Ommo's

古い曲が気になる

「木枯しの少女」ビョルン&ベニーが、ABBAになる

2009-07-16 | 日記・エッセイ・コラム

 京都のChikako さんのメールでは、あす17日は、祇園祭のクライマックス、山鉾巡行がとりおこなられる、とのこと。一度みてみたいものだ。

 雪がちらつくようなときに、なんどか京都に滞在したことがあった。冬は、寒かった。

 梅雨が明けた東京は、いっきに、夏が炸裂した。暑い。

                  

 深夜、なまぬるい川風をあびて散歩した。夜空に、雲はまったくなく、三日月と星が美しい。古代の人々が考えたように、星が亡くなった人の魂なら、あの人は、どの星なんだろうか? 特定できなかった。残念だ。

 星空をみるのに最高なのは、山頂と海の上だ。星をみるためだけに、船旅をしたいものだ。

Chalkitis1 ギリシャのバンド、アフロディテス・チャイルド

 

 きょうは、むかしのヨーロッパのポップス・グループのことから書こうかな。英語圏以外の国から、英語で歌って世界ヒットした人たちのことだ。

 アフロディテス・チャイルドは、ギリシャのロック・グループだ。バンドでイギリスに出稼ぎにいったが、労働ビザをもらえない。不法滞在になるので、ギリシャにもどろうとするが、ギリシャは軍事政権になってしまって、帰国ができない。そこでフランス、パリに一時住んで、クラブでの演奏で食いつなぐことにした。

 そのフランスで発売したシングル盤が、フランス、ヨーロッパで大ヒットしたのだ。「雨と涙 Rain&Tears 」だ。日本でもよく売れた。1968年のことだ。

 フランスでの発売だが、英語の歌詞で歌ったことが世界ヒットの要因だろう。それと、ギリシャの伝統音楽(民謡)の音階をつかった、シンプルで叙情的なメロディーが強くアピールしたのだろう。

 (妙にこねくりまわした音楽より、シンプルでストレートな音楽が、圧倒的に人の心をうつことが多い。「私のつくる音楽は、数百という伝統のブルースとゴスペルを組み合わせて、それに、すこし私らしさを出しているだけだ」と、レイ・チャールズは、謙遜しながらいっている)。

 この大ヒット曲「雨と涙」を書いたのが、グループのメンバーのヴァンゲリスだ。ヴァンゲリスは、このヒットのあと、フランスでテレビや映画の音楽を作曲する。そして、1981年のイギリス映画「炎のランナー Chariots of Fire 」で、アカデミー賞作曲賞を受賞した。

 その後も、「ブレードランナー」や、日本映画「南極物語」など映画音楽を手がけている。また、ソロでのアルバムを発売しつづけていて、ヨーロッパでの人気は高い。日本にもファンがたくさんいた。

Vangeliswallpaper01  ヴァンゲリス

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  アフロディテス・チャイルド 雨と涙 Rain & Tears http://www.youtube.com/watch?v=nnf7ISLpQdw

     ヴァンゲリス 炎のランナー Chariots & Fire http://www.youtube.com/watch?v=TYJzcUvS_NU

 

Shes_my_kind_of_girl_japanese_cover  ABBAの前身、ビョルン&ベニー

 アバは、世界で最も成功したポップス・グループのひとつだろう。スウェーデンのグループだ。上の写真の男性ふたりに女性ふたりが加わって、アバだ。いっとき、それぞれ夫婦だったこともある。

 このビョルン&ベニーのシングル盤「木枯しの少女 She's My Kind of Girl 」は、日本だけで発売になった。1972年のことだ。当時、のちのアバの4人のメンバーで、コンテストなどに出演していたが、まだアバとしてのレコードはでてないときだ。

 この曲は、ふたりがなにか映画のために書いた曲で、ビョルン&ベニーのファースト・アルバムにはいっていた。スウェーデンで録音された曲だが、英語の歌詞で歌われている。スウェーデンではシングル・カットされてなかった。

 北欧スウェーデンの、まったく無名グループの、LP、B面の曲だった。しかし、偉い人がいる。日本のCBSソニーのなかに、この曲が売れると確信した人がいたのだ。日本だけでシングルカットされて、日本の洋楽ヒットチャートの№1になった。

 そして、1972年10月、ビョルン&ベニーは、あとにアバのメンバーになるアグネッタ・フォルツコグとアンニ=フリッド・リングスタッドをともなって来日公演をした。日本では、スーパー・スターのようにうけたのだ。本国スウェーデンでさえ、まだだれも知らないようなグループだった。

 ふたりは、日本での大ヒットとスター待遇に気をよくして、積極的に英語で歌詞を書くことにした。そしてアバをスタートさせたのだ。

 それにしても、この曲を買った日本のポップス・ファンは、いい感性をしてる。他の国でヒットしているかなど関係ない、じぶんで好きな曲がいい曲なんだ、と自信をもっていた。きっと、ほとんど、中学生や高校生たち、十代のお客さんだろう。(いまは、50才代かな)。

 そしてなにより、この無名のグループが、売れるとよんだ、CBSソニーの担当者の先見性は、みごとだ。まさに洋楽ディレクターの鏡だ。のちのアバのヒット曲はすべて、このふたり、ビョルン&ベニーが作詞・作曲している。

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 つまり、アバの成功は、日本のポップス・ファンとCBSソニー(エピック)のディレクターが、あと押しした、ともいえる。(もちろん、ビョルン&ベニーのときからのマネージャーで、アバを育てて世界に売り出した、ポーラ・レコード社長、スティグ・アンダーソンのビジネス戦略があっただろう)。

 (そのすごいCBSソニーの担当者は、堤光生さんだろうか? 1970年代初頭のことだから、CBSソニーは創業して数年しかたっていない。社員はまだ何人もいないときだったろうな。CBSソニーの設立は、1968年。「木枯しの少女」は、CBSソニーのエピック・レーベルからでたが、しかし、アバのレコードは、最初は日本フォノグラム、そのあとは、ディスコ・メイト(ビクター)から発売されたはず。このあたり、わたしの記憶がちょっと曖昧。)

 アバは解散しても、リバイバル・ヒットして、「マンマ・ミーア!」はミュージカルになり、2008年封切りの映画も大ヒットした。解散したいまも、稼ぎに稼ぎつづけているグループなのだ。

Abba_stig_anderson  アバとマネージャーのポーラ・レコード社長、ステッグ・アンダーソン

 

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      ビョルン&ベニー 木枯しの少女 She's My Kind of Girl  http://www.youtube.com/watch?v=I4epcMKqSkM

 

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 ギリシャといえば、ギリシャ出身の大歌手にナナ・ムスクーリがいる。千曲以上を15カ国語でレコーディングをしている。ギリシャ民謡からシャンソン、ジャズ、ポップス。ジャンルにこだわりはない。アテネ音楽院でピアノと和声を専攻しているから、クラシックも得意だ。

 50年代末からパリを活動の拠点にしていた。60年代、70年代は、アメリカで、アメリカのミュージシャンとツアーをやっていたから、アメリカでの人気も高かった。クインシー・ジョーンズがプロデュースをしたアルバムもある。スペイン語でも歌うからヒスパニック、ラテン・アメリカ諸国での人気もあった。そして、日本でも人気があったのだ。わたしのレコード屋にもファンのお客さんがいた。

 メガネをかけてステージに立つ。それがトレードマークだった。(さいきん、日本の女性シンガーにもいる)。

 2005年から2008年にかけて、歌手最後の世界ツアーをやった。北米、南米、オーストラリア、アフリカ、ヨーロッパをまわり、最終日は、2008年7月23日、24日、アテネの劇場だった。これは世界に配信された大ニュースだったが、日本ではまったく報道されなかったという。(日本にもたくさんファンがいるはずだが……)。現在は引退してスイスに住んでいるそうだ。

 ナナ・ムスクーリ Gloria Eterna http://www.youtube.com/watch?v=H5t-rU0x8vw

 ナナ・ムスクーリ&フリオ・イグレシアス La Paloma http://www.youtube.com/watch?v=E2kuW-SYnXM&feature=related


映画「シャフト」と「スーパー・フライ」、監督は親子なのだ

2009-07-15 | 日記・エッセイ・コラム

 夜、散歩していると、いろいろな虫の声がきこえる。秋でもないのに、にぎやかだ。

 ボクシング・WBCバンタム級、チャンピオンの長谷川穂積は、強い。世界ランク4位の挑戦者、アメリカのネクトール・ロチャを1ラウンド2分28秒で倒した。

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Superfly1 映画「スーパー・フライ」サントラ

 アイザック・ヘイズが演奏するテーマ曲がヒットした映画、「シャフト(黒いジャガー)」は、1971年の封切りだった。翌年、1972年に封切りになったのが、「スーパー・フライ」だ。カーティス・メイフィールドが歌うサントラ盤は、R&Bチャートの№1になった。北海道・帯広のわたしの店でもよく売れた。

 (この時代の「シャフト」や「スーパー・フライ」などの黒人映画を、「ブラックプロイテーション映画 Blaxploitation Films」というそうだ。blackとexploitation を合わせた造語らしい。まあ、マスコミがつくる、そんな造語など、どうでもいいが。映画の内容は、ヤクの売人、ポン引き、ギャングなど黒人の悪党と、黒人の私立探偵や刑事が闘う、というアクション映画が多かった)。

 カーティス・メイフィールドは、ザ・インプレッションズのとき、「ピープル・ゲット・レディ」のヒット曲がある。作詞・作曲も、カーティス・メイフィールド自身だ。この曲は、白人のロッカーたちに好かれて、多くのカバー・ヴァージョンがある。

 黒人の公民権運動が最高にもりあがっていた時代の曲だ。歌詞は、まさにキリスト教の宗教歌、ゴスペルだが、それだけじゃない。あの時代だ。黒人たちの連帯を呼びかける政治的なメッセージをふくんだ曲だ。1965年のヒット曲だ。

 (ワシントン大行進が、1963年。人種差別を禁じた公民権法が成立したのが、1964年。マルカムXが暗殺されたのが1965年。キング牧師が暗殺されたのは、1968年だ。公民権法ができても、黒人差別が解消されるわけもなく、人種間の対立、黒人運動家同士の争い、ベトナムの戦争は泥沼で、アメリカ国内は、荒れに荒れていたのだ。1967年には、黒人の毛沢東主義者たちによって、ブラックパンサー党が結成された。武装した過激派の政治結社だ)。

               

6a00d8341d0f1153ef00e54f643dc788346 「シャフト(黒いジャガー)」の監督、ゴードン・パークス

Shannon 「スーパー・フライ」の監督、ゴードン・パークス・ジュニア

 映画「シャフト(黒いジャガー)」の監督、ゴードン・パークスは、フォト・ジャーナリストとしてライフ誌などで名をあげた。写真家としてのジャンルは広い。ヴォーグ誌のファッション・フォトでも、ハリウッド・スターのポートレートなどでも活躍した。

 写真だけじゃない。詩集を出版し、小説をだした。エッセイも、評論も書く。ピアノでジャズを演奏して、作曲もする。バレエ曲も書いている。そして、映画製作だ。プロデューサーで、監督だ。2006年に93才で亡くなった。

 映画「スーパー・フライ」は、その偉大なゴードン・パークスの息子の監督作品だ。しかし、ゴードン・パークス・ジュニアは、この映画をふくめて4本の映画を残しただけで亡くなった。撮影先のケニア、ナイロビで飛行機事故にあったのだ。

300pxgordonparkslife03081968  ライフ誌の表紙、ゴードン・パークスの写真

Lg_7289781_gordon_parks30 これもゴードン・パークスの作品

  Parks_bergman  このイングリッド・バーグマンも、ゴードン・パークスの写真

Wood_amgothic  グラント・ウッドが描いた有名な絵、1930年製作。タイトルは「アメリカン・ゴシック」。

 

Gp1 この写真のタイトルも、「アメリカン・ゴシック」。上の絵のパロディーだ。写真家ゴードン・パークスを一躍有名にした作品。いわばデビュー作。1942年に発表された。

                

   写真家ゴードン・パークスの作品を紹介しているページ http://www.pdngallery.com/legends/parks/mainframeset.shtml

   黒人映画監督の作品を紹介しているページ http://www.lib.jmu.edu/smad/aadirectors_new.aspx

Shaft  「シャフト」は、2000年、サミュエル・ L・ジャクソン主演でリメークされた。

                   

 十勝の木のうつわの、佐々木要さんのブログに、月見草の写真と、「(月見草が)~似合う」という有名な語句がある。http://tokatinoki.jugem.jp/ その、「富士には、月見草がよく似合う」のフレーズは、太宰治の短編小説「冨嶽百景」のなかにある。

 太宰治は、師匠の井伏鱒二が定宿にしていた、山梨県の甲府市にちかい御坂峠の茶屋に泊まりこんで、小説を書いていた。この峠から巨大な富士山がドーンとみえる。その御坂峠でのことを書いた私小説だ。

                 

   『私は、どてら着て山を歩きまわって、月見草の種を両の手のひらに一ぱいとって来て、それを茶店の背戸に播(ま)いてやって、
「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちゃいけないよ。」娘さんは、うなずいた。
 ことさらに、月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合うと、思い込んだ事情があったからである。』

   『御坂峠のその茶店は、謂(い)わば山中の一軒家であるから、郵便物は、配達されない。』

   『河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色の被布(ひふ)を着た青白い端正の顔の、六十歳くらい、私の母とよく似た老婆がしゃんと坐っていて』

   『「おや、月見草。」
 さう言って、細い指でもって、路傍の一箇所をゆびさした。さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残った。
 三七七八米の富士の山と、立派に相対峠(あいたいじ)し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすくっと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。』

                      

              

 北海道でいう月見草は、マツヨイグサのことで、月見草とちがうらしい。わたしも、月見草とは、あのすっと立った黄色い花のことだと思っていた。太宰治が、冨士に似合うといった月見草も、北海道の月見草、マツヨイグサ(待宵草)のことのようだ。この小説の描写からもそれが想像できる。

800pxhana6268  これが月見草、ということらしい。わたしは、最近まで、北海道でいう月見草こそ、月見草だと、かたく信じていたのだが……。まあ、太宰治とおなじだから、いいか。

 カーティス・メイフィールド Super Fly http://www.youtube.com/watch?v=VrHezTLex2s&feature=fvw

 カーティス・メイフィールド People Get Ready http://www.youtube.com/watch?v=VQqTxK7VhSk&feature=related

  ジェフ・ベック People Get Ready http://www.youtube.com/watch?v=omjS9QxZ-8w&feature=related


ブルーノートが70周年

2009-07-14 | 日記・エッセイ・コラム

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 サガラ音楽堂さんによると、ブルーノートが創立70周年だという。ブルーノートは、ドイツからアメリカにやってきたアルフレッド・ライオンが設立したジャズ専門のレコード会社だ。

 わたしの、ブルーノートのベスト・アルバムは、ジャケット的には、ソニー・クラークの「クール・ストラッティン」かな。女性の足の写真が印象的だ。のちにウエス・モンゴメリーの「ロード・ソング」や「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」などCTIレコードで、写真家ピート・ターナーの写真を大胆に、美しくつかうが、そのさきがけといえるデザイン・センスだ。

 ブルーノートの写真の多くは、やはりドイツからきた写真家フランシス・ウルフが撮影している。

 タイトルでは、ホレス・シルバーの「ソング・フォー・マイ・ファザー」。母に捧げるバラードは海援隊だが、これは、父に捧げる曲だ。ジャケット写真の、座ってる人が、ホレス・シルバーのお父さん。曲は、ボサノバをつかった、じつに心温まる旋律だ。

 音楽でベストは、たくさんすばらしいアルバムがあるが、ごく個人的な好みで、ジャッキー・マクリーンの「アバウト・ソウル」かな。ジャッキー・マクリーンのゴスペルぽい曲にあわせて、黒人女性詩人、バーバラ・シモンズが、詩を朗読する。奴隷にたえた黒人の魂をたたえる詩だ。歌じゃない。朗読だ。いまのラップのさきがけともいえる。このアルバムを、帯広三条高校山岳部の先輩、かつみさんから、20才の誕生日にいただいた。

Albumcoversongformyfather 「ソング・フォー・マイ・ファザー」

51e0b7iikgl__ss500_ 「アバウト・ソウル」

300portrait  写真家、ピート・ターナー

 

01  CTIレコードのアントニオ・カルロス・ジョビンのアルバム「Wave」につかわれた、ピート・ターナーの写真。

 日本で販売していたブルーノートのレコードは、すべて輸入盤だった。社長のアルフレッド・ライオンが、商売よりも、音質の落ちることを嫌って、外国のレコード・メーカーが、カッティング、プレスすることを許可しなかったのだ。

 レコードは、最終的な音源のテープができると、まっさらな原盤に音の溝が刻まれる。日本でもドイツのメーカー、ノイマンのカッティング・マシーンをつかう。この作業が、じつに職人仕事なのだ。溝の深さ、幅などは、人の手で調整される。このときのエンジニアの腕、好みで音質は大きく左右される。だから、おなじマスター・テープの音源で原盤をカットしても、アメリカのレコード・メーカーと日本ではおなじ音にならない。

 しかし、どれがいいかは、けっこう好みの問題でもある。日本のカッティングはトップ・レベルだという人もいる。現にクラシックなどでは、日本のメーカーに依頼して制作した原盤をつかうヨーロッパのメーカーがあった。

 ブルーノート社長のアルフレッド・ライオンは、じぶんで作った音がブルーノートの音で、それを加工されたくなかったのだろう。じぶん自身で、メンバーを集めて、録音する曲を決め、レコーディング・エンジニアをやってマスター・テープをつくり、原盤までカットしていた人だ。ドイツ人らしい実直な職人気質もあるのだろう。

Alfred_dexter442 アルフレッド・ライオンとディクスター・ゴードン

 

    写真家ピート・ターナーのホームページ http://www.peteturner.com/

    ジャッキー・マクリーン・クインテット Cool Struttin' (1986年、日本。Mt.フジ・ジャズ・フェス)http://www.youtube.com/watch?v=fZnZnU7F0R8&feature=related


「ホールド・オン」は、「シャフト」のアイザック・ヘイズの曲だ

2009-07-13 | 日記・エッセイ・コラム

 帯広『ふく井ホテル』のホームページが、リニューアルした。なかなか、かっこいい。http://www.fukuihotel.co.jp/ 

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 昨年8月、アイザック・ヘイズが、65才で亡くなった。

 アイザック・ヘイズは、1972年、映画「シャフト」のテーマで、アカデミー賞主題歌賞を受賞した。黒人作曲家が、アカデミー賞をとったのは、はじめてのことだった。

 この「シャフト」の音楽で、ゴールデングローブ賞、そしてグラミー賞を受賞した。

 「シャフト」は、黒人私立探偵、シャフトが活躍する映画だ。監督のゴードン・パークスは、元フォト・ジャーナリストの黒人だ。『ブラック・イズ・ビューティフル』の時代にふさわしい、まさにブラック・アクション・ムービーだった。

 「シャフト」は、帯広の映画館でも封切りになった。映画がヒットしたか知らないが、わたしの店で、サントラ盤が売れた。1971年の映画だから、いま60才前後の人たちが買ってくれたのだろう。

 (この時代、わたしも髪をアフロ・ヘアーにしていた。いまは、やりたくても、その髪が無い)。

シャフト

 デトロイトのモータウン・レコードは、ポップで軽いのりが得意だった。おなじころ、南部のテネシー州メンフィスには、伝統のサザン・ブルースを継承した、真っ黒いソウル・ミュージックを製作する、スタックス・レコードがあった。

 そのスタックス・レコードのスタジオ・ミュージシャンで、アレンジャーで、プロデューサーがアイザック・ヘイズだった。ピアノ、オルガン、サックスを演奏し、歌う。曲も書く。

 サム&デイブ、1966年のビッグ・ヒット、「ホールド・オン Hold On,I'm Comin' 」と「ソウル・マン Soul Man 」は、アイザック・ヘイズの曲。アイザック・ヘイズとデヴィッド・ポーターのコンビの作品だ。

 

Memphis  左がアイザック・ヘイズ、右端がデヴィッド・ポーター

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  アイザック・ヘイズ Shaft  http://www.youtube.com/watch?v=zM3mfMHGnXI&feature=related

  サム&デイブ 「ホールド・オン Hold On, I'm Comin' 」http://www.youtube.com/watch?v=u_juH0AHvwk&feature=related  

  サム&デイブ 「ソウル・マン Soul Man 」http://www.youtube.com/watch?v=B26ORjxQdNA&feature=related 

 

 


マイルス・デイビスとジュリエット・グレコは、仲良しだった

2009-07-12 | 日記・エッセイ・コラム

 

Juliettemiles  マイルス・デイビスとジュリエット・グレコ

 エルビス・コステロがカバーした「She」は、フランスのシャンソン歌手、シャルル・アズナブールの曲だ、と、きのう書いた。

 「枯葉」は、1946年のフランス映画「夜の門」の挿入歌だ。イブ・モンタンが歌った。シャンソンのスタンダードとして好んで歌われ、とくに、ジュリエット・グレコの歌で人気があった。(日本でも人気がある曲だった)。作曲は、ハンガリー出身の作曲家、ジョゼフ・コズマ。作詞は、映画作家で詩人、童話作家、作詞家のジャック・プレヴェール。

 (ジュリエット・グレコとマイルス・デイビスはとても仲がよかった。パリで結婚した、ともいわれる)。

    ジュリエット・グレコ 「枯葉 Les Feuilles Mortes」 http://www.youtube.com/watch?v=n9Sfx3c7fR0

 この曲はアメリカにもちこまれて、英語の歌詞がつけられた。「Autum Leaves」 だ。いまもジャズのスタンダードとして愛され、演奏される。

 英語の歌詞を書いたのは、ジョニー・マーサーだ。ジョニー・マーサーは、キャピトル・レコードの創始者でジャズ・シンガー。そして、千曲をこえる曲を書いた大作詞家だ。「ムーン・リバー」「酒とバラの日々」は、ヘンリー・マンシーニと組んだ作品だ。

Johnny_mercer_48f63f3d0bca5  ジョニー・マーサー

 まえにもふれたが、ニーナ・シモンやダスティー・スプリングフィールドの歌でヒットした「行かないで If You Go Away 」は、シャンソン歌手、ジャック・ブレルの作品だ。ジャック・ブレルは、ベルギー出身だが、フランスで活躍した。シンガーで作詞作曲家、詩人。俳優で、映画監督だ。

 いまもジャック・ブレルの作品は世界中で愛され、カバーされている。スティングも「行かないで」を、原曲どおりフランス語で歌っている。http://www.youtube.com/watch?v=R0vomV6qtf8&feature=related

 Jacquesbrel ジャック・ブレル

      ジャック・ブレル 行かないで Ne Me Quitte Pas http://www.youtube.com/watch?v=RKMqCqjixyo&feature=related

                   

            

 わたしは、19才のとき、札幌大学を休学して、東京にでてきた。蒲田蓮沼のアパートに住んで、代々木にあった日ソ学院のロシア語中級のクラスに入った。(帯広でレコード屋になるすこしまえのことだ)。

 アパートは三畳間で、共同のトイレ・炊事場だった。その炊事場で、いつもインスタントラーメンをつくった。ある日、ラーメンをつくっていると、おなじアパートに住むタクシー運転手の奥さんがやってきて、電気ポットに水をいれ、黙って部屋にもどっていった。

 しばらくすると、奥さんは、「おにいさん、ソバばっかり食べてると、体こわすよ」といって、どんぶりに山盛りの、あたたかいご飯を置いていってくれた。

 いま、夜食のラーメンをつくっていて、突然、、そんな40年もむかしのことを鮮明に思いだした。(しかし……40年たって……生活は、初心に帰った)。

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 帯広「ふく井ホテル」のホームページが新しくなった。http://www.fukuihotel.co.jp/


She は、シャルル・アズナブールの曲

2009-07-11 | 日記・エッセイ・コラム

  旧江戸川遊歩道の帰り、浦安の街を通ってきた。土曜日だ。どこの飲み屋も、若者でいっぱいだ。(わたしからみれば、だれもがみんな、若者だ)。景気は、たしかに立ち上がっているのかもしれない。銀座の中央通りを散歩しても、そう感じる。去年より、たしかに街はにぎやかになってきている。

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 『「スマイル」、いい曲ですね。エルビス・コステロや日本のトランペター&ボーカリストのTOKU が歌っている 「She」 も好きな曲です」と、敦賀浩隆くんからメールをいただいた。

 「She」のオリジナルは、フランスのシャンソン歌手で、作曲家、俳優のシャルル・アズナブールの曲だ。

   シャルル・アズナブール She http://www.youtube.com/watch?v=d_pXZ-hDVxw

 「She」が、世界的に有名になったのは、1999年の映画「ノティング・ヒルの恋人」のサントラのなかで、エルビス・コステロがカバーしてからだろうか?

 「ノティング・ヒルの恋人」は、ヒュー・グラントとジュリア・ロバーツが主演のラブ・コメディーだ。ロンドン、ノティング・ヒルで小さい書店を経営するおっさん(お兄さん)と、ハリウッドのトップ女優が恋に落ちる、というお話。

 主人公(ヒュー・グラント)の妹、同居している友人、本屋の店員。この3人がやたらおかしい。妹を演じるのは、エマ・チャンバース。いかれた友人は、リス・エヴァンス。店員は、ジェームス・ドレーフス。

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 シャンソン歌手、シャルル・アズナブールは、曲を書き、歌う。ステージのパーフォマンスもみごとな才人だ。まるで短編小説の主人公になったように、一曲の詞の世界へ観客をひきこむ。みごとだ。歌が、ほんとうにうまい!

 1964年にシルビー・バルタンが歌って日本でもヒットした「アイドルを探せ」は、アズナブールの作詞・作曲だ。そして、おさえた渋い演技の名優でもある。60本以上の映画に出演している。

 シャルル・アズナブールも、イブ・モンタンとおなじように、無名の若いとき、エディット・ピアフによって才能を認められた。エディット・ピアフのフランス、アメリカのコンサート・ツアーに同行してメジャー・デビューをはたした。

 (「愛の賛歌」で有名なエディット・ピアフは、フランスの歌手で、ソングライターだ。彼女のことは、またちがう日に書こう。アメリカにビリー・ホリデーがいれば、フランスにはエディット・ピアフがいる。ふたりは、まさに世紀の大歌手だろう)

   シャルル・アズナブール  イザベル Isabelle http://www.youtube.com/watch?v=lWhbsCdsru4

 1950年代、日本では、フランス映画とシャンソンが愛された。そのあとも、秋になると、イブ・モンタンの「枯葉」が流れ、冬にはアダモの「雪が降る」が流れたものだ。シャルル・アズナブールの「イザベル」は、日本でもヒットした曲だ。かって日本人は、フランス人のつくる音楽が好きだったのだ。

Yves_montand_promo_photo  イブ・モンタン

 イブ・モンタン デビューの「枯葉」 http://www.youtube.com/watch?v=JWfsp8kwJto

 イブ・モンタン 晩年のオリンピア劇場での「枯葉」 http://www.youtube.com/watch?v=kLlBOmDpn1s&feature=related

 

 むかし、東川佳人くんとシャンソン歌手のジルベール・ベコーのコンサートをみた。そのショーマン・シップに感動した。ジルベル・ベコーは、「そして今は」の作者だ。アメリカの、プレスリーやフランク・シナトラなどのシンガーがカバーした曲、What Now My Love が、「そして今は」。日本の歌手も歌っていた。

 帯広の「ふく井ホテル」のホームページが新しくなった。http://www.fukuihotel.co.jp/


グラニー・ナニーは、ジャマイカの英雄

2009-07-10 | 日記・エッセイ・コラム

Rideforlibzz  1862年にイーストマン・ジョンソンが描いた逃亡奴隷の家族。「A Ride for Liberty -- The Fugitive Slaves」

 南北アメリカや西インド諸島につれてこられた黒人は、なにも黙って奴隷にあまんじていたわけじゃない。たびたび反乱を起こし、逃亡した。

 逃亡奴隷は、マルーン Maroon と呼ばれる。荒野に逃げこみ、砦を築き、武装して、独立した共同体をつくった。18世紀にできたマルーンの集落で、現在まで白人たちと闘いぬき、アフリカの文化を守りつづているところもあるのだ。

 ジャマイカでは、1655年に起きた黒人奴隷の反乱が、84年間もつづいた。その戦争のなかから、いまもジャマイカ国民に敬愛される黒人女性指導者がでてくる。グラニー・ナニーだ。彼女も逃亡奴隷、マルーンだ。武装した黒人たちをひきいて、イギリス軍と戦った。プランテーションから解放した奴隷は500人をこえる、といわれる。

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 1975年、ジャマイカ政府は、グラニー・ナニーを国の英雄として紙幣に肖像をのせた。

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 逃亡奴隷、マルーンの共同体は、ブラジル、ハイチ、ジャマイカなど黒人奴隷がつれてこられた各地にできた。もちろん、北アメリカにもできる。奴隷にあまんじるより、自由のために、死を賭け戦う男や女がいたのだ。

 アメリカの逃亡奴隷は、フロリダの森林やアリゾナの荒野に逃げこみ、武装した共同体をつくった。そして、先住のインディアンと連携したのだ。インディアンの兵として闘うものたちもいた。

 現代でもインディアンの血が入っていると、誇らしげにいう黒人たちがいる。逃亡奴隷とインディアンとの、こういう歴史があるからだろうか?

 メキシコに逃げこむマルーンたちもいた。メキシコは、奴隷を禁止していたのだ。アメリカよりメキシコのほうがモラルが高かったということだ。

 (日本の鎖国は、徳川幕府がヨーロッパ人の奴隷制度を嫌悪したから、という説もある。まあ、ひとつの説だが……日本の武士たちは、白人がアフリカ人を捕らえて売買していたことを、よく知っていた)。

 メキシコに逃亡したマルーンたちの多くが、メキシコ政府軍に入り戦った。戦士として、その闘争心と戦闘能力、追跡力とスタミナは、抜群だったのだ。

 アメリカ政府は、姑息にも、このメキシコ政府軍にいる逃亡奴隷に目をつける。自由とひきかえに呼びもどすのだ。インディアンとの戦争につかうためだ。アメリカにもどった黒人たちは、最前線の斥候兵として大活躍した。

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 マルーンとグラニー・ナニーに関する記事(英語) http://www.edunetconnect.com/cat/soccult/grnan.html

 この何日か黒人の女性シンガーを紹介している。先月、フージーズのローリン・ヒルのことを書くために、彼女の歌をじっくり聴いた。

 しばらく流行りの音楽から離れていて、新しいものなど聴く必要がない、とも思っていた。そう思っていたのは、きっと、テレビで日本の若い歌手をときどき観ていたからだったのだ。

 しかし、ローリン・ヒルを聴いて、これは認識があまかった、と気づいた。やはり、ブラック・ミュージックは、おもしろい。刺激的で、そして楽しい。若い才能がどんどんでている。

 恋心や女性の心を表現させると、ビリー・ホリデーのむかしから、黒人女性はすばらしい。いま、才能ある若いシンガーがたくさんいる。これはちょっと真面目に聴いてみようか、と思っている。

Jennifer Hudson

 

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 ジェニファー・ハドソンは、7日のマイケル・ジャクソンのメモリアル・サービスで、マイケルの曲 Will You Be There を歌った。http://www.youtube.com/watch?v=LJxWDJZbWcg&feature=fvsr この曲の全部の映像は、ジェニファー・ハドソンの公式サイトでみることができる。http://www.jenniferhudsononline.com/

 映画「ドリームガールズ」で鮮烈にデビューをしたジェニファー・ハドソン。このデビュー作で、アカデミー賞助演女優賞、ゴールデングローブ賞助演女優賞、イギリス・アカデミー賞を受賞した。映画のなかの、 And I Am Telling You, I'm Not Going の熱唱は圧巻だった。

 ジェニファー・ハドソン Spotlight http://www.youtube.com/watch?v=5ojza4LcC-4&feature=related

  ジェニファー・ハドソン And I Am Telling You ,

I'm Not Going  (映画「ドリームガールズ」より)http://www.youtube.com/watch?v=V3lTXB4t2so

 ジェニファー・ハドソン オフィシャル・サイト http://www.jenniferhudsononline.com/

 マイケル・ジャクソンが歌う Will You Be There http://www.youtube.com/watch?v=PvYygjcMDdQ

 

 帯広の「ふく井ホテル」のホームページが新しくなった。http://www.fukuihotel.co.jp/


「スマイル」は、チャップリンの曲

2009-07-09 | 日記・エッセイ・コラム

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 ほとんど満月(きのうが満月)の光をあびて、川風にふかれて歩いた。遠くに東京タワーがみえる。あそこまで歩こうか。いつも、そういう衝動にかられる。『3時間くらいかな?』、風が気持ちいい、午後11時だ。

 早朝のマイケル・ジャクソン追悼セレモニー、メモリアル・サービスで、兄のジャーメン・ジャクソンが、「スマイル Smile 」を歌った。マイケルが、小さいときから好きだった曲だという。

 「スマイル」は、喜劇王といわれたチャーリー・チャップリンが作曲した曲だ。映画「モダンタイムス」(1936年)のために書かれた。チャップリンは、監督、俳優だが、じぶんの映画の曲は、じぶんでつくる。センチメンタルで、メランコリーで、心温まる曲を書く。名曲「ライムライト(テリーのテーマ)」も、チャップリンの曲だ。

 

Sn_charliechaplin  チャーリー・チャップリンの素顔。このイケメンの顔に、クラウンの厚い化粧をして、ステッキを持って、がに股で歩いて、三枚目を演じた。もちろん、台本は、全部、じぶんで書く。

                 

 モータウン・レコードの創始者、バリー・ゴーディーが挨拶をした。ジャクソン5 をメジャー・デビューさせた人だ。ダイアナ・ロスとスティーヴィー・ワンダーも、この人が育ててスーパー・スターにした。黒人文化史に残る偉大なプロデューサーだろう。

 「ABC」「I'll Be There」の大ヒットでスターになったあと、ジャクソンズは、モータウン・レコードをはなれて、エピックと契約をする。

 エピックに移ってから、マイケル・ジャクソンは、クィンシー・ジョーンズのプロデュースで世界的な成功をつかんだ。

 バリー・ゴーディーには複雑な思いがあるだろう。しかし、10才のマイケル・ジャクソンとの出会いのことから話はじめて、マイケルの音楽の影響力の大きさと、黒人アーティストとしての才能をたたえ、そして、心から、喪失の悲しみをあらわした追悼の言葉だった。

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 ジャーメン・ジャクソン マイケル・ジャクソン・メモリアル・サービスでの「スマイル」http://www.youtube.com/watch?v=8SYhbT2W4YY

                         

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 キーシャ・コール Keyshia Cole は、2004年にデビューしたR&B のシンガー・ソングライター。「ヘヴン・セント」は、ビルボードのR&B/ヒップホップ・チャートの№1になった。

 キーシャ・コール Heaven Sent http://www.youtube.com/watch?v=kTPrDCCJbwk&feature=channel

   キーシャ・コール オフィシャル・サイト http://www.keyshiacole.com/

 ユニバーサルのキーシャ・コールのページ(日本語) http://www.universal-music.co.jp/u-pop/artist/keyshia_cole/

 マイケル・ジャクソン・メモリアル・サービスのすべて、177分をインターネットでみることができる。最初の33分くらいはみなくていいだろう。まだセレモニーははじまっていない。33分すぎに、ゴスペルが歌われ、マイケル・ジャクソンのお棺が、ジャクソン兄弟によって運ばれる。  http://www.inentertainment.co.uk/20090708/michael-jackson-memorial-service-177-minute-repeat/

 

              

 写真家、戸張良彦さんのサイトに、「はまなし」「ラップサイレージ」の写真がある。http://www.y-tobari.jp/topics/?ct=1  きっと、戸張さんの指摘のように、「浜梨」は、「無し」の語音を嫌って、「浜なす」になったのだろう、きっと。

 「ラップサイレージ」とは、牧草を保存する方法のひとつだ。サイレージは、牛のための発酵食品で、むかしは、牧草をサイロという密閉したところに詰めこんで発酵させた。保存性があって、牛が好んで食べる。きっと植物繊維の糖分が発酵変化して、人にとっての、味噌やヨーグルトやチーズや、酒のように、牛の心をゆさぶる食い物なのだろう。

 むかしは、サイロという建物を建てて(これが金がかかる)、このサイレージを作って、乾燥牧草といっしょに冬の牛の食料にした。

 ところが、30年くらいまえから、乾燥した牧草をまるめて、巨大なビニールで包んで、そのまま畑に放置する、という方法がサイレージ製造の主流になった。このビニールのなかで、牧草は発酵していく。サイロのなかとおなじだ。

 わたしも戸張さんとおなじで、このビニールにつつまれた巨大な黒い塊が、畑をうめつくす光景をみて、なんとも違和感があった。しかし、いまや、これもまた、十勝の風景だろうな。


アイワのマイクロカセット・ステレオラジカセを愛用した

2009-07-08 | 日記・エッセイ・コラム

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 きのうは、てんとう虫のレコード・プレーヤーが、発売になっていることを紹介した。上のようなシングル盤専用のプレーヤーも発売されている。むかしの話じゃない。いまのこと。日本の東洋化成が発売している。スピーカー内蔵で、電池だから、どこでも聴けるわけだ。

 しかし、いま現在、こういう製品の需要があるというのが、驚きだ。

 東洋化成では、現在もレコードを製作している。http://www.toyokasei.co.jp/ ここでは、ブルーノートの輸入盤(最近プレスした新品、アナログ・レコード)をあつかっている。しかし、ほとんど完売、SOLDOUT だ。http://00551100.shop-pro.jp/?mode=f9

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 わたしがかってコンサートの旅に持ち歩いて愛用した、アイワのマイクロカセット、FM/AM ステレオラジカセ。ネットで写真をみつけた。なつかしい。マイクロカセットだがら、幅はA4 ノートくらいだ。小さい。バッグのなかで、それほど荷物にならない。ホテルの部屋で、スピーカーからステレオ音をたのしめる。電車のなかではヘッドフォンでも聴ける。

 でも、テープをつくるのがめんどうだった。あの作業が好きな人たちが多いが、わたしは苦手だ。

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 いまは、こんな製品もある。iPod を再生する真空管アンプなのだ。

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Epiphany

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 クリセッテ・ミッチャルは、2007年、アルバム「I Am」でデビューした、R&Bのシンガー・ソングライター。ことし、Be OK でグラミー賞を受賞した。5月に発売になったセカンド・アルバム「Epiphany」は、全米チャート№1になった。

 クリセッテ・ミッチャル Be OK http://www.youtube.com/watch?v=Kn3xTWjJKik

   クリセッテ・ミッチャル オフィシャル・サイト http://www.thisischrisettemichele.com/

 午前2時半くらいからはじまった、マイケル・ジャクソン追悼セレモニーを、インターネットのCNN ライブでみていた。体細胞の水分濃度が変わるほど、泣いた。

 スティーヴィー・ワンダーの歌は、すごかった。可愛い後輩を失った悲しみと、怒りを、これほど激しく表現するのか、と、わたしは、こみあげるものがあった。http://www.youtube.com/watch?v=aejQHbet5YY

                  

    マイケル・ジャクソン Smile http://www.youtube.com/watch?v=nCpD72b-dfs&feature=related


てんとう虫のレコード・プレーヤー

2009-07-07 | 日記・エッセイ・コラム

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 このてんとう虫のレコード・プレーヤーは、けっしてむかしのものじゃない。いま販売している製品なのだ。こういう遊び心のあるプレーヤーで、子供たちとアナログ・レコードを楽しんでいる人たちが、いま現在いるということだ。

 むかし、まだビートルズが現役だったころ、ロックも、R&Bも、やたらくわしい女友達がいた。彼女のところで、このてんとう虫のプレーヤーにちかい、プラスチックのチープなレコード・プレーヤーをみた。ちょっとショックだった。大出力のアンプ、大きなスピーカーの時代だった。

 ショックだったのは、なにも高級なオーディオ装置で聴いているからといって、音楽の本質を理解でいるわけじゃないのだな、と気づいたからだ。誕生日に、おばあちゃんが買ってくれたプラスチックのプレーヤーをずっと愛用してきた、と彼女がいう。

 思い出せば、わたしの最初のレコード・プレーヤーは、母の実家の電気屋で捨てられるプレーヤーをもらいうけたものだった。クリスタルのイヤフォーンを直結して聴いた。アンプはない。これで、ブラザーズ・フォーの「アラモの歌」や、ニール・セダカの「恋の片道切符」などのシングル盤を聴いた。つぎに、5球スーパーのラジオをもらい、このレコード・プレーヤーをつないだ。やっとスピーカーから音がでた。

 ブラザーズ・フォー 「アラモの歌 The Green Leaves of Summer http://www.youtube.com/watch?v=E-Vwvf1qAMA

 

 いまも中古であれば、ネットの通販で、ほとんどのレコードを手に入れられる。ヒットしたものほど市場に多いので安い。ものによっては、LPが100円、200円で買える。

 レコード・プレーヤーは、いろいろなメーカーから発売されている。上は100万円をこえるものから、3000円くらいで買えるものもある。DJ用じゃなく一般用の、十分な機能の、2万円しないやつが、ソニーからもデノンからもでている。

 レコード針も、レコード・クリーナーもネットで購入できる。それだけじゃない。日本コロンビアでは、復刻盤を発売している。http://columbia.jp/LP/index.html CD化した復刻盤という意味じゃない。アナログ・レコードの復刻盤だ。3,990円と安くはないが、ちあきなおみは、ほぼ完売で、「ちあきなおみ 船村徹作品集」が、わずかに残っているという。http://columbia.jp/LP/music/COJA-9245.html

 わたしは、国内のどこかのレコード・メーカーが中心になって、各社からマスター・テープかマザー・ディスクを借りて、アナログ・レコードの復刻盤を発売すると、それなりビジネスになるだろう、と、ずっと考えている。文化史的な意義もあるだろう。

        

 こんな製品まである。針のいらないレコード・プレーヤーだ。レーザー光線で溝を読む。デジタルじゃない。完全アナログだ。http://www.laserturntable.co.jp/index.html

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In a Perfect World...

 日本ではあす、7月8日発売のケリー・ヒルソン「イン・ア・パーフェクト・ワールド」。デビュー・アルバムにして、ビルボードR&Bチャート№1。デビューだが、ソングライターとしてのキャリアは長い。彼女が曲を提供したアーテイストのアルバムは、すでに1000万枚を超えて売れている、という。

 ケリー・ヒルソン Knock You Down http://www.youtube.com/watch?v=FF5Q1jr28PM

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 ケリー・ヒルソン オフィシャル・サイト     http://www.kerihilsonmusic.com/

 ユニバーサルによる、ケリー・ヒルソンのページ (日本語) http://www.universal-music.co.jp/u-pop/artist/keri_hilson/index.html

                           

 中国・ウイグル自治区で「暴動」とテレビ・ニュースにある。違うだろう。それは中国政府の通信社、新華社が配信していることだ。「暴動」ではなく、ウイグル人のデモ隊を中国武装警官が武力弾圧した。それで死者がでた、というのが真相だろう。先月、ウイグル人が二人、漢族たちに殴り殺された。それに抗議してのデモが発端だ。

 人種も民族も違う。言語も違う。宗教も違う。共通の歴史体験もない。ましてや、漢族の土地ですらないのだ。独立させてやったらいいだろう。21世紀だというのに、こんな恥ずべき植民地支配をしている中国人こそ、欲望で血迷っている。

 石油、天然ガスなど地下資源、そして中国の核兵器実験基地が、ウイグルにある。中国人の欲望は、他民族の命など問題にしてない。

 ウイグル族が現に住んでいるところで、核爆発実験をくり返してきた。ウイグル人に犠牲者があったことは隠されている。数十万人が核爆発で直接犠牲になったらしいし、被爆者の病死の数は膨大らしい。すべて隠されている。中国人とは、すさまじい。

 ウイグルは、清朝によって征服支配されたあとも、独立運動がつづいて、「東トリキスタン共和国」として独立宣言をする。しかし、1949年に中国本土の支配権を手にした中国共産党軍が侵入して、武力支配する。

 まず、すべてのウイグル人教師を逮捕して処刑した。数年で25万人のウイグル人が中国共産党軍に処刑された。中国人(漢族)支配にすこしでも不満を持つ者は、『分裂分子』として処刑されたのだ。

 昨年オリンピック前に弾圧されたチベットでは、漢族が6%くらいだが、ウイグルでは、漢族は、すでに46 %を超えている。今回騒乱が起きたウルムチでは、漢族が最多民族になっている。ウイグルが、漢族にとっていかにおいしく、欲しい土地か。わかりやすい。そして、中国人とは、いかに強欲で、粗暴か。

 おそらく、今回の騒動も、中国共産党政府から仕掛けたのだろう。徹底的に弾圧する口実だ。民族浄化して、ウイグル人を駆逐して、完全に漢族の土地にしようとしているわけだ。まさに、先住民族の虐殺だ。

 経済危機で、アメリカは、すっかり中国の金を当てにしているから、いまや、中国は、やりたい放題だ。中国の人権侵害など、いまやだれも口にしない。

 


ふたりは、七日間歩きつづけた

2009-07-06 | 日記・エッセイ・コラム

 1977年3月。わたしは、似内清高くんと田中やすおくんのテントや寝袋の荷物を、鵡川の交番にあずけた。「夕方、大学生ふたりが徒歩で着くので、それまであずかってほしい」と。しかし、最初はいぶかる。そのあとも、どこでもあやしまれた。

 「なぜ? こんな冬に歩いているんだ!」
 「テントを張る? おかしいんじゃないか! 明け方、零下20度くらいになるぞ」
 「おれも山は歩く、冬山が好きだ。しかし、なんでこんな一般道を歩く? わからんな」

 「耐寒訓練なんです」と、わたしはいいかげんな言い訳をする。「耐寒訓練ね……」とあまり納得したふうではないが、荷物をあずかってくれる。

 こうして、翌日は平取へ、つぎの日は日高へと、わたしは暗いうちに帯広をでて、朝、歩きだしたふたりに出会い、荷物を車のトランクにつんで運んだ。

 日高をでて、いよいよ日勝峠への登りにはいる。渓流の沙流川沿いを蛇行する山道だ。このカーブの多い山の雪道を、大型トラックやトレーラーが猛スピードで走っていく。

 道の谷側は、除雪した雪が壁になっている。ふたりは、車が近づいて来る音を聞くと、この壁にかけあがった。そうして、大型トラックをやりすごす。

 それまでずっと、ずるずるとおくれていくやすおくんを待って、もうすこしだからがんばろう、と清高くんがはげます展開だった。しかし、この危険な山道にはいると、やすおくんは、清高くんをどんどんぬいて、車がくると真っ先に雪の壁にかけあがった。

 人、ほんとうに命がかかると、つらい、きつい、疲れた、足痛い、もういやだ、やめたい、などとウダウダいってられないわけだ。

 日高山脈のど真ん中、日勝峠の手前、3キロくらいのところに、北海道開発局の除雪センターがある。日勝道路の除雪の基地で、何人もの職員と作業員が常駐している。ふたりがそこにだどり着いた翌日、強い雨になった。冬の雨だ。ふたりは雨具をもっていない。標高は高い。濡れて歩くのは、危険だ。

 その日は、歩くのをやめ、除雪センターでもう一泊することになった。雪崩が危ないから、雨のなかを歩かず、外でキャンプを張らずに、施設のなかで寝てくれ、とセンターの職員にいわれたのだ。

 (雪崩の危険のなか、真剣勝負の除雪をやっている人たちは、こんなとこまで徒歩で上がってきた、この大学生たちを理解しがたいのだろう)。

 わたしは、ふたりを除雪センターに残して、「またあしたの朝」、と帯広にもどった。それにしても、日勝トンネルをどうやってぬけるか?

 わたしが、もどったあと、小谷広一さんが、除雪センターのふたりをたずねた。(わたしたちは、広一さんをみっちゃんと呼んでいた。現在は、コタニアグリの社長。更別村協和で大規模な畑作をやっている)。

 みっちゃんは、ふたりを車にのせて、日勝トンネルを通り、十勝清水の町までおりた。ふたりに飯をおごり、ふたりのために雨合羽を買った。そのあと、ふたりを車にのせ、ふたたび、日勝峠をのぼり、トンネルをこえ、除雪センターにもどって、ふたりを下ろした。「がんばって」と。

 「あのとき、もし、みっちゃんが、『そんな無理することないよ、ここからまたスタートだ』といって、十勝清水でぼくらをおろしたら、『そうするか……』と、心が折れたと思う。悪天候で日勝峠をスルーしたと、いいわけもたつし……。あの長いトンネルを歩くのが、ほんとうに恐かった」と、ずっとあとになって似内清高くんがいっていた。

 「でも、清水からまた日勝峠に車がむかったとき、みっちゃんの気持ちが、うれしかった。やっぱり、ここまできたら、やりきらないとダメだな」、と。  

 翌3月8日、前日の雨は雪になっていた。大雪だ。なんと幸運なことに、日勝峠は、雪で通行止めになったのだ。こんなウソのようなことが、映画のなかだけじゃなく、ときどき、この世におこる。

 早朝、ふたりは、雪が降るなか、まったく車が通らない車道の真ん中を歩き、シーンと静まりかえった日勝トンネルを歩いた。日高を越え、十勝にぬけたのだ。

 わたしは、十勝清水側の国道で、通行止めのゲートのまえに車を止めて、雪のなかからふたりが現れるのを待っていた。激しい雪だった。全身雪をかぶって歩いてくる清高くんの姿がみえた。清高くんに、きょうは、清水でやめるか、それとも御影までいってキャンプするか、たずねた。

 いや、このまま帯広まで歩く、と清高くんがいう。すこし待って、やってきたやすおくんも、もう外で寝たくない、どんなにおそくなっても、足がこわれても、帯広までいく、という。

 大雪だった。わたしは、帯広までふたりに伴走することにした。すこしまえまで車を走らせ、ふたりを待つ。追いついたら、またすこしまえまで走る。ふたりは歩きつづけた。歩きながら菓子パンをかじり、すこしも休すまず歩いた。

 十勝清水から御影、芽室をこえ、帯広市街にはいった。

 
 帯広駅のすこし手前、西3条10丁目の交差点で、似内清高くんは、ずっとおくれている田中やすおくんを、長い時間待っていた。ふたりでいっしょにゴールの帯広駅にいこう、というのだ。帯広の街も、雪がふっていた。

 ふたりがいっしょに帯広駅に着いたのは、午後9時をすぎていた。この日、ふたりは、日勝峠のむこうから、雪のなか、70キロ以上歩いてきたのだ。雨での一日の停滞があったが、札幌駅から、七日間歩きつづけた。

 帯広駅前で、ふたりをNHKの宮本隆治アナウンサーが出迎えてくれた。1977年(昭和52年)、3月8日のことだった。

 

 きょうは、映画「キル・ビル」で効果的に使われた、ザムフィルのパンフルートの音楽はどうだろうか。http://www.youtube.com/watch?v=0Wv3Ya9nskA&NR=1 これが、雪のなかを歩ききった、似内清高くんと田中やすおくんを、たたえるにふさわしい音楽だろう。雪の山道を歩くふたりの姿を想像しながら聴いてほしい。

「コタニアグリ」のナタネはちみつに関する記事 http://www.hokkaido-nl.jp/detail.cgi?id=963


日勝峠をどう歩くか?

2009-07-05 | 日記・エッセイ・コラム

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(日高山脈の写真は、再び、『秘境日高三股へようこそ!』http://homepage3.nifty.com/hidaka/index.htm から拝借させていただきました。)

 1977年3月1日、似内清高くんと田中やすこくんは、札幌駅から歩きはじめた。ゴールは帯広駅だ。まず、札幌から国道36号を千歳にむかって歩きはじめた。

 それから三日目、わたしは、早朝、帯広を出発して車をとばした。途中、日高山脈をこえる日勝峠がある。峠は、真冬だった。路面は圧雪が凍結して、おそろしくすべった。その雪道を、大型トラックやトレーラーが猛烈なスピードで疾走していく。冬の道東のドライバーは、命しらずだ。

 鵡川をこえて、苫小牧の手前あたりで、ふたりに出会えるはずだ。まず清高くんの姿がみえた。顔がすさまじい雪焼けになっていた。風景はまだ真冬だが、陽射しは春になっていた。この三日間、毎日晴天だった。直射と雪の照り返しをあびて歩いてきたのだった。

 すこし待つとやすおくんがやってきた。顔は雪焼けだ。そして、足にきているようだった。やすおさんは、スポーツらしいことやったことがないのだろう。音楽三昧の大学生活だったのかもしれない。ドラムを叩き、ギターを弾き、歌う。自作の『緑が丘公園ブルース』という悲しい歌もある。

 いっぽう清高くんは、わがサウンドコーナー・サッカー・チームの中心メンバーだった。ボクシングをやり、アメリカン・フットボールをやる。テニスもうまい。スポーツのセンスは抜群だ。スタミナもある。心も強い。

 しかし、清高くんのワークブーツも、水がしみこんできているようだった。国道の路側帯に雪が残っていたが、日光をあびたアスファルトの温度で溶け、ぐちょぐちょに腐った雪になっていた。そこを長時間歩くわけだ。靴は濡れ、皮を通して水が入りこみ、靴下は、きっとずぶ濡れだろう。

 それに、国道に歩道というものがない。除雪した雪の壁で狭くなった路側帯は、朝夕は凍りつき、昼は溶けた雪で、ぐちゃぐちゃだ。その北海道の長い直線道路を、大型トラックが猛スピードで走っていく。その横をソリを引いて歩くのは、どんな冒険より、はるかに危険だ。わたしは、「それはおもしろい! やりなよ」と、無責任にいってしまったことをすこし後悔していた。

 『青年よ、それは無謀だ、あまりに危険だ、やめたほうがいい』と、止めるのが良識ある大人の対応だったのかもしれない。かれらは、大学生で、わたしは、はるか年上の社会人だった。

 しかし、わたしには、常識とか良識というものが、はなから欠如している。できないことはない、という気持ちがすべてに優先し、なんとかなるさ、という根拠のない楽観も得意だ。できないとか、無謀だといわれるほど、心が燃える。

 「帯広からロック・バンドをメジャー・デビューさせて、スーパースターにする」といっては、「そんな夢のようなことを考えずに、まじめに仕事したら」といわれたものだ。

    

 しかし、清高くんとやすおくんが、雪の国道の狭い路側帯を、ソリを引いて歩くのは、あまりに危険だ。いまさら、やめたら、といっても、やすおくんは同意しても、清高くんは、ひかないだろう。

 そこで、歩いているときに不要な荷物(テント、寝袋など)をソリごとわたしの車にのせ、つぎのキャンプ地の町まで運ぶことにした。

 その荷物を交番とかガソリンスタンドにあずけて、またふたりの歩いている地点までもどり、どこに荷物をおいたか知らせる。そうして、わたしはUターンして、また日勝峠をこえて帯広にもどってくる。いちおう仕事があるのだ。わたしは、帯広駅前のレコード屋の店長だった。

 これを毎朝、ふたりが帯広駅までもどってくるまでつづけることにした。しかし、問題は、日勝峠の山道をどう歩くかだ。曲がりくねった雪道は、とくに危険だ。大型車を運転している人間は、こんなところに人が歩いているなんて予想もしない。夏だって歩行者なんていない。まして、真冬の凍結した峠道だ。人が歩いてるなんて、だれが考えるだろう。

 そして最大の難所は、日勝トンネルだ。大型車がすれ違う幅があるだけの狭いトンネルだ。もちろん歩道などない。対向車のライトがまぶしくトンネル内はよく見えない。ここをトラックがとばしていく。このトンネルを、どうやって歩いてぬけるか?

 (つづきは、また、あす)

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 ソニーのウォークマンが発売されて、この7月で30年だ。

 わたしが、はじめて見たウォークマンは、浜田省吾さんが持っていたものだ。北海道のコンサート・ツアーのためにやってきた浜田さんを、帯広空港に迎えにでた。旧帯広空港だ。緑が丘の自衛隊の近くにあった。飛行機は、ジェット機じゃない。プロペラのYS11だった。

 空港で浜田さんが、こんなものがソニーからでました、といってウォークマンをみせてくれた。「小さいヘッドフォンで、意外といい音なんです」と。わたしもすぐに買った。

 それが1979年のこと。そのコンサート・ツアーでは、浜田さんの前座に、帯広のバンド、キャデラックスリムを出演させた。まだ、デビューはしてなかった。

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 1857年、エジソンより20年も前に、フランスの発明家、エドワードレオン・スコットが発表した蓄音機。

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 エジソンの蓄音機

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  わたしの小学生のとき、ラジオ体操は、この手巻きの蓄音機をつかっていた。

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 わたしがレコード屋のときは、この手のプレイヤーの時代だ。たいがくの学生さんは、もっとシンプルなレコード・プレイヤーだったのではないだろうか。

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 いまでもこういうレコードを再生する製品がいろいろなメーカーから発売されている。これは、DENON  26,250円の製品。レコードだけの再生だが、ほかにカセット、CDが再生できて、ラジオ付きという製品もある。

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 このDENON のレコード・プレーヤーは、レコードのアナログ・サウンドをデジタル・ファイルに変換できる。USBメモリーを差しこんで、録音ボタンを押すだけ。31,500円。もちろん、単にレコード・プレイヤーとして使える。

                  

 ウォークマンの登場は、画期的なことだった。高音質の音楽を野外で聴くなら、FMラジオという手がある。自分の好みの曲を聴くなら、ステレオ・ラジカセを持って歩く、という手もある。(黒人のおにいさんたちがよくやっていたスタイルだ)。しかし、それらとウォークマンは、決定的にちがった。

 ハンディーで、高音質でステレオで、自分の好みの音楽を、どこでも、自分ひとりだけで聴ける。音楽じゃなくても、落語でも、英語教材でもいい。カセット・ブックの小説朗読を聴くのもいいだろう。

 そして、まわりの人には何を聴いてるか、知られない。聴きたくない外音も遮断できる。歩きながらでも、走りながらでも、飛行機のなかでも、電車のなかでも、船の上でも、馬に乗っても、どこでも聴けるのだ。

 いまでは、何の不思議もないとうぜんのことだが、録音した音楽を再生できる蓄音機の発明なみに、革命的に画期的な製品だった。だれでも、いつでもどこでも、好きな音楽が聴けるなんてことは、人類と音楽との、何十万年という長い歴史のなかで、はじめて起こったことだ。しかし、それは、便利な反面、音楽そのものを変える、もろ刃の剣でもあった。

 

 つまり、この三十年で、音楽がとんでなくお手軽に手に入るようになって、音楽というものが、チープで、それほど価値のないものになってしまったのではないだろうか?

 

 いまでは、iPodにシェアーをうばわれて、ソニー・ウォークマンの勢いはないようだが、しかし、機能は進歩しても、30年まえ登場したウォークマンのコンセプトの延長にあるのは事実だろう。

 むかしはよかった、などというつもりはない。ソニー・ウォークマンの登場で、人々が音楽に要求するものが変化していった。だから、音楽そのものが軽くなっていく。その変化は、ダウンロードの時代になって、ますます加速していく。それはだれもとめられない。それが時代の流れというものだろう。

              

 ソニー・ウォークマン なつかしのCM http://www.youtube.com/watch?v=x1sZxdcPDSQ&feature=related

              

 きのうの記事に書いたが、1970年、ジャクソン5 の「ABC」がヒットしたとき、大人のソウル・ファンの間で流行っていた曲のひとつが、これ。ジェームス・ブラウン&JB's 「セックス・マシーン」。http://www.youtube.com/watch?v=Fav0cE3JnDQ&feature=fvw

 


オバマ大統領の世代が、マイケルの熱いファン

2009-07-04 | 日記・エッセイ・コラム

 やはり帯広三条高校山岳部だった佐々木要くんからのメールで思い出した。国枝幸吉さんは、あの当時の高校生ではめずらしく、角刈りだった。十勝管内の中学がみな、丸刈りだった。高校にいって髪をのばすのがたのしみだった。

 ビートルズ全盛のときだ。長髪は、自由の象徴だったのだ。そんな時代に、角刈りの応援団長の三年生は、一年生のわたしには、なかなか威圧的存在だった。じっさいは、まったく恐い人じゃなく、じつに親切で、心優しい人だったのだが……

 今回、国枝さんが入院してすぐ、国枝さんが18年飼っていたクロネコが死んだ、と、山岳部の先輩、かつみさんがメールで知らせてくれた。 

 わたしは、6月の20日すぎから、妙に、士幌線幌加駅や十勝三股、石狩岳、ニペソツ岳のことを思い出していた。それは、高校一年のとき、国枝さんに連れていってもらったところだ。わたしは、国枝さんの闘病のことも、最近の入院のことも、まったく知らなかった。

 数年まえに亡くなったわたしの生母が、そんな感の強い人で、予感がするとか、胸騒ぎがするとか、そんな表現で、そういうことを的中させていた。  

 白熱電球が切れるとき、強烈に輝いてフィラメントが燃えつきる。人も何か未知なるパワーを発して、残されたものに、別れのサインを送るのだろうか?

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 マイケル・ジャクソンが亡くなって、一週間がすぎた。わたしにとっての喪があけた。日本の報道をみていて、激しく言いたかったことを、すこし書こうかな。この一週間、テレビのマイケル・ジャクソン報道は、ひどかった。

 偉大なエンターテイナーを追悼するには、あまりに不謹慎だった。亡くなってまだ一日もたっていないとき、まだ魂がこの世にとどまっているかもしれないとき、(霊魂があるかなんか問題じゃない)、テレビの報道の中心は、スキャンダルだった。それも、タブロイド紙が、おもしろおかしく、嘲笑して書いたデマがネタの話ばかりだ。

 昨日、オバマ・アメリカ大統領が、追悼のコメントをだしていた。マイケル・ジャクソンの音楽とともに育った、といっていた。まさにかれの世代、いま45才前後の人たちが、熱いマイケル・ジャクソンのファンだろう。日本でも、中学や高校の廊下で、ムーンウォークの練習をした世代だろう。

 わたしとおなじ世代のテレビ・キャスターは、ずっとマイケル・ジャクソンのファンだったと、知ったかぶりのうんちくを披露していた。(さも、マイケルと友達ででもあるかのように、自信たっぷりに)。それは、全部タブロイド紙が根拠もなく書いて、それを日本のスポーツ紙が書きとばした記事がネタだ。その知ったかぶりを、若いアナウンサーが感心したふりで、うなずいてみせる。

 さて、わたしの世代の男で、マイケル・ジャクソンのリアル・タイムのファンがいるのだろうか?    ジャクソン5が、「ABC」のヒットをとばした1970年、わたしは22才だ。22才のわたしには、「ABC」は、あまりにも子供じみた曲だった。 

 そして、「スリラー」が爆発的に売れたとき、わたしは、34才だ。もちろん、わたしは、レコード屋だったから、強烈な印象があるアルバムだった。マイケル・ジャクソンも大好きだった。しかし、ファンという感じじゃない。34才だ。熱烈に共感するには、年をとっていた。

 きっと、女性はちがうだろう。湯川れい子さんや星加ルミ子さんのように、エンターテイナーとしてのマイケル・ジャクソンやビートルズやエルビス・プレスリーを、リアル・タイムで評価できる人たちがいる。ミーハーといわれることをひとつも恐れずに。そして、一般の女性ファンも、十代のときにジャクソン5 に共感して、ずっと大事にしていくことができるのかも知れない。

 しかし、男はちがうのではないか? ジャクソン5 が登場した1969年は、「レッド・ツェッペリンⅠ」が発売され、「ディープ・パープルⅢ(素晴らしきアートロックの世界)」が発売になった年だ。「グッバイ・クリーム」が発売され、「クリーム・ライブ」がでた。中学生や高校生の男子は、ジャクソン5 どころ じゃないだろう。ビートルズの「アビー・ロード」がリリースされたのは、この年、1969年9月だ。

 ソウル・ミュージック(R&B)なら、「ABC」がでた1970年には、シュープリムスからダイアナ・ロスがソロになって、アルバム「Ain't No Mountain High Enough」が発売されていた。わたしの店でよく売れていた。ほかのモータウンでは、リトル・スティーヴィー・ワンダーがもうリトルではなくなってアルバムを発売していた。マービン・ゲイもいた。テンプテーションズもミラクルズもまだ活躍していた。そして、スライ&ファミリー・ストーンがいた。

 スライ&ファミリー・ストーンは、1969年に「スタンド!」、1971年に「暴動」と大ヒットアルバムを発売していた。そして、大御所、ジェームス・ブラウンが、ビッグ・ファンク・バンド、JB's をひきいてアルバム「セックス・マシーン」をヒットさせていた。日本のソウル・ファンにもよく売れた。帯広のわたしのレコード屋でも売れた。

 そんな時代に、ジャクソン5 を追っているR&Bファンや、ロック・ファンが日本にいただろうか? たしかに「ABC」は、バカ売れした。それは、「黒猫のタンゴ」や「泳げたい焼きくん」「だんご3兄弟」のヒットとおなじ性格のものだった。日本では。

 だから、わたしの世代の男で、ジャクソン5 のころから、ずっとファンだというのは、信じられないことなのだ、わたしには。

 そして、いま50才をすこしすぎた、真のロックの世代、ニューミュージック世代の人たちは、ジャクソン5 じゃなくても、聴くべきものが、怒濤にように登場した時代の人たちだ。、洋楽や日本のニューミュージックが、最高に刺激的でおもしろい時代を、新鮮な感性をもった十代後半をすごした人たちだ。ほんとうに音楽好きの世代の人たちだ。

 「スリラー」がでたとき、かれらは20代の半ばちかい。熱く共感するのには、音楽の知識も経験も、もう十分にあった。マイケル・ジャクソンに至るまでのソウル・ミュージック、ジャズの歴史を十分知って、聴いていたはずだ。なにも驚きではなかったはずだ。

 だから、そのまえのアルバム「オフ・ザ・ウォール」を、かれらは注目して、好んで買っていったが、「クインシー・ジョーンズとのコラボがいいですね」というような言い訳じみた言葉をいったものだ。

 (そのころ、コラボなんて言葉はなかったが。コラボレーションという語が、日本の音楽の世界に登場したのは、MJQのアルバム・タイトルからだ。1964年のMJQと、ブラジルのギタリスト、ローリンド・アルメイダが共演したアルバム・タイトルだ)。

 

セックス・マシーン

  

  フジ・テレビの番組では、あろうことか、マイケル・ジャクソンの絶頂期に、まだこの世に生まれてもいない若いタレントをコメンテーターとして登場させた。「マイケル・ジャクソンのことはよく知らないのですが……」と前置きがあって、わけのわからないコメントをしていた。このイージーさには、あきれるより怒りを感じた。死者に対する冒涜だろう。

 放送法の基に認可されたテレビ放送局が、公共の電波をつかって、こんないいかげんな番組を作っているのだ。

 きっと、番組を製作している現場の人間は、スキャンダル以外、マイケル・ジャクソンのことをまったく知らない世代なのだろう。あるいは、マイケル・ジャクソンを嫌っている人種か。だから、尊敬のかけらもない。なら、社内外から40代半ばの、子供のときから、マイケル・ジャクソンのふりを真似して育った人間をさがしだして、担当させればいいのだ。放送業界、音楽業界には、かならずそういう人がいるはずだ。

 ほんとうに、マイケル・ジャクソンを追悼する気があるのなら、司会は、知ったかぶりの、にわかファンの、モーニング・ショーのおっさんではなく、小林克也さんだろう。

 このキャスターおっさんも含めて、にわかにマイケル・ジャクソンを持ちあげるやつらが、テレビには登場する。

 児童虐待の裁判が起きたとき、えん罪だ、報道はデマだと、ファンの抗議は、欧米では大きな運動になっていた。(「欧米では」、とは、タカ&トシのなつかしいフレーズみたいだが)、そんな動きがあるとき、日本のマスコミの、だれが擁護したのだろうか? このマイケル・ファンのキャスターおっさんは、マスコミのフロント・マンとして、デマだ、とマイケルをかばってやったのだろうか? 

 デイブ・スペクターは、それを商売のネタに稼いでいたのだろう。あることないこと、英語のタブロイド紙からゴシップをひろってきて、根拠もなく、それをテレビで話す。それがかれの商売だ。自分で取材して確認したわけじゃない。それはそれでいいんだ。だれもかれに本当のことを期待しているわけじゃない。そういう商売なのだ。

Diana Ross and Marvin Gaye

 しかし、仮にもニュース・ショーのキャスターである、還暦すぎのおっさん、小倉智昭氏は、追悼番組で、タブロイド紙のスキャンダルを垂れ流しちゃいかんだろう。

 ほかの番組では、もっと前に死ぬべきだった、とまでいうコメンテーターがいた。なんということだろう。まだ、死者に体温が残っているようなときに、なぜそんな不謹慎な言葉を口にできるのだろうか。だれもが生きて生きぬきたいはずだ。まして、前日までリハーサルをつづけていたのだ。それに、どんなぶざまな晩年をおくったとしても、マイケル・ジャクソンの偉大な足跡と栄光は、黒人文化史に永遠に刻まれるだろう。

 マイケル・ジャクソンの症状を知るブログがある。これも読んでほしい。http://yuuki-rinrin.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-f40e-1.html

 清高くんとやすおくんの、札幌・帯広・厳冬期徒破行のつづきは、また次回ということで。

All 'N All

 

 いま50才代の洋楽ファンが、「スリラー」がヒットしたころ注目していたのは、スティーヴィー・ワンダーやアース・ウインド&ファイアー、クール&ザ・ギャング、タワー・オブ・パワーなどだったのではないだろうか。

 アース・ウインド&ファイアー September http://www.youtube.com/watch?v=iknEJf9cPeY&feature=related

 クール&ザ・ギャング Celebration http://www.youtube.com/watch?v=YwEMxYggoKQ&feature=related

 タワー・オブ・パワー http://www.youtube.com/watch?v=VUFxj59Fa9o&feature=related

 ましてや、わたしの世代は、もう中年になろうとしているときだ。ジャクソンズやマイケル・ジャクソンに感情移入するには、あまりに年をとっていた。わたしより一つ年上の、小倉智昭氏は、最初からのマイケル・ジャクソンのファンだったと、先日、テレビで公言していたが……

 そのころ、わたしが好きだったのは、ダイアナ・ロスとマービン・ゲイのデュエットだった。http://www.youtube.com/watch?v=tMktolSxGxw

 そのまえ、マービン・ゲイのデュエットでは、タミー・テレルとの最高作がある。1960年代だ。http://www.youtube.com/watch?v=Xz-UvQYAmbg&feature=related

エイント・ノーマウンテン・ハイ・イナフ~マーヴィン・ゲイ&タミー・テレル・コンプリート・デュエッツ

 

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 マービン・ゲイの最高のデュエット・パートナー、タミー・テレルは、このヒットのあとすぐ、1970年、脳腫瘍で突然亡くなる。24才だった。そのあとマービン・ゲイは、ソロ歌手としてトップスターになり、グラミー賞も獲得する。しかし、1984年、父親と言い争いの末、父親に射殺された。

Collaboration with Almeida Collaboration with Almeida

 ローリンド・アルメイダとMJQのコラボレーション One Note Samba    http://www.youtube.com/watch?v=W-9OrHd6QdM


追悼、国枝幸吉さん

2009-07-03 | 日記・エッセイ・コラム

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  旧江戸川は、静かで、じつにおだやかだった。風は無いのに、川辺は秋のように涼しい。なぜだろう? 散歩からもどって、メールをひらくと、十勝の木の器、佐々木要くんから悲しい知らせがはいっていた。「訃報です。国枝幸吉さんが亡くなりました」。

 国枝幸吉さんは、帯広三条高校山岳部の先輩だ。わたしが一年のとき、三年生で部長だった。一年のとき、音更山、石狩岳に連れていってもらった。はじめてニペソツ岳にも連れていってくれた。そのあとも、ニペソツにはなんども いっしょに登った。日高のポンヤオロマップ、芽室岳にもいった。剣山にはなんどいったか。土曜日の午前中、突然、わたしの教室にやってきて、「昼から剣に行かないか?」、と誘われたものだ。

 国枝さんは、三条を卒業して、甲府市の山梨学院大学に入学した。甲府は、日本アルプス登山の基地だからだろう。富士山の麓でもある。もちろん大学でも山岳部に入った。ヒマラヤにも遠征した。大学時代、帯広に帰郷すると、一年下の中村光二さんとわたしを山に誘ってくれた。ニペソツだ。わたしたち三条高校山岳部は、ニペソツを愛していた。

 わたしが、帯広三条高校に入学して、数日たったとき、1年E組の教室に恐ろしげな三年生と二年生たちが入ってきた。先頭にいたのは、応援団長だった。その応援団長が、あろうことか、わたしの名前を呼んだ。「廊下にでろ!」という。「中学のとき、山に登ってたんだってな。山岳部に入るだろ」、これが国枝幸吉さんとの出会いだった。国枝さんは、応援団長で山岳部部長だったのだ。(ライバル校、帯広柏葉高校の応援団長、宮田幸久さんもまた、山岳部部長だった。そして、国枝さんと宮田さんは親友だった)。

 こうしてわたしは、有無もなく、山岳部員になった。すぐに「新人歓迎登山」という山行が用意された。4月のニペソツ岳だ。まったくの冬山だ。手痛い歓迎にあったわけだ。しかし、ピッケルでの制動やザイルとアイゼンの使い方を教わって、16才のわたしには収穫のある山行だった。以来長い年月、国枝幸吉さんに、山登りを教わり、酒を飲ましてもらい、さまざまのことでお世話になった。しかし、わたしが北海道をでてから、お会いしたことはなかった。

 なぜか最近、わけもなく幌加や十勝三股や裏大雪のことを思い出していた。国枝さんの近況をまったく知らず、先月23日のブログ「幌加のルピナス」で、高校一年生のときの、国枝さんと行った石狩岳登山のことを書いた。昨夜、国枝幸吉さんの訃報を知って、そういうことだったのか、と思った。

 今夜は、とても悲しい。

 似内清高くんと田中やすおくんの、札幌・帯広を歩いた話のつづきを書くつもりだった。今夜は、ヤメ。それは、あす、ということにしょうかな。

 今夜は、登山家で、わたしの尊敬する先輩、国枝幸吉さんを偲んで。「ダニー・ボーイ」を。http://www.youtube.com/watch?v=-Jgma--0WYU&feature=channel


プレスリーをみつけたのは、マリオン・ケイスカー

2009-07-02 | 日記・エッセイ・コラム

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 似内清高くんと田中やすおくんが越えた日高山脈。

 (写真は、『秘境日高三股へようこそ!』http://homepage3.nifty.com/hidaka/index.htm から拝借させていただきました。)

 明治大学の卒業記念に、札幌から帯広まで歩きたい、といったのは、田中やすおくんで、似内清高くんが同行することになったことは、きのう書いた。1977年のことだ。3月なので、融雪期で真の厳冬期とはいえないが、厳冬期と大げさな言い方としたのは、日高山脈を越えなくてはならないからだ。

 ただ歩いて、旅館に泊まるなら冒険でも、冗談でも、なんでもない。で、最低の条件ができた。飯は、食堂で食ってもかまわないが、キャンプをはってテントで寝ること。野宿をしなくてはダメだ、と。

 雪が残っているとはいえ、一般道を歩くのだから、冒険とはかなり遠い、と最初わたしは思った。しかし、このわたしの考えは、間違っていた。ある種の冗談として、おもしろがってサポートすることにしたのだが、かれらが札幌をでて三日目に、ふたりの様子をみるため早朝、帯広をでた。苫小牧と鵡川の中間あたりで出会えると思っていた。

 車で日高山脈にむかっていくと、これは冗談ではないぞ、と思いはじめた。日高山脈は、まさに厳冬だった。路面は完全に凍結して、日勝峠を越えたところでは、大型トラックが転落していた。道の両側は、雪の壁だ。とても歩行者が歩くスペースはない。そこを大型車が雪煙をあげて疾走していた。

 鵡川をすぎて、もうそろそろふたりに出会ってもいい地点だ、と思っていると、遠くに清高くんの姿がみえた。ソリを引いてる。子供が遊ぶ赤いプラスチックのソリだ。三日前帯広駅で汽車にのるときは、ふたりとも大きなリュックを背負っていた。途中で、ソリを買ったのだろう。それが正解だろう。

 車をとめて、清高くんの顔をみた。驚いた。そして、ちょっとジーンときた。帯広をでるときの白い顔は、雪焼けで真っ黒だった。たった三日でこんなに変貌するのか。ところどころ炎症までおこしていた。あのヒマラヤの高山を登る登山家の悲惨な顔面だ。これから向かおうとする日高山脈の雪道、清高くんの雪焼けの顔、これはもう冗談じゃないぞ、と思った。(つづきは、またあす)

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Wynonieharrispromo

 このハンサムな黒人が、ワイノニー・ハリス。エルビス・プレスリーが、歌い方、ステージ・パーフォマンス、そして、ファッションをコピーした、その元の人。Mr.Blues といわれ、黒人には圧倒的な人気があった。とんでもなくハンサムで、速いテンポのブルースをシャウトして歌い、ダンスをした。ダンス・チームをバックに歌うというパーフォマンスをやっていたこともある。まるでマイケル・ジャクソンだ。それも1940年代のことだ。

 エルビス・プレスリーをデビューさせることになる、サン・レコードのオーナー、サム・フィリップスは、このワイノニー・ハリスを白人青年でコピーさせると当たる、と考えていた。当時、黒人のヒットを白人でカバーするのが流行っていた。白人のレコード・マーケットと、黒人向けのレコード(レース・レコード)のマーケットでは規模がまるで違った。黒人のヒットをうまくパクると大儲けになるのだ。

 ワイノニー・ハリスのような白人がいないかな、とサム・フィリップスは、アシスタントのマリオン・ケイスカーに話していた。そこにプレスリーが登場する。母親の誕生プレゼントに一枚だけのアセテート盤を作りに、サン・レコードのスタジオにやってきた。サム・フィリップスが不在だったので、マリオン・ケイスカーが応対してレコードを作った。そして、メモを残したのだ。ボスのさがしている子が来た、と。

 サム・フィリップスとマリオン・ケイスカーは、一年ちかく過ぎても、このトラック運転手の青年を忘れなかった。予定していたレコーディングをドタキャンして行方不明のシンガーの代わりに、この青年をスタジオに呼んだのだ。その後のエルビス・プレスリーの成功は、ここで書くまでもないだろう。つまり、エルビス・プレスリーを発見したのは、元空軍将校で、インディーズ・レコード・メーカー、サン・レコードのアシスタント、マリオン・ケイスカーだったわけだ。(彼女は、女性だが、元軍人なのだ)。

 サム・フィリップスは、メンフィス地元のミュージシャン、スコッティ・ムーアとビル・ブラックをバックにエルビス・プレスリーを売り出すことにした。5枚のシングル盤をサン・レコードから発売した。これがラジオでヒットする。テネシーをまわる公演も大成功する。サム・フィリップスのプロデュースのセンスだろう。すると、プレスリーの両親は、トム・パーカーとマネージメント契約して、サン・レコードとの関係は終わる。メジャー・レコード、RCAビクターと契約するのだ。サム・フィリップスは、RCAから35,000ドルの移籍金を得て、プレスリーとの関わりは終わった。

 その後もサム・フィリップスは、ジョニー・キャッシュ、ロイ・オービソン、カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイスというそうそうたるスターを、このメンフィスの小さいレコード会社からデビューさせている。ロック史上まれにみる名プロデューサーのひとりであろう。

 サム・フィリップスは、白人のロッカーをデビューさせるまえに、黒人のブルースメンのレコードを製作していた。ジェームス・コットンやルーファス・トーマス、リトル・ミルトンなどだ。B.B.キングとハウリン・ウルフも、最初のレコードは、サン・レコードで録音したのだ。

Marionkeiskersamphillips サム・フィリップス エルビス・プレスリー マリオン・ケイスカー

 ワイノニー・ハリス Lovin Machine http://www.youtube.com/watch?v=6XP5J8lN3gY&feature=related

 ワイノニー・ハリス Blood Shot Eyes http://www.youtube.com/watch?v=aqM0T-Mq2ns&feature=related

 黒人のワイノニー・ハリスは、エルビス・プレスリーの栄光とは無縁に、ニューヨーク・ハーレムやロサンゼルスのブラック・ミュージック・シーンで活躍して、1969年に食道がんで亡くなった。54才だった。最後のステージは、1967年11月、ニューヨーク・ハーレムのアポロ劇場だ。共演者は、ビッグ・ジョー・ターナー、ビッグ・ママ・ソーントン、ジミー・ウイザースプーン、T-ボーン・ウォーカーだった。

 

Rock Mr. Blues: The Live & Music of Wynonie Harris Rock Mr. Blues: The Live & Music of Wynonie Harris

Jukebox Hits 1946-1954

 ネブラスカ州教育協会のサイトに、ワイノニー・ハリスを讃えて、プロフィールを載せている。ワイノニー・ハリスは、ネブラスカ州オマハで、1913年に生まれたのだ。母、Mallie Hood Anderson は黒人だが、父親は、たぶん、Blue Jay という名前の、種族はわからないが、アメリカン・インディアンだという。もちろん両親は結婚などしていない。のちに母親が結婚した継父の名字、ハリスを名のったのだ。http://nsea.org/news/WHarrisProfile.htm

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 ハリスは、ハイスクールのとき、ガール・フレンドのVelda Shannon と組んで、ボール・ルーム(ダンスホール)のダンスで稼いでいた。(ギャラとか、賞金がでたのだろうか?)