読書日記

いろいろな本のレビュー

木挽町のあだ討ち 永井紗耶子 新潮社

2023-09-28 13:26:18 | Weblog
 本書は第169回直木賞作で、今回は垣根涼介氏の『極楽征夷大将軍』とのW受賞である。垣根氏のはまだ未読だが、本書はいかにも娯楽小説という感じで直木賞にふさわしい。読んでいて作為が見え見えという作品は多いが、本書はその作為を意識させないところが良かった。逆に言うと、構成と主題が明確だということだと思う。初出は『小説新潮』に6回掲載されたもので、新聞小説ではないことがポイントである。新聞小説の場合は大体一年間ダラダラと掲載されるので、一日掲載分の原稿では山が作りにくく、細かい細工は読者に忘れられてしまい、これは面白いという作品はなかなかないのが現状だ。

 因みに最近、白石一文氏の『神秘』(講談社文庫)を読んだが、これももとは新聞小説(毎日新聞連載)で長編である。壮大なスケールで描いているのはさすがだが、やはり冗漫さは新聞小説の宿命として残っている。主人公は末期のすい臓がん患者の編集者で、彼がふと電話で知った、不治の病を治すという女性を探すために神戸に移住して、その女性とゆかりの人物に出会って、最後には本人にも出会って同棲するという驚愕のストーリーだ。自分の妻(女医)との出会いと離婚、それを縦軸にしてそれをめぐる人物が横軸に配されて錯綜するが、最後は予定調和的に幕を閉じる。錯綜する人間関係をあらかじめ設定することで、この小説の構成はほぼ終わっているが、これを作り上げた作者の力量は大いに評価されてよいと思うが、これが直木賞や芥川賞の対象になるかと言えば、なかなか難しいのではないか。主人公が末期のがん患者であるにもかかわらず、元気に動き回るさまはなんかリアリティーがないように感じた。

 振り返って夏目漱石の作品も朝日新聞に連載されたものだが、新聞小説のダラダラ感がなくてすっきりまとまっているのはやはり彼の力量のなせる業であろう。一日の分量が今より多かったということもあるであろう。それにしても早く次が読みたいという気持ちを起こさせるのはすごい。

 本書はタイトル通りあだ討ちの話であるが、その「真実」を探るというのがテーマである。あだ討ちの関係者と、彼らを取り巻く芝居小屋の人間の物語を紡ぐことで、あだ討ちの真相が明らかになっていく様は見事というしかない。あだ討ちは殺し殺されという悲惨な結末になるのが普通だが、このあだ討ちはそうではない。実際は読んでからのお楽しみだが、著者の江戸文化に対する蘊蓄も随所に披瀝されていて面白い。本書は267ページで、これぐらいの量であるからエッジも効かせることができるのであろう。今回の芥川賞受賞作『ハンチバック』(市川沙央 文藝春秋)はこれより短い93ページであった。新聞小説はいつまで続くのか。

アイヒマンと日本人 山崎雅弘 祥伝社新書

2023-09-14 13:57:19 | Weblog
 アドルフ・アイヒマンは1939年国家保安本部ゲシュタポ局ユダヤ人課課長となって以降、多くのユダヤ人を強制収容所に送り込み、絶滅計画を実行したが、戦後は数年間ドイツ国内に潜伏した後、アルゼンチンに逃れた。イスラエルの諜報工作機関モサドはアルデンチンに向かい、1960年5月11日に自宅前で拉致しイスラエルに連行した。翌年4月にアイヒマン裁判が始まり12月に死刑を宣告され、1962年6月1日に処刑された。56歳であった。本書はアイヒマンの人生をたどり、アイヒマン裁判の問題点を指摘したものであるが、新書の割には中身が濃い感じがした。これは巻末の主要参考文献を読むとなるほどと納得させられる。これだけの資料にあたれば内容も深くなるというものである。

 ナチスの幹部がアルゼンチンに逃亡する事例が多かったのは、当時アルゼンチンがアメリカとの関係が悪く、ドイツと仲が良かったことに由来するという指摘があったが、私はこの事実を知らなかったので勉強になった。ドイツ降伏後戦犯として行方を追われていたが、モサドに捕まって連行されるまでの15年間の生活が細かく記されていて興味深かった。特にアルゼンチンでの住居の移動の地図や、最後に住んでいたブエノスアイレスの自宅付近での拉致の詳細な地図は労作と言える。
 
 ユダヤ人絶滅政策は、1942年1月20日に行われたヴァンゼー会議で議論された。中身は①移送、②強制収容と労働、③計画的殺害の三点であった。ハイドリヒをトップとして高官15名と秘書1名、そこにアイヒマンもいた。いわばこの絶滅計画の中枢にいたのである。ところがアイヒマンは裁判で私は上官の命令を忠実に実行しただけで、罪はないという趣旨の弁明を繰り返した。軍隊においては上官の命令は絶対で拒否できないという趣旨である。この裁判を傍聴したユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントはアイヒマンを極悪人ではなくごく普通の役人で、彼の仕業を「悪の凡庸さ」がなしたものと表現した。このレポは『イスラエルのアイヒマン』(みすず書房)で読むことができる。これに対してユダヤ人の中から反対の意見が続出し、大きな問題となった。ジェノサイドの主犯が極悪非道な人間ではなく平凡な役人だったというのは納得がいかなかったのであろう。しかし逆に言うとアーレントの指摘は、平凡な市民が悪事の一翼を担う可能性があるということを物語っている。

 このアーレントの指摘を裏付ける心理実験がアイヒマン裁判の後、アメリカで行われた。イェール大学の心理学者スタンレー・ミルグラムによる、人間の服従心理に関する実験、通称「アイヒマン実験」である。心理実験という触れ込みでアルバイトを募り、その人たちを先生役にし、別の応募者を装った俳優を学習者役に仕立てて実験室に入れる。学習者の手首には電極が繋がれ、記憶力の問題を出して間違ったら電流が流れるスイッチを押すことを伝える。電流の強度は30段階に分かれていて、間違うたびに一段階、強度を上げていく。最も強い電流でも安全で心配はいらないと説明する。ミルグラムが注目したのは、個々の応募者が「どの時点で実験の継続という指示に逆らうか」というものだった。「道徳による明確な訴え(もうやめてくれという学習者の苦悶の叫びへの罪悪感)の中で、人々がどのように権威に反抗するかを調べること」がこの実験の狙いだったのだ。

 結果は予想に反して応募者40人中、26人(65%)が学習者の悲鳴や抗議にも関わらず実験を再度まで継続し、最大電圧のスイッチを押したのだ。普通の個人がとんでもない段階まで実験者の指示に従い続けたのだ。これをアイヒマン裁判につなげると、アイヒマンは「サディスト的な化け物」ではなく、「机に向かって仕事をするだけの凡庸な官僚に近い者」だというアーレントの指摘は的を得ていることになる。「悪の凡庸さ」というのは的を得ている。

 ドイツではこの反省を踏まえて、ドイツ連邦軍の各軍人は「上官の命令には従わな刈ればならない」が、「自身及び第三者の人間の尊厳を侵害する命令」や「国内法及び国際刑法により犯罪となる命令、「職務上の目的のために下されたものではない命令」である場合は、上位者の命令に「従わない」態度を選んでも、不服従の罪には問われないと明記されている。さすがドイツというべき内容で、人権意識の成熟度が違う。アイヒマンの上からの命令に従っただけだという弁明はやはり人権意識の放棄ととるべきだろう。ヒトラーの命令に反抗することは困難を伴うが、それでも唯々諾々ではなく面従腹背の意識をもって一つでも意を唱える行動をすべきであった。

 この「上からの命令問題」は軍隊、警察のみならず、民間の会社でも話題になっている。大手中古車販売店の幹部の理不尽な命令で、どれだけの社員、顧客が涙を飲んだか。内部告発もあったが、それが表に出ることはなかった。つるんでいた損保会社も同類だったことがさらに問題を大きくした。しかし「天網恢恢疎にして漏らさず」の言葉通り、この会社も破産の危機に直面している。おごれるもの久しからずという言葉はは真理に近い。小さな成功体験は人間を傲慢にする。経営者はこの中古車販売会社の失敗を他山の石として、この言葉を肝に銘ずべきだ。