昭和天皇が1988年に、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い「不快感」を示し、「だから私(は)あれ以来参拝していない。それが私の心だ」などと語っていたとするメモが、当時の宮内庁長官の富田朝彦氏(故人)の手帳に残されていたことが7月20日に日経新聞の報道で分かりました。
昭和天皇は、戦後1945年から1975年まで8回にわたり靖国神社を参拝していますが、1975年11月を最後に参拝していません。これまでその理由は明らかとなっていませんでした(靖国神社がA級戦犯を合祀したのは1978年)。間接的なメモとはいえ、昭和天皇がA級戦犯合祀に「不快感」を示していたことが読み取れます。
富田氏の遺族らによると、富田氏は1974年に宮内庁次長に就任し、1988年6月に長官を退任するまでの間、昭和天皇との会話などを手帳などに残していました。
靖国神社に関する発言メモは、1988年4月の手帳に貼りつけてあったもので、「私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取(原文のまま)までもが、 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記しています。
「松岡」とはA級戦犯で合祀されている日独伊三国同盟を締結した松岡洋右元外相(東京裁判の公判中に死亡)、「白取」とは白鳥敏夫元駐伊大使(東京裁判で終身禁固刑、収監中に死亡)、「筑波」とは1966年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受取ながら合祀しなかった筑波藤麿・靖国神社宮司(故人)と見られます。
さらにメモには、「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と」「松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている」などとしたうえで、「だから私(は)あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と記されています。
この「松平」とは終戦直後の最後の宮内大臣・松平慶民氏(故人)であり、「松平の子」とは、松平慶民氏の長男で1978年にA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司・松平永芳氏(故人)と見られます。昭和天皇は松平永芳氏が決断したA級戦犯合祀に不満だったことを示しています。
今回の報道については、各方面から驚きとともに様々な論評が寄せられています(毎日新聞7月20日付より)。
●昭和史に詳しいノンフィクション作家の保阪正康氏は「昭和天皇は東京裁判の結果を容認し、A級戦犯合祀はおかしいと判断していたから、想像できる範囲ではある」とし、影響について「参拝に反対の立場の人たちからは『昭和天皇でさえも否定的』という声が強まるのではないか。小泉首相と昭和天皇は靖国について考えが違うことがはっきりした。首相は参拝するのであれば、昭和天皇の判断に、政治の最高責任者として戦争について見解を改めて述べる必要があるのではないか」と語りました。
●また、一橋大大学院社会学研究科の吉田裕教授は「徳川義寛侍従長の回想で示唆されていたことが確実に裏付けられ、松岡洋右元外相への厳しい評価も確認された。今後は分祀論にはずみがつく。小泉首相も、少なくとも(終戦の日の)8月15日に参拝をしない理由になるのではないか。首相の参拝には多少の影響はあると思う」と話しました。
●日本近現代史に詳しい小田部雄次・静岡福祉大教授は「昭和天皇の気持ちが分かって面白い」と驚き、「東京裁判を否定することは昭和天皇にとって自己否定につながる。国民との一体感を保つためにも、合祀を批判して戦後社会に適応するスタンスを示す必要もあったのではないか」と冷ややかな見方を示しました。その上で「A級戦犯が合祀されると、A級犯戦が国のために戦ったことになり、国家元首だった昭和天皇の責任問題も出てくる。その意味では、天皇の発言は『責任回避だ』という面もあるが、東京裁判を容認する戦後天皇家の基盤を否定することもできなかったのではないか」と話しました。(つづく)
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