室町幕府の権力構造については前掲『将軍権力の発見』(講談社選書メチエ 本郷恵子)で、幕府が朝廷の文書発行にならってその威光を発揮しようとしたことを紹介したが、本書は三代将軍、足利義満と四代将軍義持の時代に焦点を合わせて、武家政権の確立に向けての彼らの営為を検証する。冒頭、義満が相国寺に巨大な塔を建てた話が紹介されるが、金閣寺同様人々の度肝を抜く意匠だった。人々はこれらの建物に新たな天下の到来を実感したことは間違いない。この文化政策の財政的裏付けになるのが、応永8年の日明国交回復後に獲得した莫大な貿易利潤であった。しかし、著者によれば、この過程では従来天下を担っていた朝廷の祭祀・儀礼の多くは途絶えがちで、行なわれたとしても、義満自身のために行なわれた祭祀と比べれば、規模のうえでも大きく見劣りしており、添え物的な扱いをされるに過ぎなかった。それが復活するのは義持の時代だと言うことだ。
義持の時代には管領以下の幕閣が朝廷儀礼に出資していたことが確認されているが、これは義持が斯波義将などの幕閣層の後押しで将軍に擁立されたことで、義持が彼らを重用したことと関係がある。それともう一つは在京の守護が京都の水になじみ、政治や文化への理解が深まったことが考えられる。禅宗を通じて大陸の最先端の文化を吸収し、かつ「古典復興」的関心を深めて行ったのがこの時期の幕閣たちの教養レベルだった。
この朝廷儀礼に必要な財政は守護の領国統治機構に依存するかたちで徴収された。このシステムは在地支配の間接化という変化として現れ、後の下剋上を将来することとなる。この時代の統治システムは徴税という点で難があったが、それは徳川幕府まで待たねばならない。義持はその後、相国寺大塔の再建を果たすが、落雷によってあえなく消失。それは義満の時代がすでに大きく変わってしまったということの象徴的事件であった。室町文化は大塔に代表される種類のものではなくなっていたのである。複雑に入り組んだ政治と文化の諸相を持つ室町時代の研究はこれから脚光を浴びるだろう。
義持の時代には管領以下の幕閣が朝廷儀礼に出資していたことが確認されているが、これは義持が斯波義将などの幕閣層の後押しで将軍に擁立されたことで、義持が彼らを重用したことと関係がある。それともう一つは在京の守護が京都の水になじみ、政治や文化への理解が深まったことが考えられる。禅宗を通じて大陸の最先端の文化を吸収し、かつ「古典復興」的関心を深めて行ったのがこの時期の幕閣たちの教養レベルだった。
この朝廷儀礼に必要な財政は守護の領国統治機構に依存するかたちで徴収された。このシステムは在地支配の間接化という変化として現れ、後の下剋上を将来することとなる。この時代の統治システムは徴税という点で難があったが、それは徳川幕府まで待たねばならない。義持はその後、相国寺大塔の再建を果たすが、落雷によってあえなく消失。それは義満の時代がすでに大きく変わってしまったということの象徴的事件であった。室町文化は大塔に代表される種類のものではなくなっていたのである。複雑に入り組んだ政治と文化の諸相を持つ室町時代の研究はこれから脚光を浴びるだろう。