読書日記

いろいろな本のレビュー

ヒトラー(上)1889ー1936 傲慢 (下)1936ー1945 天罰 イアン・カーショー 白水社

2017-07-26 11:45:36 | Weblog
 上巻は8640円、下巻は11880円と高価なものなので、勢い大きな図書館で借りることになるのだが、本書は人気があるらしくなかなか順番がまわって来ず、結局(上)読了後半年もかかってしまった。本書の内容は、20世紀になぜヒトラーのような指導者が生まれたのかを、ヒトラーの性格、思想、と当時の社会状況を膨大な資料を読み解いて分かりやすく書いている。いわばヒトラーの一代記のようなもので、時系列に沿っているので、社会状況とヒトラーの行動が比較しやすい。
 前掲の『ナチズムは夢か』では主にナチの法律体系が、ルネサンス以降の近代主義の結果であり、それを独裁者が極端な人種主義で思いのままに操ったという論法であった。個人よりも制度による災禍がナチズムの実態であり、また繰り返される危険性を指摘していた。本書では、ヒトラーの生まれた19世紀のウィーンは世紀末的状況を呈しており、それが若き日のヒトラーに影響を与えたとある。第一次世界大戦に従軍した一兵士が、敗戦国ドイツに過酷な賠償を課した歴史的背景の中で、持ち前の弁舌力でどんどん成り上がって行く様は悪夢を見ているようだ。ドイツ人を含む北方アーリア人の世界を打ち立てるべく、東方に生存圏を確保するために戦争という暴力を用いるべし。そのためにはポーランド人、ロシア人、ユダヤ人などの劣等民族は殲滅してもよいという普通ではありえない思想を、当時の反共主義の名を借りて、ユダヤ・ボルシェヴィズム打倒というスローガンを市民の中に植え付けていった。この極端で恐ろしい一兵卒上がりのチンピラがドイツの指導者になってしまった。本書にはこうある、「教養ある知的な人々も含めて、多くの人々がヒトラーの特異な人格的特徴に抗いがたく魅かれた。その魅力が演技力の賜物だった」、そしてゲッペルスは日記に「ヒトラーが首相になった。おとぎ話のようだ!」と記したことも紹介している。胡散臭い人間が、為政者になって衆愚政治をする、それをメディアが後押しするという光景は既視感がある。なるほどあの時のドイツもこういう感じだったんだなあと。
 全体を読んで、やはりヒトラーというのは普通の人間ではない。人間性が欠如している。抒情が乾いている。著者曰く、ヒトラーと日常的な付き合いがあった者(副官や秘書などの正規の側近)や頻繁に特権的な接触ができた者でも、彼を「知っている」と言えた者、総統という見せかけの鏡の内側にある人間性に迫ることができた者はほとんどいない。ヒトラー自身は、努めて距離を保とうとした。「大衆は偶像を必要としている」と後で語っている。ヒトラーは大衆に向けてばかりでなく、最も近しい側近に対しても役割を演じていたと。あの演説の身振り手振りを見れば「演技する人間ヒトラー」はすぐわかる。
 その独裁者にも最期の時が近づいてくる、その時の記述、「しかし、ヒトラーの外見が呼び起こした同情は当初漂っていた批判的なムードも削いだ。恐らくそれにつけ込もうとしたのだろう、ヒトラーはコップの水を震える手でこぼさずに口に運ぶのを諦め、自身の衰えに言及した」。ただの人という感じが横溢している。こんなやつが何千万という人間を殺したのだ。生存圏獲得のための戦争勝利。これがドイツ帝国の進むべき道だとは言っても、戦争は人の命を奪うこと、もちろん自国民が奪われることもある。このことに思いが至らない人間はやはり、まともな人格ではない。人間は権力の美酒に酔うとどんどんエスカレートしていくものだ。よって人格破壊者の権力行使はどうしたら防げのかを考える必要がある。

ナチズムは夢か 南利明 勁草書房

2017-07-18 10:00:26 | Weblog
 本書は900ページを超す大著で値段も定価12000円、税込価格12960円と高価だ。こういう本を出版した勁草書房には敬意を表したい。白水社も全体主義批判の本の発行に意欲的だが、利益を度外視しても有益と思われる本を発行しようとする出版社が存在するということは誠に喜ばしいかぎりである。
 著者の南利明氏は静岡大学名誉教授で法哲学・法思想史の研究家で歴史家とは別の視点でナチズムの分析を行なっており、非常にユニークだ。それはジェノサイドに至り着く悪魔の支配を生み出したナチスの統治体制の淵源をルネサンスから二ーチェまでヨーロッパ近代の歴史に求めていることである。本書では第一部が「夢のはじまりーヨーロッパ近代の本質」と銘打たれ、ルネッサンス絵画の遠近法から、自画像の誕生についての解説がなされる。自画像は「自分自身の客観化」の契機を必要とするものとして、明確な「個人主義の発生」をまってはじめて可能になるものであり、ルネッサンスの文化変容の原因に対して本質は、人間が「個人」となり、「前にー対してー立つ」という世界への構えが出来したことにあった。ルネサンスとは、この新たな構えによる世界の捉え直し、再解釈の運動だったという。この一部は380ページに渡っており、「科学的遠近法の誕生」「近代という時代」「自然科学の誕生」「近代の形而上学」「主体性の形而上学と近代国家」という順序で非常に細かくしかも蘊蓄に富んだ解説が展開される。これがナチズムとどう関わるのか最初は判らなかったが、第二部「夢の展開ーナチス・ドイツの憲法体制」で一部との関連が明らかにされる。
 それは近代国家は個人を育て、教育して国家に有意な人材を確保して繁栄するシステムとして機能するのだが、ナチズムもその例外ではないということなのだ。その近代国家の存在基盤の憲法を恣意的に捻じ曲げ、民族主義(ドイツ人至上主義)と他国に対する暴力支配を可能にするべく、民主主義的手続きによってできたのがナチス・ドイツであった。中でも私が驚いたのは、ナチは人種主義を徹底するために住民一人一人の「遺伝・生物学的カード」を作成しデーターベース化しようと目論んでいたことだった。これを著者は透視権力=管理政治学と名づけている。それは権力の目的と機能が、権力の諸効果を社会の最も細かな粒子にまで確実にゆきわたらせ、生の展開のすべての局面に対して、その掌握を確立しようとしたのだ。これは第一部の「遠近法」の話と繋がるものである。そしてこのカード集計用のパンチカード機器をアメリカのIBM本社のCEOトーマス・J・ワトソンが海外子会社を通じてナチス・ドイツに供給したことも書かれている。ナチズムを支えたのもまた近代民主主義国家であった。その意味で、ナチズムは歴史上唯一無二の出来事ではなく、近代に固有のこれからも繰り返されるであろうごくありふれた一つの出来事ではなかったかという著者の問いかけは胸に響く。権力の暴走と不法支配再来阻止の決意は共有しなければならない。

ヒトラーの絞首人ハイドリヒ ロベルト・ゲルヴァルト 白水社

2017-07-15 13:58:53 | Weblog
 ハイドリヒはナチスドイツの国家保安本部(RSHA)の事実上の初代長官、ドイツの政治警察権力を一手に掌握し、ハインリッヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊の実力者であった。ユダヤ人問題の最終的解決の実質的な推進者で、その冷酷さから親衛隊の部下たちから「金髪の野獣」と渾名された。戦時中にはベーメン・メーレン保護領(チェコ)の統治に当たっていたが、1942年6月4
日、大英帝国政府及びチェコスロバキア亡命政府が送りこんだチェコ人部隊によって暗殺された。享年38歳。本書は彼の伝記である。
 ハイドリヒの写真を見ると、長身、で眼光鋭く、いかにもナチ幹部という感じだ。おまけに金髪、碧眼で絵にかいたようなアーリア系だ。この容貌が出世を早めた可能性が大きい。彼は1904年ハレ市の音楽を職業とする特権的なカトリック信者の家に生まれた。母エリザベートは子どもたちを導いてゆうべの祈りを捧げさせ、日曜日には家族全員でミサに出席した。ラインハルト(ハイドリヒ)は地元のカトリック教会では侍童を務めた。ともあれ彼は圧倒的にプロテスタントの多いハレ市の中の少数派の一員だった。ハレ市17万人の94%がプロテスタントでカトリック信徒は7000人強に過ぎなかった。よって、彼がナチ高官に栄達するまでにはいろいろと苦労があった。
 それは元々ナチズムに親和性があって栄達したというのではないということである。著者曰く、戦争と革命の陰に生きた少年期、家族の社会的没落、極めて民族主義的なワイマール期海軍での生活、こうした体験は、彼をたやすく右翼政治に走らせる要因となったはずだった。しかし、彼がナチズムに帰依したのは、軍人としてのキャリアが突然、予期せぬ形で断たれたのちの、ようやく1931年になってからのことである。海軍を放逐されたことによる生活の不安とナチ党シンパである婚約者とその両親からの次第に強まる影響、これらが彼を幹部職員としてSS(親衛隊)に加わる要因となった。そして入党後のハイドリヒは急速にナチズムを最もその極端な次元において信奉するようになった。そこには、これまでの人生における「失点」、ナチズムへの帰依の遅さとユダヤ人の血を引くという執拗な噂(これにより彼は1932年党による調査という屈辱さえ受けた)、を挽回したいという思いがあったのだと。
 少年時代からの宗教と音楽のある生活、それによって培われた人間性を無理やりナチズムという猛獣に立ち向かわさざるを得なかったところに彼の悲劇がある。ハイドリヒはプラハでは「人間味ある総督」に見せようと心がけたらしい。そのため自家用のベンツもオープンカーにしてプラハ市民に自分の姿がよく見えるようにして走らせることが多かった。威圧的にならないように護衛車両をつけることもあまりしなかった。ヒトラーもヒムラーも護衛に無頓着な態度を頻繁に戒めていたが、ハイドリヒは最期まで耳をかさなかった。これが結局命取りになってしまった。「金髪の野獣」の実相はこれだった。この暗殺事件を扱った映画、「ハイドリヒを撃て」が8月12日から公開される。ハイドリヒはどのように描かれているのだろうか。
 
 

中国 何清漣×程暁農 ワニブックス新書

2017-07-04 20:11:44 | Weblog
 惹句は「とっくにクライシス、なのに崩壊しない〝紅い帝国〟のカラクリ 在米中国人経済学者の精緻な分析で浮かび上がる」である。二人は共に中国を脱出した経済学者で夫婦関係にある。何氏が妻で程氏が夫である。以前、何氏の『中国の嘘』『中国の闇』を読んで、その捨て身の書きぶりに感動した覚えがある。中国にも勇気のある学者はいるのだなあと。本書は新書だが、最近多い中国批判本とは一線を画している。それは経済学者としての深い研究から発せられる現代中国の問題点を客観的にえぐり出しているからだ。
 著者は言う、中国の共産党政権は毛沢東時代に革命によって築き上げた社会主義経済制度、すなわち全面的な公有制と計画経済を放棄したが、共産党資本主義によって毛沢東が遺した専制的な全体主義制度を強固なものにした。権力者は私有化プロセスで数々の犯罪に手を染めた。「紅い家族」が死に物狂いで富を収奪するありさまは悪しき手本となり、官僚システムひいては国家全体に高度な腐敗をもたらした。こうした腐敗政治は必然的に社会的分配の不公平を生む。富と上昇の機会を社会の上層に独占される時、膨大な社会の底辺層はエリート階層に怨恨の情を持つ。役人を恨み、富める者を恨む感情は社会全体に広がっていると。それでは、この中国で民主化は可能かという点については、次のように言う、すでに資本家になっている紅いエリートたちは頑として民主化を阻むだろう。彼等にとって民主化とは、政治的特権の剥奪だけでなく、彼等の違法蓄財への追及を意味しかねないからだ。この紅い資本家を守ってくれる制度とは市場経済でもなければ法治でもなく、「プロレタリア独裁」なのである。彼らは資源を掌握する権力を握り、一方では市場を通して権力を金に変えるわけである。こうした権力が市場化された状態においては、民主主義国家の企業化よりも楽に金儲けができるだけでなく、高い政治的地位も確保したままでいられる。だから共産党資本主義が自発的に民主的な制度下での資本主義に転換することはありえない。しかし紅い権力者たちも中国モデルが常に社会の底辺層から脅威にさらされていることを明確に知っているので、巨額の個人資産を西側国家に移転させる一方、親族を西側国家に移住させることで、いざとなった時の逃げ道を用意しているのだと。
 まことに正鵠を得た分析だ。地位利用で楽に金儲けができると言うのは私の経験からも納得できる。去年四川省成都に行ったが、町のあらゆるところでドイツ製の高級車を見かけた。日本だと車と乗っている人間の服装とか雰囲気の相関関係があるものだが、中国ではそれがバラバラで、どうやって金稼いでベンツに乗っているのだろうという事例が多々あった。国の資産を不当に食いつぶしている感じがした。さらに著者は、中国共産党はマルクス主義を標榜しているがやっていることは反マルクス主義だというダメだしまでしている。最近の中国に関するニュースはこの文脈で大帝は理解できる。とにかく社会の全てに共産党の利権がらみの指導が入るので、西側諸国から中国で企業活動するには多くの困難が伴う。最近これを嫌ってベトナムに拠点を移す企業が多いと聞く。
 環境汚染も喫緊の課題だが、これも難しいという。なぜなら地方政府の役人にとって地道な環境問題解決よりも、中央政府に覚えめでたい経済発展の方に力を注ぐ方が出世の近道だからだ。その他中国の株式市場のいびつな現状とかいろんな問題点を解説してくれているので、中国の現状を知りたい人には最適の本である。