豊頃の沼にむかった10代の頃を思い出す。わたしは、自分のSKB二連銃と父のブローニングの銃を肩にかけていた。

解禁の日は、散弾を200発くらい持つから、リュックが重い。半年ぶりに撃つのがうれしくて、当たらないのがわかっている距離でも撃つ。帰ってきて風呂にはいると、肩に銃床のあとが真っ赤なアザになっている。翌日、筋肉痛で右腕が上がらない。

ウッドストック・ロック・フェス(1969年)の資料をみていると、ジェスロ・タルが出演を断っている。スケジュールの調整がつかなったのだろう。ジェスロ・タルは、わたしがレコード屋になったばかりのとき、よく売れたので、印象深いグループだ。イアン・アンダーソンのフルートがフィーチャーされた、ジャズっぽいロックバンドだった。

ファースト・アルバム「日曜日の印象」が発売になったのは、1968年だった。    

Jethro Tullhttp://jp.youtube.com/watch?v=cRo5whIbau4&feature=related

Jethro Tull  Aqualunghttp://jp.youtube.com/watch?v=QqZmtq5LhFo


「この歌は なにもずるいところはない」

2008-09-21 | 日記・エッセイ・コラム

Thirty Three & 1/3 Thirty Three & 1/3
雨だ。遠くで雷がなっている。窓がときどき光る。

以前、ジョージ・ハリソンの「マイ・スウィート・ロード」の盗作騒動のことを書いた。ジョージは、この裁判のあと「ジス・ソング」という曲を書いて、アルバム「33  1/3」に収録している。「ジョージ・ハリソン自伝 I・ME・MINE」(山川真理訳 2002年 河出書房新社)に、この曲と「マイ・スウィート・ロード」裁判のことを率直に書いているので引用する。

    「ジス・ソング」は、軽いコメディでちょっと息抜きしよう、という気持で書いた。それから、ソングライティングに対して神経過敏になっていたのを吹き飛ばすための手段でもあった。ぼくの心の中には、「曲を書くのが恐い」という気持ちが徐々に形成されつつあった。いまだに理解できないのは、同じような訴訟が山ほど起きても不思議じゃないのに、実際には起きていないということだ。ふだん耳にするポピュラー音楽の99パーセントは何らかの、あるいは別の曲を思い出させるというのに。

わたしは、ジョージ・ハリソンの心境に全面的に共感する。99%のポップスは、「何らかの、あるいは別の曲を思い出させる」。レコード屋のオヤジとしての感想だ。「ジス・ソングThis Song」の冒頭の歌詞は、こうなっている。

           This song has nothing tricky about it
           This song ain't black or white as far as I know
           Don't infringe on anyone's copyright so,……
           この歌は なにもずるいところはない
           この歌は黒でも白でもない
           そしてぼくの知るかぎり
           だれの著作権も侵害していない だから……

           This song we'll let be
           This song is in E
           This song is for you and ……
           この歌を存在させよう
           この歌のキーはEだ
           この歌はきみのため そして……   

George Harrison "This Song" http://jp.youtube.com/watch?v=bsUkACDSIZY

アルバム「33 1/3 (Thirty Three & 1/3)」は、1976年、ジョージ・ハリソン、33才のときの発売だ。

1976年は、浜田省吾、ソロ・デビューの年で、札幌グランドホテルのCBSソニーのコンベンション会場ではじめて会ったことは、このブログの6月の冒頭あたりに書いた。

ロックでは、ジェフ・ベック「ワイアードWired」、イーグルス「ホテル・カリフォルニアHotel California」が発売になった年だ。ともにロック史に残る名盤中の名盤だ。ジェフ・ベックの「ワイアード」は、ジョージ・マーティンがプロデュースしている。

ジョージ・マーティンは、ビートルズのほとんどの作品を手がけたプロデューサーだ。ジョージ・マーティンとマネージャーのブライアン・エプスタインの存在なくしてビートルズの成功はあり得ないだろう。ジョージ・マーティンは、ポール・マッカートニーと同じく、ナイトknightの爵位を得て、サーSirの称号を与えられている。イギリス国家に対する貢献を高く評価されたわけだ。

マネージャーのブライアン・エプスタインは、1967年に突然死した。自殺とも、ドラッグとも言われる。ロック史にたくさんある謎の死のひとつだ。32才だった。

ショックだった。夏の朝、そのニュースを北海道新聞でみたことを鮮明に思い出す。虻田町の入江貝塚発掘現場から帯広の実家に帰ったばかりだった。

ブライアン・エプスタインが……なぜだ? と、驚いた。今の時代でいえば、若いときのマイクロソフトのビル・ゲイツとか、ヴァージン・グループのリチャード・ブランソンのようなイメージでブライアン・エプスタインのことを思っていた。イギリスどころか世界の音楽ビジネスを仕切っている若い富豪、わたしには雲の上のヒーローだった。

ブライアン・エプスタインの死後、本で知ると、有能なビジネスマンではあるが、劇的で破滅的な、まさにロックの時代のアーティストだったことがわかる。しかし、感性は確かだ。ブライアン・エプスタインとジョージ・マーティンがいなければ、ビートルズは、リバプールのパンクバンドのひとつだったろう。

ビートルズは、1965年にMBE勲章(Honorary Member of the Order of British Empire)を受勲しているが、1969年、ジョン・レノンだけ、ベトナム戦争に反対するとしてMBEを返上した。http://jp.youtube.com/watch?v=Ym0x3vTw6yc&feature=related

(日本では、このMBE勲章を俳優の真田広之さんが受勲している。イギリス・ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの「リア王」公演(演出蜷川幸雄)で、だた一人の日本人出演者として、全編17世紀の英語のセリフでイギリス屈指の名優たちと共演し、日英の文化交流に貢献した、と、女王陛下からMBEを賜った、というのだ。わたしは、「ラスト・サムライ」のときの、真田広之さんのリアルな演技と存在感には感動した)


ワイルドで行こう

2008-09-20 | 日記・エッセイ・コラム

Born to Be Wild: A Retrospective Born to Be Wild: A Retrospective
イージー・ライダー ― オリジナル・サウンドトラック イージー・ライダー ― オリジナル・サウンドトラック

「店長、勉強しないとダメですよ!」
レコード屋になった1969年は、演歌、ムード歌謡が圧倒的に売れていた。わたしは、レコード・メーカーのセールスマンに、演歌を勉強しろ、と意見をされた。ロックやフォークやジャズで商売になるわけはない、という。「学生さんの遊びじゃないんだから、趣味じゃダメです。今は演歌ですよ」と叱られた。どっちが客かわからない。

森進一がデビューしたばかりで、「港町ブルース」がバカ売れしていた。青江三奈は「伊勢佐木町ブルース」が大ヒットしていた。前年(1968年)は、千昌夫「星影のワルツ」、東京ロマンチカ「小樽のひとよ」が発売になって売れていた。そういう時代だった。しかし、わたしには、まったく苦手な分野だった。

帯広駅ビル地下のサウンドコーナー本店と、同じ町内に加藤電氣があった。演歌、歌謡曲が得意なこの2店に挟まれていた。森進一や青江三奈をいちおうならべてみても、ちっとも売れない。大ヒットしていた皆川おさむの「黒猫のタンゴ」でさえ売れない。

しかし、店先のスピーカーから、由紀さおりの「夜明けのスキャット」を流すと、これが売れた。カルメン・マキの「時には母のない子のように」、ザ・キング・トーンズ「グッド・ナイト・ベイビー」も売れた。そして、トワ・エ・モアの「或る日突然」が売れた。これで邦楽では、どういう傾向のものを自分の店で売るべきか、だいたいわかってきた。

LPレコードは、ロックとフォークとジャズに集中した。わずか7坪の店だ。なにもかも置けない。演歌、歌謡曲のお客が来たら、駅ビルの本店まで走って、レコードをかかえてきた。1973年(昭和48年)の第一次オイルショックまでは、クラシックも扱っていた。

1969年、映画は、「イージー・ライダー」が封切りになって、オリオン座で上映していた。このサントラのLPも、シングル盤のスッテペンウルフの「ワイルドで行こうBorn To Be Wild  」も、よく売れた。ジョン・ケイJohn Kayのボーカルが、じつにいい。この曲も、ロック史に残る名曲だ。ステッペンウルフは、カナダのバンドだ。ジョン・ケイは、東プロイセンからソ連の支配を逃れてカナダに移住したドイツ人だ。目が悪いのでいつもサングラスをかけていた。

Born To Be Wild  Steppenwolf http://jp.youtube.com/watch?v=xm5DPlNCmtk                

ジョン・ケイ&ステッペンウルフのオフィシャル・サイトhttp://www.steppenwolf.com/

 


「涙の乗車券」はビートルズだが、カーペンターズもじつにいい

2008-09-19 | 日記・エッセイ・コラム

涙の乗車券 涙の乗車券

台風13号が接近している。この部屋に住んで3年、はじめて雨戸を閉めた。

今度は、中国製あんだ。19日、長野市南高田の菓子製造業「丸生本店」でのこと、和菓子に使う中国製のあんの箱を開けると石油臭がした。従業員のふたりが一口食べてみると、すぐに吐いて手足がしびれた。命には別状がない、と、YOMIURI ONLINEある。このあんは、中国・青島製で長野市の卸会社「丸富士」が、7月に2000箱輸入した中のひと箱だった。

日野てる子さんが肺がんで亡くなった。63才だった。駅ビルのサウンドコーナー本店ではよく売れた歌手だ。「夏の日の思い出」がヒットしたのは、1965年(昭和40年)。100万枚以上のセールスだというから、すごい。ステレオやポータブル・プレイヤーなど再生装置がまだまだ普及してないときだ。いまとは比較にならない。100万枚超の売り上げは、とてつもなくすさまじい数だ。

いま、フラダンス、ハワイヤンが静かなブームだ。若い人たちにも日野てる子ファンが多いのだろうか。「夏の日の思い出」や「ワン・レイニーナイト・イン・トーキョー」がヒットしているとき、まだ、わたしはレコード屋ではなかったが、好きな歌手だった。テレビの歌番組でよくみた。ポリドールレコードだ。おなじころポリドールで売れていたのは、菅原洋一だ。わたしの駅前店が開店してからも菅原洋一はよく売れていた。

この1965年は、ビートルズの映画『ヘルプ! 4人はアイドルHelp!』が封切りになり、シングル盤では、「涙の乗車券」、「ヘルプ」、「デイ・トリッパー」が発売になっている。アルバム「ヘルプHelp!」には、「イエスタデイYesterday」がはいっている。世界で最もカバーされている曲で、何千のカバーヴァージョンがレコードディングされているか、いまや確認は不可能だという。

「涙の乗車券Ticket To Ride」は、なんといってもカーペンターズのカバーが大ヒットした。この曲は、カーペンターズの曲で、ビートルズがオリジナルだと知らない若い人がたくさんいる。リチャードのアレンジ、カレンの歌とドラムは、じつにいい。カーペンターズのシングル「涙の乗車券」が発売になったのは、1969年(昭和44年)。サウンドコーナー駅前店はもうはじまっていて、よく売れた。A&M、キングレコードだ。

カレン・カーペンターは、歌うドラマーだ。兄リチャードとトリオのジャズバンドを組んだのが、プロ・ミュージシャンとしてのキャリアのはじめだ。歌はもちろんだが、ドラマーとしての評価は、死後ますます高まっている。

わたしは、ずっと以前から、カレンと浜田省吾に妙なドラマーとしての共通性を感じている。詞をリズムにのせて歌うときの独特のセンスを感じる。これはドラムをやっていたミュージシャンが歌うときの感性ではないだろうか。このセンスが、詞を生かし、曲に詩的なストーリーをもたせて、聴き手は、そのドラマの主人公として感情移入できるのじゃないか? 

これは、ジェネシスのフィル・コリンズや、イーグルスのドン・ヘンリーという歌うドラマーにもいえることかもしれない。

ヴァニラ・ファッジも、「涙の乗車券Ticket To Ride」をカバーしている。「キープ・ミー・ハンギング・オン」のアルバムだ。1967年だった。

「涙の乗車券Ticket To Ride」は、恋人(俺)を無視して、汽車かフェリーの乗車券を買って、町を出て、自立しようとする女のことを歌っている。彼女は、俺のことなんか気にしてない。(それでいいんじゃないかい。別れられてホッとしたよ)。いかにも皮肉屋のジョン・レノンらしい歌だ。カレンは、女の立場から、男に捨てられる悲恋を切々と歌う。

きのうは、サウンドコーナーの隣に果物屋があったことにふれたが、屋号は、みよし屋だった。その隣に小さい薬局があって、スマートボール屋があった。長井時計さんがあって、川上薬局、日本旅行。ふじもり食堂、インディアンカレー、えび天、薬局があって、JTB日本交通公社、加藤電氣,、中村会計、そんな感じかな。毎日のように学校帰り、ここを通ってレコード屋にきた人がたくさんいることだろう。いま、西2条にはほとんど人が歩いてない、という。ほんとうだろうか?

カーペンターズTicket To Ridehttp://jp.youtube.com/watch?v=fsgj4xcxXyA

ビートルズTicket To Ridehttp://jp.youtube.com/watch?v=etjpcF2X_mY&feature=related

ヴァニラ・ファッジTickt Ridehttp://jp.youtube.com/watch?v=dKjIiG1-x-Y

日野てる子「夏の日の思い出」http://jp.youtube.com/watch?v=hKKyCVw59PU


コーラ女も、蜂男もくる、レコード屋

2008-09-18 | 日記・エッセイ・コラム

Sheer Heart Attack Sheer Heart Attack
肝臓ガンの発生と汚染米との相関関係を暗示する表がある。じつに不気味だ。http://www.technobahn.com/cgi-bin/news/read2?f=200809172011

「マジックあるか?」、突然、若い男が店に入ってきて、いった。レコード屋にはときどき奇妙な客がやってくる。
「マジックインキですか、売ってませんが……、レコード屋ですから」
「いや、この店で黒いマジックを使ってないか?」
「使ってますけど」
すると男は、ここ、といって頭を差し出す。頭頂部に十円玉大のハゲがある。そこを黒いマジックで塗ってくれ、というのだ。しょうがないから、十円ハゲを黒く塗ってやった。まさに、Paint It Blackだ。

ポシェットをぶんぶん振り回しながら、スキップするように入ってきた若い女がいた。すぐに出ていって、隣の果物屋の自動販売機で缶コーラを買って、また入ってきた。店のなかでそのコーラをぐびぐび飲んで、あろうことか、店のなかから外の道路にむかって、思い切り空き缶を投げたのだ。カランカランカランと車道まで空き缶がころがっていき、店のなかの店員もお客も凍りついた。何人かいたお客は、全員逃げるように出て行った。わたしたち店員は、壁に張りつくようにして息をころして、女の動きを追った。店のなかにはクィーンの曲がながれていた。

店に蜂が入ってきて、天井にぶつかりながら飛んでいた。それを目で追っていた若い男が、「ホウキ、貸してください」という。蜂なら、じぶんたちで追い出しますから、といってもきかない。「ホウキ、貸してください」と何度もいう。男の顔は汗でびっしょりだ。「お願いします、ホウキ、貸してください」、男はホウキをもって店のなかを蜂を追い回しだした。なかなか、蜂はつかまらないし、出ていかない。男は、パイプ椅子をみつけて、その椅子にのって、奇声を発しながらホウキをめちゃくちゃに振り回してる。そのうち、蜂が出ていった。すると、「ありがとうございます」と、男は荒い息をしながらホウキを返して、レコードを買うこともなく、店を出て行った。Tシャツが汗でびっしょり濡れていた。

queen - killer queen  http://jp.youtube.com/watch?v=MMz-wi50ACU


帯広川で、カワウソをみた?

2008-09-17 | 日記・エッセイ・コラム

Paranoid Paranoid

リーマン・ブラザーズの倒産につづいて、きょうは、FRBのAIGへの850億ドルの融資がトップニュースだ。しかし、ロイターのwebサイトには、17日、ロシア証券取引所が、株式、債権、投資信託の取引を停止した、とある。これも大ニュースだ。つっぱてみても、ロシアも、もろい。

しかし、今夜のテレビのニュースでは、どの局も、このロシアのことはまったく触れてない。なぜだ? 不思議だ。

東京オリンピックのころだから、1964年だろうか。日曜日の朝、帯広市の柏林台近くの帯広川でウグイ釣りをしていた。わたしは、中学生だった。昼になったので、飯を食いに家に帰ることにした。釣り竿をもって堤防を歩いていると、すこし前を奇妙な動物が歩いている。

それは、ビーグル犬くらいの大きさで、赤みがかったこげ茶色の毛がビロードのように光っていた。尻尾は長い。何だ? 急ぎ足で近づいた。そいつは気づいて、チラッとふりむいてから、堤防を駆け下りて柳のヤブのなかに消えた。

そのことを電気屋の祖父に話した。「やっぱり、いたか……」、じいちゃんは、遠くをみるような目をして、しばらく黙りこんだ。そして、「カワウソだよ」、といった。じいちゃんが子供のころ、親といっしょに富山から北海道に開拓にきたころは、十勝の川に、カワウソがいっぱいいた、という。

そのあと、“カワウソ”を見たあたりになんども出かけたが、二度とその奇妙な動物に出あうことはなかった。それから17年くらいたった1981年ころのこと、小学生の娘が、西8条の橋の上から、帯広川のなかから顔を出している奇妙な動物をみた。話をきくと、かってわたしが中学生のときにみた動物そっくりだった。「やっぱり、いたか……」。

きょう、旧江戸川沿いを散歩していると、なんの脈絡もなく、突然、そんなカワウソ事件を思い出した。絶滅種のニホンカワウソが、最後に目撃されたのは、高知県須崎市の新荘川でのことだ。1979年だった。北海道で最後にカワウソが捕獲されたのは、1955年(昭和30年)だ。

1955年は、エルビス・プレスリーがメンフィスのサン・レコードをはなれて、メジャーのRCAと契約した年だ。「ハートブレーク・ホテル」が発売になったのは、1956年。

1979年には、ブラック・サバスからボーカルのオジー・オズボーンが抜けた。ブラック・サバスの結成は、1967年だ。

サウンドコーナーでは、ブラック・サバスの「黒い安息日Black Sabbath 」(1970)、「パラノイドParanoid」(1970)がよく売れた。発売になったのは、店をはじめたばかりのころだから、わたしには、思い出深いLPレコードだ。オジー・オズボーンと、ギターのトニー・アイオミは、中学生や高校生のお客さんに抜群の人気があった。 Black Sabbath Paranoid  http://jp.youtube.com/watch?v=SRwwYWlbP2U


原子心母は、ピンク・フロイド

2008-09-16 | 日記・エッセイ・コラム

Atom Heart Mother Atom Heart Mother
ピンク・フロイドのキーボード・プレイヤー、リチャード・ライトが亡くなった。64才、ガンだという。どこのガンかは発表されてない。ただcanser、とある。

ピンク・フロイドのライブをみたのは、1972年のことだ。札幌中島スポーツセンターだった。3月だ。わたしは、体調絶不調で、最後までみていられず、外に出て吐いた。(いつものように、ただの強烈な二日酔いだったのだが)。 いっしょに行った、ふく井ホテルの社長、かつみさんは、最後まで観ていたはずだ。

なんといっても、LPレコードの『原子心母Atom Heart Mother』(1970年)が売れた。あの時代のロック小僧、ロック少女のコレクションには、かならずホルスタインがジャケットの『原子心母』があることだろう。井上陽水の『氷の世界』とおなじように「一家に一枚」のアルバムだろうか。少なくても、十勝のサウンドコーナーのお客さんに関しては、このアルバムをもっていない人が少数派のはずだ。

邦題が大胆にも、Atom Heart Mother の直訳で、これもなかなか刺激的なタイトルだった。「アトム・ハート・マザー」にするよりぜんぜんいい。原子心母……抜群の言語感覚とさえいえる。牛のジャケット・デザインといい、この邦題といい、劇的な音楽の内容とマッチしていて、じつにいいセンスをしている。東芝EMIだ。

1971年に発売になったシングル盤「吹けよ風、呼べよ嵐One of These Days」もよく売れた。ホラー映画のような恐怖をあおるロジャー・ウォーターズ のベースが、じつにいい。この邦題も、オリジナル・タイトルと何の関係もないが、音楽の内容をよく表現していて、いい。吹けよ風、呼べよ嵐!

ピンク・フロイドの登場とヒットは、ロックがもう可愛い、楽しいだけのティーンズ相手のポップ・ミュージックだけではなく(ビートルズやビーチ・ボーイズが先がけていたが)、アバンギャルドなアート作品を発表しても商業的に成功することを証明した。ロックは成熟したのだ。キングクリムゾンの『クルムゾンキングの宮殿』と『原子心母』は、ロック史のなかで重要なアルバムだろう。

Pink Floyd 吹けよ風、呼べよ嵐One of These Days                 http://jp.youtube.com/watch?v=wTrNQCYh70Y