Ommo's

古い曲が気になる

ワイド節、是枝三姉妹

2016-01-29 | 日記・エッセイ・コラム

 数年前だろうか。画家・田中一村のことを検索していて、奄美大島の民謡も知りたいと思った。

 北海道・帯広の、このとんでもなく寒く、長い長い、長い冬を耐えていると、「東京に戻りたい‥‥いやいや、さらにさらに南、もっと南‥‥暖かいところに住みたいな」 と、思う。

 奄美の民謡を検索していて、鹿児島の可愛い3姉妹の動画をみつけた。以来、その3姉妹、是枝三姉妹の熱烈ファンなのだ。

 是枝姉妹が歌う「ワイド節」が気になっていた。もちろん新民謡であろう。奄美の方言で歌詞がまったく分からないのだが、何だか心弾む歌だ。(だいたい、ロックやポップスの曲を最初聴いたときも、その英語の歌詞の意味はほとんど分かってない。分かってないが、好きになる。直感的な感性で、人は、人が何を歌っているか、だいたい分かる。ベートーベン・第九交響曲のエンディングの合唱で歌われる、シラーのドイツ語の詩は分からなくても、感性で理解ができる。それが音楽の力だ)

 

 北海道育ちのわたしには、きわめて難解な「ワイド節」の歌詞が少しわかった。徳島の闘牛の唄なんだね。

 

1978年(昭和53年)5月6日

作詞 中村 民郎(なかむら たみろう)
    鹿児島県大島郡大和村今里出身

作曲 坪山 豊(つぼやま ゆたか)
    鹿児島県大島郡宇検村生勝出身

1. ワイド ワイド ワイド 
  我(わ)きゃ牛ワイド 全島一ワイド
  三京(みきょ)の山風 如何(いきゃ)荒さあても
  愛(かな)しゃる牛ぐゎに 草刈らじうかりゅめ
  ウーレ ウレウレ 手舞(ま)んけ 足舞(すねま)んけ
  指笛(はと)吹け 塩(ましゅ)まけ ウーレ ウレウレ 
  我きゃ牛ワイド 全島一ワイド

2.全島一なそちど 破(や)れ着物(ぎん)な着ちゅる
  雨風しゃんても 牛ぬ飯米(はんめ)や忘れんな

3.我きゃ思め牛ぐゎぬ 技美(きょ)らさ見ちゃめ
  眉間(まき)突き角掛け 手先技見事

4.子(くゎ)孫(まが)寄(ゆ)らとて 育(ほで)しゃる牛ぐゎ
  今日(きゅう)ぬ晴場所 でィさぁさ頑張(きば)てんにょ

 

   坪山豊 ワイド節 https://www.youtube.com/watch?v=ACKZxp_3hhw

   是枝三姉妹 どんどん節・ワイド節  https://www.youtube.com/watch?v=_BdYt_SDaKE

   是枝三姉妹 島育ち・島のブルース・安里屋ユンタ https://www.youtube.com/watch?v=byjRydfnZm0

 

 今夜は、是枝三姉妹の島唄を聴いて飲んでいる。

 

 三姉妹のお母さん(おそらく)のブログ。今の是枝三姉妹の活躍する映像がある。

   「♪琉球舞踊と奄美島唄♪やってます。」 http://mifuri3.blog134.fc2.com/


来生たかおさん、デビュー40周年

2016-01-28 | 日記・エッセイ・コラム

 

「次は、来生たかおをやるよ」と、コンサートを手伝ってくれてた大谷短大の学生、キヨミさんに言った。
 40年前? 1976年(昭和51年)のこと‥‥だったか。
「きすぎたかおって何ですか?」と、キヨミさんが訊く。
「来生たかおは‥‥‥来生たかお、じゃないか」
「ですから、きすぎた かおって、何です?」キヨミさんは、かなり苛立ってきている。
 ここでわたしは気づいた。大笑いしたいが、グッとこらえた。キヨミさんがどう聴き取り、何を苛立っているかが分かった。
 来生たかおを『きすぎたかお』と、当然、わたしは何の疑問もなく発音していたわけだが、「そうか、キヨミちゃんの耳には、『きすぎた かお』と、聴こえているんだ」と、気づいたのだ。

 きすぎた かお! キヨミさんが聴き取った『きすぎた かお』は、どう書くのだろ? わたしの妄想がはじまる。『着過ぎた顏』、あるいは『来過ぎた顏』か? どちらでもいいが、想像するだけでやたら可笑しい。

 ”着過ぎた顏”とは、どんな顔だ? やたらすさまじい厚化粧の女の顔だろうか? ”来過ぎた顏”とは、強引にキスを迫って接近して来た、ニンニク臭の男の顏か? とか、あれこれ愉快な方向にわが妄想は飛んで、可笑しくて可笑しくて、しばらくキヨミさんに返事ができなかった。

 ひょっとすると、バンドの名前と思ったのか。パンクバンド”着過ぎた顏”‥‥‥バカバカしくナンセンスで悪くないが、絶対に売れないな‥‥。

 しかしまぁ、『着過ぎた顏』か『来過ぎた顏』か、どちらか分からないが、十九歳の女子大生には、なんとも意味不明で不気味な、不快、不可解な言葉だったのだろう。

 来生たかおさんには大変失礼だが、わたしは、時々、この40年も前のことを思い出して可笑しくて、ひとりニヤついてしまう。”着過ぎた顏‥‥”
 このように、わたしが帯広・キンプクで「来生たかおコンサート」を主催したとき、ポリドールから『浅い夢』(1976年)を発売してメジャーデビューした来生たかおは、まだ人々に知られてはいなかった‥‥‥音楽ファンの女子大生にも‥‥。

 わたしが、キンプクで「来生たかおコンサート」を開催したのは、1977年(昭和52年)だったか。キンプクとは、帯広市勤労者福祉センターのこと。解体されて今は無い。その”大ホール”、キャパ380席のステージで、浜田省吾、中島みゆき、松山千春、そして、森本裕二、ヒロリンにギター一本で歌ってもらった。

 

 来生たかお・来生えつこ、姉弟のソングライターチームの曲は、好きだ。来生たかおさん、40年、ピアノを弾いてステージで歌うシンガーだけでない、多くのアーティストに素晴らしい楽曲を提供している。みごとなミュージシャン人生ではないか。

 

セルフカバーベスト~夢のあとさき~
 
 

   来生たかおオフィシャルサイトhttp://www.kisugitakao.com/  


フランク・シナトラは、いつもダイレクト録音

2016-01-27 | 日記・エッセイ・コラム

 

 デビィッド・ボウイが亡くなり、イーズルスのグレン・フライが逝った。そのことを書こうとして、なかなか書き進めない。かなりちょっと、危ない感傷に沈みこむ。

 はるか異世界のスーパースターの訃報で、身内や親しい友人が死んだわけでもないのだが、過ってのレコード屋のあんちゃんとしては、なんとも、さまざまの思いがある。

 レコード業界の最末端、販売の現場で、「デビィッド・ボウイの新譜、いいよ。聴いてみる」、「イーズルスのファースト。リンダ・ロンシュタットのバックの時から凄かったろ‥‥」と言って、若いお客さんに勧めていた。そのお客さんたちの、学生服姿さえも思いだしたりする。その新譜レコードを仕入れたときの、レコードメーカーの営業マン(若く亡くなった)との会話さえ思い出したりする。

 そんなわけで、YouTubeで、デビィッド・ボウイとイーズルスのライヴ映像を何度かみようとしたが、すぐヤメにした。「こりゃダメだ‥‥泣きながらロックコンサートをみることになるな‥‥」、終わりの見えない老父の介護、雪、雪、冬‥‥この室温。(”みんなで朝の海を見にいこうぜ、青春だ!!”という気分ではないのね)。

 

 カリンカリンに凍った大気、星空が綺麗だから、今夜は、デビィッド・ボウイとイーズルスを避けて、フランク・シナトラを聴いている。

L.a. Is My Lady
 
 

 この録音スタジオの映像は、凄いよ。アレンジと指揮は、クインシー・ジョーンズ。

  フランク・シナトラ  Mack The Knife    https://www.youtube.com/watch?v=A9klGr3ELkg

 スタジオの中にビッグバンドとストリングスのフルオーケストラがいて、歌って、一発でとる。凄い。今のように、カラオケを先に録音してボーカルをかぶせる、というのは、レス・ポールが4トラックのテープレコーダーを開発してからだろうか。

 ビートルズがその8トラックとか、16トラックの幅広の録音テープを愛用した。

 フランク・シナトラは一度だけ、オケをレコーディングしてからボーカルをかぶせたことがある。『Watertown』だ。この一枚だけ。

 このあと再びレコーディングは、スタジオのフルオーケストラで歌う。つまり『Watertown』以外すべて、”スタジオライブ”録音ということ。


  

 

 

 

 

 


どなたか、神沢麻さんを知りませんか?

2016-01-25 | 日記・エッセイ・コラム

 帯広畜産大学の学生だった、森本裕二くんのオリジナルで好きな歌がいくつもあるが、”センチメンタル・ハーバー” も、その一曲だ。

 森本くんが大学を卒業するとき、わたしは、『森本裕二卒業記念 森本裕二&ナッツ・コンサート』を帯広市勤労者福祉センターで開催した。そのコンサートのオープニングが、この曲”センチメンタル・ハーバー” だった(‥‥と思う。なんといっても38年も前のことだからね。如何に ”恐怖の記憶力” のわたしでも、確信をもって断定はできないんだ)。

 最近、この”センチメンタル・ハーバー” のことを森本くんと電話で話していると、曲は森本くんだが、歌詞の作者は、神沢麻さん、という。しかし、まったく見ず知らずの人で、『ライトミュージック』に投稿された歌詞に曲をつけて歌っていたのだ、という。

 『ライトミュージック』は、ヤマハが出していた月刊の音楽誌。シンコーミュージック(新興音楽出版)の『ミュージック・ライフ』と並ぶ70年代を代表する音楽雑誌だ。その『ライトミュージック』に読者投稿欄があるとは知らなかった。

 『ライトミュージック』に投稿された詞をみて、「この歌詞、いいな」と、森本くんは曲をつけたそうだ。わたしも、この歌詞が好きだ。この作詞者の神沢麻さんは、その後どうされたのだろう。違う名前でプロの作詞家になっているのだろうか?

 神沢麻さんが投稿した、”センチメンタル・ハーバー” が掲載された『ライトミュージック』は、1970年~72年に出版された号だろう。(『ライトミュージック』は、古書のネット販売で、各号1万円以上する。)

 

 下の写真が、”センチメンタル ハーバー” の譜面。森本くんたち帯広畜産大学の有志で発行した同人誌『草冠 くさかんむり』に載った、森本裕二くん手書きのオリジナル譜面。

 学生たちがこの小冊子の文藝同人誌を発行したとき、環境植物の美濃羊輔教授が褒めてくれたそうだ。「理系(草地学)の研究者(大学生)が、(文系の)文学、音楽など芸術の分野のことを学ぶのは、いいことだよ」と。帯広の街のお店から広告代を集めて同人誌を印刷・発行した、教え子たちの行動力が、美濃先生は、頼もしく、嬉しかったのではないだろうか。

 


1970年代、帯広はとてもおもしろかった

2016-01-23 | 日記・エッセイ・コラム

 

 昨日は、宮坂建設社長の宮坂寿文さんが、じつは素敵なギターを弾く人だよ、と紹介した。全国的にも名の通った、帯広・十勝有数の会社の社長が、じつは、ロック、ブルースの凄いギタリスト、とは何とも愉快じゃないか。これこそまさに、”文化都市・帯広”ではないか。

 1970年代、帯広の音楽状況は、とてもおもしろかった。高校生の宮坂くんや磯部優くんがバリバリのブルースをやっていて、中島みゆきさんが札幌の大学を卒業して帯広にもどり、”黙示録”などのお店で歌っていて、足寄の松山千春さんはSTVラジオの土曜日のパーソナリティーになり、毎週番組が終わって札幌からの帰り、わたしの事務所で足寄行の汽車待ちをしていた。
 そして、NHK帯広局に、宮本隆治アナウンサーがいた。宮本さんのFM番組で、アマチュアの中島みゆきさん、松山千春さんを出演させていた。
 さらに、九州の森本裕二くんが帯広畜産大学の学生さんで、ガットギターを弾いてオリジナルを歌っていたのだ。
 足寄の高校生ヒロリン(佐野さん)、彼女が作る曲も、その歌唱表現も好きだった。才能ある人だな、と、直感した。

 そして、ドリカムの吉田美和さんは、帯広の隣、池田町の人だ。わたしはお会いしたことはない。でも、中学生や高校生のとき、サウンドコーナーでレコードを買い、わたしが帯広市民会館や帯広勤労者福祉センターで主催する、荒井由実や浜田省吾のコンサートを観に来てくれたのではないだろか。

 この時代、わたしが、帯広市民会館と帯広勤労者福祉センターを使って主催したコンサートに出演したアーティストは‥‥‥モップス、吉田拓郎、井上陽水、荒井由実、ダウンタウン・ブギウギ・バンド、浜田省吾、矢沢永吉、長谷川きよし、来生たかお、泉谷しげる、高田渡、ケメ(佐藤公彦)、遠藤賢二、及川恒平、チューリップ、海援隊、RCサクセッション、五つの赤い風船、古井戸、バンバン、リリィ、浅川マキ、高橋真梨子、五輪真弓、イルカ、立原累、とみたいちろう、佐渡山豊。そして、アマチュアの森本裕二、中島美雪、松山千春、ヒロリン(佐野裕美)、住吉徹、‥‥そのほか多数の地元のミュージシャンが前座で歌った。

 

 

 帯広三条高校の小さい川で白鳥を見た。それで、夕暮れに再び出かけてみた。(雪道、アイスバーン。ツルツル道で、氷点下の強風。けっこうハードな散歩なんだよ)。

 白鳥はまったくいなかった。しかし、雪の中に踏み跡がある。わたしの推理では、朝、この流れに白鳥がいて、餌をやる人たちの足跡だろう。「朝か‥朝。朝来るのは、無理だな‥‥深夜に活動する父の飯の支度で、こっちも午前中寝込んでる」

 

 白鳥を見ることはできなかったが、月見ができた。なんとも寂しい光景だが、これも美しいじゃないか、と、暗くなるまで帯広三条高校の北の橋の上に立っていた。


森本裕二くんから地震見舞いの葉書

2016-01-20 | 日記・エッセイ・コラム

 

 九州の森本くんから地震お見舞いのハガキをいただいた。

 これが素敵なファミリー写真で、なんだかジーンときた。

 みごとに立派な家庭を築いた、森本くんと京子さん、ご夫妻に感動した。お二人の新婚のころの姿を思い出す。

 

 40年も前だろうか、森本くんは帯広畜産大学の学生さんで、ガットギターを弾いて自作の歌を歌っていた。わたしは、その何だか不思議に明るい南国っぽい曲想と、彼のバリトンの、澄んだ豊かな声量の、その歌声が好きだった。それでわたしが主催するコンサートの前座で歌ってもらったりした。(森本くんと同じように、アマチュアだった中島みゆきさんも松山千春さんも、わたしが主催するコンサートの前座をやってもらった。つまり、その、ある日。トリは浜田省吾、そして地元のアマチュア、中島みゆき、松山千春、森本裕二が、帯広勤労者福祉センター・大ホールで、同じステージで歌ってくれた)。

 浜田省吾のバックバンドを帯広の人たちで組んで北海道ツアーしたことがある。今では信じられないことだろうが、浜田省吾さんも駆け出しの時があって、最初はたった一人で、やがて町支寛二さんと二人でステージに立っていたのだ。

 その浜田省吾、最初のバックバンドをわたしは帯広の人たちで組んだ(浜省のコアなファンでは、”帯広バンド” と言われる歴史的レジェンド・バンドだ、そうだが…………旭楽器・社長、田中康夫さんがドラムスだった)。そのバンドのリハーサルを帯広・旭楽器のスタジオでやっていた。そのリハで、浜田省吾のボーカルパートを歌ってくれたのが、帯広畜産大学の学生さんの森本裕二くんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


正月、鈴木さんから日本酒を

2016-01-18 | 日記・エッセイ・コラム

 

 正月、鈴木雄三さんに日本酒を送っていただいた。

 1970年代の初頭、鈴木さんに出会ったとき、わたしは帯広駅前のわずか7坪のレコード店の店長で、鈴木雄三さんは、レコードメーカー・日本フォノグラムの営業マンだった。

 

 日本フォノグラム・鈴木さん、ワーナーパイオニア・大栗さん、CBSソニー・高市さん、そして、ポリドール・木村さん。音楽の、ステージにあがる人だけでなく、営業の現場、ビジネスサイドの最前線で戦った人たちのことを書きたい。が、今、酔ってしまったから、また素面で‥‥‥。

 

 


橋本くんから鷲宮神社のお札、届く

2016-01-18 | 日記・エッセイ・コラム

 

 橋本時比康くんから、埼玉の鷲宮神社のお札を送っていただいた。

 埼玉に住む橋本くんは、毎年一家で近所の鷲宮神社に初詣で行くという。そのとき、お札を買って、毎年わたしに送ってくれる。その気づかいに心から感謝している。

 何度も書いたが、橋本くんとわたしは、帯広三条高校・昭和42年卒の同級生。帯広神社のすぐ向かいにあった、あの帯広高等女学校の校舎で3年間を過ごしたクラスメイトだ。橋本くんは、わが1年Eクラスの組長で、3年のときは、帯広三条高校合唱部部長だ。(このとき初めて、帯広三条高校合唱部は、全国大会に出場したのじゃないかな?)

 

 


『デビルズ・ノット』、そして、Thats Alright (Mama)

2016-01-16 | 日記・エッセイ・コラム

 

Well, that's all right now mama
That's all right with you
That's all right now mama, just anyway you do
That's all right, that's all right
That's all right now mama, anyway you do

 

 近所のTSUTAYAで借りてきたDVD、アトム・エゴヤン監督、コリン・ファース、リース・ウィザースプン主演の『デビルズ・ノット』の冒頭シーン。小さい男の子が、小学校に迎えにきた母親と手をつなぎ、この歌 ”Thats Alright (Mama)" を口ずさみ、「ママにグレイスランドを買ってやるね」と言う。母は、「そうね、プロミスト・ランドも買ってちょうだい」と、言う。(その、この日に、男の子は行方不明になり、沼の中で手足を縛られた遺体でみつかる。実際にあった悲惨な事件の、捕まった犯人たちの、おそらく冤罪がテーマの暗いシリアスな映画だ)。

 グレイスランドとは、スーパースターになったエルビス・プレスリーが、母親のために造った広大な敷地と豪邸。(エルビスは、強烈なマザコンだったが、普通、正常な男はみんな、マザコンだろう。どんな年になっても、母さんが大好きだ)。

 ”Thats Alright (Mama)" は、黒人ブルース大好きトラック運転手、若者エルビス・プレスリーが最初に録音した曲。大好きな母親の誕生プレゼントのためにつくったレコードだ。メンフィスのサン・レコードでは、一枚だけのレコードをダイレクト・カットで作ってくれる。歌自慢の人たちが一枚のレコードを作る。サン・レコードは、黒人ブルースとカントリーウエスタンのレコードを制作しているが、素人の歌のレコードをつくる、それがサン・レコードの貴重な、日々の現金収入の商売でもあったのだろうな。

”Thats Alright (Mama)"を歌って、母親の誕生プレゼントの1枚のレコードを持って、若者は帰るわけ……だが………これからのエルビス・プレスリーのサクセスストーリーは、だれも知っていることだろうから、書かない。

 

 もちろん、”Thats Alright (Mama)" は、エルビス・プレスリーのオリジナルではなく、ブルースシンガーのアーサー・クルーダップの曲だ。エルビス・プレスリーがカバーした”Thats Alright (Mama)"は、アーサー・クルーダップのオリジナルとほとんど同じだ。少年エルビスが、大好きなブルースの曲だったのだろう。

 

    エルビス・プレスリー Thats Alright (Mama) https://www.youtube.com/watch?v=NmopYuF4BzY

    アーサー・クルーダップ That's All Right   https://www.youtube.com/watch?v=qU3ZFNIa0t0

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 


メガネみつかる

2016-01-13 | 日記・エッセイ・コラム

 

 正月の前からパソコン用のメガネが見あたらない。「いったいどこに消えてしまったのだろう?」、さんざん部屋の中を探したが、無い。外で飲み歩くと、マフラーとか手袋とか帽子とか、かならず何かを忘れるのだが、正月前数か月、近所を散歩するだけでまったく街に出てなかった。

 じつに不思議だ。「いったい僕のメガネは、どこですか?」

 パソコンモニターをみる時と手元の資料をみる時は、遠視の度数が違うので二本のメガネを使って作業をしていた。これがなんとも煩わしい。それで近所の富士メガネで奮発して遠近メガネならぬ遠遠メガネをつくった。レンズの上部が+1、下の部分が+2.5。それに少し乱視の矯正も加えて………これが、なかなか心地いい。快適に使っていた、その大切なメガネが……無い。

 大晦日、正月、そしてこの2週間、百円ショップで買った二本のメガネを使って、暗い気分でパソコンに向かっていた。

 

 ところが昨夜のこと。父親に風呂に入ってもらった。(億劫がる父を風呂に入れる、これがまた大変なんだ)。風呂場に行くために立ち上がった父親は、ベッドで寝てるときでさえ片時も顔から放さず24時間かけているメガネをはずし、テーブルに置いた。

 「ムムムッ……なにか見覚えのあるメガネじゃないか? もしや………おまえは……」、手にとると、それはまさにわたしの”遠遠メガネ”であった。「君は、どうしてこんな遠いところまで来てしまったのだい?」

 父がテーブルに置いたそのメガネは、わたしが2週間も家じゅう探していた、わが ”遠遠メガネ” であった………確かに。

 その、わたしのメガネのレンズは、手垢か油でギトギトに汚れていた。中性洗剤をつけて洗って、そして、父のテーブルに置いた。

 

 「それ、俺のメガネだから返してくれないかい」と、言おうと思ったが、ヤメにした。なんだか後で、年寄をいじめたような、嫌な後悔が残りそうな気がしたのだ。「また富士メガネでつくればいいッか………高いけど……」

 風呂から上がった父は、裸のまま、まずメガネをかけてソファーに座ってリモコンを握り、テレビのスイッチを入れた、大音量で。きっとわたしのメガネは、離れたテレビを観るのも、手元のテーブルの、酒の肴を見るのも、快適なのだろう。「俺、なにか若返ってるのかな。俺って、最近目が良くなってきてる」とか思っているのだろうか‥‥‥な。

 


時代は変わったな

2016-01-09 | 日記

 

 

 年末以来の映画『スターウォーズ』最新作の宣伝には辟易とするが、なにより驚かされたのは、封切り前からNHKがニュースで何度も報道していたことだ。きょぅも(9日)も午後一からメーキング『スターウォーズ』みたいな番組をやっていて、古い人間としては、またまたびっくりだ。この映画は、先月封切りになって、映画興行界のメダマの洋画のはずだが………。NHKが、かくも露骨に民間企業の商売の宣伝をする……とは、時代も変わったものだ。

 わたしがレコード屋になった1960年代の後半、NHKでは、新作映画封切りの前後数カ月、その映画のテーマ曲は放送で流さなかったはずだ。正確ではないが、封切り日の三カ月前、そして、封切り後三カ月。つまり、映画『卒業』が大ヒットしている時、NHKラジオでは、サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」は放送しなかった。今でもドラマのシーンで特定の飲料メーカーがわからないようにしているはずだ(例えば”コカ・コーラ”とか、”キリンラガービール”とか)。

 公共放送だから(民放ではなく)、特定の企業の商活動、つまり金儲け、を積極的にサポートしてはいけないといわけ。そういう理由で、映画のサントラ盤の放送にも縛りがあったのだ。今では信じられないことだろうが………。

 前にも書いたが、わたしは、1972年にビートルズ映画を一挙に上映してプロモーターデビューしたのだが、このビートルズ大会のまえ、NHK帯広放送局は数か月間ビートルズをかけなかったのだろうか? あの時代、そんなことが可能だったのだろうか?  ビートルズの音楽が無いと音楽番組は成立しないのではないかな。

卒業 [DVD]
アン・バンクロフト,ダスティン・ホフマン
 

    サイモン&ガーファンクル  The Sound of Silence https://www.youtube.com/watch?v=4zLfCnGVeL4


白鳥、発見!

2016-01-07 | 日記・エッセイ・コラム

 

 北海道に戻ったその年の冬、近くの帯広川で白鳥の群れを見て驚いた。

 それから毎日のように夕暮れ、雪の中を歩いて、氷点下の大気の帯広川河川敷で、寒風のなか突っ立って、その白鳥たちを眺めているのが、長い冬の、唯一の心の安らぎだった。

 だが、翌年から河川工事がはじまって、流れがすっかり変わってしまった。白鳥たちの群れていたよどみは、広く浅い速い流れになって水草も無くなってしまった。

 当然そんな浅い急な流れの中に白鳥は立っていたくないだろう。翌年冬じゅう、そこにまったく白鳥の姿が無かった。

 しかし、かならずどこかこの流域で越冬しているはずだ、と思い、次の冬は、雪の堤防を歩いてずいぶん探しまわった。

 山歩きが好きだから、一日じゅうでも雪の中を歩いていたい。だが、父親の徘徊が怖い。昼間はあまり長時間家を空けられない。

 その冬も、次の冬も白鳥は見つからず、もう今シーズンは諦めていた。

 

 だが、しかし、なんと嬉しいことに白鳥たちを見つけた。

 山女魚のぴん子でも釣ろうか、と、帯広川の支流、帯広三条高校の北側を流れる小さい川に出かけた。『つきみばし』という橋のところが今日のポイントだった。何度か、散歩の途中に橋の上から眺め、その細い流れはどうも山女魚の匂いがする。と、思っていて、ついに今日、竿を持って出かけた。

 すると、そこ、わたしが竿を差そうと思っていた、そこに、白鳥たちがいた。

 

 


ユーミン北海道コンサート、最初は、宇崎竜童さんとジョイント

2016-01-05 | 日記・エッセイ・コラム

 

 まあ、いまや、どうでもいいことだが、

 わたしが、プロモーター(興行師)としてやった仕事は、浜田省吾だけじゃない。

 モップスも、井上陽水も、りりーも、財津さんのチューリップも、浅川マキも矢沢永吉も、まず、わたしが北海道全域のプロモーターだった。

  五つの赤い風船、遠藤賢司、及川亘平、高田渡、海援隊、とみたいちろう、古井戸、ケメ。そして、五輪真弓、中島みゆき、松山千春。昔あなたが、北海道でそれらのコンサートを見たことがあるなら、それはわたしがプロモートしている。

 函館市民会館、札幌アイスアリーナの矢沢永吉コンサートも、わたしの仕込みだ。

 中村雅俊の北海道ツアーは、バスでの旅だった。ドラムがアイ高野さん。亡くなってしまったが懐かしい人だ。残念だ。毎晩毎晩、一緒にしたたか飲んだものだ。

 

 1972年かな、まずモップスをやり、井上陽水をやり、そして、1976年にデビューした浜田省吾のライブをやることになるのだが、そのことは、何度も書いた。

 わたしは、荒井由実の初期のコンサートを企画したことが、まあ、なんだか自慢したい誇りかな。宇崎竜童さんのダウンタウン・ブギウギ・バンドとのジョイントコンサートだ。いまでは、信じられない豪華な組み合わせだ。

 『ダウンタウン・ブギウギ・バンド&荒井由実 with ダディ・オー』コンサート、札幌は、市民会館が会場だった。そして、帯広市民会館。

ひこうき雲
EMI Records Japan
 

 

 

 
EMIミュージック・ジャパン