上巻は8640円、下巻は11880円と高価なものなので、勢い大きな図書館で借りることになるのだが、本書は人気があるらしくなかなか順番がまわって来ず、結局(上)読了後半年もかかってしまった。本書の内容は、20世紀になぜヒトラーのような指導者が生まれたのかを、ヒトラーの性格、思想、と当時の社会状況を膨大な資料を読み解いて分かりやすく書いている。いわばヒトラーの一代記のようなもので、時系列に沿っているので、社会状況とヒトラーの行動が比較しやすい。
前掲の『ナチズムは夢か』では主にナチの法律体系が、ルネサンス以降の近代主義の結果であり、それを独裁者が極端な人種主義で思いのままに操ったという論法であった。個人よりも制度による災禍がナチズムの実態であり、また繰り返される危険性を指摘していた。本書では、ヒトラーの生まれた19世紀のウィーンは世紀末的状況を呈しており、それが若き日のヒトラーに影響を与えたとある。第一次世界大戦に従軍した一兵士が、敗戦国ドイツに過酷な賠償を課した歴史的背景の中で、持ち前の弁舌力でどんどん成り上がって行く様は悪夢を見ているようだ。ドイツ人を含む北方アーリア人の世界を打ち立てるべく、東方に生存圏を確保するために戦争という暴力を用いるべし。そのためにはポーランド人、ロシア人、ユダヤ人などの劣等民族は殲滅してもよいという普通ではありえない思想を、当時の反共主義の名を借りて、ユダヤ・ボルシェヴィズム打倒というスローガンを市民の中に植え付けていった。この極端で恐ろしい一兵卒上がりのチンピラがドイツの指導者になってしまった。本書にはこうある、「教養ある知的な人々も含めて、多くの人々がヒトラーの特異な人格的特徴に抗いがたく魅かれた。その魅力が演技力の賜物だった」、そしてゲッペルスは日記に「ヒトラーが首相になった。おとぎ話のようだ!」と記したことも紹介している。胡散臭い人間が、為政者になって衆愚政治をする、それをメディアが後押しするという光景は既視感がある。なるほどあの時のドイツもこういう感じだったんだなあと。
全体を読んで、やはりヒトラーというのは普通の人間ではない。人間性が欠如している。抒情が乾いている。著者曰く、ヒトラーと日常的な付き合いがあった者(副官や秘書などの正規の側近)や頻繁に特権的な接触ができた者でも、彼を「知っている」と言えた者、総統という見せかけの鏡の内側にある人間性に迫ることができた者はほとんどいない。ヒトラー自身は、努めて距離を保とうとした。「大衆は偶像を必要としている」と後で語っている。ヒトラーは大衆に向けてばかりでなく、最も近しい側近に対しても役割を演じていたと。あの演説の身振り手振りを見れば「演技する人間ヒトラー」はすぐわかる。
その独裁者にも最期の時が近づいてくる、その時の記述、「しかし、ヒトラーの外見が呼び起こした同情は当初漂っていた批判的なムードも削いだ。恐らくそれにつけ込もうとしたのだろう、ヒトラーはコップの水を震える手でこぼさずに口に運ぶのを諦め、自身の衰えに言及した」。ただの人という感じが横溢している。こんなやつが何千万という人間を殺したのだ。生存圏獲得のための戦争勝利。これがドイツ帝国の進むべき道だとは言っても、戦争は人の命を奪うこと、もちろん自国民が奪われることもある。このことに思いが至らない人間はやはり、まともな人格ではない。人間は権力の美酒に酔うとどんどんエスカレートしていくものだ。よって人格破壊者の権力行使はどうしたら防げのかを考える必要がある。
前掲の『ナチズムは夢か』では主にナチの法律体系が、ルネサンス以降の近代主義の結果であり、それを独裁者が極端な人種主義で思いのままに操ったという論法であった。個人よりも制度による災禍がナチズムの実態であり、また繰り返される危険性を指摘していた。本書では、ヒトラーの生まれた19世紀のウィーンは世紀末的状況を呈しており、それが若き日のヒトラーに影響を与えたとある。第一次世界大戦に従軍した一兵士が、敗戦国ドイツに過酷な賠償を課した歴史的背景の中で、持ち前の弁舌力でどんどん成り上がって行く様は悪夢を見ているようだ。ドイツ人を含む北方アーリア人の世界を打ち立てるべく、東方に生存圏を確保するために戦争という暴力を用いるべし。そのためにはポーランド人、ロシア人、ユダヤ人などの劣等民族は殲滅してもよいという普通ではありえない思想を、当時の反共主義の名を借りて、ユダヤ・ボルシェヴィズム打倒というスローガンを市民の中に植え付けていった。この極端で恐ろしい一兵卒上がりのチンピラがドイツの指導者になってしまった。本書にはこうある、「教養ある知的な人々も含めて、多くの人々がヒトラーの特異な人格的特徴に抗いがたく魅かれた。その魅力が演技力の賜物だった」、そしてゲッペルスは日記に「ヒトラーが首相になった。おとぎ話のようだ!」と記したことも紹介している。胡散臭い人間が、為政者になって衆愚政治をする、それをメディアが後押しするという光景は既視感がある。なるほどあの時のドイツもこういう感じだったんだなあと。
全体を読んで、やはりヒトラーというのは普通の人間ではない。人間性が欠如している。抒情が乾いている。著者曰く、ヒトラーと日常的な付き合いがあった者(副官や秘書などの正規の側近)や頻繁に特権的な接触ができた者でも、彼を「知っている」と言えた者、総統という見せかけの鏡の内側にある人間性に迫ることができた者はほとんどいない。ヒトラー自身は、努めて距離を保とうとした。「大衆は偶像を必要としている」と後で語っている。ヒトラーは大衆に向けてばかりでなく、最も近しい側近に対しても役割を演じていたと。あの演説の身振り手振りを見れば「演技する人間ヒトラー」はすぐわかる。
その独裁者にも最期の時が近づいてくる、その時の記述、「しかし、ヒトラーの外見が呼び起こした同情は当初漂っていた批判的なムードも削いだ。恐らくそれにつけ込もうとしたのだろう、ヒトラーはコップの水を震える手でこぼさずに口に運ぶのを諦め、自身の衰えに言及した」。ただの人という感じが横溢している。こんなやつが何千万という人間を殺したのだ。生存圏獲得のための戦争勝利。これがドイツ帝国の進むべき道だとは言っても、戦争は人の命を奪うこと、もちろん自国民が奪われることもある。このことに思いが至らない人間はやはり、まともな人格ではない。人間は権力の美酒に酔うとどんどんエスカレートしていくものだ。よって人格破壊者の権力行使はどうしたら防げのかを考える必要がある。