Ommo's

古い曲が気になる

樋口一葉旧居跡

2017-05-31 | 日記・エッセイ・コラム

近所に、樋口一葉が、妹と母親と3人で住んだ跡に碑が立っている、と知って出かけた。樋口一葉は、ここで荒物と駄菓子の店を開いた。

この茶屋町通りは、上野方面から吉原の遊郭に行く客で賑わったようだ。ここで店をやっていたのは十ヶ月だが、『たけくらべ』は、ここでの人間観察が元になっているという。

この碑から少しのところに、台東区立の一葉記念館がある。きょうは6時過ぎだったので閉館していたが、歩いて10分足らず、場所は確認したから、また近いうちに訪ねてみよう。

 

角にあるから「角屋」‥‥じつにストレートな店の名だ。


せっかく東京・下町に住んだのだから‥‥‥

2017-05-30 | 日記・エッセイ・コラム

暑いので(きょうは30度)、台東区中央図書館二階で樋口一葉を読んだりして過ごし、夕暮れ、シャッターが下りた、かっぱ橋道具街を歩いた。(かっぱ橋道具街のほとんどの店は、午後5時には店じまいを始める)

樋口一葉の小説は、高校生のときと大学のとき、二度挫折している。わたしはイントロ部分で投げ出した。古文・漢文は好きな科目で、江戸戯作の十返舎一九や大坂の井原西鶴などは、苦なく楽しめたのだが、なぜか明治の天才・女性小説家といわれる樋口一葉の、文章、文体に挫折した。『たけくらべ』イントロの、明治初期の東京下町の長い状況・叙景描写についていけなかったのだ。


せっかく浅草に住んだのだ。十代のときに投げ出した樋口一葉を読み返してみようか、と思った。

 

‥‥‥‥一家内これにかゝりて夫れは何ぞと問ふに、知らずや霜月の日例の神社に欲深樣のかつぎ給ふ是れぞ熊手の下ごしらへといふ、正月門松とりすつるよりかゝりて、一年うち通しの夫れは誠の商賣人、片手わざにも夏より手足を色どりて、新年着の支度もこれをば當てぞかし、南無や大鳥大明神、買ふ人にさへ大福をあたへ給へば製造もとの我等萬倍の利益をと人ごとに言ふめれど、さりとは思ひのほかなるもの、此あたりに大長者のうわさも聞かざりき‥‥‥‥


これは樋口一葉の『たけくらべ』の序章部分、熊手を作って酉の市で売る人たちに辛辣だ。この人たち、夏から11月酉の市の熊手を作っているが、日常の生業は、吉原の廓にかかわる下働きの男や女たちだ。"霜月酉の日例の神社”、"南無や大鳥大明神"とは、わたしがいま住む部屋から百メートルくらい向こう、鷲神社のことだろうね。


もう涼しいかな、と図書館を出ると、街路の紫陽花がいい感じで美しい。もうすぐ梅雨だ。


午後6時30分。かっぱ橋道具街は、もうほとんどの店がシッターを下している。

この ”激安 自家製 手作切り子” を、あす、店が開いているとき、見にいこう。

すりきり1ℓの巨大マグカップ! いったい何に使うのだろうね。ラーメン‥‥‥?


この東本願寺横の甘味茶房、孫娘二人を誘って来たいね。サンプルの ”なすビーフカレー” というメニューが気になる。なんだか美味そうだ。


鷲神社

2017-05-29 | 日記・エッセイ・コラム

通りの向かいのスーパーに行こうとして信号待ちをしていると、「おおとり神社はどこでしょうか?」と、観光客らしい女性に声をかけられた。

「少し向こうに提灯の灯りが見えますね。あそこが”おおとり神社”です。赤い大きな鳥居がありますから、すぐわかります」と、わたしは答えた。だが、しかし‥‥じつは、わたしも三日前の夕暮れに散歩していて、「ここが酉の市で有名な、あの”おおとり神社”なんだ‥‥‥」と知ったのだ。そして、「おおとり神社は、鷲神社と書くんだ‥‥‥俺っていい歳して、無知の極みだな」と、深く反省したのだった。

それが今日は、つい三日前に知った、その鷲神社を自信たっぷりに人に教える。信号待ちの格好は、ユニクロのジャージのズボンに、着古したヘロヘロのTシャツ、それに100均のサンダル‥‥まさに浅草在住数十年の独居老人の姿だったのだろう。北海道からひと月前にやってきたじいさんには見えず、浅草の夕暮れに完ぺきになじんでいたのだろうね。

 


お富士さんの植木市

2017-05-27 | 日記・エッセイ・コラム

夕暮れ、涼しくなってきたので、近所の通りでやっている植木市を見物した。

よくテレビのニュースでみていた、あの、浅草の植木市が開催される通りまで、徒歩5分のところに住むとは思わなかった。

(北海道・帯広から東京にもどって、丁度、ひと月なのだ。)

 

 

  

 ”お富士さん”とは、浅草神社のこと。http://www.asakusajinja.jp/asakusajinja/sengenjinja.html


wave

2017-05-26 | 日記・エッセイ・コラム

写真家の戸張さんと会ったあと、いつもなぜか、トム・ジョビン(アントニオ・カルロス・ジョビン)の”wave"を聴きたくなる、なぜか‥‥‥。

Wave
A&M
 

 

このアルバムは、わたしがレコード屋になった当時の、A&MレコードのジャズのLPジャケットだ。しかし、なんど見ても、このレーベルのジャケット写真は、衝撃的にカッコいいね。

その前、レコード屋になるすこし前、大学生のときかな。ウエス・モンゴメリーのアルバムジャケットも、わたしには衝撃的だった、「なんて良いセンスなんだ!」

ア・デイ・イン・ザ・ライフ
 
 

 

いま聴いても、このA&Mのシリーズは楽しめる‥‥‥凄い。

 

  フランク・シナトラ&アントニオ・カルロス・ジョビン  https://www.youtube.com/watch?v=p5Sff1Yw8nc

  

 


象潟や 雨に西施が ねぶの花 、そのⅡ

2017-05-26 | 日記・エッセイ・コラム

 象潟や 雨に西施が ねぶの花

 (きさかたや あめにせいしが ねぶのはな)

の”象潟"は、わたしが詠んだ「きさかた」ではなく、”きさがた”ではないのか、という指摘がある。

しかし、音韻的に”gata”と濁ると、つぎの語句 ”雨 ame” に語呂が合わない。つまり、この間の、語音が濁り、汚い。リズムが乱れる。そして、「ねぶのはな」と結ぶ語句が、kisagata と濁音混じりの強い語句ではじまると、活きないのではないかな? と、深夜に酔った、わたしであった。

 

それにしても、「難解な句だ」わな、と学生のときから思っていた。

 

 


象潟や 雨に西施が ねぶの花

2017-05-25 | 日記・エッセイ・コラム

夕暮れに近所を散歩していると、明治の芝居小屋・宮戸座跡の碑がある。

明治・大正。この界隈が、昭和の下北沢状態だったのだろうか。

 

この碑の隣に、松尾芭蕉の句碑がある。なぜだ?

   象潟や 雨に西施が ねぶの花

   ( きさかたや あめに せいしが ねぶのはな )

 

わたしは、大学には2年しか行かず、故郷にもどって家業のレコード屋になった。

だが、その札幌大学の2年間は、じつに勉強になった。一般教養の”日本史”が、石附喜三男教授の考古学、”日本文学”が、野毛先生の芭蕉だった。

日本文学の通史みたいな授業だろな、と思って履修した”日本文学”は、一年、松尾芭蕉から説く日本の文学史で、じつにおもしろかった。

 

奥の細道の、「象潟や 雨に西施が ねぶの花」が、なぜ浅草にあるんだ?

 

※ 象潟(きさかた)とは、秋田の名勝地だったところ。西施(せいし)とは、人の名。伝説の超絶美女。楊貴妃のように、呉という国が滅んだ原因の、傾国の美女。

 

 

 

 

 


銀座で戸張さんと会う

2017-05-23 | 日記・エッセイ・コラム

 

銀座・山野楽器でフォトグラファーの戸張良彦さんと待ち合わせて、ギンザ・シックスを見物に行った。

ギンザ・シックス、じつは、もし東京にもどったら、まず最初に行ってみたい、と思っていたところなのだ。だが、ジジイひとりで行くには、なんとも気おくれがあった。(わたしは、50代の半ばから、日本橋と銀座界隈でゼネコンの工事現場の常駐警備員をやっていたから、勝手知った街なのだが‥‥‥北海道・帯広で5年‥‥‥‥認知症の父親の介護をやっていて、生きて東京・銀座にもどることはないだろな‥‥と、ある諦めがあった)。

帯広在住の戸張さんが、実家の東京に来ると知って、「ギンザ・シックスに行きませんか?」と声をかけたのだ。

戸張さんは、ライカの店に興味があるようだった。”ライカでグッバイ”のライカね。

やはりギンザ・シックスは、日本中、世界中からやってきた女性たちで凄まじいことになっていた。あらゆる年齢の、女の人には、じつに楽しい空間だろうな。

泰明小学校前のカフェ、オーバカナル銀座でアイスコーヒーを飲みながら話しこみ、東京駅まで散歩することにした。気温も下がってきて、風が乾いて、気持ちいい日暮れだ。

戸張さんに東京駅までつきあっていただいた。

 

5年前、両親の看病・介護のため、北海道にもどるとき、まだ東京駅修復工事は半ばで、この正面は仮囲いで隠されていた。

 

 

この、東京中央郵便局の完成も見たかった。(故・鳩山邦夫大臣が、「全部解体しちゃダメよ、この歴史的建造物を何とか残せないのか」と言って、解体・建設がはじまっているとき、毎日のように仕事帰り、この現場を見に来たものだ。鳩山邦夫さんが解体を止めたことがよく分かる。美しい建物だ。

 

東京駅で戸張さんと別れ、わたしは、日本橋まで歩いた。

この日本橋のたもと、西川寝具店・東京本社ビルの改装工事、その警備のおじさんだった。半年くらいかな、ここで、工事車両を誘導していた。

 

 

 

 


夕暮れ、祭りの終わり、ルイス・ボンファ

2017-05-21 | 日記・エッセイ・コラム

三社祭最終日の夕暮れ、浅草の街に出た。

街は、日本全国、世界中からやって来た祭り見物の人たちでごった返していたが、やはり、街に何か疲労と哀しみが漂っていた。

夕暮れ。ゆるいテンポのすこし悲しい横笛の祭囃子を聞いていると、小学生のわたしを帯広・広小路の祭りや十勝川の花火大会に連れていってくれた継母、八重さんを想って、こみあげてくるものがある。

 

「この、夕暮れの祭囃子の哀しさは、『黒いオルフェ』の「カーニバルの朝」、あのルイス・ボンファの曲の叙情だな」と、思いながら立ち止まって聞き入った。

    ルイス・ボンファ with カティリーナ・バレンテ  「カーニバルの朝」 https://www.youtube.com/watch?v=PVSmKSZoGuQ

この曲の歌詞は、カーニバルの朝を歌っているのだが、昔から、なぜかわたしは、祭りが終わった夕暮れの、疲労と虚脱と、はしゃぎ過ぎた後の、その哀しみを感じる曲だ。1950年代のブラジルの名曲のひとつだろう。

           ルイス・ボンファ 「カーニバルの朝」 https://www.youtube.com/watch?v=qr12M8Ua_iA

Solo in Rio 1959
Smithsonian Folkways
 

 

     


祭りだ、祭りだ、祭りだよ

2017-05-20 | 日記・エッセイ・コラム

午後おそく、そろそろ涼しくなってきたから、浅草寺あたりまで出かけてみようかな、と思っていると、祭囃子が近づいてくるではないか。

(「あしたは、凄いことになると聞いているので、わたしも地元じゃないのでどうなるのか楽しみなんですよ。歩道はまったく歩けないほどの混雑だそうですね」と、きのう携帯ショップの人が言ってたので、そのクレージーな混乱の中には行きたくない。で、午後まで待っていたのだ)

シャワーから出ると祭囃子が大きく聞こえる。裸でベランダから通りを見下ろすと、真下を神輿が通るではないか。

 

街へ出ると、浅草寺界隈だけなく、もう街中が ”祭り、祭り、祭り” 状態だ。「これは、凄いわ!」


三社祭、はじまる

2017-05-19 | 日記・エッセイ・コラム

夕暮れに(昼間暑いので)部屋を出て、街に出た。

三社祭の初日だが、もう日暮れ。雷門前の人出も夕暮れだ。

夕暮れに雷門までやってきたのは、携帯電話の住所変更のためだ。携帯のショップでは、いつもつまらんことでやたら待ちの時間がかかるので、北海道にいるときのようにバッグに本を詰めて出かけた。(北海道の病院はすごいよ。老人たちが待たされ、待たされて、待合室は死体累々だ。冗談ではなく、五年前、末期がんの母と、かかり付けの帯広の総合病院に行ったときは、ぶっ飛んだね。予約しているのに、2時間待ちだ。38キロにやせ細った余命数が月の母が、パイプ椅子のような固い椅子で2時間? 尻の筋肉が、もうまったくないから、座っているのがどれほどの苦痛なのか‥‥‥。こんなことを俺の母親にしていたのか、てめいら! わたしは、二度と帯広のその病院に母親を連れていかなかった。自宅で、毎朝、看護婦さんに点滴をたのみ、近所の内科医の往診をお願いして、自宅で看取った)。

文庫本一章くらい読むほど待たされるだろかね、と覚悟して出かけた雷門前のauショップは、待ち時間もなく、みごとに洗練された親切な応対で気持ち良かった。

住所変更もあるが、通話だけのガラケをスマホにしたとき、最も安い方法は、何か? だが、北海道のショップのおねいちゃんは、『めんどうくさいジジイだな、貧乏人はスマホ使うなよ』という態度アリアリで、わたしは、おねいちゃんの軽蔑にうんざりして、話をやめた。「いやいや、いいです、いいです」と。

きょう、雷門前のショップで、男性の担当者から、じつによく分かる説明を受けた。わたしの知りたいことだった。