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万葉雑記 番外編 墨子と古代日本

2020年08月15日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 番外編 墨子と古代日本

 今回の与太話は、万葉集の鑑賞にはまったく関係しません。ただ、天武天皇の時代に整備された国家神道の基盤や延喜式祝詞に示される統治体制への精神や思想に関係する可能性のある与太話です。

 古代中国、秦代までは韓非子が「世の顕学は、儒墨なり」と著すように儒教と墨学は二大思想勢力であり、秦代初めまでは墨学と墨子集団が思想及びその実践では儒教よりも優勢だったとします。
 その墨子について、墨子の名称が思想学派を指すのか、始祖の人物名を指すのか、現在も諸説があります。思想学派の名称と考える場合は始祖の名を墨翟と考えます。一方、本名が墨翟で、尊称が墨子という考えもあります。その場合、思想学派の区分では墨学と呼称することもあります。
 呼称については色々な考え方がありますが、墨子(墨翟)は紀元前五世紀の人物と推定されています。その後、墨子の教えを実践する墨子集団は、集団の団長を意味する鉅子を中心に専守防衛を下に平和な生活の実践を尊重する集団として発展を遂げます。ところが秦の始皇帝による全土統一(紀元前221)から劉邦が漢帝国を建国(紀元前206)した時代までには墨子集団は勢力を失い、その後、第九代目の鉅子となった郭解までは記録に残しますが後漢の武帝の時代以降は歴史に登場することなく闇に消えていきます。
 歴史の闇に消えた理由として、鉅子を中心とする墨子集団は、日本の郡から県程度の広さの地域を単位として、その地域内での専守防衛体制での農業を主体とする平安な生活維持を実践します。また、墨子集団は思想の実践を重要視しますから思索家による紙面上の思想だけが生き残ることも難しい面があります。そのような特徴をもつ墨子は中国大陸の統一が成った漢代以降から急速に進む全国規模の自由な商業・物流に向かない性質を持ちます。墨子はある種、地域の蛸壺に籠る姿がありますから、歴史から見ますと地域を分断する群雄割拠が終われば役割を失ったのかもしれません。
 もう一つ、儒学は親子・家族の血統を中心に姻戚、地域との関係性を同心円状に広げます。その人の関係性を「礼」と「分」の理論で階級・階層の固定化への理論武装とします。対する墨学は地域の専守防衛の精神から信と義を基盤とする友愛による平等な団結を説きます。そのため墨学では血統や姻戚関係は重要視されません。儒学の枠から外れた根を持たない人々には、ある種、救いの学問です。そのため、支配者階級の階級固定化が進む漢代以降では墨学は任侠や家系を持たない下層民層に落ち込んで行ったとします。
 日本ではこのような状況を写し、一般に墨子集団やその集団が著した書籍は秦の弾圧や焚書坑儒の事件から前漢中期までには世から消え、その後に清王朝終末の混乱期(1894)になって孫(そん)詒譲(いじよう)、譚(たん)嗣同(しどう)、梁(りょう)啓超(けいちょう)によって再発見されたと評価します。このような学問上の歴史から、墨子とその墨子集団の思想は古代には消え失せていたために大陸との文化交流が盛んとなる隋・唐時代と重なる飛鳥時代以降の日本には墨子は影響を与えなかったと評価します。
 先に「清王朝終末の混乱期(1894)に孫詒譲、譚嗣同、梁啓超によって再発見」と紹介しましたが、この実情を紹介しますと、清王朝終末となる光緒二年(1876)に畢沅の「墨子:光緒二年浙江書局拠畢氏霊巌山館本校刻 十六巻五冊」が復刻され、それを孫詒譲たちが光緒十九年(1894)ごろになって清朝から中華民国への革命の過程で自由民権運動の思想論拠を求める中で評判の畢沅の『墨子』を読んだというのが本来です。つまり、孫詒譲たちは読者であり、その熱心なサポーターです。時に、政治活動での思想背景の話と純粋な古典作品研究との区別が為されていないことに注目してください。
 この畢沅(1730-1797)は清代の官僚・歴史家と紹介されますが、同時に当時の高名な知識人であって『続資治通鑑』220巻を始めとして多数の古典などの再編纂を行い、畢沅の『墨子』はそのような作業の中の一つです。畢沅の『墨子』の再編纂は『隋書経籍志 墨子十五巻七十一篇』、『唐書経籍志 墨子十五巻』、『新唐書芸文伝 墨子十五巻』などを校合し得られたものです。つまり、墨子の思想は古代には消え失せたのではなく、単に知識階級の人々が儒教優先の社会環境の中で功利判断から表立って読まなかっただけです。
 なお、大陸では晋の時代に魯勝が『墨辯注敘』を、唐の時代には楽台が注釈書(不伝)を編んだとされ、さらに明代には墨子関係の書籍整備が行われ、それを道教の経典を集めた『正統道蔵』に収容します。日本では秋山儀によって正統道蔵に載る墨子を校語したものが江戸期の宝暦七年(1758)に版行されています。現在の墨子研究の基礎テキストとなる『経訓堂本墨子 畢沅註』は清朝乾隆四十八年(1783)に畢沅自身が運営する経訓堂より刊行されて、日本にあっては江戸期 天保六年(1835)に『経訓堂本 墨子 清畢沅注 十六巻五冊』の名称で翻刻されています。近年の研究から飛鳥時代の憲法十七条の第八条に墨子が引用されているとの指摘があり、このため、一部の研究者の間では飛鳥時代までには日本に伝来していたと考えます。近現代日本では墨子は秦・漢時代に歴史に消え、近代に再発見されたと評価しますが、近世日本にあっても歴代の知識人の間には墨子の知識があり、大陸側で新たな動きがあるとそれを素早く輸入し研究しています。
 ここで話題提供として、中国や台湾での墨子の研究者によると、第七代目の鉅子とされる黄庭靖がその子の黄天瓊に墨子集団を預け東海の先に渡らせたとの伝承を紹介し、この黄天瓊たちの伝承と徐福伝説とを重ねます。あの徐福伝説の同行者に墨子集団が含まれるとします。そして、日本の伝統として統治者が民と共に労働に親しむ姿とは墨子の教えを示す姿であり、それに天孫降臨伝説と徐福・黄天瓊の伝承を重ねると、紀元前の倭国は墨子たちが築いた国ではないかと指摘します。
 大陸側の一部の研究者は、その後もその墨子の教えを守った大和国では江戸期の支配階級である武士階級であっても晴耕雨読の姿を良とし、また、天皇は神饌を得るために自らが農耕する姿を神事ではありますが万民に顕わします。大陸儒教からすると相当に問題のある支配者階層の姿ですが、その思想的に悩ましい問題解決を墨子の教えに見ています。儒教の大陸側から日本の統治者の精神態度を観察すると墨子の思想を見るのが判り易いのでしょう。
 先に大陸での墨子の思想的な再発見は清朝末期と紹介したように、墨子の日本での学問的な再発見は江戸期以降では明治四十年代ごろであり、研究も墨子の日本語読解から再開し、読解後も自由民権運動からの思想や古代歴史が中心で墨子と古代日本との関係を研究する方面は薄いものがあります。これを示すように北海道大学名誉教授の佐藤一郎氏は憲法十七条と漢籍との関係を陳べる一文で「戦争否定では有名な墨子における『和』は、ほとんどその思想の中にふくまれていないし、日本への影響を認められないので省略した」と切って捨てています。
 参考として現在にあっても墨子の文章は宗教経典の原典のような形で墨子集団が活躍していた時代そのままの姿を残していて、秦・漢以降の時代に合わせた翻文・解釈が十分にはなされていません。そのため、使う漢字文字の意味や構文が近世の中国語と異なるものがあり、秦時代までの中華語(華夏語)からの読解が必要とされます。
 参考例として、兼愛下の文頭の一文を旧来を伝える畢沅の『墨子』のものと、それを現代中国語に解釈した「中国哲学書電子化計画」に載る『墨子』とを比較紹介します。

畢沅の文:
黼醒睡韓騎丁墨子言曰仁人之事者必務求興天下之利除天下之韓蠶韓藉雌晉然當今之時天下之害觀為加曰若大國之攻小國也大家之亂小家也

中国哲学書電子化計画の文:
子墨子言曰、仁人之事者、必務求興天下之利、除天下之害。然當今之時、天下之害孰為大。曰、若大國之攻小國也、大家之乱小家也。

 一般には聖徳太子の憲法十七条の研究では儒教や仏教の影響を評価します。そのため、墨子の日本語読解は進んでいますが、その評価は佐藤一郎氏が示すものと同じです。次に示す聖徳太子の憲法十七条で使われる言葉と墨子で使われる言葉の類似は認めますが、憲法十七条の中に墨子の説く兼愛、尚賢や尚同の精神を見出すことを否定します。両者での言葉の類似は何かの書籍に載った墨子の文章の断片をたまたま取り入れたのであろうとします。聖徳太子の生きた時代として、当時の大陸の本流である儒学や仏教が本筋であって異端中の異端である墨子の精神が新しい大和の政治の中心思想にはなりえないとします。

聖徳太子憲法十七条
第八条 群卿百寮、早く朝(ちょう)し晏(おそ)く退(さが)れよ
原文 八曰、群卿百寮、早朝晏退。公事靡監、終日難盡。是以、遲朝不逮于急、早退必事不盡。
解釈 八に曰く、群卿(ぐんけい)百寮(ひゃくりょう)、早く朝(ちょう)し晏(おそ)く退(さが)れ。公事(くじ)は監(うしお)に靡(なび)きて、終日(ひねもす)にても尽(つく)しがたし。是を以って、遅く朝(ちょう)すれば急に逮(およ)ばず、早く退(さが)れば必ず事(こと)尽さず。

引用されたと推定される墨子の文章
巻八 非楽上編より抜粋
1. 王公大人蚤朝晏退、聴獄治政。此其分事也。
王公(おうこう)大人(たいじん)は蚤(はや)く朝(ちょう)し晏(おそ)く退(しりぞ)き、獄(ごく)を聴き政を治む。此れ其の分事なり。
2. 今唯母在乎王公大人説楽而聴之、則必不能蚤早朝晏退聴獄治政。
今唯母(ただ)王公(おうこう)大人(たいじん)に在りて楽を説(よろこ)びて之を聴かば、則ち必ずや蚤(はや)く朝(ちょう)し晏(おそ)く退(しりぞ)き獄を聴き政を治めること能(あた)わざらむ。

 既に紹介しましたように近世日本では墨子集団の思想は中国大陸にあっては前漢中期までには消えた思想と評価します。ところが大陸側の状況を確認すると、どうも、そうではなかったと思われます。
 さらに日本書紀を見ますと、景行天皇四十年の項目に「然天命忽至、隙駟難停」とあります。これは日本武尊が伊勢国の褒野で亡くなられた時の編者の感想であり、使う「隙駟」の特徴ある漢字から墨子の兼愛篇下の「人之生乎地上之無幾何也、譬之猶駟馳而過隙也。」の関係性が強く疑われます。この「駟馳而過隙」の言葉に注目すると、ほぼ同時代にあって興味深い話題が大陸側に見出されます。
 ここで、第十次遣唐使の一員と思われる「井真成」の墓誌が2004年に中国の古都となる西安で発見され、大きな話題が提供されています。この井真成の死亡時期はその墓誌から開元二十二年(734)で、それは玄宗皇帝の前期治世で盛唐と称される時代です。この時代検証から井真成は葛井真成(または井上真成)のことではないかとされ、さらに葛井真成から第十次遣唐使の随員だったと推定されるのです。
 さて、その墓誌の一節に「■遇移舟、隙逢奔駟」(■移舟に遇ひ、隙奔駟に逢へり。■は判別不明の文字)とあります。墓誌の研究から、「この一節は中国古代の経典『荘子·知北游』または『墨子·兼愛下』から取られたもので、前半は事態の急変を意味し、後半は時間的な短さを形容する際に使われる」と評論されます。なお、時代的には墨子が先に世に現れ、その墨子などを研究して荘子が整備されていますが、日本では唐代には墨子は世から消えた学問としますから引用先は荘子であろうと評論します。しかしながら弊ブログの感覚とすると、「譬之猶駟馳而過隙也」から墓誌の「隙逢奔駟」を起こしたとするのが良いと考えます。つまり、墨子の一節ですから、唐代にあっても墨子は知識階級の中で読まれていた書籍です。

荘子 外編 知北遊編 第二十二より抜粋
人生天地之間、若白駒過隙、忽然而已。
人の天地の間に生くるは、白駒の隙(げき)を過(す)ぐるが若く、忽然(こつぜん)たるのみ。

墨子 巻四 兼愛下より抜粋
人之生乎地上之無幾何也、譬之猶駟馳而過隙也。
人の地上に生まれるや、これ幾何(いくばく)も無きなり、これを譬えれば、なお駟馳し、隙を過ぐるがごときなり

 「井真成」の墓誌の一文が墨子に関係があると推定されますと、同種の推論から日本書紀の日本武尊や聖徳太子に墨子の姿が見えるのですと、墨子を編纂時に参考としていたと考えるのが素直ではないでしょうか。
 さらに少し様子は違いますが、飛鳥・奈良時代から下って平安時代初期の和漢朗詠集に「墨子」という言葉を使う漢詩「密雨散加糸序」があります。ただし、この漢詩の「墨子」は美男子の代名詞である「潘郎」に対する言葉として扱われ、儒学者から墨子集団への悪口である労働による日焼けした墨のような肌の人を意味します。荀子はその墨子集団の人を「瘠墨」(瘠せて青黒い)と蔑称します。大江以言の漢詩の「墨子」と「潘郎」は思想での対比ではありませんが、儒学者との対比において墨子集団の人々がどのような人々だったかを認識したものです。大江以言が荀子の礼論篇や楽論篇から「瘠墨」の言葉を見て学んだか、墨子の書籍から学んだかは不明です。ただ、平安時代の遣唐使が持ち帰った書物目録に「墨子」が載るように、知識階級では墨子は消え失せたものではありません。

和漢朗詠集 73 雨
密雨散加糸序 (大江以言 或 都在中)
或垂花下、潜増墨子之悲 或(あるひ)は花の下(もと)に垂れて、潛(ひそ)かに墨子が悲しみを増し、
時舞鬢間、暗動潘郎之思 時に鬢(びん)の間に舞ひ、暗に潘郎(はんろう)の思ひを動かす

 和漢朗詠集の解説では、この「密雨散加糸序」は全唐文に載る李鐸の「密雨如散絲賦」を引用したとし、その「密雨如散絲賦」の一節に「軽沾素服、懐墨子之悲時。遙隔布泉、誤詩人之怨日」とあります。漢詩で「遙隔」の言葉を使う場合はこの一節の「遙隔布泉、誤詩人之怨日」の部分から引歌されたとし、詠う詩の世界に膨らみを持たすことが約束となっています。ここからも唐初にあっても知識人には墨子は生きていた教養と思われます。
 参考として、中国古典楽曲に琴曲「墨子悲絲」というものがあり、ここから古語成語「墨子悲絲」が生まれました。先に示した李鐸の「密雨如散絲賦」の「軽沾素服、懐墨子之悲時」には、この「墨子悲絲」が背景にあることはご理解の通りです。儒学をもっぱらとする唐宋時代の知識階級が古典楽曲の代表曲とされる琴曲「墨子悲絲」を知らないのも変ですし、その墨子に興味を持たないのも不思議です。ただ、日本では後漢以降、墨子はこの世から無いとします。
 次に時代を下りますが平安時代末期に成立した「本朝続文粋」に藤原敦光の勘文「変異疾疫飢餓盗賊等勘文」が載り、その中に「辭過篇」の一節「子墨子曰、古之民、未知為宮室時」や「古之民未知為飲食時、素食而分處」などを合わせたような「墨子曰、古之民未知飲食。聖人耕稼其為食也」の文章を載せます。このことから、平安時代末期にあっても知識階級では墨子は読まれていた書籍だったことが判ります。
 さらに思想という方面に思いを飛ばしますと、飛鳥奈良時代の政治中枢の人々の思想は、その当時に行われていた国家祭事に現れるのではないでしょうか。その考えから国家祭事で唱えられた祭文である祝詞の一節を紹介します。

祈年祭より一節
手肱尓水沫畫垂、向股尓泥畫寄氐取作牟奥津御年乎、
手肱(たなひじ)に水沫(みなわ)畫(か)き垂(た)り、向股(むかもも)に泥(ひぢ)畫(か)き寄せて取り作らむ奥(おき)つ御年(みとし)を、

 この一節が示す祭事神饌のために水田に入り泥だらけになり稲を育て米を収穫する人とは天皇です。ところが同時に万葉集の巻頭歌で雄略天皇は次のように詠います。

虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座
そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ

 この大和の国を隈なく征服し隅々までも統治しているとする天皇が、先祖崇拝の神事に捧げる神饌のためとはいえ、泥田に入り泥を浴びて農耕をするかどうかです。これはまず儒学が求める統治者の姿ではありません。儒学が重視する「礼」や「分」の思想からすれば、収穫物を成し得るのは農民や猟民たちであり、その差し出された収穫物で神を祈るのが王たる統治者の役割です。その与えられた役割を忠実に行うことが「分」であり「礼」です。正しく「礼」を行い「分」を民に守らせるのが支配者たる王の務めです。
 対して、祈年祭の祝詞で示す天皇の姿は「率先力行」であり、これは墨子の説く治世者の姿となります。従来、聖徳太子の憲法十七条には墨子の影・形は無いとしますが、第一条、「和を以って貴しと爲し忤ふこと無きを宗と爲す」は墨子の説く非攻や兼愛と意を同じくするかもしれません。また、第四条、「群卿百寮體を以て本とせよ」は率先力行を求める尚同と意を同じくする可能性があります。第八条、「群卿百寮蚤く朝して晏く退れ」については墨子の一節を紹介しました。このように聖徳太子の憲法十七条から仏教に関わる部分を除きますと儒学的な要素よりも墨学的な要素の方が強いと思われます。
 ここで、参考に儒学と墨学との思想の対比を簡単に紹介する文がありますので以下に紹介します。この対比からしますと聖徳太子の憲法十七条の精神は墨学よりではないかと思いませんか。

 孟子では墨家への具体的な批判点は、兼愛説であった。孟子は親に仕えつづけた聖王舜の孝を称え、親子のきずなを人間の最も基本的な倫理と考えた。人間は最も身近な親への孝を最初の善なる関係として、それを扇を広げるように他の人間への仁へと広げていくのが、孟子が描く仁の人である。孟子にとって親を大事にしない人間は、そもそも人間として誰も愛することができない。なので、自分の親と他人の親とを等しく愛せよという墨家を自説への最大の敵として攻撃したのであった。
 いっぽう荀子は、別の視点から墨家を批判する。それは、これまで述べた自らの国家観と相容れない、墨家の礼楽不用論が対象である。墨家は非楽・節葬を唱え、儒家の礼楽を無駄なぜいたくと批判する。だが荀子にとって礼は社会の区別等級を付けることであり、それを通じて富の階級間の配分比率を規定するという重要な経済的効果がある。よって礼は社会に必要な装置であるから、墨家の礼楽不用論を却下するのである。孟子・荀子ともに儒家として墨家を批判するが、さすが両者は批判の力点が違う。孟子は倫理面から墨家を批判し、荀子は墨家の主張が社会システムとしてうまく機能しないと批判する。(HP新読 荀子「富国編」より)

 従来の評価を批判的に紹介しましたが、日本古典文学の基盤は昭和四十年代ぐらいまでに固まり、それを作り上げた人々が研究の重鎮として現在も超高齢ながらも活躍されています。ただ、昭和四十年代以前ですと墨子から日本古典を見直す発想は生まれていなかったと思いますし、古典社会の精神基盤に儒教と仏教以外から見出す可能性は薄いと思います。参考例として、唐から宋時代、大陸の政治思想の基盤に道教があったとされますが、それを受けて奈良、平安、鎌倉時代における道教の影響を注視した話題はあまりありません。奈良時代後期から平安時代に生まれたとされる魑魅魍魎や鬼の思想は道教に大きく影響を受けたとされますが、それよりも仏教を前面に持って来るのが主流でしょう。近々の研究では空海のものに仏・儒・道があることが明らかになっていますし、唐初時代にあって道教の理論武装に墨子があるならば空海がそれを気付かなかったとは難しいと思います。
 そうした上で、従来の古代日本に対する大陸からの影響判定は日本の文献の中での成語などの引用状況を中心に研究が進められて来たようで、民俗学的な思想の同一性や社会行動からの海外思想の日本国内への影響・普及については重点が置かれなかったようです。
 例えば、明治期になるまで日本には女子の高等教育への公的制度はありませんが、社会的には制限が無く家庭環境だけに依存しています。飛鳥時代から江戸末期まで宮中や奥の文官系の高等女官の資格として漢文が自在に読み書き出来ることが最低条件でしたので行事や実務の遂行を扱う秘書に宦官という特殊な男性職を置く必要はありませんでした。大陸や半島の儒教社会では女性が高等教育を身に付けるためには儒教の枠から抜け出る必要があり、非公式で特殊な職業人となる遊女(詩妓)や女医のような立場になることを求められたようです。そのような社会条件から皇后や妃の奥を運営するために漢文を操れる宦官という特殊な男性職が必要だったのです。それは日本の宮中・奥の女官や江戸時代に一部のお店の夫人/子女が教養として古典文学などを趣味にした姿とは大きく異なります。
 この状況からすると、文献や官人登用試験科目などには儒教の影響は非常に大きいのですが社会基盤への影響度については疑問が生じます。逆に歌舞音曲よりも質素倹約を尊び身分を問わずに労働に勤しむことを美徳とする姿は墨子の教えに近いものがあります。平安時代の書物に官人登用試験では道教の考えを排除して答案を書くのが無難と記すものがあるようで、確かに平安時代の政治や学問の表舞台には道教は現れません。一方、暦注の吉凶占いなどに影響を与えた道教の陰陽五行説は社会生活では重要な役割を果たしています。このように公文書に姿を見せないから、その時代に存在しなかったとは出来ないものがあります。
 ここをもう少し掘り下げますと、道教側からの解説では中国古代の神道の思想の一番基軸をなすものが墨子とします。その背景として道教の解説では、墨子の思想こそ中国における「神ながらの道」であり、「神ながらの道」の教、すなわち「道教」という言葉を中国の古代文献で一番最初に使っていると紹介します。その墨子は天志編などで上帝をトップに置き、次いで支配者の王を、さらに墨子の「義」の実践の指導者/団長である「鉅子」を多くの役職に分かれる墨子集団/人民の結び目役に置いて、尚同編で示す理想社会の現実を目指すとします。そして、全宇宙を天の上帝の世界、現実の人間世界、さらにその中間の鬼神の世界との三つに分けます。この上帝・人間・鬼神という三部世界構造が後の道教の世界観の原型をなすものとし、それを明鬼編で説いたのが墨子と紹介します。このような姿があるために、墨子は前漢までに政策の学問となる表舞台から姿を消したが教えは人々の間に残り、信・義を重んじる任侠の世界へ落ち込んで行ったとか、血族よりも友愛を大切にする下層民衆の世界に残ったと称されるのでしょう。
 さて、道教の原初の姿は神仙道教と称されたように中華民族の地域土着の不思議の世界や現世利益を求める欲求を宗教化したもので、天変地異を恐れ、符呪(お札や呪い)で現世利益を与えてくれる神に祈るものだったとします。そのような地域土着の宗教が社会の高度化の中で集合し地域を越えて組織化して行ったと考えられています。その組織化の中で他の宗教に対抗するために宗教としての理論武装が進んだとします。
 解説として、「中国には功過思想と呼ばれる考え方がある。それは大まかに言えば、天は人間の『行為』を逐一監視していて、善い行いには賞を、悪い行いには罰をその『報い』として与えるというものである」という中華民族の精神基盤を最初に紹介します。
 このような精神基盤に適う宗教の理論武装の中で道教解説では、先に紹介した墨子の思想を漢の武帝の思想的ブレーンとなった董仲舒が天人感応(災異祥瑞)の思想の中に採り入れ、さらにそれを三部世界構造を下に「神道」や「神呪」として呪術宗教化した太平経の思想として展開し、その教えの下に張角は太平道を広め、その太平道の下に結集した信者により宗教一揆が後漢末期に起きます。流れとして紀元前の神仙道教や地域土着の符呪の祈願だけではない、新来の仏教や旧来の儒教に対抗するために理論武装した道教の理論源流を墨子に置きます。
 それから引きつづき道教の流れは、張角の太平道の教法と類似する張陵、張衡、張魯のいわゆる三張道教、五世紀における寇謙之を天師とする北魏の道教、六世紀における陶弘景を天師とする茅山の道教と、儒教や仏教とは違う中国古代からの中華民族が信仰する神道の神(鬼)を肯定する思想として展開し、唐代における道教の黄金時代へと進むと解説します。
 さらに社会の高度化が進んだ唐代になると政治の安定には商工民や豪農の政権支持が重要になり、その支持を得るために精神基盤では呪術宗教の色の濃い道教を民衆支配の道具として重要視します。それにより唐代から宋代を道教の黄金時代と称することになるのです。
 一方、日本では学問での建前の上から奈良時代以降に道教の伝来や影響は見られないとします。他方、公的行事や社会生活では月日を管理する暦では朝廷の管理する具中暦を使用し、そこには暦注を載せます。問題はこの暦注には中国で発祥した道教の呪術、道教の神に対する祭礼や土地の吉凶などを占う風水などが組み込まれていて、それが日やその日の方位の吉凶や禁忌として載せられていることです。日本には道教の伝来はなかったことになっていますから、暦注は日本で独自に発展した陰陽道によると解説します。確かに明確に仏教僧侶と区分された道教道士の来日は確認されていませんが、唐から暦法関係の書籍は確実に到来していますし、遣唐使留学生が陰陽道や暦法を学んでいます。おおよそ、歴史において高句麗や新羅が唐に暦法伝授を要請した時には唐は暦法関係の書籍と道教道士とをセットで供与していますから、古代において暦注を持つ中国暦(現代の農暦や黄暦)を使用する場合、道教と切り離すのは困難と考えます。
 飛鳥時代にあって欽明天皇十四年(553)に百済から暦学者を招聘した記事が残るように推古天皇/聖徳太子の時代までには暦は伝来していて大和王権により管理されています。半島の例から考えて暦と道教はセットで到来していたと思われ、それを示すように次の時代の斉明天皇は多武山に道観を建てるほどの道教信者だったとされますし、天武天皇は日本書紀に「能天文・遁甲」と記すように吉凶占いや風水に知識があったと伝えます。つまり、道教は確実に古代日本の政治中枢にあったと推定されますから、明代にあって道教の経典を集成した「正統道蔵」に墨子が載りますから、その時代に道教の宗教理論の基盤を為す墨子が道教経典として渡来していた可能性は否定出来ないと考えます。

 与太話を垂れ流してきましたが、ネット上の情報を取り纏めますとこのような状況です。今後、墨子の研究が進み日本古典文学の原文との照合が進みますと墨子の兼愛、尚同、非攻などの思想が、従来、専門家が指摘するように日本の古代社会に影響を与えなかったのかの再検証が進むものと思われます。墨子は日本の古典には無いことになっていますが、飛鳥・奈良時代、平安時代初期、平安時代末期、江戸時代と知識人階級の世界にはその存在を見せています。
 それにしても、古代日本は支配者層が率先力行や晴耕雨読の姿を理想にしたのか、盛大な歌舞音曲を嫌ったのか、薄葬が恒例になったのか、大陸や半島からすると不思議な文化の国です。
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