「とだ九条の会」が2006年2月に開催した自民党の「新憲法草案」の学習会で、講師の米倉勉弁護士が、自民党の「新憲法草案」の地方自治に関し、神戸大学の二宮厚美教授(経済学)の指摘を紹介して次のように解明しました。
自民党の「新憲法草案」は①国と地方自治体との「適切な役割分担」が規定されていること、②住民はその負担を公正に分任する義務を負う「地域的受益者負担主義」が貫かれていること、③財政の健全性確保が規定されていること、などを指してこれらは「憲法からナショナルミニマム保障(=国家的最低水準)を抜き取って、福祉国家を分権的に制限・解体する意図」がある。
つまり、自民党の「新憲法草案」では「新自由主義」イデオロギーが既成事実化され、その政策により雇用不安や所得低下、労働強化、そしてこれに伴う階層分化や経済格差、不平等の拡大を「憲法改正」によって追認し、一層推進・拡大する意図があるのだということです。
当時、この分析を聞いて「新自由主義」の狙いの本質が胸にストンと落ちたことを覚えています。
現在は「ルールなき資本主義」とか「新自由主義」の害悪が噴出していると言われています。「新自由主義」という言葉の響きは、何かリベラルで改革を期待できる言葉のようにも聞こえます。果たしてこの「新自由主義」とは一体何なのでしょうか。
後日、丁度その二宮先生の「現代資本主義における構造改革と新自由主義」という講演を聞く機会がありましたので、再度、その点について先生の著書もご紹介しながら考えてみたいと思います。
二宮先生によると「新自由主義」が流行し始めたのは、1970年代後半、第一次石油ショックをきっかけとして、当時、先進資本主義諸国が軒並みスタグフレーション(=景気の停滞にもかかわらず、一般物価水準が継続的に上昇している状態)の「先進国病」で病んでいたときに、それを治療するものとして登場しましたが、実はその1世紀前(19世紀後半)に既に「新自由主義」はこの世に登場していたと言うのです。つまり資本主義がその夜明けを迎える時期である18世紀を「古典的自由主義曙光」の時代だとすれば、19世紀後半には、その古典的自由主義を旧自由主義として退け、新たな衣装をまとって「新自由主義」が早くも登場したのです。しかし、この19世紀後半の「新自由主義」(以下:19世紀型新自由主義)と現在の「新自由主義」(以下:20世紀型新自由主義)とは性格も内容も全く違うものです。
「19世紀型新自由主義」が当時対抗する相手は、興隆途上にあった社会主義的勢力、その社会主義と対抗しつつ自由主義を擁護する二面作戦を展開するには、失業や貧困などの社会問題に対する何らかの対応、すなわち国家の役割が問われたわけで、国家は社会主義に向かうのではなく別の形で労働者階級の権利を認めたり、教育・福祉・失業救済などに積極的に努め、公共部門の拡大や産業統制を通じて社会の安定に努めなければならなかったのです。
その意味ではリベラルで革新的な側面があったと評価できます。
一方現在の「20世紀型新自由主義」は、この「19世紀型新自由主義」を再び逆転させる任務をもって世に登場しました。二宮先生は、その「20世紀型新自由主義」の最大の歴史的使命は、『19世紀型新自由主義が礎石を築いた“福祉国家体制”を今一度覆すること、したがって資本主義の力を赤裸々にむきだしの形で発揮させることである』と指摘します。
二宮先生は、その著書『現代資本主義と新自由主義の暴走』で「新自由主義とは社会の資源配分を市場原理に委ねること、つまり資源の効率的配分を市場の自由競争のもとで実現しようとする考え方をさす、という一点である。言いかえると、市場原理こそが至上の経済原則だと信奉すること、これが新自由主義の骨頂となる」と解明します。
現在急激に、国民、特に高齢者に襲い掛かっている増税の数々や格差社会の広がりなど憂慮すべき事態は、「新自由主義」による政府自民党・財界、さらには米国の意向を反映したものであり、護送船団方式の撤廃や規制緩和、福祉の市場化など権力が志向している「構造改革」によって生み出されているのです。
二宮先生の講演とその著書は、堺屋太一・田中直毅・中谷巌・伊藤元重・竹中平蔵など、こうした新自由主義勢力の御用学者・御用評論家達の論法を一つ一つ取り上げ、その矛盾と裏に潜む危険な傾向を指摘し、国民に襲いかかる支配権力の恐ろしさを暴露し、福祉国家の防衛を呼びかけています。経済学の本ということで少々難解かもしれませんが、是非一読をお奨めします。(つづく)
※『現代資本主義と新自由主義の暴走』(新日本出版社刊)本体2200円+税
■「とだ九条の会」公式ホームページもご覧ください。
http://www15.ocn.ne.jp/~toda9jo/
自民党の「新憲法草案」は①国と地方自治体との「適切な役割分担」が規定されていること、②住民はその負担を公正に分任する義務を負う「地域的受益者負担主義」が貫かれていること、③財政の健全性確保が規定されていること、などを指してこれらは「憲法からナショナルミニマム保障(=国家的最低水準)を抜き取って、福祉国家を分権的に制限・解体する意図」がある。
つまり、自民党の「新憲法草案」では「新自由主義」イデオロギーが既成事実化され、その政策により雇用不安や所得低下、労働強化、そしてこれに伴う階層分化や経済格差、不平等の拡大を「憲法改正」によって追認し、一層推進・拡大する意図があるのだということです。
当時、この分析を聞いて「新自由主義」の狙いの本質が胸にストンと落ちたことを覚えています。
現在は「ルールなき資本主義」とか「新自由主義」の害悪が噴出していると言われています。「新自由主義」という言葉の響きは、何かリベラルで改革を期待できる言葉のようにも聞こえます。果たしてこの「新自由主義」とは一体何なのでしょうか。
後日、丁度その二宮先生の「現代資本主義における構造改革と新自由主義」という講演を聞く機会がありましたので、再度、その点について先生の著書もご紹介しながら考えてみたいと思います。
二宮先生によると「新自由主義」が流行し始めたのは、1970年代後半、第一次石油ショックをきっかけとして、当時、先進資本主義諸国が軒並みスタグフレーション(=景気の停滞にもかかわらず、一般物価水準が継続的に上昇している状態)の「先進国病」で病んでいたときに、それを治療するものとして登場しましたが、実はその1世紀前(19世紀後半)に既に「新自由主義」はこの世に登場していたと言うのです。つまり資本主義がその夜明けを迎える時期である18世紀を「古典的自由主義曙光」の時代だとすれば、19世紀後半には、その古典的自由主義を旧自由主義として退け、新たな衣装をまとって「新自由主義」が早くも登場したのです。しかし、この19世紀後半の「新自由主義」(以下:19世紀型新自由主義)と現在の「新自由主義」(以下:20世紀型新自由主義)とは性格も内容も全く違うものです。
「19世紀型新自由主義」が当時対抗する相手は、興隆途上にあった社会主義的勢力、その社会主義と対抗しつつ自由主義を擁護する二面作戦を展開するには、失業や貧困などの社会問題に対する何らかの対応、すなわち国家の役割が問われたわけで、国家は社会主義に向かうのではなく別の形で労働者階級の権利を認めたり、教育・福祉・失業救済などに積極的に努め、公共部門の拡大や産業統制を通じて社会の安定に努めなければならなかったのです。
その意味ではリベラルで革新的な側面があったと評価できます。
一方現在の「20世紀型新自由主義」は、この「19世紀型新自由主義」を再び逆転させる任務をもって世に登場しました。二宮先生は、その「20世紀型新自由主義」の最大の歴史的使命は、『19世紀型新自由主義が礎石を築いた“福祉国家体制”を今一度覆すること、したがって資本主義の力を赤裸々にむきだしの形で発揮させることである』と指摘します。
二宮先生は、その著書『現代資本主義と新自由主義の暴走』で「新自由主義とは社会の資源配分を市場原理に委ねること、つまり資源の効率的配分を市場の自由競争のもとで実現しようとする考え方をさす、という一点である。言いかえると、市場原理こそが至上の経済原則だと信奉すること、これが新自由主義の骨頂となる」と解明します。
現在急激に、国民、特に高齢者に襲い掛かっている増税の数々や格差社会の広がりなど憂慮すべき事態は、「新自由主義」による政府自民党・財界、さらには米国の意向を反映したものであり、護送船団方式の撤廃や規制緩和、福祉の市場化など権力が志向している「構造改革」によって生み出されているのです。
二宮先生の講演とその著書は、堺屋太一・田中直毅・中谷巌・伊藤元重・竹中平蔵など、こうした新自由主義勢力の御用学者・御用評論家達の論法を一つ一つ取り上げ、その矛盾と裏に潜む危険な傾向を指摘し、国民に襲いかかる支配権力の恐ろしさを暴露し、福祉国家の防衛を呼びかけています。経済学の本ということで少々難解かもしれませんが、是非一読をお奨めします。(つづく)
※『現代資本主義と新自由主義の暴走』(新日本出版社刊)本体2200円+税
■「とだ九条の会」公式ホームページもご覧ください。
http://www15.ocn.ne.jp/~toda9jo/