ニーナ・シモンは、60年代の公民権運動の象徴的な歌手だった。ブラック・パワー の闘士たちと行動をともにして、デモの先頭に立ち、集会でアジ演説をしていた。歌も、黒人の真の解放を歌った政治的な歌だ。
しかし、キング牧師の暗殺あたりから、公民権運動は、非暴力から急激に武闘化して過激になっていった。とうぜんのことだ。非暴力では、白人にやられるだけだ。若い黒人たちの我慢の限界はこえた。ブラック・パンサーのように武装した黒人政治集団がでてくる。
だが、こうなると国家は黙ってない。徹底的な弾圧がはじまった。民主主義国家アメリカでも、国家は、国家だ。公民権運動の指導者たちは、射殺されるか、逮捕されるか、国外に逃れた。ブラック・パンサーは、本部事務所がFBIの襲撃にあって、全員射殺された。ブラック・パンサー党の理論的なリーダー格だったエルドリッジ・クリーバーは、アフリカに逃げていた。ニーナ・シモンは、脱税容疑で国税の追求をうけた。
こうして、60年代のアメリカ黒人の公民権運動は終息した。黒人音楽のレコード・レーベル、モータウンやスタックスも急激に力を失っていった。ブラック・パワー、ブラック・イズ・ビューティフルの時代は終わった。アフロ・ヘアーが、陳腐になったように……。
こうして、70年代には、ニーナ・シモンの時代も終わった、と思われていた。もう、古い。重たい、暗い。
ところが、1985年、まずイギリスで、ニーナ・シモンの My Baby Just Cares for Me がヒットチャートにあがる。なんと、この曲は、1958年、ニーナ・シモンの最初のアルバムからのシングルカットだった。クラシックのコンサートピアニストをめざしていたニーナ・シモンが、アルバイトでピアノバーで弾いているころのアルバムだ。契約の意味もわからずレコーディングした曲は、音源を勝手に売られ、買ったイギリスのマイナー・レーベルが、勝手にシングルカットした。
これが、まず1985年、イギリスで売れはじめ、1987年には、ヨーロッパじゅうで大ヒットした。ドイツのポップス・チャートでは、No.1になった。30年も前に録音した曲が、ポップスのヒットチャートでナンバーワンになったのだ。
ブラック・パワーの、公民権運動の敗残者だったニーナ・シモンは、ヨーロッパで復活した。じぶんの孫のような若者がコンサート会場をうめた。復活し、栄光のまま、フランスで生涯を終えた。
ニーナ・シモンは、不思議な力のあるミュージシャンだ。このMy Baby Just Cares for Me もニーナ・シモンのオリジナルではないのだ。1930年に発表されたジャズのスタンダードだ。チャールストンの時代の曲だ。ニーナ・シモンのまえに、いろんな人のカバーがある。
60年代白人ロック・バンドで流行った、「悲しき願い」や「アイ・プット・スペル・オン・ユー」も、ニーナ・シモンのカバーだった。だが、これらもニーナ・シモンのオリジナルではない。黒人女性で最初のコンサートピアニストをめざしていたころのニーナ・シモンが、生活のために録音したレコードだ。ところが、これが白人の若者の心をゆさぶる。ニーナ・シモンは、クラブで歌っていた古い曲をレコードにしたのだが、ニーナ・シモンの解釈と表現が、白人の若者には、まったく新しい曲として新鮮にうけとめられた。それは、いまも。
いま、My Baby Just Cares for Me をスペインのアイドル歌手、ヴァージニア・マエストロは、50年もまえの、ニーナ・シモンのヴァージョンをもとに歌っている。
ニーナ・シモン My Baby Just Cares for Me http://www.youtube.com/watch?v=SE1VrzT6RrQ
ヴァージニア・マエストロ My Baby Just Cares for Me
http://www.youtube.com/watch?v=FHSqUk92mF0&feature=related
ジャック・ペニー・バンド My Baby Just Cares for Me http://www.youtube.com/watch?v=nvcfgRQ4_Pg
カーメン・ゴメス・Inc. My baby Just Cares for Me http://www.youtube.com/watch?v=k70bDAQOqHA&feature=related