読書日記

いろいろな本のレビュー

週末アジアでちょっと幸せ 下川裕治 朝日文庫

2012-09-30 17:23:21 | Weblog
 この手の旅行記の先駆的作家が下川裕治だ。タイに長らく住んでいたこともあり、アジアのアバウトな人々との出会いの記述にかけては右に出るものがいない。本人自身が会社を辞めてライターとして自立した履歴からして、アジアとの出会いは必然的なものだったのだろう。日本の社会は見方によれば息苦しいと感じられることも多々あり(私もその一人だが)、そのように感じる人にとって週末のアジア旅行は息抜きの絶好のチャンスとなる。そんなに何回も行けないよという人のために下川氏がカメラマンの中田浩資とともに読者を行った気にさせてくれる。とは言っても、ありきたりの場所じゃ読者は承知しないので、余り日本人が行かないところということになる。この辺が苦労多いところだ。
 中では冬に中国ウルムチの星星峡という町へ行ったレポートが今の中国のありようを捉えていて読ませる。即ち尖閣列島問題の反日デモが暴徒化し、この国が近代以前であることを暴露したあの感じが、漢人のウルムチ支配に色濃く投影している。公安の許可なくして町への立ち入りは禁止され、その公安の態度が権力そのものを体現するという中国の現状である。中国に於いては富は権力の中から生まれるわけで、どの人も権力側に就きたがる。辺鄙な田舎町に於いても同様。公安の横柄な態度を書いただけでこの旅行記の意味はあったと思う。
 他は韓国、台湾、マレーシア、シンガポール、沖縄、ベトナム、バンコクという具合。これらの国は中国と違って気楽な庶民が主人公になっており、安心して読める。中でもシンガポールからマレーシアへバトウパハ川を遡り、マレーシアへ入る旅を金子光晴の『マレー蘭印紀行』と重ね合わせるという趣向は意表をついて面白い。さあ、アジアへ出かけよう。
 

小商いのすすめ 平川克美 ミシマ社

2012-09-21 08:23:31 | Weblog
 副題は{「経済成長」から「縮小均衡」へ}とある。戦後の右肩上がりの経済成長期から今の平成不況までの流れを昭和25年生まれの著者が自分の人生とダブらせて振り返り、
昭和30年代のような身の丈に合った生き方をすべきであると提唱している。著者の父親は東京都大田区で町工場を経営していた。東京オリンピックを境に東京の街並みが急激に近代化するのを目の当たりにして、少年時代を過ごしたのである。あの時代は個人商店が庶民の生活を支えており、商店街はそこに住む人々の社交の場でもあった。それが近代化・グローバル化によって大型量販店が出現し、低価格競争が始まると、資本力のない個人商店は軒並み廃業に追い込まれた。その跡地にマンションや駐車場が出来、街は完全に崩壊した。新住民と旧住民の軋轢等々、さまざまな問題が都会のあちこちで発生している。
 著者の指摘でなるほどと思ったのは、昔はたいてい商店街に「帽子屋」があったということである。帽子なんか一日に何個も売れないはずなのにどうして経営が成り立つのだろうと疑問に思うが、実はその店のリピーターが支えていたということである。帽子好きの客が多くいて、その人たちが何年かに一度帽子を購入する。それで店の経営が成り立ったのである。また当時は帽子をかぶる人が多かったということも帽子屋を支える一因だった。外出時にはおしゃれの一つのアイテムとして帽子は欠かせなかったわけだ。貧しいけれど帽子でお洒落するという当時の日本人の様子がしのばれる。懐かしい光景だ。
 本書を読んで、井上やすしの『ナイン』という小説を思い出した。東京オリンピックのころの四谷の商店街の少年野球チームのメンバーのその後の生活の変遷を描いたものだが、経済成長期に突入した時代とそこに生きた少年たちの「その後」が描かれるわけだが、経済成長に伴う商店街の疲弊と、それが都市住民の人間関係の希薄化を必然的に産みだすことを描いていて、共感を呼ぶ小説である。
 高齢化する日本にとって、今後経済成長を図るのはなかなか難しいであろう。されば、「小商い」的発想が大事になってくるという著者の指摘は無視できない。人間も社会も年を重ねるにつれて老いて行く。生・老・病・死は避けられない人間の宿命である。社会においても同様。今後人口減少期には、老化を成熟と考えて身の丈に合った国造りを目指すべきだろう。

日本近代文学と戦争 山口俊雄 編  三弥井書店

2012-09-11 08:23:59 | Weblog
 本書は、冒頭の説明にある通り、2010年11月14日に愛知県立大学長久手キャンパスで行なわれた公開研究集会「日本近代文学と戦争ー「十五年戦争」期の文学を通じて」の内容を書籍化したもので、今回、編著者の山口俊雄氏から御恵贈にあずかったものである。どうもありがとうございました。
 中身は第一部①戦中小説における混血表象ー石川淳「白猫」・金史良「光の中に」を中心に(山口俊雄) ②詩にあらわれた<神>たちー戦時下、そして戦後(宮崎真素美)③戦争短歌における前線と銃後ー『支那事変歌集』その他 ④女性、軍需産業、そして≪私≫ ノーマ・フイールド  ⑤日中戦争期の文化抗争 米谷匡史、そして第二部は山口氏の司会による全体討論会となっている。
 一読してこのような研究集会を開催された愛知県立大の力量に感心した。ノーマ・フイールド氏を招聘されたことは大変素晴らしい。戦争文学というと自己の戦争体験を戦後、生還してから書いたものを読むことが多い(大岡昇平など)が、戦時下に同時進行で書かれたものを時代の中で読むことが本書のテーマであり、大変重要なことと考える。
 全体会の冒頭で米谷氏が「十五年戦争」というくくり方は雑駁ではないかという疑問を表明されているが、私はこれでいいと思う。日本史では40年前から「十五年戦争」という言葉が家永三郎氏などによって使われており、定着していると思うからだ。日中戦争・太平洋戦争、それぞれ違いはあるが、細かく分けるよりザックリひとまとめにした方がいろんな議論がしやすいのではないか。
 本書を読んで、新しく得た知見がいろいろある。①の「混血文学」④の「ハウスキーパー」問題などである。民族・血統問題は普遍的な文学のテーマだが、とりわけ戦争・植民地問題では重要なテーマであることがわかった。④は小林多喜二の『党生活者』をもとに革命運動と女性の問題を論じている。
 それぞれの発表は戦争という極限状況の中の人間という厳しいテーマだが、このような文学研究を通じて戦争の実相に迫り、反戦の気運を持続させ盛り上げていくことが重要だと思う。日本を取り巻く状況は厳しくなってきたが、戦争は二度とご免だというのが私の願いである。研究者諸氏にはこのスタンスでメッセージを発信していただきたい。

街場の文体論 内田樹 ミシマ社

2012-09-09 09:27:55 | Weblog
 内田氏の「街場シリーズ」第三弾。神戸女学院大学での最終年度講義「クリエイティブ・ライティング」の14回の講義を収録している。全身全霊を傾けて語ったとあるが、なるほど教室の熱気が伝わる内容である。まさに「白熱講義」と言えよう。全編内田氏の文学と言語学の蘊蓄が披露されるが、中でも私が感心したのは第7講の「エクリチュールと文化資本」で、氏のバックグランドの仏文学の教養が溢れ出た内容だ。
 エクリチュールとは「書くこと」「「書かれたもの」の意で、さらに言えば、日本語という大きな枠内に散在している局所的に形成された方言のようなものだと氏は言う。日本人のエクリチュールは「おばさん」と「やくざ」と「やんきい」というような仕方で水平的に多様化しているが、ヨーロッパはそうではない。上下に階層化している。上・中・下のエクチュールというふうに階層化している。イギリスの階層化はつとに有名だが、フランスでもそうらしい。氏曰く、ヨーロッパでは、上流にいけばいくほど階層的な縛りが緩いが、下にいくほどその自由は失われる。階層的な締め付けが厳しくなり、自由度はどんどんなくなる。下層階級なのにクラシック音楽を聴いたり、詩を読んだり、「趣味はクリケット観戦」とかいうことは許されない。ラップを聴いて、テレビを見て、サッカー観戦することを強いられる。(中略)つまり、階層社会というのは、単に権力や財貨や文化資本の配分に階層的な格差があるということだけの話ではなく、階層的にふるまうことを強いる標準化圧力そのものに格差がある社会だ。(中略)日本人は「教養」という言葉にほとんど政治的な力を感じないが、ヨーロッパでは、教養は階層再生産に強い力を発揮する。だから文化資本というような生々しい言葉が選択される。学歴とか、音楽や美術についての趣味の良さとか、テーブルマナーとか、ワインの選択とかは、所属階層っを示す身体化された指標であり、文化的格差の再生産装置だと。
 引用が長くなったが、ことほど左様にヨーロッパとは厳しい社会なのだ。人種差別とは異なった階層性が歴然と生きていることに驚きを禁じ得ない。所謂「身のたけに合った」生き方を小さいころから教え込まれるわけだ。逆に日本の無階層性、秩序の無さが浮き彫りにされる。さらに無宗教性がそれを助長する。というわけで現在の我が国の渾沌がある程度理解できる。
 最近話題の、某市長の「文楽」は面白くない発言は、内田氏の文脈で言えば、下層エクリチュールが上層エクリチュールに唾を吐きかけているようなものである。上層エクリチュールから見たら「それがどうした」ぐらいのことだろう。メディアもそれ自体が「水平化」しているので、大きく取り上げてしまうのだ。