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古い曲が気になる

日勝峠をどう歩くか?

2009-07-05 | 日記・エッセイ・コラム

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(日高山脈の写真は、再び、『秘境日高三股へようこそ!』http://homepage3.nifty.com/hidaka/index.htm から拝借させていただきました。)

 1977年3月1日、似内清高くんと田中やすこくんは、札幌駅から歩きはじめた。ゴールは帯広駅だ。まず、札幌から国道36号を千歳にむかって歩きはじめた。

 それから三日目、わたしは、早朝、帯広を出発して車をとばした。途中、日高山脈をこえる日勝峠がある。峠は、真冬だった。路面は圧雪が凍結して、おそろしくすべった。その雪道を、大型トラックやトレーラーが猛烈なスピードで疾走していく。冬の道東のドライバーは、命しらずだ。

 鵡川をこえて、苫小牧の手前あたりで、ふたりに出会えるはずだ。まず清高くんの姿がみえた。顔がすさまじい雪焼けになっていた。風景はまだ真冬だが、陽射しは春になっていた。この三日間、毎日晴天だった。直射と雪の照り返しをあびて歩いてきたのだった。

 すこし待つとやすおくんがやってきた。顔は雪焼けだ。そして、足にきているようだった。やすおさんは、スポーツらしいことやったことがないのだろう。音楽三昧の大学生活だったのかもしれない。ドラムを叩き、ギターを弾き、歌う。自作の『緑が丘公園ブルース』という悲しい歌もある。

 いっぽう清高くんは、わがサウンドコーナー・サッカー・チームの中心メンバーだった。ボクシングをやり、アメリカン・フットボールをやる。テニスもうまい。スポーツのセンスは抜群だ。スタミナもある。心も強い。

 しかし、清高くんのワークブーツも、水がしみこんできているようだった。国道の路側帯に雪が残っていたが、日光をあびたアスファルトの温度で溶け、ぐちょぐちょに腐った雪になっていた。そこを長時間歩くわけだ。靴は濡れ、皮を通して水が入りこみ、靴下は、きっとずぶ濡れだろう。

 それに、国道に歩道というものがない。除雪した雪の壁で狭くなった路側帯は、朝夕は凍りつき、昼は溶けた雪で、ぐちゃぐちゃだ。その北海道の長い直線道路を、大型トラックが猛スピードで走っていく。その横をソリを引いて歩くのは、どんな冒険より、はるかに危険だ。わたしは、「それはおもしろい! やりなよ」と、無責任にいってしまったことをすこし後悔していた。

 『青年よ、それは無謀だ、あまりに危険だ、やめたほうがいい』と、止めるのが良識ある大人の対応だったのかもしれない。かれらは、大学生で、わたしは、はるか年上の社会人だった。

 しかし、わたしには、常識とか良識というものが、はなから欠如している。できないことはない、という気持ちがすべてに優先し、なんとかなるさ、という根拠のない楽観も得意だ。できないとか、無謀だといわれるほど、心が燃える。

 「帯広からロック・バンドをメジャー・デビューさせて、スーパースターにする」といっては、「そんな夢のようなことを考えずに、まじめに仕事したら」といわれたものだ。

    

 しかし、清高くんとやすおくんが、雪の国道の狭い路側帯を、ソリを引いて歩くのは、あまりに危険だ。いまさら、やめたら、といっても、やすおくんは同意しても、清高くんは、ひかないだろう。

 そこで、歩いているときに不要な荷物(テント、寝袋など)をソリごとわたしの車にのせ、つぎのキャンプ地の町まで運ぶことにした。

 その荷物を交番とかガソリンスタンドにあずけて、またふたりの歩いている地点までもどり、どこに荷物をおいたか知らせる。そうして、わたしはUターンして、また日勝峠をこえて帯広にもどってくる。いちおう仕事があるのだ。わたしは、帯広駅前のレコード屋の店長だった。

 これを毎朝、ふたりが帯広駅までもどってくるまでつづけることにした。しかし、問題は、日勝峠の山道をどう歩くかだ。曲がりくねった雪道は、とくに危険だ。大型車を運転している人間は、こんなところに人が歩いているなんて予想もしない。夏だって歩行者なんていない。まして、真冬の凍結した峠道だ。人が歩いてるなんて、だれが考えるだろう。

 そして最大の難所は、日勝トンネルだ。大型車がすれ違う幅があるだけの狭いトンネルだ。もちろん歩道などない。対向車のライトがまぶしくトンネル内はよく見えない。ここをトラックがとばしていく。このトンネルを、どうやって歩いてぬけるか?

 (つづきは、また、あす)

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 ソニーのウォークマンが発売されて、この7月で30年だ。

 わたしが、はじめて見たウォークマンは、浜田省吾さんが持っていたものだ。北海道のコンサート・ツアーのためにやってきた浜田さんを、帯広空港に迎えにでた。旧帯広空港だ。緑が丘の自衛隊の近くにあった。飛行機は、ジェット機じゃない。プロペラのYS11だった。

 空港で浜田さんが、こんなものがソニーからでました、といってウォークマンをみせてくれた。「小さいヘッドフォンで、意外といい音なんです」と。わたしもすぐに買った。

 それが1979年のこと。そのコンサート・ツアーでは、浜田さんの前座に、帯広のバンド、キャデラックスリムを出演させた。まだ、デビューはしてなかった。

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 1857年、エジソンより20年も前に、フランスの発明家、エドワードレオン・スコットが発表した蓄音機。

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 エジソンの蓄音機

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  わたしの小学生のとき、ラジオ体操は、この手巻きの蓄音機をつかっていた。

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 わたしがレコード屋のときは、この手のプレイヤーの時代だ。たいがくの学生さんは、もっとシンプルなレコード・プレイヤーだったのではないだろうか。

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 いまでもこういうレコードを再生する製品がいろいろなメーカーから発売されている。これは、DENON  26,250円の製品。レコードだけの再生だが、ほかにカセット、CDが再生できて、ラジオ付きという製品もある。

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 このDENON のレコード・プレーヤーは、レコードのアナログ・サウンドをデジタル・ファイルに変換できる。USBメモリーを差しこんで、録音ボタンを押すだけ。31,500円。もちろん、単にレコード・プレイヤーとして使える。

                  

 ウォークマンの登場は、画期的なことだった。高音質の音楽を野外で聴くなら、FMラジオという手がある。自分の好みの曲を聴くなら、ステレオ・ラジカセを持って歩く、という手もある。(黒人のおにいさんたちがよくやっていたスタイルだ)。しかし、それらとウォークマンは、決定的にちがった。

 ハンディーで、高音質でステレオで、自分の好みの音楽を、どこでも、自分ひとりだけで聴ける。音楽じゃなくても、落語でも、英語教材でもいい。カセット・ブックの小説朗読を聴くのもいいだろう。

 そして、まわりの人には何を聴いてるか、知られない。聴きたくない外音も遮断できる。歩きながらでも、走りながらでも、飛行機のなかでも、電車のなかでも、船の上でも、馬に乗っても、どこでも聴けるのだ。

 いまでは、何の不思議もないとうぜんのことだが、録音した音楽を再生できる蓄音機の発明なみに、革命的に画期的な製品だった。だれでも、いつでもどこでも、好きな音楽が聴けるなんてことは、人類と音楽との、何十万年という長い歴史のなかで、はじめて起こったことだ。しかし、それは、便利な反面、音楽そのものを変える、もろ刃の剣でもあった。

 

 つまり、この三十年で、音楽がとんでなくお手軽に手に入るようになって、音楽というものが、チープで、それほど価値のないものになってしまったのではないだろうか?

 

 いまでは、iPodにシェアーをうばわれて、ソニー・ウォークマンの勢いはないようだが、しかし、機能は進歩しても、30年まえ登場したウォークマンのコンセプトの延長にあるのは事実だろう。

 むかしはよかった、などというつもりはない。ソニー・ウォークマンの登場で、人々が音楽に要求するものが変化していった。だから、音楽そのものが軽くなっていく。その変化は、ダウンロードの時代になって、ますます加速していく。それはだれもとめられない。それが時代の流れというものだろう。

              

 ソニー・ウォークマン なつかしのCM http://www.youtube.com/watch?v=x1sZxdcPDSQ&feature=related

              

 きのうの記事に書いたが、1970年、ジャクソン5 の「ABC」がヒットしたとき、大人のソウル・ファンの間で流行っていた曲のひとつが、これ。ジェームス・ブラウン&JB's 「セックス・マシーン」。http://www.youtube.com/watch?v=Fav0cE3JnDQ&feature=fvw