読書日記

いろいろな本のレビュー

毛沢東は生きている フイリップ・P・パン PHP研究所

2009-12-29 10:15:03 | Weblog
 副題は「中国共産党の暴虐と闘う人々のドラマ」で、文革から現代にいたる中国共産党の裏面史になっている。権力は腐敗するという言葉があるが、いまの中国共産党はその状況になっている。経済は資本主義、政治は共産主義という壮大な実験はいまだその評価を下すのは難しいが、著者の次の言葉は共産党の側面を言い当てている。曰く「中国政府は、資本主義と権力主義の融合からマフイア組織のようになり、利益追求に取り憑かれ、公衆衛生や環境保護、それに、経済的平等などの社会目的を犠牲にしている」と。
 官僚主義が硬直化し地方の党幹部による農民いじめ、私腹を肥やすための権力乱用等々は目にあまるものがある。それに対する一般人民の抗議行動は権力側の犬である公安警察によって制圧され、その報道も党中央によって規制される。党の地方幹部は自己の出世のために成果を上げようとして、農民に苛酷な税を課し、さらに私腹を肥やそうとする。権力の腐敗はかようなシステムで進行する。マスコミはすべて権力側の意志を反映することを義務付けられているので、反逆するメディアは圧力をかけられ、ひどい場合は逮捕・監禁される。裁判に訴えても裁判所は最終的には党の意向に縛られるため、原告に有利な判決はなかなか出ないのである。三権分立ができていないのだ。さらに驚いたことに、裁判官は法律の学位をもっているとは限らず、170万人もいる都市の裁判官に優秀な人材がおらず、多くの裁判官が小学校卒程度の学力しかなく、他は退役軍人の就職口になっており、裁判所の事務官から昇進する場合も多いらしい。従って裁判所は党の下部組織と言ってもいいだろう。これでは公正な裁判は期待できない。絶対中国で裁判を受けたくないと誰しも思うだろう。
 今後中国は資本主義化の流れの中で、都市住民と農民の格差をどう解消していくか、人権意識に目覚めた市民に民主主義をどう実現するか、一人っ子政策をどうして行くかなど課題は山積している。一党独裁はいずれ終焉を迎えざるを得ないということは歴史が証明している。このままでは毛沢東が闘った封建主義の時代に逆戻りになってしまうだろう。反封建をテーゼとした共産党が封建主義に陥るとはなんと皮肉な話ではないか。

犬の帝国 アーロン・スキャブランド 岩波書店

2009-12-25 21:55:15 | Weblog
犬の帝国 アーロン・スキャブランド 岩波書店


 犬は人間の友として猫と共に長い歴史を持っている。本書は幕末から現代の日本の歴史をペットとしての犬の変遷から逆照射したもので、一風変わった本だ。
 1854年3月24日、徳川将軍がアメリカのペリー提督に四匹の愛玩犬、チン(狆)を米や干し魚といった他の贈答品と一緒に贈った。そして、ペリー帰国後数年でジャパニーズ・スパニエルと名づけられたこの品種がアメリカ合衆国とヨーロッパで大流行した。チンの原産は中国だが、日本人はこれを室内犬として育て、徳川時代の中ごろには富裕な武士や商人の妻や娘、そして妾の愛玩犬となっていた。日本人は「犬やチン」と言い習わして、チンが犬以外の動物であるかのように考えていた。それでは屋外にいる犬はどうかというと、これがまた凶暴な感じでまるで躾けられておらず、ペットのレベルではないと西洋人は感じたらしい。まさに野蛮国の象徴であった。この土着の犬を駆逐して洗練された飼い犬にしていく過程が、日本の帝国主義の成熟と相関関係があるというのが本書の骨格で、ナチスのドイツ民族至上主義が警察犬のシェパードに代表されるように雑種犬を淘汰して行った歴史と重なるわけだ。
 忠犬ハチ公は渋谷駅前の名物だが、日本帝国主義のシンボル的存在で、主人に忠誠を尽くす姿は天皇陛下に忠誠を尽くす兵士のイメージと重なる。犬はこのように忠義の臣として人間に仕えるのだ。猫ではこうは行かない。猫は怠惰な自由主義者のイメージか。ここで犬派と猫派に分かれるのだろう。私は犬も猫も飼ったことがないので、どちらがいいとは言えないが、最近の小型犬ブームは目を見張るものがある。特に独身女性が会社のストレスを癒すために飼うのだそうだ。結婚して寛げる家庭を作ろうと言うのではないところに現代の難しさがある。男性が車をとっかえひっかえ乗り換えるのと同義か。でも最近の若い男性は車に乗りたがらないらしい。アウトドアーは苦手なのかな?
 いずれにしろ最近の犬ブームは手軽なサンクチュアリーを創ろうということで、逆に社会の不安定感を浮き彫りにしていることは確かだ。でも飽きっぽい飼い主に捨てられる犬は数知れず、徳川綱吉が見たら激怒することは必定。南無阿弥陀仏。

女性専用車両の社会学 堀井光俊 秀明出版会

2009-12-17 21:36:59 | Weblog

女性専用車両の社会学 堀井光俊 秀明出版会



 女性専用車両なるものがある。間違って乗り込んで、女性から軽蔑の視線を感じた男性も多いであろう。最近とみに増えている。理由は痴漢から身を守るためというのだが、実際見てみると老若混在状況で、若い女性ばかりではない。電車内で「痴漢は犯罪です」という広告をよく見るが、最近の冤罪事件をみるにつけ、中高年男性の私としてはそういう騒動には巻き込まれないように比較的空いた時間帯に読書をしながら乗ることをこころがけている。
 それにしても今頃の電車内の若い女性のなかには「これってどうよ」と首をかしげるような手合いが多い。会社員らしいが、傍若無人に醜い顔をせっせと改修工事に余念のないもの、車内で物を食うもの(ポテトチップスは止めて欲しい)、純粋に個人的な話題を大声でしゃべるもの(恥ずかしくないのかしら)、いろいろだが、その手の女性に敵視されるのが、オヤジだ。オヤジの年齢は30~40歳代が普通らしいが、もちろん50代も含まれる。曰く、臭い。不潔等々。でも会社じゃそのオジサンの上役に使われているのじゃないのかい。前々からオヤジ敵視の裏には明らかに職場での対男性のストレスがあると思っていたが、本書を読んで一層その感を強くした。
 著者によれば、電車内の空間は公共空間で、乗客は社会的に定義された役割を抜け出でて「個人化」する。「個人化」した電車内の空間では、新たな不安が作られる。誰でも自由に進入できるということは、自由を侵害する人間も利用できる。痴漢やスリはその代表例である。公共空間の匿名性と密集性を搾取したものが痴漢行為であると。なるほど、よくわかる。
 この危険を予め回避したのが女性専用車両である。しかし、アンケートによると別にこれに乗りたいという女性の割り合いはそれほど高くないのも事実。そんなオヤジを怖がっていてどうするのと考えている女性も多いのだ。したがってオヤジ拒否の裏には若い女性の労働におけるジレンマがある。男女機会均等法で女性の社会進出は劇的に広がったが、一方で男性中心の家父長制的な雰囲気が残っているのも確かだ。彼女たちはその中で女性であることを否応なしに意識させられる。男性と伍しての会社勤めは厳しいことも多い。その状況下で女性専用車は旧来の良妻賢母、専業主婦型の「女性的なもの」への回帰として意識される。以上が著者の社会学的分析で、なかなか面白い。もしも、男性専用車両を作ったら、その趣味がある男ばかりが集まって風紀が乱れることになりかねないだろう。女性専用車両とは全く意味が違ってくる。しかし実際乗ってる女性は外から観察しただけだが、男性社会からの逃避と意識しているかどうかはいささか疑問だ。私の目にはアマゾネスの女性兵士軍団がくだを巻いているように見えるのだが、オヤジのひがみだろうか。

創られた「東京裁判」 竹内修司 新潮選書

2009-12-13 10:13:18 | Weblog

創られた「東京裁判」 竹内修司 新潮選書



 東京裁判は戦勝国が敗戦国を裁くということで、そういうことが許されるのかという反問がなされることが多いが、すでに歴史の一事実になっているいま、恩讐のかなたに消えたと思われるが、なかなかそうはいかないのが現状だ。まあ、歴史に正しい評価を下すことは大変重要なことで、このような書物が刊行されるのも意味がある。
 東京裁判はナチスを裁くニュルンベルク裁判を踏襲しようとしたため、戦争犯罪人のとその罪名の特定に困難が生じた。ナチスの場合はヒットラーはじめ進んで侵略行為を行い、ユダヤ人を抹殺するという明確な目的と意志をあらゆる場面で表明していたので、上記の特定は比較的簡単に行えた。しかし、東京裁判の場合は誰が戦争を始めたか、誰が責任を負うべきかという問題ははっきりしない。軍幹部はいずれも私には責任がないという、無責任体制がはびこっていたために特定が困難で、米軍は犯罪者名簿を作るのに苦労したということが、書かれている。天皇が最大の責任者だとして断罪するのは話が簡単でわかりやすいが、当時の日本の状況を考えるとあまりにも影響が大きすぎて、マッカーサーは断念した。しからばと、東條以下を戦犯リストに載せたが、粗製濫造で戦犯とは到底考えられない外相の広田弘毅までが、入っていたことに驚きを禁じえない関係者が多かったようだ。しかし、時間がないということでそのまま起訴され、広田は絞首刑になってしまった。無念としか言いようがなかったであろう。戦犯指名の裏には「証言を得るために容疑者として逮捕する」という思惑もあったようだ。それが混乱の中で結審し悲劇が生まれた可能性がある。アメリカの日本人研究は、ルース・ベネディクトの『菊と刀』で有名だが、その他海軍日本語学校に優秀な学生を入れて日本語・日本文化の研究に当たらせた。ドナルド・キーンやサイデンステッカーらはその後、日本文学研究で名をはせたのは周知の通り。
 それほど研究させた日本だが、天皇を始めとする無責任体制は理解不能だったということである。これは丸山真男の研究によって初めて明らかにされた。この無責任体制はいまも続いているように思われる。民主党の混乱は明らかにこの流れだ。


シベリア抑留 栗原俊雄 岩波新書

2009-12-13 09:10:04 | Weblog
 敗戦直後、旧満州の日本人兵士ら約60万人がソ連軍に連行され、長期間の収容所生活を送った「シベリア抑留」。零下30度を超える極寒の冬、飢餓・重労働の中で約6万人が死亡したこの悲劇は、今も完結していないという思いで、著者は帰還者の無念を静かな筆致で淡々と描く。収容所内の模様は石原吉郎などが著作で詳細を語っているが、日本兵の無念を思うと涙がこみ上げてくる。
 ソ連の対日参戦はヤルタ会談で決定した。アメリカのトルーマン大統領は日本の降伏をスムーズに実現するためにソ連に対日参戦を要求したのである。この情報を関東軍はいち早くキャッチしたが、満州居留民を保護するどころか、あろうことか自分達が真っ先に逃げ出したのだ。その後の引揚者の悲劇は歴史書の通りだ。日本兵達はソ連軍の捕虜になり、シベリアへ送られて強制労働に駆り立てられる。スターリンはシベリア開発に捕虜を使うことを予め決めており、日本兵もそのために連行された。本来捕虜を強制労働に使うことは国際条約で禁止されているのだが、日本兵はそのような教育を受けておらず、状況を甘受する傾向が強かった。その結果、他国の捕虜に比べて唯々諾々とソ連軍の指示に盲従するという、人間の誇りを喪失するような言動が目立った。それはソ連の共産主義教育によって洗脳された兵士が、収容所で権力闘争を展開し同僚の兵士を次々打倒して行ったことでも例証できる。これは帰国後も続き、社会問題になった。なんとピュアーな人間であることか。ドイツ軍の捕虜などは、課せられたノルマもいやいややる態度で、敵の言いなりになることは無かったという。こういう傾向は、米軍の捕虜になった日本兵にも見られ、米兵に一種の感動を与えたという。神風特攻隊の狂気と従順な捕虜との落差は、日本人はいったいどうなってんだろうと思わせたであろう。日本政府も先ほどのスターリンの捕虜政策に追随するかのように、日本兵のシベリア抑留を認める文書を出していたことが、本書で紹介されているが、驚きと言わざるを得ない。
 その理由を、大量の兵士が帰国すると日本の混乱はますます大きくなり、雇用等の問題がたちまち浮上するということであった。兵士も兵士なら、為政者も為政者という感じだ。この卑屈さ・姑息さはどうだろう。戦後64年このメンタリティーは払拭されたであろうか。いや、シベリア帰還者に対する日本政府の対応を見る限り未だしの感がする。

亡国の中学受験 瀬川松子 光文社新書

2009-12-04 21:07:24 | Weblog
 「お受験」は日本の大都市圏に於いてはセレブの部分的側面の一断面を味わえる、自称中産階級一家の大事な通過儀礼になっている。得に私立六年一貫校は最近人気が出て、教育をカネで買えるお得な手段として多くの受験生を集めている。二月の受験シーズンには小学校の授業を平気でサボり、塾で鉢巻締めて勉強する小学生の姿がテレビ等で紹介される。公立中学へ行くやつは落ちこぼれで、カネのないやつといわんばかりの塾の宣伝もバカな親にはたまらない快感のようで、家族一丸となっての塾通いは良くぞ人間に生まれてきた甲斐があったと実感できる大きな機会のようだ。
 本書はこの私立中学の受験の光りと影を現役の家庭教師が赤裸々に描いたもので、やっぱりそうかと納得させる内容を持っている。著者によれば、公立の悪口を並べて私立のよさを際立たせる手法はあくどいものがあり、ルール違反もはなはだしいという。私立の六年一貫校と比較されるのはあくまで公立中で、公立の六年一貫校ではない。私立に受かればばら色の人生が開けるような錯覚を起こさせるのがミソで、どんな欠点も公にする事はない。大学に受かるために生徒のキャパを超えた授業を続け、お陰でやる気をなくした生徒は退学していく。その生徒を公立の中学に後始末させるというのが多いのだ。特に偏差値が四十ぐらいの私学は、小子化の中で経営が苦しく、何とか大学合格実績を上げて生き残ろうとするので、理解不能な先取り授業が生徒を抑圧するのだ。その他、スタンドプレーの学校経営、蔓延するいじめなど私立の課題は多いが、それが受験産業(塾など)とつるんでいるために、悪事は公にされないのだ。私は公立高校の教員だが、同僚にもと私学勤務だった人が多い。彼らの話を総合すると、私学の勤務状況は非常に厳しく、理事長の独裁に戦々恐々としているというのが多い。公立の採用試験に合格して本当に良かったと言う人がほとんどだ。受験産業は私学の優位をことあるごとに喧伝するが、教員のレベルは私立に比べて下ということはないと思う。公立と同じ土俵にのっていないのにそれを単純比較することは意味がない。例えば土曜日に授業をすることだ。これを私立優位の根拠にするものだから、バカな親は授業の少ない公立は劣ると単純に思い込むわけだ。私学助成金は本来憲法違反の疑いがあるが、これが続いている根拠は、私学も教育という公共の福利に寄与するが故であるということらしいが、それならば公立を叩いて生き残ろうとするやり方はやめるべきだ。塾とのもたれあいも見苦しい。といろいろ文句を言ったが、私は別に私立を敵視しているわけではない。荒れた公立中学に行かせたくない気持ちもよくわかる。公立も私立もそれぞれ持ち味があって、好みに応じて選択すればよい。しかし、小学四年くらいから毎晩遅くまで遊びもせずに鉢巻締めてエイエイオーと勉強して、学校無視でそんな生活、ドウなんだい。精神的貧困の再生産じゃないか。