竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉集 集歌886から集歌891まで

2020年08月31日 | 新訓 万葉集
筑前國守山上憶良敬和為熊凝述其志謌六首并序
標訓 筑前國守山上憶良の敬(つつし)しみて熊凝(くまこり)の為に其の志を述べたる謌に和(こた)へたる六首并せて序
前置 大伴君熊凝者 肥後國益城郡人也 年十八歳 以天平三年六月十七日 為相撲使某國司官位姓名従人 参向京都 為天不幸在路獲疾 即於安藝國佐伯郡高庭驛家身故也 臨終之時 長歎息曰 傳聞 假合之身易滅 泡沫之命難駐 所以千聖已去 百賢不留 况乎凡愚微者何能逃避 但我老親並在菴室 侍我過日 自有傷心之恨 望我違時 必致喪明之泣 哀哉我父痛哉我母 不患一身向死之途 唯悲二親在生之苦 今日長別 何世得覲 乃作歌六首而死 其謌曰
序訓 大伴君(おおとものきみ)熊凝(くまこり)は、肥後國益城郡(ましきのこほり)の人なり。年十八歳にして、天平三年六月十七日に、相撲使(すまひのつかひ)某國司(そのくにのつかさ)官位姓名の従人と為り、京都(みやこ)に参(まゐ)向(むか)ふ。天なるかも、幸(さき)くあらず、路に在りて疾(やまひ)を獲(え)、即ち安藝國佐伯郡の高庭(たかば)の驛家(うまや)にして身故(みまか)りき。臨終(みまか)らむとする時、長歎息(なげ)きて曰はく「傳へ聞く『假合(けがふ)の身は滅び易く、泡沫(ほうまつ)の命は駐(とど)め難し』と。所以(かれ)、千聖も已(すで)に去り、百賢も留らず。况むや凡愚の微(いや)しき者の、何そ能く逃れ避(さ)らむ。但(ただ)、我が老いたる親並(とも)に菴室(いほり)に在(いま)す。我を侍(ま)ちて日を過はば、おのづからに心を傷(いた)むる恨(うらみ)あらむ。我を望みて時を違はば、必ず明を喪(うしな)ふ泣(なげき)を致さむ。哀しきかも我が父、痛しきかも我が母、一(ひとり)の身の死に向ふ途(みち)を患(うれ)へず、唯し二(ふたり)の親の生(よ)に在(いま)す苦しみを悲しぶ。今日長(とこしへ)に別れなば、いづれの世に覲(まみ)ゆるを得む」といへり。乃ち歌六首を作りて死(みまか)りぬ。 其の謌に曰はく
序訳 大伴君熊凝は、肥後國の益城郡の住人であった。年十八歳にして、天平三年六月十七日に、相撲使の某國の司である官位姓名の従人となって、京都に参り向った。天なるかも、幸くあらず、上京の途上で疾病に罹り、ちょうど安藝國の佐伯郡の高庭の驛家で亡くなった。臨終する時に、深く嘆いて云うには「傳へ聞く『假合の身は滅び易く、人の泡沫のような命はこの世に留め難い』と。そこで、千聖もすでにこの世を去り、百賢も現世に留っていない。そうしたとき、凡愚のつまらない者が、どうして上手に死から逃れ避けることができるでしょうか。ただ、私の老いたる親が二人に菴室に生活している。私を待って日を過ごしていたら、自然に心を傷めるような悔いがあるでしょう。私の帰りを望んでその時がないとすると、必ず明るい希望を失い泣き崩れるでしょう。哀しいでしょう、私の父、痛しいでしょう、私の母、自分の身が死に向うことを憂い患わず、ただ、二人の親がこの世に生きている苦しみを悲しぶ。今日、永遠に死に別れたら、どの世界で両親に逢うことが出来るでしょうか」と云った。そこで、歌六首を作って亡くなった。 其の歌に云うには、

集歌八八六 
原文 宇知比佐受 宮弊能保留等 多羅知斯夜 波々何手波奈例 常斯良奴 國乃意久迦袁 百重山 越弖須凝由伎 伊都斯可母 京師乎美武等 意母比都々 迦多良比遠礼騰 意乃何身志 伊多波斯計礼婆 玉桙乃 道乃久麻尾尓 久佐太袁利 志波刀利志伎提 等許自母能 宇知計伊布志提 意母比都々 奈宜伎布勢良久 國尓阿良婆 父刀利美麻之 家尓阿良婆 母刀利美麻志 世間波 迦久乃尾奈良志 伊奴時母能 道尓布斯弖夜 伊能知周凝南 (一云 和何余須疑奈牟)
訓読 うち日さす 宮へ上(のぼ)ると たらちしや 母が手(た)離(はな)れ 常知らぬ 国の奥処(おくか)を 百重山(ももへやま) 越えて過ぎ行き 何時(いつ)しかも 京師(みやこ)を見むと 思ひつつ 語らひ居(を)れど 己(おの)が身し 労(いた)はしければ 玉桙の 道の隈廻(くまみ)に 草手折(たを)り 柴取り敷きて 床じもの うち臥(こ)い伏(ふ)して 思ひつつ 嘆き伏せらく 国に在(あ)らば 父とり見まし 家にあらば 母とり見まし 世間(よのなか)は 如(かく)のみならし 犬じもの 道に臥(ふ)してや 命(いのち)過ぎなむ (一云(あるひはいは)く、 我が世過ぎなむ)
私訳 輝く日の射す奈良の京に上るとして、十分に乳をくれた実母の手を離れ、日頃は知らない他国の奥深い多くの山々を越えて街道を過ぎ行くと、何時にかは奈良の京を見たいと願って友と語らっていたけれど、そんな自分の体がひどく疲労しているので、立派な鉾を立てる官の道の曲がり角に、草を手折り、柴枝を折り取って敷いて、寝床として身を横たえ伏して、色々と物思いに嘆き横たわっていると、故郷でしたら父が看取ってくれるでしょう、家でしたら母が看取ってくれるでしょう。人の世の中はこのようなものでしょうか、犬のように道に倒れ伏して死んで逝くのでしょうか。(あるいは云く、私のこの世は過ぎていく)

集歌八八七 
原文 多良知子能 波々何目美受提 意保々斯久 伊豆知武伎提可 阿我和可留良武
訓読 たらちしの母が目見ずて鬱(おほほ)しく何方(いづち)向きてか吾(あ)が別るらむ
私訳 十分に乳を与えてくれた実の母に直接に逢うことなく、心覚束なくどこへか、私はこの世から別れるのでしょうか。

集歌八八八 
原文 都祢斯良農 道乃長手袁 久礼々々等 伊可尓可由迦牟 可利弖波奈斯尓 (一云 可例比波奈之尓)
訓読 常知らぬ道の長手(ながて)をくれくれと如何(いか)にか行かむ糧(かりて)は無しに (一云(あるいはいは)く、 乾飯(かれひ)は無しに)
私訳 普段には知らないあの世への道の長い道のりをどうぞ見せて下さいと、さて、どのように旅立ちましょう。道中の食糧も無くて。(あるいは云はく、乾飯も無いのに)

集歌八八九 
原文 家尓阿利弖 波々何刀利美婆 奈具佐牟流 許々呂波阿良麻志 斯奈婆斯農等母 (一云 能知波志奴等母)
訓読 家にありて母がとり見ば慰(なぐさ)むる心はあらまし死なば死ぬとも (一云(あるいはいは)く、 後は死ぬとも)
私訳 家に居たならば母が看取ってくれるのでしたら、慰められる気持ちが湧くでしょう、死ぬ運命として死んで行くとしても。(あるいは云はく、後に死ぬとしても)

集歌八九〇 
原文 出弖由伎斯 日乎可俗閇都々 家布々々等 阿袁麻多周良武 知々波々良波母 (一云 波々我迦奈斯佐)
訓読 出(い)でて行(ゆ)きし日を数へつつ今日(けふ)今日と吾(あ)を待たすらむ父母らはも(一云(あるいはいは)く、母が悲しさ)
私訳 家から旅立って行った日々を数えながら、今日か今日かと私を待っているでしょう、父や母達は。(あるいは云はく、母親の悲しさ)

集歌八九一 
原文 一世尓波 二遍美延農 知々波々袁 意伎弖夜奈何久 阿我和加礼南 (一云 相別南)
訓読 一世(ひとよ)には二遍(ふたたび)見えぬ父母を置きてや長く吾(あ)が別れなむ (一云(あるひはいは)く、 相別れなむ)
私訳 一度の人の世では再び逢うことの出来ない二親の父と母をこの世に残して、永遠に私はこの世から別れるのです。(あるいは云はく、互いに別れるのです)

コメント
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