江戸川の早朝。超小型のタンカー。
1970年8月、ワイト島のロック・フェスで、マイルス・デイビスとジミヘンドリックスは、それぞれのグループで出演していて、顔をあわせた。そこで、ロック・フェスのあと、ロンドンで会って、レコーディングの打ち合わせをすることになった。
帰り道の混乱で、マイルスは、約束の時間におくれてしまう。ジミ・ヘンドリックスの姿はもうなかった。ここで、いっしょのレコーディングのはなしは、いったん断ち切れになった。ところが、翌9月、ギル・エヴァンスからマイルス・デイビスに電話がはいる。ジミ・ヘンドリックスとレコーディングをするから、マイルスも参加しないか、という誘いだった。
ギル・エヴァンスは、1948年ころ、チャーリー・パーカーとマイルス・デイビスが同居しているアパートの隣、中国人のクリーニング屋の二階に住んでいた。無名のときから、セッションをして、たがいに音楽を教えあう仲だった。
マイルスの最初のグループのピアニストが、ギル・エヴァンスだ。マイルスのデビュー作といえるアルバム、「クールの誕生」は、ギル・エヴァンスがメンバーをあつめ、すべてではないが、アレンジもやっている。
白人(ユダヤ人)だが、マイルス・デイビスが、もっとも信頼するアレンジャーで、もっとも親しい友人だった。50年代後半から60年代初頭のジャズの大ヒットアルバム、マイルスのスケッチ・オブ・スペイン期の4部作、「マイルス・アヘッド」、「ポギーとベス」、「スケッチ・オブ・スペイン」、「クワイアット・ナイト」は、ギル・エヴァンスのアレンジだ。
エレクトリック・マイルスの時代になってからも、「ビッチェズ・ブリュー」など、レコーディングには、かならずギル・エヴァンスが立ち会って、助言し、アイデアをだした。
マイルス同様、ギル・エヴァスもまた、ジミ・ヘンドリックスに心酔していた。じぶんのジャズ・オーケストラに、ソリストとしてジミ・ヘンドリックスをむかえて、アルバムをつくろうとしていたのだ。
ニューヨークで、マイルスとギル・エヴァンスは、ジミ・ヘンドリックスの到着をまっていた。そこに、ジミ・ヘンドリックスがロンドンで死んだ、と知らせがはいる。
『まだ若くて、あまりに大きな可能性を前にしてのジミの死には、本当に動揺してしまった。だから、葬式に行くのは大嫌いだったが、シアトルでの葬式には出ようと決心した。だが、葬式はあまりにひどいものだった。あれからはもう二度と葬式には行くまいと思って、いまだにそれを守っている。白人の牧師はジミの名前すら知らず、あれこれと違った名前を呼び続けていた。なんとも恥ずかしい葬式だった。しかもその野郎は、ジミが誰だかも、彼の業績もわかちゃいなかった。ジミ・ヘンドリックスのような人間が、音楽にあれだけ貢献した後にこんな粗末な扱いを受けるなんて、とても我慢できなかった』 (「マイルス・デイビス自叙伝」)
ジミ・ヘンドリックスが亡くなったあと、1975年、ギル・エヴァンスは、ジミ・ヘンドリックスの曲をジャズ・オーケストラで演奏した。アルバム「Plays The Music of Jimi Hendrix」 だ。
ギル・エヴァンス・オーケストラ Voodoo Child (Jimi Hedrix) http://www.youtube.com/watch?v=WEmxoCLMpjA&feature=related
ジミ・ヘンドリックス Voodoo Child http://www.youtube.com/watch?v=v7yPRYL_Oq0&feature=related
元ポリスのスティングは、1987年、アルバム「Nothing Like The Sun 」で、ジミ・ヘンドリックスの Little Wing を録音した。このときも、ギル・エヴァンスにアレンジを依頼して、ギル・エヴァンス・オーケストラをつかった。
そのまえから、スティングは、じぶんのバンドに、マイルス・デイビスのバンドからミュージシャンを引きぬいていた。教え、育てた若いミュージシャンを引きぬかれるのだから、マイルスは、不愉快だったはずだ。
しょうがない。じぶんも、そうやって優秀なメンバーを集めていたときがあった。時代のスター・アーテイストのところで仕事をしたいのは、若いミュージシャンとして当然だ、と、マイルスは、スティングのところにいくメンバーに理解をしめしている。(ギャラのいいところに移るのは、止められない、という金銭のこともあるのだろう)。
スティング&ギル・エヴァンス・オーケストラ Little Wing http://www.youtube.com/watch?v=aZjmrb3bjVo&feature=related
YouTubeでジミ・ヘンドリックスのLittle Wing の動画がみつからないが、曲だけ聴いてほしい。じつにいい曲だ。ギターはもちろんだが、ジミ・ヘンドリックスの歌が、またいいのだ。
ジミ・ヘンドリックス Little Wing http://www.youtube.com/watch?v=Vo_WAbnKCPc&feature=related
ジミ・ヘンドリックスの音楽が、いかに美しいか、よくわかる、コアーズのカバーがある。コアーズは、アイルランドのグループ。三姉妹と兄だ。アンプラグドで Little Wing をやっている。
ザ・コアーズ Little Wing http://www.youtube.com/watch?v=M5rVgxmekeM&feature=related
スティーヴ・レイ・ヴォーン Litte Wing http://www.youtube.com/watch?v=zAG-kX_IlUw&feature=related
テキサス出身のブルース・ギタリスト、スティーヴ・レイ・ヴォーンが、少年のときからアイドルにしていたジミ・ヘンドリックスの名曲、Little Wing を愛と尊敬をこめて弾いている。
スティーヴ・レイ・ヴォーンは、1954年の生まれだ。1990年、スティーヴ・レイ・ヴォーンのバンドは、エリック・クラプトンのバンドと全米のコンサート・ツアーにでた。8月27日、一行は4機のヘリコプターに分乗して移動することになった。濃い霧のなか、ヘリコプターは離陸した。そして、スティーヴ・レイ・ヴォーンの乗ったヘリは、丘に激突してしまう。
クラプトンのバンド・メンバー3人とともに、スティーヴ・レイ・ヴォーンは、亡くなった。35才だった。ふるさとの町、テキサス州オーク・クラフでとりおこなわれた葬儀には、ZZ TOPの3人、ボニー・レイト、スティーヴィー・ワンダー、ジャクソン・ブラウンなどが参列した。
スティーヴ・レイ・ヴォーンは、アメリカのロック・マガジン、ローリング・ストーン誌が選ぶ『歴史上、最も偉大な100人のギタリスト』の第七位だ。もちろん、第一位は、ジミ・ヘンドリックスだ。
① ジミ・ヘンドリックス
② デュアン・オールマン
③ B.B.キング
④ エリック・クラプトン
⑤ ロバート・ジョンソン
⑥ チャック・ベリー
⑦ スティーヴ・レイ・ヴォーン
⑧ ライ・クーダー
⑨ ジミ・ペイジ
⑩ キース・リチャーズ
マイルス・デイビスの「クールの誕生 Birth of the Cool 」は、1949年と1950年に録音されて、78回転のシングル盤、6枚で発売された。一枚にLP化されて発売になったのは、1957年のことだ。
マイルス・デイビスとギル・エヴァンス・オーケストラ 1959年http://www.youtube.com/watch?v=GFaK4q0pxcQ&NR=1
『1988年はとてもいい年だった。唯一の例外は、オレの大親友で、一番古くからの友達だったギル・エバンスが死んだことだ。ギルが最後の時期、ほとんど見聞きできないくらい具合が悪かったことは知っていた。メキシコまで、誰か病気を治してくれる人間がいないかと出かけていったことも知っていた。だがギルには、自分がもうすぐ死ぬことがわかっていたし、オレにもわかっていた。オレ達はただその話をしなかっただけだ。実際のところ、死の前日くらいに女房のアニタに電話して、「ギルの調子はどうなんだい?」って聞いた。彼はメキシコにいるということだったが、次の日に彼女が電話してきて、「一緒にいっている息子が、ギルがこんなことをいている、あんなことをしていると電話で伝えてきた」と言った。そうして次の日、また彼女から電話があって、ギルの死を知らされた。ぽっかりと、心に大きな穴が開いたようだった。
だが、ギルが死んだ一週間後、オレは彼と、こんな会話をした。オレはニューヨークのアパートでベッドに腰かけ、向かい側の窓際のテーブルの上に置いた彼の写真を見ていた。窓ガラスには、明かりがゆらゆらと揺れていた。突然、「ギル、なんでメキシコなんかで死んだんだ?」という疑問が浮かび、ギルに尋ねてみた。すると彼が言った、「それが僕にできる唯一の方法だったんだよ、マイルス、メキシコまで死にに行かなきゃならなかったんだ」。オレはいつだって彼の声は間違えなかったから、それが彼自身だということはすぐにわかった。彼のスピリットがオレに話しかけてきたんだ。』 (「マイルス・デイビス自叙伝Ⅱ」中山康樹訳 宝島文庫)
日本人のジャズ・シンガー、笠井紀美子とギル・エヴァンス・オーケストラのアルバム、「サテン・ドール」が発売になったのは、1972年のこと。ジャズのアルバムとしては、よく売れた。CBSソニーのレコードだった。
すばらしいブログですね。ギルは今もかっこいいです。大好きです。