竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉集 集歌810から集歌814まで

2020年08月10日 | 新訓 万葉集
集歌八一〇 
原文 伊可尓安良武 日能等伎尓可母 許恵之良武 比等能比射乃倍 和我麻久良可武
訓読 如何(いか)にあらむ日の時にかも声知らむ人の膝(ひざ)の上(へ)吾(わ)が枕(まくら)かむ
私訳 どんな日のどんな時になれば、私の音を聞き分けて下さる人の膝で琴である私は音を立てることが出来るのでしょうか。

僕報詩詠曰
標訓 僕(われ)詩に報(こた)へて詠(うた)ひて曰はく
集歌八一一 
原文 許等々波奴 樹尓波安里等母 宇流波之吉 伎美我手奈礼能 許等尓之安流倍志
試訓 子(こ)等(と)問はぬ貴にはありとも愛(うるは)しき大王(きみ)が手馴れの子(こ)等(と)にしあるべし
試訳 家来である家の子たちを区別しない高貴なお方といっても、家来は麗しいあのお方の良く知る家の子等でなくてはいけません。

前置 琴娘子答曰、敬奉徳音 幸甚々々
片時覺 即感於夢言慨然不得止黙 故附公使聊以進御耳 (謹状不具)
序訓 琴娘子の答へて曰はく「敬(つつし)みて徳音(とくいん)を奉(うけたま)はりぬ 幸甚(こうじん)々々」といへり。
片時にして覺(おどろ)き、即ち夢の言(こと)に感じ、慨然として止黙(もだ)をるを得ず。故(かれ)、公使(おほやけつかひ)に附けて、聊(いささ)か進御(たてまつ)る。(謹みて状す。不具)
序訳 琴娘子が答へて云うには「謹んで立派なご命令を承りました。幸せの限りです」と答えました。ほんのわずかな間で夢から覚め、そこで夢の中の物語に感じるものがあり、興奮して黙っていることが出来ません。それで、公の使いに付託して、ぶしつけですが、進上いたします。(謹んで申し上げます。不具)
左注 天平元年十月七日附使進上
謹通 中衛高明閤下 謹空
注訓 天平元年十月七日に使に附して進上す
謹通 中衛高明閤下 謹空 (漢文慣用句のため、省略)

前置 跪承芳音、嘉懽交深。乃、知龍門之恩、復厚蓬身之上。戀望殊念、常心百倍。謹和白雲之什、以奏野鄙之歌。房前謹状。
序訓 跪(ひざまづ)きて芳音を承り、嘉懽(かこん)交(こもごも)深し。乃ち、龍門の恩の、復(また)蓬身(ほうしん)の上に厚きを知りぬ。戀ひ望む殊念(しゅねん)、常の心の百倍せり。謹みて白雲の什(うた)に和(こた)へて、野鄙の歌を奏る。房前謹みて状(まう)す。
序訳 謹んで御芳書を拝承し、芳書が立派である思いとその芳書を頂くことが嬉しいとの気持ち入り交じり思いは深いことです。そこで、規律を守り品格高い貴方と交遊を許されるご恩は、今も卑賤の身の上に厚いことを知りました。貴方にお会いしたいと願う気持ちは、常の気持より百倍も勝ります。謹んで、遥か彼方からの詩に和唱して、拙い詩を奉ります。房前、謹んで申し上げます。
注意 原文の「龍門之恩」は、後漢書の李脩伝の一節「是時朝廷日亂、綱紀頽地、膺獨持風栽、以聲名自高。士有被其容接者、名為登龍門」からの言葉で「規律と品格を保ち、李脩(ここでは旅人)と交遊を結べたこと」を意味します。
集歌八一二 
原文 許等騰波奴 紀尓茂安理等毛 和何世古我 多那礼之美巨騰 都地尓意加米移母
試訓 子(こ)等(と)問はぬ貴にありとも吾が背子が手馴れの御命(みこと)土に置かめやも
試訳 家来の家の子たちを区別しない高貴なお方であっても、私が尊敬するあのお方が良く知るりっぱな貴方を地方に置いておく事はありません。
左注 謹通 尊門 (記室)
十一月八日附還使大監
注訓 謹通 尊門 (記室) (漢文慣用句のため、省略)
十一月八日に、還る使ひの大監に附す

(前置漢文 序)
前置 筑前國怡土郡深江村子負原 臨海丘上有二石 大者長一尺二寸六分 圍一尺八寸六分 重十八斤五兩 小者長一尺一寸 圍一尺八寸 重十六斤十兩 並皆堕圓状如鷄子 其美好者不可勝論 所謂径尺璧是也 (或云 此二石者肥前國彼杵郡平敷之石 當占而取之) 去深江驛家二十許里近在路頭 公私徃来 莫不下馬跪拜 古老相傳曰 徃者息長足日女命征討新羅國之時 用茲兩石挿著御袖之中以為鎮懐 (實是御裳中矣) 所以行人敬拜此石 乃作謌曰
序訓 筑前國怡土(いとの)郡(こほり)深江の村子負(こふ)の原に、海に臨める丘の上に、二つの石あり。大きなるは長さ一尺二寸六分、囲(めぐり)一尺八寸六分、重さ十八斤五兩、小しきは長さ一尺一寸、囲一尺八寸、重さ十六斤十兩、並皆に楕圓にして、状(かたち)は鷄子(とりのこ)の如し。其の美好しきは、論(あげつら)ふ勝(た)ふべからず。所謂(いわゆる)、径尺の璧(たま)、是なり。(或は云はく、此の二つの石は肥前國彼(その)杵(きの)郡(こほり)平敷(ひらしき)の石なり、占(うら)に當りて取れりといふ。) 深江の驛家(うまや)を去ること二十許(さと)里(はかり)にして、路の頭(ほとり)に近く在り。公私の徃来に、馬より下りて跪拜(きはい)せずといふことなし。古老の相傳へて曰はく「徃者(いにしへ)、息長足日女命(たらしめのみこと)、新羅の國を征討(ことむ)けたまひし時、茲の兩つの石を用ちて、御袖の中に挿(さし)著(はさ)みて、鎮懐(しづめ)と為たまひき。 (實(まこと)、これ御裳(みも)の中なり) 所以(かれ)、行く人、此の石を敬拜す」といへり。 乃ち、謌を作りて曰はく
序訳 筑前國の怡土郡の深江村の子負の原にある海を臨む丘の上に、二つの石がある。大きい方の長さは一尺二寸六分、周囲は一尺八寸六分、重さ十八斤五兩、小さい方の長さは一尺一寸、周囲は一尺八寸、重さ十六斤十兩、共に楕円にして、形状は鷄の卵のようである。其の美しさは、評論することが出来ない。いわゆる、径尺の碧とは、是を云う。(または云うには、此の二つの石は肥前國の彼杵郡の平敷の石である、占いに示されて採取されたといふ。) 深江の驛家から行くことおよそ二十里にして、道のほとり近くに在る。公事や私事の用事で街道を徃来するに、馬から下りて跪拜しないという人はいない。古老が相伝えて云うには「昔、息長足日女命が、新羅の國を征討なされた時、この二つの石を用ちて、御袖の中に挿し挟みて、鎮懐となされた(実際、これが御裳の中なり)。 そこで、街道を行く人は、此の石を敬拜する」と云う。 そこで、和歌を作って云うには、
集歌八一三 
原文 可既麻久波 阿夜尓可斯故斯 多良志比咩 可尾能弥許等 可良久尓遠 武氣多比良宜弖 弥許々呂遠 斯豆迷多麻布等 伊刀良斯弖 伊波比多麻比斯 麻多麻奈須 布多都能伊斯乎 世人尓 斯咩斯多麻比弖 余呂豆余尓 伊比都具可祢等 和多能曽許 意枳都布可延乃 宇奈可美乃 故布乃波良尓 美弖豆可良 意可志多麻比弖 可武奈何良 可武佐備伊麻須 久志美多麻 伊麻能遠都豆尓 多布刀伎呂可舞
訓読 かけまくは あやに畏(かしこ)し 足日女(たらしひめ) 神の命(みこと) 韓国(からくに)を 向け平(たいら)げて 御心(みこころ)を 鎮(しづ)め給ふと い取らして 斎(いは)ひ給ひし 真(ま)珠(たま)なす 二つの石(いは)を 世の人に 示し給ひて 万代(よろづよ)に 言ひ継ぐかねと 海(わた)の底(そこ) 沖つ深江(ふかえ)の 海上(うなかみ)の 子負(こふ)の原に 御手(みて)づから 置かし給ひて 神ながら 神さび坐(いま)す 奇(く)し御魂(みたま) 今の現(をつつ)に 貴(たふと)きろかむ
私訳 物に記すことすら、ことさら畏れ多い、足日女の神の命(神功皇后)が朝鮮を、その威光を示し平定され秩序の乱れを鎮めて御心を鎮めなさろうとした時に、御手から取り上げになり祀りなされた美しい玉のような二つの石を、世の人にお示しなされて、万代までも云い継ぐようにと、海の底が沖では深いような、その深江の岸にある子負の原に、御手から置きなされて、現御神でありながら神らしくいらっしゃる、その足日女の神の命の神秘的な御霊として、今の世に現わされる。貴いことです。

集歌八一四 
原文 阿米都知能 等母尓比佐斯久 伊比都夏等 許能久斯美多麻 志可志家良斯母
訓読 天地の共(とも)に久しく言ひ継げとこの奇(く)し御魂(みたま)此(し)かしけらしも
私訳 天地が永遠にあるように、それと共に久しく云い継げと、この神秘的な御霊はこのようにあるのでしょう。
左注 右事傳言、那珂伊知郷蓑嶋人建部牛麻呂是也
注訓 右の事を傳へて言(かた)るは、那珂(なか)の伊知(いち)の郷(さと)蓑嶋(みのしま)の人、建部牛麻呂、是なり。
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