Ommo's

古い曲が気になる

狭山のGK、有馬静佳さんがとてもいい

2012-04-29 | 日記・エッセイ・コラム

                        

 なでしこリーグ第3節、INAC神戸レオネッサ対ASエルフェン狭山FCも、おもしろかった。狭山は、昨年第8位、今季2試合は完敗、無得点だ。リーグ下位チームと、前期無敗で優勝したチームの試合だ。ワールドカップ優勝の主要メンバーがいる神戸。いっぽう、狭山は、働きながらサッカーをやっている人たちのチーム、まさにフット・ボール・クラブだ。

 だが、きょうは王者・神戸を相手に、3-2の大健闘だった。エルフェン狭山のデフェンスもフォワードもすばらしかった。とくに、神戸の怒涛の攻撃を3点におさえたゴールキーパー有馬静佳(しずか)は、みごとだ。3失点は、どれもキーパーのミスとはいえないゴールだった。どんな有能なキーパーでも反応できないシュート・コースとタイミングというものがある。

 いっぽう、INAC神戸のキーパーは、緊張感を持続するのがむずかしいのではないだろうか。王者・神戸が、ひたすら攻める一方的な試合だ。きょうの場合も、神戸のシュートは、26。相手の狭山のシュートは、6 だ。神戸のコーナーキックは、12。狭山は、2。

 これでは、神戸のキーパーは、ゲーム感覚が鈍化して突っ立てるだろう。きょうの狭山の2ゴールは、神戸のキーパーがおさえることができた失点だった。

 なでしこジャパン・日本代表のGKには、こういう下位チームで、怒涛の攻撃をうけてゴールを守っている、有馬静佳のような選手も招集してはどうだろう? スピードも勇気もある。飛び出しのセンスは抜群だった。高く跳ぶし、デフェンス陣への指示も的確だ。うまい。

 いまはプロとして生活を保証されている王者・INAC神戸と、全員が働きながら、あるいは大学に通いながらのエルフェン狭山とは、まったく違う環境にある。つまり、プロとアマチュアのチームが混在している、というのが、いまの、なでしこリーグのおもしろいところでもあるのだろう。

 エルフェン狭山の選手は、昨年まで月会費を払っていた。今年はそれが無くなったのが嬉しいという。ワールドカップ優勝で注目されるまで、遠征費や合宿の費用は、選手の自己負担のチームがほとんどだったのだ。日本代表チームに招集されても、職場や家族に迷惑をかけるからと辞退する女性たちがいた、というのが女子サッカーの現実なのだ。

 日章旗をつけたユニフォームも自費、海外遠征も自己負担という、信じられないことを日本の女子サッカー選手は耐えてきた。ほかのオリンピック種目の競技では考えられない劣悪な環境でサッカーをつづけているわけだよ。

 そういう仕打ちをしながら、ワールドカップで優勝すると、世間も国も、手のひら返し。菅直人は、首相官邸に呼びつけて、政治ショーに利用しようとした。笑うよな。(そのあと、民主党政府は、女子サッカー振興の予算と、日本代表のために金をつくったのかね?)

           

 


グレゴリオ・アレグリの「ミゼレーレ」

2012-04-25 | 日記・エッセイ・コラム

 

 きのうはシンディ・ローパーがやってきたというので、「タイム・アフター・タイム」を聴いたが、今夜は、なぜか17世紀の宗教歌を聴いてる。(ユーチューブはじつに便利だ。聴きたい曲を瞬時にさがすことができる)。

 「ミゼレーレ」は、イタリアの作曲家、グレゴリオ・アレグリ(1582~1652)が作曲した合唱曲。

   キングス・カレッジ聖歌団 「ミゼレーレ Miserere Mei Deus」 http://www.youtube.com/watch?v=jZL3POaATn8&feature=related

 この曲の説明は、イギリスの作曲家、ハワード・グッドールの著書『音楽史を変えた五つの発明 BIG BANGS』(松村哲哉訳 白水社 2011年)の、「間奏曲 ヴァチカンの秘密」の章がおもしろい。ちょっと長いが引用しよう。

音楽史を変えた五つの発明

                

 1640年頃、イタリアの作曲家グレゴリオ・アレグリは九声部からなる合唱曲『ミゼレーレ』を作曲した。この曲はあらゆる宗教合唱曲のなかでもとりわけ名高く、そして美しい曲だと誰からも認められていた。それは、なぜだろうか。

 『ミゼレーレ』は、「灰の水曜日〔受難節の初日〕」の詩篇(主よ、憐れみたまえ、御慈しみをもって)に付けられた曲であり、ローマ教皇ウルバヌス八世お膝元の礼拝堂に雇われていたアレグリが作曲した。対抗宗教改革〔十六世紀頃行われたカトリック教会の改革運動。反宗教改革〕が最も盛り上がっていた時期だ。合唱はメインのグループと少人数のグループ(通常メインの合唱から離れた位置に配される)に分かれ、それぞれが詩篇を一行ずつ交互に歌い上げる。少人数のグループで注目すべきはボーイ・ソプラノのためのソロ声部がふたつ用意されていることで、そのうちのひとつは高音域へと駆け上がり、最も高いところでは「C」に達する。このフレーズによって『ミゼレーレ』は独特な雰囲気を持つ曲となった。そんな曲は知らないという人も、おそらくどこかで聞いたことがあるはずだ。

 高い「C」は非常に劇的に響くため、聴く者に畏敬の念を起こさずにはおかないが、『ミゼレーレ』が伝説的な曲となったのはそのためではない。この神聖にして優美な曲は人間の精神にはたらきかける力があまりに大きく、全能の神に近い力を持っているとして、ローマ教皇からその奉唱に制限がくわえられたからだ。『ミゼレーレ』を歌えるのはシスティーナ礼拝堂に所属する教皇個人の合唱団のみ、それも毎年一回、復活祭前の聖週間に限られた。奉唱会は神秘的な儀式を執り行なうような雰囲気のなかで行われた。その時を除いて楽譜は、ヨーロッパ中の好奇心旺盛な音楽関係者の目をさけて、ヴァチカンの金庫に厳重に保管された。厭世的な現代にあっては、たったひとつの宗教曲が人心を惑わせるものとして危険視される世界など、なかなか想像できないかもしれない。しかし、アレグリの『ミゼレーレ』については実際にそれに近いことがおきたのだ。

 毎年何人もの作曲家や音楽家がこの伝説の名曲を聴くためにローマへと旅立った。そして失望を覚えた者はほとんどいなかった。曲を聴いた全員が、演奏が始まるまでのみごとな演出……ろうそくの灯りがひとつひとつ消され、聖職者全員が暗闇のなかでひざまずく……に感銘を受けた。また、最初の百年間は、高音部の装飾音を歌うカストラートの華やかな技巧にも同じくらい感動したにちがいない。1788年、ゲーテは『イタリア紀行』のなかでこう書いている。「システィーナ礼拝堂で聴いた音楽は想像を絶する美しさだった。なかでも『ミゼレーレ』は格別だった(……)」また、曲がつくられてから二百年が過ぎた1831年6月、メンデルスゾーンは次のように記している。

 (……)聖歌の一節が唱えられるたびに、ろうそくが一本消されいく。(……)合唱全体が、フォルティッシモで新しい聖歌を朗唱する。ニ短調の「ザカリアのカンティクム」だ。(……)それから最後のろうそくが消される。教皇が席を立ち、祭壇の前にひざまずく。全員がそれにならい、「天にましますわれらの父よ……」と主の祈りを捧げる。その直後 、『ミゼレーレ』がピアニッシモで始まった。それは私にとって儀式全体のなかでも最高に美しいと感じた瞬間だった。(……)『ミゼレーレ』は合唱の静かな和音で始まり、やがてふたつの合唱が交錯する部分へと展開する。その冒頭部分、とりわけ最初の一音が私に強烈な印象を与えた。一時間半にわたり、ほとんど転調することのないユニゾンの聖歌ばかりを聞かされたあとで、しばしの静寂を破ったのは壮麗なハーモニーだった。私は衝撃を受け、音楽の力を深く感じずにはいられなかった。(……)

                

 ローマ教皇は特別な贈り物として、楽譜の写しをふたつだけつくらせた。ひとつはレオポルド一世〔ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝。在位1658年ー1705年〕に、そしてもうひとつは18世紀に入り、ポルトガル王に贈られた。それでも『ミゼレーレ』が門外不出であることに変わりはなく、命令は細心の注意をもって守られた。しかしそれも1770年、音楽界とキリスト教会を震撼さえる事件が発生するまでのことだった。14歳の早熟な少年が一回耳にしただけで全曲(約13分)を暗譜し、正しく譜面に書き写してしまったため、楽譜が一般の人々の目に触れるところとなったのである。かくして同曲は通常のレパートリーに取り込まれ、その後は聴衆に熱狂的な支持を受けて、広く演奏されるようになった。念のために付け加えておくと、この早熟な少年とは、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトである。

                      

   ザ・シックスティーン 「ミゼレーレ Miserere Mei Deus」http://www.youtube.com/watch?v=fcWo1hKHu40

 

Allegri Miserere

                           

      ザ・シックスティーン O Magnum Mysterim http://www.youtube.com/watch?v=pjuZL6v2H9A

   ザ・シックスティーンが歌う O Magnum Mysterim は、スペインの作曲家、トマス・ルイス・デ・ビクトリア(1548~1611)の曲。ザ・シックスティーンは、ハリー・クリストファーズが1977年に結成した、イギリスの16人の合唱団。古典の宗教合唱曲がレパートリーだ。

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    ザ・シックスティーン  オフィシャルサイト http://www.the-sixteen.org.uk/


「タイム・アフター・タイム」

2012-04-24 | 日記・エッセイ・コラム

               

 シンディ・ローパーの来日がニュースになっていた。親日家として知られるシンディ・ローパーは、昨年の震災直後から東北を訪れていた。

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 シンディ・ローパーは、1984年(昭和59年)の「ガールズ・ジャスト・ウオント・トゥ・ハヴ・・ファン(ハイスクールはカフェテリア)」と「タイム・アフター・タイム」の大ヒットで日本でも知られるようになるのだが、そのまえから洋楽ファンには、ブルー・エンジェルのヴィーカルで注目されていた。

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   シンディ・ローパー Girls Just Want To Have Fun http://www.youtube.com/watch?v=0tUfCz99Dpk

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   シンディ・ローパー Time After Time http://www.youtube.com/watch?v=VdQY7BusJNU&feature=related

 "Girls Just Want To Have Fun " と"Time After Time" は、シンディ・ローパーの最初のソロ・アルバム"She's So Unusual" からのシングルカットだ。ファーストアルバムから4曲の大ヒットをだした幸運なソロデビューだが、この成功を得るまで、さまざまな職につなぎながら、諦めずに歌ってきた、下積みの長い苦労人だ。1953年の生まれだから、このアルバムをレコーディングしたとき、30歳になっている。

She's So Unusual

   シンディ・ローパー True Colors http://www.youtube.com/watch?v=tbZDjnWtK1A&feature=related

     シンディ・ローパー オフィシャルサイト http://cyndilauper.com/

 

Robbw300

 ロブ・ハイマン

                           

 名曲「タイム・アフター・タイム Time After Time 」を、シンディ・ローパーと共作したのは、フーターズのロブ・ハイマンだ。

      フーターズ Time After Time http://www.youtube.com/watch?v=wP_dH3OKUnU

Johnny B.

   フーターズ Johnny B. http://www.youtube.com/watch?v=QCL3chz8lns&feature=related

One Way Home

   フーターズ Karla With A K http://www.youtube.com/watch?v=-p2HgHJEZ5w&feature=related

30th Anniversary

    フーターズ  オフィシャルサイト http://www.thehooters.net/

    ロブ・ハイマン  オフィシャルサイト http://www.robhyman.com/


「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」

2012-04-23 | 日記・エッセイ・コラム

 

 ニーナ・シモンの自叙伝 "I Put A Spell On You" を読みはじめた。

I Put A Spell On You: The Autobiography Of Nina Simone

              

      ニーナ・シモン I Put A Spell On You http://www.youtube.com/watch?v=xDprYZ-tgiA&feature=related

 ニーナ・シモンの「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」をレコードで聴いたのは、1968年(昭和43年)のことだ。衝撃だった。

I Put a Spell on You

   ニーナ・シモン I Put A Spell On You (live) http://www.youtube.com/watch?v=klIcu7r46Ig

 ニーナ・シモンが歌う、ジャック・ブレルのシャンソン「行かないで Ne Me Quitte Pas 」も、"Feeling Good" も、音楽史に永遠に残る名唱ではないだろうか。

  ニーナ・シモン Ne Me Quitte Pas(行かないで) http://www.youtube.com/watch?v=0Q7w7gk1JhQ&feature=related

    ニーナ・シモン Feeling Good http://www.youtube.com/watch?v=h8tuTSi6Sck


バグパイプ

2012-04-22 | 日記・エッセイ・コラム

          

 うれしいことに、澤穂希さんが復帰した。なでしこリーグ第2節、きょうは、INAC神戸vs福岡J・アンクラスをみた。7-0。川澄奈穂美、大野忍、近賀ゆかり。この人たちの動き、テク、サッカーセンス、スタミナは別格だ。

 70分くらいのところで澤穂希さんが入った。チーム全体、ビシッと締ったのがわかった。おもしろい。やはり世界一の選手だ。澤さんがピッチに登場すると、敵地・福岡の観客も大きな拍手をおくっていた。

    

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 「ダニー・ボーイ」で "the pipes,  the pipes are calling” と歌われた、そのthe pipes とはバグパイプのことと、渡辺洋美氏の訳でわかる。

 バグパイプは、スコットランドが有名だが、イングランド、アイルランドでも大昔から愛された楽器だ。5世紀には、すでにいまの形になっていたといわれるほど古い楽器だ。イベリア半島にも、東ヨーロッパにも、ほとんど同じような楽器がある。

 日本では馴染みのない楽器だが、イギリス、アイルランドからの移民で建国されたアメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどでは、いまも盛んに演奏される楽器だ。

   バグパイプでの「アメージング・グレイス」http://www.youtube.com/watch?v=yddQeVlfGpk&feature=fvwp&NR=1

       http://www.youtube.com/watch?v=P5P1M5qwBwo

   ロックバンド・AC/DCのバグパイプ演奏 http://www.youtube.com/watch?v=_a3FCugMNZE&feature=related 

 

 


「ダニー・ボーイ」その2

2012-04-21 | 日記・エッセイ・コラム

               

 きのう紹介した森博史氏の論文に、「ダニー・ボーイ」の英詩と翻訳があるので引用しておこう。(これはフレッド・ウェザリーのオリジナルの歌詞で、ハリー・ベラフォンテのヴァージョンは少しちがう)。

Oh, Danny boy, the pipes, the pipes are calling
From glen to glen, and down the mountain side.
The summer's gone, and all the rose are falling,
It's you , it's you must go and I must bide.
But come ye back when summer's in the meadow,
Or when the valley's hushed and white with snow,
It's I'll be there in sunshine or in shadow,
Oh, Danny boy, O Danny boy, I love you so!

But when ye come, and all the flowers are dying,
If I am dead, as dead I well may be,
Ye'll come and find the place where I am lying,
And kneel and say an Ave there for me.
And I shall hear, though soft you tread above me,
And all my grave shall warmer, sweeter be,
For you will bend and tell me that you love me,
And I shall sleep in peace until you come to me!

おお、ダニーボーイ、バグパイプが呼んでいる、
谷から谷へと、山を下って。
夏が過ぎて、薔薇の花が枯れていくように、
あなたは行ってしまい、わたしはとどまるしかない。
でも、牧場に夏が来るころ、あなたが帰ってきたら、
いえ、谷が雪で白く静まるころでもいい、
そこにわたしがいるはずです、昼も夜も。
おお、ダニーボーイ、それほどまでにいとおしい。

あなたが来て、花という花が枯れていて、
わたしが死んでいたら………きっと死んでいます……
あなたはわたしの横たわる場所をさがしあて、
ひざまづいて、お別れの言葉をかけてくれるでしょう。
すると、わたしの上でかすかながら足音がして、
お墓がすっかり暖かく心地よくなるでしょう、
身をかがめて、「いとしい人」と言ってくれるので。
安らかに眠ります、あなたが来てくれるときまで。
(渡辺洋美訳、未公刊)

          

    エヴァ・キャシディー Danny Boy http://www.youtube.com/watch?v=852gverKRPo

 ダニーは、アイルランドの男の一般的な名前。バグパイプは、男たちを徴兵するときに吹かれ、戦闘中の合図にも吹かれた。その吹かれるメロディーによってそれぞれ意味があった。

 他国へ出征する戦争なのか、イングランドに対する反乱なのか、ともかく、愛しのダニーは、谷に響くバグパイプの合図で、戦いに行かなくてならない。ダニーを戦場におくりだす、この歌い手の女性が、どうして “きっと死んでいます” なのか、歌詞に説明はないが、ともかく、若者を戦地へおくりだす女性の歌なのだ。

 第一次世界大戦から第二次世界大戦という、戦争の時代を生きた若い男女にとって、この歌は、ただ詩歌のなかの世界ではなく、きわめて切実な現実を歌っていたのだろう。いまも映画のなかでは、軍人や警官や消防士の葬儀のシーンでよく演奏される。

 わたしは、イギリス映画「ブラス」のなかで、この曲が演奏されるシーンが好きだ。

                      

    映画「ブラス」 Londonderry Air (Danny Boy) http://www.youtube.com/watch?v=eVYrSwKWbxA&feature=related

ブラス! [DVD]


ダニー・ボーイ、ハリー・ベラフォンテ

2012-04-20 | 日記・エッセイ・コラム

                 

 森博史氏の論考を読んで、「ダニー・ボーイ」のことが、また少しわかった。

 「ロンドンデリー・エア(ロンドンデリーの歌)」は、1913年、フレッド・E・ウェザリーが歌詞をつけて「ダニー・ボーイ」となった。恋人、あるいは夫を戦場におくる女性の歌だった「ダニー・ボーイ」が、アメリカで、戦死した息子と母親の歌になっていく過程がよく分かった。(『民謡からみた世界音楽 うたの地脈を探る』 細川周平編著 ミネルヴァ書房 2012年3月20日 第16章「ダニー・ボーイ」は戦争に行った……森博史)

民謡からみた世界音楽―うたの地脈を探る

              

Weatherly

「ダニー・ボーイ」の作詞者、フレッド・ウェザリー

Dannyboy

1913年に出版された「ダニー・ボーイ」

             

    ハリー・ベラフォンテ Danny Boy http://www.youtube.com/watch?v=rgo8NDSI-HQ&feature=related

 ハリー・ベラフォンテが歌う「ダニー・ボーイ」が、日本でよく知られるようになったのは、1959年(昭和34年)ではないだろうか。ビクター・レコードから発売された、カーネギー・ホールでのライブ盤LPが大ヒットしたのだ。時代は、白黒テレビにつづいて、ステレオ再生装置が爆発的に普及するときだった。

 わたしの家にも、ビクターの最新ステレオがあった。(母の実家が電器店、レコードも売っていた)。わたしは小学生だったが、「ベラフォンテ・アット・カーネギー・ホール」にひどく感動した。

 ハリー・ベラフォンテの来日公演は、テレビで放映されて、これも高視聴率だったのでないだろうか。このライブのテレビ番組をいまもよく覚えている。

 

At Carnegie Hall

   ハリー・ベラフォンテ Jamaica Farewell(さらばジャマイカ) http://www.youtube.com/watch?v=QU_yu076k_Y&feature=related

   ハリー・ベラフォンテ Banana Boat http://www.youtube.com/watch?v=RfxX1GjIZtA&feature=related


エスペランサ・スポルディング

2012-04-19 | 日記・エッセイ・コラム

            

 エスペランサ・スポルディングの新譜がでた。この人も“天は二物”の人だ。才能あるソングライターで、すばらしいベーシストでシンガー、そして、美女だ。

 アメリカ・オレゴン州ポートランドの出身だが、スペイン語もポルトガル語もできる。ヒスパニックのシングル・マザーに育てられ、15歳のときからポートランドのジャズ・クラブでベースを弾く仕事をしてきた。音大は、特待生として奨学金を得て、飛び級で卒業している。

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 5歳でバイオリンを弾き、オーボエもクラリネットも吹く。14歳でアート・スクールのノースウエスト・アカデミーでダブル・ベースを習いはじめ、16歳で特待生としてポートランド州立大学に入学し、在学中にバークリー音楽大学の奨学金を得てバークリーに入る。そこでパット・メセニーの見出されてメジャーデビューする。バークリー音楽大学を飛び級で卒業して、弱冠20歳でバークリー音楽大学の講師になった。和声理論を教えていた。

 いまはバークリー音楽大学の教壇をはなれて、創作とパフォーマンスに専念するプロフェッショナルなミュージシャンなのだ。27歳。尊敬するベーシストは、ロン・カーターだという。

   エスペランサ・スポルディング Grooves http://www.youtube.com/watch?v=ZNw46j0nNOs

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   エスペランサ・スポルディング I know You Know / Smile Like That http://www.youtube.com/watch?v=2aRC3YY3svs&feature=related            

Radio Music Society -Ltd-

 

Esperanza

   エスペランサ・スポルディング ノーベル賞式典でのパフォーマンス http://www.youtube.com/watch?v=qXtAFOr9ahs&feature=related

        


グレイスランド、その2

2012-04-18 | 日記・エッセイ・コラム

                     

 子供のときから身内にエルビス・プレスリーの熱烈なファンがいて、封切りになる映画は、かならず連れていってもらい、『ガキのときから、ほとんどリアルタイムでエルビスを聴いてきた』という、愚かな自己過信だった。

 少年の頃からずっと、グレイスランドは、エルビスが母の名にちなんで名付けたと疑いもなく思いこみ、長い年月、完全にわたしの意識に刷り込まれていた。いかにも、マザコンといえるほど母親思いのエルビスらしい、と。

 エルビスの母の名は、グレイスではない、グレイスランドのグレイスは、元の持ち主の娘の名だと、maru さんのコメントではじめて知った。

『ええッ? グレイスは、エルビスのかあさんの名前じゃないのか………』

 きっと、洋楽ファンのだれもが知ってる常識なのだろうが、わたしには、衝撃の事実だ。(この50年以上の長い年月、一度も、エルビスの母親の名前を確認したことがない、ということも気づいた)。

              

 そんなわけで、浦安市中央図書館にでかけた。たしか、一階書庫の洋書棚に、エルビス・プレスリー辞典みたいな本があったはずだ。

Elvis: His Life from A to Z

 この本の GRACELAND の項を読んで、グレイスランドの真相がやっとわかった。(わたしは、エルビスのレコードを売り、ポール・サイモンの「グレイスランド」を売って生活していたのだが……)。

 エルビス・プレスリーがグレイスランドを買ったとき、この屋敷には、23の部屋があって、5室のベッドルームがあった。大きな家だ。エルビスは、いろいろ改装するのだが、レコーディングもできる部屋も作る。レコーディング・スタジオだ。このグレイスランド・スタジオで録音された曲名も、この本にある。いろいろあるが、わたしは、この曲が好きかな。

   エルビス・プレスリー Solitaire http://www.youtube.com/watch?v=vTP4xWXafOw

   

 

 

 


グレイスランド

2012-04-16 | 日記・エッセイ・コラム

 

Elvisatgraceland                         

 ポール・サイモンが歌っている「グレイスランド Graceland 」とは、テネシー州メンフィスにあるエルビス・プレスリーの屋敷のことだ。(わたしは、きょうまで、グレイスはエルビスの母親の名前だと思いこんでいた……。1957年、絶頂期のエルビスが10万ドルで手に入れたという、そのときすでに、ここは、グレイスランドだったのだ)。

※ この建物は、Graceland Christian Church として使われていたが、1957年3月、エルビス・プレスリーが Ruth Brown Moore  から土地と建物を $102,500 で買った。この土地は、南北戦争(1861-1865)当時、 Memphis Daily Appeal を発行していた S.E.Toof が農場として開発した。Toof は、娘の名前 Grace Toof からGraceland と命名した。現在の建物は、1930年代末、Dr.Thormas と Ruth Moore が建てた。Ruth Moore は、Grace Toof の姪になる。 ( Elvis  His Life from A to Z   CORGI BOOKS 1988  London )

                

 ポール・サイモンや、ビートルズのメンバーの世代にとって、エルビス・プレスリーは、スーパーアイドルだ。

 (エルビスの「ハートブレイク・ホテル」や「ハウンドドッグ」が大ヒットした1956年、ポール・サイモンは15歳、ポール・マッカートニーは14歳)。

   エルビス・プレスリー Heartbreak Hotel http://www.youtube.com/watch?v=efL17ekQZ5k

 グレイスランドは、エルビス・プレスリー・ファンの聖地、巡礼の地だ。(小泉前首相が、ブッシュ大統領と訪問して、エルビスの娘プリシラが出迎えたことは、日本でニュースになった)。いまも年間60万人以上がやってくるという。

Gracelandmansionelvishome

       

  ポール・サイモン Graceland http://www.youtube.com/watch?v=OtT7Og2LBbE

Graceland: 25th Anniversary Edition

 25周年記念盤は、LPレコードも発売になる(6月4日発売予定、輸入盤)。

Graceland 25th Anniversary Edition Vinyl [Analog]

                     

     エルビス・プレスリー Heartbreak Hotel (1968) http://www.youtube.com/watch?v=olqe-JnHzjU&feature=related


なでしこリーグ開幕

2012-04-15 | 日記・エッセイ・コラム

                    

 女子サッカー、なでしこリーグが開幕した。INAK神戸vsスペランツァ大阪高槻をテレビでみた。7-0で神戸の圧勝だ。やはり、川澄奈穂美と近賀ゆかりの動きは別格だった。新人の京川舞も2得点で、期待どうりのストライカーだ。こういう無敵のチームにむかえられ、開幕戦で2得点をあげられるのは、じつにラッキーなデビューだ。

 INAK神戸は、昨年、無敗1分けでリーグ優勝している。ワールドカップ優勝の、世界一のなでしこジャパンの主要メンバーが、このチームにいる。澤穂希、大野忍、近賀ゆかり、川澄奈穂美、高瀬愛実、田中明日菜、ゴールキーパー・海堀あゆみだ。そして、韓国最高のストライカーといわれる、チ・ソヨンがミッドフィールダーなのだ。

 この日本最強のチームに、今年高校を卒業した3人が入団した。京川舞、仲田歩夢(あゆ)、田中陽子だ。いずれもU-19で活躍した高校サッカー界では特出した天才的選手たちだ。とくに京川舞は、U-19アジア・カップのMVPで得点王だ。アルガルベ杯では、なでしこジャパンに招集された。

 無敵のチームのフォワードになったということは、デフェンスもミッドフィールダーも最強だから、ゴールのチャンスはきわめて多い。その反面、チーム内のライバルも最強だということだ。ポジション争いは熾烈になるだろう。京川舞は、その闘いにも勝って、真のスーパールーキーになるのじゃないか。(きょうの試合でも、近賀や大野や川澄が、京川舞のシュートチャンスをなんどもつくっていた。わたしは、京川舞が今年の得点王になることを期待している)

 はじめて見たが、スペランツァ大阪のフォワード、浜田遥(はるか)もじつにいい選手だ。しかし、ひとり強い選手がいても、サッカーは勝てない。

 


国際陸連、猫ひろしの資格疑問視

2012-04-13 | 日記・エッセイ・コラム

                       

 国際陸上競技連盟が、カンボジア国籍でロンドン・オリンピック出場を決めた、猫ひろしの出場資格を疑問視している、という記事がでた。

   国際陸連、猫ひろしの資格疑問視 http://www.nikkansports.com/sports/athletics/news/f-sp-tp0-20120413-933097.html

       http://sankei.jp.msn.com/sports/news/120413/oth12041307550000-n1.htm

 国際陸連の反応は当然だろう。いっぽう、日本の民放テレビは、こぞって、猫ひろしを持ち上げている。日本の、はしゃいだ民放テレビは、完全にトチ狂ってる。(日本の民放テレビにとって、オリンピックもバラエティーなのか? オリンピックのマラソンも、ギャラもらって芸人が走る、24時間テレビのやらせマラソンも同じなんだろう)。

 猫ひろしを批判する記事を書いているのは、週刊誌だけだ。(週刊新潮、週刊文春などが、猫ひろしを厳しく非難している)。猫ひろしをもちあげる、日本のテレビと新聞が、いかに腐っているかということだろうな。

 猫ひろしは、カンボジア国籍を得るために、カンボジア政府に2000万円支払い、オリンピック・マラソン出場資格を得るために、カンボジア陸連に対して400万円から500万円支払った、と週刊誌は報道している。あきらかに、金でオリンピック出場資格を買ったわけだ。

 しかも、カンボジアのオリンピックの出場枠というのは、戦乱や貧困などでスポーツ振興がおくれている国に対して、IOCが与えた特別枠なのだ。陸上のすべての競技で出場標準記録に達してないとき、男女一人ずつ出場資格を与える、という特例の枠なのだ。貧しい国のアスリートにオリンピックを体験させたい、という温情の特別枠だ。そのたった一つの男子の枠を、芸人の猫ひろしが奪ったわけだ。よくもこんな恥ずべきことができるものだよ。

 この薄汚い策略は、ホリエモンが考え、やつの手先の連中が暗躍した、といわれている。いかにも詐欺師の考えそうなことだ。

 だいたい、自己ベストが、2時間30分にも達してない市民ランナーレベルの男が、金を払って、オリンピックのマラソンに出場したいと考えること、それ自体、日本人の、普通の常識ではないだろう。病院に入れたほうがいい。

 

 


CSN&Y

2012-04-12 | 日記・エッセイ・コラム

                     

   CSN&Y   Carry On/Questions http://www.youtube.com/watch?v=nP0VBB7BO64

デジャ・ヴ

 CSN&Y(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)の、デヴィッド・クロスビーは元バーズ。スティーヴン・スティルスとニール・ヤングは、元バファロー・スプリングフィールド。グラハム・ナッシュは、元ホリーズ。

 ニール・ヤングは、カナダ人、グラハム・ナッシュは、イギリス人。

    バーズ Mr.Tambourine Man http://www.youtube.com/watch?v=uPqAvgN6Tyw

Very Best of

   バーズ Turn! Turn! Turn!  http://www.youtube.com/watch?v=W4ga_M5Zdn4&feature=related

スーパー・ヒッツ

                  

   バファロー・スプリングフィールド For What It's Worth http://www.youtube.com/watch?v=30W3iRL48gQ&feature=related

Buffalo Springfield

   バファロー・スプリングフィールド Mr.Soul http://www.youtube.com/watch?v=qEqLh4-Ouck&feature=related

Again

                         

   ホリーズ Busstop http://www.youtube.com/watch?v=bxMUiZzWy78&feature=related

ベスト・オブ・ホリーズ(紙ジャケット仕様)

   ホリーズ He Ain't Heavy, He's My Brother http://www.youtube.com/watch?v=C1KtScrqtbc

Butterfly

Reunion

       ホリーズ  Busstop (2010) http://www.youtube.com/watch?v=ZnjrP_FhYlo


アメリカ

2012-04-11 | 日記・エッセイ・コラム

Rolling_stone_horse_photo_590

 60年代後半から70年代初頭、日本ではいわゆるフォークソングが大流行した。中学生や高校生や大学生のアマチュア・グループがたくさんできて、コンテストも盛んだった。

 この時代、日本のフォーク・グループに大きな影響を与えたのが、CSN&Y(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)、そして、アメリカではないだろうか。

名前のない馬[紙ジャケットCD]

 イギリス・ロンドンで結成されたグループだが、3人ともアメリカ人だ。ロンドンのアメリカンスクールに通う友人でつくったグループなのだ。「名前のない馬」の大ヒットのあと、活動拠点をアメリカに移した。

 「名前のない馬 A Horse With No Name 」は、1972年(昭和47年)のヒット曲だ。

   アメリカ A Horse With No Name http://www.youtube.com/watch?v=zSAJ0l4OBHM