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古い曲が気になる

『無謀な登山』2

2017-03-30 | 日記・エッセイ・コラム

"青江一郎” さんという方から、「今回の高校生の雪崩事故のニュースに触れたとき、真っ先にこのコラムを思い出しました」と、コメントをいただいた。

そのコラムは、わたしの2010年8月2日の『無謀な登山』という記事です。その記事を下に再録しますね。

 

 

高校3年生のとき、無謀な登山につきあったことがある。それは、高体連の大会登山だった。引率したのは、十勝の高校山岳部の顧問教師たちだった。

山は、二ペソツだ。杉沢から登って、頂上に行き、引き返して、前天の手前"16のピーク"から幌加温泉に下るというルートだ。6月のはじめだったから、なにもむずかしいコースではない。

しかし、その冬は雪が多く、6月のはじめでも尾根の日影の斜面に残雪が厚く残っていた。
この、"16のピーク”からガレた急斜面を下り、クマザサ生い茂る原生林のなかのルートは、わが帯広三条高校山岳部の先輩たちが鎌を手にして切り開いた夏道だ。ルート沿いに『三条沼』と日本地理院の地図に書かれた小さい沼もある。わたしたち帯広三条高校山岳部が愛着をもっている山道だ。

この二ペソツのコースが、高体連登山大会十勝予選の会場だ、というので、わたしたち三条高校山岳部員だけで、2週間まえと1週間まえの土日、2度、おなじルートを一泊で歩いた。1600mのピーク直下の急斜面は厚く雪が残っていて、幌加温泉に下る東斜面全面、いつもの年には消えていた雪が残って、麓の原生林のなかも雪原だ。「まだ冬山だ」、夏山装備の100人もの高校生が歩くところじゃないな。と、思った。

                

その大会当日、ニペソツ山頂から下ってきて、16のピークから東斜面の幌加側に下りるまえも、そして、その前日、杉沢のキャンプ地でも、「雪が残ってるから、幌加温泉側に降りないほうがいいです。杉沢にもどったほうがいいです」と、顧問教師のボスのなんとやらいう教師にいった。「ぼくらは、1週間まえも、おなじコースを歩きました」

だが、高校生のガキが何いってやがる、という態度で、教師たちは酒を飲んでいた。(わたしは、50年まえのことを鮮明に覚えているし、そのボスの顧問教師も忘れない。学校の名前も覚えている。ここでは、言わないが‥‥)。

雪の原生林を下っていて、「帯広三条、トップへ」といわれた。きたか……しかし、もう手遅れだろ、と思った。もう午後3時だ。教師たちがギブアップしたのだ。道に迷ったわけだ。わたしは、そのずっとまえから、教師たちが道に迷っているのを知っていた。(ルートも間違っているし、時間もキツイ、と思っていた。)東斜面を下っていたわけだから、太陽は、自分たちが背にしている尾根に沈んでいる。6月初旬でも午後3時はもう薄暗い。このまま行動すると、暗闇のなか、雪の原生林をさまようことになる。(わたしたちは、前週と前々週、この雪の森林地帯を歩いて、枝にある夏道を示すピンクのテープを見つけていた。)

 

高体連・恒例の大会登山。夏道を登り、夏道を下る計画だったのだろうが、この年選んだ下りルートは、厚い残雪に覆われていたのだ。雪のなか、100人もの高校生をつれているから、スピードはおそい。高校生たちは、キャラバン・シューズや、スニーカーなどの夏靴だから、腐った残雪を長く歩いていると、靴下は濡れて足は冷え切っていく。昼は初夏の気温だが、陽が落ちていくと、まだ雪が残る山だ。急激に寒くなる。グズグズと表面がゆるんでいた残雪がガチッと凍りだす。(わたしたちはアイゼンも用意していた)。

その日、高体連・山岳大会十勝予選の一隊100人以上、幌加温泉にたどりつけず、雪のなかのビバークだった。いまなら、テレビのワイドショーの格好のネタで、教師たちは、つるし上げられ、マスコミのアホたちに自殺に追い込まれただろう。『教育委員会の無責任か? 教師の無能か? 女子部員もふくむ高校山岳部員100人、雪山で遭難!!』

 

 高校生のわしら、残雪のなかで100人ビバーグしたその夜。わたしと二ッ森隆文と西尾哲と佐々木要の帯広三条高校山岳部4人は、立ち枯れた松の木を切り倒して、雪のなか、夜明けまででかいキャンプファイヤーを幾つもつくった。わたしたち4人以外、だれもが凍えていたのだ。(わたしたちは、雪のなかで行動して寝るという想定の装備、服装だった。鋸とナタと斧も持ってきた。高体連の引率教師のだれ一人持ってない)

「国有林の木を勝手に切るのは……」と、わたしを非難したどこかの高校の顧問教師もいた。勝手に凍えて死ね、という感じで、わたしはアホ教師を無視して、切り倒した枯れたエゾマツの枝をはらい、幹を叩き割って、幾つもの焚き火をバンバン大きくした。その「国有林」教師たちも、夜明けまで焚き火から離れない。

100人以上の高校山岳部の生徒が、予定日に麓の温泉に到着しない。いまなら、大事件だ。教育委員会が、あの事件を、どう握りつぶしたかしらない。

 

高校生のわしらが、大会登山のコースを 「(なんどか歩いて知ってるルートだが、やたらと雪の多い冬だったから)事前に歩いて下見しておかないと、マズいんじゃないかい」と、2週にわたって歩いているのに、100人もの子供たちの命をあずかる教師たち、アンタら、ぶっつけ本番かい!……と、高校生のときに思ったものだ、その山、ニペソツで。

 


土曜日はブルースハープだよ

2017-03-23 | 日記・エッセイ・コラム

父の通夜・葬儀を終え、今週は昼間からワインを飲んでデレデレしている。

しかし、土曜の夜は、街に出て飲もうと思う。

末期がんの母を看取り、残された父の介護をするという、今回の”北海道帰省のミッション”は完了した。

 

土曜日25日は、ブルースハープでショッカーの人たちの浜省を聴きたい、と思う。

 


明日は九州の森本くんと会う

2017-03-19 | 日記・エッセイ・コラム

今日、九州の森本裕二くんが帯広にやって来る。

帯広畜産大学の恩師、美濃洋輔先生が瑞宝中綬章を受章されたので、今夜、全国から教え子が十勝川温泉・第一ホテルに集まり祝賀会が開かれるそうだ。

森本裕二くんは九州・熊本からやって来る。森本くんと、帯広で英会話学校とカレーライス店を経営しているスリランカ人のライオネル・ペレラさんは、美濃教授のゼミのごく初期の教え子という。

    帯広畜産大学 http://www.obihiro.ac.jp/topic/2016/minojyusyou_28.html


そして、森本くんとライオネル・ペレラさんは、サウンドコーナーの初期のお客さんでもあった。

40年も前のこと。当時、帯広駅前には十勝バスの営業所があって、駅前広場にはいくつものバス停があった。国鉄の士幌線・広尾線も生きていて、通勤・通学の人々で駅前は大いに賑わっていた。(首都圏のJRや私鉄、地下鉄の駅周辺の様相が当時の帯広駅前の賑わいかな)

帯広畜産大学行きのバス停もまた、駅前にあった。(今は学生も自分の車を持っているようだから、”レコード店でバス待ち” の時代ではないな)。こうして、レコード屋のあんちゃんのわたしと、洋楽好きの大学生・森本くんとペレラさんと出会ったわけ。

森本くんは、ハリー・ニルソン、ギルバート・オサリバン、ロッド・スチュワートのことなどやたら詳しかった。ロッド・スチュワートのアルバムのなかで、よく意味が分からない歌詞を訳してもらったりもした。(さすが国立大学の現役の学生さんだな、と感心したものだ)。

ライオネル・ペレラさんと話すことになったのは、まず、”ボブ・ディラン”がきっかけだった。ペレラさんの発音する”Bob Dylan"が、わたしはまったく聞き取れず、何度も聞き返してもわからず、書いてもらった。「なんだ、ボブ・ディランじゃない‥‥‥」。その日から毎日のようにペレラさんはわたしのレコード店に立ち寄ってくれた。(留学生といっても、ペレラさんはすでにスリランカの大学では助教授だったはずだ)。「これ、どういう意味?」と、ペレラさんにも洋楽の歌詞を訳してもらったものだ。

 




西暦2525

2017-03-14 | 日記・エッセイ・コラム

わたしがレコード屋になったばかりの1969年(昭和44年)夏、RCAレコードから大ヒット曲がでた。『西暦2525』、歌っているのは”ゼーガーとエヴァンス”のデュオ。(この年、日本ビクター(レコード)は、RCAとフォノグラムに分社したのだろうか?)

     セーガーとエヴァンス  In the Year 2525    https://www.youtube.com/watch?v=vdSqLfuRN18

しかし、なぜかその後発売されたシングルは、ことごとくまったく売れず、わたしが大量に仕入れたLPレコードは不良在庫になって、レコード屋のあんちゃんとしては 、まことに”残念な”グループだった。完全な”一発屋”だ。

(なんどか書いたが、委託で仕入れる書店と違ってレコード屋は、買い取りだ。月末締めの翌月10日支払い。七掛け。つまり売価1000円のレコードは、300円の利益がある、ことになるが‥‥‥毎月発売される新譜の90%以上は、まったく店頭では売れない。製作費を出した、そのタレントだかアーティストの事務所やら家族が買うんだろ‥‥‥か‥‥‥しかし、売れないとわかっていても新譜だから、レコード屋は、現金で仕入れて店頭に並べるわけよ。

ましてや、ここは日本のはずれ、ロシアに近い北海道の東。この毎月の不良在庫をいかに返品していくかが、レコード屋の仕入れ担当あんちゃんの悩みなわけ。(返品は、仕入れ金額の一割ね、田舎町の小さいレコード屋だからメーカーになめられていたんだろ。「どうするか?」、”啓蒙”しかないわな。「売れるものを自分で作るんだ! プロモーションだよ、おネイさん!」)

そんなわけで、レコード屋のあんちゃんのわたしは、この、限りなくロシアに近い町でコンサートなんかをはじめたわけね。

 

”セーガーとエヴァンス”の、デニー・セーガーは、カスタムギターの工房を経営して成功している。これはなんだか嬉しいね。

    デニー・セイガーのギター工房オフィシャルサイト   http://zagerguitar.com/

 


また雪

2017-03-09 | 日記・エッセイ・コラム

もうすぐ九州からソメイヨシノが咲きだすが、ここはまた雪だ。

夕暮れに散歩がてら、父親の入院する病院にバスタオルなど洗濯物を届ける。

帯広川に架かる伏古橋まで来ると、日高山脈は真っ黒な雪雲に隠れて見えない。強い西風に吹かれて雪が舞う。「また雪か‥‥」


良い日であった

2017-03-07 | 日記・エッセイ・コラム

東京に住むわたしの娘が、入院している父親の見舞いにやって来た。幼い時から最も可愛がられた孫だから、父が入院してすぐに来たかったようだが、娘には高校受験の息子がいる。

「入学試験が終わってからでも遅くはないよ」と、わたしが言って、娘は一旦航空券をキャンセルした。

92歳、天寿を全うして老衰で逝こうとする祖父の最期より、今を生きる人たちの、日々の生活こそ大事だ。と、わたしは考える。

うれしいことに受験生は志望の都立高校に合格した。(この春受験のふたりの孫、見事に志望校に合格して、ジジイのわたしは鼻が高いのだ)

 

わが娘に会うのも3年ぶりのこと。(わたしは介護に縛られ、4年半、この町から出てなかったし、娘は、二人の息子を育てる母で主婦、ピアノを教える仕事もある。忙しい。故郷・帯広にもなかなかやって来れない)

娘を衰弱した老父に会わせるわけで、複雑な思いもあるが、わたしは娘に会えたので、じつに良い日であった。

まったく退屈きわまる風景だが、足の衰えを自覚するので、嫌々、毎日、夕暮れに散歩をする。昨夜も雪。わが散歩道は、相変わらずこの寂寥だ。