ジョニー大倉さんが亡くなった。享年62歳という。
ジョニーはチャーミングなやつ、ミッキー・カーチス追悼 http://www.oricon.co.jp/news/2045109/full/
肺がん闘病中のジョニー大倉 奇跡の復活ライブ http://www.oricon.co.jp/news/2036315/photo/1/
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札幌の鈴木さんから、”江戸一” の佃煮の数々が届いた。札幌に出かけた弟に託してくれたのだ。
この東京・築地 ”江戸一” の貝と小海老の佃煮を肴に、ボージョレ・ヌーボー 2014 を飲んでいる。このワインは、タクシー会社に勤める、わが帯広三条高校の後輩の方が、昨夜、届けてくれた。「ワインが好きだと聴いてましたので……………」と。
東京・築地 江戸一 http://edo1-iida.p-kit.com/
『ブラック・レイン』、松田優作さんの存在感は、それは凄まじい(この撮影のときすでに、末期ガンだった。この映画は、”松田優作主演映画” といっても過言ではないだろうな)。だが、健さんの演技も素晴らしい。 The making of "BLACK RAIN" Part 2 http://www.youtube.com/watch?v=NDT6zP2W858 明日は、『ブラック・レイン』と『夜叉』を観ようかな。 『夜叉』予告編 http://www.youtube.com/watch?v=agSGos6fkZc 高倉健・田中裕子 夜叉 http://www.youtube.com/watch?v=Bkk0LYrMhYA
トゥーツ・シールマンス&佐藤允彦 『夜叉』サントラ http://www.youtube.com/watch?v=jJ5NEwbHcyc |
週に何度か花屋で、母のための花を買う。
(もう、三回忌法要が終わって3ヶ月もたつのだが、父が、「俺が死ぬまで家に置いておいてくれ」と、なんだかひどく強く言うので、母の遺骨は納骨してない。
わたしは、49日、あるいは一周忌……そうした、ある区切りで、けじめをつけて、母の供養のためにも納骨したいと思っていた……。母は、きっぱりとした人で、時間・約束にきちっとした性格で、妙な未練も嫌っていた。焼いて残った骨は、お墓にいれてくださいね、と。
余命を自覚して、抗がん剤治療も放射線治療も、自ら止めて、きちっと身辺整理をして、冷静に、みごとに自らの臨終をうけいれた人だ。
その母を看取って、49日には墓に納骨してやりたい、と思っていた。そして、小さい骨壺に分骨して、それを持って東京に帰ろう、と……。
しかし、父が、「なにも、あわてることはない。49日に納骨しなきゃならんなんて決まりはないんだ。俺が死んだとき、一緒に墓に入れてくれ」と、妙にヒステリックに言い張る。それを無視して強行することもできる。しかし、なんだか立場の弱い、もう行動力もない、年寄をいじめるようで気が引ける。
そんなわけで、母の遺骨は、いまも家にあって………わたしもまた、帯広帰省3回目の冬を越す)。
北国の、冬の日暮れは早い。鋭利な星空の下、散歩がてらの買い物で出る。帯広三条高校の前のスーパーまで20分くらいかな。顔の一部しか露出してないのだが、頬が痛い。マイナスの大気で、風が強いから、いったい、わがヤワ肌は、どれほどの寒気に耐えているのだろうか?
話はどんどん飛んでいったが、テーマは、花だった。
スーパーに行くと、入ってすぐの花屋さんで母のための花を買う。そして、時々、じぶんの仕事机に飾る花を買う。
今夜は、白い花を買った。
稀代の名優、高倉健さんのご冥福をお祈りします。
かってのレコード屋のわたしは、江利チエミさんの『テネシー・ワルツ』を聴いて、また、泣く。
高倉健さんと江利チエミさんは、1959年に結婚して1971年に離婚した。江利チエミさんの身内が起こした横領事件で、数億の借金をかかえ、映画スターの夫に迷惑がかからないようにと、チエミさんのほうから離婚を申し出た……といわれる。
江利チエミ テネシー・ワルツ http://www.youtube.com/watch?v=Ref05eIzNpI
そのあと、ふたりは、生涯独身だった。
江利チエミさんは、1982年、45歳で亡くなった。ライブショーで歌ったあと、自宅マンションのベッドで、酔って吐いた吐瀉物で窒息した、ともいわれる。孤独な死だ。翌日もライブのステージがあったという。
高倉健さんが亡くなった。
高倉健 網走番外地 http://www.youtube.com/watch?v=R38jDG07fPE
高倉健 唐獅子牡丹 http://www.youtube.com/watch?v=Lf2HqsCoA0w
江利チエミ 唐獅子牡丹 http://www.youtube.com/watch?v=W_EeKi426R8
任侠物のヒットからずいぶん経って、『夜叉』のとき、健さんはふたたび、彫り物ムンムンで登場する。こんどは、唐獅子牡丹ではなく、背中には、夜叉がいる。
この前の日曜日(16日)のこと、高倉健さんが10日に亡くなっていたとはまったく知らず、弟とワインを飲みながら、また、映画談議になった。「高倉健は、いいよね」と同感した。とくに弟は、子供のときから任侠映画が好きなので、健さんのコアな熱烈ファンなのだ。
わたしも、『駅』『夜叉』の健さんが好きで、「俺も、人生あとわずかだろうから、最後にグレて、方耳にピアスをして、方腕だけでも、夜叉の健さんみたいな和彫りの彫り物を入れようかな」と、半分酔った冗談で言った。
すると、弟は、「その、スキンヘッドの人相に合ってるし、今さら、誰も驚かないから、やったら…」というではないか。
とんでもなく寒くなってきた。(昼でももう、水たまりは凍ったまま、テカテカ、もう来年4月まで解けない)。
日が暮れてから、散歩がてら買い物にでる。完全武装の冬装備だ。二重のニットのネックウォーマー、ニット帽に、ダウン・ジャケット。下は、アウトドア作業用のタイツ、Gパン。(もう少し寒くなると、外に出るときは、ジーンズのズボンを脱いで、タイツの上は、キルティングのオーバーズボンにする。そのほうが空間ができて暖かい)。
これからまた、毎日のような雪かきと、零下20度の冬が、本格的にはじまる、と考えるだけで、なんだか、ひどく気分が滅入る。
そんな夜は、YouTubeで、なでしこジャパンの動画をみる。最高に楽しいのは、やはり、2011年のワールドカップ決勝、対アメリカ戦の歴史に残る名勝負、そして、PK戦だ。わたしは、なんど見ても感動して泣く。
当時、日本のテレビでは決して放映しないし、バカ騒ぎしたワイドショーの話題にもならなかっただろうが、女子サッカーらしい、じつに美しいシーンがある。
(知ってる人は知ってる、ドイツ・ワールドカップの名シーンだ。アメリカのメディアも、この宮間さんのスポーツマンシップを称えていた。日本のテレビ・新聞のマス・メディアは、反日本だから、こういう日本人らしい礼儀正しい行動は、報道しない)。
熊谷選手がPKを決めて、なでしこジャパンが優勝した瞬間、選手たちは抱き合って歓喜にわいた。そのとき、宮間あやさんは、自分のチームではなく、まず、戦った敵、落胆するアメリカ選手のところに行って、健闘をたたえて、ひとりひとりとハグをする。
宮間あやW杯優勝の瞬間 http://www.youtube.com/watch?v=syvFaWIydy4
このすぐあと、宮間さんの行動に返礼するように、アメリカチームの名ストライカー、ワムバック選手が、歓喜のなでしこジャパンのところにやってきて、日本のメンバーたちと握手をする。敗者が、勝者を祝福するわけ。
この戦いは終わった。「わたしらこそ最強だが、あんたらも小さい体でよくやったわ。凄いわよ。今日は負けた。でもね、次は手加減しないわよ。メッタメッタにしてやるわよ!」と、いう感じの握手だと、おもしろいな……………。(たしかに、翌年、ロンドン・オリンピックでアメリカに負けた)。
勝者が敗者の健闘をたたえてハグする。敗者が、勝者の勝利を祝って握手をする。こんな、騎士道、武士道みたいなことが、日本の男子サッカーにもあるのだろう?
サッカーをやって食べていける女子は、世界でも少ない。日本でも、なでしこリーグのチームの選手たちのほとんどは、仕事をしながら、学生をやりながらプレイしている。アメリカやイギリスやドイツに、女子のリーグはあるが、その選手たちがどれほどの収入があるのか知らない。でも、海外でも、リーグは解散しては、またできる、という状態だから、女子サッカーが苦戦しているのは、ヨーロッパもアメリカも、日本とそんなに変わらないだろうな。
日本では、ワールドカップで優勝して話題になるまで、日本女子代表の国内合宿や海外遠征費は、自己負担という過酷な世界だったようだ。親や職場に迷惑をかけている、という負い目をもちながら、ただサッカーが好きだ、という情熱でやっている。それが女子サッカーなんだ。ヨーロッパでもアメリカでも、世界中、ほとんど同じだろう。
もちろん、プロのリーグとして、いくつものチームが生きていくには、興行として商売が成り立たないとイカン。おもしろいから、楽しいから、お客はお金を払って観に来る。お客が集まって、スポンサー企業がコストに合う宣伝だと銭を出して、こうして、プロリーグは、成り立つ。現場に集客力がないと、ダメだ、基本的に。
日本の女子サッカー、なでしこリーグは、スタジアムでライブで見ると、ほんと、おもしろい。中学とか高校でサッカーに熱中したが、今はテレビ観戦だけのサッカー好きが見ると、目から鱗が落ちる。この、汚れたココロが洗われる。
「こんなふうに、一途にサッカーをやったこともあったな、俺も……………」とか、そして、「なんてタフで、巧いんだ、この、小柄な女の人たちは!」と、ひどく感動する。
だから、わたしは、サッカー好きの、お父さん、おじさん、お兄さんたちに、一度是非、なでしこリーグのライブのスタジアムに足をはこんでほしい、と、切に思う。ほんとうに、おもしろいんだよ。
宮間あやさんと川澄奈穂美さんの、ウォームアップ http://www.youtube.com/watch?v=jrD_avc-7jw
ウォームアップも、このふたりは見せてくれる。じつ楽しい。プロだ。キックオフ直前、スタジアムのお客が見てるなかでのウォームアップ。
レッド・ツェッぺリン You Shook Me http://www.youtube.com/watch?v=C5arxGd_GPQ
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木曜日。木曜日の楽しみは、週刊新潮と週刊文春の発売だった。
しかし………北海道・帯広では、土曜日の発売だ。やや30年ぶりくらいに、北海道に帰ってきて、まず最初、残念だったのは、この二誌の発売日が遅い、ということかな。
わずか中一日、3日の問題なのだが、一週間は7日しかない。この2日の遅れは大いなる問題なのだ、わたしには…………。なにか、むかしラーメン屋にあった、ちょっと手垢で汚れた、数週間前の週刊誌を読むような気分になる。
北海道にもどった当初は、本屋やコンビニですこし、目次を立ち読みしたりしたが、もうすでにネットでその記事は話題になっているので、とうぜん、その週刊誌は、もう買わない。
北海道にもどって2年と5カ月。もう、土曜日でも、それら週刊誌を本屋やコンビニで手にすることはない。完全に白けている。
ネット通販では、道東にいるという不便を感じず配達される。出版社の本の流通システムは、あまりに傲慢ではないかい? 印刷された週刊誌を、首都圏と同じ時間感覚で、日本全国に配送することは、今の時代、できるだろう? 自宅まで配達してくれ、といってるわけじない。コンビニや本屋には、自分の足で歩いて行くのだ。(わたしは東京で、この、印刷屋から全国に発送する現場仕事をしたこともある。派遣の日銭仕事だ)。
わたしがむかし関わっていたレコード業と、出版業、この末端の商売(つまり、レコード屋と本屋)は、知らない人は似た形態の商売だと思うらしいが、まったく違う。本屋は、委託された本を売る。レコード屋は、買い取りだ。
つまり、本屋は、店頭で売れた本の代金を問屋に支払う。売れなかった本は、返品する。レコード屋は、店頭にならべている商品(レコード)は、買い取って、メーカーに支払いをしたものだ。(7掛け、月末締め、翌月10日現金払い、というのが、レコードメーカーとの契約条件だった……かな‥‥‥‥)。小売業としては、利の薄い、非常に過酷な商売なのだ、じつは…………。
私立大学がいくつもあるような、若者の密度の高い街では、面白い商売ができるのかもしれないが、わたしは、帯広畜産大学と帯広大谷短期大学という、きわめて学生数が少ない街でレコード屋の店長になった。とうぜんだが、大事なお客さんは、中学生と高校生だ。
レコード・メーカーの営業マンには「店長、店長」といわれたが、店員は、わたしともうひとりの女性だ。am10-pm9、年中無休、という店だ。スタッフの女性が休みのときは、わたし一人、営業時間11時間、店に立つわけ。
トイレは、隣の果物店みよし屋さんに声をかけて、地階の喫茶ラタンのトイレに走る。昼飯・夕飯は、当時中学生だった、いま宮坂建設社長・宮坂寿文さんや、CLUOD社長・加藤光邦さんが、学校帰り店に立ち寄ってくれるのを待って、「すぐにもどるから、ちょっと店番してね」と、立ち食いソバやインディアンカレーに走る。
そんなことを3年くらいもやっていたろうか? ロックや日本のフォークソング(ニューミュージックかな)を売ろうとしていたのだが、北海道・帯広では、1968年からはじまったわたしの試みは、大苦戦だった。
BSのNHKとTBS、ふたつの番組で、ツェッペリンの『天国への階段』をみた。長く残る名曲なのはたしかだ。わたしは、ロバート・プラントの歌詞と、その歌声に、聴くたびに感動する。
レッド・ツェッぺリンは、わたしがレコード屋になったときにデビューした。(もちろん、ヤードバーズの進化形だ。)
このツェッペリンのファースト・アルバムのテスト盤は、衝撃だった。
わたしは、ガリ版刷りでDMハガキをつくった。(いまでは信じられないことだろうが、コピー機は無いし、印刷屋に発注するには高い。この時期わたしは、500枚以内のDMハガキは自分でガリ版で刷って、カラーの水性サインペンで1枚づつ彩色した)。
そして、このレッド・ツェッぺリン・ファーストのテスト盤をわたしの店のお客さんに聴かせた。発売前に、ファンファンという店を借りて、レコード・コンサートを開いたのだ。
いまでは信じられないだろうが、中学生、高校生がいっぱい集まって、楽しんでくれた……ただ、レッド・ツェッぺリンの新譜レコードを大音響で聴く、ということで……………。
レッド・ツェッペリン Good Times Bad Times http://www.youtube.com/watch?v=auYKJTv94Tg
ローラ・ニーロ Stoned Soul Picnic http://www.youtube.com/watch?v=N1CfSgsvqJE
今夜はなぜか、ローラ・ニーロを聴いている。
ローラ・ニーロ Eli's Coming http://www.youtube.com/watch?v=iX5AanHQS1g
ローラ・ニーロ Wedding Bell Blues http://www.youtube.com/watch?v=jRhAtCjPGcM
ローラ・ニーロは、1997年4月、癌で亡くなった。49歳だった。
ローラ・ニーロは、北海道・帯広駅前、7坪のレコード屋としてのわたしには、開店初戦の、苦戦の時代の思い出深いアーティストだ。 「好きなアーティストは、売れない……」という最初の苦い経験でもあった。そして、この人口が少ない狭いマーケット(帯広市は16万人、十勝全体で30万人)で、ポップ・ミュージックのレコードを売って、どうやって生きていくのか? 考えさせられた。
ローラ・ニーロのアルバム『イーライと13番目の懺悔』は、わたしがレコード屋になったばかり、1968年の発売で、レーベルはCBSソニーだ。わたしは好きなアルバムで、いろいろDMハガキを作ったり、ディスプレーを工夫したりして売ろうとしたのだが、ちっとも売れない。中学生だった宮坂くん(現・宮坂建設社長)が気に入って買ってくれたくらいだったろうか? 翌年、サードアルバムの『ニューヨーク・テンダベリー』が売れ出して、過去のアルバム『イーライと13番目の懺悔』『More Than a New Discovery』も、少し売れるようになってきた。「やっと、ローラ・ニーロの素敵さが、わかったのかい?」という気分ではあった。 ローラ・ニーロ And When I Die http://www.youtube.com/watch?v=XCvwDjgKPoc
ブラッド・スエット&ティアーズのヒット曲、 And When I Die は、ローラ・ニーロの曲だ。 ブラッド・スエット&ティアーズ And When I Die http://www.youtube.com/watch?v=vu7XWgczC7o
YouTubeでみつけたこの曲のカバーでは、オランダのシンガーソングライターでピアニスト、ジャクリーン・ホーフェルトの、女性3人のアカペラが、じつに素敵だ。 ジャクリーン・ホーフェルト And When I Die http://www.youtube.com/watch?v=LR-WBEohxAU
”たとえ私が死んでも、また、ひとりの子供が産まれ、世界はつづいていくでしょう”(死ぬことを、そんな、怖がることはないのよ)と、この時、二十歳前後のローラ・ニーロが歌う。そして、この50年も前の曲を、今の時代の、若い女性たちが歌う。いいね。
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きょう、北海道・千歳で、クレーン車が電信柱10数本を倒した、というバカな事故があった。
正確にいえば、事実は、”クレーン車”が起こした事故ではないようだ。
ユニック車を積みこんだ大型トラックが、そのユニックのブームを立てたまま、走り出して、道路を横断する電線を引っかけた。引っかけても気づかず、なお走行した。で、バタバタと12本の電柱を引きづり倒した。と、いう愚かな事故だ。
いまや電信柱が支えている、街を走る電線類は、電気の線だけじゃない。昔からのメタルの電話線、光のファイバーケーブル、ケーブルテレビのライン。ただ停電だけではなく、たとえ自家発電装置をもっていても、光ファイバーが切断されれば、事業所や工場、病院などコンピュータを使う仕事はアウトだろう。
この愚かなトラック運転手が引き倒した電信柱に、どれほどの人たちが依存しているか。それが”今”の時代だ。とくに北海道の暖房は、電気に頼っている。燃やすのは、灯油だが、それらのストーブ、ボイラーは、電気で駆動している。いまや北海道は、電気がないと越冬できない。
十年くらい前だろうか? 旧江戸川を東京湾に下るクレーン船が、ブームを立てたまま下流に向かって航行して、江戸川を横断する送電線をブチ切ったことがあった。江戸川区、江東区など人口密度地を長い時間、停電させた。
しかし、わたしは、建築、解体作業の現場で、この”ユニック”というトラックをみて、いつも『すごいな』と、感心していた。『これを考えて、製品にした人たちは、凄いな』という思いだ。
わたしは、レコード店とか、音楽のプロモートとか、建築の現場と無縁で生きていたが、中年になって、現業の世界で、この”ユニック”をみた。
トラックの運転手が、一人で、とんでもない重量物をつりあげて、積みこむ。これは、じつに画期的なことではにないかい? そのドライバーは、華奢な男でも、女性でも、できるんだ。手元の小さいリモコンで、操作ができる。
わたしは、東京で建設現場のガードマンのおっさんをやっているとき、この”ユニック”を考案して製品化した会社は、すごいな、と思った。(わたしは、音楽業界が長かったから、まったく、知らない世界だったのだ)。
古川ユニック http://www.furukawaunic.co.jp/
※この千歳の事故、北海道のテレビの映像では、ブームを立てたままのユニック車を、10トンくらいの大型トラックに積んでいるようにみえる。大型トラックの荷台の高さ+ユニック車+ブームの長さだ。これで、道路を横断する電線の下を通過できる、と考えたわけだ。この感覚は、まったく理解できない。普通じゃないな。
映画『ティファニーで朝食を』オープニング http://www.youtube.com/watch?v=1JfS90u-1g8
ヘンリー・マンシーニの曲は、みごとに美しい。
映画のオープニングでは、いまも、わたしには、最高だ。
しかし、歌詞は、わたしの英語力では、いまも、なかなか、不思議なのだ。
Moon river, wider than a mile
I'm crossing you in style some day
Old dream maker, you heart breaker
Wherever you're going
I'm going your way
Two drifters, off to see the world
There's such a lot of world to see
We're after the same rainbow's end
Waiting round the bend
My huckleberry friend
Moon river and me
オードリー・ヘップバーン Moon River http://www.youtube.com/watch?v=BOByH_iOn88
満月から欠けていく月だが、美しい月だ。快晴の北海道・十勝の夜空、星と月を見ながら、歩く。これが、楽しい。
ビージー・アデール Moon River http://www.youtube.com/watch?v=U3JPI4YtFiQ
昨夜は、まず温泉だった。
ふく井ホテル http://www.fukuihotel.co.jp/
札幌の鈴木さんが仕事で道東にくる、というので、楽しみしていた。宿は、帯広駅前・福井ホテルなので、「まず、地下の温泉に入って、二階のレストラン・バイプレーンで食事は、いかがですか」と、お誘いをうけた。
泊り客じゃないから、ホテルの社長・山田さん、フロントの秋元先輩の許可をもらって、大浴場を満喫した。
(帯広三条高校のこの両先輩は、同じ高校の卒業生という、そういう甘い先輩後輩関係ではないのだ。わたしが1年生のとき、お二人は3年生。同じ時間に、あの高等女学校からの旧校舎で学んだ、というだけじゃない。わたしらは、体育会系だ。
わたしは、山岳部でサッカー同好会。レコード屋やプロモーターで苦戦しているとき、わたしを気遣ってくれる先輩たちは、かっての帯広三条高校の山岳部で応援団、ラグビー部だった。
同じ三条高校だけじゃない。帯広柏葉高校の山岳部部長で応援団長の宮田さん、帯広南高校山岳部長の吉田さん、帯広工業高校山岳部長の中村さん。この先輩たちに、社会人になって、帯広駅前でレコード屋をやっているときも、気にかけていただいた)
そんなわけで、昨夜は、ふく井ホテルの温泉からはじまった。鈴木さんと、まさに、裸のつき合いなわけだ。
(もう30年以上も前、厳冬期、CBSソニーの高市さんも一緒に糠平温泉行ったことがあった。四国出身の高市さんが、ダイヤモンドダストをみて、ひどく感動していた。今も記憶にある。雪も降らない南国に生まれ育った人に、零下30度の凍結したカリカリの大気は、衝撃だったのだろう。
このCBSソニー初期の営業マン、高市さんと話していて、『二人の夏』の「愛奴」の浜田省吾、ソロ、いいですね、やってくれます、やりましょうか、と、わたしは、浜省のプロモーターになっていくわけ)。
愛奴 二人の夏 http://www.youtube.com/watch?v=zERXl7iB4Y0
また、浜省のはなしになってしまった。だが、今夜は、ピアノ・トリオのことなのだ。
わたしは、北海道にもどって、父親の介護をしながら、ときどき、夜の街に出る。東京にいるときは、二度と音楽に関わるな、と暮らしていた。だが、(つまり、わたしは、音楽愛好家とか、ましてやプレヤーの側じゃない。音楽は、お金を稼ぐための手段という、ビジネスサイドのプロだ。だった。そして、真摯で、いい音楽ほど売れない、というが、わたしの思いだった)
しかし、帯広にもどって、月に一度くらい、街に出ると、やはり音楽をやってる店で飲みたい。
その酔っていくB♭M7で、ナナちゃんという、素敵なピアニストに会った。古村敏比古さんの”疑惑のスタンダード”帯広で、ピアノを弾いている女性だ。
そのナナちゃんのピアノが好きで、それで、最近、なんだかピアノ・トリオをよく聴く。
ビージー・アデール Fly Me To The Moon http://www.youtube.com/watch?v=HsJavr4AI5M
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いま、ケニュー・ドリューを聴いたら……やらた楽しい。そして、たしかに、ジューク・ジョーダンもまた、ほんとうに楽しい。”おじじ”さんの指摘のとおり。わたしは、まだまだ、修行が足りない。
ジューク・ジョーダン No Problem http://www.youtube.com/watch?v=pFBVAeow
一つ年上の従兄が今年4月に亡くなっていた、と喪中ハガキが届いた。この従兄とは子供のころ、齢も近いのでよく一緒に遊んだ。大人になってからは、お互い社会人の違うサッカーチームに入っていたので、日曜日の早朝、なんども対戦した。
彼は、FWで、対するわたしは、右のバックだった。(バックスというポジションもわたしはメチャクチャすきなのだが、高校生のとき、一番好きなポジションは、左のウイングだった。だが、毎晩酔っぱらう25歳のときは、もう、若者と戦って、そのポジションを全うする自信は、なかった)。
そして、従兄の彼は、わたしの店で、ロックのLPレコードをよく買ってくれたものだ。
30年前、東京に出てからは親戚と没交渉なので、イトコ達たちの動静をまったく知らなった。一昨年、母の看病で北海道にもどり、母の危篤や葬儀を連絡して、ずいぶん久しぶりに親戚の消息を知った。(というより、わたしのほうが消息不明者だったのだが…………)。
父は、10人兄弟姉妹の末っ子だから、わたしにはたくさんのイトコ達がいた。だが、もう半分も残っていない。喪中ハガキの従兄の享年をみて『俺も、こういう歳なんだな…………一日一日、大事に生きなきゃな………』と、つくづく思う今夜であった。
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九州の森本くんから、「ニュースでは、北海道がひどい嵐のようですが、大丈夫ですか?」と、見舞いの電話をいただいた。ありがたいことだ。
十勝は、北海道のなかでは、気候的には平和なところだ。マイナス20度超の、寒さがちょっと、きついだけかな。札幌・小樽の日本海に面している豪雪地帯の土地と、この太平洋岸とは、まったく気候は違う。オホーツク海に接してる地域とも、また気候が違う。
ケニー・ドリュー・トリオ Run Away http://www.youtube.com/watch?v=xPrcFMEV-uA |