読書日記

いろいろな本のレビュー

衆生の倫理  石川忠司  ちくま新書

2008-05-30 21:42:09 | Weblog

 
衆生の倫理  石川忠司  ちくま新書
 「衆生」は「縁なき衆生」の謂いだと思うが、その衆生が倫理を行動に移せないのは倫理の中味が問題なのではなく、実行に移す意思と決断が無いからだと説く。倫理は学ぶものではなく、実現するものだというのが本書の中身だが、今なぜ「倫理」なのか理解できない。読んだ印象としては、前半の「衆生」の分析で引用される文献の方が興味深いものがあった。ハンナ・アレントが古代ギリシャの社会を範にとり、人間の「活動的生活」を「労働」と「仕事」と「活動」に分けた話(「人間の条件」からの引用)は面白い。「労働」に従事するのはもっぱら卑しい奴隷や女性であり、また「仕事」も奴隷と似たり寄ったりの地位の職人が行う。そして「労働」からも「仕事」からも解放された自由民(ポリスに市民)のみが悠々と栄光に満ちた「活動」(政治や芸術活動)に携わる。しかし、卑しかったはずの「労働」が近代になると、この世で「労働」こそが一番尊いという価値観の激変があったという内容。人生できたら楽にくらしたいと誰しも思う。でも「仕事」のない人生はつまらないし、生きがいもないという考え方を学校教育の中でさんざん叩き込まれてきたように思う。きつい仕事も生きがいと考えれば幾分苦痛も和らぐというわけだ。福沢諭吉も「仕事のないのはつらいものです」というようなことを言っていたと記憶する。我々はこの「近代の毒」に冒されているわけだ。本当は仕事をやめてふらふらしていたいのに。
 著者は倫理は本質的に「形式的」だという。この「形式的」とは内容に対しての形式ではなく、「倫理は当の倫理以外の何物にも支えられていない」という意味である。この「形式的」拘束は快楽殺人などの悪の行いを倫理・道徳の範疇から締め出すストッパーの役割をはたしているという。従って「何が正しいのか」を問うのではなく「正しい」と信じたことを行動に移すだけで「倫理」は実践できるらしい。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らが当たり前にやっていたことをやればよいと説く。おいおい、そんなら最初からそう言えばいいのに。なんと回りくどい。
 木戸は病死だったが、西郷や大久保は非業の最期を遂げている。倫理を実践すれば畳の上では死ねないことを覚悟せよというメッセージだと受け取ったが、それなら怖い話だ。命と引き換えの倫理の実践なんて誰がやるのだろう。





田原総一朗への退場勧告 

2008-05-25 09:33:46 | Weblog


田原総一朗への退場勧告 佐高 信  毎日新聞社

 タイトルがストレートで佐高らしいネーミングだ。本書は「サンデー毎日」「週刊金曜日」等の雑誌に発表されたものをまとめたもの。時事批評から人物批評まで多岐にわたっている。田原総一朗とは日曜10時からやっているサンデープロジェクトのキャスターである。政治・経済界のリーダーと目される人物を呼んでの討論会等でやたら偉そうに、権力の中枢にいる人物と近いのだということを言葉の端々に出して、一部で顰蹙を買っている人物だ。その姿勢は卑屈で幇間風情というのがピッタリだ。以前は電波芸者とも言われていた。「ジャーナリストを自称する権力の幇間」の実際はテレビをご覧になれば納得でされると思う。
 それにしても日本のメディアの権力との癒着は嘆かわしいかぎりだ。反権力のスタンスを貫いてこそその真価が発揮されるのに。それに田原は最初、島田紳助を司会に起用していたが、その理由として「視聴者の目線で政策を論じる番組」にしたかったからで、彼の「勘がよく、素人として遠慮なく疑問をぶつける」所に期待したからだと言っている。しかし佐高によると、紳助は田原と同じく権力者(たとえば小泉純一郎や石原慎太郎)には遠慮し、非権力者には「遠慮なく疑問をぶつけ」た。こういう人間を普通はタイコ持ちというのであると憤慨させている。
 島田紳助はこの番組をきっかけに自分は偉いと錯覚し舞い上がってしまった。最近のテレビでの彼の顔を見よ。本当に悪人面をしている。バラエティー界の田原総一朗だ。島田の自己顕示欲の強さは松本竜助とつっぱり漫才をしていた頃、何を思ったのか「東大」を受けるといってマスコミに宣伝し、実際実行したことからも窺われる。相方の竜助は最近病死したが、闘病中は見舞いも来ず、葬式の時は友人代表で式辞を述べるなど好いとこ取りで、本当に好かんタコだ。竜助は生前、「あいつは金儲けのことしか考えてない」とこぼしていたらしい。最近では吉本興業の女性マネージャに暴力を振るってしばらく謹慎していたが、さもありなんという感じだ。マスコミがこういう手合いをちやほやして甘やかすから増長するのだ。テレビ局もスポンサーも視聴率が取れればそれでいいという短絡的な発想はやめて、この国の文化をどうするかという視点で考える時期に来ている。バカな番組によって愚かな民衆はいろんな意味で情報操作されてしまうのだ。
 この紳助が司会していた「行列のできる法律相談所」に出ていた弁護士達もこのおかげで出世栄達を遂げた。丸山某、北村某、橋下某等々。いずれも自民党寄りの体制派弁護士である。佐高は橋下について「多数派に迎合しているだけで言葉がどうしようもなく軽い。人間も軽いベニヤ板みたいだなという印象だった」と番組で一緒だった時の印象を述べているが、うまいこというものだと感心する。その男がしょうもない番組で人気を博し、愚かな大阪府民180万人の支持を得ていま大阪府知事となって、予算削減に大鉈を振るっている。彼に投票した府民自身も大鉈で切り刻まれるのが分からずにいるのだからこれは悲劇というより喜劇だ。ことほど左様にいまの日本の指導者はテレビというメディアをうまく利用したものが仕切るということななっている。これは非常に危ういことと言わざるを得ない。衆愚政治の行き着く先は全体主義しかない。石原慎太郎、橋下徹、この危険な連中をなんとかしなければ、地方政治のみならず、国政にも悪影響を及ぼす危険性がある。
 よって佐高信や内橋克人はその反権力のスタンスを維持してこれらの人物を徹底的にマークすべく、今後とも健筆を揮って大いに頑張って欲しい。







カラヤン帝国興亡史  

2008-05-21 17:42:36 | Weblog


カラヤン帝国興亡史  中川右介  幻冬社新書
 巨匠フルトヴェングラー亡き後、ベルリン・フィル首席指揮者の四代目の座を掴んだ男、ヘルベルト・フオン・カラヤンの伝記である。現在、カラヤン生誕100年ということで彼のCD、DVDが発売されている。ドイツグラモフオンのものが圧倒的に多い。今、店頭では1988年4月29日から5月5日まで、東京と大阪で5回の公演のCDがラストコンサートと銘打って発売されている。カラヤンはクラシックを大衆に広めたという意味では評価に値する。日本に於けるカラヤンの人気は異常といえるほどで、帝王カラヤンの植民地と言われている。
 興味深いエピソードをつづって厭きさせないが、レコード会社のEMI、ドイツ・グラモフオン、デッカとの契約交渉をめぐる部分とか、戦前からの大指揮者であったカール・ベームやアメリカのスター指揮者であったレナード・バーンスタインとの確執など、彼がどのようにしてクラッシック界の最高権力者に登りつめて行ったかが豊富な資料を基に描かれている。
 ということで、先日カラヤンがグレン・グールドと組んでベルリンフィルを指揮したCDを買った。中味はベートーベンのピアノ協奏曲第三番とシベリウスの交響曲第五番(SONY CLASSICAL)。録音は1957年5月。グールドはこの2年前の1955年のバッハのゴールドベルク変奏曲のレコードで従来のバッハの解釈を180度変える演奏を披露して一躍スターダムに躍り出ていた。後年演奏会活動を一切止めてレコードだけを発表の手段にしたことは有名な話である。ベートーベンの方は流れるようなテンポで、若き日のカラヤンとグールドが溌剌とした演奏を聴かせる。ジャケットの二人のセピア色の写真も歴史を感じさせて大変すばらしい。






ボローニャ紀行  

2008-05-19 22:24:54 | Weblog


ボローニャ紀行  井上ひさし 文藝春秋
 イタリア北部の都市ボローニャから世界の在りかたを考えるのが趣旨だそうだ。著者は少年のころ家庭の事情でカソリックの施設の入っていた。その縁で上智大学に入り、フランス語科を卒業した。従ってカソリックのイタリアとは縁が深いのだ。ボローニャのただの観光案内ではまずいと思ったのであろうが、もう少し街そのものの風景・印象・市民生活の細部を書いて欲しかった。「世界の在りかた」を考えすぎてイマイチ面白くない。さすが日本共産党お抱えの作家・脚本家のことだけはある。
 イタリアは車、ネクタイ、靴、その他さまざまの工芸品においてそのスタイルセンスは抜群である。アルフアロメオのスタイリングを見よ。その造形美の素晴らしさは日本車が逆立ちしても敵うものではない。そのイタリアも現在経済不況で指導者がころころ変わり、政治の混迷を深めている。著者はそのイタリアに一筋の光明を見出し応援しようというスタンスだ。私もイタリア車は無理だが、ネクタイでイタリア経済の復興に一役買うことにしよう。
 これは余談だが本書に「私の妻が」という記述が何回も出てきたところを見ると再婚されたようだ。十年ぐらい前に離婚されて、そのいきさつを当時の細君であった西舘好子氏が「修羅の棲む家」(はまの出版)で暴露されていた。それによると井上氏は大変な暴君で、ドメスティックバイオレンスありいのバイオレンスセックスありいの凄かったらしい。細君側の一方的な見解ゆえ話半分としても、作家の日常の部分的断面の一側面を垣間見た気がした。作家ってストレス溜まるんですねえ。ほんとにサラリーマンでよかったです。守屋ひろしじゃないが、ああ、ありがたや、ありがたや。



江戸城  

2008-05-18 00:02:25 | Weblog



江戸城  深井雅海  中公新書
 腰巻には江戸城を詳細な城内図で読み解き、知られざる幕政の深奥を探るとある。実際、豊富な図と資料は価値が高い。あの赤穂浪士で有名な「松之廊下」は年始の際、大名が白書院で将軍に謁見する時の控えの席であったようだ。また、江戸時代の大名を将軍との親疎により親藩・譜代・外様の三つに分ける方法が一般的に用いられているが、江戸幕府が大名をこのように分けた史実はないらしい。では、幕府は何を基準に大名を分けたのかというと、藩主が江戸城本丸御殿に登城した際の控えの間(殿席)と官位であったということだ。
 その他、江戸幕府の権力の中枢に集う人間がどのような間取りの御殿(部屋)に住んでいたのかを詳細に論じて参考になることが多い。第三章の「大奥の構造と将軍の寝室・御台所の生活空間」を読むと、最高権力者の夜の時間は完全に彼一人のものとなるということが実感される。中国皇帝と同じだ。庶民は雑音が多くてこうは行かない。

黒龍江省から来た女 

2008-05-17 23:28:49 | Weblog

黒龍江省から来た女 永瀬隼介  新潮社

 夫にインシュリンを射ち殺害し行方をくらませた中国人妻、史艶秋。彼女は黒龍江省出身で、「お見合いツアー」に参加し、21歳年上の日本人と結婚。千葉県の九十九里浜の寒村に住んだが、夫との結婚生活がうまくいかず二子を儲けたが、家に放火し夫の両親も殺害した廉で指名手配された。その後、彼女は整形し、東京浅草で人気風俗嬢へと変身していた。本書は、この「千葉インシュリン事件」のルポである。
 最初は週刊新潮か週刊文春の揚げ足取りの記事レベルかなと思ったが、後半の中国現地取材のあたりから俄然面白くなってきた。彼女の故郷黒龍江省方正県からお見合いツアーで日本を目指す中国人女性が多いのは、この地が満州国崩壊のあと日本を目指して帰国しようとしてソ連軍の犠牲になった入植者が子供をたくさん中国人養父母に預けた、いわゆる中国残留孤児の里であったがゆえという事実が判明する仕掛けになっている。その関係で日本との交流が盛んなのである。このことを知らないと中国人の女性は日本を目指して金儲けを企む、あつかましいのが多いというような誤解を招く。中国で貧困にあえぐ農民の女性が、嫁のキテのない日本の農村の男性と結婚する。言葉もろくに話せない二人が意思疎通を欠いた状況の中で急に結婚とはなかなか難しいことである。だからどうしろということは私には言えないが、満州国建国の余波が80年以上経っても消えないということに歴史の重みを感じる。それにしても疲弊した日本の農村を何とかしないと日本の将来は危うい。食量の自給問題も含めて考え直すべきだ。



「漢奸」と英雄の満州  

2008-05-15 21:12:10 | Weblog

「漢奸」と英雄の満州  澁谷由里  講談社選書メチエ
満州国は中国では「偽満州」と呼ばれ日本の植民地支配を糾弾する意味を込めている。その満州国に関わった五組の父子の生き方を描いて「売国奴」と「英雄」の運命を分けたものは何かという微妙な点に踏み込んでいる。「漢奸」で思い出すのは国民党左派の汪兆銘だが、蒋介石の対日強行路線に対して平和路線を提唱したがゆえに売国奴の汚名を着せられたのは遺憾である。それが未だに名誉回復されないのは、中華人民共和国の存在意義と正当性を支えているのが抗日戦争に勝利したという事実であるからだ。現在の中国が反日感情を隠せない理由の一つはそこにあると著者は述べる。正しい分析と思う。
 張作霖と張学良父子については有名で比較的知られているが、張景恵と張紹紀、王永江と王賢偉、袁金鎧と袁慶清など普段お目にかからぬ人物の経歴が詳しく述べられていて興味深い。関東軍を始めとする日本の侵略統治の外圧に否応無く組み込まれていった中国人の生き方で、後世裏切り者と呼ばれるのとそうでないのとは本当に微妙な差である。当人達はその時々において最善を尽くしたはずだ。歴史の審判とは本当に残酷なものだ。特に共産主義イデオロギーで統治されている国家においては名誉回復は容易ではない。


港区ではベンツがカローラの6倍売れている 

2008-05-13 19:38:43 | Weblog


港区ではベンツがカローラの6倍売れている 清水草一 扶桑社新書
 格差社会に関する書物は最近多い。いずれもそれはいかんのじゃないかという論調だが、本書はそれでいいんじゃないのというスタンスだ。頑張るひとはとことん頑張って冨と地位を求めればいいし、頑張れない人は頑張らなくてもいい。それくらい日本はなにをやってもいい感じの社会になったのではないかと言っている。私自身求めるものが少ないので、金儲けに汲々としている人の心情は理解できない。まあお金はあっても邪魔にならないとは思いますが。
 第一章のベンツがカローラの6倍棲息する東京都港区、軽自動車が49%を占める高知県というルポが出色の出来だ。港区は自称勝ち組が好んで住んでいる所だが、所得に見合う車としてベンツを選ぶわけだ。間違ってもカローラではない。よって地位の象徴として車を選ぶという古風な意識から脱していないということも言える。それに対して高知県では、軽自動車が「経済的」「可愛い」「燃費がいい」など圧倒的な人気らしい。車を完全に道具として捉え、それ以外のムダな部分を排除する、究極の合理主義なのだ。これは決して「格差の底辺」ということではないと著者は力説する。正論だと思う。
 第二章以降、「豪邸格差」「別荘格差」「カード格差」「フーゾク嬢格差」等等興味深い内容が続く。運良くお金をつかんでベンツや豪邸を手に入れたとしても、その維持管理にお金がかかる。結局、普通の暮らしが一番いいというのが庶民感覚だ。成金は飾りたがるものだ。田舎の素封家と言われるところは普段はほんとに質素な暮らしをしている。しかしいざと言うときは多額の寄付をする。ノブリス・オブリージュとはこういうことを言うのだ。日本が品の無い国になりつつあると言われる所以は成金がでかい面をしているからだ。恥を知れ。

弱き者の生き方 

2008-05-11 19:19:35 | Weblog


弱き者の生き方 大塚初重 五木寛之 毎日新聞社
 戦争体験という過酷な人生を余儀なくされた人は多い。この二人も外地からの引き上げ、兵役での二度に渡る輸送船沈没に見舞われた経験を持つ。消し去れない負の遺産を以後の人生でどう処理するか、難しい問題である。五木氏は小説家として、大塚氏は考古学者として活動する中で原体験と向き合ってきたのである。特に大塚氏の苦学力行ぶりは、現代人が見失っている「努力」というものを再認識させてくれる。
 本書のような対談形式のものを読んで癒され、元気をもらう人は多いのであろう。でもそれは他人の伝記を読むのと同じで、読後数日で消え去っていく感動であろう。それがこの手の本の限界だ。五木は50歳で作家を休業して、仏教の研究のため龍谷大学に入学している。その後、人生の生き方に関する本をたくさん出して部数を重ねている。仏教研究の成果を小説の形式で発表するのが作家の仕事と思うが、この作業は時間と想像力が必要なので、この方法は採らないのだろう。今や苦悩教の教祖の観がある。苦悩すればするほど本が売れて、お金が儲かるという理想的な仙境に安住している。羨ましい限りだ。

カラマーゾフの兄弟 

2008-05-09 21:41:35 | Weblog


カラマーゾフの兄弟 亀山郁夫訳 光文社文庫1~5
 ドストエフスキーの名作を新訳で読みやすい活字とともに復活させたのはすごい。新潮文庫の米川正夫訳は学生時代からあるが、活字が小さいので今となっては読みにくい。前に読んだときはイワンの「大審問官」の部分が印象的で、キリスト教に対する批判が縦横に展開されていた。今回再読したが、やはり兄弟の中でイワンの存在感は別格でこの小説のキーを握っている感じだ。スタインベックの「エデンの東」の中国人の召使いリーのような役どころかなと思う。こちらも最近新訳が出ているので是非読んでいただきたい。
 カラマーゾフの兄弟は、亀山氏によれば未完の小説でテーマは「父親殺し」でそれが終には「ロシア皇帝殺し」に行き着く可能性を示唆されていた。第5刊の「エピローグ別巻」の解説は出色の出来栄えで、これだけ読んでもカラマゾフを読んだ気になるから不思議だ。ドストエフスキーは人間の本質を的確に描いており、その意味で普遍性をもつ。彼の作品で描かれた世界が、その後現実となってわれわれの目の前に現れたことはいくつもある。いわば人間世界を写す鏡のようなものだ。亀山氏には次にどの作品を翻訳していただけるのであろう。楽しみだ。