Ommo's

古い曲が気になる

ふたりは、七日間歩きつづけた

2009-07-06 | 日記・エッセイ・コラム

 1977年3月。わたしは、似内清高くんと田中やすおくんのテントや寝袋の荷物を、鵡川の交番にあずけた。「夕方、大学生ふたりが徒歩で着くので、それまであずかってほしい」と。しかし、最初はいぶかる。そのあとも、どこでもあやしまれた。

 「なぜ? こんな冬に歩いているんだ!」
 「テントを張る? おかしいんじゃないか! 明け方、零下20度くらいになるぞ」
 「おれも山は歩く、冬山が好きだ。しかし、なんでこんな一般道を歩く? わからんな」

 「耐寒訓練なんです」と、わたしはいいかげんな言い訳をする。「耐寒訓練ね……」とあまり納得したふうではないが、荷物をあずかってくれる。

 こうして、翌日は平取へ、つぎの日は日高へと、わたしは暗いうちに帯広をでて、朝、歩きだしたふたりに出会い、荷物を車のトランクにつんで運んだ。

 日高をでて、いよいよ日勝峠への登りにはいる。渓流の沙流川沿いを蛇行する山道だ。このカーブの多い山の雪道を、大型トラックやトレーラーが猛スピードで走っていく。

 道の谷側は、除雪した雪が壁になっている。ふたりは、車が近づいて来る音を聞くと、この壁にかけあがった。そうして、大型トラックをやりすごす。

 それまでずっと、ずるずるとおくれていくやすおくんを待って、もうすこしだからがんばろう、と清高くんがはげます展開だった。しかし、この危険な山道にはいると、やすおくんは、清高くんをどんどんぬいて、車がくると真っ先に雪の壁にかけあがった。

 人、ほんとうに命がかかると、つらい、きつい、疲れた、足痛い、もういやだ、やめたい、などとウダウダいってられないわけだ。

 日高山脈のど真ん中、日勝峠の手前、3キロくらいのところに、北海道開発局の除雪センターがある。日勝道路の除雪の基地で、何人もの職員と作業員が常駐している。ふたりがそこにだどり着いた翌日、強い雨になった。冬の雨だ。ふたりは雨具をもっていない。標高は高い。濡れて歩くのは、危険だ。

 その日は、歩くのをやめ、除雪センターでもう一泊することになった。雪崩が危ないから、雨のなかを歩かず、外でキャンプを張らずに、施設のなかで寝てくれ、とセンターの職員にいわれたのだ。

 (雪崩の危険のなか、真剣勝負の除雪をやっている人たちは、こんなとこまで徒歩で上がってきた、この大学生たちを理解しがたいのだろう)。

 わたしは、ふたりを除雪センターに残して、「またあしたの朝」、と帯広にもどった。それにしても、日勝トンネルをどうやってぬけるか?

 わたしが、もどったあと、小谷広一さんが、除雪センターのふたりをたずねた。(わたしたちは、広一さんをみっちゃんと呼んでいた。現在は、コタニアグリの社長。更別村協和で大規模な畑作をやっている)。

 みっちゃんは、ふたりを車にのせて、日勝トンネルを通り、十勝清水の町までおりた。ふたりに飯をおごり、ふたりのために雨合羽を買った。そのあと、ふたりを車にのせ、ふたたび、日勝峠をのぼり、トンネルをこえ、除雪センターにもどって、ふたりを下ろした。「がんばって」と。

 「あのとき、もし、みっちゃんが、『そんな無理することないよ、ここからまたスタートだ』といって、十勝清水でぼくらをおろしたら、『そうするか……』と、心が折れたと思う。悪天候で日勝峠をスルーしたと、いいわけもたつし……。あの長いトンネルを歩くのが、ほんとうに恐かった」と、ずっとあとになって似内清高くんがいっていた。

 「でも、清水からまた日勝峠に車がむかったとき、みっちゃんの気持ちが、うれしかった。やっぱり、ここまできたら、やりきらないとダメだな」、と。  

 翌3月8日、前日の雨は雪になっていた。大雪だ。なんと幸運なことに、日勝峠は、雪で通行止めになったのだ。こんなウソのようなことが、映画のなかだけじゃなく、ときどき、この世におこる。

 早朝、ふたりは、雪が降るなか、まったく車が通らない車道の真ん中を歩き、シーンと静まりかえった日勝トンネルを歩いた。日高を越え、十勝にぬけたのだ。

 わたしは、十勝清水側の国道で、通行止めのゲートのまえに車を止めて、雪のなかからふたりが現れるのを待っていた。激しい雪だった。全身雪をかぶって歩いてくる清高くんの姿がみえた。清高くんに、きょうは、清水でやめるか、それとも御影までいってキャンプするか、たずねた。

 いや、このまま帯広まで歩く、と清高くんがいう。すこし待って、やってきたやすおくんも、もう外で寝たくない、どんなにおそくなっても、足がこわれても、帯広までいく、という。

 大雪だった。わたしは、帯広までふたりに伴走することにした。すこしまえまで車を走らせ、ふたりを待つ。追いついたら、またすこしまえまで走る。ふたりは歩きつづけた。歩きながら菓子パンをかじり、すこしも休すまず歩いた。

 十勝清水から御影、芽室をこえ、帯広市街にはいった。

 
 帯広駅のすこし手前、西3条10丁目の交差点で、似内清高くんは、ずっとおくれている田中やすおくんを、長い時間待っていた。ふたりでいっしょにゴールの帯広駅にいこう、というのだ。帯広の街も、雪がふっていた。

 ふたりがいっしょに帯広駅に着いたのは、午後9時をすぎていた。この日、ふたりは、日勝峠のむこうから、雪のなか、70キロ以上歩いてきたのだ。雨での一日の停滞があったが、札幌駅から、七日間歩きつづけた。

 帯広駅前で、ふたりをNHKの宮本隆治アナウンサーが出迎えてくれた。1977年(昭和52年)、3月8日のことだった。

 

 きょうは、映画「キル・ビル」で効果的に使われた、ザムフィルのパンフルートの音楽はどうだろうか。http://www.youtube.com/watch?v=0Wv3Ya9nskA&NR=1 これが、雪のなかを歩ききった、似内清高くんと田中やすおくんを、たたえるにふさわしい音楽だろう。雪の山道を歩くふたりの姿を想像しながら聴いてほしい。

「コタニアグリ」のナタネはちみつに関する記事 http://www.hokkaido-nl.jp/detail.cgi?id=963