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古い曲が気になる

涙の乗車券

2018-01-26 | 日記・エッセイ・コラム

「自分たちには才能があると感じていたリチャードは、カレンと共にテープを作った。そのテープが巡り巡ってA&Mのハーブ・アルパートに渡った。カレンの声を気に入ったアルパートは、カーペンターズとの契約にサインした。
 最初のアルバム『涙の乗車券』にはビートルズの「涙の乗車券」が入っていた。これを聴いたバート・バカラックは、慈善コンサートで彼らに歌ってもらいたいと願い出た。これがきっかけとなって、バカラックはリチャードにバカラック・ソングの編曲を頼むようになった。バカラックがハープ・アルパートにと考えていた曲を、アルパートがリチャードとカレンへ勧めてレコーディングしたのが「遙かなる影」である。 (「ビルボード・ナンバー1・ヒット 上 1955-1970」フレッド・ブロンソン著 / かまち潤 監修 音楽之友社 昭和63年5月20日発行 278p より引用)

 

バート・バカラックは、リチャードの「涙の乗車券」のアレンジが気に入った。これがきっかけでリチャード・カーペンターがバカラック・ソングの編曲をしていた。これはじつに興味深いことだ。バカラック・ソングのアレンジャーが、リチャードだったとは‥‥‥。

     カーペンターズ  涙の乗車券 https://www.youtube.com/watch?v=fsgj4xcxXyA

涙の乗車券
USMジャパン
 

遙かなる影

2018-01-24 | 日記・エッセイ・コラム

 

「遥かなる影 (They Long to Be) Close to You 」

バート・バカラック、ハル・デイヴィッド、作詞作曲の名曲、「遥かなる影 (They Long to Be) Close to You 」は、まず1963年に俳優のリチャード・チェンバレンがレコーディングしたんだね。今の人は、リチャード・チェンバレンのことをほとんど知らないだろうが、1960年代に大ヒットしたテレビシリーズ「ドクター・ギルデア」で主人公の青年医師ジェーム・キルデアに抜擢されて、同じ時期からスタートしてたベン・ケーと人気を二分した。

1963  リチャード・チェンバレン (They Long to Be) Close to You https://www.youtube.com/watch?v=tft09VpllvU

 

 

1964  ディオンヌ・ワーウィック  They Long to Be Close to You  https://www.youtube.com/watch?v=MsBHXGpVtM8

1967  ダスティー・スプリングフィールド They Long to Be Close to You  https://www.youtube.com/watch?v=IAwJSKMvYkc

 

7年の間、さまざまな有能なアーティストが歌い、編曲されて「遙かなる影」は磨かれていった。そして、ついに至高の傑作が生まれる。カーペンターズだ。

遙かなる影(紙ジャケット仕様)
ユニバーサル ミュージック
 

1970 カーペンターズ (They Long to Be) Close to You https://www.youtube.com/watch?v=6inwzOooXRU


友来る。九州の森本裕二くんが来てくれた

2018-01-22 | 日記・エッセイ・コラム

じつにありがたいことに、九州の森本裕二くんが、土日と月の仕事を休んで三日間、わたしの見舞いに来てくれた。

深夜の電話で、体調が悪いと言うと、早朝、メールがきた。

「Dear Friend 土、日、月曜日で、君の元へ行きます。You've got a friend.」

そして実際、早朝の便で福岡を発って、羽田からモノレール、大江戸線と乗り継いで、午前中には西新宿五丁目のわたしの部屋にやってきてくれたのだ。

昨日、靖国神社。今日は、完全に復元された東京駅と行幸通りを見たいと思い、森本裕二くんに付き合ってもらった。

 

大昔、レコード店の店長とお客の帯広畜産大学生のつき合いで始まって、あれから40年以上。69歳になったレコード屋の老人の見舞いに、仕事を休んで九州から飛んで来てくれる。なんという心遣い、なんという男気、なんという友情だろうか。わが友、森本裕二くん、ありがとう。

 

 

 

 


浜田省吾、二曲目は、「生まれたところを遠く離れて」、その2

2018-01-19 | 日記・エッセイ・コラム

浜田省吾の劇場用映画が2月9日から全国封切りになるそうなので、2008年6月9日の記事を多少加筆して再録しますね。

 

二曲目は、「生まれたところを遠く離れて」

2008-06-09 | 日記・エッセイ・コラム

 

The Best of Shogo Hamada vol.1 The Best of Shogo Hamada vol.1
価格:¥ 3,059(税込)
発売日:2006-08-09

 

 

名言中原中也―生誕100周年記念企画 名言中原中也―生誕100周年記念企画
価格:¥ 1,050(税込)
発売日:2007-05

 

札幌グランドホテル。1976年。CBSソニーレコード・コンベンション会場。

吉田拓郎・全国ツアーのバンド『愛奴』からソロでデビューした期待の大型新人、浜田省吾!」とMCがあって、浜田省吾が狭いステージに立った。サングラスはいまと変わらないが、奇妙な帽子をかぶっていた。なんというのか、中原中也がかぶっている、あの帽子。ウエスタンブーツにブルージーンズ、黒シャツ、黒いジャケット、なぜか、ちょっとカントリー・アンド・ウエスタンの雰囲気がした。箱台に立った浜田青年のジーンズの足は細く、ひどく痩せてみえた。最初の歌は、「路地裏の少年」だった。足が震えていた。

わたしは、目の前で歌う浜田省吾の震えが理解できた。まだ一枚のレコードも発売していない新人のアーティストにとって、この世でこんな嫌な客たちはいない。ワイワイと仲間内で酒を飲んでいる聴衆は、お客ではない。酒が入ったレコードの業界関係者、マスコミの人間たちだ。その真ん中で、たった一人、立ってギターを弾いて歌う。勇気だ。

いっぽう、聴いてるほうも、自分の店で、この新人のレコードが売れるのか、仕入れて不良在庫にならないか、あるいは、弱気をだして薄く仕入れてしまい、売り逃さないか。こいつの曲を番組でつかってメリットがあるのか、俺がヒットさせてやったとレコードメーカーに大きな顔ができるのか(じっさい放送局や有線放送にプロモーション料を払い、売り上げ印税を局に、あるいは個人のディレクターとかDJにも歩合で印税を払うこともあったろう。リベートだ。アメリカでは違法だから発覚すると事件になったが)、この会場のみんながみんな、音楽は商売で聴いている。この曲に関わって自分に利益があるのか? 酒がはいっていても聴いてる態度はじつに冷ややかだった。ここは、コンサートホールとは違う。

 

レコードがヒットするには、放送局の影響力もあるが、宣伝告知のまえに現実の商売として、レコード・メーカーの営業マンの能力と、なによりレコード屋の仕入れ担当者の感性が重要だ。いくらテレビやラジオに露出しても、ブツが店頭になければ、売れようがないじゃない。(それにじっさい、フォークソングもニューミュージックも、そしてロックも、放送ともメーカーの宣伝とも関係なく、中学生や高校生や大学生たちの口コミから売れていた。このこともあとで詳しく書くが)。メーカーの宣伝企画書を当てにして仕入れたことは一度もない。いまは知らないが、70年代、レコードメーカーが大宣伝をして売れたためしがない。メーカーはいつもあと追いだ。

いまのように好きなときにネットからダウンロードしたり、レンタル屋や図書館でCDを借りることができるわけでもない。ラジオや有線放送で聴いて気に入った音源を手元におきたかったら、レコード屋に走って手に入れるしかない。しかし、レコード屋のえさ箱(客には失礼な話だが、あのレコードが入っているケースを“餌箱”といった)にブツが無ければ、たいがい衝動的な熱はさめる。「注文しますか?」とか、店員がたずねたりするが、「二週間くらいかかります」ときいて、たいがい購買意欲はさらに萎える。それに、「注文したレコードが、メーカーから二週間で届いたためしがないのよネ……」と、自信のなさが店員の顔に出ているから、もうすっかり諦める。つまり、とうぜんのことだが、レコード屋の店頭に発売になったばかりの自分の新譜がたくさん並んでいるということは、アーティストにとってじつに重要なことだ。

ところが地方のレコード屋は、十何社もあるレコードメーカーから毎月発売される膨大な数の新譜すべてを仕入れることができない。本と違ってレコードは買い取りだ(仕入れの10%だけ返品できる)。それに、新譜の中でじっさい売れるのは数%にすぎない。ほとんどがデッドストックになり、10%の返品枠のなかで処理するのに長い年月苦しむことになる。新譜として全国発売されたレコードは、アーティストやタレントの親兄弟、親戚、友人、プロダクション関係者が買うだけで、店頭では一枚も売れず返品されるレコードが大半だろう。

そして、レコード屋がメーカーに新譜を注文するのは、発売のなんと三ヶ月前。ここがとても重要なポイントだ。発売間近になってプロモーションの効果がでて、話題になり、発売当日、お客が殺到したとしても、まさに、あとの祭りだ。三ヶ月前の注文数で生産しているから、メーカーの在庫に余剰の商品はない。突然ヒットしても、コンビニのおにぎりのように簡単に生産を増やせるわけじゃない。プレスできたとしても、ジャケットの印刷もある。LPの場合、あれは紙が二重構造で糊をつかって張ってあるから乾燥の時間もかかる。それに『驚異のギタリスト登場!』とか陳腐なコピーを書いた、帯もついてる。これらが全部そろって商品としてのレコードの体裁ができるのには時間がかかる。レコード盤を紙のジャケットに入れるのも透明なビニール袋に入れるのも、人の手だ。機械じゃできない。

 

 

1976年、この札幌グランドホテルで開かれたCBSソニーのコンベンション、午前中は、三ヶ月後に発売になる新譜のサンプル盤を聴く退屈きわまるプレゼンテーションだった。そして、「昼食」、会場変わってパーティーだ。いくつものテーブルにワイン、ビール、日本酒。オードブル、寿司、そのほかわたしの知らない料理がふんだんに並べられていた。その中央に小さいステージがあった。それは舞台用語でいう箱台一枚だった。そこにマイクスタンドが2本立っていた。

これが舞台の箱台

わたしは、札幌では帯広の田舎者。札幌市内のレコード店の仕入れ担当者たちも、テレビやラジオのプロデューサーやディレクター、アナウンサーたち。新聞や雑誌の芸能担当者たち。帯広のわたしは、この札幌の業界関係者仲間の騒ぎには参加できない。ステージのすぐ前のパイプ椅子に座り、ひとり寂しくビールを飲んで浜田省吾の登場を待っていた。すると、道東担当の高市さんがビール瓶を持って横に座った。「楽しみですね、浜田省吾」、わたしとCBSソニー営業の高市さんは、「愛奴」に入れあげ、仕入れに失敗していたのだが‥‥。わたしが「二人の夏」のテスト盤を聴いてすっかり気に入り、シングルとLPを多量に仕入れたのだが、まったく売れず不良在庫になってしまったのだ。しかし、わたしも高市さんも、「愛奴」の浜田省吾本人を期待していた。生の歌声を聴いてみたい。その姿もみたい。高市さんとそう話しながらビールを飲んだ。

そのパーティーに集まった業界の人間で、「恋の西武新宿線」「二人の夏」の愛奴は知っていても、浜田省吾の名前を知っているものはいなかっただろう。目の前で歌う浜田が売れるとは、だれも思っていなかった。だれもが下田逸郎の登場をまっていた。「路地裏の少年」を歌っている間、じつに冷たい空気がながれていた。浜田省吾はもう一曲、「生まれたところを遠く離れて」を歌った。これはとても長い歌だ。そして、じつに感動的な歌だ。もちろんバンドもなく、町支寛二さんのギターもなかった。(「生まれたところを遠く離れて」と「遠くへ」は、もういちどソロで聴いてみたい)。

そのとき、わたしもきっと、偉そうに腕組みをして見ていたことだろう。横に座っていた高市さんが言った「浜田省吾、どうですか?」「僕は好きだな。帯広からやりましょうか」。浜田省吾はたった一人で、冷ややかな業界のパーティーのど真ん中で、「路地裏の少年」と、長い「生まれたところを遠く離れて」をみごとに歌い切った。足はブルブルと震え、声も震えていたが‥‥‥。

こうしてわたしは、まず、浜田省吾コンサートをキャパ380人の帯広勤労者福祉センターで開催した。きっと日本で最初の浜田省吾コンサートではないだろうか? これが浜田省吾・北海道ツアーのことはじめだ。1976年、遠い昔のことになってしまったが‥‥‥。

 

 

 

マンボ、ペレス・プラード、そしてマンボズボン

2018-01-11 | 日記・エッセイ・コラム

ペレス・プラードは、わたしの小学生のとき(1950年代)日本でも大ヒットした。エルビス・プレスリー、ハリー・べラフォンテ 、そして、マンボのペレス・プラードは、ビクターレコード(RCA )のビッグスターだった。

母の実家、要籐電気店の店頭にビクターのキャラクター犬ニッパーの置物があった。ビクターは、ラジオやオーディオ機器、テレビがよく売れていた。そしてレコードも‥‥‥‥。

  ペレス・プラード Que Rico El Mambo (エル・マンボ)  https://www.youtube.com/watch?v=z2jrQdJx24o

なんどか書いたが、この曲は、帆足まりこさんがDJの ”S盤アワー” 、そのオープニングだ。

  S盤アワー https://www.youtube.com/watch?v=55-MhR0amaE&list=PL-0Qm7yk-4UPeG7ld8YYDQQM_ZIQAxR44

Real Perez Prado
Rca
 

ペレス・プラードは、キューバのミュージシャンだが、メキシコシティでペレス・プラード・バンドをつくり、アメリカのヒットチャートを席巻する。踊りながら指揮をするペレス・プラードは、じつに斬新だった。

   ペレス・プラード  El mambo N° 8 https://www.youtube.com/watch?v=heAlMfqe0NA

”Pachco Bailarin” この動画はおもしろいよ。ダンサーがじつに楽しい。 

         ペレス・プラード   Pachco Bailarin    https://www.youtube.com/watch?v=iy7ep9e6qNo

”Cerezo Rosa セレソローサ” は日本でもヒットした。なんとこの曲は、1955年、10週間全米ナンバー1だった。

   ペレス・プラード Cerezo Rosa https://www.youtube.com/watch?v=entbtVTHaXQ

なんといっても日本では、”Mambo No.5" かな?

   ペレス・プラード Mambo No.5 https://www.youtube.com/watch?v=7CADAUKiieQ

いま動画をみているとなんとも新鮮だ。 いま男たちのズボンはやたら細いが、あれは1950年代の流行りだ。当時日本では、"マンボズボン"と言った。


白い渚のブルース

2018-01-08 | 日記・エッセイ・コラム

  アッカー・ビルク Stranger On The Shore( 白い渚のブルース) https://www.youtube.com/watch?v=hTl-iAF6KsE

わたしが小学生か中学1年のころ、日本でもヒットした「白い渚のブルース」。この曲でアッカー・ビルクはイギリス人として初めて全米チャート1になった。9曲の全英ナンバー1をもつクリフ・リチャードでさえ、アメリカのチャートでは25位どまりだったのだ。この曲が全米ナンバー1になったのは、1962年。ビートルズが登場してアメリカを席巻するのは、1963年。そのあと、ローリングストーンズ、エルトン・ジョン、ポリス、カルチャークラブ、ワム、と怒涛のごとくイギリス人は、アメリカのヒットチャート・ナンバー1に輝く。しかし、先駆者のクラリネットのアッカー・ビルク Stranger On The Shore( 白い渚のブルース)は、なんとも渋い。おもしろいね。次の週のナンバー1は、レイ・チャールズの「愛さずにいられない I Can't Stop Loving You 」だよ。

   レイ・チャールズ  I Can't Stop Loving You  https://www.youtube.com/watch?v=w-YqaTDDCDM

白い渚のブルース~アッカー・ビルク・クラリネット・ベスト
アッカー・ビルク
 

エルビス・プレスリーやリッキー・ネルソン、レイ・チャールズやマーヴェレッツがヒットチャートのナンバー1になっていたアメリカで、イギリスのアダルト・アダルト・コンテンポラリー・サウンドがナンバー1になる。じつに興味深い。

   マーヴェレッツ Please Mr.Postman  https://www.youtube.com/watch?v=425GpjTSlS4