Ommo's

古い曲が気になる

 岡林信康は、フォークの神様だが、わたしの神でもある

2009-01-31 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg2474  神田神保町のうどん屋さん とても繁盛している 明大が近い

  

 

 今夜、シオノギのミュージックフェアに、岡林信康が出演した。感動した。やっぱり、岡林信康は、フォークの神様だった。番組は、「チューリップのアップリケ」ではじまる。この歌は、問題、同和問題にきりこんだ歌だ。北海道のひとには、ちょっとわからない世界だ。

 しかし、そんなことより、父子家庭で、出て行ったお母ちゃんが恋しい小さい女の子の心を表現して、みごとだ。お母ちゃんのつくった、チューリップのアップリケがついたスカートが、ほしいんだ。 荒々しい学園闘争の、あの時代、左翼も右翼も、岡林信康を愛した、そのわけがわかる。

 今日、岡林信康をみて、やはり「フォークの神様」だと、思った。詞が具体的で、ドラマ性がある。みごとだ。そして、なにより、歌がうまい。そして、いまも、ハンサムで、健康そうだ。むかし、岡林信康を知ったとき、このひと、二枚目だな、と思ったものだ。

 岡林信康コンサートを主催したことがあった。もう、松山千春、2000席即日完売、岡林信康、300席、苦戦の時代になっていた。でも、わたしは、主催者なのに、岡林信康と会うと緊張した。びびったのだ。どんなミュージシャン、アーティストにあっても、気後れはない。しかし、岡林信康は、ちがう。神だった。わたしは、少年のように心がふるえた。いっしょに酒を飲んでいても、緊張していた。

  岡林信康「チューリップのアップリケ」 http://jp.youtube.com/watch?v=Pw4uN52SytE


エドガー・ウィンターとジョニー・ウィンターは、兄弟だ

2009-01-30 | 日記・エッセイ・コラム
ジョニー・ウィンター ジョニー・ウィンター

 雨なので、一日、本を読んで過ごす。冷たく、激しい雨だ。春への胎動だ。もう梅が咲いてる。

 Azuさんがコメントで紹介してくれた、エドガー・ウィンターの「Dying to Live 」をYoutubeでみて、ジーンときた。はじめて聴く曲だ。いい曲だ。ちょっと涙がでた。年だ。先に逝った親友のことを思い出す。

 エドガー・ウィンターは、ジョニー・ウィンターの弟だ。ジョニー・ウィンターは、「100万ドルのギタリスト登場!」とCBSが大々的に売り出すが、そのまえ、リバティー(東芝音楽工業)からでた国内盤最初のやつが、衝撃だった。1969年だ。ブルースだ。ブルースのギターを、こんなに激しく、こんなに赤裸々に、こんなに荒々しく、感情爆発で表現する、こいつのテクも、怒りもすごい! 黒人の若いブルースマンも、イギリスのブルース少年たちもやってない。いままでだれもやってないブルース表現だ。なんだ、こいつ、すごすぎる! と思ったものだ。そう、ジャニス・ジョップリンの、あの歌唱表現のすごさ、オリジナリティーとおなじだ。だれもいままで、あんな赤裸々な感情を、歌で表現した人はいない。ジョニー・ウィンターの最初のアルバムを聴いたときの驚きは、大きかった。

 ジョニー・ウィンターのサイト http://www.johnnywinter.net/welcome/

Azuさんが張ってくれた映像がある。これをみると、新しさと、すごさがわかる、と思う。http://jp.youtube.com/watch?v=xGZTikKCJvg


今週の週刊新潮がおもしろい

2009-01-29 | 日記・エッセイ・コラム

20090129           

  週刊新潮・今週号  田中義剛の生キャラメル商売の記事がある 

 

 今日発売の週刊新潮(北海道は土曜日発売)に、ふたつの驚きの記事がある。朝日新聞襲撃の実行犯の告白と、もうひとつは、北海道、十勝の人たち必見の記事だろう。生キャラメル商売の田中義剛の、実像と商売の実態があばかれている。やっと出たか、という感じだ。十勝の人たちが、全国に知ってもらいたい、花畑の現実だろう。

 生キャラメルもホエー豚も、パクリだ、と記事にある。善意の知人の信頼を裏切って、テレビメディアを利用して、商品開発をじぶんの手柄にした。生キャラメルは、製法を教えてくれた知人をさしおいて、商標も先に取った。まさにパクリだ。

 生キャラメルは、田中の酪農学園の同級生、大黒宏さんが開発した製法だ。この農場がすでに生キャラメルを試作発売していた。これを、田中がテレビ番組で取材にきた。そこで製法を知った。ここからがテレビタレントの強みだ。全国版のテレビで、田中自身が苦心して開発したと自慢した。「人のやらないことを一番先にやらないくちゃだめ」とか、ホラをふいた。しかし、大黒さんから抗議をうけた。そのことが公になりそうになると、名誉毀損だと逆ギレして、すぐに、田中義剛が商標登録を出願した。

 ホエー豚は、2002年に中札内のナチュラルチーズ工房の提案で、中札内の養豚業者、笠松直さんが開発した豚だ。チーズを作るときにでる「チーズホエー」をつかって育てる。十勝ホエー豚研究会という会をつくって、飼育の研究と、ブランドの普及につとめている。

 笠松さんは、このホエー豚を2003年、花畑牧場のレストランにカレー用に納品している。田中義剛は自分で養豚をやりたいといって、去年、笠松さんの農場に飼育方法を見学にきた。そしていま、花畑で「ホエー豚丼」とやらを売っている。ネット通販でも売ってる。しかし、あろうことか、ホエー豚の飼育方法は、田中義剛自身がイタリアでみつけて、自分の牧場で試行錯誤のすえ、十勝に合う飼育法を確立した、と言ってる。花畑牧場のオリジナルだ、と言っているのだ。わたしは、テレビで田中がそう言ったのを、この目でみた。

 (北海道のテレビ局ではあまり放送されないのだろうが、東京キー局の番組に、田中義剛は、生キャラメルをもって頻繁に出演している。テレビは、大成功した企業家として、ちやほや持ち上げている。規模はかなり小さいが、ライブドア・堀江のときのような感じだ)。

 また違う番組(東京12チャンネルの経済番組だったろうか)では、田中が、イタリアの養豚の現場にいた。ホエー豚、開発の苦闘をたどる涙の旅だ。泣かせる。まさに、やらせの、テレビだ。全国のテレビの視聴者は、生キャラメルも、ホエー豚も、ほかの北海道の人たちが苦労して開発したことなど、知らない。田中義剛ってすごい創造的な経営者なんだ、と思ってる。テレビメディアはそう誘導している。タレントの強みだ。田中は、本までだして自慢している。大学で講義もしているという。

 ホエー豚は、だいじょうぶなのか? 田中義剛がすでに商標登録を申請してないか?

 生キャラメルいらい、押し寄せる観光客の車で、近隣の農作業に支障があるという。それほどひどいのなら、北海道警察は、ちゃんと指導するべきだろう。道路の占有許可申請を提出させて、必要な交通誘導の人員配置図を添付させる。毎日、きちっと実施しているか監視、監督する。いち企業の金儲けのために、地域の交通がマヒすることなど、許されることじゃない。

 ここらの、20台30台の駐車場の、小さいスーパーマーケットだって、制服の警備員が何人もでて、交通誘導をやっている。渋滞した車で、じぶんの家の駐車場に入れないとか、じぶんの店の駐車場がふさがれるなんてことが起これば、すぐに近隣の人が、110番する。かならずパトカーが飛んでくる。

 観光客の車で、農作業の車やトラクターが、満足に走行できない? 道警は、トロすぎる。花畑牧場にいく車で、農道がふさがれるようなら、そのすべての農道入り口に、花畑牧場の責任で、交通誘導の有資格警備員を配置させるのが、法律だろう。必要なら、片側交互通行にして、農作業車を優先通行させるべきだろう。

 (北海道のトラクターは、巨大だ。本州の田んぼのトラクターと違う。アメリカやロシアの広大な畑を走る、あの巨大なトラクターだ。エアコン、テレビ、ステレオ付きだ。そのトラクターが牽引するハーベスターなど農機具もまた巨大だ。それが十勝の国道、農道を走る。刈り入れや、種まきの農繁期は、時間に追われて作業をする。天候の急変も気になる。農民たちは、幾晩も徹夜でトラクターを運転する。真夜中の畑でもライトを煌々と照らしてトラクターでの作業はつづく。収穫した小麦やトウモロコシやじゃがいもやビートを積んだダンプも走る。その作業は、畑から畑へ、国道、農道を通って移動してつづけられる)。

 真の農業地帯に、芸能プロが経営する観光牧場は、なじまないのかもしれない。牧場の糞尿、汚水を、平気で川に流す、というはなしも、以前きいた。それでいて、周辺の農家が、秋まきの小麦のために堆肥を畑にまくのを、臭いが商売の邪魔をする、観光シーズンだ、迷惑だ、やめろと抗議するという。有機肥料の使用がダメだというわけだ。農民と利害が対立するなら、農業地帯にふさわしい施設、企業といえるのだろうか? 

 近隣の砂利採集業の人との、たがいに弁護士をたててのトラブル。低賃金で、過酷な労働の実態。そんなこんな、花畑が、お花畑でもない現実が、週刊新潮にくわしい。

 

 しかし、そもそも、テレビ・タレントの扇動にのって、バカ高い生キャラメルやらに殺到する客の、その頭のなかこそ、「お花畑」だが……。やつら芸能プロの思う壺に、はまっているわけだ。

 まあ、テレビで煽ったブームなど、すぐに終わる。ゲッツのダンディ坂野や、ギターさむらい羽田陽区みたいなものだろう。それに、商品がみんなパクリで、産地擬装で、外注品だとばれると、いまの客はすぐに引く。

Cimg2500  近所の住宅街のなかの、小さいレストラン

Cimg2498  そこの メニュー  テーブル席が三つ  カウンターに二人

 

 

 このブログの右サイドにもある、写真家の戸張良彦さんのウエブサイトで、しばれる十勝平野の風景をアップしている。北海道を離れて暮らす者には、なつかしく、美しい冬景色だ。ぜひ、クリックしてみてほしい。   http://www.y-tobari.jp/topics/?ct=1   写真にポイントをあわせてクリックすると拡大してみられる。

Cimg2502

 やはり住宅街の、テイクアウト専門の焼鳥屋さん 若いご主人が一生懸命焼く とても繁盛している  おでんもある モツ煮込みもある みんなお持ち帰り専門

 

 

 40年ちかく前、フォークやロックのコンサートを主催して、北海道じゅうを車で旅していた。そのときは、いつも二日酔いで、のどが渇く。畑や原野のなかの自動販売機でとまって、飲み物を買う。売っているのは、コーラか、ファンタだ。二日酔いを悪化させるだけだが、しょうがない。飲む。とりあえず水分がほしい。しかし、すぐに気分が悪くなって、吐く。そんな時代だった。飲みたいのは、ただの水か、冷たいお茶だ。

 冷たい水とお茶の自動販売機があったらな、と人にいうと、鼻で笑われた。みず? 水の自販機? おねいさんがいるバーじゃないんだ、そんなものにだれも金を出さないよ、という。バカにされながら、本気で、十勝産のミネラルウォーターの販売を考えた。名前も決めていた。『十勝川』だ。十勝清水に工場をつくる。水とお茶の缶、瓶を生産する(当時はまだ、ペットボトルは一般的じゃない)。資金を出してくれそうな、だれも相手にしてくれなかった。けっきょく、大酒飲みの妄想でおわった。

Cimg2484_2  このネーミングのセンスが好きだ  『すもも実』眼科  目医者だ

Cimg2493  これはどうだろう  『骨盤CLUB 』  整体クリニック わかりやすい

 

 

 

 週刊新潮の、もうひとつの記事こそ、驚きだ。朝日新聞阪神支局襲撃の実行犯が、実名で告白手記を寄せてる。今週、来週と2週の連載らしい。三億円事件が時効になったとき、いろんな出版社に、数十人の真犯人だという男たちが、手記を売り込みにきた、というはなしがある。時効になったからと、原稿をもって登場する自称真犯人の告白は、ほとんど金目当ての、フィクション、小説、でまかせ、でたらめとして読むべきだろう。

 だが、とりあえず今週告白の、告白にいたる心境と経過、犯行の段取りから、犯行当日までの話は、具体的でリアリティーがある。迫真だ。しかし、依頼主のことは、「公的な組織の人間」というだけで、何の説得力もない。来週に、その名前を告白するようなことをにおわせている。乞うご期待と、いうところかな。 


フォーリーブス、英亜里、ピーター、カルメン・マキは、CBSソニーだった

2009-01-28 | 日記・エッセイ・コラム

1968-1974 CD選書ベスト 1968-1974 CD選書ベスト

 フォーリーブスの青山孝史さんが亡くなった。57才、肝臓ガンだという。べつにファンではないが、レコード屋をやっていたものとしては、感慨がある。フォーリーブスは、CBSソニーの邦楽最初のアーティストだった。(CBSソニーは、いまのソニー・ミュージックエンタテイメント)。

 CBSソニーが設立され、第一回の新譜、サイモン&ガーファンクルのシングル「サウンド・オブ・サイレンス」が発売になったのは、1968年8月。わたしの帯広駅前店が開店したのが、同じ年、1968年の12月25日だった。そのせいか、わたしはCBSソニーにたいして、シンパーを感じてきた。

Cimg2476

   神田の中古レコード屋

 

 

 

 

 当時は、流行歌・歌謡曲の時代だ。ムード歌謡、演歌、グループサウンズが全盛だった。新しい会社のCBSソニーには、そのジャンルのビッグネームの国内アーティスト、タレントがいない。ビクター、コロンビア、テイチク、キング、ポリドールなど老舗メーカーに、とてもたち打ちできない。そんな時代だった。そんな黎明期のCBSソニーにとって、ジャニーズJr.のフォーリーブスの売り上げは大きかった。「オリビアの調べ」がデビュー・シングルだ。そして、演歌の英亜里(はなぶさあり)「花を咲かせて」が、やはり最初の国内制作盤だった。

 英亜里は、明るいアイドルっぽい雰囲気をもった、いわば演歌のニュー・ウエーブだった。「花を咲かせて」につづいて発売された、1969年の2枚目のシングル「花の手拍子」も、わたしの店では、売れた。そして、ピーター(池畑慎之介)「夜と朝のあいだ」、カルメン・マキ「時には母のない子のように」もまた、CBSソニー1969年の国内盤の大ヒットだった。いずれも、ほかの既存のメーカーでは手をださない、いわばキワモノ、ゲテモノにちかい。しかし、たしかに、つぎに来るものを予見させる新しい感性があった。ほかの老舗メーカーとは、まったく違っていた。

Cimg2477  外で売ってる中古レコード   1枚100円

Cimg2478   むかしヒットしたLPレコードがたくさんある

 

 

 

 わたしのレコード屋も、既存の店でガチガチにきまっているところで開店した。ステーション・デパートのサウンドコーナー、西2条通りの加藤電氣、河合楽器、及川レコード、藤丸デパートの浅原支店、広小路の浅原本店、大通りの国原楽器。あの小さい街の狭い範囲に、これだけの数のレコード店があった。そのなかで、わたしの店が開店した。(店名が、「電気店」「楽器店」となっているが、メーンの商品はみなレコードだった。数年後には、ムジカという店もできて、また増えた。帯広の商店街は、レコード屋街だったのだ。釧路・北見・日高管内からもお客がきていた)。

 流行歌、演歌では、とても既存の店にたち打ちできなかった。そして、フォーク、ロック、ジャズの店と、つっぱってみても、現実は、まだそんな時代じゃなかった。レコード商売は、国内制作の歌謡曲・演歌が、圧倒的に主流だった。そんなわたしの店にとって、新しいメーカーの、新しいアーティストは、既存の他店と対等に競える魅力ある商品だった。

 それに、国内制作に弱い新興のレコード会社をナメていたのか、まだCBSソニーのレコードを扱ってない店がたくさんあったのだ。ときどき、ほかの店の店員が、現金をもって、CBSソニーのレコードをわたしの店に買いにきた。

 そんなわけで、歌謡曲にまるで弱いわたしの店でも、フォーリーブス、英亜里、ピーター、カルメン・マキのレコードは、よく売れた。商売がはじめてのわたしにとって、貴重な売り上げをあげてくれるアーティストだった。フォークやロックが爆発する寸前、革命前夜というころのこと。つらい時代だった。 

Cimg2483  近所のおでん屋

Cimg2482  その店先の看板

  

  

  

  

  フォーリーブスのオフィシャル・サイト http://four-leaves.tv/

  ピーターのブログ http://ameblo.jp/oziba/

  カルメン・マキのオフィシャル・サイト http://www.carmenmaki.com/

  英亜里の写真があるページ http://fujisk.hp.infoseek.co.jp/ka90.htm

Cimg2488  散歩途中でみた新しいハーレー

Cimg2485  近所のステンドグラスの工房


帯広の「ろばたの灯り」も、ミュージシャンに人気の店だった

2009-01-27 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg2467  神田神保町のこの店、わたしが学生のころからあったように思う

 

 

 わたしが北海道に招聘したミュージシャン、浜田省吾さんや、町支寛二さんたちが、帯広でかならず気に入ってくれた店のひとつは、「ろばたの灯り」だった。キンキやホッケの焼き魚、そしてイクラ丼だ。シシャモもうまい。

 北海道で食べるシシャモはほんとうにうまい。(東川佳人くんの情報では、日高の鵡川産より十勝産のシシャモの量が圧倒的に多いという。しかし、ブランド力は、鵡川が強い)。このあたりのスーパーマーケットでもときどき北海道のシシャモを売っているが、あまりに高い。安い外国産の子持ちシシャモは年中売ってる。あれは、北海道のシシャモとはまったく別種の魚だ。だから、味はまったくちがう。

Cimg2458  本屋街の寿司屋  安い!  8貫で500円 味噌汁付き

 

 

 

 

 こっちの居酒屋でがっかりさせられるのは、ホッケだ。あれは、北海道の居酒屋で食べていた脂がのった真ホッケと種類がちがう。縞ホッケだ。縞ホッケが、こっちでは一般的なホッケなのだ。帯広のろばたの灯りで食べていた、うまいホッケを居酒屋で食べることはできない。スーパーで売っていることがあるが、これもバカ高い。それにあまりうまそうに見えない。

Cimg2460

 ディスク・ユニオン神保町店  店頭のCDは、105円

 

 

 北海道をでてから、大きな柳ガレイもみたことがない。釧路でもフォークやニューミュージックのコンサートを開いていた。その打ち合わせなどで、よく釧路にでかけた。そのたびに、露天や和商市場で柳ガレイの干物を買ってきた。まだ釧路の街のなかで、リヤカーを引いたおばさんが、カレイやホッケの干物を売っていた。柳ガレイは、大きいほど脂がのっていて、うまい。

Cimg2463  古書店 店頭

 

 

 荘田水産の店舗がまだ帯広の街のなかにあった。ホテルにも近いので、あの大きな魚屋が帯広にやってきたミュージシャンのお気に入りのところだった。蟹やイクラやホッケを買って、自宅に送っていた。なぜか、はるかに規模の大きい函館の市場や釧路・和商市場や札幌・二条市場より、帯広の荘田水産が人気があった。ホテルの近く、飲食街のなか、という立地がよかったせいだろうか?

Cimg2468  喫茶店の入り口 地下におりる

  

Cimg2469  その店の路上の看板


ホームのタン・シチューがうまい

2009-01-26 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg2384

  九段坂 午後  

 

 

 

 

 幕別町の長谷さんから、札幌の丸山でおいしい洋食屋をみつけた、とメールをいただいた。洋食屋、むかしの帯広でいうと、ドラゴン、ホーム、世界一が好きだった。ドラゴンは、中学、高校のころ、父によくつれていってもらった。フルコースの料理をとって、スプーンやナイフやフォークの使い方を教わったものだ。

Cimg2385

 むこうに見える玉ネギ頭の屋根が日本武道館  サンプラザ中野の歌にあった、その屋根

 

 

 レコード屋になってからは、牡蠣グラタンとトーストを、ランチに食べたものだ。パンでグラタン皿をきれいにぬぐって食べる。うまくて、安い、昼飯のメニューのひとつだった。ドラゴンの、古い洋食屋さんらしい雰囲気も好きだった。二階席で、ランチを食べおわってからも、コーヒーを飲みながら、本を読んですごしたりした。

Cimg2399  武道館正面にあるイチョウの巨木  この木が好きだ  黄色く染まる晩秋はみごとだ  新緑の初夏もいい 

 

 

 ホームは、ドラゴンにいたチーフが開いた店だったろうか。西2条10丁目の西仲通りにあった。ホームで好きだったのは、タン・シチューだ。ごはんもパンもよく合うが、これをサカナにワインを飲む。札幌・ミューズの木ノ内さんにも気にいってもらった。わたしが招聘したミュージシャンたちにも「これは、うまい!」と感動してもらったものだ。

Cimg2412  田安門の閂(かんぬき)  こういう金属加工品に心がふるえる

 

 

 「世界一」のお父さんのつくる料理は、洋食はもちろん、ほかの料理もじつにうまかった。洋食屋さんだが、ラーメンと焼き飯がうまかった。中華そばというか、東京ラーメン系のシンプルなラーメンだった。北京亭のような濃厚なラーメンもいいが、これがうまかった。焼き飯も、シンプルなソース焼き飯だが、じつにうまかった。帯広出張は、ここの焼き飯と、ぱんちょうの豚丼がたのしみだ、というレコード・セールスマンが何人もいた。煮カツでビールを飲むのも好きだった。

Cimg2416  九段坂、日暮れ  手前の桜の古木もみごとに花を咲かす  春よ まだかい

 

 

 洋食屋じゃないが、帯広市長をやっていた田本さんの田本食堂の、親子丼も好きだったな。これは、あまり知られてない帯広駅周辺うまいもののひとつだった。サウンドコーナーの店員はよく食べていたから、あの界隈で働く人たちのお気に入りのランチのひとつだったのだろう。安かった。あの親子丼をドーンとメインにしても名物になったろう。そのくらいうまかった。

Cimg2418  九段教会  靖国神社のすぐ下にある

 

 

 

 

 そういう意味では、豚丼のぱんちょうは、偉かった。たいしたものだ。あの当時でも、すでに単品、豚丼だけの店だった。そんな食堂はなかった(インディアン・カレーのことは、またあとで)。いま、むかしから豚丼専門店といってる店も、きっと当時は、カツ丼も親子丼も、ラーメンもそばも、カレーライスも出す大衆食堂だったはずだ。わたしが帯広駅前でレコード屋になった1968年ころ、豚丼屋といえるのは、十勝管内で、帯広駅前のぱんちょうだけだ。

Cimg2423  靖国神社 きょうは五時で閉門  閉じた菊の門

 

 

 いまのように店の前に列ができるとか、観光客が押し寄せる、という時代ではなかった。しかし、ぱんちょうには、すでにある格調があった。梅、竹、松の豚丼と、とうふとなめこのみそ汁だけのメニュー。電話で予約してテイクアウトはできる。(わたしがレコード屋をはじめた60年代の終わりころ、焼き肉定食のような、あの豚丼の肉が皿ででるメニューがあったような気がするが、わたしの記憶間違いかもしれない)。昼どき、夕飯どきは、当時も混むので、その時間は避けていったものだ。仲通りを挟むが、5、6軒むこうの町内のお店だ。

Cimg2430

  Cimg2428

Cimg2429  門の菊の紋 どんどん接近すると、こんな感じ

 

 

 町内の店では、ふじもり食堂のインディアン・カレーがすごい。はじまったのは、わたしがレコード屋になった年か、つぎの年だと思う。あれから40年。長谷さんは、娘さんへのおみやげに、インディアン・カレーのテイクアウトのルーをもっていく、という。東京に住むわたしの娘の冷蔵庫にもインディアン・カレーが冷凍されていた。帯広の親戚や友人が送ってくれる、という。ほかの帯広出身で首都圏に暮らす友人たちも、インディアンのカレーは冷蔵庫に常備しているという。なにも言わないのに、帯広の母親が定期的に送ってくれる、という知人もいた。

Cimg2446  九段会館  昼にみると、美しい建物だ 

 

 

 腹ぺこの中学生、高校生のとき、バス待ちや汽車待ちで、駅前のインディアン・カレーで食べたカレーの味は「絶対」的カレーなんだろう。速くて安くて、うまい。だが、ジャンクフードのイメージはない。栄養満点だ。わたしも町内の店だから、よく食べた。忙しいときも、ちょっと走っていって、サッと食べて、走って店にもどる。レコード屋にも、そんな景気のいいときがあったのだ、よ。

Cimg2450 Cimg2453

Cimg2454

 文久元年とは、1861年 明治元年の7年前

 

 

 

 

 4年くらいまえ、帯広に帰ったとき、インディアンのカレーを食べた。20年ぶりだったろうか。うまかった。あれは、どこにもない、帯広のカレーだ。妙に濃厚ではない。妙に辛くはない。インドとか、スリランカとか、タイとか、そういうカレーではない。本場のカレー、そんなことは知らない、帯広のカレーだ、というカレーだ。豊穣な農業の街、帯広のみごとなカレーだ。食材の新鮮さと豊富さ、それを熟知している料理人の技だろうか。

Cimg2457 Cimg2456

Cimg2461  神田神保町の店先


渋井陽子が、ひさびさに優勝した

2009-01-25 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg2378   夕暮れに係留された屋形船

Cimg2380  出航準備の屋形船  日曜日の夜も、東京湾で宴会なんだ……

 

 

 じつに気分がいい。大阪女子マラソンは、渋井陽子が2時間23分42秒で優勝した。11月に東京国際を走ったばかりなのに、だいじょうぶか、と心配していた。しかし、東京の失敗がいい具合に今回に作用したようだ。最近いつも前半から飛ばして、後半失速していた。きょうの前半おさえたレース展開は、渋井陽子の新境地だ。真に強いマラソン・ランナーが完成するには、多くのレース経験と長い年月がかかるんだな、と感じるレースだった。

 わたしは、2007年の東京国際女子マラソンを、大手町交差点でみた。野口みずきと渋井陽子がトップを走っていた。ふたりの筋肉の太さと張りは、ほかの選手とはまるで違っていた。ふたりとも背は高くないが、みるから強靱という筋肉質の身体をつくっていた。しかし、このときも、渋井は、前半飛ばして失速してしまった。優勝は、大会記録を塗りかえた野口みずきだった。

 民放のマラソン放送ではしょうがないと、なかば諦めているが、しかし、やっぱり毎回、腹が立つ。きょうのフジテレビの実況でも、レース最大の山場にさしかかったとき、CMをいれた。赤羽有紀子と渋井陽子の小さいせりあいがつづいていて、ついに29キロ、左に曲がるカーブをつかって渋井がスパートをかけた。まだ30キロ前、早いスパートだ。こんなに早く仕掛けて、渋井は逃げ切れるのか? 赤羽が付いていけるか? いよいよはじまるぞ。マラソンで一番おもしろい瞬間だ! と思った、そのとき、CMになった。クソ! またやりやがった!

 長い長いCMに感じた。CMが終わってレースにもどったとき、「CM、長い」と解説の増田明美さんの小さい声が聞こえた。まさにだれもの本音だ。CMが終わって、ロードの映像にもどったとき、レースはもう決まっていた。渋井陽子と赤羽の距離は、もう取り返しがつかないほど、離れていた。渋井のスピードは、1キロ3分09秒、3分06秒とどんどん上がっていた。 
 
 フジテレビは、「ママさんランナー、初マラソンで優勝!」という赤羽有紀子の優勝が予定事項だったのか、ずいぶん前から、なんどもなんども赤羽有紀子のドキュメンタリー風の番組を流していた。出産をのりこえ、コーチの夫と愛児、家族でつかんが優勝、というテレビ屋が大好きなシナリオだったのか。渋井が後半まで自滅せずに自重して、30キロ手前でスパートして、『ママさんランナー』赤羽が引き離されるのは、やつらの台本にない展開だから、ここでCMにしようか、ということかな、きっと。

 あるいは、地方局がローカルのスポンサーのCMを流すので、レースがどんな山場になろうと、CMの時間は動かしようがないのか? それならマラソンを中継する資格はないな。放送の公共性もなにもあったものでない。大会は、いちテレビ屋の金儲けのためにあるわけでないだろう。テレビ局が、42.195キロ沿道すべての公道の占有許可をとり、警備の警官たちの日当まで負担しているのか? パチンコ屋のCMをながすまで堕落した、いまの民放の現状では、陸連は、マラソン、駅伝の放映権をすべてNHKにまかすべきだろうな。

 渋井も赤羽も、ともに栃木県出身で高校のときからライバルだというから、きょうの結果は、赤羽にとってはくやしいだろう。ふたりとも北京オリンピックの1万メートルの代表でもあった。この初マラソン、2位で、2時間25分40秒、タイムも悪くない。赤羽は強いマラソンランナーになるだろう。ともかく、赤羽有紀子のスポンサー企業・ホクレンの、きょうの宣伝効果は、バツグンだったろう。

Cimg2376 靴とバッグのクリーニング屋さん

Cimg2377  クリーニング前と後の見本

 

 

 

 つぎのたのしみは、3月8日の名古屋国際女子マラソンだ。これも世界陸上ベルリン大会の選考レースだ。マラソンに関して、女子の場合は、日本選手は世界レベルだが、日本男子は、世界レベルのタイムからずいぶん遅い。レース内容も、おもしろくない。だから、見ていて、途中で眠ってしまって目が覚めたときは、レースがおわっている。

Cimg2362

  定食屋  飯お代わり無料

Cimg2373  牛丼屋の前の花

  


土曜、火曜は、休漁日

2009-01-24 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg2353   きょうは休漁日。土曜日と火曜日が公休日で漁に出てはいけない。東京湾の資源を守る策なんだろう。

 

 

 

 

 最近、卵が安い。ときどきスーパーのセールで、Mが100円なんてのがあったが、いま常時、120円くらいだ。百円ショップの卵も、6個から8個になった。きょう、近所の小さい商店で、Lが98円で売っていた。もちろん10個入りだ。

 豆腐も安い。スーパーでは、50円前後のやつがある。よく行く店では、38円だ。大デフレだ。しかし、貧民のわたしも、これは買わない。近所にとうふ屋がある。夏の暑い日、散歩の途中に、ここで豆乳を買って飲んだ。これがじつにうまかった。とうふ屋の豆乳は、ほんとうにうまい。以来、とうふはそこまで歩いて買う。もめんがうまい。

 豆乳が好きだ、というと、わたしにふさわしくないと、娘が笑う。わたしに健康食っぽいのはイメージにまったくあわない、というのだ。自分で撃った鴨の腹を素手で裂いて、肝臓を取り出して、むさぼり喰う。鹿を刺身にして酒を飲む。三食、インスタント・ラーメンですごす。だいたい、そういうのがわたしにふさわしいらしい。本心、まったくそういうのが好きなんだが、豆乳も好きだ。

Cimg2375  刈り込まれた松

 

 

 最近はダイコンおろしにこっている。なんでも、ダイコンおろしを入れて食べる。おししそば、おろしうどんはもちろんだが、おろしラーメンまでつくる。焼き肉も、とんかつも、もちろん焼き魚も、ダイコンおろしだ。みそ汁も最後にダイコンおろしをいれる。

 オーストラリア人の養子がいると以前書いた。かれが好きな日本食が、ダイコン・サラダと、切り干しダイコンの料理だ。寿司でも、刺身でも、ラーメンでもない。日本にきて、ダイコンのうまさに目覚めたという。

 十勝には、「白人(ちろっと)ダイコン」というブランドがあった。いまでもあるのだろうか? 白人(ちろっと)は地名だ。幕別町にある。

 子供のころ、家では、その白人ダイコンを山のように買って、一日がかりで洗って、縄でしばって、軒先に乾したものだ。べつにそんな山の中に住んでいたわけでなく、人口14万人くらいの市の、街のなかだったが、近所みんなそんな感じでダイコンを乾していた。タクワンをつくるのだ。まだ電氣冷蔵庫も、スーパーマーケットも普及するまえだから、冬の野菜は、自分たちで確保するわけだ。ニシン漬けという漬け物も大量につくった。 

Cimg2360  定食は、ご飯無料 


来週月曜日、桂吉弥の新春落語会が幕別町百年記念ホールである

2009-01-23 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg2309  咲きだした白梅

 

 

 落語家の桂吉弥(かつらきちや)の、文化庁芸術祭賞大衆芸能部門新人賞授章式があった。十勝の幕別町百年記念ホールでは、来週月曜日(1月26日)に、桂吉弥の新春落語会が開かれる。19時開演だから、十勝の人は、出かけてみてはどうだろう。

F090126katsurakichiya

 桂吉弥、わたしは好きだ。おもしろい。 

 

 

 

 

 

 桂吉弥は、NHKの朝ドラ「ちりとてちん」の徒然亭草原(つれづれていそうげん)の役で全国区の人気になった、いまノリノリの桂米朝門下の中堅だ。わたしは、2007年3月、柳家三三(やなぎやさんざ)とのふたり会を内幸町ホールで、ならんで当日券の補助席でみた。生の落語はじつにたのしい。ぜひ、一度、体験してみてはどうだろう。幕別町は、帯広からすぐじゃないかな。

Cimg2306  ここも運河沿いの散歩道だ

 

 

 ゴルフの石川遼が招待されて、4月開催のマスターズ出場が決まった。けっこう大きなスポーツニュースだが、テレビでは、なぜか無視している。タイガー・ウッズでさえ19才の初出場だったのだから、17才での出場はたいしたものだ。アメリカの不況で、ジャパン・マネーを当てにする主催者の思惑はべつに、単純に日本ゴルフ界には喜ばしいことだろう。がんばってほしいものだ。

 日本でのテレビの放映権とか、日本のスポンサー、石川遼の現在のスポンサー、日本から出かけていくギャラリーたちが落とす金。アメリカ大恐慌のなか、主催者がいま、石川遼を特別招待選手として招聘するメリットは大きいのだろう。

Cimg2319  この花芽は、桜。河津桜という。もうすぐ開花だろう。

 

 

 武器使用基準が曖昧なまま、ソマリア沖に派遣される自衛隊も可哀想だ。しかし、いまなお民主党は反対していて、海上保安庁の巡視船を派遣しろ、といってる。じぶんたちの政治思惑と、イデオロギーのために、遠いアフリカの海で海賊と対峙しなければならない国民のことなどまったく眼中にない。海上保安庁の貧相な装備で、ロケット弾で武装している百戦錬磨の海賊たちに立ち向かえというのだ、民主党の政治家は。

 海上保安庁のその職員のたちの身になってみろ、といいたいね。海上での銃撃戦の訓練はすこしはやっているだろう。しかし、巡視船は、40mm機関砲と20mm機関砲しか装備してない。職員は、刀剣を使うフィジカルな格闘戦があるような白兵戦訓練など受けてないだろう。海兵じゃないのだから。しかし、日本の現場の公務員たちは、生真面目だから、任務であれば命を捨てて戦うだろう。そういう修羅場に、民主党のれんちゅうは、海軍ではなく、沿岸警備の警察を送れというのだ。それは、おかしいだろ? 海上自衛隊には、表だっていないことになっているだろうが、現実海軍なんだから、アメリカ海兵隊のような戦闘部隊があるだろう。なければ、陸上自衛隊と協力する。

 (ときには、乗っ取られた船に乗り移って戦わなければならないだろうし、海賊の船に乗り移らなければならないこともあるだろう。離れたところから、40㎜砲で砲撃する、という単純なことではすまないだろう。ましてや、その海域を巡航するだけで抑止力があるなんて甘いことじゃないだろう。やつら海賊には、大国の船のひとり、ふたりの身代金で、2億、3億円の金になる。貧民が命をかけるだけの商売なのだ)。

Cimg2324  鉄橋は、旧江戸川に架かる地下鉄東西線

 

 

 中国は、いちはやく海軍をソマリア沖におくって、国際的に大国としての責任をアピールした。韓国も海軍の派遣を国会で決議した。(しかし、ソマリア海賊の武器が、中国製のロシア銃器のコピーだという。海賊に武器を売り、その海賊退治に正義づらで登場する。いつもどうりの、笑えない中国ばなしだ。銃器本体だけでなく、消耗品の弾薬もどこかの国が売っているのだ。この売り上げが武器商売では大きい。火薬も弾丸も、爆薬も安くないのだ。コピー機やプリンターのインクとか、ペーパーの商売が、おいしいのと似ているかな。それに、だいたいソマリアが無法地帯になったのも、中国人に挑発されたアフリカの毛沢東主義者たちの、民族解放戦線とやらのせいだろうに……まさに、マッチ・ポンプだ。つまり、じぶんでマッチで火を点けて、大騒ぎして、ポンプで火を消す。そんな放火犯がよくいる。日本の左翼、社会主義者、共産主義者、リベラルが、むかしから得意の戦術だ)。

Cimg2334

  七輪の火  焼き鳥屋さんの仕込みのようだ 

 

 

 自国の船は、自国で守る。他国の船も必要なら守る。現場の判断で武器を自由につかえる法を整備して、海上自衛隊を早急におくるのが、国際的な責任というものだろう。今回は、憲法9条に触れなくても、できることだ。ソマリア海賊は、国家ではない。9条でいう戦争ではないだろう。しかし、改憲するのは、国として急務だろうな。

Cimg2326  まさに水舟

 


雨なので、「種の起源」

2009-01-22 | 日記・エッセイ・コラム
種の起原〈上〉 (岩波文庫) 種の起原〈上〉 (岩波文庫)
種の起原〈下〉 (岩波文庫) 種の起原〈下〉 (岩波文庫)

 雨で、ひどく寒い。さすがに、出歩く気がおきない。一日中部屋のなかで、ダーウィンの「種の起源」(岩波文庫)を読んですごした。というより、居眠りのあいまにときどき本を読んでいた。

 「種の起源」は、読んだようで読んでない本のひとつだ。解説書みたなものや、テレビの番組で、ダーウィンの説を知ったつもりになっているが、原著はかって挫折して投げ出している。翻訳の回りくどい文体の難解さもある。こっちに忍耐力がなかった。若かった。高校生のとき、第一章の何ページかで投げ出した。一度そうして挫折した本には、妙にトラウマが残っていて、なかなかふたたび手にできない。そうして時間がアッという間にすぎた。少年老い易く学成り難し、だ。

 そんなわけで、生きているあいだに、ちゃんと読んでおきたい本の一冊が、「種の起源」なのだ。まだまだそんな本がたくさんある。いそがなくちゃいけないのだ。

 トルストイの「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」を中年になって読みなおして、そのおもしろさに心底、感動した。『いったい若いときは、なにを読んでいたのだ!』と、じぶんのことながら愕然とした。ショーロホフの「静かなドン」も、読みかえして、ぶっ飛んだ。おもしろい。だから、ガキのときに読んだつもりになっていた本も読みなおしたいのがいっぱいある。ディケンズやトーマス・ハーディも読みなおしてみたい。読んでおきたい日本の古典もたくさんある。

 

 


オバマの就任式でアレサ・フランクリンが歌った

2009-01-21 | 日記・エッセイ・コラム
アレサ・ライヴ・アット・フィルモア・ウェスト(デラックス・エディション)

アレサ・ライヴ・アット・フィルモア・ウェスト(デラックス・エディション)

 アメリカ大統領就任式でアレサ・フランクリンが  "My Country, 'Tis of Thee" を歌っていた。「ブルース・ブラザーズ2000」(1998年)のころとほとんど変わらない感じで、老いてはいない。歌は、パワーに、熟練、円熟がくわわって、みごとだ。

 1942年生まれだから、66才。1960年にコロンビアからデビューして、1967年にアトランティック・レコードに移籍してヒットを連発した。わたしは、この翌年にレコード屋になった。アレサ・フランクリンが歌うオーティス・レディングの曲「リスペクトRespect」、バート・アカラックの「小さな願いI Say a Little Prayer」が帯広のサウンドコーナーでもよく売れた。キャロル・キングの「ナチュラル・ウーマン(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」もアレサ・フランクリンが歌ってヒットさせている。

   

 大統領就任式で歌うアレサ・フランクリン http://jp.youtube.com/watch?v=a7c2lC9JlJo&feature=related

 「小さな願い」を紹介しているブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/jhon25518/7630781.html

 アレサ・フランクリンの日本のファンがつくるページhttp://www.aretha.jp/


「北海道産小麦」の表示がやたらと目につく

2009-01-20 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg2301   近所のそば屋の壁 

 

 

 わたしの場合、徒歩で1時間以内は、「近所」だ。東陽町の竹中工務店東京本店新築工事の警備員のときは、よく歩いて通った。片道2時間かな。銀座や上野までも歩いてみる。途中がおもしろいので、このコースはどっちも3時間くらいかかる。めずらしい建物や庭の花や店のまえで立ち止まる。これがたのしい。

 ずいぶん前の帯広でのはなしだ。山登りの先輩が、中札内の職場から、夕暮れの日高山脈を眺めながら、国道を歩いて帯広まで帰るのが、たのしい、と徒歩で通勤していた。気持ちはよくわかる。夕暮れの日高山脈の美しさは格別だ。しかし、帯広・中札内間は、25キロくらいだろうか? もっとかな? タフな人だ。中村さんだ。 

 この先輩、ほかの高校の山岳部の部長だ。だが、わたしの先輩だ。わたしが帯広三条高校1年のとき、帯広市内の高校の山岳部はとても仲がよかった。柏葉高校も、南商も、工業高校も、部長たちが、三条高校の部長の国枝幸吉さんの家に毎週のように集まった。マージャンをやり、ジンギスカン鍋の酒盛りでもりあがった。わたしは1年兵で、使い走りだった。隅にいて、「酒、買ってこい」、「タバコがない」といわれて、近所の店に走るのだ。まさにパシリだ。でも、たのしかった。

(柏葉高校は、中島みゆきやドリカムの吉田美和が卒業した学校。TBSの安住アナも帯広柏葉卒)

 この2年上の先輩たちが卒業すると、他校との交流はなくなったが、卒業しても先輩たちとのつきあいはつづいた。山にいっしょに行ったし、釣りにもいった。いまでも、少年のとき、アウトドアーで必要なことを教わった大事な先輩だ。

Cimg2303  近くのローソンの駐車場の看板

 

 

 やっとこのアパートに光ファイバーのケーブルが引かれた。こういう集合住宅に、個人で光ケーブルを引くと、けっこう高額の費用がかかる。それで、光導入に躊躇していた。きょう申し込みをしたので、今月中には光回線をつかえるだろう。いまは、ADSLの50Mをつかっている。そんなに支障はないが、光をつかえるなら、つかわない手はない。

Cimg2297

  近所の神社の手水舎  手ぬぐいがいい。

 

 

 この界隈は、江戸時代からの寺と神社がやたらと多い。京都なんかと違って、ひとつひとつの規模は、ごく小さい。じつに庶民的なサイズだ。でも、数がある。100メートル四方のなかにいったい何軒の寺と神社があるのだろう? この数は、北海道人には驚きだし、不気味でさえある。

 江戸時代、この界隈は成田山に参拝する街道の宿場だ。江戸をでてすぐの、江戸川を渡ったところの宿場だ。ここで、成田山にいったつもりですませる、というのも流行ったらしい。この宿場で、女の子と遊んで、何軒かこの界隈のお寺とお稲荷さんを参拝して、「成田山に行ってきたよ!」と、江戸に帰る。そんなことだったのだろうか、小さい寺社の数はすごい。

Cimg2305   北海道産小麦のうどん

 

 

 最近こういう「北海道産小麦」という表示をよくみる。わたしは、懐疑的だ。外国の小麦じゃなく、ほんとうに北海道産なのか? うどん屋やラーメン屋の店頭にも「北海道産小麦粉使用」と書いてある。ならば、十勝は小麦の産地なのだから、米のブランドの「きらら」のように、小麦粉の十勝ブランドを発売してはどうだ? すでにあるのかな? なら、こういう商品は、小麦粉のブランド名を明示するほうが説得力があるだろうな。 

 


ジンギスカンは、家庭料理だった

2009-01-19 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg2291     こんな店もある

 

 

 

 

 十勝清水のそば屋、「目分料」がうまい、と写真家の戸張良彦さんからメールをいただいた。帯広は、そば屋が多いと、Azuさんのコメントにある。そばの産地だから、うまいそばを食べることができるのだろう。うらやましい。十勝の上更別で、自家用にそばを栽培している友人が、「じぶんで作った新そばは、ほんとうに、うまい」といっていた。

 そばとラーメンと、ジンギスカンを食べるためだけに、北海道に帰りたいものだ。

 数年まえ、東京でジンギスカンが大流行したことがあった。近所でも、焼き肉屋がジンギスカン屋になった。「高いジンギスカンなんて、ジンギスカンでないでしょう!」と、わたしの娘が言っていた。まさに、東京で流行ったジンギスカンは、高かったのだ。わたしは、店のまえを通って、「高いな」と思うだけで、入ったことはない。

 その近所のジンギスカン屋は、いつの間にか普通の居酒屋になっていた。この界隈に「ジンギスカン」の看板をあげていた店がいくつもあったが、いまはもう一軒もない。

 子供の頃、ジンギスカンは家庭でつくる料理だった。店にいって食べるものじゃない。最初に食べたのは、電氣屋の祖父が作ってくれたジンギスカンだった。りんご、みかん、にんにく、玉ねぎをミキサーで粉砕して、そこに醤油をいれる。このタレに、大量の羊肉をつける。数時間つけた肉を、あのヘルメットのような鉄ナベを七輪の炭火の上にのせて、焼く。長ネギもモヤシも焼く。これをサカナに、酒を飲む。子供たちは、飯を食う。羊肉は安かったから、大量に食べられる。

 羊肉は、オーストラリア産だけじゃない。当時、北海道ではたくさん飼育していた。わたしは、小学に入るまで、帯広市の西5条の25丁目あたりに住んでいた。まわりは羊を飼育している牧草地だった。住宅街になっているいまでは、信じられない光景だ。四中のところで西5条通りは終わっていて、売買川までは、森林と、羊の牧草地だった。羊の毛を刈るのとか、春に生まれた子羊の尻尾を切るのを、驚きながら、ながめたものだ。

 ジンギスカンを食堂で、つまり南大門とか、平和園で食べるようになったのは、大人になってから、レコード屋になってからだ。ジンギスカンは、家庭料理だった。大人になっていったジンギスカン屋、ホルモン焼き屋も、安い飲食店、チープな店だった。

 きっと帯広の家庭には、その家ごとのジンギスカンがあったはずだ。豚丼のように。いわば、おふくろの味だ。冷凍した羊肉をスライスして、生のそれを焼いて、つけダレで食べるジンギスカンをはじめて食べたのは、札幌大学に入って、下宿屋でのことだ。『これは、ジンギスカンじゃない!』、ショックだった。

 帯広では、花見でも、キャンプでも、アウトドアーの宴会のときは、ジンギスカンだった。いまでもそうなんだろうか?

Cimg2294  定食屋のきょうのメニュー

 

 

 

 

 アメリカ大統領になるオバマさんは、とてもハンサムだ。これは、重要なことだ。日本の首相とちがって、単に、いっときの政治勢力の頭目ではなく、国家元首だ。天皇であり、キングだ。つい最近、1865年まで、黒人ということで人間を売買していた国の、国家元首が、黒人になる。これは、人類の歴史のなかでも、おもしろいことだろうな。敗戦の将が奴隷から復権するとか、宦官になった敗残の将が偉大な歴史家になる、とか、いろいろあるが、ちょっとちがう。アメリカ合衆国で、黒人の国家元首が誕生するのは、人類史に語りつがれる大事件だろう、きっと。


かしわソバを食べたい

2009-01-18 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg2286   近所のハーレー・ダビッドソン・ショップ

Cimg2287  エンジンを見てるだけでうっとりする

Cimg2284  これもハーレーだ

Cimg2285

 試乗もできる 

 

 

 きのう、ラーメンのことを書いたので、ラーメンが食べたくなった。近くのスーパーマーケットで「みちのく森林鶏(宮城県産)」の鶏皮を買った。76円の3割引きだ。安いね。この鶏皮でスープをとって、かつおぶしの「ほんだし」もいれる。そして長ネギをたっぷりいれてすこし煮る。ちょうど、「かしわソバ」のようなラーメンをつくる。そういうプランだ。これからつくる。

Cimg2279

  街路樹にこんな看板がついていたのをきょう気づいた。

 

 

 

 

 北海道を出てから、ソバ屋のメニューに「かしわソバ」というのをみたことがない。帯広のソバ屋では、温かいソバで一番好きなメニューだった。帯広でいう「かしわソバ」に近いのは、「鳥南蛮」か「鳥そば」という。しかし、この鳥南蛮すら無い店が多い。鳥肉が豚肉になったのを「肉南蛮」あるいは「肉そば」というが、そいつが多い。しかし、「鴨南蛮」は、たいがいどの店にもある。帯広でいう「かしわソバ」とほとんど同じ感じのものだが、高い。鶏じゃなく、鴨なのだ。

 立ち食いソバは別だが、だいたい、そば屋は高い。ラーメン屋より高い。そこが北海道とちがうところだ。いまは、北海道もそうなっているのだろうか? わたしのいた頃は、そば屋はラーメン屋なみに安いものだった。こっちで暮らして最初に驚いたのは、そば屋が高い、ということだった。

 がんこオヤジが能書きたれるそば屋でもないのに、近所のそば屋で、「鴨南蛮」は、1200円する。ざるそばが、800円だ。

 きのう、外食はしない、と書いたが、キッチンのないマンスリー・マンションに3年いたことがある。駅ひとつ向こうの街だが、安いし、快適で便利なマンションだったので、つい居着いてしまった。そのときは、ほとんど外食だった。(部屋に電氣釜をもっていて、そいつでさまざまな料理をつくったが)。だから、この界隈の食べ物屋はくわしい。

 しかし、外食は、ある意味、命を他人にあずけるので、それなり覚悟がいる。銭、コストの問題より、外食だけの生活のときは、そこを警戒していた。この界隈は、いろんな人種がいる。

Cimg2271  近くのマンション入り口の花

 

 

 

 

 帯広のそば屋では、西2条東仲通り6丁目の「更級(さらしな)」とか、東1条11丁目の「東屋」が好きだった。いまでもあるのだろうか? わたしは、そば粉100%、田舎そばみたいなやつより、細くて、つるつる、さらさらのそばが好きだ。父は、ボソボソの田舎そばを見つけては車を飛ばして通っていた。子供のときから、それに付き合わされた。だから、わたしは、ひとの好みの多様に寛容だ。しかし、つなぎの入ったそばが、わたしは、好きだ。

Cimg2280   夕方の梅

 

 


屋内アウトドアーライフをたのしむ

2009-01-17 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg2252  夕暮れの鐘

 

 

 寒い。北海道とは比較にならないが、この数日、ひどく寒い。この部屋は、北海道の家屋とちがって、断熱性を無視して、夏のための通風性を重視した構造になっている。つまりスカスカなのだ。比較的新しい部屋だが、入り口のドアは一枚で、とうぜんわずかだが隙間がある。ベランダの窓は一重だから、冷気もすきま風も入る。エアコンをがんがん効かせて、北海道の住宅なみの室温にすると、とんでもない電氣代になる。部屋のなかでも厚着をして、寒さをじっと我慢する。これが冬だ。春よ、こい!

Cimg2268  サンマだしのラーメン  まだ食べてない。うまいのかな?

 

 

 

 

 人と会うとき以外ほとんど外食をしない。第一にはコストの問題だ。ラーメン屋のまえを通って「ラーメンが食べたいな」と思ったときは、「じぶんで作れば、一杯100円以内でできるな」と、スーパーに寄って材料を買って、部屋に走って帰る。でも、たいがいは、スーパーに寄らなくても冷蔵庫にある残りものの食材ですませる。生麺の買い置きは欠かさない。乾麺の在庫もある。スープは、札幌のベル食品の缶入りスープをストックしている。これは、東京駅八重洲口の正面にある、北海道物産のアンテナショップまで買いにいく。(スーパーマーケットでは売ってない。)

 ベル食品のスープをつかわないときも、和風、洋風、さまざまなラーメンを自作で楽しむ。ラーメンの麺をつかって、なんでもありだ。味噌汁をつくったあとで、思いついて、ラーメンの麺をぶちこむこともある。そばのタレみたいな和風の汁をつくって、ラーメンをいれても食べる。それは、パスタにも言える。パスタをゆでて、あとはなんでもありだ。それに、じぶんのためだけにつくっているのだから、ちょっと不味くても、「これは、ちょっと失敗だな」で済む。ほとんど、そういう、ちょっと失敗作で毎日の食事はおわる。

Cimg2267  巨大なまねき猫

 

 

 

 

 袋麺のインスタント・ラーメンも大好きだ。つまり、貧相な自炊をしてる。食生活は、いまも山登りをつづけている。屋内アウトドアーライフだ。だから、外食したときの、美味いものにあったときの感動は大きい。子供のときの、昭和20年代、30年代の感性だ。しかし、外食で手抜きのまずいものにあったときの落胆は、大きい。シジイだ。長い外食の経験もある。批判の舌は、もう、昭和20年代の純真、純情、無知、無垢ではない。

Cimg2264

  うなぎ屋

 

 

 

 

 建築現場のガードマンで現場にでるときは、早朝、握り飯か、豚丼弁当をつくる。簡単で、なにより、コストだ。安い。

 じぶんでつくった野菜に酢をかける、これだけがおかずという田中一村画伯の食生活も仙人的ですばらしいが、わたしは、ときどきサンマなんか焼いて食べたい。

   田中一村美術館 http://www.amamipark.com/isson/isson.html