帯広で三上寛のコンサートがあると、佐々木要さんのブログにある。
わたしが、三上寛のライブを主催したのは、1972年のことだったか。
遠藤賢司、高田渡、加川良、そして三上寛の4人が出演した。これは、東京で組んだパッケージではなく、わたしの独自のキャスティングだった。そして、ツアーではなく、帯広だけ、一晩のライブだった。
いまでは、豪華なメンバーだが、当時はみんな若く、いわば、かけだしで、ギャラも安かった。マネージャーはついておらず、生ギター1本だから、東京から飛行機でやってくるのは、4人だけ。これは、北海道の場合、大きな経費の節約になる。
(高田渡さんは、2005年に亡くなられた)。
(のちにニューミュージックといわれ、当時、フォークソングといわれたそのジャンルは、まだマイナーで、スポンサーも付かなかった。航空券は定価でしか買えなかった。わたしが24才で、まだ若く、地方の小さいレコード屋の店長にすぎなかったから、だれからもナメられていた、ということもある)。
この前に吉田拓郎のコンサートや、エレック・レコードのパッケージショーは主催していた。しかし、これらは東京でできあがった企画をうけただけで、わたし独自の企画は、これがはじめてで、いわばデビュー戦だった。
会場は、帯広市民会館の大ホールだった。客の入りは、満員という具合にはいかなかった。大半が高校生と中学生だった。しかし、十分に採算はとれたのだ。なんといっても、東京からの直行便でやってくるのは、たった4人で、ひとりのギャラは、5万円くらいだったのだ。(本人にいくらはいるかわからない。当時の5万円は、芸能人のギャラとしては小さいが、ひとりの日当としては、大きい。大卒の月給の金額だろうか)。
PAは、ハウスPA、つまり会場の音響設備だけをつかう。アンプ、ミキサーを持ち込まない。照明は、会場におまかせ。生明かりで、ほとんど色をつかわない。センターのサスピション・ライトとピンスポットだけ。そして、ギター1本。安上がりなステージなのだ。
(わたしたちが、PAや照明機材を持ち込む前の地方公演は、たいがい、その会場の音響、照明の技術さんにおまかせだった。台本と進行表、舞台図と照明のプラン図を事前にわたしておくと、完璧にやってくれる職人さんたちが、たくさんいた。みんな市役所職員、地方公務員なんだろうが、役人臭さはまったくない。いいステージをつくりたい、という情熱をもった職人さんたちだった。その地方の会場の市職員からプロの音響屋さんになったひともいる。照明屋さんもいる。
最初にわたしたちが、音響機材を持ち込み、照明機材を持ち込みだしたとき、会場の技術屋さんと、東京からやってきた技術のスタッフとのあつれきがあった。わたしは、主催者なのでその仲裁をするのも仕事だった。その話はまた後日)。
わたしの、このデビュー戦は、まずまずの成績だった。興行というものの要領もわかりかかってきた。つぎは、北海道ツアーを組むことにした。そして、井上陽水、モップス、チューリップ、ユーミン、ダウンタウン・ブギウギ・バンド、矢沢永吉、浜田省吾と、どんどんいけいけとなるわけだ。
そうそう、わたしの興行師としてのデビュー戦は、ビートルズの映画大会だった。そのあとにエレック・レコードの「唄の市」をやり、吉田拓郎コンサートをやった。独自企画生ものデビューが、このフォークソング4人衆のライブだったのだ。宿は、ふく井さんだった。
かって、打ち上げは、ろばたの灯り二階で飲み、そのあと、ホテルの地下、鳥ふくさんで飲む。これが、わたしが主催したコンサートのミュージシャンの、夜の王道だった。