Ommo's

古い曲が気になる

My Baby Just Cares for Me

2010-06-30 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                           

ニーナ・シモンは、60年代の公民権運動の象徴的な歌手だった。ブラック・パワー の闘士たちと行動をともにして、デモの先頭に立ち、集会でアジ演説をしていた。歌も、黒人の真の解放を歌った政治的な歌だ。

しかし、キング牧師の暗殺あたりから、公民権運動は、非暴力から急激に武闘化して過激になっていった。とうぜんのことだ。非暴力では、白人にやられるだけだ。若い黒人たちの我慢の限界はこえた。ブラック・パンサーのように武装した黒人政治集団がでてくる。

だが、こうなると国家は黙ってない。徹底的な弾圧がはじまった。民主主義国家アメリカでも、国家は、国家だ。公民権運動の指導者たちは、射殺されるか、逮捕されるか、国外に逃れた。ブラック・パンサーは、本部事務所がFBIの襲撃にあって、全員射殺された。ブラック・パンサー党の理論的なリーダー格だったエルドリッジ・クリーバーは、アフリカに逃げていた。ニーナ・シモンは、脱税容疑で国税の追求をうけた。

こうして、60年代のアメリカ黒人の公民権運動は終息した。黒人音楽のレコード・レーベル、モータウンやスタックスも急激に力を失っていった。ブラック・パワー、ブラック・イズ・ビューティフルの時代は終わった。アフロ・ヘアーが、陳腐になったように……。

こうして、70年代には、ニーナ・シモンの時代も終わった、と思われていた。もう、古い。重たい、暗い。

ところが、1985年、まずイギリスで、ニーナ・シモンの My Baby Just Cares for Me がヒットチャートにあがる。なんと、この曲は、1958年、ニーナ・シモンの最初のアルバムからのシングルカットだった。クラシックのコンサートピアニストをめざしていたニーナ・シモンが、アルバイトでピアノバーで弾いているころのアルバムだ。契約の意味もわからずレコーディングした曲は、音源を勝手に売られ、買ったイギリスのマイナー・レーベルが、勝手にシングルカットした。

これが、まず1985年、イギリスで売れはじめ、1987年には、ヨーロッパじゅうで大ヒットした。ドイツのポップス・チャートでは、No.1になった。30年も前に録音した曲が、ポップスのヒットチャートでナンバーワンになったのだ。

ブラック・パワーの、公民権運動の敗残者だったニーナ・シモンは、ヨーロッパで復活した。じぶんの孫のような若者がコンサート会場をうめた。復活し、栄光のまま、フランスで生涯を終えた。

                          

ニーナ・シモンは、不思議な力のあるミュージシャンだ。このMy Baby Just Cares for Me  もニーナ・シモンのオリジナルではないのだ。1930年に発表されたジャズのスタンダードだ。チャールストンの時代の曲だ。ニーナ・シモンのまえに、いろんな人のカバーがある。

60年代白人ロック・バンドで流行った、「悲しき願い」や「アイ・プット・スペル・オン・ユー」も、ニーナ・シモンのカバーだった。だが、これらもニーナ・シモンのオリジナルではない。黒人女性で最初のコンサートピアニストをめざしていたころのニーナ・シモンが、生活のために録音したレコードだ。ところが、これが白人の若者の心をゆさぶる。ニーナ・シモンは、クラブで歌っていた古い曲をレコードにしたのだが、ニーナ・シモンの解釈と表現が、白人の若者には、まったく新しい曲として新鮮にうけとめられた。それは、いまも。

いま、My Baby Just Cares for Me  をスペインのアイドル歌手、ヴァージニア・マエストロは、50年もまえの、ニーナ・シモンのヴァージョンをもとに歌っている。

   ニーナ・シモン My Baby Just Cares for Me  http://www.youtube.com/watch?v=SE1VrzT6RrQ

      ヴァージニア・マエストロ My Baby Just Cares for Me

http://www.youtube.com/watch?v=FHSqUk92mF0&feature=related

 

   ジャック・ペニー・バンド My Baby Just Cares for Me http://www.youtube.com/watch?v=nvcfgRQ4_Pg

   カーメン・ゴメス・Inc. My baby Just Cares for Me http://www.youtube.com/watch?v=k70bDAQOqHA&feature=related


帯広三条高校の校内登山は、佐幌岳

2010-06-29 | 日記・エッセイ・コラム

_d5y8716_1   (撮影、戸張良彦さん)

きのう、そばのことを書いたら、さっそく、戸張さんから、そばの花の写真を送っていただいた。これが写真家、戸張良彦さん撮影の、十勝のそばの花とそば畑だ。遠くみえる山は、佐幌岳。帯広三条高校のとき、校内登山で登った山だ。わたしの世代の帯広三条高校卒業生には、苦しい思い出の山だろうか。

_d5y8897 (撮影、戸張良彦さん)

三条山岳部のときにもなんどか行った。日高山脈でも、剣山と佐幌岳は手軽な山だ。「あしたも天気がいいようだから、午後から、剣か佐幌でも行こうか」と、土曜日、学校の廊下で山岳部の先輩に声をかけられ、出かけたものだ。

高校生で車がないから、帯広駅から根室本線の汽車にのる。(まだ日本は、そんなに車社会じゃなかったから、高校生でなくてもおなじかな。) 剣山には、御影駅で汽車をおりて歩いた。けっこう距離がある。これをアプローチといった。畑のなかの国道を歩く、単調なコースだ。ふざけながら、ハシャギながら歩くから、重い荷物を背負ってるが、これも楽しい。高校生だ。若い。これで、土曜の午後は終わるから、麓の無人の山小屋に泊まる。そこで、高校生だけの週末の酒盛りがはじまる。

                   

佐幌岳の場合は、新得の先の新内(にいない)という駅でおりた。旧狩勝トンネルを通る根室本線旧線だ。新狩勝トンネルができて、廃線になった。新内駅も、いまはない。商店があった駅前の集落も消え、森にもどっていることだろうか。新内に貯木場があった。

佐幌岳の帯広三条高校の校内登山は、AクラスからHクラスまで、ひと学年全員が参加する大遠足だった。きっとほとんど全員が山登りははじめてで、つらい思いをしたはずだ。あの佐幌岳の校内登山で、もう山はこりごりと、いらい山登りは絶対やらない、という人もいるはずだ。

佐幌岳は、1059メートルくらいの低山だが、やはり山は、山だ。北海道の山だ。きつい。北日高の最後の低いピークだが、日高は、日高だ。山頂と平地・帯広の気温差は激しい。ガスのなかに入れば、真夏でも、ひどく寒い。雨にでも降られて濡れると、凍死する危険もある。気温15度くらいでも、衣服が濡れた状態でいると、低体温症で人は凍死する。強い風が吹くと、さらに体温は下がって危険だ。(この低体温症は、短時間で脳にくるから、悲惨なことになる。幻覚で、泣き叫んだり、暑いといって裸になったり……低い山でも、山登りの人は、気をつけたほうがいい)

                      

山スキーをやる先輩たちは、冬も佐幌岳によく行っていた。いまは、サホロ・スキー場だ。(いま、2万5千分の1の地図をみると、ホテルやゴルフ場もある、ここがサホロ高原のリゾート地なんだ。知らなかったな)

誰もがじぶんの車で麓までいくいまは、杉沢に車を置いて、二ペソツも日帰りだという。

                    

長い狩勝峠を汽車が越えるときは、前後に機関車がついた。もちろん、SLだ。大学受験のときも、大学に入って、帯広に帰省するときも、このSLが引く汽車で狩勝峠を越えた。東京に行くには、函館から青函連絡船だ。トンネルができるのは、ずっとあとのこと。当時は、東京に行くなんてことは、もう命がけの大旅行だ。水杯で親兄弟と別れた。

いまでは、昼飯のそばを食べるためだけに車を飛ばす、隣の市の釧路にも、当時は、SLの汽車で行った。興奮で前夜は眠れない、これも大旅行なのだ。駅のホームまで親戚一同、見送りにきて、餞別までくれて、泣き別れだ。

遠いむかしだ。

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わたしは、高校生のとき、東京の予備校の夏期講座にやってきた。あのときは、何時間かかったろうか。30時間くらいか、もっとか? 狩勝峠を越えて函館までが長い。(あとから、わたしは、矢沢永吉や浜田省吾のコンサートを函館で主催していたから、よく帯広から函館までひとりで運転した。飯も食わず、トイレだけのノンストップでも、10時間では走れない。)

        

汽車が函館近くなると、国鉄の車掌が、車内で乗船名簿の用紙を配る。(あの当時の国鉄の車掌や国鉄窓口のれんちゅうは、横柄で、とんでもなくゴーマンだった。JRのいまでは、信じられないだろうが、あの時代の、接客する立場の国鉄職員は、まるでコメディ映画に登場する発展途上国の警官か、クーデターで権力を手にしたアフリカのワイロ軍人のようだった)

青函連絡船の洞爺丸の転覆事故で、ほとんどの乗客が死んでいたから、青函連絡船に乗るのは、客も、乗員も、命がけだった。乗船名簿の記入は、おたがい、形式ではなかったわけだ。

そうして、国鉄の車掌のゴーマンにたえて、汽車が函館駅につくとすぐに、青函連絡船に乗る人たちは走る。じぶんの荷物を両手でもって、全速で走る。なぜだ? 最初、うぶな田舎の高校生のわたしは、この全速疾走の意味がわからず、出おくれた。

帯広から東京・上野までの、国鉄乗車料金には青函連絡船の料金が含まれている。でも、それは船の三等席で、畳の大部屋だ。北海道からのほとんどの乗客は、その席に行きたい。日本はまだ貧しかった。

(船は、大昔から今も、客室料金ランクの幅は大きい。だからデカプリオ主演の映画『タイタニック』のような、階級差のラブ・ストーリーのフィクションにふさわしい舞台になる。客船はそういうものだ……青函連絡船の当時も、座席の激しい価格差があったのだ)

この畳の大部屋は、船底全体いくつのもあるのだが、客は多い。ひとりの寝場所を確保するのがたいへんだ。それで走る。わたしのように、北海道の奥地から出てきた無知な高校生は、出おくれる。寝場所もなく、揺れる通路に立って寝るか、デッキで津軽海峡の潮風にさらされて凍死するか。

東京からの、帰りの青森からの青函連絡船、わたしは、ちがっていた。荷物は全部肩からクロスにさげて、手ぶらで全速で走った。わたしは、乗客のトップの人たちと争って走った。いまでもバッグは、そうして持つ。肩からクロスしてかける。

              

きょうは、ほんとうは、'My baby just cares for me' という曲のことを書こうとしていた。けっこう、かなり、大きく脱線した。あすは、もどそう。

http://www.youtube.com/watch?v=FHSqUk92mF0&feature=related


十勝は、そばの産地

2010-06-28 | 日記・エッセイ・コラム

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数日まえ、北海道・帯広在住の写真家、戸張良彦さんと電話で十勝のそば屋のはなしになった。(※上の写真は、戸張さんの作品ではない)。

十勝平野は、そばの産地だ。そばの白い花で美しく畑が染まるときがある。だから、そばがうまい。友人の農家は、自家用のそばを栽培していて、この自家製・新そばが最高にうまい、といっていた。じつにぜいたくだ。

(とうぜんのことだが、そば粉も、小麦粉も、収穫したばかりの新鮮な実を乾燥して挽いたときが、最高にうまいのだ)。

そういうわけで、帯広には、うまいそば屋が多い。わたしは、そば粉100%のような、太いボソボソの黒い田舎そばより、白い更科の二八、細麺、ツルツルそばが好きだ。子供のときから、そば好きの父に連れられて、西2条南6丁目東仲通りの「更科」にいった。かしわそばが、好きだった。

(関東では、かしわそば、とはいわない。あれは、鳥南蛮(とりなんばん)か、鳥そばという。関西ではなんというのか? わたしは、北海道以外で、かしわそば、というメニューをみたことがない。鶏の唐揚げをザンギというのも北海道だけだ)

帯広のそば屋には、冷やしかしわ、という夏の二日酔いの日には最適な、うまいメニューもある。

(インターネットで調べると、九州・福岡には、かしわうどん、というのがあるようだ。わたしが小さいときの帯広で、鶏肉のことを、かしわ、かしわ肉、といったが、もう死語だろう。)

父は、更科そば好きなのだ、と思っていたが、自家用車を持つようになると(普通のサラリーマンが車を持つようになるのは、わたしが中学生のころ、東京オリンピックのころからだ)、父の車に乗って 郊外のそば屋に出かけた。父が一番好きだったのは、芽室の松久ニジマス園のざるそばだった。帯広農高の近くにあった田舎蕎麦にもよく連れていってもらった。

コンサートを主催する仕事をするようになって、東京からきたミュージシャンたちには、芽室の松久ニジマス園の、ニジマス料理フルコースのあと、シメのざるそばが、大好評だった。

        いまも、冷やしかしわ、は『丸福』だろうか  http://www.mytokachi.jp/dtl/guide/1516

        松久園 http://nijimasu.net/pc.htm

                          

帯広在住の写真家、戸張良彦さんの東京での個展、『十勝 rera 図鑑』は、7月18日~7月27日、銀座1丁目の柴田悦子画廊でひらかれる。

   戸張良彦さんのサイト http://www.y-tobari.jp/

   柴田悦子画廊へのアクセス http://www.shibataetsuko.com/goannai/goannai_top.html


'James Dean with a Guitar'

2010-06-27 | 日記・エッセイ・コラム

                          

'James Dean with a Guitar' といわれる、エディー・コクランが亡くなって、今年で50年がたつ。

                                                

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リッキー・ネルソン

    リッキー・ネルソン Poor Little Fool http://www.youtube.com/watch?v=9hrwJvdPtwI

リッキー・ネルソンの1958年のヒット曲に、Poor Little Fool がある。この曲の作者が、18才のシャロン・シーリーだ。当時のポップスの制作現場は、圧倒的な男社会だったから、このシャロン・シーリーとキャロル・キングは、女性ソングライターの偉大な先駆者だった。

リッキー・ネルソンに曲を提供したあと、シャロン・シーリーは、エディー・コクランと出会い、ふたりは恋におちる。そして、シャロンは、エディー・コクランのレコード制作に協力するようになる。

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1960年4月16日深夜、1月から続いた長いイギリスのコンサートツアーが終わって、エ
ディー・コクランとシャロン・シーリー、そしてジーン・ビンセントは、タクシーでロンドンに向かった。翌日の便でアメリカに帰るためだ。

ところが、ロンドン郊外で、タクシードライバーが運転を誤り、タクシーは街灯に激突する。ジーン・ビンセントは鎖骨を折り、シャロン・シーリーは打撲と擦過傷でふたりは命に別状はなかった。しかし、エディー・コクランは、脳に致命的なダメージをうけて、意識がもどることもなく、その日の午後、ロンドンの病院で亡くなった。21才だった。

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エディー・コクランは、十代半ばからプロのセッションマンとしてキャリアをつんだ、たぐいまれなギタリストだった。ドラムもベースも上手かった。そして、斬新なソングライターだった。エディー・コクランが、60年代のイギリスのロックにあたえた影響は計り知れない。コンサート会場にいた若者たち、アマチュア・ミュージシャンがアイドルにしたのはもちろんだが、ツアーに参加したプロのミュージシャンたちが、イギリスのロックシーンに、直接的にエディー・コクランのテクニックとソウルを伝えたのだ。

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エディー・コクランとジーン・ビンセントの、イギリスの隅々までを回るような長いパッケージ・コンサート・ツアーには、50年代のイギリスのバンドがいくつも共演していた。そして、エディー・コクランのバッグバンドにもイギリスの若者たちがいた。ツアーちゅう、かれらは、エディー・コクランのテクニックを学び、そして、次の世代、ジミー・ペイジやリッチー・ブラックモアやジェフ・ベックたちに伝えた。

のちに、トム・ジョーンズのツアー・ギタリストやダスティー・スプリングフィールド、クリフ・リチャードなどイギリスのレコーディングの数々に参加したジム・サリヴァンも、このエディー・コクランのツアーに参加していた。ジム・サリヴァンは、ジミー・ペイジたち若いミュージシャンと知り合い、友人になり、兄貴分だ。

ギタリストでシンガーのジョー・ブラウンも60年のこのツアーに参加している。のちにヴァン・モリソンのレコーディングやアラン・プライスと共演する、イギリスを代表するハモンド・プレイヤーのジョージィ・フェイムは、16才でピアニストとして、このエディー・コクランとジーン・ビンセントのイギリス・ツアーでプレイしている。

シャドーズのドラマーのブライアン・ネルソンは、このツアーで共演して、エディー・コクランから多くのドラムテクニックを学んだ、と言ってる。

のちに、無名時代のビートルズをバッグバンドにして、ドイツでレコーディングをした、トニー・シャリダンも、このエディー・コクランのツアーに出演していた。

ビートルズのジョージ・ハリソンは、リバプールの会場でこのパッケージ・ショーをみたと言ってる。きっとジョージだけでなく、ビートルズのほかのメンバーもみたことだろう。

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エディー・コクランが残したロックの名曲、「サマータイム・ブルース」と「カモン・エヴリバディ」、そして、「サムシング・エルス」は、60年代のロックバンドに愛された曲だ。

ジミ・ヘンドリックスは、じぶんの葬式には、エディー・コクランをかけてほしい、と常々言っていた。その望みどおり、ジミ・ヘンの葬儀には、エディー・コクランが流された。

                       
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      エディー・コクラン Summertime Blues  http://www.youtube.com/watch?v=MeWC59FJqGc
  エディー・コクラン C'mon Everybody  http://www.youtube.com/watch?v=LRjlZ8x2uQM&feature=related

       ザ・フー Summertime Blues  http://www.youtube.com/watch?v=FanTQ72IqDY&feature=related
   レッド・ツェッペリン  C'mon Everybody / Somethin' Else  http://www.youtube.com/watch?v=KMGSXIjU2Js

レッド・ツェッペリンだ。ロバート・プラントが、エディー・コクランの二曲、 C'mon Everybody / Somethin' Else  をメドレーで歌っている。ロバート・プラントが二曲目で、She is Somethin' Else と歌う She は、エディー・コクランと事故にあって生き延びた、シャロン・シーリーのことだ。エディー・コクランが、恋人シャロンのことを歌った曲なのだ。

シャロン・シーリーは、2002年、脳溢血で急死した。62才だった。ソングライターとして、グレン・キャンベルやレオン・ラッセルなどさまざまな人の曲を書いた。結婚もして、離婚もした。しかし、人の記憶では、偉大なロッカー、エディー・コクランのフィアンセだった、という生涯だ。

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Somethin Else: Ultimate Collection Somethin Else: Ultimate Collection


アメリカ vs ガーナ

2010-06-27 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                

ワールドカップ・サッカー・決勝トーナメント、今朝のアメリカ vs ガーナ戦は、見ごたえのある、いいゲームだった。延長戦の末、1-2でアメリカが敗れた。予選リーグの試合をゲーム終了寸前、土壇場の逆転で勝ってきたアメリカの、けっして諦めない不屈の闘志に共感して、応援してみていた。残念だ。アメリカのサッカーを、もうひと試合みたかった。

今夜は、ドイツ vs イングランド、そして、アルゼンチン vs メキシコがある。楽しみだ。


ニーナ・シモンは、<マイ・ハピネス>で号泣した

2010-06-26 | 日記・エッセイ・コラム
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天才児として、小さいときからピアノに才能をみせたニーナ・シモンは、ハイスクールを首席で卒業して、ジュリアード音楽院の奨学金をえて、ノースカロライナ州の田舎町からニューヨークにでている。

そのとき、結婚を誓っていたボーイフレンドを田舎に残して別れてきた。音楽のため、家族と支援してくれる人たちの期待にこたえるため、そして、じぶんの将来の成功のために、男を捨てたのだ。ニーナ・シモンは、長いあいだそれを後悔して苦しむ。そして、よせばいいのに、世界的な名声をえてから、田舎町に男を迎えにいくのだ。しかし、そこには子だくさんの、貧困にくたびれてボロボロの、見る影もない初老の黒人男がいた。

失った時はけっしてもどらない。こうして、田舎町からもどるとき、ボーイフレンドのエドニーといっしょに写ったハイスクールの卒業写真を、かれの母親が返してくれる。

                      

 「彼女はリムジンの窓越しに写真を渡してくれた。写真の中の若き日の私の姿が涙で見えなくなった。私はエドニーが好きだった歌、<マイ・ハピネス>を思い出し、心の中でそっと歌った。

      今日も疲れて日暮れになれば
           夜のとばりに心もふさぐ
           マイ・ハピネス
           きみがいてくれたらどんなにいいだろう

 それは私たちの歌だった。けれどもその後、私はその写真をなくしてしまった。たぶんデューク・エリントンの家に置いてきてしまったのだと思う。何年もたったある日、私は友だちとバルバドス島で休暇を楽しんいた。その時、突然近くにあった小さいトランジスタ・ラジオから<マイ・ハピネス>が聞こえてきた。私は赤ん坊のように泣き出してしまい、友だちが何を言っても涙が止まらなかった。しかし、その涙もあの卒業した年の夏から長い人生の旅を経てからのことだった。ニューヨークに向けて出発したあのころは、なぜかまだ私はエドニーと結ばれることをかすかに希望を抱いていたのである。」(『ニーナ・シモン自伝』 鈴木玲子訳 日本テレビ 1995年)

                          

ニーナ・シモンが、ラジオで聴いて号泣した、<マイ・ハピネス>は、だれが歌ったものだろうか。気になる。<マイ・ハピネス>は、40年代、50年代、60年代のアメリカで愛されたセンチメンタルな名曲だ。あの時代、レコーディングしてないシンガーはいない、というほどカバーがある。イギリス、ドイツでもカバー・レコードが多い。日本では、ビリー・ヴォーン楽団のインストルメンタルでも流行ったものだ。「なんだこの曲か、聴いたことある」と思い出すはずだ。

      コニー・フランシス My Happiness   http://www.youtube.com/watch?v=SPJCsmJq8oA&feature=related
      エラ・フィッツジェラルド My Happiness  http://www.youtube.com/watch?v=0W9oRxmdVkE

  ビリー・ヴォーン楽団 My Happiness   http://www.youtube.com/watch?v=Uu9Kdef9gqY&feature=related

                                                            

  ニーナ・シモン Everything Must Change http://www.youtube.com/watch?v=aNUlENWMjZc&feature=related


ママチャリ専門店が開店した

2010-06-26 | 日記・エッセイ・コラム

                     

すこし歩かないと街の様相が変わる。これは、景気がいいということなのだろうか。

近所にまたコンビニができた。ローソンの100円ショップが開店した。おなじ町内にセブンイレブンがあるし、そこらにコンビニがある。この百メートル以内に5軒はあるのだ。

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中古の車屋がいくつもあるのだが、そのひとつが閉店した。あとには、すぐに大きな自転車屋が開店した。ママチャリと子供の自転車、そして、電動自転車が専門だ。スポーツタイプの自転車は、一台もない。

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近所の八百屋では、男前豆腐店の「京都六角男前上ル」が目玉だ。

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ニーナ・シモン自伝

2010-06-25 | 日記・エッセイ・コラム

                                      

浦安中央図書館の書庫の蔵書で、『ニーナ・シモン自伝』(ニーナ・シモンwith ステファン・クリアリー著 鈴木玲子訳、日本放送 1995年)をみつけた。

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原題は I PUT A SPELL ON YOU 、ニーナ・シモンの、1965年のヒット曲のタイトルだ。

     ニーナ・シモン I Put a Spell On You http://www.youtube.com/watch?v=8Y99tXNxV5s&feature=related

「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」は、ニーナ・シモンのあと、アラン・プライス・セント、クリーデンス・クリアーウォーター・リバイバル(CCR)でもヒットする。オリジナルは、スクリーミン・ジェイ・ホーキンズの1956年の曲だ。

ニーナ・シモンは、強烈に破壊的なオリジナルの曲を洗練させて、1965年にヒットされ、よみがえらせた。ニーナ・シモンに続いて、イギリスの若いロックバンドが好んで演奏した。エリック・バードン&アニマルズ、アラン・プライス、ブライアン・フェリー、ジョー・コッカーなどさまざまなカバーがある名曲だ。

     CCR I Put a Spell On You http://www.youtube.com/watch?v=4R6nmKjcSeU&feature=related

     スクリーミン・ジェイ・ホーキンズ I Put a Spell On You  http://www.youtube.com/watch?v=orNpH6iyokI&feature=related

     ジョー・コッカー I Put a  Spell On You  http://www.youtube.com/watch?v=QZlUUswAvo8&feature=related

     ケイティ・メルア I Put a Spell On You http://www.youtube.com/watch?v=-lbHrQFXCgk&feature=related


ケイト・ラズビー、そして、キンクス

2010-06-24 | 日記・エッセイ・コラム

                         

今夜は、味噌サバをつくった。上出来だ。わたしは、ほとんど自炊、屋内アウトドアーライフの毎日だ。人と会うとき以外、外食はしない。

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ケイト・アンナ・ラズビーは、1973年生まれのイギリスのフォークシンガーだ。いま世界じゅうで開かれるフォーク・フェスティバルで、最大の目玉になる人気のシンガーなのだ。昨年、子供を出産して、再婚した。

  ケイト・ラズビー My Young Man http://www.youtube.com/watch?v=ZkA745lANAY&feature=related

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   ケイト・ラズビー Who Will Sing Me Lullabies http://www.youtube.com/watch?v=No5FkAmTaJY&feature=related

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   ケイト・ラズビー The Village Green Preservation Society http://www.youtube.com/watch?v=iRK6U5vIHCs&feature=related

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ケイト・ラズビーがカバーしている The Village Green Preservation Society は、キンクスが1968年に発表した曲だ。

日本でも、キンクスは、1964年のビッグヒット「You Really Got Me」で有名だった。このロックの名曲は、ハード・ロック・ファンの人は、ヴァン・ヘイレンの演奏で知っているだろうか。オリジナルは、キンクスの世界ヒットで、60年代の日本でも、アマチュア・ロック・バンドの定番のレパートリーだった。十代のころ You Really Got Me を演奏していた、いま60才すぎたジジイがたくさんいるはずだ。キンクスのこの曲は、強烈に十代の男の子の心を震わせたものだ。

Singles Collection Singles Collection

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    キンクス The Village Green Preservation Society http://www.youtube.com/watch?v=IScz-m4BD_0&feature=related
    キンクス You Really Got Me http://www.youtube.com/watch?v=dvyDWGF290M

      ヴァン・ヘイレン  You Really Got Me http://www.youtube.com/watch?v=-A3GPkjHMvg&feature=related

   ケイト・ラズビー オフィシャルサイト http://www.katerusby.com/

   キンクス ファンクラブ・サイト http://www.officialkinksfanclub.co.uk/

   ヴァン・ヘイレン オフィシャルサイト http://www.van-halen.com/

キンクスには、「Sunny Afternoon」や「Lora」のビッグヒットもある。「Lora」は、1970年の曲。日本にもおなじようなタイトルの曲「傷だらけのローラ」があるが、キンクスのヒット曲の影響だろうか。

     キンクス Lora  http://www.youtube.com/watch?v=Ixqbc7X2NQY&feature=related
  キンクス Sunny Afternoon  http://www.youtube.com/watch?v=1h1oRP7FfBw&feature=related

わたしは、この Sunny Afternoon という曲がとても好きだ。1967年(昭和42年)の曲だ。

夏の心地いい午後、日光浴をしながらビールを飲んでいたら、税務署の調査員が来てしまったよ、という歌だ。

キンクスの曲は、いつも皮肉と暗示と、ユーモアだ。おなじ時代のイギリスのバンドでも、ビートルズやストーンズとはすこしちがう。

Loraは、ローラという娘にナンパされたが、その女、ローラは、男だったという歌だ。日本の歌のローラとずいぶんちがう。


ヴァン・モリソンもすごい

2010-06-23 | 日記・エッセイ・コラム

Saint Dominic's Preview Saint Dominic's Preview
                                  

きのうは、エリック・バードンのことを書いた。エリック・バードンは、60年代イギリスのビッグシンガーだが、おなじ時代、アイルランドには、ヴァン・モリソンがいる。65才のいまも活躍している。世界的にはビッグスターだが、なぜか日本ではさほど売れない。

      ヴァン・モリソン Day Like This http://www.youtube.com/watch?v=BteIwbKU_iQ&feature=related

Them Featuring Van Morrison Them Featuring Van Morrison

ヴァン・モリソンは、1964年、ベルファストで結成したゼムというグループで、「グロリア」のビッグヒットをとばした。なぜかこれも日本ではそれほど売れなかった。いまでもよくカバーされるロックの名曲だ。

1966年、ゼムをはなれてソロデビューした。アイルランドを代表するブルーアイドソウルのシンガーソングライターだ。U2のまえに、ヴァン・モリソンこそ、アイルランドが誇るロックスターだったのだ。

      ヴァン・モリソン Someone Like You http://www.youtube.com/watch?v=tIrJK19dADI&feature=related

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ヴァン・モリソンは、日本ではさほど売れなかったが、北海道・帯広の、わたしのレコード屋ではよく売れた。

                                                               

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最近のヴァン・モリソン。

 
   ゼム 「グロリア Gloria」http://www.youtube.com/watch?v=hV0yATP4RZs&feature=fvw

   ゼム Here Come The Night http://www.youtube.com/watch?v=kWNPPmBa7HA&feature=related


「悲しき願い」、オリジナルは、ニーナ・シモン

2010-06-22 | 日記・エッセイ・コラム

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きのう深夜(今朝)、テレビで、ゴールディ・ホーンとスーザン・サランドン主演の「バンガー・シスターズ」をみていると、サントラに Please Don't Let Me Be Misunderstood 、「悲しき願い」がながれた。歌と演奏は、トレヴァー・ラビンだ。

                                 

トレヴァー・ラビンは、イギリスのプログレ・バンド、イエスでギターとボーカル、ソングライティングをやって、その後は、ハリウッド映画の作曲で活躍している。

 「バンガー・シスターズ」サントラ トレヴァー・ラビン Please Don't Let Me Be Misunderstood http://www.youtube.com/watch?v=jYHurjrYKzk 

Trevorrabin

Please Don't Let Me Be Misunderstood は、邦題「悲しき願い」でヒットした。50才前後の人は、デスコ・ヴァージョンを覚えているだろう。フランスのミュージシャンがつくったグループ、サンタ・エスメラルダのカヴァーの世界ヒットは、1977年(昭和52年)のことだ。

それにしても、このサンタ・エスメラルダのボーカルは、とんでもなく歌がうまい(サックス・プレヤーが本業だったらしい。このビッグヒットで人生は変わったようだ)。いまでは古いが、アレンジも、ただものではない。みごとな、ラテン・デスコだ。

     サンタ・エスメラルダ Please Don't Let Me Be Misunderstood http://www.youtube.com/watch?v=t8NVQ0iao0g

Don't Let Me Be Misunderstood Don't Let Me Be Misunderstood

しかし、「悲しき願い」の最初の世界ヒットは、1965年(昭和40年)、イギリスのグループ、アニマルズだ。もちろん、ヴォーカルは、エリック・バードン、ベースは、ジミ・ヘンを世界デビューさせた名プロデューサー、チェス・チャンドラーだ。下の写真、中央の小柄の人が、エリック・バードン、右端の長身が、チェス・チャンドラー。

45年もまえだが、ファッションもヘアースタイルも、ぜんぜんいまに通用する。イギリスのこの時代の、こういう感じが一番好きだ。

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そして、アニマルズの「悲しき願い」もオリジナルではない。オリジナルは、その前年1964年、ジャズ・ピアニストでシンガーの、ニーナ・シモンのために書かれた曲なのだ。

「Please Don't Let Me Be Misunderstood 悲しき願い」が、A面一曲目にはいったニーナ・シモンのアルバムは、コマーシャルな成功はなかった。だが、アニマルズのカバーが大ヒットして、ニーナ・シモンのオリジナルのすばらしさが世界じゅうで知られることになる。

Ninasimone

ブロードウェイ・ブルース・バラッズ(紙ジャケット仕様)

     アニマルズ Please Don't Let Me Be Misunderstood「悲しき願い」http://www.youtube.com/watch?v=d2FT4FprxDg

     ニーナ・シモン  Please Don't Let Me Be Misunderstood「悲しき願い」 http://www.youtube.com/watch?v=9ckv6-yhnIY&NR=1&feature=fvwp

                   

「悲しき願い」は、日本でも、日本語の歌詞がつけられて、尾藤イサオの歌でヒットした。

     尾藤イサオ 「悲しき願い」 http://www.youtube.com/watch?v=H6r8xA6ITaw&feature=related

                            

エリック・バードン、、2006年のジャズ・フェスでも「悲しき願い」を歌っている。これがとてもいい。泣きそうになる。
   エリック・バードン Please Don't Let Me Be Misunderstood  http://www.youtube.com/watch?v=g32A8tBLO6c&feature=related

Ericburdonburdon2009

エリック・バードンは、いま、69才。チェス・チャンドラーは、1996年、57才で亡くなった。

ニーナ・シモンは、2003年、パリで亡くなった。70才だった。ニーナ・シモンは、黒人差別の激しいアメリカを嫌って、パリに住み、ヨーロッパ、イギリスを中心に活動していた。日本にもなんども来て、ファンが多かった。

わたしは、ニーナ・シモンが好きだ。ニーナ・シモンの歌を、聴いてほしいな。http://www.youtube.com/watch?v=h8tuTSi6Sck

      


アルバム制作の協力は……

2010-06-22 | 日記・エッセイ・コラム

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先日記事に書いた「敦賀くんのアルバム制作」協賛金募集は、いったん、中止します。はっきり内容が決まって、アルバム完成の明確な日程がみえてから、発表しましょう、という敦賀くんとテツヤくん、ふたりのごくまともな提案です。協賛金というのもやめましょう、と。そんなわけで、音がかんぺきにできたときに、また、記事にします。

この敦賀くんの写真は、戸張さんが撮影しました。


自動車の生産現場は、過酷だ

2010-06-22 | 日記・エッセイ・コラム

                                                   

マツダの広島工場で、悲惨な事件があった。元派遣社員が、工場構内で社員たちをひき殺したのだ。逆恨みなのか? 動機がなんであれ、犯人に同情の余地はない。

だが、自動車製造現場の正社員と非社員との格差はすさまじい。それは階級社会という甘いものじゃない。日本に現存する、奴隷制度だ。

わたしは、三菱自動車東京工場で6年間、期間社員の組立工をやっていた。正社員、わたしのような期間社員、そして、派遣会社から派遣された工員、この3つの階級の違いは、歴然としている。人種がちがう、人間がちがう、動物の種がちがう。露骨だ。最下層のわれわれは、現場で人間扱いされない。

秒刻みで管理され、肉体を酷使する生産ラインの労働は、あまりにも過酷だ。わたしは、スポット溶接工を辞めて十数年たつが、いまも、両手の腱鞘炎の後遺症から解放されない。一日じゅうスポットガンを持っていた、左上腕のシビレと痛みは、毎年激しさが増していく。

                     

(また正社員たちは、キャリアかノンキャリか、学歴で明確に階級が分かれている。上級将校、将校、下士官、兵士、まさに軍隊だ。これもあわれだ。そして、われわれは、占領地で徴用された、奴隷兵だ。

だが、労働は過酷だったが、ともかく、仮にもわたしは、三菱自動車の社員だった。保険も年金も、社員とおなじ待遇だ。日当は悪くなかったし、満期慰労金というボーナスも6ヶ月ごとにでた。帯広で面接をうけて採用になったから、帰省の旅費もでた。食費は、会社から援助があったから、社員食堂で食べれば、3食、月9千円くらいで済んだ。三菱自動車が借り上げたマンションの寮も、タダだった。

しかし、派遣の工員は悲惨だ。どれほど派遣会社に中を抜かれるのか。手取りがいくらか、かれらは話そうとしない。高い寮費も抜かれていた。健康保険や年金がどうなっているのかも、疑問だった。)

                   

景気の動向をみて、生産量は毎日調整され、奴隷の数も調整される。まず最初になんの前ぶれもなく、派遣の工員が切られる。あすは、現場はありません、と、派遣会社からの一言だ。つぎに、われわれ期間社員がやられる。6ヶ月の契約は、3ヶ月で打ち切ります、と。

ロシアでも、アメリカでも、百年以上まえになくなった奴隷制度が、この日本に残っている。たいがいの若者は、その現実に驚いて、辞めて行く(根性もないのだが)。そうとうタフな神経で、強靭な肉体のやつか、借金まみれで、もうどこにも行き場のない、無残なやつが、耐えて奴隷に甘んじるわけだ。そうして、日本の自動車は作られている。                          

それでいいのだろう。わたしは、それを否定するつもりはない。どだい、人生は平等ではないのだ。落伍者、敗者と、勝者がいる。それでいいだろう。わたしは、毎日なんども腹を立ててはじぶんをおさえ、絶望しては気持ちを立て直して、奴隷に甘んじて、6年耐えた。敗残者だからだ。


江戸川区立葛西図書館は、月1回の休み、夜9時半まで開館

2010-06-22 | 日記・エッセイ・コラム

                              

本八幡からの帰りは、JR総武線じゃなく、都営地下鉄新宿線にのった。本八幡から3つ目の船越駅でおりて、すこし歩くと、江戸川区立葛西図書館がある。きのうは、第3月曜日だったから、江戸川区の図書館は開館している。葛西図書館は、第4月曜日だけが休館日。月に1日しか休まない。それに、午後9時30分まで開いている。

                    

最近、ここで、江戸川区立図書館のカードをつくった。江戸川区民でも、東京都民でも、職場が江戸川区にあるわけでもなく、隣の千葉県市川市の住民ですが、貸出カードをつくれますか? とダメモトで電話してみた。「なんの問題もありません。隣接する自治体の方は、利用者登録ができます。住所を確認できるものをお持ちください」という。そんなわけで、江戸川区民とおなじ条件で利用できるカードを持っている。

                   

隣の市、浦安市の図書カードを持っているが、利用制限がある。浦安市民が5冊借りられる本は、2冊借りることができる。CD、DVDは借りられない。持ち込みのパソコンをつかえる閲覧席は利用できない。でも、わたしのところから浦安中央図書館は、30分くらいで便利だし、古い本でも読みたい本は、たいがい書庫にある。しかし、浦安市も、市川市も、図書館は毎週月曜日に休む。

                          

ところが、東京都江戸川区立図書館は、千葉県市川市の住民も、区民とおなじ、10冊の本とCDとDVDが借りられる。江戸川区立図書館は、7つあって、葛西図書館は、月1度の休みで、夜9時半までやってる。ここも わたしのところから、歩いて30分くらいだ。

                        

江戸川区立中央図書館には、わたしの読みたい、たいがいの本がある。夜中に、じぶんのパソコンから検索して予約すると、数日ちゅうに、葛西図書館で借りることができる。中央図書館から葛西図書館に届けられて、連絡の電話がくる。わたしの場合、読みたい本、調べたい本は、新刊ではなく、古い本だ。

                       

ある区立図書館にない本でも、ほかの区立、都立、あるいは県立図書館とのあいだに「相互貸借制度」があるので、一般に出版された和書で、図書館で借りられないものは、ほとんどない。わたしは、40年まえに北海道・帯広の小さい出版社でだした、私家版のような本を、検索して帯広市立図書館の蔵書にみつけ、渋谷区の図書館に取り寄せてもらって読んだことがあった。


本八幡駅前は、はじめてなのに、なんだかなつかしい。

2010-06-21 | 日記・エッセイ・コラム

                           

総武線の本八幡駅でおりた。市川市役所にいくためだ。わたしの住んでいるのは、市川市のはずれ、浦安市との境で、近所の市役所の支所でたいがいのことは、事足る。だから、遠い本所にいったことはなかった。

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あすの、歯医者の予約をとった。もう何年も歯医者にいってない。診療カードはあるが、また保険証をみせて、初診料を払わなくちゃ、と思い、いつも財布に入れている保険証カードをだしてみた。

ギョッエーィ! 有効期間が過ぎている。いつも、送ってくる保険証カードを財布のなかの古いカードと交換していた。ついこのまえ、新しいカードが郵送されて交換した、ような気がしていた。もう、そんなに月日がたったのか……。歯医者以外、健康保険証をつかうことがない。まったく気づかずにいた。(ひょっとすると、郵送されていたのを、酔って捨ててしまったのか?)

あわてて、市役所の国民健康保険課に電話すると、本八幡の市役所まで来て手続きをしてください、という。そんなわけで、出かけていった。わたしのところからは、東京メトロ東西線で西船橋にでて、総武線に乗り換え、ふたたび東京方面にむかう。けっこうな旅なのだ。

市役所では、じつに親切に対応してくれて、新しい保険証を発行してくれた。あす、最後の砦だった奥歯を抜く。

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本八幡の駅におりるのは、はじめてだ。なんだが、わたしが育った町の駅前のようで、なつかしい感じがした。ちょうどこのくらいの、街のにぎわいだったような気がする。

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わたしの育った北海道・帯広市は、いまは、鉄道が高架になって駅舎も変わり、街は閑散としていて、歩く人も少ない。北海道はどこも、完全な車社会だ。町内のタバコ屋にいくにも、歩かない。大きな駐車場のある、郊外の大型店がにぎわう。ドーナツ化現象で、駅前周辺の古い商店街は、ゴーストタウン化していく。日本じゅう、地方都市はみんなおなじだ。

北海道の公共交通の路線は、どんどん廃線になって、バスも鉄道も、幹線しか走ってない。田園地帯を結ぶバスなど、一日数便しかない。だから、じぶんで車を運転しなくては、ふつうの生活ができない。街のなかのバスも、ここらのようにひんぱんにやってこない。